ロース・ハム


季節は移り、秋風が立って、華々しく開催されておりましたところの、リオ・デ・ジャネイロのオリンピックも終りますと、老人にも、何とはなしに世の中が平穏になったような気がします。
あれだけ新聞紙上を賑わしておりましたので、テレビが映っておれば、老人も、恐らく何かを見ていたものと思いますが、実際にはジャマイカのボルト選手の素晴らしい走りと、日本が銀メダルを取った400mリレーの決勝をYouTube上で見たのと、モンゴルのレスリング・コーチが裸で抗議した試合のハイライトを見ただけなのですが、それぞれ見応えのある良い競技でした。

そこで、そのレスリングの試合で何があったかといいますと、
両選手とも互角に技を掛け合い、切れの良い見応えのある試合だったのですが、惜むらくは、殘り時間が数秒となったところで、若干有利なモンゴルの選手が両手を拡げてサークルの周辺を逃げ廻り始めたのです。為す術のなくなったウズベキスタンの選手は肩をすくめ、両手を拡げて抗議のジェスチャーを表すより他どうしようもありません。‥‥はたして、笛が鳴ってタイム・アップしてみるとどうでしょう‥‥勝ったとばかり思っていたのに、何と、気が付いてみれば、審判は右手の指を上げて、ウズベキスタンに1点を与えているではありませんか、‥‥そこで、怒ったのがモンゴルのコーチですね、にわかに立ち上がると見るや、上着を脱ぎ、靴を脱ぎ、シャツ、ズボンを脱いでパンツ一丁、両の拳で胸を打ちながら抗議する姿は‥‥いやはや、お国代われば何とやら――So many countries so many customs――ですかな。いや、これも一種の眼福でしょうねエ、‥‥

運動嫌いの老人の講評、
――オリンピックといえばアマチュア精神、そして、その眼目はといえば、精神・肉体の鍛練に他なりません、‥‥アマチュアが、そのチャレンジ精神を忘れて、勝ち負けにこだわり、相手にチャンスを与えないなどとは、正に言語道断、要するに1ポイント取られても文句は言えないという訳ですナ‥‥。



NHKがワンセグ・ケータイに関して、敗訴したという記事がありました。何でも、
放送法64条1項の「受信設備を設置した者は、受信契約をしなければならない」という条文中の『設置』をめぐる解釈に於いて、「ケータイは『設置』に非ず。」というような判決だったということですが、‥‥
「ケータイ」が、「設置かどうか?」など、論点を失っているのではないでしょうか、‥‥それよりも問題は他にあるような気がします。

「受信契約をしなければならない」、所謂「契約義務」ですが、‥‥
「契約」という概念は、「義務」とは相容れない関係にあるにも拘わらず、「契約」は「義務」だとうたってあれば、その文章は「無意義」の範疇に堕ちるということなのです。それとも、NHKでいう「契約」の概念は、「義務」と相容れるものなのでしょうか?

NHKでも、外国と取引することはあると思いますが、「契約」という言葉を使うのではないでしょうか?そして、その訳語は「contract」ではないでしょうか?

A written or spoken agreement, especially one concerning employment, sales, or tenancy, that is intended to be enforceable by law

これは、「OED (Oxford English Dictionary)」のオンライン辞書である「Oxford Dictionaries (English)」中の、「contract」に関する説明文です、――法的強制を意図した書面、あるいは口頭による同意、特に雇用、販売、貸借に関するもの――とあります。此の中の「agreement」は、動詞「agree」を名詞化した言葉で、その動詞 agree の意味は、「同意する」、「賛成する」であり、その故に、「agreement」には、「協定」、「契約」という意味を含むのです。

はたして「義務」には、「同意する」ような余地があるでしょうか?「強制された同意」を、はたして「同意」と呼ぶことができるのでしょうか?
此の国の人は、外国の人に、「同意する義務」を、どのように説明するのでしょう。日本人相手ならば、いくらでも言葉で言いくるめることもできましょう。而し外人が相手でも同じことが通用するでしょうか?此の条項の無意義に堕する所以です。仮令此の国の中であっても、このような事が通用するならば、此の国は、当に「世界の鼻つまみ」になること必定だと言わざるをえません。

辰野隆(たつのゆたか)は、東京大学のフランス文学の名物/主任教授として、その豪放磊落な人柄と、該博な内外の知識に基づく随筆/対談、談話の名手として、殊に有名でしたが、又そのNHK嫌いも、そうとうに有名でした。老人は夙に、その作風に私淑しており、日頃より辰野に似せたいと考えている者ですが、その是非を、その随筆三篇をもって、読者に問うて見たいと思います。

文は人なり(≪Le style est l'homme même.≫Buffon)。
それでは、どうぞお楽しみください、――

てんかん     
  一
パリは諧謔(かいぎゃく)の都である。僕はいつも、ぶらりと下宿を出ては、野暮な、知的なセエヌ左岸を、華やかな、粋(いき)なセエヌ右岸を、あてもなく歩きまわるのが楽しみであった。日毎に、此の都の街の姿を眺めながら、街の音を聴きながら、哄笑と微笑の興趣を味わぬ日はなかった。それも既に一昔前になってしまった。併し、年月は流れても当時何心なく眺めた街のふとした情景が十年後の今日でも、まざまざと思い出されることがある。
或夜、もう人通りも稀になったアヴニュ・ド・ロペラの通りを、若い逍遙派の女性(ペリパテシエンヌ)が嫖客(ひょうかく)を物色しながらうろついていた。折から、警邏(けいら)の査公が、彼女と擦れちがいざまに、
「サ・コル?」と声をかけた。
「コム・シ・コム・サ」と女が答えた。
どうだい、景気は。ええ、まあ、どうか、こうか、と云った問答である。僕は、面白い都だな、と思って、彼等に微笑を送りながら通りすぎた。

再(また)の或夜、リヴォリ街を最後の乗合自動車(オートビュス)が走っていた。之に飛び乗ろうとして、遮二無二追っかけて来た男があった。相当に早いビュスとその男との距離は少しずつしか縮まらない。車掌が満員の車掌台(プラット・フォルム)の上から、しきりに呶鳴っている。危ない危ない!満員(セ・コンブル)ですよ!駄目駄目(パ・モアイヤン)!と注意しても、件の男は、車掌の言葉などは耳にも入らぬのか、ひた走りに走っている。車掌は絶えず呶鳴り、車掌台の数名の乗客も、「もう一息だ」とか「止せ止せ」とか、励ましたり、制(と)めたりしながらわあわあ喧(さわ)ぎ立てた。例の男は、遂に最後の奮張りを見せて、辛じて踏台の上に飛び乗った。すると、車掌も乗客も一時に、フランス人一流の感嘆詞を連発して、彼方でも此方でも、AH(アー)!AH(アー)!と叫んだ。
満員だから駄目だと固く制していた車掌も、俄ににこにこしながら、深い息をついている男の肩をたたいて、
「旨く飛び乗りましたね(ビヤン・ソーテ)!」と褒めて、労っていた。一人の美髯の紳士が、
「足軽のアキレスかね(アシル・オ・ピエ・レジエ)!」と言って、面白そうに笑った。車掌台の一同もアハハハアと笑った。
既に冬も近づいた秋の夜であった。フランス座(コメディー・フランセーズ)の芝居がはねたのが十二時近かったろう。僕は、劇場前の広場(プラス)から最後の乗合に乗った。終点のサン・ミシェル広場で降りると、サン・ミシェルの大通りをぶらぶら歩いてから、左に折れて、エコール街にさしかかると、フランス学院(コレージュ・ド・フランス)の前で人だかりがしている。夜更けの街に何か血腥(ちなまぐさ)い騒動でも起こったのではなかろうかと、僕は駆け寄って、人垣の中を覗き込んだ。
一人の中年の男が倒れて、踠(あが)いているのを、その相棒らしいのがしきりに介抱している。克(よ)く見ると、踠いている男は、口から泡を吐いている。物見高いパリっ児の群は、夜の更けるのも忘れて、徒(いたず)らにわあわあ騒いでいる。
「卒中(アポプレキシー)だな。」
「冗談を(サン・プラーグ)!癲癇(エピレプシー)だよ。」
「癲癇が泡を吹くかね。」
「当りめえよ。何も知らねえな(イニョラン)。
知ったか振りの男が傍から、
「そもそも、癲癇てものは、昔から神聖な病(マラディ・サクレ)と謂われる程の病でね、滅多な人間が罹れる病じゃないんだ。天才病なんだ。マホメットが癲癇だった。フローベールも癲癇だったんだ。」
「だが此の男は労働者らしいね。」と大学生らしい青年がまぜ返す。

  二
癲癇病者を介抱している男は周囲の駄弁にも耳を藉(か)さずに、ひたすら、倒れた相棒を労って、「おい、ジャン!しっかりしろ。起きねえか。おい。厭やになっちゃうなあ。時時ぶっ倒れやがるんで始末に了(お)えねえや。まったく。」
と愚癡をこぼしている。
暫くの間、海老のようにじたばたしていた癲癇男は、やがて、動かなくなって、ただ肩で息をついていた。ふと見ると、群衆の中から、帽子なしで、黒い肩掛けだけ引っかけた職業娘(ミディネット)らしいのが、つかつかと進み出て、口を切った。
「皆さん、斯うして、何時までも、この人を歩道(パヴェエ)に寝かして置いちゃ可哀そうじゃありませんか。誰か、この人の家まで担いでいっておやんなさいよ。ただぼんやり眺めているだけじゃ、第一町内の名折れだわ。」
と甚だ義侠的な気焔をあげたものである。すると、方々から、「全くだ(セ・ヴレ)!」とか、「飛んでもない(パンセ・ヴー)!」とか、「まさかねえ(パ・ポッシブル)!」とか、賛否の声が一時に起こった。
此の時まで、群衆には目もくれずに介抱していた男は、急に振り返ると、職業娘の顔をじろりと眺めやりながら、
「俺一人じゃ、とても担げねえよ。此奴の家は遠いんだ。おまけに、こん畜生は馬鹿に重いんだ。八十キロもあるんだからね。ねえ、マムゼル!そんなに可哀そうだと思うなら、どうだい、お前さん一つ、俺と一緒に此奴を担いで呉れねえか。頼むよ。」
と、彼れは娘が片棒を持ってくれれば自分も助かると言わんばかりに意気込んで言った。
「厭やなこった、癲癇なんか。アー・ノン・ジャメ!」
とジャンヌ・ダルクの後裔は今までの人道主義を惜しげもなく吹き飛ばしてしまう。
群衆がどっと笑い出す。然し物見高いわいわい連は徒らに癲癇を取り巻いて騒ぐばかりで、一向埒(らち)があかない。
僕は煙草をふかしながら、面白半分に、何処の国でも変りない巷の情景を漫然と眺めては、時々振り返って、後ろの空に黒く聳えているフランス学院(コレージュ・ド・フランス)の建物を眺め、館の前の芝生が、秋晩(ふ)けても、街灯に照らされて緑に輝いているのを美しく眺めていた。又、此の館の内では、嘗てベルグソンが『意識の直接与件』や『創造的進化』を講演した事もあったのを思いだしていた。
「誰か巡査を呼んで来て呉れよ。」
と介抱の男が呶鳴った。一人の野次馬がその声に応じて駈けだしていったかと思うと、やがて、息をはずませながら、警官を一人連れて帰って来た。

  三
短いブルー・マリインのマントを着た、堂々たる美髯の巡査が、群衆を押分けて、人垣の中に入って来た。既に動かなくなった癲癇男の肩に手を掛けて一寸揺すって見たが、一向手答えがないので、
「死んだのか(モール)?」と少々狼狽気味で訊ねた。
「息はちゃんとありますよ。」と介抱の男は癲癇男の代わりに自分で肩で息をついて見せると、巡査も、暫く、倒れものの肩の辺を昵と眺めていたが、やがて、
「なるほど(アー・ウイ)!」と言ったまま、腕を組んで突立っている。
警官が此の行路病者に対して如何なる処置を取るかと思って、僕は愈よ好奇心をつのらせて、見物していた。
「ねえ旦那(エ・バン・ムシュー)!」と介抱の男が巡査に一歩近寄って、
「ねえ旦那、此奴は手前の仲間なんですが、時々癲癇を起しゃあがんで、始末が悪いんです。すみませんが、今夜一晩だけ、こん畜生を警察の方に泊めて貰えませんかね、お願いですよ。とても手前一人じゃ此奴の家まで担いでゆくわけにいかねえんで‥‥どうか、そこんところを一つ‥‥」としきりに歎願に及んだ。
群衆も異口同音に、それがいいそれがいいと賛成の意を表した。然し、黙々として立ちつづけている巡公の顔には、ありありと当惑の色が現われた。彼には、此の如何にも重そうな癲癇男を、警察まで担いでゆく決心が付かないらしい。彼は、何とか旨い口実を設けて此の場の責任を逃れようとしているのであった。
突然、彼は、演説口調で、「諸君(メシュー)!」とやり出した。
「わしは目下、非常に忙がしいのです。往来の癲癇などに没頭している暇がない。残念ながら無い。一体、癲癇というものは病気は病気だが、他の病とは少々異うのです。癲癇に付ける薬はないのだ。絶対にない。であるから‥‥」
「じゃあどうすりゃあいいんです(エ・バン・エ・バン・アロール)?」と群衆の彼方からも此方からも質問の声が聞えた。
斯うなると巡査も何とか答えなくてはならなくなって来た。然し、この場を切り抜ける旨い智慧が浮んで来ないのである。と云って、黙って引込むわけにもいかなくなったので、彼は一段と声を張り上げて、
「紳士、淑女(メシュー・ダアム)!今も言った通り、癲癇に付ける薬は無いのですよ。判ったかね。だから‥‥であるから‥‥此の男は一度癲癇に罹った以上結局このままにして置く他はない、断じてなあああい!」
と、とてつもない声で呶鳴ったかと思うと、彼は大急ぎで群衆を掻き分けて、街灯の影の暗い方に大股に歩みさった。
(昭和八年秋)


エドモン     
  一
其名をエドモンと呼ぶ。エドモンといえば多少フランス文学を覗いた事のある人は、ははァエドモン・ロスタンの事かなどと早合点するかも知れない。或はまたゴンクウル兄弟の一人を思い出して、印象派の小説家、浮世絵の紹介者などと勝手な想像をめぐらすかも知れない。が、茲に謂うエドモンはそんな輩ではない。彼は珈琲店の給仕である。巴里風に発音すればギャルソン・ド・キャッフェである。

セエヌ河で巴里を二分すると右岸の巴里と左岸の巴里に岐れる。右岸が派手な巴里なら左岸は地味な、野暮(やぼ)な巴里である。右岸にも左岸にも属せぬ河中の島をシテエという。シテエには感傷的な巴里の善男善女を寛大に取締る警視庁や裁判所、またそれらを引くるめて守護するノオトル・ダアムの寺院がどっしりと搆えて、其の黒ずんだゴチックの鐘楼から折々勤めの鐘の音を響かせて、両岸の街々に均しく加特力教(カトリックきょう)的気分を撒いている。
華美な右岸に自由な左岸、その何れにも巴里の特色はあるが、若し客を饗応するなら先づ右岸に導くがいい。グラン・ブルヴァアルの繁華やチュイルリイ公園、コンコルドの広場から凱旋門に到る壮麗なシャンゼリゼエの並木街やモンマルトルの夜の賑いが目に浮んで来る。然し、会心の友と沁々語り会うなら寧ろ左岸に帰るに如かずである。学生街やモンパルナッス街の自由な空気は見え張らぬ珈琲店の卓の周囲にも気持ちよく流れている。年々の流行は右岸から左岸に伝わって来るが、新知識、新思想は左岸から右岸に拡がって行く。一介の読書生である私は左岸のカルチェ・ラタンの安下宿に巣を造って、気が向けば橋を渡って右岸の夜の灯火を浴びるのが楽しみであった。
四月の末から五月の初めにかけて一時に並木の嫩葉(わかば)がもえ出して女の衣が軽ろく明るい色になると、爪先で小刻みに舗道を歩む靴の、高い踵(かかと)にも粋なパリ女の嬌めいた趣きが何となく目に立って来る。ノオトル・ダアムの怪石像の舌の尖から陽炎(かげろう)がたって、前の広場には燕が縦横に翅(と)び交(か)い、厳めしいシャルルマアニュ大帝の騎馬像も春風に嬲(なぶ)られる。
斯る日は読書に懶(ものう)い。下宿の一室に籠って、パリの春色に背(そむ)くのは愚である。即ちブラリと街に出る。何やら買物をして帰って来る下宿の下女に往来でばったり出会う。小脇に大きな包みを抱えて帽子も被らず、靴も踵なしの粗末な上靴を穿いている。学生町や裏通りでは屡々見かける町女房の風体である。
「意気な姿だな。」と揶揄(ひや)かすと、
「かまうもんですか(ジュマンフウ)。」と陽気に笑って、今夜はお旨(いし)いものを拵(こしら)えてあげるから、他で食べないようにと注意して呉れる。そして抱えた包みをぽんと叩いて、口の中で舌をクッと鳴らす。「旨いぞ」という表情である。
「しめた。白い肉の匂いがする。鶏かな。野菜が新しくてデセエルの乾酪(チーズ)がキャモンベエルだろう。」
「それは、後でわかります(サ・ヌウ・ヴェロン)。」と再び笑って、下女は宿の方に急いで行く。
モンジュ街の珈琲店ラビラントの角口には例のエドモンが白い前垂をかけて、ぼんやり往来を眺めている。
「大将、何を観ている。」と声をかけて見る。
「何んにも。」と嗄(しわが)れた声で答えて「春になったね。」と言う。五十を過ぎた口髯の長いエドモンのぢぢむさい顔はあまり春らしくもない。
「散歩?」と此度はエドモンが訊ねる。
「ああ、天気がいいからね。帰りに寄るぜ。アペリチフを飲みに。」
「宜しい(セ・サ)。愉快な散歩をなさい(ボンヌ・プロムナアド)。」

  二
何処に往こう。近い植物園をぶらついて、楽天的な河馬の面でも眺めようか。それともパンテオンの前からリュクサンブウル公園に入って、ベンチに腰を卸(おろ)して煙草でも喫(の)もうか。否々公園にははいらずにオデオン座の外廊で新刊でも漁(あさ)ろうか。一層セエヌ河岸に出て河岸の古本屋を冷やかして見るか、などと考えながら己はいつの間にかサン・ミシェルの大通りを河の方に下って行く。

パレエ・ロワイヤル、パレエ・ロワイヤルと車掌の呼ぶ声に促がされて乗合(ビュス)を降りる。直ぐ横は仏国劇場である。
「木曜のマチネ一枚。」
「場所は?」
「オルケストルの椅子。同じく金曜の夜。日曜の昼一枚。」
「宜しい。大そう御熱心ですね。一、二、三枚。六十法(フラン)。有がとう(メルシイ)。」
価を払って、パレエ・ロワイヤルの広場と国立オペラを結び付けるオペラ街に出る。途途商店の美しい陳列窓を覗いて排列の巧妙なのに感心したり、往き来の女の風俗を眺めたりしているうちに、パリの銀座ともいうべきグラン・ブルヴァアルに出て了う。自動車や乗合や馬車が箴(はり)のように入乱れて人の浪が織るようである。体格の見事な交通巡査が短い棒を上下しながら絶えず呶鳴っている。

グラン・ブルヴァアルの人通りを漫然と眺めながら珈琲店の外店(テラス)で時を過すのも巴里らしい楽みの一ツである。斯うした大通りの店では、店の主人やガルソンや常連を相手にして無駄口をたたく落付いた愉楽は得られるかわりに、目の前を過ぎ行く巴里児を始め、世界の各地からこの都に集まって来る人間の顔や風俗の限りない種々相に眺め入って、歳歳の流行や世相の推移を知り得て深い興味が湧いて来る。
恐ろしく胴を狭めた背広で、胸のかくしに赤いはんけちを覗かせた洒落者が、杖を小脇に抱えて大跨(おおまた)に歩いて行く。厚化粧に目の縁(ふち)を青く塗った凄い女が赤い鍔広の帽子を目深(まぶか)にかぶって、店に憩う客の群をジロリと見ながら妙に腰を振って行く。亜刺比亜(アラビヤ)の行商は緑や赤の絨氈を背に懸けて売っている。会社員と見える男が四五人、近所の商店の売娘を取巻いて何やら笑い興じている。肥った老紳士が相手の若造(わかぞう)と夢中になって議論した挙句、膨(ふく)れ面(つら)をして左右に別れて行く。孫の手をひいた婆さんも通れば、子犬を自慢らしく抱いた黒っぽい女も通る。日本人らしい男が支那人らしい男とすれ違いに互に同国人ではないかと見返りながら遠ざかって行く。頭から脚の先迄白布の裡(うち)に埋まったようなアルジェリヤの大官が空色の服に赤い長靴を穿いたフランスの士官と仲よく語り合いながら乗合の来るのを待っている。向いの料理店の前には葡萄酒樽を山のように積んだ荷馬車が停って、脚の太い逞(たくま)しい馬が鼻を鳴らしている。暗緑色の服に同じ色の大黒帽は何処かのホテルの客引であろう。伊太利面、亜米利加面、土耳古(トルコ)人、黒ん坊、佝僂(せむし)、跛者(ちんば)、腕無し。全く応接に暇がない。
珈琲店をいい加減に切り上げて、オペラの広場に出ると、丁度勤め人の退ける潮時である。電車を待つもの、乗合を待つもの、タキシを招くもの、地下鉄道の穴に降りて行くもの、各階級の老若男女が芋を揉むように広場に押寄せて来る。下宿に帰る乗合は植物園行きのGである。

  三
「終点(テルミニュス)、植物園。御降りを願います(トウ・ル・モンド・デッサン)。」と叫ぶ車掌の声でGの乗合は停まる。夕飯には未だ時間が稍(やや)夙(はや)い。直に下宿には帰らずに、行きつけの珈琲店ラビラントに一寸寄って見る。夕飯前のアペリチフを飲む近所の常連の顔も既に集まっている。鼻の赤い、呑んだくれの古道具屋のお爺。下宿で知り合った医学生。品のいい穏やかな近所の隠居。女の癖に強い酒ばかり飲む後家。斯ういう心やすい顔の並んでいる間を目で挨拶しながら通り抜ける。私は隅の卓に陣取ってから、大きな声でエドモンと呼んでみる。「唯今(ヴォアラ)」と奥で答えて愛す可きエドモンが軽く跛をひきながら現れる。
「ピコン・キュラソオ。」と私は二三日前に同宿の医学生から教えられたアペリチフを註文する。キュラソオに苦いピコンの少量を混ぜて、それに曹達水(ソーダすい)を注いでチビリチビリ傾けるのである。向いの卓で同じものを飲んでいる例の医学生が、私の顔を見て、腮(あご)で合図しながら、尖った鼻を上に向けて、「旨いか?」と訊く。
「苦いようで甘くて、甘いようで苦い。ミルボオの脚本の味だね。」
「サンヂカリストが資本家の娘と駆落したようだろう。アハハ。」と医学生は笑っている。
客足が漸く繁くなって来て、方々の卓からエドモン、エドモンと頻(しきり)に声がかかる。其度毎に忙しいエドモンは、「オッ」とか、「ヴォアラ」とか答えて、ベルモットやカシスや葡萄酒の壜を四五本抱えこんで客の間を注いで廻る。
一隅には毎日この店に来て骨牌(カルタ)に暇をつぶす一組がゲエムが一巡済んで、賑かに食前の一杯を呼び出す。
「エドモン。白葡萄酒(ヴァン・ブラン)。」
「俺はアン・ボックだ」と麦酒を呼ぶ者もある。この一組は半生をラビラントの店で暮したような老人連中で、エドモンとは友達附合である。「やいエドモン。ベルムウト・カシスを一杯だ。何をまごまごしてやがるんだ。急げ!」と呶鳴る。私はこんな騒ぎを面白く眺めつつアペリチフを乾してから、下宿に帰って行く。

そもそも珈琲店ラビラントがモンジュ街の一角に店を開いてから幾年を経たか、それは知らない。然しエドモンが此店に住み込んでから三十五年になるそうである。其間には店の持主は幾度か代った。然しエドモン丈(だけ)は卓や杯と共に残った。「鳥は去り、花は散り、主は替わる。然しエドモンは遺(のこ)る」というのが彼の得意の一句である。パトロン・シャンジュ・エドモン・レストというのである。彼は自ら形容して「給仕中の給仕(ル・ガルソン・デ・ガルソン)」とも「モンジュ街の大統領」とも言っている。店の常客の一人に七十になる老人が居る。白髪頭に古い山高帽を頂いてパイプを銜(く)わえた侭、好きな席に腰を据えるのが例である。彼は先づ麦酒の一杯を命じて置いて、衣嚢から「フィガロ」の文芸附録などを徐(おもむ)ろに取出して読み耽ける。店に備付の「笑い」という漫画雑誌や新聞を手にしている事もある。戦争で一人息子を亡くしてからこの老人には何の楽しみもない。珈琲店で茫然と暮すのが唯一の仕事らしい。「古いお客ですぜ。此処に通い出してからやがて三十年にもなりますか、」とエドモンが或る時教えて呉れた。
斯る常客は殆どエドモンの為に此店に通うのである。他に二三人の給仕も雇われて居るが常客は絶えずエドモンの受持を希望している。エドモンの休日は月曜であるが、其日は常客の顔が目に立って鮮(すくな)くなるのであった。

  四
或る日、私は同宿の山田と此店でショコラを飲んでいた。親切なエドモンが向いの麵麭屋(パンや)からブリオシュという菓子を持って来て呉れた。山田と私は其れをショコラに漬(ひた)してはむしゃむしゃやりながらエドモンの話を聞いていた。先年物故した批評家エミル・ファゲエはエドモンとは甚だ別懇(べっこん)で、晩年には此店に、毎日やって来たそうである。ファゲエの病中にはエドモンの看護を受けた事もあったという。
「私は珈琲店(カッフェエ)のガルソンだ。先生はアカデミシャンだ。アカデミシャンてのは大したものだ。不朽の人物(インモルテル)だ。その大先生と私は『お前俺』で話してたんだからこのエドモンも大した人物でさァ。先生の奥さんとは今でも心やすくしていますよ。」
談たまたまファゲエの事に及ぶとエドモンの顔には得意の色があらわれる。一流の文学者を相棒扱いにしたのがひどく自慢である。然し私の不思議に思ったのはファゲエの奥さんという言葉であった。生涯娶(めと)らずにあれ丈の研究を為し得たという話も聞いた事があり、また何かの雑誌でルメエトルやブリュンチエルと並べてファゲエも独身生活を通した近代の三大批評家であると読んだ事も確に記憶していた。
「変だね、ファゲエに細君があったのかい。」と訊ねて見る気になった。するとエドモンは遽(にわか)に声を低くして、
「これは、極く内々ですがね。ファゲエ先生の家に――家はすぐ其処でしたが――女中が一人居たんです。それが先生の身のまわりの世話をしていたんです。ねえ了解(わか)ったでしょう。先生は死ぬ前に坊さんを枕元に招んで、その女を正妻にしてやったんです。そういうやり方を何といったけな。お宗旨の方の言葉です。何とか結婚‥‥そうそうマリヤアジュ・エストレミスというんだ。然うだ然うだ」とエドモンは独りで極めて了う。彼は臨終結婚(インエキストレミス)という字がわからぬので、エストレミス、エストレミスと繰返している。
「字は知らないが兎に角、死ぬ前にする結婚なんで。其字が知り度ければ‥‥」と口をもごもごさせていたが辞書という言葉がどうしても出て来ない。「うん、然うだ。其字は時間表(アンヂカトウル)に在る。」といって済ましている。エドモンは辞書と鉄道案内の時間表とを混同しているのである。黙々として話を聞いていた山田が、「辞書(ヂクショネエル)だろう」と注意すると、エドモンは始めて思い出して、「うん、其れ其れ、あなたは仲々学者だ」と山田は苦も無く学者にされて了う。

晴れた日の午後などに、私は時々この店の帳場に近い卓で病身らしい五十恰好の女を見かけた。常客の誰とも懇意に見えるが、その癖、誰と話しをするのも気が進まぬようである。顔色がひどく蒼い。服装はいつも小ざっぱりしていて物腰も卑しくない。卓に肱を凭(もた)れてショコラなどを懈(だる)そうに啜(すす)っている。或る時、私はエドモンの腕を一寸突いて、彼の女は屡々見かけるが、と問うて見た。エドモンは驚いた顔つきで、
「知らなかったんですか、彼女(あれ)は私の女房ですよ。御紹介しましょうか。」と女房の方を振返って「オイ相棒、この日本のお客さんは俺の弟子だよ、俺が俗語を教えてるんだ。偉えだろう。」と元気よく紹介する。病身の女房は寂しく笑って私とエドモンの容子を見較べながら、「トレ・ビヤン、トレ・ビヤン」といっていた。

  五
日曜になると、エドモンの女房はラファイエット商店の売娘(うりこ)をしている娘と、その亭主の会社員らしい男と三人づれで此店にやって来るのだった。そんな日に病身の女房も日曜の他処着(よそぎ)を纏うて常よりも元気がいい。娘や婿と卓を囲んで、「エドモン」と亭主の名を呼んでいる。エドモンは天下泰平である。相変らず「唯今(ヴォアラ)」と答えて女房や娘夫婦にレモン水や水菓子を運んでやる。私はこの睦じい家族の団欒を眺めつつ、窃(ひそか)に彼等の幸福を祝して楽しんだ。

一夏、中欧の旅に出て、秋の半ば「燕が去って栗売りが来る」頃、私は再び巴里の古巣に戻って、ラビラントの戸口を出たり入ったりするようになった。エドモンは例の如く親切に話相手になって呉れた。然し彼の病妻は店に姿を見せなくなった。「どうも病気が思わしくない」と彼は沈んでいる日もあった。
或る夕、食後の珈琲を飲むつもりでラビラントに行ったが、休日でもないのにエドモンが見えなかった。店の主人が私の卓に来て、「エドモンの女房が昨日死んだ。可哀そうに。」といって肩を聳やかして両手を拡げた。
「可哀そうに。」私も暗い心持になって、気のやさしいエドモンは今頃は定めし泣いているだろうと思って淋しい気持になった。常連からは弔意の花輪を送る事になった。私もその仲間に入れて貰う事にして軽少な金額を常連の迴状に記入した。

妻の死後、エドモンはめっきり歳をとった。以前から酒好きであった彼は益々酒に親んだ。そして以前よりも酔い易くなった。夜も更けず、客も多いのに店から暇を貰って、よろめきながら誰も待って居らぬ家に帰って行く事もあった。大柄な店の主婦は後姿を見送って、「可哀そうなエドモン」と繰返した。働き者の主人は唇を鳴らして「鼻の下に孔が無ければ良い男だが」と呟いた。鼻の下に孔があるとは酒を飲み過ぎるという意味である。
或る夜常連が二三人、酔ったエドモンを囲んで、談笑していた。すると傍に居たのんだくれの古道具屋がエドモンに揶揄(からか)い始めた。
「どうだエドモン。もう大概女房の事も忘れたろう。そろそろ其処らの後家さんに渡りをつけないか。何故黙ってるんだ。何とか返事をしろよ。」と肩に手をかけて小柄なエドモンを一揺り揺すったのである。エドモンは黙って古道具屋の赤い鼻を見詰めていたが、一言「どうしても忘れない」というと彼の酔った眼に涙が溢れた。彼は更に「決して決して(ジャメエ・ジャメエ)」と附加えた。笑いを求めた道具屋も、涙を見てから急にしょげて了って、エドモンの顔を覗きこんで、「尤もだ(タ・レエゾン)、尤もだ(タ・レエゾン)」と慰め出した。
月曜はエドモンの休みの日である。その日は彼は朝から巴里の郊外に出かけて行く。小高い丘に田舎風の教会が見える。教会の近くに墓地がある。彼は新しい墓の前に跪(ひざま)づいて胸に十字を切って半日を祈り暮すのである。
ラビラントの常連は其の後、以前にも増してエドモンを愛するようになった。
「エドモン白い葡萄酒(ヴァン・ブラン)。」
「エドモン麦酒一杯(アン・ボック)。」
呼ばれるエドモンは相変らず「只今(ヴォアラ)」「只今(ヴォアラ)」を連発して、跛をひきながら客の間を駈廻っていた。

故国に去る前夜、私はエドモンと盃をぶつけて互の健康を飲んだ。そして帰朝したらすぐに安着を報じてスウヴニイルを新(あらた)にする事を約した。而も未だ其の約を果さずにいる。
(一九二四年夏)


信天翁の眼玉     
  ヴィリエ・ド・リイラダンに就いて
人間はあらゆるものを発明することが出来る、幸福になる術を除いては。
ナポレオン・ボナパルト
  序論兼結論
仁田四郎忠常(にんたのしろうただつね)が、富士の裾野の巻狩に、荒れ狂う手負猪(ておいじし)の背に飛び乗って、人々が、あれよあれよと危ぶみ叫んでいる隙に、首尾よく其の豪猪をしとめて、双無き驍名を天が下に轟かせたと云う壮快な事件は、子守の背中に跨(また)がって其の昔絵草紙屋の店頭に佇んだ時分から、僕にも最も親しみ深い武者物語である。僕は此の話を、つい近頃迄、掛値なしの事実として信仰していた。然るに最近の好機に於いて、猪狩を最も得意とする或る猟人が親しく僕に伝授した彼の知識に依って、僕の信仰は無慚(むざん)にも蒸発して了った。其の山から来た猟人の言を左に録して、後世の史家の軽挙を誡めて置く事にする。
で、其の猟人の言う事には、
「猪は猪頚(いくび)である。故に急速度の方向転換は彼の能くするところではない。その、疾駆するに当ってや、特に然るを見る。此の事は三歳の童児もなほ記している。故に猪が突進して来た場合には、彼の近寄るのを待って、急に右或は左に身を交わせば易く危難を避けることが出来る。これも誰でも知っている通俗な知識である。唯、茲に議論の生ずるのは左右に身を翻す余地が無い場合である。寔(まこと)に、危険之より大なるはない。正に生死の岐(わか)れるところで、ハムレットも言った通り、≪それが問題≫になるのである。斯る場合に、どうしたらいいのか、韓信の故智に傚(なら)って、猪の股を潜るなどは断じて策の得たものではない。猪の股を潜って多々益々辨じても、別に褒め立てるものはない。臣、猪股を辞せず、況んや彘肩(ていけん)をや、と呶鳴って見たところで、悦服するのは僅かに、ももんじい屋の亭主ぐらいだろう。然らば重ねて問う。どうしたらいいのか。答は簡単である。一思いに飛びあがれば可いのである。然乍(しかしなが)ら唯、徒らに飛びあがるのは、総ての飛びあがり者や跳返者(はねっかえり)が往々失敗(しくじ)ったり、恥を掻いたりすると同じく、却って危険である。飛躍には時機がある。早過ぎても、遅過ぎてもいけない。極めて冷静な態度を失わずに、突進して来る猪の牙が、あわや、此方の臍を突くと思った、其の瞬間に、満身の力を爪先に込めて、飛びあがるのである。凡そ真剣勝負の極意では、太刀先で斬るな、柄で斬ると思えと教えてある。武芸を心得ぬ博徒が、時に腕に覚えのある侍と斬り結んで往々勝を制するのは、此の呼吸を経験から呑込んでいるからである。而して之は能動的の場合であるが、問題の猪の場合は、此の原理を受動的に応用して、牙で突かれたと思ったその時に、飛びあがるのである。で、飛びあがっている間に猪は、‥‥今度は猪の方が人間の股倉(またぐら)を芽出度く通り抜けて了う。」
此の話をして、例の猟人は、今日は急ぐから、と云って帰って行った。僕は彼の後姿を見送りながら考えた。考えているうちに、突然、僕は「わかった!」と叫んだ。そして次の結論に到達したのである。
「成程、仁田四郎は、豪勇無双の武士だったには相違ない。然乍ら、彼は猪狩にかけては全く無経験な男であった。彼程の強(ごう)の者も、猪が真面(まとも)に襲いかかるのを見ては、さすがに、慌てないわけにはいかなかったのである。やッと云う掛声で、飛びあがった事は飛びあがったものの、無経験の悲しさには飛びあがり方が稍々早すぎた。彼のからだが宙に浮んでいる間に、猪は未だ彼の股倉の下を抜け切れなかった。彼は遂に猪の背(せなか)の上に墜落に及んだのである。猪狩に暗い後世の史家は、彼の豪勇に眩惑せられて、猪狩に関する彼の造詣(ぞうけい)に疑を挟むことを忘れたのである。そこで僕は、僕の立場から、彼の功名は寧ろ怪我の功名で、仮令(たとえ)凡流の史家を欺くことを得ても、炯眼(けいがん)なる猟人を欺くことは出来ない、と結論し度いのである。果然彼は富士の裾野の巻狩に於いて猪に飛び乗ったのではなくして、猪の背に堕ちたのである。其の証拠には、絵草紙で見る仁田四郎は猪の背に後向きに跨がっている。」
仏蘭西人の一面に所謂ゴオル気質――esprit gaulois――なるものがある。事に触れて揶揄(やゆ)し嘲笑して、自ら快を叫ぶ弥次性の発露である。而して此のゴオル気質は仏蘭西人の他の一面、即ち生(き)真面目な、甚だ道学的な気質と相俟って著しい対照をなしている事は、多少仏蘭西人を知った人々の直ちに感づくところである。此のゴオル気質の一つの現われとして、僕はMystification(ミスティフィカシオン)と云う事を尠しばかり説明し度いと思う。
ミスティフィカシオンを動詞に使えばミスティフィエ――mystifier――である。而してミスティフィエという動詞を字引で探すと次のような説明が施してある。Abuser de la crédulité de quelqu'un pour s'amuser à ses dépens, et en général se jouer de lui(E.LITTRÉ)――他人のおめでたさに付け込んで、其奴を擔(かつ)いで興がること。つまり、当の相手を弄ぶこと。
平たく言えば、ミスティフィカシオンという名詞は、騙したり、ぺてんに懸けたりして、面白がることである。あまり性(たち)の善くない文字である。人道に立脚して善男善女に「人格」を鬻(ひさ)ぐ志士仁人は「そりゃ怪(け)しからん」と頭に湯気を立てて、「それは軽薄な事であらねばならぬ」などと、舌たるい警世的な忠告を濫発するかも知れない。何故なら、彼等は「慎重の態度」を人に知らしめると云う事が、処世上万全の策であることを知り過ぎる程知っているからである。然しながら此のミスティフィカシオンは決して自己の利益を目的としてはいない。寧ろ利益は他人の取るに任せて、自らは唯、単に芸術的衝動を満足させる為めに、他人を騙したり、ぺてんに懸けたりするのである。これが為めに所謂識者を怒らしめて、却って識者の対世間の立場を愈々明にする利益を与えると云う、親切な役目を勤める事さえある。蓋しミスティフィカシオンが純芸術の根拠を有する所以である。故にミスティフィカシオンはシニスムではない。其処に無限の憧憬もあり、信仰も宿り得る。されば骨の髄までブルジョワの癖にプロレタリヤの主張の取次をしたり、それに共鳴を感じて卓をたたいたり、水を飲んだりするのは、ここに謂うミスティフィカシオンではない。単なる欺罔(きもう)である。最も欺罔から出た主張が、至純な多数を動かして、善果を生じ得る場合が往々にしてある事を、僕は否定しはしない。処女が懐胎して救世主を生んだ例(ためし)もあったから。兎に角、此処では唯、ミスティフィカシオンがシニスムでないこと、利益を目的にしないこと、寧ろ損を招くこと、を一言すれば足りるのである。
ところで、好んでミスティフィカシオンを行う者をミスティフィカトゥウル――mystificateur――と呼ぶ。仏蘭西の偉い文学者には古来、ミスティフィカトゥウルが鮮(すくな)くない。ラブレエもモンテエニュもモリエエルも甚だ屡々、それであった。ヴィヨンもボオドレエルも亦然りであった。恐い顔をし乍ら、肚の底で巫山戯(ふざけ)ていたり、にやにや嗤(わら)いながら真理を言ったりする、ヴィヨンの『小遺言(プティ・テスタマン)』や『大遺言(グラン・テスタマン)』の中には、吹出さずにはいられない、それでいて沁々と頼りない涙を催させる句節に、よく出遇う事がある。ボオドレエルが亦一筋縄でいかないミスティフィカトゥウルであった。
「君!赤ん坊を食べた事があるかね。ありや、なかなか旨いもんだがな。」こんな事を云って、相手が不意を打たれて、どぎまぎしていると、彼は甚だ御機嫌が好いのである。ガストン・デシャンに拠れば、――尤も此の話は嘘かも知れないが――或る時、『悪の華』の著者が、リュクサンブウル公園の緑陰のベンチに腰を卸(おろ)して、相手欲しそうな顔をしていた。其処へ通りかかったのが、当時高踏派の親玉ルコント・ド・リイルであった。午前十一時頃の日光を哲学者のような広い額と予備の将官のような大きな肩とに浴びながら、威風あたりを払って見えたド・リイルは、図(はか)らずもボオドレエルに引留められて、ベンチに腰を落付けさせられた。肚の中では悪い奴につかまったと思ったが、そんな気色を顔にでも出したら、後が面倒なので故(ことさ)らに悠(ゆる)りと搆えて相手の言う事を静かに聴いていた。然し何時迄たってもボオドレエルの無駄話は滾滾(こんこん)として尽きそうもない。ド・リイルも少々空腹を覚え出した。おもむろに時計を取出して眺めると針は既に十二時を指している。するとボオドレエルは今更驚いたらしく、
――これは、意外だ。先生は、午飯を食うと云う、あのブルジョワの旧慣を未だに株守して居られるのですか。私などは決してそんな月竝(つきなみ)な事はやらぬ事にして居りますがね。
――いや、と答えた高踏派も少なからずムッとして、――我輩も午飯は食わん事にしている。
悪魔派は大に我意(わがい)を得たらしく、又ぞろ旺(さか)んに与太を飛ばし始めた。詩を論じ、文壇を論じて、留め度が無い。ユウゴオ既に老いて、バルビエは疲れたり、ゴオティエ暫く女詩神(ミュウズ)に遠ざかって散文に走り、エレディヤ未だ堂に入らず、堂に入ると雖(いえども)、一年数篇の小曲は蝸牛の歩みにして前途、極星の如く、光りつつ而も遼遠なり。此の時に当って、先生独り騒壇に獅子の跫音(あしおと)を響かせ、颯爽としてパルナス山上に鬣(たてがみ)を震い給う。芽出度しとも芽出‥‥。
公園の瓦斯灯には、もう二時間も前から灯が點(つ)いて、夜風に頭の上の木の葉がさらさらと揺らぐ。高踏派の空腹は、此の時はもう、どうにも、我慢が出来なくなって来た。胸のポケットの中で、飯も食わずに正確なチクタクを叫び続けている時計が羨ましくなって来た。彼は再び時計を取出したが、暗さよりも、眼の玉がグラグラして、分明(はっきり)と見えない。而し何となく、九時頃らしく思えた。然るに悪魔派は何食わぬ顔をして、
――先生は、と言いながら、絹のハンカチで其の破戒僧のような顔を、つるりと撫でながら、――先生は、あの記憶力の悪いブルジョワが決して忘れない夕飯と称する愚挙を未だに繰返して居られるのですか、と云って傍を向きながら、ペッと痰を吐いた。高踏派は、またかと思ったが、もう負惜しみにも反抗する気になれなかった。彼は元気のない声で、
――いや、夕飯の方は、時々やります。
僕が、これから論じて見たいと思うリイラダンも亦偉いミスティフィカトゥウルであった。
或る時、――これもやはり或る時で、何年頃の事かそれは歴史的には未だ考証されていないが、
――兎に角某年某月某日である事だけは疑いない。その或る時、僕の堪らない程好きなヴィリエ・ド・リイラダンが当時偶然の機会で彼の傍にいたと称する友人にこんな話をした事がある。
――君はシェクスピイヤと云う男を知っているだろう。
――知っているとも。
――彼が仏蘭西人で、実は英吉利人ではないと云う、驚く可き事実を、君は知らないだろう。
――こりや初耳だ。
――あの男はね、君、元々仏蘭西生まれなんだ。僕は彼奴の劇を読む度にそう思うんだが、彼奴の脚本の如何なる頁を披(ひら)いて見ても、必ずブルゴオニュ産の葡萄酒の香がするのが不思議でならない。
――そう言われて見ると自分にも、そうした経験があるような気がする。
――そうだろう、その筈さ。彼奴は確かに仏蘭西人なんだ。而も生粋のブルギニョンなんだ。で本統の名はジャック・ピエエルと呼んだ男なのだが、例の宗教戦争のごたくさ紛れに、彼奴は英国に逃れて、ロンドンに移住したらしい。後世の伝記作者が、初めから、彼が英国人だという観念に捉われているから、彼のビオグラフィイが曖昧になるのも無理もない。だから、やれシェクスピイヤとベエコンとは同一人だの、やれ別人だの、やれ真理は中間に在るからシェエコンにベエクスピイヤだの、従兄弟だの異母兄弟だのと云う嗤(わら)う可き説が出来上がるのだ。正真正銘の仏蘭西人て事は誰が見たって一目瞭然じゃないか。彼は倫敦に渡ってからも、自分では明かにジャック・ピエエルと名乗っていたのだ。ところが英国人には、どうしても仏蘭西流の発音が出来ない。殊に倫敦は非常に訛りの多い都会だから、何時の間にかジャック・ピエエルが訛り出してシャック・ピエエル、シェエクス・ピイヤ‥‥。
多くの説明を待つ迄もなく、ミスティフィカシオンの如何なるものであるかは、一通り読者にも合点がいった事と思う。僕が此の序論兼結論に於いて言い度かった事は、先づミスティフィカシオンとは如何なるものであるかと云うこと、次に仏蘭西人が此の悪戯を愛好すること、而して最後にリイラダンも其の愛用者であったこと。此の三つであるが、ここに一言しなければならぬのは、リイラダンは此の悪戯を往々用いたが、而し決して其の専門家ではなかった。彼は第一に仏蘭西文学に於ける最高の象徴作家である。凡そ文学に於いて自覚的に、徹底的に象徴に拠ったのは、恐らくダンテであるだろう。而して仏蘭西に於いては先づ、十六世紀に於けるリヨン派の詩人モオリス・セエヴ(Maurice Soève)をその鼻祖とする。彼の詩集『デリイ』(DELIE)は全篇悉く象徴である。其以後仏蘭西文学に於いては、主義として象徴に立脚する事は長く跡を絶ったが、千八百八十年代に至って再び象徴詩が勢を得るに至った。上田敏先生が『海潮音』の序に、

「詩に象徴を用いること、必ずしも近代の創意に非ず、これ或は山嶽と共に舊きものならん。然れども之を作詞の中心として本義として故らに標榜(ひょうぼう)する所あるは、蓋し二十年来の仏蘭西新詩を以って嚆矢(こうし)とす。」

と、例の壮麗体か何かで、髭を捻って居られるのは、決して全然誤謬(ごびゅう)ではないにしても、これ必ずしも正鵠(せいこく)を得たる箭(や)には非ざらん、かと今や幽明境を隔てて遙察する。
而して、我がリイラダンは詩人で小説家で劇作者で且哲学者であった。或る意味では宗教家でもあった、即ち過激加特力派(ユルトラ・モンタン)であった。又音楽の熱愛者で且彼自身も、其のテクニックは拙であったが、興に乗じて、遽然(きょぜん)としてピヤノの鍵盤に指を触れる時には、往々ワグネル式の即興が人々を驚かしたと伝えられている。而して最後に、彼は生涯壮大な夢を見続けた夢想家であり、十九世紀のポジティヴィスムに対する根本的の反逆者であり、最も深刻なイロニストにであった。且妖怪の如き理想主義者であり、また、稀に見る大文章家であった。
以上で僕はリイラダンに関する序論兼結論を述べ終った。次号から本論として、彼及び彼の作物に対して見ようと思う。唯預め断って置き度い事は、僕は自分の尊敬し愛惜する作家に対して到底公平な判断を加える事などは思いも寄らない。故に、評論が仮令礼拜と讃美とに終ろうとも、僕はそれを悔いはしない。此の両三年の間絶えず、僕の胸裏を往来していたものは最も散文的な彼の時代を遺憾なく蹂躙(じゅうりん)し去って、過去と未来とを美しい魂で連結し得た彼の気高き(アリストクラティック)面影であり、生涯惨憺たる窮乏の生活を続けて、而も昂然として死んで行った彼、十字軍以来の名家の後裔、伯爵フィリップ・オオギスト・マティアス・ド・ヴィリエ・ド・リイラダンの痩細った蒼白い顔であった。食う物も無く、乞食と一緒に橋の下に一夜を明しながら、遙かに地上の灯火を見上げつつ、氷のような微笑を血の気の失せた唇に浮かべて、

地球と称する一遊星の事も罕(たま)には思出してやろう!

と、いみじくも言い得た『残酷な話(コント・クリュエル)』の著者が、僕の限りなく愛する「彼」である事は、最早や言うを俟たぬ。と云うことを此の結論の結句とする。
(一九二〇年一一月)



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パンもマヨネーズも自家製となれば、余すところは、唯、ハムあるのみ。
スーパーに陳列してあるようなハムは、安価ですが味わいに難があり、明治屋の輸入ハムは価格の点で折合わず、ともに廃すべき理由がありますので、ここはどうでもハムの自家製に挑戦しなければなりませんが、インターネットで調べてみると、どうも簡単にできそうで、失敗しそうにもありません。

通販で次の物を購入しました。他の物はスーパーで購めます、
1. ドイツ産岩塩 500g/1袋 345円
2. こんぶだし 56g/1袋 190円
3. 燻製鍋 1個 3081円
4. さくらスモークチップス 500g/1袋 366円
5. 脱水シート 32枚/1箱 2160円


≪ロース・ハムの作り方≫
≪材料≫
  1. 豚ロース・ブロック:500g
  2. ドイツ産岩塩:11g(肉の2.1~2.3%)
  3. こぶだし粉末:2g
  4. 胡椒:小さじ1/4杯
  5. ローリエ:2枚
  6. ローズマリー:5cmの枝2本
  7. 砂糖:小さじ1杯
  8. 重曹:小さじ1/2杯
≪器具≫
  1. バット:1枚
  2. サラシ布:30cm1枚
  3. たこ糸:1m
  4. ポリ袋:20×30cm1枚
  5. キッチンペーパー:数枚 水気を取る時適宜に
  6. 深鍋:使用時の容量5Lのもの
  7. 落し蓋:深鍋に適合するもの
  8. 温度計:1本
  9. 脱水シート:1枚
  10. 燻製鍋:1個
  11. さくらチップ:25g
≪作り方≫
  1. 流水で肉を洗い、水気を拭き取る
  2. バットの中で肉に、万遍なく塩、こぶだし、砂糖、重曹を振りかけ、よく揉んで擦りこむ。
  3. ローリエとローズマリーを表面に貼り付け、成形しながらサラシ布で包み、たこ糸で縛る。
  4. 更にキッチンペーパーで包んでポリ袋に入れ、空気を絞り出して口を閉じ、冷蔵庫のチルド室で1週間保存する
  5. チルド室で保存する間、様子を見ながら、必要があればキッチンペーパーを交換する
  6. 1週間後:深鍋に湯を沸かし、70℃になるまでの間に、冷蔵庫から肉を取出してポリ袋とキッチンペーパーを捨てる
  7. 70℃の湯に、たこ糸で縛ったままの肉を入れて落し蓋をし、温度計を差し込んで、65℃~75℃を保持して、正2時間茹でる。
  8. 茹で上がったら、手早く冷水に取って冷ます
  9. たこ糸、サラシ布、ローリエ、ローズマリーを取去る
  10. キッチンペーパーで水気を拭き取り、脱水シートで包んで冷蔵庫で2時間保存する
  11. 燻製にする
≪燻製の仕方≫
  1. 燻製鍋の底に鉄皿を置き、チップ25gを入れる
  2. 網を置いて、中火に掛ける
  3. 煙が出始めたら、網の上に肉塊を載せ、蓋をして弱火で10分熏す
  4. 熏された肉塊を鍋から取り出し、クーラー等の上で冷ます
  5. 紙で包み、冷蔵庫で1日寝かせて出来上がり

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上の写真が、燻製鍋です、
キッチンのガスコンロで使用しましたが、密閉性が良いので、煙が漏れることもなく、僅かに臭いますが、換気扇を必要とするほどでもありません。簡単に手間無く、立派な燻製が出来上がりました。

自家製ロース・ハムは、安い輸入肉で造りましたが、その味わいは、高価な高級ハムをも遙かに凌ぐものであった、とお伝えして置きましょう。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまで御機嫌よう。
  (ロース・ハム  おわり)

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