鹿の子さんは梅村さんから戴いたペルシャ猫の子にメリーという名をつけた。兄さんの静人君が名づけ親だった。 その関係から静人君も可愛がる。
『此奴(こいつ)は親を知っているせいか、僕のところへよく遊びに来る。』
『悧巧ね。』
『うむ。』
『口こそきかなくても、人間の心持はすっかり分るのよ。』
『分る。 恐ろしいくらいだ。 昨夜(ゆうべ)なんか僕の勉強の邪魔をするんだもの。』
『ふざけるの?』
『いや。 僕が代数をやろうと思って教科書をひろげたら、その上へ坐ってしまったんだ。』
『机の上へ坐るのが大好きよ。』
『僕は実に感心した。』
『どうして?』
『こんなに人間の心持の分る猫は滅多にいない。 僕は教科書をひろげたが、勉強するのは厭だった。 「あゝあゝ、厭だなあ」と心の中で思ったんだよ。 すると此奴、ニャオンと鳴いて、僕の膝から机の上へ上がって、教科書の上へ坐ってしまった。』
と静人君はメリーの頭をなでながら話す。
『まあ!オホヽヽヽ。』
『幾ら退(ど)いてくれと言っても退いてくれない。 「メリーや、僕はこれから勉強しなければならないんだから」と頼んでも、ノウヽヽと言う。』
『嘘よ。』
『ニャオン ニャオンさ。』
『この子は強情ですから、自分の気に入ったところですと、ナカヽヽ動きませんわ。』
『そこで僕は考えた。 八幡太郎義家の話だ。』
『義家がどうしたの?』
『鴻雁(こうがん)乱れ飛ぶ時は伏兵あり。 お前、知らないだろう?』
『知らないわ、そんなむづかしいこと。』
『雁(かり)が乱れて飛ぶ時は敵が何処かに匿(かく)れている。』
『あら、それなら知っているわよ。』
『英雄豪傑ってものは禽獣の挙動を見て悟りを開く。 僕はメリーが本の上に坐って動かないから、これは勉強しない方がいゝんだと思って、すっかり遊んでしまった。』
『狡いわね、兄さんは。』
『ハッハヽヽヽ。』
『駄目よ、そんなことじゃ。』
『いや、メリーが邪魔をする時は勉強しなくても大丈夫だ。 その証拠には、今日は予習をして行かなかったけれど、ちっとも当らなかった。』
『やっぱりマスコットでしょうか?』
『マスコットだよ。 痛い!』
『頂戴。』
と鹿の子さんはメリーを膝の上へ抱き取った。
『食いついた。』
『怠けるマスコットなんかに使われちゃ困るって意味よ。』
『言葉が分るんだね、やっぱり。』
と静人君は感心していた。
『オホヽヽヽ。』
『何だい?』
『兄さんは猫の弄(いじ)り方を知らないんですわ。』
『どうして?』
『腰のところを捉まえると、すぐに食いつくのよ。 そら、憤るでしょう。』
『成程。』
『耳の下や首だと嬉しがっていますけれど。』
と鹿の子さんは耳の後を撫でてやった。 メリーは目を細くして喜んでいる。
『マスコットだ。 この猫を貰ってからいゝことが続く。』
『本当ね。』
『僕もこの間先生に褒められた。』
『まあ!』
『そんなに吃驚するなよ。』
『でも珍しいんですもの。』
『しかし大したことはない。 正直だってんだ。』
『唯だの正直?何かつきはしない?』
『つく。真っ正直だってんだ。』
『馬鹿正直でなくてよかったわね。』
『此奴。』
『失敬。』
『生意気だね、お前は。 まるで男のようだ。』
『それじゃ男は生意気?』
『こら!』
と静人君は睨んだ。しかしむろん冗談だ。 英雄豪傑をもって任じているから、決して憤らない。
『御免なさい。』
『この間代数の答案を返して貰った時、僕の点が間違っていたんだよ。 五題で八十点取れているのが八十五点になっている。』
『八十点なんて取ったの?兄さんが。』
『又馬鹿にする!』
『御免なさい。 つい癖になっているのよ。』
と鹿の子さんは平気なものだ。
『八十五点になっていたから、僕は先生のところへ行って、これは合計が五点違っていますと言った。 すると先生は「急いだものだから間違えた。 しかし多い方へ間違ったんだから苦情はあるまい」と言った。 僕は「お剰銭(つり)を返しに来たんです」と言った。 「いゝよ、僕が間違えたんだから」 「しかしお気の毒ですから、今度の試験の時五点引いて下さい」 「よしよし、君は真っ正直だから感心だ」と先生が褒めてくれたんだよ。』
『豪いわ、兄さんは。』
『これでも少しは豪いところがある。』
『私なら黙っていて得をしてしまうわ。』
『僕は点数なんかそう欲しくない。 今の中は六十五点か七十点貰えば沢山だ。落第さえしなければいゝんだ。 しかし今年になってから少し取れ出した。 臨時試験は皆七十五点か八十点だ。』
『いゝ塩梅ね。 もうソロヽヽ智恵が出始めたんじゃなくて?』
『さあ。試験運がよくなったんだろう。 八十点を続けて取って感心しているんだ。』
『感心していちゃ駄目よ。 よかったらよかったで、もっと勉強するものよ。』
『大器晩成ってものは急がない。 マスコットの加減で取れた点を自分の智恵だと思うと大間違いだ。』
『変っているわね、兄さんは。』
『それは少しは違うさ。』
と静人君は何処までも大器晩成だ。
『兄さん、私、もうクラス全体を征服してしまったわ。』
『お前は目から鼻へ抜ける。 お前のは本当の智恵らしい。』
『人格の力よ。』
『人格もある。』
『皆伊達さん々々々々って言って大切(だいじ)にして下さるわ。』
『もう梅村さんと喧嘩をしないかい?』
『喧嘩どころか、大仲よしよ。』
『結構々々。』
『他の組の人まで私とお話をしたがるのよ。 この間なんか鴨武さんの姉さんがワザヽヽ私の側へ寄って来て、「この方が伊達鹿の子さんよ」ってお友達に紹介してくれましたわ。 皆四年生よ。 上級生は大抵もう私を知っていますわ。 私が通ると、「あれが伊達鹿の子さんよ」って見ているんですもの。』
と鹿の子さんは得意だった。
『僕もそうだよ。』
『どう?』
『僕が通ると、「あれが伊達静人だ」って上級生が見ている。 しかしその後が悪い。』
『いゝ筈はないわ。 何て?』
『知事の息子だけれど、成績は余り振るわないって。』
『駄目よ、それじゃ。』
『まだあるんだよ。 まだ智恵を出さないけれど、出せばお父さんより豪くなるって。』
『嘘よ。』
『ハッハヽヽヽ。』
『嘘に定まっているわ。』
『目のない奴等だから、そこまでは見てくれないんだ。』
『そう見えないんですもの。』
『しかし同級生は皆認めていてくれる。 伊達は腕力が強いから、うっかり出来ないって。』
『腕力なんか強くても仕方がないわ。』
『まあゝゝ、待てゝゝ。』
『待ってばかりいて一生智恵が出ないでしまうんじゃないの?』
『お前には困る。 お母さんの真似をして、僕に説諭をするつもりだ。』
『オホヽヽヽ。』
『そういう心掛けじゃ幾ら学問ができても、操行は乙だよ。 妹は妹らしくしなければいけない。』
『兄さんも兄さんらしくして戴きますわ。』
『よしゝゝ。』
『安請合いじゃだめよ。』
『今に見ていろ。 成績のいゝものは損をする。 成績の悪いものは得をする。』
『そんなことないわ。』
『あるよ、お前は成績がいゝから、お父さんもお母さんもいゝのが当り前だと思っている。 僕は悪いから、懸賞がついている。』
と静人君はニコヽヽ笑った。正直者だから、いゝことがあると黙っていられない。
『どんな懸賞?』
『三十番以内で及第すれば、夏休みに東京へやってやるとお父さんが仰しゃった。』
『まあ!』
『一寸こんなものだ。』
『狡いわ。三十番以内なんて、誰にでもなれるじゃありませんか?』
『ところが僕は三十五番から四十五番の間を往復している。 これが十番ぐらいにいて見ろ。お父さんは一足飛びに一番になれと仰しゃる。 とても出来ない相談だ。 しかし三十番以内なら飴だよ。』
『損だわ、私。』
『それだからそう言っている。』
『私、兄さんについて行くわ。二番ですもの、資格があるわ。』
と鹿の子さんは力強く主張した。
『つれて行ってやるよ。』
『どうぞ。』
『三十番以内なら幾ら大器晩成だって飴だ。 しかしそこをナカヽヽむづかしいように言うのが僕の豪いところだ。』
『親を瞞(だま)すのね、兄さんは。』
『瞞すってわけでもないが、そう無理に早く智恵を出すと後が続かない。 三十番以内になれば、今度は二十番以内になれと仰しゃるに定まっている。 そこで僕は「お父さん、それはナカヽヽむづかしいです」と言ったんだ。
「まだ智恵が出ないかね?」と、お父さんはじっと僕の顔を見ていた。 「はあ。まだ少し」と僕は勿体をつけてやった。』
『悪いわ。』
『考えがあるんだよ。 「しかしお父さん。折角ですから、條件をつけます」 「どういう條件だね?」 「お祖父さんお祖母さんが待っていますから、僕一人でなくて、鹿の子も一緒にやって下さい。
それならきっと三十番になって御覧に入れます」 「宜しい」とお父さんが仰しゃった。』
『まあ、嬉しい。』
『僕はこの通りどんな時でもお前のことを考えている。』
『有難うございます。』
『それだから僕を尊敬しなければいけない。』
『尊敬しますわ。』
『こういうわけで心掛けているせいか、今度は少し取れるんだ。 臨時試験が七十五と八十ばかりだから、この調子で行けば、三十番ぐらいにはなれるだろう。』
『なって下さらなければ困りますわ。』
『若しなれないと恥をかくと思って黙っていたんだけれど、大抵なれそうだ。』
『是非なって戴きますわ。』
『なってやる。』
『私、これから毎晩監督をして上げるわ。』
『頼むよ。 僕はどうも勉強するよりも遊んでいる方が楽な性分だから。』
と静人君は天真爛漫だ。
京子さんは何となく心持が悪かった。 一番親しい筈の鹿の子さんが自分に打ち明けてくれないと思ったら、憎らしくなった。放課後、
『京子さん。』
と鹿の子さんが呼びかけた時、無言のまゝつれ立った。
『京子さん。』
『はあ。』
『帰りましょう。』
『帰るわよ。』
『私、今日一寸寄り道をしたいんですけれど、附き合って下さる?』
『さあ。』
『ゴロヽヽさまへお参りをしたいの。』
『私、御免蒙りますわ。』
『お忙しいの?』
『えゝ。』
『あら、京子さん、あなた少しお顔色が悪いわよ。』
『悪いかも知れませんわ。』
『どうかなすったの?』
『気に入らないことと気に入らない人があるものですから。』
『まあ!誰?』
『あなたよ。』
と京子さんはありのまゝを言って、鹿の子さんを睨んだ。
『あらまあ!どうして?』
『あなたはこの頃は何でも梅村さんね。』
『そんなことありませんわ。』
『いゝえ。 私なんかもうどうでもいゝのよ。』
『京子さん、あなた何か誤解していらっしゃるんだわ。』
と鹿の子さんは京子さんの態度の強硬なのに驚いた。
『‥‥ ‥‥』
『誤解よ、京子さん。』
『誤解なら誤解でようございますわ。』
『よかありませんわ。』
『いゝわよ、もう。そう仰しゃって、ごまかすんですから。』
『私、ごまかしなんかしませんわ。』
『いゝわよ、もう。』
『よかありませんわ。 私、何がいけませんの?』
『いゝわよ、もう。』
と京子さんはツンヽヽして先へ歩き出した。 鹿の子さんが追い縋(すが)ったら、今度は歩調を緩め始めた。
『京子さん。』
『‥‥ ‥‥』
『仰しゃって下さいよ。 奥歯に物が挟まったようで心持が悪いじゃありませんか?』
『あなたは東京の学校へいらっしゃるんですってね?』
『そんなことありませんわ。』
『でもそういう評判よ。』
『夏休みに一寸行って来るだけですわ。 それを梅村さんにお話したのが間違ってそんな風に伝わったんでしょう。』
『何でも梅村さんね、この頃は。』
『‥‥ ‥‥』
『私、知らなかったのよ、ちっとも。』
『でも今朝は一番初めの時間が試験でしたから、教科書を読みながら来て、お話しする暇がなかったじゃありませんか?』
『‥‥ ‥‥』
『私、これからゆっくりお話し申し上げようと思っていたから、ゴロヽヽさまへお誘いしたんじゃありませんか?』
『‥‥ ‥‥』
『前から定まっていたのなら、私、疾(と)うにお話ししていますわ。 昨夜(ゆうべ)兄さんから聞いたんですもの。』
『そう?』
『憎らしいわ、あなたは。』
と今度は鹿の子さんが睨んだ。
『済みませんでした。』
『全く誤解よ。』
『えゝ。』
『行けるか行けないかもまたハッキリ定まっていないんですの。 私、あなたの智恵を借りたいのよ。』
『まあ。』
『兄さんは三十番以内で及第出来れば御褒美に東京へやって戴けますの。 私もついて行きますわ。 ところがナカヽヽむづかしいのよ。 あの通り勉強が嫌いですから。』
『でも三十番ぐらいにはなれましょう?』
『自分でもなれそうだと言っているんですけれど、万一のことがあると私まで損をしますから、苦しい時の神頼みで、私、ゴロヽヽさまへ願を掛けたいと思っていますの。』
『天神さまの方がいゝでしょう?学問なら。』
『でもゴロヽヽさまの方が近いわ。』
『まあ。無精な信心ね。』
と京子さんが笑った。もう御機嫌が直って来た。 ゴロヽヽというのは学校からの帰途(かえりみち)を少し郊外へ外れたところにある。 神社でも仏閣でもない。畑の中の大きな石だ。 願いごとが叶うとあって近郷近在から参詣者が集まる。
『天神さまでもいゝわ。』
『でもいゝなんてことじゃ駄目よ。』
『それじゃ是非ってことにして願を掛けますわ。 私、兄さんの頭はいゝと信じていますの。 いゝんですけれど、何かつかえているのよ。 天神さまにお願いして、それを取外して戴けば智恵が出てきますわ。』
『お父さんは静人さんを褒めていらっしゃいますわ。』
『何て?』
『申分ありませんって。 態度が実に立派ですって。』
『英雄豪傑のつもりでいて、ちっとも勉強しませんのよ。』
『今に豪くなるんですわ。』
『お父さんはそのつもりで厳しくは仰しゃいません。 頭の中の石の溶けるのを待っているんでしょう。』
『石が入っているんですか?』
『えゝ。』
『お医者さまに見て戴いたんですか?』
『いゝえ。 しかしきっと石よ。 それですから、私ゴロヽヽさまがいゝと思ったんですわ。』
『頭に石が入るなんてことはないでしょう。』
『ないとも限りませんわ。石頭ってものがあるでしょう。』
『まあ。オホヽヽヽ。』
『石でなくても何かつかえて邪魔をしているんですわ。 智恵は確かにあるんですけれど、出て来ないんです。 やっぱり大器晩成ね。』
『それならいゝじゃありませんか?』
『私、どうしても天神さまへ願を掛けますわ。』
『あなたの赤誠が通じましょう。』
『でも、こんなこと内証よ。』
『えゝ。』
『兄さんの成績のよくないことなんか、私、あなたですからお話しするんですわ。』
『えゝ。』
『これでも、私、いけませんの?』
『もういゝのよ。』
『分って下すって嬉しいわ。』
と鹿の子さんも満足のようだった。