泉涌寺


「泉涌寺(せんにゅうじ)」は、歴代天皇の御霊が弔われる皇室の香華院として、総門の表札にも、『御寺(みてら)泉涌寺』と、おおらかな字で記されている通り、海内第一の格式を誇る御寺ですので、一度は詣でてみたいと思ってはおりましたが、何しろ京都は道が狭い上に、大小の車が犇めき合い、運転には、相当気を使わねばなりません。そういう訳で一日延ばしにしておりましたところ、老人の体力に鑑みますると、そろそろ期限切れを恐れなくてはならぬようなありさまですので、遂に意を決して参詣するに相成ったという次第です。

屋根付きの二脚門に、扉を格納するため、棟木と直角に屋根を付けて四脚門としたものを高麗門と呼ぶそうですが、左右は土塀などでなく、矢来と呼ぶ木格子を用いるのも、またよく見かけるところです。
此のような門は、領域の目標(めじるし)としての役割が主であり、扉を昼夜開け放って置くのが、一定の決まり事のようですので、自動車などに傷つけられないよう、ガードレールが施されていても、別に困るようなことはありません。


此の総門をくぐったところからが、泉涌寺の寺域ということですが、車で行きますと、左右の鬱蒼とした茂みの中に学校や、塔頭が点在し、やがて駐車場に行き着きます。



駐車場は大門に面しています。豪壮な四脚門で、その両脇の土塀には、五本の白線が引かれており、寺格の高さを知らしめております。この門を通って、100mぐらい坂を下ったところに、普通の寺の本堂に当る仏殿があります。

此の泉涌寺は、元は戒律を主として、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の寺だったのですが、明治以後は時の政府の、寺院は必ず一宗派に属して、その管長の指導に伏すべしという、一寺一宗の政策に従い、真言宗泉涌寺派を称するようになりました。

此の寺が、なぜ皇室の尊崇を集めるようになったかを知ろうとすれば、必然的に鎌倉時代初期に活躍した、俊芿(しゅんじょう)という名の一人の傑出した僧に出会うことになります。

時は、あたかも平安から鎌倉時代に、まさに移らんとするちょうどその時、世は混迷を極めて、処処に戦乱が起こり、京師には行き倒れや、物貰いが溢れ、盗賊や人殺しが横行し、御所も貴族の館も荒れ果てて、世の終りもかくやと言わんばかりの様相を呈しておりましたが、一方清浄であるべき聖域も、もはや例外ではあり得ません。武器を手にした僧侶が、他宗の寺院を焼き討ちしたり、要路に木戸を設けて関税を取ったり、肉を噉い女色を貪り、まるで地獄の有様を見たようなものだったのです。

此のような乱れた時代にこそ、二人の傑出した僧が世に現れたのは、やはり必然だったのかも知れません。一人は世俗の乱れに眼を向け、苦海に沈淪する庶民を救う道を、専ら南無阿弥陀仏と名号を唱えることに見出だそうとする法然(1133-1212)、もう一人は僧衆の乱れに眼を向け、戒律の復興を求めて入宋した俊芿(1166-1227)、一方の名は人口に膾炙し、一方の名は、ほとんど誰にも知られていませんが、倶に勝れて世に影響を与えた人物であることは、後の事情によく顕れています。

泉涌寺を開創した俊芿とは、どのような人であったのか、少し見てみましょう、――
俊芿(しゅんじょう):肥後国飽田郡の人、字は不可棄、我禅房と号す。母は藤原氏なり。仁安元年八月十日を以って生まれ、路辺に棄てらる。尋いで姉の養う所となり、四歳に至り同国託麻郡池辺寺に入り、舅氏珍暁に鞠育せらる。幼にして聡明、其の智成人の如く、七歳始めて仏書を読み、経典八巻を誦得す。九歳母の所に帰り、日夜経書を反覆す。十歳吾平山学頭荘厳房に侍して法華経を習い、十四歳飯田山学頭真俊の所に至りて筆写に従事し、十八歳俊に就いて剃髪し、翌年太宰府観世音寺に具足戒を禀く。尋いで諸方を訪ねて天台真言等を学し、俊の滅後、其の法兄相俊に依止し、具に顕密二教の秘賾を受く。二十七歳に至り、戒行専精ならざれば菩提を証することを得ざるを悟り、名利の学道を捨て、良士の嘉遯に傚いて堅く禁戒を守らんと誓い、仍りて上洛し、京都奈良二京の間を往復して大小の戒律を学し、又勝願院蓮迎に就いて行事鈔の講を聴く。既にして肥後に帰り、筒嶽に正法寺を創め、戒法及び密潅を弘伝す。常随徒衆五十僧に及び、自行化他甚だ盛んなり。建久九年三十三歳にして入宋伝律の志を発し、翌年四月安秀及び長賀の二弟を伴い、纜を博多に解き、五月江陰軍に達す。時に南宋寧宗慶元五年なり。乃ち両浙の名藍を巡歴して天台山に登り、尋いで雪宝山を過ぎて径山に遊び、蒙庵総禅に謁して、禅要を諮詢す。翌年春四明景福寺に入り、如庵了宏に師事すること三年、具に律部を習い、持犯開遮精通せざることなし。嘉泰二年十月天台山赤城寺に詣でて一冬を過ぎ、三年春仏隴智者塔院及び大慈寺を礼し、尋いで秀州華亭県超果院に至りて北峯宗印に謁し、其の輪下に参ずること八年、具に天台教観の奥旨を極む。嘉定の初、超果を去りて帝都に遊び、下天竺寺に寓して重ねて台教を練る。三年秋四明に至り、帰航せんとするも果たさず。翌年二月便船に乗じて明州を発し、三月博多に著す、時に建暦元年、師年四十六歳なり。齎す所、仏舎利三粒、普賢舎利一粒、如庵舎利三粒、釈迦三尊碑文二幅、十六羅漢二本三十三幅、水墨羅漢十八幅、南山霊芝真影各一幅、律宗大小部文三百二十七巻、天台教観文字七百十六巻、華厳章疏百七十五巻、儒道書籍二百五十六巻、雑書六十三巻、法帖御書堂帖等碑文七十六巻等あり。時に建仁寺榮西防州に在りて師の帰朝を聞き、馳せ至りて京師に入らんことを求む。仍りて先づ肥後筒嶽に帰り、四月上洛して建仁寺に至るに、長老已下禅徒等、門下に雁行して之を迎う。明年十月崇福寺に移り、建保五年思斉及び幸命の両徒をして四分律疏及び財貨数十物を宋に送らしむ。同年八月中原信房の請により、弟子を率いて豊前に下向す。時に信房、師に従いて出家受戒し、名を道賢と改め、逆修を修す。翌年夏道賢上洛して仙遊寺(初の名は法輪寺、後今に改め、更に泉涌寺と称す)を以って師に施与す。承久二年二月泉涌寺勧進疏二通并びに殿堂色目一通を後鳥羽上皇の進覧に供し、仍りて准絹一万疋を賜い、尋いで高倉上皇も又准絹一万五千疋を下賜せらる。貞応三年七月奏して泉涌寺を御願寺となす。同年鎌倉に赴き、源政子、北条泰時等に菩薩戒を授け、又道俗に受戒し、仏経を讃じ、大に教化を布く。嘉禄元年十月泉涌寺に重閣講堂を創め、翌年春落成す。仍りて九旬の安居を結び、法座に昇りて教律二宗の法門を講じ、親しく大宋の儀則に摸す。凡そ一朝の緇素、王公以下師の威徳を仰慕せざるものなく、後鳥羽順徳高倉の三上皇を始め、公卿大臣の師に就いて受戒する者甚だ多し。就中、左大臣藤原公継深く師を尊崇し、関白光明峯寺道家特に敬重を致せり。又法相の貞慶、天台の慈円等各其の徳風を慕い、受法習学するもの少なからず。同二年冬微疾を示し、三年春危急に臨み、関白忠通来たりて病室を訪い、讃岐国二村郷内外水田五十六町を寄進するや、師は酬ゆるに唐本科法華経一部を以ってし、又当寺遺誥を書して之を呈示す。閏三月八日門弟を遺誡し、弥陀三尊行像に向いて安禅合掌し、遂に寂す、年六十二。応永十八年十月後小松天皇勅して大興正法国師の号を賜い、享保十一年三月中御門天皇は大円覚心照国師と諡し、明治十六年月輪大師と加諡せらる。師は博識にして、天台真言戒律禅及び浄土の諸宗を兼学し、就中、最も力を戒律の復興弘伝に竭し、遂に北京律の初祖と仰がるるに至れり。寛元二年信瑞其の伝を撰す。付法に心海、定舜、了真、思宣、思真、承仙、思敬、賴尊、尊隆、信円等あり。著す所、三千義備𢮦二巻、仏法宗旨論、念仏三昧方法、坐禅事儀各一巻等あり。仏祖統紀第十七、泉涌寺不可棄法師伝、円照上人行状巻中、元亨釈書第十三、続史愚抄第三十二、第七十、律苑僧宝伝第十一、東国高僧伝第十、本朝高僧伝第五十八等に出づ。(望月仏教大辞典)


坂を下って行きますと、茂みに半分隠れていた仏殿が、次第に、その全容を現してきます。簡素ながらも、重層入母屋の屋根には、ある種の堂々たる趣きがあり、質実剛健を感じさせます。



重層の屋根を戴く仏殿は、東大寺の大仏殿のように天井がなく、中には虹梁や椽(たるき)が美しく模様を画いています。

高めの須弥壇上には、中央にやや高く釈迦如来、向って右に弥勒仏、向って左が阿弥陀仏の三体の仏様が祀られています。やはり真言宗の寺というよりは、黄檗等の禅宗様により近いような感じがします。



仏殿の後には、狭い空間を挟んで、俊芿の請来した舎利を祀る舎利殿が建てられています。写真では理解し難いと思いますが、均斉の取れたとても美しい建物です。



舎利殿の横の蔀戸(しとみど)を少し造形風に撮ってみました。蔀戸や火頭窓の白色は、白漆か何かを塗ったのでしょうか?此の建物が美しく見えたのは、案外此の白の所為かもしれません。

仏殿と舎利殿の二棟は、簡素でありながら荘重、威厳がありながら華やぎもあるという、いかにも皇室の御寺を感じさせるような趣きがあり、此の寺全体が清々しさに満ちているような気がします。



舎利殿の横から、歴代天皇の御尊牌の奉祀されている霊明殿の塀をぐるりと回って、その裏手へ行くと、山陵の営まれる月輪陵の敷地に到り、制札の署名により、宮内庁の管轄であることが知れます。入口の奥に見えるのが月輪陵の唐門です。中には天皇の為に九輪塔、その他の皇族の為の宝篋印塔が数多く林立しているそうです。



金色の金具で飾られた桧皮葺の建物が霊明殿です。その手前の唐門風の屋根が御車寄で、その左の瓦屋根の御座所の玄関に当ります。
今立っている所が、本坊の玄関前、本坊と御座所とは、ほぼ一体化して繋がっています。庭の植栽は簡素ですが、計算しつくされたものであることが感じ取れます。





本坊の玄関脇に寺務所があり、そこで絵葉書などが売られていますが、その裏手の内玄関のような部屋には、誰の手になるものか、いづれ名工の作と思しき襖絵が部屋中に画かれており、文人の書斎を偲ばせるような趣きを現しています。



その隣は御座所の玄関の間、石畳の敷かれた御車寄に続き、正面には勅使門があり、模様の描かれた白砂に、やはり簡素な植栽があしらわれています。



更に玄関の間を通り過ぎると、一間廊下が縁側に接して侍従の間、勅使の間、玉座の間と続き、縁側は、小さな庭園に面しています。自然を模した庭園と、分厚い板敷きの縁側は、妙に安心感と安定感とに溢れ、坐り込んだら動くのが厭になりそうです。



来る時は仏殿と舎利殿の向こう側から、舎利殿の裏を通って来ましたが、本坊の門の前に立つと、舎利殿と仏殿とが反対側を見せて並んでいます。

太陽が真上に昇り、間もなく正午になろうとしています。疲が出ないうちに、早く帰らなくてはなりません。多くの塔頭には、まだまだ見るべき所がありますが、次に期待しましょう。

泉涌寺には、皇室の御寺として独特の雰囲気があります。謂わゆる繰り返しになりますが、簡素にして荘重、威厳がありながら華やか、日本の美の原点を象徴するような寺、これが泉涌寺でした。


******************************




******************************




******************************
≪柏餅風ういろう≫  (大須ういろ)
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまで御機嫌よう。
  (泉涌寺  おわり)

<Home>