駐車場は大門に面しています。豪壮な四脚門で、その両脇の土塀には、五本の白線が引かれており、寺格の高さを知らしめております。この門を通って、100mぐらい坂を下ったところに、普通の寺の本堂に当る仏殿があります。
此の泉涌寺は、元は戒律を主として、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の寺だったのですが、明治以後は時の政府の、寺院は必ず一宗派に属して、その管長の指導に伏すべしという、一寺一宗の政策に従い、真言宗泉涌寺派を称するようになりました。
此の寺が、なぜ皇室の尊崇を集めるようになったかを知ろうとすれば、必然的に鎌倉時代初期に活躍した、俊芿(しゅんじょう)という名の一人の傑出した僧に出会うことになります。
時は、あたかも平安から鎌倉時代に、まさに移らんとするちょうどその時、世は混迷を極めて、処処に戦乱が起こり、京師には行き倒れや、物貰いが溢れ、盗賊や人殺しが横行し、御所も貴族の館も荒れ果てて、世の終りもかくやと言わんばかりの様相を呈しておりましたが、一方清浄であるべき聖域も、もはや例外ではあり得ません。武器を手にした僧侶が、他宗の寺院を焼き討ちしたり、要路に木戸を設けて関税を取ったり、肉を噉い女色を貪り、まるで地獄の有様を見たようなものだったのです。
此のような乱れた時代にこそ、二人の傑出した僧が世に現れたのは、やはり必然だったのかも知れません。一人は世俗の乱れに眼を向け、苦海に沈淪する庶民を救う道を、専ら南無阿弥陀仏と名号を唱えることに見出だそうとする法然(1133-1212)、もう一人は僧衆の乱れに眼を向け、戒律の復興を求めて入宋した俊芿(1166-1227)、一方の名は人口に膾炙し、一方の名は、ほとんど誰にも知られていませんが、倶に勝れて世に影響を与えた人物であることは、後の事情によく顕れています。
泉涌寺を開創した俊芿とは、どのような人であったのか、少し見てみましょう、――
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