平成28年 元旦


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元旦に この一とせの事なきを 祈るこころの 晴れやらぬかも
新玉の年を 迎へしよろこびに いくさのかげの しのびよりつつ
つばめ
皆様、明けましてお目出度うございます。
旧年に相変わりませず、今年もどうぞ、宜しくお願いもうしあげます。
ということで、目出たくも馬齢に一を加えたところでございますが、
皆様方にはいかがでしょう、今年一年の、良い予感を覚えていらっしゃいますか?

18世紀の前半、雍正帝が中国の正音(標準語)を北京官話とすると定めましたが、それが正音に定められたが故に磨かれて美しくなったのか、美しかったので正音に定めたのか、いづれとも分りませんが、耳にしますと、北京語は中国のその他の言葉に比較して、美しさではやはり一頭地を抜くようにも思われ、歎息を禁じ得ません、‥‥

一方、我が国でも、明治の終り頃になりますと、清朝正音に準じて、標準語制定の動きがでてまいります。 最も美しく、標準語としてふさわしいことばは、どこにあるのだろうと、皆で手分けして探したのでしょう、東京は山の手の中流家庭という、瞠目すべき、特殊なクラスにおいて使われていることばこそ、最も美しく、標準語としてふさわしい、ということになったのですが、はたして一旦制定されてみますと、標準語に択ばれたが故に美しく磨かれたのか、元とから美しかったのか、‥‥耳にすれば、やはり、うっとりするような音楽的響きを感じないではいられません。 平素野卑な方言に染まった身としては、まことに羨ましく感じていたものです、‥‥。 しかし残念なことに最近は、とんと耳にする機会がなくなりましたのは、どうした訳でしょうか、非常に寂しいかぎりです、‥‥。 世の中が濫れるということは、こういうことかなとも感じられてなりません。

今回、ご紹介する小説の作者佐々木邦は、この山の手中流こそ、国民の目指すべき軌範であろうと考え、それを子供向けの小説にいたしました。 貧困は無論子供の為に宜くない、しかし手をふところにして遊んで暮らせるような家庭も、また宜しくない、貧乏ではないが、主人が額に汗して稼いだお金で、一家の生計を立てる、このような堅実な家庭こそ、国民は目指すべきだと考えたのでしょう。

それでは、どうぞお楽しみください、‥‥

著者: 佐々木邦   挿絵: 河目悌二
県庁坂
小使長(こづかいちょう)の阿部さんはもう六十を越した老人だ。 三十年から勤めている。 校長さん初め先生方は幾度も更(かわ)ったが、小使長だけは開校以来移動がない。 二千人近くの卒業生が共通に覚えているのは阿部さんばかりだ。 忠実律儀の親切ものだから、先生方にも生徒達にも評判がいゝ。 しかし時折調子に乗って、法螺を吹く。 それが至って無邪気だから、一つの愛敬になっている。 生徒は掃除番の時、阿部さんのところへお湯を貰いに来る。
『お嬢さん。』
 と阿部さんはニコヽヽして呼びかける。
『なあに?』
『まあ、お話しなさいよ。 お湯を負けて上げますから。』
『そんなもの、負けて戴いても仕方がないわ、重たいばかりで。』
『ハッハヽヽヽ。』
『早く頂戴。』
『まあゝゝ。』
『厭(いや)よ。 忙しいわ。』
『お嬢さん。 人間、忙しいほど有難いことはないんですよ。』
『そら、始まった。 アベコベ爺さんのお説法が。』
 と生徒は笑い出す。 阿部さんは幸平という名だ。 生徒は阿部幸平をもじって、アベコベ爺さんと綽名(あだな)をつけている。
阿部さんは生徒をお嬢さんと呼ぶ。陰でもお嬢さんだ。 遠足に出た後、
『家(うち)のお嬢さん達は今日は寒かろうな。』
 なぞと言って案じている。 こういう善意が通じているから、生徒も阿部さんの無駄話に時々耳を貸してやる。
『お嬢さん、この学校の職員で一番の古狸は誰だか御存じですか?』
『存じませんわ。』
『御存じの筈ですよ。 誰でしょう?』
『教頭さん?』
『教頭さんは七年か八年です。 俺(わし)から見ると子供のようなものです。』
『それじゃ誰?』
『俺ですよ。』
『あら、あなた職員?。』


『職員ですとも。 開校以来三十一年一日の如くに職務をやっています。 去年三十年記念の式で県庁から御褒美を戴いたくらいですから、一番の古狸です。』
 と阿部さんは古いのが自慢の一つだ。
『似ているわよ、少し。』
『何に似ていますか?』
『タの字にヌの字にキの字。』
『いけまんせんな。 お嬢さんがそういう憎まれ口をきくものじゃありません。』
『オホヽヽヽ。』
『ところでお嬢さん。』
『まだあるの?』
『幾らでもあります。 この学校に長のつくものが何人いるか御存じですか?』
『何のつくもの?』
『長です。 師団長とか連隊長とかいう長の字です。』
『それは校長さんよ。』
『まだあるでしょう。』
『級長もつくわ。 副級長もつくわ。 大勢あるわ。』
『職員でなければ駄目です。』


『職員は校長さんだけでしょう。』
『いや、小使長。』
 と阿部さんは鼻に指を当てる。 小使長というのも自慢だ。
『オホヽヽヽ。』
『おかしいことはないですよ。』
『でも。オホヽヽヽ。』
『お嬢さんは小使という字を御存じですか?』
『まるで試験ね。』
『もうすぐ試験ですから、覚えて置く方がいゝですよ。 小使とは小なる使と書きます。』
『知っているわ、それぐらい。』
『一を知って二を知らなければ駄目ですよ。』
『二は何?』
『小なる使と書いて小使(こづかい)。』
『一よ、それは。』
『大なる使と書いて何と読みますか?』
『大なる使? 大使よ。』
『大使って何ですか?』
『外交官よ。 全権大使。』
『物は同じでしょう? 大きいのが大使、小さいのが小使(しょうし)。』
『小使(しょうし)なんて読みませんわ。』
『それで少し困っているんです。』
 と阿部さん、これは冗談だ。 小使でも大使でも各自その職分を果たせば立派なものだと悟りきっている。


『面白いのね、お爺さんのお話は。』
『まだありますよ。』
『なあに?』
『学校中で一番豪い人は誰だか御存じですか?』
『それは校長さんよ。』
『校長さんは無論豪いけれど、学校中を支配していません。』
『あら、支配しているわ。』
『校長さんは訓諭をなさるけれど、声を出さずに学校中を支配する人が別に一人います。』
『そんな人いないわ。』
『校長さんでも、先生方でもお嬢さん達でも、その人の指図に従わなければ、規律が立ちません。』
『誰? 一体。』
『俺です。』
 と阿部さんは又鼻に指を当てて、
『俺が鐘を鳴らして、学校中を支配しています。 始まるも鐘、終わるも鐘。どうですか? ハッハヽハヽ。』
 とこれが得意の絶頂らしい。
小使さんの鳴らす鐘は実際学校全体を支配している。 阿部さんは放課の鐘で今日も一日の支配を終わったが、まだ仕事が沢山残っている。 その一つは掃除番の後見だ。
『お爺さん、お湯を頂戴。』
 と言って、生徒達が押し寄せる。
『お嬢さん。』
 と阿部さんは愛想(あいそ)よく呼びかけるけれど、皆(みんな)早く帰りたい一心だから、相手にならない。 バケツを提げて駈けて行ってしまう。
一年甲組の伊達鹿の子さんと中島京子さんも今日掃除番だった。
『厭ね、本当に。』
『簡単にやりましょうよ。』
『寒い時は先生も大目に見て下さるわ。』
 と二人は教室の床を掃き始めた。
『鹿の子さん、あなたお湯を貰って来て頂戴よ。 私(わたし)、その間(ま)に綺麗にして置きますから。』
 と京子さんが言った。
『それじゃどうぞね。』
 と鹿の子さんは廊下へ出て、まっしぐらに小使室へ向った。
『お爺さん、お湯を頂戴。』
『はいゝゝ。』
 と阿部さんは応じたが、
『おや。バケツがない。』
 と周囲(あたり)を見廻した。


『どうしたんでしょう?』
『教室の数だけ揃えてあるのに、いけまんせんな。 これは何処かで二つ使っているんです。 少しお待ちなさい。』
『困るわね。』
『お嬢さん。』
『なあに?』
『県知事さんのお嬢さんも学校へお出でになると掃除番。 これがいゝ教育になるんでございますよ。』
『私、大嫌い、掃除番なんか。』
『お家(うち)では縦のものを横にもなさらないんでしょう?』
『厭よ、又、お爺さんは。』
 と鹿の子さんは顔をしかめた。 鹿の子さんは知事さんの娘だ。
『お嬢さん、俺はこの間(あいだ)県庁へお使いに行って、お父さんのお目に留(と)まりましたよ。』
『そう?』
『何しろ三十一年勤めているんですから、県庁へ行くと顔が売れています。 知事さんに廊下でお目にかかりましたから、お辞儀をしました。 「爺さん、よく精が出るね」と褒めて下さいましたよ。』
『そんなことよりも、お爺さん、早く何とかして頂戴よ。』
『困ったものだ。 やっぱり狡いお嬢さんがいるんですね。 二つ持って行って、早くしまおうって算段だ。』
『見て来て頂戴よ。』


『どれどれ。』
 と阿部さんが出かけたところへ京子さんが入って来て、
『鹿の子さん、お湯はまだ?』
 と訊(き)いた。
『バケツがないのよ。』
『あら!』
『狡い人があるんですわ。』
『これはゝゝゝ、県庁のお嬢さん方のおそろいですな。』
 と阿部さんが言った。
『厭よ。』
 と京子さんも相手になると手間の取れることを知っている。 京子さんは事務官の娘だ。 掃除番は帰りの同方面のものが組になる。 二人とも県庁官舎から通(かよ)っている。
『バケツを二つ持って行ったお嬢さんは何処だね?』
 と阿部さんは廊下を呼びながら歩いて行った。
『つまらないわね。』
 と鹿の子さんが唇を噛んだ。
『私、損をしたわ。』
『何故(なぜ)?』
『もうすっかり掃いてしまったんですもの。』
『稀(たま)にはいゝわ。』
『まあ!』
『オホヽヽヽ。』
『バケツを二つ持って行ったお嬢さんは‥‥』
 と阿部さんの声。
『バケツの呼売りね。 オホヽヽヽ。』
 と京子さんも笑った。
間もなく二人はバケツにありついて、教室へ戻った。机へ雑巾をかけながら、鹿の子さんは、
『京子さん、一寸(ちょっと)。』
 と呼んだ。
『なあに?』
 と京子さんは反対の側(がわ)を受持っていた。
『この通りよ。』
 と鹿の子さんは一つの机をコツコツ叩(たた)いて見せた。


『オホヽヽヽ。』
『本当に憎らしいわ。』
『でも机なんか叩かれたって平気よ。』
『この人、本当に生意気ね。 成績がいゝと思って、威張りくさっているわ。』
『実力はあなたの方が上よ。』
『私、負けないつもりよ。』
『あなたが一番で梅村さんが二番なら本当よ。』
『そんなこと試験は時の運ですから構わないんですけれど、私、陰(かげ)へ廻って悪口を言う人、大嫌い。』
『私もよ。 私、まだ知っていることがあるのよ。』
『なあに?』
『駄目よ、鹿の子さん。』
 と京子さんは鼻を鳴らした。 自分は一生懸命に拭いているけれど、鹿の子さんは話に身が入って、手を休めている。
『それじゃ早く片付けてしまうわ。』
『競争よ。』
『えゝ。 後から教えて下さる?』
『何を?』
『今のこと。』
『さあ。』
『あなたも少し梅村さん組ね。』
『そんなことないわ。』
『いゝえ、あるわ。』
『ないわ。』
『あるわよ。 少し。』
 と鹿の子さんは又手がお留守になる。
『駄目よ。』
『それじゃ教えて下さる?』
『えゝ。』
『そうきまれば本気よ。』
『現金ね。』
 と京子さんは持て余し気味だった。
二人は掃除番を終わって、先生のところへ報告に行った。 先生は教室へ見に来て下さる。 狡いことをして置くと、やり直しを命じられる虞(おそれ)がある。 しかし二人はかなり念を入れたから、
『結構です。 御苦労さま。』
 と犒(ねぎら)って貰えた。 女の先生だから優しい。
『さあ。 京子さん、教えて頂戴。』
 と鹿の子さんは二人きりになるとすぐに要求した。
『あなた憤(おこ)らない?』
『腹が立てば憤りますよ、幾らお人よしの私だって。』
『それじゃ厭よ、私。』
『やっぱり梅村組ね。 いゝわ、もう。』
『鹿の子さん。』
『知らない。』
『余(あんま)りよ、鹿の子さん。』
『それじゃ教えて下さいよ。 私、憤りませんわ。 約束して置きますわ。』
『本当ね?』
 と京子さんは念を押して、
『一昨日(おととい)よ。 雨が降っていたでしょう?』
『えゝ。』
『こゝとこゝがお話をしていましたの。 私、立聞きしたんじゃありませんよ。 雨がやむかと思って、この窓のところで空を見ていたら聞えましたのよ。』
『前置が長いのね。』
『梅村さんのお声でしたわ。 馬って字をつけると丁度いゝわねって。』
『何のことでしょう?』
『私も初めは分りませんでしたの。 しかし空を眺めていたら、今度は横田さんのお声よ。 「そうね。 半分出来上がっているんですから。 オホヽヽヽ」って。』
『分らないわ。』
『鹿の子に馬って字をつけるのよ。』
『あら!』
『随分でしょう?』
『ひどいわ、本当に。』
 と鹿の子さんは食いつきそうな顔になった。
『お憤りにならない約束よ。』
『えゝ。』
『帰りましょう、もう。』
『えゝ。』
『鹿の子さん。』
 と京子さんが促がした。
『帰りましょう。』
 と鹿の子さんは鞄を肩にかけて、梅村さんの机をコツヽヽと叩いた。


『お机に罪はありませんわ。』
『でも憎らしいんですもの。』
『早くいらっしゃいよ。』
 と京子さんは鹿の子さんの手を取った。 鹿の子さんは教室の戸口まで来たが、又引き返して行って、今度は平手でピシャリと机を叩いた。 京子さんは鹿の子さんの気性を知っているから、もう何も言わずに先に立った。 鹿の子さんも門を出るまで無言だった。
『京子さん。』
『なあに?』
『鹿の子なんて厭な名前ね。 私、ツクヅクそう思いますわ。』
『そんなことありませんわ。 可愛いお名前よ。』
『いゝえ。 私、お母さまにも申し上げましたの、家の人は皆変てこな名前がついていますって。 私が鹿の子で、姉さんは鳥子よ。 大きい兄さんは熊一ですわ。 まるで動物園じゃありませんか?』
『オホヽヽヽ。』
『同じ生まれたところの名前をつけるにしても、あなたのお家の方がよっぽどお上手ね。 京子さんに和歌雄さんに三重子さんなんて皆詩的ですわ。』


『私、京子は少し気に入りませんの。』
『贅沢ってものよ、それは。 私なんかそのために悪口を言われたんですもの。』
『鹿の子って、私、本当に可愛いと思いますわ。 けれども奈良がどうして鹿の子?』
『鹿が沢山いるからですわ。 気が利いたつもりでしょう。 姉さんの鳥子は鳥取よ。 大きい兄さんは熊本だから熊一。 うまくつけて戴いたのは静人(しずんど)兄さんだけですわ。』
 と鹿の子さんはナカヽヽ気むづかしい。 地方官は日本中を転任して歩くから、生れた子供の命名に任地を因む風がある。 鹿の子さんも京子さんもその実例だった。
『でも仕方がありませんわ、今更。』
『奈良の鹿の子が今頃祟(たた)るんですわ。 上へ馬をつければ、本当に馬鹿の子ね。』
『オホヽヽヽ。』
『覚えていらっしゃいよ。』
『でも。 オホヽヽヽ。』
『梅村組よ、あなたはどうせ。』
『そんなに仰(おっ)しゃるなら、私、本当に梅村組になって上げますわ。』
 と京子さんも度々なのでツンとした。
双方そのまゝ黙り込んで少時(しばらく)歩き続けたが、
『考えてみると、官吏の子って損なものね。』
 と鹿の子さんが又話しかけた。
『‥‥ ‥‥』
『ねえ、京子さん。』
『えゝ。』
『憤っていらっしゃる?』
『少し。』
『まあ!』
『腹が立てば少しぐらい憤りますわ、幾らお人よしの私だって。』
『人真似をなさるのね。』
『オホヽヽヽ。』
 と京子さんはもう機嫌を直した。
『損なものね、官吏の子って。』
『何故?』
『私、どうしたって一番になれませんわ。 小学校の時も何処でも二番でしたから、分っていますわ。 官吏の子は本当に損よ。』
『官吏の子は一番になれませんの?』
『えゝ。 学校でしてくれないのよ、私、お父さんが知事でしょう? 私を一番にすれば、知事の子だから一番にしたと思われますから、先生が御遠慮なさるんですわ。』
『まあ!』
『その証拠に今まで大抵二番よ。 実力より一番下にいるんですわ。 あなただってそうよ。 実力は二番ですけど、一番下がって三番になっているんですわ。』
『不公平ね。』


『知事の子が一番、学務部長の子が二番じゃ態(わざ)とそうしたように思われますから、本当にそうでも一番づつ下げて置くんですわ。 しかし先生は分っていらっしゃるのよ。 官吏の子だから気の毒だと思っていて下さるんですわ。』
 と鹿の子さんは恐ろしく善意に解釈している。
『そう言えば、私、小学校の時大抵二番か三番でしたわ、徳島でも、福岡でも。』
『今度は私がいるから三番にきまってしまったんですわ。 お気の毒さま。』
『仕方のないものね。』
 と京子さんも都合のいゝ話だから異存がなかった。
『私、席順で梅村さんに勝てないから口惜しいわ。』
『実力で勝っているんだから、いゝじゃありませんか?』
『兎に角、私、屹度(きっと)恨みを晴らしますよ。』
『あら、今のことを仰しゃるの?』
『それは時と場合よ。』
『私、困りますわ。』
『大丈夫よ。』
『やっぱり仲をよくする方がいゝわ。 梅村さんだって真(ほん)の冗談に仰しゃったのかも知れませんから。』
『京子さん、あなたは何方組(どっちぐみ)?』


『何方組ってこともないわ。』
『二心ね、それじゃ。』
『私、やっぱりあなた組よ、何方かといえば。』
『何方かといえばなんて、二心の証拠じゃありませんか?』
『二心なんかないわ。 こうして毎日二人でこの坂を下りたり上がったりしているんですもの。』
 と京子さんは弁解に努めた。 その坂は県庁坂といって、登りきると県庁がある。 官舎は県庁の後に十軒ばかり向き合っている。 知事官舎が際立って大きいだけで、あとは同じような搆えだ。 何処の庭にも夏蜜柑が少し色づいている。 中国の冬の初めだった。

こだわる癖
鹿の子さんはナカヽヽ我儘(わがまま)だ。 一緒に通学する京子さんも時折持て余す。 思い込むと、そればかりにこだわって、機嫌を悪くする癖がある。 今日もそれが起りかけていた。 県庁坂を上がり切ってから無言のまゝ歩いて、京子さんの存在を認めないようだった。
『さよなら。』
 と京子さんが言った。 京子さんのところは取っつきの官舎だ。
『さよなら。 後でいらっしゃらない?』
『さあ。』
『いらっしゃいよ。』
『私、今日は都合が悪いわ。』
『二心ね、あなたはやっぱり。』
『それだから厭よ。』
『どれだから?』
『いゝわよ、もう。』
『私、よくないわ。 ちっともよくないわ。』
 と鹿の子さんは身体(からだ)を揺す振った。


『さよなら。』
『それじゃ私、後から上がってよ。』
『えゝ。』
『いらっしゃいよ。 私、昨日も一昨日も上がったんですから。』
『それじゃ條件をつけますわ。』
『どういう條件?』
『梅村さんのお話ならもう厭よ。』
『でもあなたがお始めになったんですわ。』
『あら、嘘よ。』
『兎に角いらっしゃいよ。 いらっしゃらなければ二心よ。』
『仕方のない人ね。』
『さよなら。 お待ちしていますわ。』
『それじゃ上がりますわ。 さよなら。』
 と京子さんは門へ入った。 根気負けがしたのだった。 尤(もっと)も仲よしの間柄だから、厭ということもない。
鹿の子さんのところはそのお隣りだ。 折から兄さんの静人君が中学校から帰って来た。 足が速いから、鹿の子さんを追い越して門へ入った。 その際一寸鹿の子さんの肩に触ったのが悪かった。
『兄さん。』
『何だい?』
『人を突き飛ばして、ひどいわ。』
『つい触ったんだよ。』
『兄さんは礼儀作法を知りませんのね。』
『又始まったぞ。』
『後から追い越す時は何とか言葉をかけるものよ。』
『成程。』
『心なき自動車でもボーッと鳴らしますわ。 まして兄さんは万物の霊長でしょう?』
『それじゃ失敬。』
『堪忍して上げるわ。』
『ハッハヽヽヽ。』
 と静人君は物にこだわらない。 妹に叱られても平気だった。
『唯今(ただいま)。』
 と鹿の子さんが先に立って家へ入った。
『‥‥ ‥‥』
『唯今。』
『もういゝじゃないか?』
 と静人君は靴を脱ぎ始めた。
『癖になるわ。 唯今、唯今、唯今!』
 と鹿の子さんが呼び続けた。


『お帰りなさいませ。』
 と女中のお定(さだ)が出て来た。
『聞えなかったの?』
『はあ。 裏で犬小屋のお掃除をしていたものですから。』
『お文(ふみ)も?』
『やはり裏でございます。』
『お母さんは?』
『お出かけになりました。』
『何処?』
『婦人会の相談会でございます。』
『会ばかりね。』
 と鹿の子さんは御機嫌が悪いと玄関へ上がるのにこれぐらい手数がかゝる。
おやつの用意がしてあった。 いつもはお母さんが待っていてくれるのだけれど、今日はお定(さだ)が代って控えている。
『お嬢さま。』
 とお定が手をついた。
『なあに?』
『私、申訳ないことを致しました。』
『まあ!なあに?』
『胡錦鳥(こきんちょう)を逃がしてしまいました。』
『あら!』
『何とも申訳がございません。』
『何方(どっち)?赤の方?』
『両方でございます。』
『馬鹿ね、本当に。』
 と鹿の子さんは睨んだ。
『何だ?洋菓子か? これは有難い。』
 と静人君が入って来て、すぐにかぶりついた。
『兄さん。』
『‥‥ ‥‥』
『兄さんってば。』
『何だい?』
『兄さんは何か食べている時は耳が聞えませんのね?』
『そんなことはないよ。 いくら僕が食辛抱(くいしんぼう)だって、耳で食やしない。』
『お定が胡錦鳥を逃がしてしまったのよ。』
『ふうむ。』
『張合(はりあい)がないのね。』
『まあ、待っておくれ。』
『男って食辛抱なものね。』
 と鹿の子さんは諦めて、
『どうしたの?一体。』
 と又お定に向った。


『今朝はお嬢さまが餌をおやりにならなかったものですから‥‥』
『私、後れるといけないと思って、つい手が廻らなかったんですわ。』
『禽舍の方を済ませて、胡錦鳥の籠の口を開けました時、奥さまがお呼びになったものですから、つい急いで‥‥』
『閉めなかったんでしょう?』
『はあ。 閉めたつもりでしたが、戻って見ますともう‥‥』
『胡錦鳥は東京から取寄せなければ買えないのよ。』
『はあ。』
『私、一番大切(だいじ)にしていたから、禽舍にも入れないで置いたんじゃありませんか?』
『本当に申訳ございません。』
『お前はこれで前科二犯よ。 いつか禽舍の金糸雀(カナリヤ)を逃がしたんですから。』
『三犯でございます。 上がったばかりの頃、セキセイを逃がしました。』
 とお定は小鳥を逃がす名人らしい。
『まあ!あれもお前だったのね。』
『はあ。』
『でも正直ものね、お前は。』
『恐れ入ります。』
『もういゝわ。 どうせこれから四犯五犯と行くんだろうから。』
『いゝえ。 これからは重々気をつけますから、どうぞ御勘弁を願います。』
『堪忍して上げるわ。 憤っても今更仕方がないから。』
 と鹿の子さんも分からず屋ではない。
『大出来、大出来! 鹿の子、それに限るぞ。 人間は諦めが大切だ。』
 と静人君はお茶を飲みながら褒めた。
『でも惜しいわ。 赤胡錦は珍しいんですもの。』
『東京のお祖父さんお祖母さんに言ってやれ。 すぐ買ってくれる。』
『私もそのつもりよ。』
『しかしお前は鳥を飼い過ぎる。 数が多いと、どうしたって逃がす。 鳥は逃げることばかり考えているんだから。』
『それはそうね。』
『お前だって逃がすことがあるんだから、諦めるさ。』
『あら!』
 と鹿の子さんは気がついた。 自分の前のお菓子が一つなくなっていた。


『ハッハヽヽヽ。』
『ひどいわ、兄さん。』
『人間は諦めが大切だ。』
『返して頂戴よ、兄さん。』
『ないものは仕方がない。』
『兄さん!』
『食物(たべもの)のことで兄弟喧嘩なんかするものじゃない。 見っともないぞ。』
 とたしなめて、静人君は逃げ出そうとした。
『お嬢さま。』
 とお定は戸棚から一つ出して来て、鹿の子さんのお皿に置いた。
『僕にも一つ。』
『あなたはもう。』
『不公平じゃないか?鹿の子にばかりやって。』
 と理屈を言って、静人君は結局もう一つにありついた。 男だから脅(おど)しが利(き)く。 洋菓子を四つ食べたことになる。 中学生は食いたい一心だ。
『お嬢さま、私、もう彼方(あちら)へ下がります。』
 とお定が立って行った後、
『兄さん。』
 と鹿の子さんが呼びかけた。
『何だい?』
『私、口惜しいことがありますの。』
『又始まった。』
『いゝわ、もう。 妹のためを思って下さらないなら。』
『思ってやるよ。 今のお礼だ。 何だい?一体。』


『私、学校で侮辱されましたの。』
『どうせそんなことだろう。』
『鹿の子の上に馬って字をつければ何になって?』
『え?』
『鹿の子の上に馬って字をつけるのよ。』
『馬鹿の子さ。 成程。』
 と静人君は感心して、鹿の子さんの顔をじっと見ていた。
『兄さん、私、そんな顔していて?』
『どうかと思って見たけれど、大丈夫だ。』
『けれども私、そう言われたのよ。 名が鹿の子だから半分出来上がっているって。 馬という字をつけると丁度いゝんですって。』
『誰がそんなことを言ったんだい?』
『梅村さんって、それはゝゝゝ意地の悪い人よ。 馬鹿よ、自分こそ。』
『馬鹿に搆うものはなお馬鹿だ。 そんなことは気にしない方がいゝだろう。』
『でも気になって仕方がないわ。 私、口惜しくて、口惜しくて、口惜しくて。』
 と鹿の子さんは身体(からだ)を揺振(ゆすぶ)った。
『それじゃどうすればいゝんだい?』
『仇討(かたきう)ちをしてやりたいの。』
『撲ってやろうか?』
『中学生とは違ってよ。 口で言ったことですもの、口で仕返しをしなければ負けになるわ。』
『口ならお前は達者じゃないか?』
『智恵で仇(かたき)を討つのよ。』
『どういう智恵だい?』
『それを兄さんに訊(き)いているんですわ。』
『智恵は持ち合わせがないよ、僕は。』
 と静人君は諦めている。
『私の名で私を馬鹿にしたから、私も梅村さんの名で馬鹿にして上げたいと思って考えていますの。』
『何て名だい?』
『ジュン子、梅村ジュン子。』
『どういう字だ?』
『純粋の純の字よ。』
『純子か?いゝ名前だ。』
『褒めていちゃ駄目よ。』
『よし。 智恵が出た。』
『なあに?』
『不の字をつければいゝ。 純子が不純子になる。』
『不純子ね。』
『純ならざる子だ。 不良って意味になる。』
『不純子。 梅村不純子。』
 と鹿の子さんは言って見て、
『余りピンと来ないわ。 先方(むこう)の方が勝っているわ。』
 と考え込んだ。
『ノウ子だといゝね。』
『どういう字?』
『低能の能さ。 低をつければ低能になる。』
『それはそうですけれど。』
『ホウ子でもいゝ。』
『ホウ子?』
『阿呆の呆さ。 阿の字をつければ阿呆になる。』
『ありもしない名前を考えても駄目よ。 純子で考えなければ。』
『どうも考えつかない。』
『そこを考えて頂戴よ。 中学校の三年にもなって悪口一つ言えないようじゃ迚(とて)も駄目よ。』
『もう堪忍してくれ。』
『厭(いや)。』
『それじゃ明日(あした)の朝までに考えて置く。』
『屹度(きっと)よ。』
『男子の一言(ごん)。』
『私も考えて置くわ。』
『これから妹尾(せのお)君のところへ遊びに行って来る。 御飯までには帰って来る。』
 と静人君は逃げ出した。
思い込むと一筋(ひとすじ)の鹿の子さんは、
『不純子でもいゝわ。 不良の意味なら利(き)くわ。』
 と矢張(やは)り梅村さんのことを考えていた。
『梅村さん。』
『なあに?』
『あなたは不の字をつけるといゝわね。』
『何のこと?』
『純子さんじゃお名前が足りませんわ。』
『不の字?あら!ひどいわ、伊達さん。』
『オホヽヽヽ。』
 と想像的対話をやって見て、
『オホヽヽヽ。』
 と本当に笑った。


そこへ、
『鹿の子さん。』
 と京子さんが枝折戸(しおりど)から庭へ入って来た。
『どうぞ。』
『晩(おそ)かったでしょう?』
『えゝ。 待っていたのよ。』
 と鹿の子さんは大喜びをして、自分の勉強部屋へ案内した。
『その代りいゝものを持って来て上げたわ。』
『なあに?』
『これよ。』
 と京子さんは懐(ふところ)から映画女優の写真を出した。
『まあ!』
『今朝着きましたの。 サインがしてあるでしょう?』
『えゝ。 でも字は巧(うま)くないようね。』
『拙(まづ)いわ。 拙いから、ナカヽヽサインをしないんですって。 特別よ、これは。 私だからよ。』
『有難うございました。 綺麗ね。』
 と鹿の子さんは写真を見つめている。
『一流スターですもの。』
『あなたは幾度も会ったことがあるの?』
『ありますって。 福岡にいた頃つい御近所でしたもの。 妹さんと私と同級よ。 私、妹さんのところへ始終遊びに上がったんですから。』
『女優を知っているのはあなただけね。』
『鼻が高いわ。 オホヽヽヽ。』
『本当にね。 言って上げればすぐにこんな写真が来るんですもの。』
『妹さんからのお手紙に姉さんからあなたへ宜しくって書いてありましたわ。 私をチャンと覚えているのよ。 御覧に入れましょうか!』。
 と京子さんは手紙を出して見せた。 京子さんの友達の姉さんが映画の女優になって売り出している。 その写真が着いたから、一枚お福分けしたのだった。
『あら!写真十枚って書いてあるわね。 宜しく御宣伝願い上げますって。』
『えゝ。』
『持っていらっしゃる?』
『さあ。 オホヽヽヽ。』
『厭な人ね、勿体をつけて。 お見せなさいよ。』
 と鹿の子さんは要求した。
『あなたに差上げたのが一番いゝのよ。』
 と京子さんは又懐から出して見せた。
『そうね。』
『他(ほか)にお気に召したのがあったら取換えて差上げましょう。』
『これで結構よ。』
『私もそれが一番いゝと思いましたの。』
『あなたはそんなに沢山どうなさるの?』
『皆(みんな)にお約束がありますわ。』
『あら、梅村さんもね。』
『えゝ。 仕方がないわ。』
『梅村さんのこと、私、仇討ちを考えているところよ。』
 と鹿の子さんは又梅村さんを問題にした。
『條件がついていますよ。』
『なあに?』
『梅村さんのお話なら、もう御免蒙ります。』
『私、明日(あした)言って上げるわ。』
『何て?』
『それを考えているのよ。』
『私から聞いたって仰しゃっちゃ困りますよ。』
『大丈夫よ。 御迷惑はかけません。』
『鹿の子さん、私、もう失礼致しますわ。』
『いゝじゃありませんか?まだ。』
『でも。』
『他のお話ならいゝでしょう?』
『はあ。』
『頑固ね。』
『私、二心なんかないんですけれど、同級生とは誰とでも同じように仲よくしたいと思いますわ。』
『私だってそうですけれど、梅村さんだけは例外よ。 お父さんが銀行の頭取だって、威張らなくてもいゝでしょう?』
『お父さんが知事さんだって、威張らなくてもいゝでしょう。』
『あら!』
『そう言っているのよ、先方(むこう)でも。』
『私、いつ威張って?』
『そう誤解しているのよ。』
『無論そうでしょう。』
『両方でね。』
『あら!』
『本当よ。 私、仲をよくするお話なら結構ですけれど、仇討ちの御相談ならもう御免蒙りますよ。』
 と京子さんはいつになく強硬だった。
『いゝわ、もう。』
『分って下すって?』
『えゝ。』
『仲をよくなさる?』
『厭よ。』
『それじゃ私は帰りますよ。』
『條件が違いますわ。 梅村さんのお話をしちゃいけないんでしょう?』
『えゝ。』
『仲をよくするお話でも梅村さんのお話じゃありませんか?』
『うまくやり込められたわ。』
『オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんは得意だった。
夕刻、静人君が帰って来て、
『鹿の子、いゝことがある。』
 とニコヽヽしながら言った。
『なあに?』
『僕は智恵がないから、妹尾君に相談して来た。』
『何かいゝ智恵がありましたの?』
『妹尾君は流石(さすが)に悪口の名人だよ。 そんなこと朝飯前だと言って、すぐに考えてくれた。 純子の純は糸偏だけれど、金偏にすると鈍って字になる。』
『ドン?』
『鈍さ。 愚鈍の鈍さ。』
『まあ!』
『知っているだろう?』
『はあ。 鈍物の鈍ね。』
『うむ。 純子が鈍子になる。 これから先は僕が教えてやる。 その純子さんは太っているか?』
『さあ。 太っても痩せてもいませんわ。』
『困ったな。』
『太っていればいゝの?』
『うむ。 太っている方で妹尾君が考えてくれた。』
『私ぐらいですから、何方かといえば太っている方よ。』
『それなら都合がいゝ。 「純子さん、あなたは太っていて目方が重いから糸偏より金偏ね」と言ってやれ。』
『オホヽヽヽ。』
『ピリッと利くぜ。』
『オホヽヽヽ。』
『若(も)しこれが通じないようなら本当の鈍子だから、もう相手にするな。』
『兄さん、有難うございました。』
『一寸(ちょっと)この通りだ。』
『でも人に考えを貰ったんじゃ自慢にならないわ。』
 と鹿の子さんは兄さんを見括(みくび)っている。
逃げた小鳥
右を向けば、左が見えない。 左を向けば、右が見えない。 前は見えるけれども、後には目がない。 見るということだけでも、これだけ制限を受けている。 同級生との交際もそうだ。 皆(みんな)を悉く理解することは出来ない。
『京子さん。 私、親友はあなただけよ。』
 と鹿の子さんが言う、
『私もよ。 あなただけよ。』
 と京子さんもお友達の多い方ではない。 二人は家が隣り合っていて始終一緒だから仲がいゝ。 この通り親交を誓い合う。
朝、県庁坂を下りて学校へ行く途中、偶然お友達の話が出て、
『あなたは福田さんと仲よしね。』
 と鹿の子さんが稍(やや)不服そうに言った。
『えゝ。 お机が並んでいるからよ。』
 と京子さんは否定しなかった。
『あの人、何だか意地が悪そうね。』
『そんなことありませんわ。』
『でも変にムッツリしているじゃありませんか?』
『あれで随分お話をなさるのよ。』
『まあ、そう?』
『性が分れば交際をなさるんですって。 性の分らない人には物を言うのも厭なんですって。』
『我儘(わがまま)ね。』
『それもありましょう。 私も初めの中(うち)は変な人だと思っていましたわ。 お机が並んでいても、ちっともお話をしないんですもの。』
『それがどうして仲よしになりましたの?』
『私、嫌われているんだと思って、やっぱり黙っていましたの。 すると或日(あるひ)、お習字の時間中に福田さんが私の顔をジロヽヽ見ているのに気がつきました。 私も先方(むこう)が見るなら見てやらなければ負けになると思って見て上げましたの。 一時間睨み合いよ。』
『まあ。』
『運動場へ出たら、福田さんが私のところへ寄って来て、「あなたのお鼻に墨がついていますよ」と教えて下さいました。 私、ハンカチで拭いて見たら、本当についていましたから、「有難うございました」ってお礼を言いましたわ。 それからよ、仲よしになったのは。』
『一寸のことが切っかけになるものね。』
『えゝ。 私、後から訊いて見ましたの。「何故お話をなさらなかったの?」って。 「意地悪さんだと思ったからよ」 「あら、私こそそう思っていたんですわ」 「それじゃお互いですから仲よしになりましょう」 「えゝ」って。オホヽヽヽ。』
『私もそんなことがありますよ。』
 と鹿の子さんが思い出した。
『誰?』
『鴨武(かもたけ)さんよ。 入学試験の時、鴨武さんと並びましたの。 答案を書きながら、私が見もしないのに、こうやって匿(かく)すんでしょう。 厭な人だと思いましたわ。 こんな人、落第すればいゝと思っていたら、チャンと入っているんですもの。』
『間もなくお話をするようになったんでしょう?』
『いゝえ。 ナカヽヽよ。 両方で覚えていながら、顔を合わせると、目を外(そら)してしまいますの。 変でしたわ。 ところが日曜に仲之町(なかのちょう)で行き会いました。 私は一人でしたが、鴨武さんはお母さんと御一緒よ。 学校で知らん顔している二人がどういう拍子かニコヽヽして、ピョコッとお辞儀をしてしまいましたわ。』


『そういうことがあるものね、別のところで会いますと。』
『本当ね。 考える間がないんですもの。 行き過ぎてから振り返って見ましたら、鴨武さんもお母さんと御一緒に振り返って見ていましたわ。』
『あの子が意地悪の伊達さんですってお母さんに教えていたんでしょう。』
『まさか。』
『オホヽヽヽ。』
『翌朝(よくあさ)学校で鴨武さんが私の顔を見てニコヽヽしました。 私もニコヽヽして、お辞儀をしようとしますと、先方(むこう)から寄って来て、「昨日は失礼致しました」と仰しゃるんでしょう。 「本当に失礼申し上げました」って、私も大人のように言ってしまって、それから、お話をするようになりましたの。』
『私も鴨武さんは好きよ。』
『ネチヽヽした人だと思っていましたが、大違いでしたわ。』
『話し合って見ると、大抵いゝ人よ。』
『鴨武さんは「あなた、入学試験の時のこと覚えていて?」って訊きましたの。 「えゝ」 「入学試験なんて本当にいけないものね」って仰しゃるから、「何故?」って訊きますと、「あなたが出来そうな顔をしていらしったから、私あなたを強敵と思ったんですわ」って笑っていらっしゃいますの。 「まあ!」 「あなたが落第すればいゝと思ったのよ」 「あらまあ!ひどいわ」 「一人でも出来ない人がいれば、それだけ得でしょう。 出来る人がいれば、それだけ損でしょう」 「実は私もそう思っていたんですわ」って、大笑い致しました。』
『もう心配ありませんわね。』
『えゝ。』
『皆(みんな)出来れば出来るほどいゝんですから、誰とでも仲よしになれますわ。』
『例外が一人あってよ。』
『梅村さん?』
『えゝ。』
『駄目よ。 それがあなたはお考え違いよ。』
『何故?』
『鴨武さんだって知らない中はお嫌いだったんですが、話して見ればいゝ人でしょう。』
『でも梅村さんは違いますわ。』
『いゝえ。 人間は皆同じことよ。』
『違いますわ。』
『違いませんよ。』
『違うわよ。』
『あら、危ないじゃありませんか? 私、溝(どぶ)へ落ちてしまいますわ。』
 と京子さんは鼻を鳴らした。 鹿の子さんが一生懸命になって押して行ったのだった。
『落ちれば罰よ。』
『何の罰?』
『梅村さんを贔屓(ひいき)する罰よ。』


『まあ!』
『私、もうあなたの心が分ったわ。』
『どう分って?』
『二心よ。』
『ひどいわ。』
『でも何かというと梅村さんの贔屓をなさるじゃありませんか?』
『贔屓じゃありませんわ。』
『それじゃなあに?』
『私、同級生は誰でも同じようにしたいと思いますの。』
『私でも梅村さんでも。』
『あなたは特別よ。』
『本当?』
『嘘だとお思いになるなら、もういゝわ。』
『本当のこと分っていますよ。 お憤りになったの?京子さん。』
『いゝえ。』
『あなたは感心ね。』
『からかっちゃ厭よ。』
『本当よ。 お考えが公平ですわ。』
『急に評判がよくなりましたのね。』
『私、どうして梅村さんがこんなに憎らしいんでしょう? 面と向って喧嘩をしたこともないのに、自分でも分りませんわ。』
 と鹿の子さんは考え込みながら歩いた。
『誤解よ、お互いの。』
 と間もなく京子さんが言った。
『先方(むこう)も悪いのね。』
『えゝ。』
『陰へ廻って悪口を言うんですもの。』
『あなただって仰しゃるじゃありませんか。』
『それはそうですけれど。』
『お互いに誤解しているんですわ、それですから。』
『私、どうしても言って上げますわ。』
『何を?』
『いゝことを考えて来たのよ。 鹿の子に馬の字の仇討ちをして上げますわ。』
『困るわ、私。』
『あなたに御迷惑はかけませんよ。』
『でも、聞いていたのは私だけですから、私がお喋(しゃべ)りしたことがすぐ分ってしまいますわ。』
『そこをうまくやりますよ。』
 と鹿の子さんはどうしても堪忍出来ないようだった。
梅村さんには同じ小学校から入った横田さん初め数名の親友がある。 一番で級長になっているし、土地生れだから、余所から来た鹿の子さんよりも確かに勢力がある。 鹿の子さんは二番で副級長だ。 何でも二の次になっている。 勝気(かちき)の性分だから、これが歯痒い。 一学期間はそれどほでもなかったが、席次と級長の正副が定(き)まった二学期から旋毛(つむじ)を曲げてしまった。 梅村さんにはいゝところがあるけれど、それを一切認めない。 鹿の子さんにも無論いゝところがある。 しかし打ち解けないから、梅村さんも認める機会がない。 京子さんの言う通り、両方で誤解している。 それが級長と副級長で交渉の多い間柄だからなお工合(ぐあい)が悪い。
鹿の子さんが京子さんを相談相手にしているように、梅村さんは横田さんが顧問だ。 横田さんは京子さんと違って、深い考えがない。
『私、嫌いな人は嫌いよ。 好きな人は好きよ。』
 と至って簡単だ。
『横田さん。 私、伊達さんには困ってしまうわ。』
 と梅村さんが運動場のポプラーの木の下で訴えたのは二学期に入って間もないことだった。
『厭な人ね、本当にあの人。 威張っているわ。』
『あなたにもそう見えて?』
『見えますとも。 目が二つあるわ。』
 と横田さんは指で眼鏡を拵(こしら)えて、手近にいた鹿の子さんを覗いた。
『およしなさいよ。』
 と梅村さんが慌てて制した。


『オホヽヽヽ。』
『横田さん!』
『オホヽヽヽヽ。』
『横田さん、なあに?』
 と鹿の子さんが寄って来た。
『オホヽヽヽホ。』
『なあに?』
『何でもないのよ。 オホヽヽヽホ。 あゝ、おかしい。 オホホヽヽヽ。』
 とこれは確かに横田さんが悪い。尤(もっと)も横田さんには笑い出すとブレーキが利かなくなる癖がある。
『横田さん、あなたは失礼ね。』
『オホヽ。』
『何がそんなにおかしいんですか?』
『オホヽヽヽヽ。』
『厭な人ね。』
『私の権利で笑うんですわ。』
『でも私のことをお笑いになったんでしょう?』
『いゝえ。 オホヽ。』
『覚えていらっしゃいよ。』
 と鹿の子さんは睨んだ。
『伊達さん、横田さんは笑い出すとナカヽヽ止まらないのよ。』
 と梅村さんは責任を感じて弁解した。
『そう?』
『小学校の時からよ。』
『そう?』
『何でもないんですから、どうぞ悪しからず。』
『そう?』
 と鹿の子さんは同じ受け答えばかりした。
『伊達さん、御免なさい。』
 と横田さんは笑いやんで、あやまった。 これだけの人だ。 毒も薬もない。
鹿の子さんは土地育ちの同級生よりも世間が広い。 奈良で生れたが、お父さんの転任と共に方々を歩いて、小学校はここが三つ目だった。 尋常五年の秋から入ってこの春卒業するとすぐ女学校へ入ったのだから、土地とのなじみが浅い。 もっと長く住まった前任地が頭の中にあるから、お友達との話の中(うち)に、
『鹿児島はとてもいゝところよ。 こゝとは較(くら)べものになりませんわ。』
 とか、
『名古屋はとても広いわ。 何処まで行っても電車があるんですもの。 こゝ見たいに乗るとすぐ下りるようなところとは違いますわ。 それに何処まで行っても同じように賑やかなんですもの。』
 とかと余所を褒める癖がある。 これが生れ故郷を唯一の都と思っている同級生達には気に入らない。 貶(けな)されるような心持(こころもち)がして、
『あの人、生意気ね。』
『そんなに余所がいゝなら、余所へ行けばいゝじゃありませんか?』
『何も私達が頼んでこゝへ来て戴いたんじゃないわ。』
 と陰で苦情を言う。
或時、梅村さんが、
『でも伊達さんは豪いわ。 方々を知っていらっしゃるんですもの。 私達は伊達さんに較べると井戸の中の蛙(かわづ)よ。』
 と歎息した。
『得ね、知事さんの子は。』
 と横田さんも実は少し羨ましく思っている。
『知事さんでなくてもいゝのよ。 中島さんだって四国も九州も知っていますわ。 尤もあの方は黙っていらっしゃるけれど。』
『私、中島さんの方が好きよ。』
『私、伊達さんだって嫌いなこともないわ。」
『あら!大嫌いだって仰しゃったじゃありませんか?』


『あれはあの時よ。 ついそう思うことがあるんですわ。 しかしこれは悪い癖よ。』
『私、大嫌い。 執念深い人よ。 あれから私を目の仇(かたき)のようにしていますわ。』
『あれからって、いつから?』
『いつか私が笑ったでしょう、運動場(うんどうば)で。 あれからよ。』
『あれはあなたが悪いんですわ。』
『それですから、すぐあやまったじゃありませんか?』
『何か変なことでも仰しゃいますの?』
『いゝえ。 口をきいて下さいませんの。』
『誤解していらっしゃるのね。』
『私、損な性分ね。 ちっとも悪気はないんですけれど、笑い出すとつい止まらないんですもの。』
『今に分りますよ。』
『でも私、嫌いな人は嫌いなんですから、恨まれても構いませんわ。』
『そういう気になるのが悪いのよ。 私この頃考えていますの。 嫌われるのはやっぱり此方(こっち)が先に嫌っているから、それが自然に通じるんですわ。』
『でも嫌いなものは仕方がないでしょう?』
『その嫌いってことが間違っているんですわ。』
『私、人参とお酒の粕は嫌いよ。 生まれつきじゃありませんか?』
『食料品と人間は一緒になりませんわ。 親しまないから嫌いになるのよ。』
『嫌いだから親しまないんじゃなくて?』
『それは小使長のお爺さんよ。』
『なあに?』
『アベコベよ。 阿部幸平さんよ。 オホヽヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
『笑い出しちゃだめよ。』
『大丈夫よ。』
『同じ級にいて仲がよくないのは両方の罪ですわ。 伊達さんばかり悪いと思うのは間違いよ。』
 と梅村さんも憎らしいと思う時は悪口を言うけれど、時折冷静に考えて見る。
『それじゃ伊達さんにあやまりますの?』
『お互いっこですから、あやまることもありませんが、私、これからは伊達さんのいゝところも認めて上げますわ。』
『いゝところなんてちっともないわ。』
『あるわ。 いゝところのない人は一人もないんですって。 私、この間お父さんのお話を聞いて感心しましたの。 お父さんは銀行で大勢の人を使う時、材木を使う心持で使うんですって。』
『随分ね。』
『何故?』
『人間を材木のつもりで使うなんて。』
『荒く使うんじゃありませんわ。 材木には節もあれば朽(くさ)ったところもあるでしょう。 そういう悪いところを避(よ)けて、いゝところだけ使うんですって。 材木をそうして使うくせに、人間だと少し悪いところがあれば一口(ひとくち)にあの人はいけないと言ってしまうでしょう。 それが間違っているんですって。』
『それは確かにそうね。』
『人間には誰でも欠点がありますわ。』
『私のは笑う欠点よ。』
『銀行に一人気が短くて喧嘩ばかりする人があるんですって。 この間その人をよしてしまうようにって他の人達が言って来たんですよ。 お父さんはどうしてもよすことが出来ないって、後からお母さんに材木の話をしていましたわ。』
『伊達さんだって材木だと思えば腹も立ちませんわね。』
 と横田さんは又別の解釈を下した。
さて、梅村さんに竹篦返(しっぺいがえ)しをするつもりの鹿の子さんは学校に着くとすぐに機会を待ち始めた。 いきなりでは面白くない。 話をしている中(うち)に偶然思いついたように言い出さないと京子さんが迷惑する。 二時間目の休憩時間に梅村さん初め、六、七名が教室の窓下で日向(ひなた)ぼっこをしていたから、鹿の子さんはその中に割り込んで、
『鴨武さん。 私、昨日胡錦鳥を逃がしてしまったのよ。』
 と話しかけた。 但し目的は梅村さんにある。
『あらまあ!』
 と鴨武さんが驚いた。 鹿の子さんのところへ遊びに来て、鹿の子さんが種々(いろいろ)の小鳥を飼っていることを知っている。


『女中が籠の口を開けたまゝ忘れていたものですから。』
『惜しいことをしましたね。』
『泣いたでしょう?』
 と一人がからかった。
『大丈夫よ。』
『女中さんこそ泣いたわ。屹度。』
 ともう一人が言った。
『私、ちっとも叱りませんの。 人間は誰でも過失(あやまち)ってことがありますからね。 惜しかったけれど、すぐ諦めましたわ。』
『伊達さん、胡錦鳥って赤い鳥?』
 と梅村さんが訊いた。 鹿の子さんはしめたと思った。
『えゝ。 一羽は赤いのよ。 頭が。』
『小さいんでしょう?』
『えゝ。これぐらいよ。』
 と鹿の子さんは指で大きさを示した。
『それなら私のところへ来ていますわ。』
『あなたのところへ?』
『えゝ。 昨日の朝、女中がお掃除をしていたら、私の勉強部屋へ舞い込んで来たんですって。 捉まえて飼ってありますわ。』
『まあ!一羽?』
『えゝ。』
『二羽逃げましたのよ。』
『それじゃ一羽だけ来たんですわ。 妙なことがあるものね。 あなたの鳥が私の勉強部屋へ入って来るなんて、早速お返し致しますわ。』
『でも私のかどうか分りませんわ。』
『見にいらっしゃいよ。』
『違いましょう、やっぱり。御近所なら兎に角、かなり遠いんですもの。』
『鳥は翼がありますわ。』
『飛んで行ったのよ。普段から仲よしですから。オホヽヽヽヽ。』
 と横田さんが笑い出した。
『時間も人相書きもピッタリ会っているじゃありませんか?』
『ラジオのニュースなら、人相は口尖りし方、顔赤き方ね。 オホヽホヽヽ。』
『およしなさいよ。』
『オホヽヽヽヽ。』
『又始まったわ。』
 と皆(みんな)も笑った。
『伊達さん、屹度あなたのよ。』
 と梅村さんは鹿の子さんの手を取った。


『赤胡錦の方ね、若し私のなら。』
『帰りに見にいらっしゃいよ。』
『さあ。』
『いらっしゃいよ、伊達さん。』
『痛いわ。 痛いわ。』
 と鹿の子さんは引かれて行って、
『それじゃ上がってよ。』
 と頷いた。
『どうぞ。』
『初めてね、あなたのところ。』
『いつか一遍お出でになって戴きたいと思っていましたの。』
 と梅村さんはまだ手を放さない。
『あら!』
『なあに?』
『香水の香(におい)がするわ。』
『オホヽヽヽ。』
『つけていらっしゃるんでしょう?』
『えゝ、でも皆には内証よ。』
『ジョッキー・クラブでしょう?』
『あら、当ったわ。』
『オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんも梅村さんの手を取って跳ね上がった。
京子さんはこの光景を見ていて、教室へ入る時に、
『鹿の子さん、どうなすったの?今。』
 と訊いた。
『私の胡錦鳥が梅村さんのところへ逃げて行ったらしいのよ。』
『あらまあ!』
『帰りに梅村さんのお家へ廻って見て参りますから、家へ一寸そう仰しゃって戴けません?』
『お安い御用ですわ。』
『オホヽヽヽ。』
『なあに!』
『私、胡錦鳥で仇討ちを忘れてしまいましたわ。』
 と鹿の子さんは京子さんの顔を見て思い出したのだった。
放課後、梅村さんは鹿の子さんと連れ立った。 同じ方面の横田さんともう二三人が途中まで一緒だった。横田さんはよく話しよく笑った後、別かれる時、
『伊達さん、一寸。』
『お土産よ。』
 と背中を一つ叩いた。
『あら!此方(こっち)のお土産はひどいのね。』
 と鹿の子さんは睨んだが、いつもの睨み方とは違っていた。


梅村さんの家に着いて、鳥を見たら、胡錦鳥ではなかった。 しかし梅村さんはそう信じきっているから、
『あなたのでしょう?』
 と手柄顔だった。
『違いますわ。』
『あら!それじゃなあに?これは。』
『紅雀(べにすずめ)よ。』
『まあ!私、知らないものですから。』
『いゝのよ、もう。』
『本当に済みませんわ。』
『胡錦鳥も同じことよ。お蔭であなたのところへ上がったんですから。』
 と鹿の子さんは却って気の毒になった。
『そう仰しゃって戴くと、私も嬉しいわ。』
『私も。』
『どうぞ御ゆっくりね。』
『その代り私のところへも来て下さる?』
『上がりますとも。』
『いゝ勉強部屋ね、あなたのは。』
『だめよ。』
『御勉強が出来る筈ですわ。』
『ちっともだめよ。』
 と梅村さんが謙遜しているところへ縁側に足音がして、梅村さんのお母さんが現れた。 鹿の子さんは真赤になって、お辞儀をした。
『伊達さんでございます。』
 と梅村さんが紹介した。
『まあゝゝ、ようこそ。 純子が始終お世話になりまして。』
 とお母さんは挨拶をして、
『純子や。』
 と呼んだ。
『はい。』
『お前よりも余程しっかりしていらっしゃるよ。』
『えゝ。』
『御家庭が御家庭ですから、やっぱり違いますわ。』
『お母さん、もういゝのよ。』
 と梅村さんは煩(うるさ)がって撃退に努めた。
『どうぞ御ゆっくり。』
 とお母さんが立って行った後、二人は顔を見合わせてニコヽヽした。 紅雀がチッヽヽと鳴いた。
ペルシャ猫
鹿の子さんは自分の胡錦鳥だと思っていたのが紅雀だったので、もう用はなかったけれど、梅村さんが下へも置かないようにしてくれるものだから、つい話し込んだ。
『それじゃ梅村さん、あなたも末っ子?』
 と鹿の子さんが訊いた。
『えゝ。』
『道理で。』
『オホヽヽヽ。』
『なあに?』
『ひどいわ。』
 と梅村さんは睨む真似をした。
『どうして?』
『末っ子?道理でと仰しゃったその後(あと)がひどいわ。』
『分りませんわ、私。』
『道理で我儘だと仰しゃるんでしょう?』
『まあ!』
『そうでしょう?』
『オホヽヽヽ。』
『そうよゝゝゝ。 ひどいわ。 ひどいわ。』
『御免なさい。 私、自分が末っ子だから我儘だって家で始終言われているものですから、ついそう思ったんですわ。』
『いゝのよ。 お互いっこですわ。 あなただって末っ子ですもの。』
『我儘?』
『えゝ。少し。』
『まあ!』
 と鹿の子さんは呆れたような表情をした。


『オホヽヽヽ。』
『仕方ありませんわ。』
『私も。』
『認めるわ。』
『認めるわ。 私も。』
『オホヽヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
 と二人は笑った。 普段はお互いのアラを探し合うけれど、今日は自分を省(かえりみ)る余裕が出て来たのだった。
『でもこれぐらい当り前でしょう?』
『えゝ。』
『真(ほん)の少しですもの。』
『お互いっこですから、もう仲よしになりましょうね。』
『えゝ。素(もと)より望むところですわ。』
『私もよ。』
『我儘ものですから、どうぞ宜しく。』
『あらまあ!私こそよ。』
 と甚だ調子がいゝ。
『横田さんも末っ子でしょうか?』
 と鹿の子さんは梅村さんと打ち解けても、横田さんとは問題だった。
『あの方、長女よ。』
『でも随分我儘ね。』
『長女は我儘よ。頭の押さえ手がありませんから。』
『私、あの方、大嫌い。』
『あれだけの人よ、横田さんは。』
『どれだけの人?』
『裏も表もないんですわ。』
『笑うのね、よく。』
『えゝ。自分でも困っているのよ。 病気かも知れないからお医者さまに診て戴くと仰しゃっていますわ。』
『病気でしょうか?』
『さあ。笑う病気なんてものがあるんでしょうか?』
『聞いたことありませんわね。』
『それでこの間又笑いましたのよ。 内科でしょうか、外科でしょうかって訊くんでしょう?』
『まあ!』
『私、つい噴き出してしまいましたの。 すると横田さんは大変よ。 往来へ転びそうになってしまいましたわ。 通る人が不思議そうに見ているんですもの。』
『お困りになったでしょう?』
『えゝ。 背中を擦(さす)って上げましたの。 擦ると早く止まるんですって。』
『変な人ね。』
『でも憤るよりはいゝでしょう?』
『あら!』
『なあに?』
『私、もうお暇(いとま)致しますわ。』
『何故?』
『我儘だの憤るのって、チクヽヽと苛(いじ)められるんですもの。』
『嘘よ。』
『オホヽヽヽ。』
『嘘ね?』
『えゝ。冗談よ。 でも、もうソロヽヽお暇しなければなりませんわ。』
『まだお出でになったばかりじゃありませんか?』
 と梅村さんは引き止めたい一方だった。
『学校の帰りですもの。』
『それじゃお約束致しましょう。 又お出で下さる?』
『えゝ。 あたなもお出で下されば。』
『上がりますとも。』
『今度の日曜は如何(いかが)?』
『お邪魔させて戴きますわ。』
『朝からよ。』
『えゝ。』
『中島さんと三人で遊びましょう。 すぐお隣りよ。』
『私、中島さんも今日お誘いするとよかったんですけれど。』
『あの方、あなたのことを始終褒めていますのよ。』
『何て?』
『模範的ですって。』
『まさか。』
『本当よ。尤も私と違って、人の悪口を仰しゃいませんわ。私、始終叱られますの。』
『中島さんに?』
『えゝ。』
『私、中島さんから伺(うかが)いましたのよ、あなたが小鳥狂(きちがい)だってことを。』
『あらまあ!狂人(きちがい)はひどいわ。』
『でもその後(あと)がいゝのよ。生き物を可愛がるくらいですから、本当に心持の優しい人ですって。』
『その通り決して悪口を仰しゃいませんのよ。』
 と鹿の子さんは満足だった。
『随分飼っていらっしゃるんですってね。』
『えゝ。 好きなものですから。』
『この紅雀、差上げましょうか?』
『有難うございますけれど、紅雀は沢山いますの。 これはあなたが授かったんですから、可愛がって上げて頂戴よ。』
『飼うつもりで籠を買って戴いたんですけれど。』
『そうなさいよ。 お友達がないと淋しいでしょうから、家のを一羽差上げますわ。』
『鳥屋から買いますよ。』
『いゝえ。 家に沢山いるんですから。』
『それじゃ戴きますわ。 又小使長さんになってしまいましたわね。 オホヽヽヽ。』
『アベコベ?』
『えゝ。 私、胡錦鳥だと思って、あなたにお返しするつもりでいたのに、あなたから戴くんですもの。』
『本当ね。 オホヽヽヽ。』
『でもやっぱりこの鳥のお蔭ね。』
『私も先刻(さっき)からそう思っていますの。 胡錦鳥が逃げなければ、私、こうしてあなたのところへ上がりませんわ。』
『私よりも胡錦鳥の方がお好きですからね。』
『あら!ひどいわ。』
『オホヽヽヽ。』
『生き物を可愛がっていると屹度いゝことがありますよ。』
『何故?』
『情操を養いますから。』
『情操って?』
『美的情操と倫理的情操よ。』
『まあ!むづかしいのね。』
 と梅村さんが感心した時、縁側から猫の鳴声が聞えた。


『猫を飼っていらっしゃるの?』
 と鹿の子さんが訊いた。
『えゝ。』
『入りたいんでしょう?まだ鳴いていますわ。』
『あゝやって開けるまで鳴いているのよ。』
『開けてお上げなさいよ。』
『ペルや、何御用?』
 と梅村さんが障子を開けたら、真白な子猫が長い尾を立てて入って来た。
『まあ!綺麗な猫ね。』
『ペルシャ猫よ。』
『可愛いのね。』
 と鹿の子さんは早速抱き上げた。
『姉さんのところから戴きましたの。』
『純白ね。 毛が光っているわ。』
『ペルや。』
『ペルって名前?』
『えゝ。 ペルシャ猫ですから。』
『私、ペルシャ猫ってもの初めてよ。 綺麗なものね。』
『子供が生れたら差上げましょうか?』
『女?これ。』
『えゝ。』
『是非戴きますわ。』
『でもそう種々(いろゝゝ)のものをお飼いになって、お母さんに叱られやしません?』
『大丈夫よ。 情操を養うんですから。』
『美的情操?』
『えゝ。 これなら確かに美的情操よ。 あらまあ!』
『なあに?』
『何処を見ているのかと思ったら、紅雀を睨んでいますのよ。』
『ペルは狙って仕方ありませんわ。』
『倫理的情操がないのね。』
『オホヽヽヽ。』
『もう厭(いや)ですって。 下ろしましょうか?』
『おもちゃを上げましょう。』
 と梅村さんは机の下から小さい鞠を取って投げてやった。 ペルはそれにじゃれて遊ぶ。 一生懸命だ。
『まあ!おてんばね。 オホヽヽヽ。』
『持つわね。 持って立つわ。 オホヽヽヽ。』
 と二人は我れを忘れて見ていた。


『可愛いわねぇ!』
 と鹿の子さんが溜息をついた。
『これと同じに生れたのでちっとも変らないのがもう一匹いますのよ。』
 と梅村さんは耳よりのことを言い出した。
『お宅に?』
『いゝえ。 姉さんのところよ。 やっぱり女ですから、貰い手がありませんの。』
『私、貰いたいわ。』
『女よ。』
『女でもいゝわ。 女の方がいゝわ。 私達、女じゃありませんか?』
『けれども猫の女は子供を生みますからね。』
『こんなに可愛いのが生れれば、幾つでも飼って置きますわ。』
『そんなにお気に召したの?』
『えゝ。』
『実は私、姉さんから何処か貰って下さるところはありませんかって頼まれていますの。』
『私、戴きますわ。』
『でも女ですからね。』
『女でもいゝのよ。』
『お母さんに叱られやしません?』
『大丈夫よ。』
『でも。』
『でもなあに?』
『私、これを貰って来た時、お母さんに叱られましたわ。 男ならいゝけれど、女じゃ困りますって。』
『女がそんなに女を軽蔑していゝものでしょうか?』
『でも猫ですからね。 五匹も子供を生むと大変ですって。 それじゃ返しましょうかって、私、申し上げましたの。 けれども姉さんはお嫁に行っているんでしょう?返すなんてことは大変いけないんですって。』
『何故?』
『姉さんを返して寄越すかも知れませんわ。』
『まあ!オホヽヽヽ。』
『本当よ。 返すなんてことは縁起がよくないんですって。 それでそのまゝ飼っているんですけれど、私、責任がありますわ。』
『どういう責任?』
『子供が生まれたら貰って戴くところを探さなければなりませんの。』
『それで今お約束なすったんですわね。』
『えゝ。 抜け目がないでしょう?』
『私、そんな先のこと厭よ、今すぐ貰えるのがあるのなら。』
『貰って上げましょうか?』
『どうぞ。』
 と鹿の子さんは切に懇望した。
『それじゃ私、日曜に持って上がりますよ。』
『どうぞ。』
『大丈夫ね?』
『えゝ。』
『この猫のお母さんのお母さんの又お母さんは日本に三匹しかいない純粋のペルシャ猫の子ですって。』
『まあ!』
『共進会で御褒美を戴いたんですって。』
『何処にいるんでしょう?』
『東京よ。 何とかいう伯爵家の猫で小間使いが二人付添っているんですって。』
『まあ!大変ね。』
『その子を何とかというお相撲さんが拝領して、それが生んだ子を今度は大阪の金持ちが貰って来たんですって。』
『猫の系図ね。』
『えゝ。それから神戸でしょう、屹度。姉さんところのお父さんが神戸から貰って来たんですから。』
『するとそれは伯爵家の猫の孫の子、あら、違ったわ、彦の子ね?』
『さあ。 この猫のお母さんのお母さんのお母さんが伯爵家の猫の子ですから‥‥ ‥‥』
 と梅村さんの能書きは甚だ長かった。
それから姉さんの話が出た。何方(どっち)も姉さんがお嫁に行っている。
『妙ね。 年も同じね。』
『不思議ね。 何方もお正月ですもの。 結婚式の写真、御覧に入れましょうか?』
『どうぞ。』
 と鹿の子さんは又少時(しばらく)手間を取って、
『ついゝゝ長居をしてしまいましたわ。今度こそ本当にお暇よ。失礼申し上げました。』
 と立ち上がった。
『その辺までお送り致しましょう。』
『いゝのよ。分りますわ。』
『いゝえ。散歩ながら。』
 と梅村さんは何処までも親切だった。
鹿の子さんは上機嫌で家へ帰った。
『お母さん、唯今。』
 とお茶の間へ入って行ったら、兄さんの静人君が火鉢のところに坐っていて、
『兄さん唯今と言えよ。』
 と威張った。
『お母さんは?』
『西洋間だ。 お客さんが見えている。』
『何方(どなた)?』
『知らない。 女の人だ。』
『あら!』
 と鹿の子さんは目を円(まる)くした。
『何だい?』
『兄さんは煙草を吸っていたんでしょう?』


『吸うものか。』
『でも煙が出ているわ。 香(におい)がしているわ。』
『お父さんの葉巻の吸い殻があったから、火をつけて嗅いで見たんだ。』
『悪いわ。』
『実験だよ。ハッハヽヽ。』
『笑ってごまかすのね。』
『それよりもお前はどうしたんだい?晩(おそ)かったじゃないか?』
『梅村さんのところへ廻って来たのよ。』
『昨日の話の純子さんかい?』
 と静人君は興味を催(もよお)した。
『えゝ。』
『うまく行ったかい?純子が鈍子になる一件は。』
『駄目よ。』
『利かなかったのかい?』
『いゝえ。仲よしになってしまいましたの。』
『ふうむ。』
『いゝ人よ、あの方、やっぱり。』
 と鹿の子さんはありのまゝを話した。


『駄目だなあ、女なんてものは。』
『何故?』
『喧嘩に行って仲直りをして来るんだもの。』
『でも仕方ありませんわ。』
『僕なら兎に角一つ頭を打(ぶ)ん撲ってからにする。』
『腕力は野蛮よ。』
『いゝ智恵を授けてやっても使わないんだもの。』
『自分の智恵でもないくせに。』
『どうも口の達者な奴だ。』
『今分って?』
『兄貴を馬鹿にすると罰が当る。』
 と静人君は睨みつける真似をした。
『オホヽヽヽ。』
『これでもお前の帰りが晩いから心配していたんだ。』
『恐れ入ります。』
『本当だぞ。 先刻(さっき)からこゝで待っていたんだ。』
『つい話し込んでしまったんですわ。』
『余所へ廻る時には断らなければいけないよ。』
『お母さんにお断りしたのよ。 京子さんにお頼みして。』
『そうかい?それじゃ堪忍してやる。』
『堪忍して貰うことも何もないわ。 一人でこゝに入っているんですから、兄さんは屹度もう私のお菓子を食べてしまったのよ。』
 と鹿の子さんは図星を指した。
『ハッハヽヽ。』
『そうでしょう?』
『こゝで待っている中(うち)につい手を出したんだよ。』
『兄さんは食辛抱の名人ね。』
『降参々々。』
『お前のことを心配していたもないものですわ。』
『あゝあゝ あゝ。』
『どうなすったの?』
『お前にはとても敵わない。』
『オホヽヽヽ。』
『これでも学校へ行くと、そんなに弱い方じゃないんだけれど。』
『智恵が少し足りないんですわ。』
『そうかも知れないよ、本当に。』
『そこが兄さんのいけないところよ。』
『何処が?』
『自分のことをすぐ諦めてしまうからよ。 奮発心がないからよ。』
『おやゝゝ。 妹にまで叱られるのか?学校の成績が悪いと形なしだ。』
 と静人君は争わない。 鹿の子さんは成績がよくて始終褒められるものだから、二つ年上の静人君と対等のつもりでいる。
『兄さん。』
『何だい?』
『私、兄さんにお願いがあるのよ。』
『ふうむ。』
『叶えて下(くだ)すって?』
『厭だよ。』
『あら!何故?』
『本当のことを言うと僕は不平だ。』
『どうして不平?』
『お前は都合のいゝ時だけ兄さんゝゝゝと言って僕を利用する。』
『そんなことないわ。』
『いや、狡いよ。 兄さんを馬鹿にしている。』
『いつ私が馬鹿にして?』
『いつでもだよ。』
『いつの幾日(いくか)?』
『自分の心に訊いて見ろ。』
『あら!兄さんは本当に憤(おこ)っていらっしゃるの?』
 と鹿の子さんは静人君の顔を見守った。
『そんなこともない。大人物は憤らないよ。』
『人のお菓子を食べる大人物がありますか?』
『妹のものは兄さんのものだよ。』
『あら!そう?』
『兄妹(きょうだい)ってものは何でも共通だよ。』
『それなら私、有難いわ。』
『有難いと思ったら、文句を言うな。』
『共通なら、妹の願いは兄さんの願いでしょう?』
『智恵がありやがるな。』
『オホヽヽヽ。』
『お前はどうも生意気だ。 兄さんの隙ばかり狙っている。』
『オホヽヽヽ。』
『妹だから堪忍しているけれど、友達ならもう疾(と)うの昔に喧嘩になっていると思うことが、夜寝ていてゆっくり考えて見ると、幾つもあるよ。』
『それじゃ私、あやまるわ。 いつといつ私が悪かったんですか?』
『そんなに一々覚えていないよ。』
『それじゃ皆(みんな)あやまるわ。』
『あやまらなくてもいゝから、これから気をつけておくれ。』
『気をつけますわ。』
『種々(いろゝゝ)とあるけれど、つまり兄さんをもっと尊敬すればいゝんだ。』
『はあ。』
『学校の成績だけで僕の値打ちを定(き)めてしまっちゃ困る。』
『はあ。』
『僕の成績の悪い理由(わけ)は東京のお祖父さんがよく承知している。 他の怠けもののように唯だ悪いんじゃない。 お祖父さんは僕のことを大器晩成だと言って証明している。 お前は大器晩成ってことを知らないだろう?』
『知っていますわ、それぐらい。』
『女学校の一年生には分るまい。 何だい?それじゃ。』
『晩智恵(おくちえ)のことでしょう?』
『知っていやがるな、この野郎。』
『女は野郎じゃないわよ。』


『つい間違った。間違うところが大器晩成だ。 僕は晩智恵だから、小学校や中学校じゃいゝ成績が取れない。 高等学校から、少し智恵が出始めて、大学へ入ると秀才になる。 これはもう目に見えているんだ。』
 と静人君はそう確信している。 智恵の出るのを待っていてちっとも勉強しないものだから、成績がよくない。 いつもビリから五六番にいる。 しかし大人物をもって任じているだけのことがある。 物事にこだわらない。 鹿の子さんが馬鹿にしても、ヘラヽヽ笑っている。
『尊敬しますよ。』
『本当に尊敬しておくれ。』
『えゝ。』
『それじゃもういゝ。』
『兄さんの方がお宜しければ、今度は私の番よ。』
 と鹿の子さんはこれからだった。
『何だい?』
『私、猫を貰いたいの。』
『猫?いけないよ。』
『唯だの猫じゃないのよ。 ペルシャ猫よ。綺麗な猫よ。 真白で光っていますのよ。 可愛いのよ。』
『ペルシャの猫だね?』
『えゝ。』
『ペルシャからじゃ大変だろう。』
『梅村さんの姉さんが下さるのよ。 その猫のお母さんのお母さんのお母さんは日本に三匹しかいないという純粋のペルシャ猫の子ですって。』
『どんな猫でもよす方がいゝ。』
『何故?兄さん。』
『お前は生き物を飼いすぎる。 小鳥と犬だけは仕方がないとしても、兔には皆困っているよ。 菜園のものを皆食ってしまうじゃないか?』
 と静人君は女中たちの苦情を耳にしていた。
『私、ペルシャ猫を貰えば、兔はお友達に上げてもいゝわ。』
『本当かい?』
『えゝ。』
『兔は二匹、猫は一匹と。それだけ害が少なくなる勘定だね。 それに兔は今に子供を生む。』
『猫も生みますけれど。』
『女猫(おんなねこ)かい?』
『えゝ。』
『それじゃ問題が違う。』
『私、貰いたいわ。』
『女じゃ困る。』
『私も女よ。お母さんも女よ。』
『人間の話じゃないよ。』
『いゝえ。 兄さんは自分を尊敬しろと仰しゃって、お母さんや私を女だと思って軽蔑しているんですわ。』
『又理屈を言い出した。』
『私、貰いたいわ。貰いたいわ。 ペルシャ猫を貰いたいわ。』
 と鹿の子さんは身体を揺振った。
『それじゃどうすればいゝんだい?』
『私、もう貰うお約束をして来たんですもの。』
『ふうむ。』
『明後日(あさって)持って来て下さるのよ。』
『馬鹿に気が早いんだね。』
『今更お断り出来ませんわ。 京子さんなんかなら兎に角、漸(ようや)く仲よしになった梅村さんですから。』
『仕方がないなあ。』


『兄さんからお母さんに仰しゃって下さいよ。』
『僕から言っても駄目だよ。僕は信用がない。』
『でも私、兔の時にもうこれからはいけないって断られているんですから。』
『その兔を片付けるという條件をつけて、やっぱりお前から言う方がいゝよ。』
『それじゃ私から申し上げますから、兄さんも加勢をして下さいよ。』
『よしゝゝ。』
 と静人君は結局引受けた。 大器晩成は始終妹に利用される。

大器晩成
晩御飯はお父さんも御一緒だった。県庁の役人は忙しい。 殊に知事はお役所の代表者として種々(いろゝゝ)の会合へ顔出しをしなければならないから、晩に家で御飯を食べることが少ない。 朝は静人君と鹿の子さんの方が早い。 学校へ急ぐから、お父さんお母さんよりも先に食べる。 お昼はお弁当だ。 それだからお父さんと顔を合わせるのは晩御飯の時だけだ。 お父さんは成るべくこの機会を多くしようと努める。 しかし兔角忙しい。三日(みっか)も四日(よっか)も子供と話をする暇のないことがある。
『どうだね?』
 とお父さんは晩御飯の時に訊く。 厳めしい知事さんから優しいお父さんに戻って、親子水入らずに寛(くつろ)ぐのが楽しみだ。
『どうだね?この頃は。』
『御無沙汰申し上げました。』
 と或る晩静人君が答えた。


『オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんが笑った。 静人君は時折トンチンカンなことを言い出す。 しかしこの晩のトンチンカンはお父さんの心持をよく言い表していた。
『成程ね。』
 とお父さんは首を傾(かし)げて、
『四五日顔を合わせなかったね。 一つ家にいて、これは本当に御無沙汰だった。』
 と指折り数えた。
『お忙しうございますからね。』
 とお母さんが同情するように言った。
『これじゃいけない。 子供のためにならない。』
『でもお役目で仕方ありませんわ。』
『いや、俺(わし)はどうも忠実過ぎる。 少しでも余計仕事をしようと思って、断れば断れるような会へまで出るものだから。』
『家のことは私がお引受けしていますわ。』
『幸い子供がその気になって勉強してくれるからいゝけれど。 どうだね?静人はこの頃。』
『勉強の方もやっぱり御無沙汰しています。』
 と静人君は一向構わない。
『少しやらなければいけないよ。』
『はあ。 お父さんからそう仰しゃられた晩は勉強します。』
『ふうむ。』
『お父さんが帰ってお出でにならないと駄目です。』
『どうして?』
『お父さんが書斎で本を読んでいられると、これは僕も勉強しなければならないと思います。』
『お父さんがいなければ?』
『責任を感じません。まだ自分に欲がないんですから。』
『困った奴だな。』
『ハッハヽヽヽ。』
『笑いごとじゃないよ。』
『僕は今の中(うち)はこれでいゝんです。 大器晩成だって東京のお祖父さんが仰しゃいました。』
『お祖父さんは妙な智恵をつけたもんだな。』
 とお父さんは大器晩成を持て余している。
『僕は高等学校へ入ると少し智恵が出て来るんだそうです。』
『それまで待っているのかい?』
『はあ。』
 と静人君は急がない。 スポーツに熱中している。
『どうだね?鹿の子は。』
『鹿の子はよく勉強致しますよ。』
 とお母さんが代って答えてくれる。 鹿の子さんは得意だ。チラと静人君の方を見る。
『兄さん、どう?』
 という意味らしい。
さて、鹿の子さんはペルシャ猫の子を貰いたい。 貰いたいどころか、もう約束をしてしまったから、明後日(あさって)梅村さんが持って来てくれる。 今更お断り出来ない。 殊に仲よしになったばかりの梅村さんである。 そこでお母さんにお願いしなければならない。 しかし考えて見ると、生き物は現在飼ってる以上にもう決して欲しがらない約束になっている。去年からモルモットが沢山になって困った。 此奴(こいつ)は鼠算の勢いで殖える。 鹿の子さんは随分骨を折ってお友達に分けて上げたが、その春五十匹近くになった時、
『お母さん、どうしましょうか?』
 と持て余した。
『こんな藝も何もないものを誰が貰ってくれるものですか?』
『本当よ。 皆さんが仰しゃるのよ、「伊達さん、モルモットのお話ならもう厭よ」って。』
『当り前ですわ。 お母さんも厭よ。』
『でもどうかしなければ仕方ありませんわ。』
『困ったものね。』
『公園へ置いて来ましょうか?』
『叱られますよ。』
『いゝえ、公園の動物園へ頼むのよ、お父さんから。』
『ライオンや熊なら兎に角、モルモットじゃ相手にしませんわ。』
 とお母さんもこれという分別がなかった。
『本当のモルモットかい?あの耳のない兔は。』
 とお父さんが訊いた。
『はあ。』
『でも、ギニヤ・ピッグだと言っていたじゃないか?』


『ギニヤ・ピッグがモルモットよ。 鹿の子は名前に瞞(だま)されたんですわ。』
 とお母さんが説明した。
『鳥屋さんがそう言うんですもの。 私、初めて日本へ来たものだと思って買って来たんですわ。 少しモルモットに似ていると思ったんですけれど、似ている筈ですわ、本物ですもの。』
 と鹿の子さんも由来を述べた。
『本物のモルモットなら幾らでも欲しいところがある。』
『何処?お父さん。』
『大学さ。 医学生が実験に使う。』
『解剖するんですか?』
『いや、薬や黴菌の実験をする。』
『可哀そうね。』
『しかしモルモットはそのために生れて来たものらしい。 モルモットが医学の進歩をどれくらい扶けているか知れない。 俺もあれが本当のモルモットだと知ったら、もっと尊敬するんだったが、ギニヤ・ピッグだと言うから馬鹿にしていた。』
 とお父さんはモルモットの理論だけ知っていた。 結局、モルモット五十何匹を医科大学へ実験用として寄附してしまった。 少し可哀そうだったが、伊達鹿の子殿という宛名の鄭重なお礼状を受取ってからすっかり元気がついた。 医学に貢献したような心持になったのである。
『お母さん、私、アンゴラが欲しいわ。』
 と間もなく鹿の子さんが言い出した。
『なあに?』
『兔よ。可愛いのよ。』
『又始まったのね。』
『欲しいわ、私。鳥屋に来ているのよ。』
『モルモットであんなに苦労をしたことを忘れたの?』
『今度は大丈夫よ。殖えれば幾らでも鳥屋で引き取ってくれるんですって。 アンゴラは流行(はやり)ですから、幾らでも買いたい人があるんですって。』
『いけませんよ。』
 とお母さんは受けつけなかったが、鹿の子さんは意志が強い。 一旦思い立つと、持久戦に入って必ず目的を達する。 とうゝゝアンゴラを二匹買って戴いた。その代りもう飼い物の種類を決して殖さないという堅い約束をした。
それだから考えて見ると困る。 今更ペルシャ猫が欲しいと言えない義理になっている。 しかしそこを巧くやって、兄さんの静人君に加勢をして貰う。 静人君は承知してくれた。 大器晩成は妹から尊敬されないのを遺憾に思っているから、以来十分尊敬するようにと條件をつけた。
『大丈夫?』
 と鹿の子さんは念を押した。
『安心しろ。 男子の一言だ。その代りお前も大丈夫だろうね?』
『何が?』
『もう忘れている。 尊敬だよ。』
『尊敬しますわ。』
『それじゃこれから少しお前の智恵を借りたい。』
『私から智恵を借りたがるようじゃ余(あんま)り頼みにならないわ。』
『それだからお前はいけないんだ。 すぐに兄さんを軽蔑する。』
『どういう智恵?兄さん。』
『智恵ってほどでもない。試験勉強だ。 お母さんに訊かれた時返答が出来なければ成功しない。 一体ペルシャ猫ってのはペルシャの猫だろうね?』
『はあ。』
『ペルシャの猫なら皆ペルシャ猫だろう?』
『そうでしょう。 日本の猫なら皆日本猫ですもの。』
『分った。 無論そうだろうと思ったが、僕は一遍失策(しくじ)ったことがあるから、よく知らないことはなるべく言わないようにしている。 うっかり知ったかぶりをすると後から行きつまるのが僕の癖だ。』
『ごまかしが利かないのね。』
『うむ。 いつか公園へお父さんのお友達を案内して行った時、僕は芝生のところで、「この白いのはクロバーです」と教えてやった。 するとお客さんは「赤いのは何でしょう?」と訊いた。 困ったよ。 お客さんはしっているんだ。「赤いのもクロバーです。 白いのは白クロバー、赤いのは赤クロバー」と教えてくれた。いゝ恥をかいたよ。』
『オホヽヽヽ。』
『赤い薔薇が赤薔薇、白い薔薇が白薔薇ぐらいのことは僕だって知っているんだけれど、クロバーの赤いのは滅多に見たことがなかったものだから、すっかり行きつまってしまった。 まだゝゝ智恵が出て来ない。 これだからペルシャ猫も用心してかゝる。』
『ペルシャの猫は皆ペルシャ猫ですわ。』
『何か効用があるかい?』
『さあ。』
『効用を訊かれた時にすぐ返事が出ないと拙(まづ)い。』
『綺麗で悧巧(りこう)よ。』
『綺麗で悧巧な猫なら日本にだって幾らもいる。 もっと何か効用はないかな?』
『あるわ、兄さん。 ペルシャ猫はマスコットになるのよ。』
『マスコット?何だい?』
『兄さん知らないの?』
『いきなり訊かれると行きつまるのが癖だと言っている。』
『縁起のいゝものよ。 ペルシャ猫を飼っていると運が向いて来るんですって。』
『成程。選手の勝ち護符(まもり)か?それなら聞いたことがある。 成程。 マスコットと言っていた。』
『運開きになれば、この上の効用はありませんわ。』
『よし。 それで沢山だ。』
 と静人君は大きく頷いた。


鹿の子さんは晩御飯の時お母さんにねだって静人君に助太刀をして貰うつもりだったが、お父さんが御一緒だったので予定が狂った。 お父さんがそれはいけないと仰しゃればもう駄目だ。 お母さんは素(もと)よりこの上飼い物を殖さない約束だから、すぐにお父さん組になってしまう。 考え直して戴く余地がない。 それで鹿の子さんはどうしたものかというように静人君の顔をじっと見た。 それに対して静人君は、
『鹿の子、どうする?』
 と訊いた。口をきいて打合せをするくらいなら、目使いはしない。 鹿の子さんは睨んで首を振った。 静人君は首を振った上に頷いた。 反対と賛成と両方だから何方(どっち)だか分らない。 鹿の子さんは又首を振った。 静人君は今度は再三頷いてから無闇に首を振った。
『何をしているの?』
 とお母さんが笑った。
『戴きます。』
 と静人君は食べ始めた。
『どうだね?』
 とお父さんは例の通りだった。
『もう試験間際ですから。』
 と静人君が答えた。
『勉強しているかい?』
『はあ。少し。』
『鹿の子は?』
『私も。 でも一番にはなれませんわ。』
『何故?』
『梅村さんって人、迚(とて)もよく出来るんですもの。』
『二番なら結構だよ。』
『梅村さんが一番、私が二番ともう永久に定(きま)っていますわ。』
『梅村というと銀行の梅村さんの娘だね?』
『はあ。』
『銀行の梅村さんなら俺も知っている。 この間も何かの会で一緒になった。』
『どんなお方。』
『ナカヽヽの人格者だ。 あの人の娘さんなら出来もいゝだろう。』
『鹿の子は今日学校の帰りに梅村さんのところへ寄って参りましたのよ。』
 とお母さんが言った。
『ふうむ。 よく出来る子と遊ぶがいゝ。』
『お母さん、梅村さんのところには可愛い子猫がいますのよ。』
『へゝえ。』
『ペルシャ猫よ。』
『へゝえ。』
『可愛いのよ、本当に。』
『猫は駄目ですよ。』
『ひどいわ、お母さんは。 私、まだ貰いたいとも何とも言っていやしませんのに。』
 と鹿の子さんは鼻を鳴らした。 思いついて一寸当って見たのだったが、お母さんは金城鉄壁だ。
『どうですか?お父さん。』
 と間もなく静人君が訊いた。
『うむ?』
『お父さんは僕のことをどうだいとお訊きになりますが、お父さんはどうですか?』
『何が?』
『御出世です。 今に大臣になれますか?』
『豪いことを言い出したね。』
 とお父さんは驚いたようだった。


『僕、お父さんに大臣になって戴きたいです。』
『大臣にはそう無闇になれない。 第一、年が若過ぎる。』
『でもお父さんの同級生で大臣になった人がいます。』
『あれは特別だ。』
『お父さんも御勉強次第です。』
『静人や、お父さんにそんなことを申し上げるものじゃありませんよ。』
 とお母さんがたしなめた。
『いゝよ。 静人でも俺の出世を考えていてくれるのかね。』
 とお父さんは寧ろ満足のようだった。
『それは考えていますよ。』
『有難い。』
『お父さんが大臣になって下されば、お祖父さんお祖母さんがお喜びになります。親孝行です。』
『静人や。』
 とお母さんが又遮った。
『何ですか?』
『何ですかじゃありませんよ。 お父さんにお説法をする子がありますか。』
『ハッハヽヽヽ。』
『笑いごとじゃありませんよ。』
『失礼致しました。』
『御飯でしょう?』
『はあ。』
『お出しなさいよ、早く。』
『それならごく少々。』
 と静人君は恐れ入った風をして、お母さんにお茶碗を渡した。 食事中は水入らずだ。 女中の手を煩(わずら)わさずに、お母さんが一々お給仕をしてくれる。
『静人に説諭をされたから、俺も大いに奮発するかな。』
 とお父さんは冗談を言った。
『僕、今日、鹿の子と相談したんです。』
『何を?』
『お父さんの御運が開けるようにと考えたんです。 ねえ、鹿の子。』
 と静人君は目くばせをした。
『はあ。』
 と鹿の子さんはすぐに意味が通じた。
『お父さんの御運を開くためにいゝマスコットを思いつきました。』


『マスコット?』
『はあ。』
『何だい?一体。』
『マスコットは飼って置くと運の向いて来る動物です。』
『動物とは限らない。』
『はゝあ。』
 と静人君は面食らった。 赤いクロバーのことを思い出したと見える。
『何でもいゝんだよ。 俺の知っているアメリカ人は小さな馬鈴薯(じゃがいも)を一つ何年となくポケットに入れている。』
『はゝあ。』
『しかし一向運が向いても来ないようだ。』
『はゝあ。』
『オホヽヽヽ。』
 とお母さんが笑い出した。
『何だい?』
 とお父さんが訊いた。
『眉毛へ唾をつけてお聴きにならなければいけませんよ。』
『はてな。』
『うっかり調子をお合わせになると、ペルシャ猫を飼わされますよ。』
 とお母さんはもう察してしまった。
『成程。』
『オホヽヽヽ。』
『鹿の子は又始まったんだね。 先刻(さっき)ペルシャ猫が綺麗だと言ったけれど、そこまでは気がつかなかった。』
『お父さん、飼ってやって下さい。 こうなっちゃもう仕方ありません。』
 と静人君は恐れ入った。
『さあ。』
『私、欲しいわ。』
 と鹿の子さんも只管(ひたすら)ねだる方針に出た。
『お母さんにお願いして御覧。』
 とお父さんは万事お母さん委(まか)せだ。
『お母さん、いゝでしょう?』
『いけませんよ。』
『私、もうお約束して来たんですもの。』
『困った人ね。』
『欲しいわ、私。』
『どんなの?一体、一口にペルシャ猫といっても、純粋のは滅多にありませんよ。』
『純粋のペルシャ猫ですって、綺麗よ。 とても綺麗よ。 純白ですわ。 毛が長くて銀のように光っていますわ。』
『尾はどんな風ですか?』
『太くて房のようですわ。』
『胸の毛が長いものよ。 純粋のペルシャ猫は。』
『長いわ。 私、初めの中、顎髭(あごひげ)だと思っていたくらいよ。』
『そうれじゃ純粋かも知れませんよ。』
 とお母さん、これでは何にもならない、
『その猫のお母さんのお母さんの又お母さんは日本に三匹しかいない純粋のペルシャ猫ですって。 何とかいう伯爵家の猫で、その子を何とかいうお相撲さんが‥‥ ‥‥』
 と鹿の子さんは猫の系図に取りかかった。
『飼ってやりなさいよ。』
 とお父さんも鹿の子さんには特に甘い。
『マスコットですから、子供が生まれても、貰い手は幾らもあります。』
 と静人君が推薦したので、


『女?』
 とお母さんが疑問を起こした。
『はあ。』
 と鹿の子さんはこれが唯一の引け目だった。
『子を生み始めると大変よ。』
『‥‥ ‥‥』
『モルモットで懲(こ)りていますからね。』
 とお母さんが又二の足を踏み始めた。鹿の子さんは形勢が悪くなってしまって、泣きそうな顔をしていたが、
『いゝさゝゝゝ。 兎に角ペルシャ猫と名がつけば唯だの猫と違うから、俺が方々へ世話をしてやる。』
 とお父さんが又味方になってくれた。
『そうれじゃ飼って上げましょうか?』
『飼っておやりよ。』
『マスコットになるかも知れませんからね。』
 とお母さんは結局承知してくれた。 迷信ではないが、縁起を祝うのは人情だ。 静人君の無器用な持ち出し方が却ってよかった。
『飼って戴けて?』
『えゝ。 お約束して来たんですから、仕方がないじゃありませんか?』
『あゝ、嬉しい!』
『これから生き物は何でもお母さんに断らずにお約束しちゃいけませんよ。』
『えゝ。 気をつけます。』
 と鹿の子さんは大喜びだった。
『俺も今晩は何だか心持がのんびりした。』
 とお父さんが言った。
『僕、もう失礼します。』
 と静人君が立ち上がった。
『お待ち。』
『はあ。』
『お前がお父さんのことを少しでも考えてくれたと思うと、お父さんは嬉しいよ。』
『本当に考えたんです。』
『全く肚(はら)になければ言えないことだ。 お父さんも一生懸命でやるから、お前も奮発しておくれ。』
『はあ。』
『大器晩成かな?』
『はあ。高等学校へ行ってから奮発します。』
『しかし今から少し奮発しないと、高等学校へ入れないよ。』
『はあ。』
『来年あたりから少しづつ智恵を出すんだね。 出す癖をつけて置く方がいゝ。』
『はあ。』
『智恵は一杯入っているぞ。その頭の中に。』
『入っているようです。』
『癖さえつければいゝんだ。 よしゝゝ。』
 とお父さんは頷いた。
静人君は正直なものだから、褒められると意気込みが違う。 早速勉強部屋で明日(あした)の下読みを始めた。 そこへ鹿の子さんがニコヽヽしながら入って来た。
『兄さん。』
『何だい?』
『有難う。』
『一寸こんなものさ。ハッハヽヽヽ。』
 と静人君は得意だった。
『私一人じゃ迚も駄目でしたわ。』
『無論。』
『やっぱり役に立つことがあるわ、兄さんでも。』
『でもなんて言うなよ。』
『オホヽヽヽ。つい。』
『約束を忘れちゃいけない。』
『忘れませんわ。』
『尊敬しろ。』
『尊敬しますわ。 この通り。』
 と鹿の子さんは丁寧にお辞儀をした。


『これからは困ることがあったら、何でも兄さんに頼むんだ。』
『はあ。』
『ダンヽヽと智恵が出て来る。』
『出す癖をつける方がいゝって、お父さんも仰しゃいましたわ。』
『うむ。 もうソロヽヽ少しづつ出す。』
『出し序(つい)でに一つ考えて戴きますわ。』
『何を?』
『名前よ。 猫の名前よ。』
『よしゝゝ。』
『兄さんのお蔭ですから、兄さんを名づけ親にして上げますわ。』
『尊敬し始めたね。』
『えゝ。』
『タマはどうだい?』
『英語でなけりゃ駄目よ。』
『ジョンか?』
『ジョンは犬よ。 おまけに男じゃありませんか?』
『それじゃ辞書を引いて、いゝのを探してやる。』
 と静人君は悉く満足だった。

鹿の子さん時代
『京子さん。』
 と鹿の子さんが誘った。 二人はお隣りどうしだから、毎朝誘い合う。
『はあ。』
 と京子さんの返辞が聞えた聞えたけれど、鹿の子さんはいつにないことに三四分待たされた。 京子さんは何か揃わないものがあって、それを探していたのだった。
『失礼いたしました。』
『どう致しまして。』
 と答えた鹿の子さんは待っていた間(ま)に思いついたことがあった。 昨日あれからの出来事を報告がてら、京子さんを一寸擔(かつ)ぐ気になって、歩き出すとすぐに、
『京子さん、昨日は有難うございました。』
 と殊更丁寧にお辞儀をした。
『なあに?』
『家へお言伝(ことづて)をお頼みしたじゃありませんか?』
『あら、あんなこと、改まってお礼には及びませんわ。 けれども、私、少し心配していましたのよ。』
 と京子さんが言ったのは鹿の子さんの思う壷だった。
『大変なことになってしまったのよ。』
『まあ!どうして?』
『私、とうゝゝ喧嘩をしてしまったの。』
『あらまあ!』
『仲よしになるつもりで上がったんですけれど、私、こういう性分ですから、申し上げることだけは申し上げないと気が済みません。 梅村さんのお母さんの前で申し上げましたわ。』
『あのことも。』
『えゝ。鹿の子に馬の字。私、申し上げて、「どうでございますの?梅村さん、あなたこれでも私の悪口を仰しゃらなかったと仰しゃるんでございますか?」って、威張って上げましたわ。』
『困るわ、私。 でも私からってことはお約束を守って下すったでしょうね?』
『京子さん、堪忍して頂戴よ。』
『あら!仰しゃったの?』
『でも仕方がなかったんですもの。』
『厭よ、私、鹿の子さん。』
『梅村さんはそんなこと覚えがないと仰しゃるんでしょう。 私だって言い出した以上、後へは引けませんから、チャンと証拠人がありますって、あなたのことを申し上げましたの。』
『‥‥ ‥‥』
『すると梅村さんは「それじゃ私、明日(あした)中島さんに訊いて見ますから」って仰しゃいましたの。』
『‥‥ ‥‥』
『私、そんなことなすっちゃ迷惑しますって‥‥ ‥‥あら、京子さん。』
 と鹿の子さんは振り返った。京子さんは往来に立ち止まっていた。
『京子さん。』
『‥‥ ‥‥』
 京子さんは返辞をしないで、家の方へ歩き出した。 鹿の子さんが捉まえようとしたら、走り出した。
『冗談よ、京子さん。』
 と鹿の子さんは追って行く。 しかし京子さんは本気だったから、鹿の子さんが捉まえるまでに家の門近くへ辿(たど)り着いていた。
『京子さん、冗談よ。』
『‥‥ ‥‥』
『堪忍して頂戴。 すっかり冗談よ。』
『私、本気よ。 本当なら学校へ行きませんから。』
 と京子さんは断乎(だんこ)たる決心の色を示した。
『冗談よ。 さあ、参りましょう。』
『‥‥ ‥‥』
『京子さん。 私、あやまります。』
 と鹿の子さんはお辞儀をして、家の方を見た。 何方(どっち)のお母さんに見つかっても工合(ぐあい)が悪い。


『本当に冗談ね。』
 と京子さんは念を押して歩き出した。
『すみませんでした。 吃驚(びっくり)させるつもりで、つい。 オホヽヽヽ。』
『それじゃ私が申し上げたってこと仰しゃらなかったのね?』
『えゝ。そんなこと、私、口が腐っても申しませんわ。』
『安心しました。』
『何にも申し上げませんのよ。 すっかり仲よしになって帰って来ましたわ。』
『ようございましたわね。』
『あなたのお蔭よ、皆(みんな)。』
『どうして?』
『話して見れば梅村さんだって屹度いゝ人ですって、あなた仰しゃったでしょう?』
『はあ。』
『その通りでしたわ。此方(こっち)から折れて出れば、先方(むこう)からも折れて出ますわ。』
『梅村さんもお喜びになったでしょう?』
『えゝ。 それで私、ツクヅク考えましたの、京子さんでも時たまいゝことを教えて下さるって。』
『ひどいわ。』
『オホヽヽヽ。』
『でもよかったわね。』
『本当にお蔭さまよ。 明日(あした)遊びにお出でになるのよ。 あなたもいらっしゃいよ。』
『はあ。』
『それから私、ペルシャ猫を貰うのよ。』
 と鹿の子さんは話し続けた。 京子さんはもうすっかり御機嫌が直った。
『あら!そう?まあ!オホヽヽヽ。』
 と一々責任のある受け答えをしながら、我れを忘れていたが、学校の近くへ差しかかった時、
『あら!後れたようよ。』
 と慌て出した。
『そうね。』
『誰も通りませんわ。』
『急ぎましょう。』
『後れたのよ。』
『御免なさい。 私の罪よ。』
『いゝえ、私があんなことして手間を取ったんですわ。』
『あら!鐘が鳴っているわ。』
 と鹿の子さんは先に立って駈け出した。 校門校庭ともヒッソリしていた。 誰しも時折経験のあることだが、甚だ心持のよくないものだ。 二人は遅刻したのだった。
『おやゝゝ、お嬢さん達。』
 と小使長の阿部老人が廊下で呼びかけた。
『後れたわ。』
 と鹿の子さんは息をはずませていた。
『知事さんと学務部長さんですね。』
『厭よ。』
 と京子さんも通り抜けた。 朝礼がもう始まっていた。
二人は恐る々々講堂へ入って行った。 どうせ後れたのだから序(つい)でに休んでしまおうと料簡をきめて教室にかくれているものもあるけれど、鹿の子さんと京子さんはそんな生徒ではない。 しかし遅刻は辛い。 遅参者の席は一番後の一列と定(き)めてある。 前が三四列空(あ)いているから、ひどく注意を惹(ひ)く。
『あら、あの人達は後れたのよ。』
 と言ったようにも五年級の生徒達が見返る。 しかしその朝は皆校長先生の講話に食い入っていて、遅参者のあったことに気がつかないようだった。 鹿の子さんと京子さんはコッソリと席について、俯向いていた。


『皆さん、これがそのお嫁さんでございました。』
 と講壇の校長先生が仰しゃった。
『真白な晴れ着を着た骸骨でした。 お父さんお母さんが泣きました。 私も親だったら泣きます。 いや、親でなくても、可哀そうでたまりません。 このお話を考える度(たび)に親御さん達の悲しみはどんなだったろうと存じます。』
鹿の子さんと京子さんは中途だったから、何のことだか分らなかった。
『この娘さんがどうしてこんな悲惨なことになったかは真(ほん)の一寸の出来心でした。 娘さんは御婚礼の支度最中に若し私が今見えなくなったら屋敷中大騒ぎするだろうと思いついたのであります。 結婚式にはお嫁さんが一番の花形役者ですから、これはそれに相違ありません。 そう思いつくと、真の冗談のつもりで、蔵へ入ったのであります。 そこにその大きなトランクがあったのであります。 それに入って、蓋(ふた)をしますと、ガチャンといったきり、もう開きませんでした。 泣いても叫んでも聞えません。 御婚礼の始まる間際にお嫁さんが見えなくなったのですから、大変です。 殿様、奥方、家の子郎党が血眼になって、屋敷中を探しました。しかし蔵の奥の大(おお)トランクの中とは誰も気がつきません。 戦国の世ですから、結局、敵に攫(さら)われたものと思い込んで、数年過去ったのであります。 娘さんはどんなにか悶え苦しんで死んだことでしょう。 どんなに後悔したことでしょうか?それも後悔先に立たず、空しく大トランクの中で白骨と化したのでございます。 一寸の思いつきがこういう大事に立ち到ります。 何をするにも後先(あとさき)を考えなければいけません。』
ここで鐘が鳴った。阿部小使長は実際学校中を支配している。 校長先生はもう少し話したかったようだったが、もう仕方がなかった。号令がかゝって、一同起立敬礼。 一番前列の一年生から順々に教室へ引き揚げる。 鹿の子さんと京子さんは五年生の後について行くのだから、甚だ工合が悪かった。 遅刻を告白しながら歩くようなものだった。
『京子さん、御免なさい。』
 と鹿の子さんがあやまった。
『私が悪かったのよ。』
『いゝえ。私よ。』
『私よ。』
 と京子さんは譲らなかった。 こういう主張なら喧嘩にならない。
『私の思いつきが悪かったんですわ。』
 と鹿の子さんは中途から聴いた校長先生の講話が頭の中にあった。
『私、あなたを驚かすつもりでありもしないことを申し上げたんですから。』
『私もよ。そんなに憤ったんじゃないんですけれど、困らせて上げようと思って帰りかけたからよ。』
『それじゃ五分々々?』
『五分々々じゃ損だわ。 四分六分よ。』
『私が六分ね。 一分だけあやまりますわ。』
『えゝ。』
 と京子さんは笑いながら受けた。


教室へ入ったら、皆(みんな)、
『とても凄かったわね。』
『校長先生も随分気味の悪いお話をなさいますわ。』
『まるで探偵小説ね。』
『面白いわ、あゝいうのが。』
 と講話の印象を語り合っていた。
『梅村さん。』
 と鹿の子さんが呼びかけた。
『伊達さん、昨日(さくじつ)は失礼。』
 と梅村さんがイソヽヽして寄って来て、手を取った。
『私こそ。本当に有難うございました。』
『私、先刻(さっき)から探していましたのよ。 今お出でになったの?』
『えゝ、後れたのよ。』
『まあ。 珍しいことね。』
『つい道草をしてしまって。』
『それじゃ朝礼のお話お聴きになりませんでしたの?』
『おしまいの方だけ一寸。』
『とても凄いお話ね。』
『伊達さん。』
 と横田さんが席から離れて来て、
『昨日(さくじつ)は。 オホヽヽヽ。』
 と挨拶をした。


『痛かったわよ、お土産が。』
『オホヽヽヽ。』
『笑っちゃ駄目よ。 朝から。』
『大丈夫よ。 あなた今朝遅刻?』
『えゝ。』
 と鹿の子さんは快く答えた。 昨日までは好かない人だったが、梅村さんを通して理解し始めた。
『それじゃこれお聴きにならなかった?』
 と横田さんは口を開いて目を白くして見せた。
『なあに?』
『長持の、あら、違ったわ。 トランクの中の白骨よ。 こういう顔。』
『まあ!こわい。』
『手はこうでしょう。 屹度。』
『オホヽヽヽ。』
 と周囲(あたり)のものが笑い出す。
『オホヽヽヽ。』
 と横田さんも。
『だめよ、横田さん。』
 と梅村さんがたしなめた。 横田さんは笑い出すと自制の利かない人だ。
『オホヽヽヽ。』
『そら、又始まりますよ。』
『大丈夫よ。 伊達さん、私、今校長先生のお話を承わりながら、あなたのことを考えていましたのよ。』
『なぜ?』
『西洋のお話ですけれど、今なら知事さんみたいな役目の人のお嬢さんですって。』
『厭よ、横田さん。』
『それに元来茶目的傾向があったんですって。 オホヽヽヽ。』
『ひどいわよ。』
『オホヽヽヽ。』
『あら、鳴ったわ。』
 と梅村さんが言った。 鐘が鳴り出した。
『おしいわね。』
 と横田さんは露骨だった。 もう授業が始まる。
その日、鹿の子さんと梅村さんは休憩時間毎に話し込んだ。 他のものが寄って来ると、逃げて歩いた。
『おかしいわね、今まで睨み合っていた二人が。』
 と皆気がついたくらいだった。
『いまに又喧嘩をするわよ。』
『しますとも。』
『どっちもお鼻が高いんですからね。』
『いまに鼻と鼻が衝突しますわ。』
 と予言するものもあった。
しかし二人は幾日たっても変らなかった。
『梅村さんと伊達さん。』
 と或る日横田さんが二人の間へ割り込んだ。


『あら!吃驚(びっくり)するじゃありませんか?』
 と梅村さんが顔をしかめた。
『私、今あなた方のことをお作文に書いたのよ。』
『まあ!』
『友情って題でしたから、丁度よかったわ。 甲よ、屹度。』
『何て書いたの?』
『ネコ姉妹(きょうだい)って。』
『何姉妹?』
『猫姉妹よ。 親が同じなら姉妹でしょう?』
『えゝ。』
『あら、違ったわ。 主人同志が兄弟なら、奥さん同志は義理の姉妹でしょう?』
『えゝ。』
『私の家はそうよ。』
『それは何処でもそうよ。』
『私のお父さんの兄さんの奥さんは私の伯母さんよ。 お母さんは私の伯母さんのことを姉さんと仰しゃいますよ。』
『じれったい人ね。』
『それだからよ。 猫同志が姉妹なら、飼い主同志も姉妹でしょう?』
『そんな理屈はないわ。』
『でも私、そう書いてしまったのよ。 少し違っていても、大体合っているでしょう?』
『さあ。』
『乙ぐらい取れますわ。』
『私達ってことを書いたの?』
『えゝ。 純子さんと鹿の子さんと書きましたから、先生はお分かりになりますわ。 猫姉妹で仲がいゝって褒めて上げたんですから、いゝでしょう?』
 と横田さんは手柄顔だった。
『猫姉妹!オホヽヽヽ。 如何(いか)にも仲がよさそうじゃありませんか?横田さんは面白いことを考えるのね。』
 と鹿の子さんが感心した。
『もっと書いたのよ、本当を言えば。』
『なんて?』
『あなた方二人のこと初めから。』
『なんて?何て?』
 と梅村さんが気にした。
『初めは睨み合いでしたって。』
『まあ!』
『睨み合いなんてことなかったわ。』
 と鹿の子さんが否定した。
『少しあったわ。』
『なかったわ。』
 と梅村さんも相手が前に控えているから困る。
『あら!』
『なあに?』
『あなたは伊達さんのことを厭にツンヽヽしているって仰しゃったじゃありませんか?』
 と横田さんは遠慮がない。
『およしなさいよ、そんなつまらないこと。』
『その二人がすっかり仲よしになって、級(クラス)全体にいゝ感化を与えているって書いたのよ。』
『まあ!大袈裟な人!』
『でも本当にそうよ。 私だって初めは伊達さんが嫌いだったんですもの。』
『恐れ入りました。』
 と鹿の子さんが頭を下げた。
『オホヽヽヽ。』
『私、生意気に見えましたの?』
『えゝ。 でも梅村さんのお蔭で交際してみたら、ちっとも生意気じゃないんですもの。』
『有難うございます。』
『すみません。』
『いゝえ。』
『オホヽヽヽ。』
『私も梅村さんのお蔭であなたがよく分ったのよ。』
『私、笑うだけでちっとも悪いことなんかないでしょう?』
『えゝ。』
『そういう風に同級生が理解し合うことを書いたのよ。 仲の悪かった二人が‥‥ ‥‥』
『悪かなかったのよ。 いゝにも悪いにも、知らなかったんですわ。』
 と梅村さんが又口を出して説明した。
『えゝ。 知らなかったものが仲よしになったものですから、他の人達もお蔭で皆仲よしになって仕合わせですって。いゝでしょう?それなら。』
『えゝ。』
『仲の悪い人が二人で睨み合っていると、その友達までお互いに仲が悪くなって困りますって。 そういうことが以前あったけれど、今はもうありませんって。それならいゝでしょう?』
『えゝ。』
『それですから、友情は大切ですって。 甲よ、やっぱり、これぐらいなら。』
 と横田さんは自信を持っていた。
鹿の子さんと梅村さんの交際は実際横田さんが作文に書いた通りだった。 睨み合っていたのがすっかり打ち解けて仲よしになってしまった。 これで当分寛(くつろ)ぐ。 お母さんは鹿の子さんの気象を知っているから、絶えず注意している。
『鹿の子や、梅村さんってナカヽヽ品のいゝお嬢さんね。』
『えゝ。』
『お父さん同志も知っていらっしゃるんですから、この上とも仲よくなさいよ。』
 と梅村さんが遊びに来た後で勧めた。 猫の子を貰ってやったのもそのためだった。
『お母さん。 私、何処の学校へ入っても同じことね。 出来る人に屹度嫌われるのよ。 大抵一番の人よ。』
 と鹿の子さんが言った。
『それはお前が気が勝っているからですわ。』
『気が勝っていれば嫌われますの?』
『いゝえ、お前の方で嫌いな人を拵(こし)らえるからよ。』
『そんなことありませんわ。』
『そうよ。 いつでも一番の人に嫌われるのはお前が一番の人を嫌うからよ。 嫌われゝば、先方(むこう)だって好きになりませんわ。』
 とお母さんは鹿の子さんの方から言い出したのを幸いに諭して聴かせるつもりだった。


『でも後から一番の人と屹度仲よしになりますわ。』
『それまでに半年かゝるでしょう?』
『えゝ。 梅村さんも丁度半年ぐらいよ。四、五、六、七、八、九、十、十一と、あら、半年以上ですわ。 憎らしい人ね。』
『すぐにその通りじゃありませんか?』
『つい間違ったのよ。』
 と鹿の子さんは仲よしになったばかりだった。
『困った人ね。』
『もう憎らしくないわ。』
『お前はその癖をやめないと又この次の学校へ入って厭な思いをしなければなりませんよ。』
『あら!お母さん、又転任?』
『そうじゃありませんけれど。』
『私、損ね、お母さん。』
『なぜ?』
『折角いゝお友達が出来たと思うと、すぐに学校が変るんですもの。』
『それはお父さんの御都合で仕方ありませんわ。お上のお勤めですもの。』
『でも損よ、学校が変るのは。』
『お母さんもそれを心配しているよの。しかし変っていゝこともあるでしょう?』
『ないわ。』
『ありますよ。例えば広く世間を見るでしょう。 一つところにばかり住んでいる人達よりも見聞が広くなりますわ。』
『えゝ。』
『土地には何処にしてもその土地特有のいゝ気風がありますから、その感化を受けることも出来ますわ。』
『えゝ。』
『いゝ方だけ採り入れて損の方は気をつけて償うようにする外(ほか)ありませんわ。』
『分りました。』
『気をつけて下さいよ。 特別にね。学校が度々(たびたび)変るからすれているなぞと言われちゃ大変ですよ。』
 とお母さんはいつもそれを苦にしている。
しかし鹿の子さんには以来満足な日が続いた。 間もなく二学期が終わって、試験の成績は二番だったけれど、一向苦情がなかった。 仲よしの梅村さんと争う気がないのみならず、実力は一番でも席次は二番と初めから覚悟をしている。偶々(たまゝゝ)京子さんも居据(いすわ)りの三番だった。
『京子さん、御覧なさい。 いつか私が申し上げた通りでしょう?』
 と鹿の子さんは先見の明を誇った。
『なあに?』
『席順よ。私を一番にすれば、お父さんが知事だから一番にしたと思われますから、やっぱり二番よ。 あなたは実力二番ですけれど、お父さんが学務部長ですから、やっぱり三番よ。』
『本当ね。』
 と京子さんもそう解釈する方が自分の都合だった。
それからお正月が来た。 いや、暮(くれ)に一つ特筆大書すべきことがあった。 その土地出身の飛行家がフランスから飛んで来て、故郷に錦を飾るため、着陸することになっていた。 市民挙(こぞ)っての歓迎だった。 鹿の子さんはその飛行家に花束を贈呈する晴れの役目を新聞社から頼まれた。
『素敵ね。』
 とこれは梅村さんも羨ましがった。
『私、困るわ、皆に見られて。』
 と鹿の子さんは謙遜していたが、京子さんには、
『これぐらいのことはあってもいゝのよ。 一番になれないんですから。』
 と言った。飛行機は予定通りに着陸した。 知事令嬢伊達鹿の子さんは満場拍手喝采の裡(うち)に花束を飛行家に捧げた。 お振り袖姿だった。 その写真が翌朝の新聞に出た。


それから正月だった。 鹿の子さんは梅村さん初め同級生三四名からカルタ会へ招かれた。 元日の式の折、梅村さんが、
『鹿の子さん、お母さんが見たいって仰しゃるから、花束贈呈の時のお振り袖で来て頂戴な。いゝでしょう?』
 と頼んだのだった。
『えゝ。お母さんがいゝと仰しゃったら。』
 と鹿の子さんは悪くなかった。
『私のところもお振り袖よ。』
 とそれを聞いていた鴨武さんが注文をつけた。 鹿の子さんは方々に招かれて、忙しいくらいだった。 そのお返しに自分の家でもカルタ会を催した。 鹿の子さんのところが一番盛会だった。
『鹿の子さん、これからは鹿の子さん時代よ。』
 と京子さんが言った。

兄さんの成績
鹿の子さんは梅村さんから戴いたペルシャ猫の子にメリーという名をつけた。兄さんの静人君が名づけ親だった。 その関係から静人君も可愛がる。
『此奴(こいつ)は親を知っているせいか、僕のところへよく遊びに来る。』
『悧巧ね。』
『うむ。』
『口こそきかなくても、人間の心持はすっかり分るのよ。』
『分る。 恐ろしいくらいだ。 昨夜(ゆうべ)なんか僕の勉強の邪魔をするんだもの。』
『ふざけるの?』
『いや。 僕が代数をやろうと思って教科書をひろげたら、その上へ坐ってしまったんだ。』
『机の上へ坐るのが大好きよ。』
『僕は実に感心した。』
『どうして?』
『こんなに人間の心持の分る猫は滅多にいない。 僕は教科書をひろげたが、勉強するのは厭だった。 「あゝあゝ、厭だなあ」と心の中で思ったんだよ。 すると此奴、ニャオンと鳴いて、僕の膝から机の上へ上がって、教科書の上へ坐ってしまった。』
 と静人君はメリーの頭をなでながら話す。
『まあ!オホヽヽヽ。』
『幾ら退(ど)いてくれと言っても退いてくれない。 「メリーや、僕はこれから勉強しなければならないんだから」と頼んでも、ノウヽヽと言う。』
『嘘よ。』
『ニャオン ニャオンさ。』
『この子は強情ですから、自分の気に入ったところですと、ナカヽヽ動きませんわ。』
『そこで僕は考えた。 八幡太郎義家の話だ。』
『義家がどうしたの?』
『鴻雁(こうがん)乱れ飛ぶ時は伏兵あり。 お前、知らないだろう?』
『知らないわ、そんなむづかしいこと。』
『雁(かり)が乱れて飛ぶ時は敵が何処かに匿(かく)れている。』
『あら、それなら知っているわよ。』
『英雄豪傑ってものは禽獣の挙動を見て悟りを開く。 僕はメリーが本の上に坐って動かないから、これは勉強しない方がいゝんだと思って、すっかり遊んでしまった。』
『狡いわね、兄さんは。』
『ハッハヽヽヽ。』
『駄目よ、そんなことじゃ。』
『いや、メリーが邪魔をする時は勉強しなくても大丈夫だ。 その証拠には、今日は予習をして行かなかったけれど、ちっとも当らなかった。』
『やっぱりマスコットでしょうか?』
『マスコットだよ。 痛い!』
『頂戴。』
 と鹿の子さんはメリーを膝の上へ抱き取った。
『食いついた。』
『怠けるマスコットなんかに使われちゃ困るって意味よ。』
『言葉が分るんだね、やっぱり。』
 と静人君は感心していた。


『オホヽヽヽ。』
『何だい?』
『兄さんは猫の弄(いじ)り方を知らないんですわ。』
『どうして?』
『腰のところを捉まえると、すぐに食いつくのよ。 そら、憤るでしょう。』
『成程。』
『耳の下や首だと嬉しがっていますけれど。』
 と鹿の子さんは耳の後を撫でてやった。 メリーは目を細くして喜んでいる。
『マスコットだ。 この猫を貰ってからいゝことが続く。』
『本当ね。』
『僕もこの間先生に褒められた。』
『まあ!』
『そんなに吃驚するなよ。』
『でも珍しいんですもの。』
『しかし大したことはない。 正直だってんだ。』
『唯だの正直?何かつきはしない?』
『つく。真っ正直だってんだ。』
『馬鹿正直でなくてよかったわね。』
『此奴。』
『失敬。』
『生意気だね、お前は。 まるで男のようだ。』
『それじゃ男は生意気?』
『こら!』
 と静人君は睨んだ。しかしむろん冗談だ。 英雄豪傑をもって任じているから、決して憤らない。
『御免なさい。』
『この間代数の答案を返して貰った時、僕の点が間違っていたんだよ。 五題で八十点取れているのが八十五点になっている。』
『八十点なんて取ったの?兄さんが。』
『又馬鹿にする!』
『御免なさい。 つい癖になっているのよ。』
 と鹿の子さんは平気なものだ。
『八十五点になっていたから、僕は先生のところへ行って、これは合計が五点違っていますと言った。 すると先生は「急いだものだから間違えた。 しかし多い方へ間違ったんだから苦情はあるまい」と言った。 僕は「お剰銭(つり)を返しに来たんです」と言った。 「いゝよ、僕が間違えたんだから」 「しかしお気の毒ですから、今度の試験の時五点引いて下さい」 「よしよし、君は真っ正直だから感心だ」と先生が褒めてくれたんだよ。』
『豪いわ、兄さんは。』
『これでも少しは豪いところがある。』
『私なら黙っていて得をしてしまうわ。』
『僕は点数なんかそう欲しくない。 今の中は六十五点か七十点貰えば沢山だ。落第さえしなければいゝんだ。 しかし今年になってから少し取れ出した。 臨時試験は皆七十五点か八十点だ。』
『いゝ塩梅ね。 もうソロヽヽ智恵が出始めたんじゃなくて?』
『さあ。試験運がよくなったんだろう。 八十点を続けて取って感心しているんだ。』
『感心していちゃ駄目よ。 よかったらよかったで、もっと勉強するものよ。』
『大器晩成ってものは急がない。 マスコットの加減で取れた点を自分の智恵だと思うと大間違いだ。』
『変っているわね、兄さんは。』
『それは少しは違うさ。』
 と静人君は何処までも大器晩成だ。
『兄さん、私、もうクラス全体を征服してしまったわ。』
『お前は目から鼻へ抜ける。 お前のは本当の智恵らしい。』
『人格の力よ。』
『人格もある。』
『皆伊達さん々々々々って言って大切(だいじ)にして下さるわ。』
『もう梅村さんと喧嘩をしないかい?』
『喧嘩どころか、大仲よしよ。』
『結構々々。』
『他の組の人まで私とお話をしたがるのよ。 この間なんか鴨武さんの姉さんがワザヽヽ私の側へ寄って来て、「この方が伊達鹿の子さんよ」ってお友達に紹介してくれましたわ。 皆四年生よ。 上級生は大抵もう私を知っていますわ。 私が通ると、「あれが伊達鹿の子さんよ」って見ているんですもの。』
 と鹿の子さんは得意だった。


『僕もそうだよ。』
『どう?』
『僕が通ると、「あれが伊達静人だ」って上級生が見ている。 しかしその後が悪い。』
『いゝ筈はないわ。 何て?』
『知事の息子だけれど、成績は余り振るわないって。』
『駄目よ、それじゃ。』
『まだあるんだよ。 まだ智恵を出さないけれど、出せばお父さんより豪くなるって。』
『嘘よ。』
『ハッハヽヽヽ。』
『嘘に定まっているわ。』
『目のない奴等だから、そこまでは見てくれないんだ。』
『そう見えないんですもの。』
『しかし同級生は皆認めていてくれる。 伊達は腕力が強いから、うっかり出来ないって。』
『腕力なんか強くても仕方がないわ。』
『まあゝゝ、待てゝゝ。』
『待ってばかりいて一生智恵が出ないでしまうんじゃないの?』
『お前には困る。 お母さんの真似をして、僕に説諭をするつもりだ。』
『オホヽヽヽ。』
『そういう心掛けじゃ幾ら学問ができても、操行は乙だよ。 妹は妹らしくしなければいけない。』
『兄さんも兄さんらしくして戴きますわ。』
『よしゝゝ。』
『安請合いじゃだめよ。』
『今に見ていろ。 成績のいゝものは損をする。 成績の悪いものは得をする。』
『そんなことないわ。』
『あるよ、お前は成績がいゝから、お父さんもお母さんもいゝのが当り前だと思っている。 僕は悪いから、懸賞がついている。』
 と静人君はニコヽヽ笑った。正直者だから、いゝことがあると黙っていられない。
『どんな懸賞?』
『三十番以内で及第すれば、夏休みに東京へやってやるとお父さんが仰しゃった。』
『まあ!』
『一寸こんなものだ。』
『狡いわ。三十番以内なんて、誰にでもなれるじゃありませんか?』
『ところが僕は三十五番から四十五番の間を往復している。 これが十番ぐらいにいて見ろ。お父さんは一足飛びに一番になれと仰しゃる。 とても出来ない相談だ。 しかし三十番以内なら飴だよ。』
『損だわ、私。』
『それだからそう言っている。』
『私、兄さんについて行くわ。二番ですもの、資格があるわ。』
 と鹿の子さんは力強く主張した。


『つれて行ってやるよ。』
『どうぞ。』
『三十番以内なら幾ら大器晩成だって飴だ。 しかしそこをナカヽヽむづかしいように言うのが僕の豪いところだ。』
『親を瞞(だま)すのね、兄さんは。』
『瞞すってわけでもないが、そう無理に早く智恵を出すと後が続かない。 三十番以内になれば、今度は二十番以内になれと仰しゃるに定まっている。 そこで僕は「お父さん、それはナカヽヽむづかしいです」と言ったんだ。 「まだ智恵が出ないかね?」と、お父さんはじっと僕の顔を見ていた。 「はあ。まだ少し」と僕は勿体をつけてやった。』
『悪いわ。』
『考えがあるんだよ。 「しかしお父さん。折角ですから、條件をつけます」 「どういう條件だね?」 「お祖父さんお祖母さんが待っていますから、僕一人でなくて、鹿の子も一緒にやって下さい。 それならきっと三十番になって御覧に入れます」 「宜しい」とお父さんが仰しゃった。』
『まあ、嬉しい。』
『僕はこの通りどんな時でもお前のことを考えている。』
『有難うございます。』
『それだから僕を尊敬しなければいけない。』
『尊敬しますわ。』
『こういうわけで心掛けているせいか、今度は少し取れるんだ。 臨時試験が七十五と八十ばかりだから、この調子で行けば、三十番ぐらいにはなれるだろう。』
『なって下さらなければ困りますわ。』
『若しなれないと恥をかくと思って黙っていたんだけれど、大抵なれそうだ。』
『是非なって戴きますわ。』
『なってやる。』
『私、これから毎晩監督をして上げるわ。』
『頼むよ。 僕はどうも勉強するよりも遊んでいる方が楽な性分だから。』
 と静人君は天真爛漫だ。
鹿の子さんは思い立つと矢も楯もたまらない。 静人君と違って気象が激しい。その晩から急に厳しくなった。
『兄さん。』
 と呼んで、静人君の部屋を覗いた。
『何だい?』
『勉強していて?』
『うむ。』
『あら、駄目よ。 机の上に御本がないじゃありませんか?』
『これからだよ。』
『早くお始めなさいよ。』
『よしゝゝ。』
 と静人君は仕方なく予習に取りかゝった。 鹿の子さんは口も八丁、手も八丁だ。兄さんの監督を引受けるくらいだから、自分の勉強に怠りがない。 折から明日(あした)の朝臨時試験がある。 その支度を半ば終わって、又兄さんの部屋を覗いて見た。


『あら、いないわ。』
 と障子を開けた。
『こゝだよ。』
『あらまあ!』
『ハッハヽヽヽ。』
 と静人君は逆立ちしたまゝ、真赤になって笑っていた。
『何の真似?それは。』
 と鹿の子さんは足を捉まえた。
『腹ごなしをして、これから勉強を始める。』
『駄目ね。』
『痛い々々!』
 と静人君は手で跳ね起きた。 鹿の子さんに脹脛(ふくらはぎ)のあたりを抓られたのだった。


鹿の子さんは翌日学校で、仲よしの梅村さんに、
『私、いゝことがあるのよ。』
 と早速仄(ほの)めかした。
『なあに?』
『あなたからマスコットを戴いていますから、きっと願いが叶うわ。』
『何よ?』
『とてもいゝことよ。 でもまだハッキリ定まったんじゃないんですから。』
 とじらした後、
『夏休みに東京へ行けそうよ。』
 と発表した。
『お父さんが御転任?』
『いゝえ。それならいゝことじゃありませんわ。 あなたと別かれてしまうんですもの。』
『安心しました。』
『遊びに行って来るのよ。』
『お母さんと?』
『いゝえ、兄さんと。』
『羨ましいわ。 私なんか五年にならなければ駄目よ。』
『修学旅行?』
『えゝ。どうせ田舎ものですから。』
『そんなことありませんわ。 私の方がよっぽど田舎ものよ。 東京にはお祖父さんお祖母さんがいるばかりですもの。』
『今度銀座に柳が植わったんですってね。』
『えゝ。』
『見たいわ。 私。どんなところだか。』
 と梅村さんも当然東京に憧れを持っている。
『なあに?梅村さん。』
 と横田さんが寄って来た。
『伊達さんが東京へいらっしゃるのよ。』
『あらまあ!』
『でもすぐ帰っていらっしゃるのよ。』
『あらまあ!』
『何でもあらまあね。』


『初めは吃驚したのよ。 その次のは安心したのよ。』
『私も実は吃驚しましたわ。 お父さんが御転任かと思って。』
『折角仲よしになったんですもの、掌中の玉ですわ。』
『評判がいゝのね。』
 と鹿の子さんはニコヽヽして、
『夏休みに兄をつれて一寸行って来るのよ。』
 と説明した。
『あらまあ!』
『オホヽヽヽ。』
『兄をつれては凄かったわ。』
『笑い出しちゃ駄目よ。』
 と梅村さんが警戒した。
話は人の口から口へ伝わる間に間違いが起り易い。 伊達さんがお父さんの御転任で東京の学校へ行くという評判あその日の中に級(クラス)中へ拡がった。
『中島さん、伊達さんが東京の学校へいらっしゃるってのは本当?』
 と同級生の一人が京子さんに訊いた。
『存じませんわ。』
 と京子さんは初耳だった。
『あなたが御存じないなんて変ね。 一番の仲よしじゃありませんか?』
『でもそんなことちっとも仰しゃいませんもの。』
『お父さんが御転任ですって。』
『嘘でしょう。』
『あなた訊いて御覧なさいよ。』
『厭よ、私。』
『この頃は信用がありませんの?』
『‥‥ ‥‥』
『いゝわ。私、自分で訊いて見るわ。』
 と同級生は立って行った。
京子さんは何となく心持が悪かった。 一番親しい筈の鹿の子さんが自分に打ち明けてくれないと思ったら、憎らしくなった。放課後、
『京子さん。』
 と鹿の子さんが呼びかけた時、無言のまゝつれ立った。
『京子さん。』
『はあ。』
『帰りましょう。』
『帰るわよ。』
『私、今日一寸寄り道をしたいんですけれど、附き合って下さる?』
『さあ。』
『ゴロヽヽさまへお参りをしたいの。』
『私、御免蒙りますわ。』
『お忙しいの?』
『えゝ。』
『あら、京子さん、あなた少しお顔色が悪いわよ。』
『悪いかも知れませんわ。』
『どうかなすったの?』
『気に入らないことと気に入らない人があるものですから。』
『まあ!誰?』
『あなたよ。』
 と京子さんはありのまゝを言って、鹿の子さんを睨んだ。


『あらまあ!どうして?』
『あなたはこの頃は何でも梅村さんね。』
『そんなことありませんわ。』
『いゝえ。 私なんかもうどうでもいゝのよ。』
『京子さん、あなた何か誤解していらっしゃるんだわ。』
 と鹿の子さんは京子さんの態度の強硬なのに驚いた。
『‥‥ ‥‥』
『誤解よ、京子さん。』
『誤解なら誤解でようございますわ。』
『よかありませんわ。』
『いゝわよ、もう。そう仰しゃって、ごまかすんですから。』
『私、ごまかしなんかしませんわ。』
『いゝわよ、もう。』
『よかありませんわ。 私、何がいけませんの?』
『いゝわよ、もう。』
 と京子さんはツンヽヽして先へ歩き出した。 鹿の子さんが追い縋(すが)ったら、今度は歩調を緩め始めた。
『京子さん。』
『‥‥ ‥‥』
『仰しゃって下さいよ。 奥歯に物が挟まったようで心持が悪いじゃありませんか?』
『あなたは東京の学校へいらっしゃるんですってね?』
『そんなことありませんわ。』
『でもそういう評判よ。』
『夏休みに一寸行って来るだけですわ。 それを梅村さんにお話したのが間違ってそんな風に伝わったんでしょう。』
『何でも梅村さんね、この頃は。』
『‥‥ ‥‥』
『私、知らなかったのよ、ちっとも。』
『でも今朝は一番初めの時間が試験でしたから、教科書を読みながら来て、お話しする暇がなかったじゃありませんか?』
『‥‥ ‥‥』
『私、これからゆっくりお話し申し上げようと思っていたから、ゴロヽヽさまへお誘いしたんじゃありませんか?』
『‥‥ ‥‥』
『前から定まっていたのなら、私、疾(と)うにお話ししていますわ。 昨夜(ゆうべ)兄さんから聞いたんですもの。』
『そう?』
『憎らしいわ、あなたは。』
 と今度は鹿の子さんが睨んだ。
『済みませんでした。』
『全く誤解よ。』
『えゝ。』
『行けるか行けないかもまたハッキリ定まっていないんですの。 私、あなたの智恵を借りたいのよ。』
『まあ。』
『兄さんは三十番以内で及第出来れば御褒美に東京へやって戴けますの。 私もついて行きますわ。 ところがナカヽヽむづかしいのよ。 あの通り勉強が嫌いですから。』
『でも三十番ぐらいにはなれましょう?』
『自分でもなれそうだと言っているんですけれど、万一のことがあると私まで損をしますから、苦しい時の神頼みで、私、ゴロヽヽさまへ願を掛けたいと思っていますの。』
『天神さまの方がいゝでしょう?学問なら。』
『でもゴロヽヽさまの方が近いわ。』
『まあ。無精な信心ね。』
 と京子さんが笑った。もう御機嫌が直って来た。 ゴロヽヽというのは学校からの帰途(かえりみち)を少し郊外へ外れたところにある。 神社でも仏閣でもない。畑の中の大きな石だ。 願いごとが叶うとあって近郷近在から参詣者が集まる。
『天神さまでもいゝわ。』
『でもいゝなんてことじゃ駄目よ。』
『それじゃ是非ってことにして願を掛けますわ。 私、兄さんの頭はいゝと信じていますの。 いゝんですけれど、何かつかえているのよ。 天神さまにお願いして、それを取外して戴けば智恵が出てきますわ。』
『お父さんは静人さんを褒めていらっしゃいますわ。』
『何て?』
『申分ありませんって。 態度が実に立派ですって。』
『英雄豪傑のつもりでいて、ちっとも勉強しませんのよ。』
『今に豪くなるんですわ。』
『お父さんはそのつもりで厳しくは仰しゃいません。 頭の中の石の溶けるのを待っているんでしょう。』
『石が入っているんですか?』
『えゝ。』
『お医者さまに見て戴いたんですか?』
『いゝえ。 しかしきっと石よ。 それですから、私ゴロヽヽさまがいゝと思ったんですわ。』
『頭に石が入るなんてことはないでしょう。』
『ないとも限りませんわ。石頭ってものがあるでしょう。』
『まあ。オホヽヽヽ。』


『石でなくても何かつかえて邪魔をしているんですわ。 智恵は確かにあるんですけれど、出て来ないんです。 やっぱり大器晩成ね。』
『それならいゝじゃありませんか?』
『私、どうしても天神さまへ願を掛けますわ。』
『あなたの赤誠が通じましょう。』
『でも、こんなこと内証よ。』
『えゝ。』
『兄さんの成績のよくないことなんか、私、あなたですからお話しするんですわ。』
『えゝ。』
『これでも、私、いけませんの?』
『もういゝのよ。』
『分って下すって嬉しいわ。』
 と鹿の子さんも満足のようだった。

天下の大勢
お父さんが或夕刻早く戻って、食事の時一緒だった。 お父さんは忙しい。 殊に最近出張していたから、食卓で子供達と顔を合わせるのは久しぶりだった。静人君はお父さんがいてもいなくても同じことだ、決してつくろわない。 鹿の子さんは違う。 目から鼻へ抜けるような悧巧ものだから、駈引きがある。 褒められたい一心だから、多大の努力をする。 この故にお父さんの目には静人君と鹿の子さんの相違がありのまゝよりも余計際立って映る。
『どうだね?静人は。』
 とお父さんが訊いた。


『相変わらずです。』
『勉強しているかね?』
『はあ。 しかし季節が少し好過(よす)ぎます。 いゝ天気ばかり続くものですから。』
『天気がいゝと勉強が出来ないかな?』
『はあ。 運動をしますから。』
『何をやっている?』
『この頃は野球です。僕よく打てるんです。 昨日(きのう)は三塁打を二本かっ飛ばしてやりました。』
『野球は男らしくていゝ。』
『はあ。勉強よりもよっぽど面白いです。』
 と静人君はこの通り修飾ということがない。
『それは勉強と運動は違うさ。』
『確かに違います。』
『面白い方ばかりやらないで、両方偏頗(へんぱ)なくやらなければいけない。昼間は運動、晩は勉強って風に。』
『しかしくたびれて睡くなってしまうんです。 それが身体のためになるんだそうです。』
『無論そうだけれども。』
『本を読んでいても、昼間かっ飛ばした三塁打のことなんか考え出すと、とても身につきません。』
『困った奴だな。』
 とお父さんは持て余す。
『しかし今に勉強します。』
『頼むよ。』
『僕はこの間漢文の先生からいゝことを習いました。 実際それが一番うまいやり方だと思っています。』
『何だね?』
『晴耕雨読ってことです。 昔の学者は天気がいゝと田を耕して、雨が降ると本を読んだものです。』
『成程。』
『今の先生は間違っています。 月火水木なんてものを拵えて、降っても照っても圧制的に勉強させるんですから。』
『それは仕方がない。 学校だもの。』
『仕方ありませんから、授業が済んでから晴耕雨読にします。』
『よかろう。』
『雨の降らない日の方が多いから得です。』
 と静人君は勘定しているようだった。
『御飯がこぼれましたよ。』
 とお母さんが注意した。
『はあ。つい考えごとをしていたものですから。』
『怠ける考えごとをしたんじゃ駄目ですわ。』
『怠けやしません。晴耕雨読ですから。』
『今に梅雨(つゆ)が来て毎日降りますよ。』
『はゝあ。これは大変だ。』
『ハッハヽヽヽ。』
 とお父さんが笑い出して、
『静人や、梅雨の間は例外だなんていっちゃ困るよ。』
 と念を押した。
『大丈夫です。 毎日本を読み続けます。 そういう主義だと思えば辛抱ができます。』
『今晩はどうだね?』
『晴れています。』
『面白い奴だ。』
『危ないわ。 日照りが続くと落第だわ。』
 と鹿の子さんが口を出した。
『安心しろ。』
『大丈夫?』
『落第はまさかしない。』
『あのことよ。』
『どのこと?』
『忘れていちゃ駄目ですわ。』
『うむ。 あのことか?大丈夫。』
 と静人君は大きく頷いた。
『鹿の子はどうだな?』
 とお父さんは順番で行く。
『さあ。』
『相変わらず勉強しているかな?』
『この頃少し‥‥』
『怠けているのかい?』
『いゝえ。 鹿の子は勉強が好きですから、ちっとも世話を焼かせません。』
 とお母さんが代って答えてくれた。
『結構々々。』
『鹿の子は自分の勉強で足りないと見えて、僕の監督をしてくれます。』
 と静人君が言った。
『ふうむ。』
『お母さんよりも厳しいです。』
『お前達は喧嘩をしないのが何よりだ。』
『はあ。』
『静人もこれでナカヽヽいゝところがある。 鹿の子が何を言っても憤らない。 唯だヘラヽヽ笑っている。』
 とお父さんは序でに静人君を褒めた。
『ヘラヽヽ ヽヽ。』
『なあに?兄さん、それは。』
『笑っているんだ。』
『でも、ヘラヽヽってのは少し人を馬鹿にしているんじゃなくて?』
『ヘラヽヽ ヽヽ。成程。』
『成程なんて厭よ。』
『つまりお前なんか眼中にないんでね。』
『あら!覚えていらっしゃいよ。』
『ハッハヽヽヽ。 これならいゝだろう?』
 と静人君は笑い直した。
『陽気でいゝ。 おやゝゝ、メリーまでやって来たよ。 やっぱり一人前のつもりで一緒に食べる気だ。』
 とお父さんがメリーにお魚を少しやった。 お父さんを大臣にするマスコットだから、特別待遇を受けている。
鹿の子さんは一番先に食べ終わって、お茶を飲みながら、急に思い出したように、
『お母さん、私、今日学校で横田さんと議論をして負けてしまいましたの。 でも、そのため大発見を致しましたわ。』
 と言った。
『どういうお話?』
『物を食べる時、人間は上顎を動かしますか、下顎を動かしますかって質問よ。お母さんは何方(どっち)?』
『それは両方を動かしますわ、上下(うえした)で噛むんですもの。』
『お父さんは?』
『無論上下両方さ。 手を叩いて、何方が鳴るかと言うのと同じ質問だ。』
『兄さんは?』
『右同断。 この通り。』
 と静人君は食べる序(ついで)に実地をやって見た。
『オホヽヽヽ。』
『何だい?』
『それが大間違いよ。 私もそうだと思って、上下両方と言ったんですけれど、上はちっとも動きませんわ。 下ばかりよ。 こうですから。』
 と鹿の子さんは口を大きく開いて噛む真似をした。
『成程ね。』
 とお父さんもやって見て首を傾(かし)げた。
『上も動くさ。 そら。 おやゝゝ。 動かない。 動かない筈はないんだがな。 下ばかり動く。 上も動かして見よう。』
 と静人君は一生懸命になって、頭まで動かした。


お母さんまで釣り込まれて、アグヽヽやって見た。
『本当に下だけね。』
『そうでしょう?それで私が負けたのよ。 あらゝゝ、メリーまで真似をして口を動かしていますわ。』
『何でも人なみね。 悧巧な猫ですわ、本当に。』
『褒めていちゃ駄目だよ。 静人の魚をさらって食べているんだ。 静人、静人。』
 とお父さんが注意した。
『もう骨ばかりです。』
 と静人君、骨だけは残した。
一同大笑いをして、
『成程。 大発見だ。 上も動くと思っていたが、下ばかりだね。 五十何年、一日だって物を食べないことはないのに、そうとは気がつかなかったよ。』
 とお父さんが感心した。
『大発見ね、本当に。』
 とお母さんも共鳴した。
『いゝことを考えた。』
 と静人君が元気よく言った。
『なあに?兄さん。』
『明日(あした)学校へ行って、皆に議論を吹っかけてやる。』
『何方が動くかって?』
『うむ。』
『屹度勝ちますわ。』
『面白いぞ、これは。賭(かけ)をして、皆の頭を一つづつ撲ってやる。』
『乱暴ね、兄さんは。』
『コツンと。』
『まあ。』
 と鹿の子さんは驚いた。静人君は食卓を叩いたのだった。
『こらゝゝ、乱暴をしちゃいけない。』
 とお父さんはたしなめて、
『それじゃお父さんが名誉回復のために一つ問題を出す。 やっぱり毎日使っていて気のつかないものだ。』
 と言った。
『なあに?』
『家の二階の階段さ。 何段あるか知っているかね?』
『さあ。』
『毎日二階へ上り下りをしながら、知らないだろう?』
『存じませんわ。』
 と鹿の子さんは一も二もなく兜を脱いだ。
『あなたは御存じ?』
 とお母さんが訊いた。
『俺も実は知らない。』
『それじゃ名誉回復になりませんわ。』
『しまったね。 勘定してからにするとよかった。』
『私も存じませんわ。』
『自分の家の階段の段数(だんかず)ってことは気のつかないものの引き合いによく出る。』
『学校の階段でもいゝ次第(わけ)ですね?』
 と静人君、これも応用するつもりらしかった。
『同じ理屈さ。』
『明日やってやる。 皆撲ってやる。』
『乱暴をしちゃ困るよ。』
『賭でやるんですから、苦情は出ません。 もう他に何かありませんか?』
『そうは持ち合わせがない。』
『あってよ、兄さん。』
 と鹿の子さんが思いついた。
『何だい?』
『戸口のところに立っていて、私がこれから入りますか、出ますか、当てて御覧なさいっていうんです。』
『入るといったら出るんだろう?』
『えゝ。』
『その手はくって、撲られている。』
『まあ!』
『ハッハヽヽヽ。』
『何かないか知ら?』
『僕はまだ自分の智恵が出ないから困る。 何でもいゝから考えたら教えておくれ。』
 と静人君は自信がない。


『面白い奴だ。 やっぱり大器晩成かな?』
 とお父さんも笑っていた。
『はあ。 身体から先のようです。』
『身体はドシヽヽ大きくなるようだね。』
『発育盛りです。 それですから食べます。』
『まだ食べているのかい?』
『もうおしまいです。 何ぼ何でも遠慮ってことがあります。』
『遠慮なんかしなくてもいゝよ。』
『体裁ってことがありますから、つい控え気味になります。』
『何杯食べるね?』
『勘定もして見ませんが七、八杯ぐらいのものでしょう。 運動さえすれば、これが皆体格になるんです。』
『成程。』
『そうして体格さえ本当に出来上がれば、智恵なんか自然に湧いて来ます。』
 と静人君は真面目にそう信じている。 この故によく食べよく遊ぶけれど、勉強ということに重きを置かない。
晩に鹿の子さんは静人君の部屋を覗いて見た。
『あら、兄さん、何か食べているの?』
『いや。』
『でもお口が動いていましたわ。』
 と鹿の子さんは入って行った。
『上顎が動くか、下顎が動くか、忘れないように思い出して研究しているんだよ。』
『御勉強の方は?』
『御覧。この通りだ。 時間表に晴耕雨読居士と書いて置いた。』
『兄さん、それは昼間のお話よ。』
『晩の話だよ。先刻(さっき)、晩御飯の時に話したんだ。』
『いゝえ。昼間のことよ、問題が。』
『何の問題だ?』
『晴耕雨読の問題よ。』
『晩御飯の時の問題だと言うのに。』
 と静人君はこの通り分りが悪い。 鹿の子さんの診断によると頭に石がつかえている。
『昼間晴れゝば、田を耕すのよ。昼間降れば、本を読むのよ。』
『そうさ。』
『けれども夜は降っても照っても勉強するのよ。』
『それは日本か西洋か?』
『日本よ。』
『本当かい?』
『えゝ。証拠がありますわ。灯火親しむべし。 これは晩に勉強することでしょう?灯火ですから。』
『この畜生!』
『どう?』
『参った。』
『オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんは勝ち誇って、覚えず笑い出した。


『しかしそれは秋のことだぞ。 僕、先生に習った。』
『いつでもいゝんですわ、灯火ですもの。』
『いや、秋になったから、殊に勉強しましょう、という意味だった。』
『殊になら、ふだんでもするんでしょう?』
『成程。』
『理屈がそうじゃありませんか?』
『仕方がない。 教えてやって却って負かされる。』
『私、負かすんじゃありませんわ。 お願いするんですわ。』
『どうも議論が下手だから敵わない。』
『やっぱりふだんでも勉強する方がいゝんだろう。』
 と静人君は降参した。
『三十番以上になって戴かないと、夏休みに東京へ行けなくなるじゃありませんか?』
『うむ。』
『是非本気になって戴きますわ。』
『よしゝゝ。』
『私、お友達にもそう話してあるんですから、若し行けないと嘘をついたことになりますよ。』
『責任があるんだな。』
『妹を大切(だいじ)と思わなくて?兄さんは。』
 と鹿の子さんは東京へ行きたい一心だから、頻(しき)りに説いた。
『うるさい!』
『それじゃ勉強して下さいませんの?』
『するよ。仕方がない。』
『お役じゃ駄目ですわ。』
『うむ。自分でする。その代り信用しろ。 覗きに来ると、もうしないぞ。』
『何故?』
『理屈は分らない。』
 と静人君は説明を諦めた。
五月が尽きて、六月に入った。それから梅雨が来て、鬱陶しい日が続いた。
『どうだね?静人は。晴耕雨読をやっているかい?』
 とお父さんがからかった。


『やっています。』
『それは結構だ。いゝことを思いついたら、何でも実行するに限る。』
『はあ。考えて見ると、僕は以前から実行していたんです。』
『ふうむ。』
『天気がいゝと夕方まで学校に残って運動をしますから、夜くたびれて勉強が厭になります。しかし雨が降ると、運動ができませんから、くたびれません。夜になってから学校の下読みをして見ようかって気になります。』
『そういうことを考えるのは智恵の出て来た証拠だよ。』
『僕もそうかと思っています。』
『有望だ。』
『はあ。 この頃は教室で先生の顔を見ても、「何でい?」って心持になります。』
『どういう意味だね?』
『勉強していないとビクヽヽものですけれど、下読みをしてありますから、恐れません。 「何でい?この野郎!当てるなら当ててみろ」と思ってこう威張っているんです。』
 と静人君は得意だった。
『この野郎なんてことはいけない。』
『取り消します。』
『当るかね?』
『ナカヽヽ当りません。 先生ってものは下読みをして来ないものに当てるんです。』
『そんなこともあるまいけれど。』
『梅雨の中(うち)ですから当ててくれないと困るんです。』
『それじゃ梅雨があければ勉強しないのかい?』
『はあ、晴耕雨読居士です。』
『仕方のない奴だ。』
 とお父さんは必ずしも咎めない。 当人の心委せにしている。 落第さえしなければいゝ。 今に欲が出て来る。 こういう鷹揚な生れつきのものに勉強を急き立てたところで効能はないと思っている。
梅雨が晴れると共に、静人君は又運動家に戻った。 夕方まで野球をやって来て、晩は机の上でグラウンドのことを考える。 一向勉強しない。
『兄さん、夏休みに東京へ行けなくなるわよ。』
 と鹿の子さんは鼻を鳴らし始めた。
『大丈夫だ。安心していろ。』
『何点?この間の英語は。』
『そんなことはお前なんかの知ったことじゃない。』
『でも、私、心配になるわ。 六十点取れて?』
『うむ。 それぐらいのところだろう。 心配するから、何点ということは教えない。』
『あら、もっと悪いのよ、屹度。』
『なあに、大したことないんだ。』
『五十点?』
『馬鹿にするな。』
『それじゃ五十五点?』
『当った。 嘘だと思うなら、答案を見せてやる。』
 と静人君は結局教えてしまう。
『先(せん)のが七十五点ですから、平均すると‥‥ ‥‥』
『人の点数の勘定なんかどうでもいゝ。』
『でも、兄さんの御成績が悪いと、私まで巻き添えをくって、東京へ行けなくなりますわ。』
『決して迷惑はかけないよ。 悪ければ悪いで、法がある。』
『どういう法?』
『お前はお祖父さんをお父さんの何だと思っている?』
『お祖父さんはお父さんのお父さんよ。 お祖母さんはお父さんのお母さんよ。』
『成程。 低能でもないようだ。』
『馬鹿にしちゃ厭よ。』
『お祖父さんもお祖母さんもお父さんの親だからいゝ方法があるんだ。 僕がお祖父さんのところへ、手紙を出して頼むと、お祖父さんがお父さんのところへ、「静人と鹿の子を夏休みに遊びによこせ。 お祖母さんも顔を見たがっている」という手紙をよこす。 親の命令だ。 お父さんは一も二もない。』
『まあ!狡いのね、兄さんは。』
『ハッハヽヽヽ。 天下の大勢を知っているんだ。』
『本当にそうして戴きますわ。』
 と鹿の子さんは安心したようだった。
或る日、静人君は例によって夕刻学校から帰って来て、
『鹿の子、大変だぞ。』
 と言った。 いつにないことに心配そうな顔をしていた。
『なあに?兄さん。』
『今号外が出た。』
『何の号外?大地震?』
『いや、内閣がかわる。』
『かわったって構いませんわ、内閣なんか。』
『構わないことがあるものか?内閣がかわればお父さんは又転任だぞ。』
『あらまあ!』
 と鹿の子さんは初めて驚いた。
『困った。』
『私も困りますわ。』
『お前なんか何処でも構わないけれど、僕は投手(ピッチャー)をやっている。 五年になれば本投手だ。 皆が期待しているんだけれど、内閣がかわれば、もう駄目だ。』
『私だって、折角皆さんと仲よしになったんですから惜しいわ。』
『お前も可哀そうだよ。』
『私、お母さんに訊いて見ますわ。』
『いけないよ。』
『何故?』
『お役所のことには子供が口を出すものじゃない。』
『でも。』
『厭でも転任の時はいゝ顔をしているものだ。』
『つまらないわ。』
『仕方がない。』
『京子さんのところも御転任でしょうか?』
『そうさ。 この官舎のものは大抵動くんだ。 どうもこの間から少し面白くないと思っていた。』
『兄さんはそんなことが分るんですか?』
『分るとも。天下の大勢を知っている。』
 と静人君はいつになく自信があった。
『どうして知っていらっしゃるの?』
『新聞を見ている。』
『私だって見ていますわ。』
『お前は自動車泥棒だの、続きものだのばかり読んでいるけれど、僕は天下の大勢を読んでいる。』
『やっぱりえらいわ。 石が取れたのかも知れませんわ。』
『何?』
『オホヽヽヽ。』
 と笑ってごまかしたが、鹿の子さんは兄さんの態度に実際敬意を表した。


『忘れていた。』
『なあに?』
『マスコットを試して見る。 今度はお父さんがもっと出世をなさるのかも知れない。』
『それなら嬉しいわ。』
『そのためのペルシャ猫だ。 何処にいる?』
『探して来ましょうか?』
『晩の方がいゝ。 あゝ、腹がへった。』
 と静人君は気がついた。
その晩、兄妹二人はメリーに伺いを立てた。 鹿の子さんの部屋だった。 メリーは机の上に立っていた。
『メリーや、お父さんが唯だの転任なら、尻尾を立てておくれ。』
 と頼んで、静人君が拝んだ。 メリーは迷惑そうに二人の顔を見ている。
『栄転か?栄転なら、尻尾を立てて、教えておくれ。』
『ニャオン。』
『有望ね、これは。』
『次官かな?次官なら、尻尾を立てて、教えておくれ。』
『黙っているわ。』
『やっぱり知事か?』
『身動きもしませんよ。』
『大臣かな?払い給え。 清め給え。』
『あらゝゝ!』
 と鹿の子さんが叫んだ。 メリーは大きな尻尾を鮮やかに押し立てて、ニャオンヽヽヽヽと二声鳴いた。

大臣の夢
『大臣だよ、これは。』
『確かに大臣ね。』
『うまいぞ。』
『私、大臣令嬢よ。 何大臣でしょう?』
 と静人君と鹿の子さんは期待し始めた。 猫の尻尾を信仰しているのでもないけれど、子としては親の出世を望む。 知事の上は次官、次官の上は大臣と聞いている。内閣がかわれば知事もかわることが多い。 転任なら栄転であって欲しい。 知事かと訊いても次官かと訊いても黙っていたメリーは、大臣かと訊いたら、見事に尻尾を立てたのである。 いゝ縁起は誰しも擔(かつ)ぎたい。
鹿の子さんは翌朝(よくあさ)学校へ行く時、京子さんを誘って、つれ立つとすぐに、
『京子さん、内閣がかわりそうね。』
 と言った。
『はあ。 今度は急転直下よ。 でも私、一月前から変な策動があると思っていましたわ。』
『あらまあ!』
『こうなれば、もう総辞職の外(ほか)仕方ありません。 大破綻が起ったんですから、改造ってことはとても不可能よ。 園公入京、政局伏奏。 大命降下は今明の中(うち)でしょう。』
『豪いのね、京子さんは。』
『今新聞を見て来たばかりですから。』
 と京子さんもお父さんが県庁の役人だから深い関心を持っている。


『私達、もうお別れになるかも知れませんわね。』
『私もそれをすぐに考えましたの。』
『厭ね。』
『折角仲よしになったのにつまりませんわ。 でも私はこゝにいられそうよ。』
『何故?』
『大抵動かないんですって。 あなたのお父さんとは違いますわ。 下の方ですから。』
『そんなことありませんわ。』
『いゝえ。』
『動くなら皆動かなければ不公平よ。』
『頭と尻尾と一緒にされちゃたまりませんわ。』
『いゝわ、何方でも。 私の方は動くに定まっているんですから、どうせお別れですもの。』
 と鹿の子さんは大局を考えた。 お父さんが大臣になったら、京子さんがどんなに吃驚するだろうかと思った。
『東京よ、あなたのところは。』
『私もそう思っていますの。』
『でも二年か三年ですって。』
『大臣は大抵そうらしいわね。』
『あら!』
『次官でもいゝわ。』
『御栄転なら何でも結構よ。』
『いづれ東京でお目に掛かりますわ。 オホヽヽヽ。』
『面白いわね。』
『何が?』
『内閣のことなんか話して歩く人、私達だけでしょう、学校広しと雖も。』
『まあ!あなた今日はどうかしていやしません?』
『何故?』
『豪いことばかり仰しゃるんですもの。』
『こういう時は少し違ってよ。真剣になりますわ、天下国家の問題ですから。』
『それに直接関係がありますからね。』
『えゝ。 関係がなくても、内閣がどうしてかわるぐらいのこと知っていなければ駄目ですわ。 一体日本の婦人は政治に冷淡だからいけないんですって。』
 と京子さんは益々大きく出た。
同級生は皆無頓着だった。 内閣のかわることさえ知らないようだった。 随って鹿の子さんの身の上に起りかけている変化に気のつく筈もなかった。
『鹿の子さん、もう間もなく夏休みね。 あなたすぐに東京へいらっしゃる?』
 と仲よしの梅村さんが訊いた。
『はあ。』
『夏中彼方(あっち)?』
『さあ。大抵そうでしょう。』
『淋しいわ、私。』
『帰って来なかったらどう?』
『泣いてしまいますわ。』
『オホヽヽヽ。』
『ひどい人ね。笑っていらっしゃるんですもの。』
『私、事によると帰って来ないかも知れませんよ。』
『あらまあ!』
『嘘よ。嘘よ。』
 と鹿の子さんは慌てて否定した。発表するにはまだ早い。しかし何となく仄(ほの)めかしたい。
『伊達さん、梅村さん、私、いゝこと聞いて来たのよ。教えて上げましょうか?』
 と横田さんが寄って来た。鹿の子さんはドキッとして、
『なあに?』
 と訊いた。
『秋の旅行は宮島ですって。』
『あらまあ。そんなこと。』
『信用なさいません?』
『いゝえ。あなたの仰しゃることですから、間違いありますまい。』
『宮島ってのは変ね。去年の二年生は高松でしたもの。』
 と梅村さんが首を傾(かし)げた。
『秋の旅行は宮島よ。何処でも定まっているんですわ。』
『どうして?』
『アキの宮島。』
『まあ!』
『オホヽヽヽ。』
『笑い出しちゃ駄目よ。』
『大丈夫。』
 と横田さんは胸を堅く押えていた。
鹿の子さんはその次の休み時間に、
『純子さん、一寸。』
 と招いて、そのまゝ歩き出した。梅村さんは黙ってついて来た。内証話のある時はいつもこうと型が定めてある。
『なあに?鹿の子さん。』
『私、悲しいことがありますの。』
『まあ!』
『事によるとお別れしなければなりませんわ。』
『どうして?どうして?鹿の子さん。』
『内閣がかわりますのよ。』
『新聞に出ていましたわね。』
『かわれば父は転任よ。』
『あらまあ!』
『もうお別れですわ。』
『厭ね。折角仲よしになりましたのに。』
『私もよ。父の栄転は嬉しいんですけれど、あなたとお別れするのが辛いわ。』
『何処?』
『まだ分りませんけれど、どうせ東京でしょう。』
『東京府知事?』
『さあ。今度はもう少し出世かも知れませんわ。』
『もっと上?』
『もう知事ってことはないつもりよ。』


『それじゃ大臣?』
『内証よ、純子さん。』
『はあ。』
『政府の秘密よ。』
『はあ。』
『まだハッキリ分らないんですから、仰しゃちゃ駄目よ。』
『大丈夫よ。兎に角東京ね?』
『東京ってことだけは申し上げて置きますわ。』
『分りました。』
『何が?』
『いゝのよ。東京なら又お目にかゝれますわ。私達、五年になれば修学旅行で参りますから、大臣官舎へ押しかけますわ。その時こんな人知らないなんて仰しゃちゃ困りますよ。』
 と梅村さんも気が早い。まだ別れるかどうかも知れないのに、三四年先の再会を約束している。
大臣令嬢の夢想は知事令嬢の胸の中に一日続いた。しかしお母さんには一切話さなかった。お役所向きのことを子供が訊くものでない。家の躾がそうなっている。相談相手は兄さんだけだった。鹿の子さんはその晩、兄さんの部屋を覗いて見た。静人君は勉強していなかった証拠に、
『こらゝゝ。』
 とすぐに見咎めてくれた。
『オホヽヽヽ。』
 と笑って、鹿の子さんは入って行った。
『鹿の子、駄目だよ。』
『何が駄目?』
『猫の尻尾なんか当てにならない。今日、先生に訊いて見たら、知事からは大臣になれないそうだ。』
『まあ!』
『大臣ならもう呼び出しが来て東京へ行っている筈だって。』
『それじゃ次官ね。私、次官でもいゝわ。』
『次官にもなれない。知事からは局長だそうだ。』
『局長でもいゝわ。』
『それもどうだか分らない。』
『まあ!つまらないわ。』
『大臣だけ定まって、後は当分間があるらしい。』
『それじゃ待っていればいゝんでしょう?』
『うむ。こういうことはやっぱり訊いて見るものだ。僕は先生に褒められた。』
『何て?』
『知事の息子だけあって、政局を気にしている。感心だって。』
『よかったわね。』
『信用を盛り返した。』
『あら、信用がなかったの?』
『あったんだけれど、少し足りなくなっていた。』


『何かなすったんでしょう?又。』
『ハッハヽヽヽ。』
『困るわ、私。』
『又始まった。』
『三十番以上になって戴かないと、東京へ行けないじゃありませんか?』
『大丈夫だよ。操行点の方だから。』
『なおいけませんわ。何をなすったの?』
『お母さんに言うなよ。』
『はあ。』
『上顎下顎の問題で五六人打(ぶ)ん撲ったら、一人性(たち)の悪い奴が先生に言いつけた。堪忍してやればよかったのに制裁を加えたものだから、実は先生に呼び出されて叱られた。』
 と静人君は相変わらず体力一方だった。
『それじゃ操行点が乙よ、屹度。』
『しかし操行点は席順に関係しない。』
『関係するわ。同じ点のものが二人あると、操行点のいゝ方が上になりますから、三十番のものが三十一番になってしまいますわ。』
『成程。』
『東京へも行けなくなる勘定ですわ。』
『これはやっぱり勉強しなければいけない。』
『本気になって下さいよ。』
『うむ。しかしイヨヽヽ困ればお祖父さんに頼んで手紙をよこして貰う。兎に角、安心していろ。僕は天下の大勢を知っている。』
『兄さんの天下の大勢はもう信用しません。』
『何故?』
『お父さんが大臣になると仰しゃったのは兄さんよ。』
『メリーだよ。』
『狡いわ。猫のせいにして。』
『猫の尻尾なんか信用するから悪い。猫は動物だ。天下の大勢が分らない。』
『でも昨夜(ゆうべ)マスコットを試して見ると言い出したのは兄さんよ。』
『口が達者だな、お前は。』
『事実を申し上げているんですわ。』
『覚えが好過(よす)ぎるから敵わない。』
『当てにならない天下の大勢よりも勉強ですわ。』
『分ったよ。』
『私、すっかり損をしてしまったわ。』
 と鹿の子さんは自分の部屋へ戻った。
内閣はかわったが、お父さんは無論大臣にならなかった。鹿の子さんは梅村さんに少し工合が悪かった。しかし大臣とは自分で言っていない。幾分濁して置いたから助かる。
『鹿の子さん、内閣がかわりましたわね。』
 と梅村さんが話しかけた時、
『はあ。よかったわ、私、あなたと一緒にいられますから。』
 と鹿の子さんは平気で答えた。
『実は私も安心しましたの。』
『アキの宮島へも御一緒に行けますわ。』
『本当ね。オホヽヽヽ。』
『何なら卒業までこのまゝ此処にいたいんですけれど。』
『そうして下さいよ。お父さんが大臣におなりになっても、あなただけお残りになる法がありますわ。』
『大臣じゃありませんわ。』
『あら!』
『知事からは局長ですって。私、兄さんあそう仰しゃったのを聞き間違えたんですわ。』
 と悧巧な鹿の子さんは序でをもって取り繕った。
『それじゃやっぱり御転任?』
『分りませんわ。』
『御転任になっても、あなただけお残りになる法がありますわ。』
『どうしますの?』
『私のところからお通いになればいゝわ。』
『駄目よ。』
『何故?』
『仲よしでも、始終御一緒だと喧嘩になりますわ。我儘ものですから。』
『そこを気をつければいゝでしょう。』
『私は無論気をつかますけれど。』
『あら!私のこと?』
『オホヽヽヽ。』
『ひどいわ。覚えていらっしゃいよ。』
 と梅村さんが睨んだ。


七月に入ると間もなく学期試験が始まる。静人君の方も同様だから、鹿の子さんは特に激励の必要を認めた。
『兄さん、もうすぐ試験よ。』
『分っている。』
『少し御勉強なすったらどう?』
『まあ待て。』
『毎日まあ待てね。』
『明日(あした)は商業を屠(ほう)る。その支度だ。』
『仕合?』
『うむ。復讐戦だ。石に齧りついても勝って見せる。当っているんだよ、兄さんはこの頃。今日なんか本塁打をかっ飛ばした。』
 と静人君は野球の話を始めた。
『それじゃ明後日(あさって)の晩から勉強して戴きますわ。』
『いゝとも。』
『大丈夫ね。』
『安心していろ。僕がいゝともと言って鼻を押えると、屹度二塁打か三塁打が出る。ピーゴロなんてことは決してない。』
『野球のお話じゃありませんわ。』
『まあ待て。』
『又。』
『いゝともとこうだ。』
 と静人君は鼻の先を人さし指で軽く押えて見せた。一生懸命だ。勉強のことは耳に入らない。
『鼻がマスコットね。』
『うむ。どういうものだか、これをやると自信が出て来て成績がいゝんだ。いゝともこうやってボックスに立つ。』
『勉強の方もそうだといゝんですけれど。』
『南無や八幡大明神。』
『そんなこわい顔をなさるの?』
『バットをこう搆えて。』
 と静人君は電球を狙った。机の上にバットを置いているのだから、勉強は到底手につかない。


『危ないわよ。』
『ハッハヽヽヽ。』
『無我夢中ね。』
『ところで何の話だったい?お前のは。』
『もうすぐ試験ですから、勉強なさいと申し上げているのよ。』
『いゝとも。』
『又。』
『こう鼻を押えて。』
『兄さん。』
『何だい?』
『余(あんま)りよ、兄さんわ。私、張合がありませんわ。』
『明後日の晩から勉強する。』
『私、誰にもまだ申し上げませんけれど、兄さんの為にお願がけをしているんですわ。』
『お願がけ?』
『はあ。』
『何だい?』
『日曜に天神さまへお詣りをするのよ。兄さんの頭がよくなるようにって。』
『頭は厳しいな。』
『成績がよくなるようにって。』
『有難い。流石に僕の妹だ。』
『感心して下さる?』
『うむ。烈女だ。明日(あした)も行くのかい?』
『参りますわ。』
『本塁打をかっ飛ばして商業を粉砕するように祈っておくれ。』
『駄目よ。天神さまは学問の神さまですから、運動のことなんかお分かりになりません。』
『成程。』
『日本の神さまですもの、野球なんかお嫌いでしょう。』
『体育だ。体育は教育だ。教育は学問だ。やっぱり利き目があるだろう。』
『そうれじゃ序でに頼んで上げますから、後は一生懸命になって勉強して戴きます。』
『うむ。屹度やる。お前はいつからお詣りをしているんだい?』
『今学期からよ。』
『それじゃもう長いことだね。毎日曜かい?』
『はあ。降っても照っても。』
『それは申訳ない。これから勉強する。』
『どうぞ。』
『お礼を言う。有難う。』
『いゝのよ。手なんかつかなくてもいゝのよ。』
 と鹿の子さんは押し止めた。
翌日の野球仕合に、静人君は大器晩成ぶりを遺憾なく発揮した。中学側が初めから押されていた。第一回に先取された一点がどうしても回復出来ないであせる中に、五回目に又一点取られて、開きが二点になった。それから七回目、即ちラッキー・セブンの表に文字通り好運が中学側に微笑んだ。一死満塁、打者は静人君だった。
『伊達、頼むぞ。』
 と皆(みんな)が言った。
『いゝとも。』
 と静人君は鼻を押えた。バットを擔(かつ)いで、ボックスに立って、
『南無や八幡大明神。』
 と、これまでは型の通りだったが、第一球が鼻に中(あた)った。死球(デッドボール)も往々あるけれど、鼻とは念入りだった。静人君はバタリとひっくりかえってしまった。鼻血が夥(おびただ)しく出た。皆寄ってたかって介抱した。医者が駈けつけた時にはもう正気づいていたが、冷やさなければいけないと言うので、野球部長の先生に送られて自動車で家へ帰った。お母さんも鹿の子さんも吃驚した。
鼻が腫れて人相が変っている。人違いかと思われるくらいだった。しかし元気はよかった。
『先生、一点は僕の死球で取り返しましたが、後はどうなったでしょう?』
 と勝負を気にしていた。先生が商業学校へ電話をかけて問い合わせてくれた。中学側はあれから二塁打を出して、一点勝ち越しているという報告だった。静人君は安心して晩まで眠り続けた。勝った選手連中がお礼ながら見舞いに寄ってくれたのも知らなかった。


しかし翌日は鼻が大きくなってしまって、学校を休まなければならなかった。
『見っともない。休め々々。』
 とお父さんが承知だった。
『静人や、心持はどう?』
 とお母さんが訊いた。
『何ともありません。』
『大変な顔になりましたよ。』
『そうでしょう。こうやっていると自分の鼻がよく見えます。』
『寢ている方がいゝでしょう。』
『しかし何ともないんです。』
『鏡を御覧なさい。』
『どんな顔になっているんでしょう?』
 と静人君は姿見の前に坐って、
『これはゝゝゝ。君は僕かい?僕は君かい?驚いたなあ!』
 と言った。
しかし翌日から学校へ出かけた。一点入れて商業を負かした鼻だというので大評判(おおひょうばん)だった。選手連中は取巻いて、
『全く君のお蔭だ。』
『来学期又頼むぜ。』
 と地面に手をつかないばかりだった。
『いゝとも。』
 と静人君は鼻を押えたらまだ痛かった。
『ひどく腫れたね。』
 と主将の五年生が鼻を見つめた。
『物を見るに邪魔なくらいだ。』
『鼻に死球(デッドボール)を食らうなんて、どうしたんだろう?避(よ)けられなかったのかい?』
『いきなりだったから、何が何だか分らないんだ。』
『しかし打つ構えをしていたぜ。』
『うむ。厭な球だと思ったよ。それっきりさ。気がついたら皆が顔へ水を吹っかけていた。実に不思議なことがあるものだ。』
 と静人君、実はうっかりしていたのだった。
それから四五日たって試験が始まった。
『兄さん、しっかりよ。』
 と鹿の子さんは監督怠りない。
『駄目だ。』
『何故?』
『鼻が目の先へつかえていて本が読みにくい。』
『あら、もう直っているじゃありませんか?』
『いや、まだ少し大きい。』
『真(ほん)の少しですわ。』
『少しでも目の前にあるんだから、どうも邪魔になっていけない。』
 と静人君は何かと苦情をつける。
『兄さん、私、兄さんの成績がこれからよくなるんだと思いますわ。』
『当り前さ。大器晩成ってものはダンヽヽと智恵が出る。急いじゃいけないんだ。』
『大器晩成よりも兄さんは東京のお祖母さんのように胆石病よ。』
『ふうむ。』
『お祖母さんのお腹の何処かに石が出来るんですけれど、兄さんのは頭に入っているんですわ。』
『本当かい?』
『えゝ。智恵は沢山あるんですけれど、石がつかえているから、ナカヽヽ出ないのよ。』
『あることは確かにあるんだ。』
『その石が早くとけますようにと私が天神さまへお願がけをしたものですから、ボールが鼻へ中(あた)ったんですわ。』
『馬鹿を言え。』
『いゝえ。兄さんだって仰しゃったわ。中る筈のないボールが中ったんだから実に不思議だって。』
『頭の中の胆石なんてことは生理学上あり得ない。』
『兄さん。』
『何だ?』
『それこそボールの勢(いきお)いで石が砕けた証拠よ。』
『生意気だな、お前は。』
『生理学上あり得ないなんて学者らしいことを仰しゃるのは初めてよ。もう石がつかえていない証拠よ。』
『口が達者だ。とても敵わない。』
『本気になって勉強して御覧なさいよ。屹度もうよくなっているのよ。』
 と鹿の子さんは頻りに勧めた。
試験となっては否(いや)も応(おう)もない。静人君は毎晩勉強し始めた。鹿の子さんは素(もと)より一生懸命だった。一学期間の総勘定だから忙しい。差当たり天下の大勢を考える余裕もなかったが、或る朝新聞を見て驚いた。
『休職だよ、お父さんは。』


『あらまあ!』
『騒ぐことはありませんよ。後でゆっくりお話し致しますから、学校へ行っていらっしゃい。』
 とお母さんは落ちついていた。

友の別れ
京子さんがもう支度をして、門のところで待っていた。
『鹿の子さん。』
『お早う。お待たせして済みません。』
『いゝえ。今来たばかりよ。』
『京子さん、今朝の新聞御覧になって?』
『はあ。』
『大変なことになってしまいましたわ。』
『私、吃驚しましたのよ。』
『もうお別れね、イヨヽヽ。』
『お名残惜しうございますわ。』
 京子さんとつれだって学校へ通うのも今日明日きりだと思うと、鹿の子さんは元気がない。
『私、試験なんかもうどうなっても構いませんわ。』
『‥‥ ‥‥』
『京子さん。』
『はあ。』
『お話しなさいよ。』
『でも。』
 と、京子さんは教科書を読みながら歩いている。学期限りで去って行く人とは稼ぎ方が違う。
『あなたのところ御無事で結構ですわね。』
『お蔭さまで。』
『私のところばかりよ。』
『長官さんですもの、仕方ありませんわ。』
『損ね、長官なんて。』
『その代りふだんが得ですわ。』
『つまりませんわ、考えて見ると。』
『軍人の家族を見習わなければいけませんよ。』
『どういう意味?』
『御主人が戦死なすっても、凛として取り乱すことがございません。』
『戦死じゃないわ。』
『戦死よりも楽ですわ、又復活なさるんですから。』
『それはそうね。』
『鹿の子さん、私、今朝の地理もう一遍読んで置かなければなりませんから。』
『はいゝゝ。もうお邪魔致しません。』
 と鹿の子さんは諦めたが、長く黙っていられない。
『京子さん。』
『はあ。大連は東洋一の文化都市と称せられ‥‥』
『まあ!一生懸命ね。』
『なあに?鹿の子さん。』
『私、もうすぐよ。』
『何がよ?』
『立つのが。もう後一週間か十日ぐらいのものかも知れませんわ。』
『定まれば早いのよ。後の長官が見えますから。』
『追い立てを食うんですもの。情ないじゃありませんか?』
『そのかわり東京へお帰りになれますわ。』
『それだけよ、頼みにしているのは。』
『私、今日梅村さんにあなたの送別会のことを御相談申し上げようと思っていますの。』
『有難うございます。』
『それですから、おとなしく目をおつぶりなさいよ。』
『あらまあ!』
『迷わずに成仏なさいよ。』
『ひどいわ。』
『大連湾口より約七キロ半‥‥』
『まあゝゝ勉強家は違ったものね。』
『‥‥南山を背景とし、海岸に沿って延長すること東西約九十キロ‥‥』
 と京子さんはもう相手にならなかった。


梅村さんも新聞を見て知っていた。運動場で顔を見かけるとすぐに寄って来た。
『鹿の子さん。』
『純子さん。』
 とお互いに呼びかけただけで意味が通じた。他の人達は地理の教科書と首っ引きだった。
『寝耳に水よ。』
『‥‥ ‥‥』
『ガッカリしたわ、私。』
『私も。』
『もういゝんだと思って、安心していたんですけれど。』
『何が何だか分らなくなってしまったわ。』
『やっぱり東京へお帰り?』
『はあ。』
『折角仲よしになったのにつまりませんわね。』
 と純子さんは鹿の子さんの手を取った。
『彼方(あちら)へ参りましょう。』
『はあ。』
『でも、あなたの御勉強は?』
『手につきませんの、あなたのことばかり考えて。』
『有難いわ。』
 と鹿の子さんは純子さんの手を握りしめた。教科書を暗記しながら慰めてくれる京子さんとは違うと思った。


『私、今朝お父さんに訊いて見ましたの。』
『何を?』
『あなたのお父さんのことよ。休職も御出世の順序ですって。』
『あら!失業よ、休職は。』
『いゝえ。知事さんは違うんですって。今度内閣がかわれば、グッといゝところへお出になるんですって。』
『無論復活はしましょうけれど。』
『復活よ。あなたやっぱりよく御存じね。』
『それぐらい。オホヽ。』
『私、あなたのこと、お母さんにお願いしましたの。』
『私のことって?』
『いつか申し上げたじゃありませんか?御転任になるようなら、あなただけお残りになって、私の家からお通いになることよ。』
『駄目でしょう。』
『何故?』
『後一年かそこらなら兎に角、これから先、長いことですもの。』
『三年になるまででもいゝわ。今は学年半ばですから、転校なすっちゃ損よ。』
『それはそうですけれども。』
『お母さんは私のためにもいゝことですからって仰しゃいましたの。それですから、若しそんな御都合でしたら、どうぞ御遠慮なく。私、自分の家だからって、決して我儘は申しませんよ。』
 と梅村さんは何処までも親切だった。
地理の試験の次は国語だった。暗記ものに朝から口を封じられていた同級生達は休憩時間に解放された。国語は俄(にわか)仕込みが利かないから、皆諦めて、朝の中の無言を帳消しにするつもりで喋り始めた。
『あなた、一寸々々。伊達さんのお父さんね、今度休職よ。』
『あらまあ!本当?』
『今朝の新聞に出ていたわ。』
 というような噂が忽ちにして伝わった。正直な人達の揃いだから、話しながら鹿の子さんの方を見る。鹿の子さんは自分が問題になっているのだと思った。笑い上戸の横田さんが寄って来て、
『伊達さん、私、本当にガッカリしてしまったのよ。』
 と言って笑った。
『長々お世話になりましたけれど。』
『情ないわ。オホヽヽヽ。』
『横田さん、情ない人が笑っちゃ駄目よ。』
 と梅村さんは真剣な顔をしてたしなめた。
『私、お悔みの言えない性分ですけれど、本当に悲しいのよ。』
 と横田さんも真面目だった証拠に、真赤になって胸を押えていた。
鹿の子さんは地理の試験が済んでから皆に取巻かれた。去年の暮から鹿の子さん時代が続いていたのである。人気ものが急に級(クラス)から姿を消すのだから、大きな感動を起こした。
『伊達さん。』
『鹿の子さん。』
『伊達さん。』
『鹿の子さん。』
『ひどいわ。』
『ひどいわ。』
鹿の子さんが学校から帰って来たら、静人君が、
『おそかったね。』
 と玄関に出迎えた。


『あら!兄さんは早かったわね。』
『幾何の試験に白紙を出して逃げて来てやった。』
『まあ!』
『もうこうなればどうでもいゝんだ。』
『駄目よ。』
『なあに。天下の大勢が分っている。』
『兄さんの天下の大勢なんか当てになりませんわ。』
 と鹿の子さんは懲(こ)りていた。
『当てになるよ。今度は東京の学校へ転校だ。転校すれば此方の成績なんかもうカウントに入らない。』
『狡いこと考えているのね。』
『二学期から新規蒔き直しになるんだから、もう勉強しても損だよ。明日も白紙を出してやる。』
『兄さん大変よ。』
『どうして?』
『一学期の成績が悪いと、転校出来ませんよ。』
『大丈夫だ。学校で証明してくれる。』
『成績の悪かったことを証明してくれるんですから駄目ですよ。』
『転校できなければ一年遊ぶ。』
『仕方のない人ね。』
『兎に角、東京へ帰れるんだ。僕は天下の大勢が分っていると言ったろう。』
 と静人君はこの機会を利用して又怠けるつもりらしかった。
『兄さん、私、今日は感慨無量よ。』
『生意気だね。』
『皆が取巻いて惜んで下さるんですもの。級(クラス)中一人残らずよ。』
『それは僕だってそうだった。皆が寄ってたかって、「伊達、惜しいなあ。伊達、惜しいなあ」って惜しがってくれた。』
『私、送別会をして戴きますの。』
『僕もして貰う。二つだよ。同級生のと野球部のだ。僕はこんな大きな存在だとは思わなかった。』
『野球部は兄さんの鼻に送別会をして下さるのよ。』
『そうかも知れない。まだ心持腫れているようだ。』
『もう何ともありませんわ。』
『いや、やっぱり本を読む時少し邪魔になるんだから、丁度いゝ。もう勉強なんかしないぞ。天下の大勢が東京へ向いているんだから。』
『兄さんはとても駄目ね。』
『大器晩成はこうしたものさ。』
『いゝえ。大器晩成と天下の大勢で勉強の嫌いなのをごまかすんですわ。』
『ハッハヽヽヽ。』
『当ったものだから笑うのよ。』
 と鹿の子さんは見て取ってしまった。
その夕刻、お父さんは早目に帰って来て、久しぶりで一緒に食事をした後、
『静人も鹿の子もお聴き。』
 と申し渡しに取りかゝった。
『静人や、チャンと坐って。』
 とお母さんが側(はた)から注意した。
『新聞に出ている通り、お父さんはしばらく休養することになった。しかし役所をやめるからって、お前達は少しも心配するに及ばない。』
『はあ。』
『万事お上の都合だ。俺は二三年ゆっくり本でも読んで又御奉公を心掛ける。お母さんも随分忙(せわ)しかったから、丁度いゝ中休みだ。東京へ帰って、当分呑気(のんき)に暮そうと思う。』
『はあ。』
『二十日に立つ。後十日足らずだから、お前達もそのつもりでいなさい。当分支度で忙しいよ。東京から兄さんが手伝いに来る。』
『それはいゝですな。』
『賑やかになるよ。』
『僕も働きます。』
『お前も一先(ひとま)づ一緒に行くんだ。』
『はゝあ。一先づ?』
『秋から又こゝの学校へ戻って来る。』
『残るんですか?僕だけ。』
『お母さんから聞いたろう?』
『今朝から忙しくてまだ話す暇(ひま)がございませんものですから。』
 とお母さんが弁解するように言った。
『静人だけは後一年半だから、序でにこゝで卒業する方がよかろうと思う。』
『何処から通うんですか?』
『よく監督の届くところへ頼んでやる。』
『さあ。困った。』
『何も困ることはあるまい。お前はこゝの学校が気に入っているじゃないか?』
『はあ。しかし‥‥』
『一緒に行きたいのかい?』
『はあ。』
『それは無論そうだろうけれど、お前は今まで大器晩成の方針でやって来ているから、東京へ転校すると苦しいよ。田舎の学校が楽だということはないけれど、此方の先生方はお前をよく理解してくれる。』
『此方にいると却って落第するかも知れません。』
『どうして?』
『実はもう東京へ転校するつもりで、今日の試験に失策(しくじ)りました。』
 と静人君は頭を掻いた。
『予定の行動で失策ったのかい?』
『はあ。転校すれば新規蒔き直しだと思って、幾何の答案をロクヽヽ書かないで出してしまいました。』
『馬鹿だね。』
『やれば出来たんです。一番を書いて、二番に取りかゝった時、転校するならこれをやってもやらなくても天下の大勢に関係ないと思ったんです。』
『そんな天下の大勢はないよ。』
『オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんが笑い出した。


『二十点しか取れていませんから、僕、やっぱり東京へ転校させて戴きます。明日の試験だってもう本気になれません。』
『最後の試験だと思ったらどうだね。』
『そう思うから楽をしたくなるんです。』
『人間、これがイヨヽヽ最後だと思えば真剣になるものだ。』
『違います、人間、死刑になる時には皆すきなものを食べたくなります。』
『変な理屈だな。これはどうしたものだろう?』
 とお父さんはお母さんの意見を求めた。
『つれて参りましょうよ。すぐにこの通りですから、一人残して行っても心配で仕方がございません。』
『親の手をはなれゝば、却って奮発するかも知れないと思うんだけれど。』
『駄目でございますよ。いゝことにして遊びますわ。』
『まだ欲が出ていないからね。』
『理屈をつけて怠けるのが名人です。』
 とお母さんは我が子を見る明がある。
『参ったなあ。』
 と静人君は両手で頭を押えていた。
『そうれじゃつれて行くか?しかし東京の学校へ入ると、こんなことじゃ駄目だよ。』
『むづかしいんですか?』
『同じことだけれど、教科書が変るから勝手が違う。よっぽど勉強しないと落第する。』
『お父さん、それじゃ僕、條件つきで残ってもいゝです。』
『どういう條件だね?』
『落第してもいゝという條件です。』
『それは困るよ。』
『東京へ行っても落第するんですから同じことでしょう。同じことなら、こゝですれば旅の恥はかき捨てです。』
『どうもお前は変な理屈をつけるね。』
『実は僕、野球のことを考えると、責任を感じるんです。やっぱり残っていたいんです。』
『そういう動機で残られちゃたまらないよ。一緒につれて行く。』
『その方が御安心です。僕もその方が自分のためになると思うんですけれど、保証はしませんよ。』
『何の保証だね?』
『及第するという保証です。教科書が変れば勝手が違いますから。』
『一生懸命になってやるさ。』
『やるにはやりますけれど、保証をすると嘘になるかも知れません。』
『仕方のない奴だなあ。此方に残れといえば、落第してもいゝかと條件をつける。東京へつれて行くといえば、必ずしも及第しないという條件をつける。』
『そういう條件で何方にでもします。』
『それじゃ何方にしても落第ということになる。手がつけられない。』
『つれて参りましょうよ。同じ落第するにしても、親の目の届くところの方がようございますから。』
 とお母さんが主張して、結局、静人君も東京へ転校ということに定まった。
静人君はその晩一生懸命に勉強した。
『兄さん。』
 と鹿の子さんが呼んでも、
『うるさいよ。』
 と答えたくらいだった。


『感心ね。』
『実は仕方がないんだ。』
『どうして?』
『今日あれから先生のところへ行って訊いて見たら、成績がよくないとやっぱり転校がむづかしいそうだ。』
『そうでしょう。』
『お前はいゝことを聞かせてくれた。後の試験を一生懸命でやる。』
『後(あと)幾つ?』
『明日二つ明後日二つだ。これをよくやれば、どんな中学校でも望み次第のところへ推薦してくれるそうだ。』
『早く天下の大勢が分ってよかったわね。』
 と鹿の子さんは冷やかした。
『うむ。しかし今度の大勢はお前に教えて貰ったようなものだ。』
『兄さんがこんなに真剣になったこと初めてよ。』
『大変だもの。お父さんは僕を校長先生のところへ預けるつもりだったんだ。校長先生と来たらとても厳しいんだからね。』
『でも兄さんは此方に殘りたいと仰しゃったじゃありませんか?』
『あれは計略を使ったんだ。野球の責任があると言ったろう?』
『えゝ。』
『脅かしてやったんだ。校長さんのところへ預けられゝば野球はもう出来ない。剣道ばかりやらされる。しかしお父さんは知らないんだ。』
『狡いのね。』
『お父さんをノック・アウトするには落第しそうなことを言うに限る。あゝいう時には頭が働くんだね。』
『悪く働くんですわ。』
『しかし僕はこれから英語をやるんだから、もう行っておくれ。今夜は徹夜だ。』
 と静人君はいつになく意気込んでいた。


鹿の子さんは後一日だった。いや、まだ終業式があると思いついた。それでもう皆とお別れになる。
『送別会があるわ。』
 と毎日会っていた人達の顔を見る機会が急に貴くなった。出発の時、送って貰える。それから後は又いつ会えるか分らない。五年になれば皆修学旅行に東京へ来る。その時は家へ御案内して上げよう。しかし三四五と後三年ある。
翌朝、京子さんは、
『今日と終業式だけね、もう。』
 とやっぱり勘定していた。
『長いこと我儘を申し上げました。』
『私こそ。』
『東京へ行っても忘れませんよ。』
『私も。秋から学校へ行く時、一人ぼっちでどんなに淋しいことでしょう。』
『学校のことお手紙で教えて下さい。』
『えゝ。』
『後の長官にも女学校へ通うお子さんがあるかも知れませんわ。』
『私、それを考えて少し心配していますの。』
『何故?』
『あなたよりも我儘な人だと大変ですから。』
『あらまあ!』
『オホヽヽヽ。』
『ひどいわ。』
『御免なさい。これも最後の悪口よ。』
『いゝのよ。御本を御覧なさいよ。』
『今日はあなたとお話をしながら行こうと思って、昨夜(ゆべ)すっかり読んで参りました。』
『有難いわ、その心掛けが。』
 と鹿の子さんは嬉しがった。
送別会は終業式の日ということに定まった。京子さんと梅村さんと横田さんが発起人になって、擔任の先生のお許しを得た。先生も出席して下さる。横田さんは例の調子で、
『終業式が済むとすぐにお作法室へ集まること。オホヽヽヽ、会費三十銭。御馳走がないかわりに余興が沢山ございますから、是非。オホヽヽヽ。』
 と回章のかわりを勤めて歩いた。一人残らず出席する。
鹿の子さんと京子さんはそれから二三日の間絶えず行ったり来たりしていた。隣り同志だから、休暇中はいつもそうだったが、今度は去る人と残る人だ。鹿の子さんは草花のいゝのを京子さんの家の庭へ移した。
『こんなに戴いていゝんでしょうか?』
『持って参られませんから。』
『でも、あなたの花壇が空明(からあ)きになってしまうわ。』
『いなければ見られませんもの。』
『後(あと)の長官がお出でになって、変に思うかも知れませんわ。あなたの方が空明きで、私の方が一杯ですから。』
『見えませんよ。』
『覗けば見えますよ。「あゝ、これは家のを皆持って行ったんだ」と思うかも知れませんわ。』
『それじゃこれぐらいにして、あとは残して置きましょう。』
『そうして戴きますわ。』
『若し可愛い女のお子さんがおありでしたら、いいのを少しあなたから分けて上げて下さい。』
『はあ。』
『可愛い人でなければ駄目よ。これは私の遺言よ。』
『まあ、厭だ。』
『オホヽヽヽ。』
『金魚だけはすっかり戴きますよ。』
『えゝ。小鳥は?』
『世話が大変ですもの。』
『二三羽選(え)り取って置くといゝわ。金花鳥なんかこゝではナカヽヽ買えませんよ。』
『それじゃ金花鳥だけ戴きましょう。』
『そうして下さい。可愛いものよ。』
『あとはどうなさいますの?』
『送別会の時、希望者を募集して分けてしまいます。』
その送別会のある終業式の日の朝だった。
『やあ、大変々々。』
 と静人君が新聞を見ながら叫んだ。


『なあに?』
『両隣りとも休職だ。』
『あらまあ!京子さんのところも?』
『うむ、揺り返しだよ。』
『はあ。』
『御覧。松本さんと佃さんは転任だ。やっぱり大地震だ。』
『まあゝゝ。京子さんは今日私の送別会の発起人よ。』
 と鹿の子さんは新聞の辞令に見入った。
京子さんを誘ったけれど、ナカヽヽ出て来なかった。
『京子さん。』
『はあ。』
『お待ちしていてよ。』
『唯今。』
 京子さんは泣いていたと見えて目が赤かった。
『お早うございます。』
『鹿の子さん、私、どうしたらいゝでしょう?』
『何故?』
『新聞御覧になりません?』
『拝見しました。でも仕方ありませんわ。』
『私、あなたの送別会の発起人ですもの。』
『御一緒に願いましょうよ。』
『あなたから梅村さんに仰しゃって下さい。』
『えゝ。』
『世の中って分らないものね。私、昨夜(ゆうべ)はあなたの送別の辞を考えていたんですけれど。』
『御一緒にこうしてこの坂を下りて学校へ行くのが本当に最後になりましたわね。』
『私、今朝までちっとも覚悟していなかっただけ余計悲しいわ。』
『御同情申し上げます。』
『鹿の子さん、手を引いて参りましょう。』
『えゝ。これで最後だと思うと本当に名残り惜しいわね。』
 と二人は手を取って県庁坂を下り始めた。

終業式の日
『京子さん、大切(だいじ)のこと、大切のこと。』
 と鹿の子さんが思いついた。
『なあに?』
『あなた東京?』
『えゝ。』
『まあ!嬉しい。』
『あら!又彼方(あっち)で会えるんですわ。お別れのことばかり考えて私も忘れていました。』
『どこ?東京は。』
『あなたのところと違って、行ってから探すんですわ。』
『なるだけ近くへいらっしゃいよ。』
『さあ。』
『そうなれば又こうして御一緒に学校へ通えますわ。』
『東京は広いんですってね。』
 と京子さんはまだ行ったことがない。


『大東京よ、今度は。こゝの百倍ぐらいでしょう。』
『百倍。』
『えゝ。』
『広いのねえ。私、東京だと思うと、少しあきらめがつきますわ。』
『私もよ。でも又一年か二年で動くんでしょう。』
『動かなければ大変よ。東京へ行って待っているんですから。』
『それはそうね。』
『私、銀座を見るのが楽しみですわ。』
『御一緒に参りましょうよ。』
『屹度ね。』
『えゝ。私、知っているところだけ御案内申し上げましょう。』
『どうぞ。私、休職でよかったと思いますわ。』
『転任だと東京へ行けませんから?』
『えゝ。』
『私もそう思っているんですけれど、それは親の心子知らずってものよ。』
『なぜ?』
『大器晩成がこの間そう言って、お父さんに褒められました。』
『お兄さん?』
『えゝ。まぐれ当りでしょうけれど、この頃は時々うまいことを申します。』
『あなたの御信心が利いたんじゃなくて?』
『鼻に当ったボールで頭の中の石が散ったのかも知れませんわね。』
『オホヽヽヽ。』
『でもやっぱり駄目よ。野球の強い学校へ転校したいんですって。動機が間違っていますわ。』
『あんなにお上手なんですもの、とてもやめられますまい。』
『早速リーグ戦を見るんですって。私もつれて行ってくれますって。』
『私も見たいわ。女学生が随分行くんですってね。』
『えゝ。その時はお誘いしますわ。』
『どうぞ。東京だと思うと楽しみですけれど、皆さんにお別れすることを思うと悲しくなりますわね。』
『本当ね。』
鹿の子さんと京子さんが学校に着いたら、同級生が待ち受けていて取り巻いた。
『中島さん、あなたもですってね。』
 と今日は京子さんに注目が集まった。試験最中と違って余裕があるから、大抵新聞を見て来た。見て来なかったものはすぐに聞き込んだ。
『中島さん。』
 と梅村さんは一同を代表するように京子さんの手を取った。
『お別れよ。仕方ありませんわ。』
『私、今朝お目にかゝって、今日の会のプログラムを、もう一遍御相談申し上げようと思っていましたのよ。』
『私も今朝まで思いもかけませんでしたわ、こういうことになろうとは。』
『送別会の発起人がお客さまに早がわりなんて、世の中は妙なものね。』
『本当に何が何だか分らなくなってしまいましたわ。』
 と京子さんは正にその通りだった。
間もなく終業式が始まった。校長先生の訓辞中、鹿の子さんは、
『京子さん。』
 と隣へ囁いた。姿勢を少しもくずさず、あたりへ殆ど知れないように談話を交換する。これを講堂潜航法という。
『はあ。』
『校長先生は私達ばかり見ていらっしゃるようよ。』
『そうね。』
『今身体を大切(だいじ)にするようにと仰しゃったのは、私達のことらしいわ。』
『屹度そうよ。』
『本当に終業式ね、これが。』
『えゝ。そう思うと悲しいわ。』
『この講堂もこれでもう見納めよ。』
『校長先生、長々お世話になりました。』


『お礼を申し上げているの?私も申し上げましょう。校長先生、有難うございました。どうぞお達者で。』
『通じませんわね。』
『心が通じればいゝのよ。』
『もうお黙りなさいよ。最後のお訓話ですから。』
『はいゝゝ。』
 と答えて、鹿の子さんが首(こうべ)をめぐらしたら、級擔任の小宮先生がじっと見守っていた。潜航法をやるものは用心のために先生の方を見返るから、その都度報告することになる。小宮先生は或る時、
『あなた方は雉のようですわね。雉って鳥は首だけ草の中へ突っ込んで、自分が見えなければ人も見えないと思っているそうでございますから。オホヽヽヽ。』
 と皮肉を仰しゃったことがある。
終業式が済んで教室へ退った。そこで成績表を戴いてイヨヽヽ学期の総勘定が終わる。鹿の子さんは二番、京子さんは三番、何方も居据(いすわ)りだった。席次については、一番の梅村さんを加えて、三人の間に大分駈引きがあったけれど、それも今はもう問題でなかった。
『伊達さん、中島さん、参りましょう。』
 と皆に取り巻かれて、すぐに作法室へ入った。
鹿の子さんと京子さんは先生の席を一つ残して、お床の間に据えられた。皆ズラリと居流れて、送別会が始まる。梅村さんと横田さんと、それから京子さんの仲よしの福田さんが発起人として斡旋する。横田さんは殊に活躍した。
『皆さんお揃いになったのに先生は何をしていらっしゃるんでしょうね?』
『あなたお迎えにいらっしゃいよ。』
『時間をお守りにならなければいけませんって、私、叱って来て上げますわ。』
 と横田さんは意気込んで縁側へ出たら、折から現れた小宮先生に突きあたった。
『あらまあ!』
『失礼。』
『先生、御免下さい。』
『いゝえ、私こそ。』
『急いだものですから、本当に失礼申し上げました。』
『皆さんもうお揃いですか?』
『はあ。お忙しいところを恐れ入ります。どうぞ彼方(あちら)へ。』
『それでは。』
 と先生は席についた。こゝまでは横田さん、上出来だったが、その後が少し悪かった。
『梅村さん、始めましょうよ。これで漸く人数が揃いましたから。』
 と大きな声で言ったものだから、小宮先生は腕時計を見ながら、
『皆さん、お待たせ申し上げて済みませんでしたわね。』
 と責任を感じたようだった。梅村さんが横田さんを睨んだ。横田さんは首をちぢめて舌を出した。見返ったら、先生が御覧になっていたものだから、
『先生、御免下さい。』
 と正直にあやまった。


『お教室の仇討ち?』
『オホヽヽヽ。』
『確かに五分ばかり遅刻致しました。あなた方のお帳面につけて置いて下さい。
『まあ!オホヽヽヽ。』
『賑やかな横田さん。オホヽヽヽ。』
 と先生も笑い出した。
京子さんは、その間に幾度も努力して、
『先生。』
 と呼びながら、進み出て、お辞儀をしたまゝ、しばらく頭が上がらなかった。
『中島さん、あなたもでございますってね。』
『はあ。』
『御家庭の事情で仕方ありません。』
『どうも長々‥‥』
『東京へいらっしゃる?』
『はあ。』
『御転校の手続きもございますから、何(いづ)れ御ゆっくりお話を伺いましょう。』
 と先生は京子さんの目に涙が宿っているのを認めたから、わざと事務的に片付けた。
横田さんが開会の辞を述べた。よく笑う人だから、会の調子を陽気にするために至極適任だった。
『これよりして、伊達さんと中島さんの御送別会を開きます。私(わたくし)、発起人ですけれども、考えて見ますと、伊達さんと中島さんが余所へお行きになるならば、惜しいと思わない人は一人もありませんから、この送別会はこゝにいらっしゃる方々全体が発起人でございます。』
 皆が共鳴して手をたゝいたら、横田さんは、
『オホヽヽヽ。』
 と笑いけけて、
『私、発起人ですけれども、実はこの通りのガサツものですから、開会の辞も送別の辞も申し上げないで、その分お安い会費で御馳走の方を勉強するお約束でございました。こういうことを申し上げては失礼かも存じませんが、学校の門前(もんまえ)の木村屋は私の家の親類でございます。』
『オホヽヽヽ。』
『それで開会の辞は梅村さん、送別の辞は中島さんということに定まっていましたが、今朝になって、その中島さんが送別の辞を戴く組に入ってしまいました。こんなことは滅多にございません。発起人が一人足りなくなりましたから、中島さんと一番親しい福田さんをお頼み致しましたが、素よりお悧巧な人ですから、「お引受けしますけれど、私、昨日から少し喉をいためておりますから」と仰しゃいました。』
『オホヽヽヽ。』


『こういう次第(わけ)でガサツものの私が開会の辞を述べることになりましたから、どうぞ悪しからずお願い申しあげます。さて、伊達さんと中島さんは今回御家庭の御都合で東京へお出でになります。一年級以来お親しく願っていたのですから、真(まこと)にお名残惜しうございます。伊達さんと中島さんにしても、私達と同じようなお心持だろうと存じます。しかし何とも仕方ありません。又、お目にかかる日を楽しみにする外(ほか)仕方ありません。五年になると修学旅行で東京へ参りますから、お目にかゝれます。考えて見ますと、会うのは別かれる種でございます。朝学校に集まってお互いに顔を合せるのはお昼過ぎに別かれる種でございます。お昼過ぎに別かれるのは翌朝又学校に集まってお互いに顔を合せる種でございます。それですから、今日のこの送別会は他日又伊達さんと中島さんにお目にかかる種でございます。そう思えば悲しいこともありません。皆さんどうぞそのおつもりで、お話でも余興でもご自由に御遠慮なくお願い申し上げます。』
一生懸命だったと見えて、横田さんは思うところをよく尽くし得た。皆一斉に拍手をした。続いて梅村さんが送別の辞を述べた。優等生として級の模範になっている二人が去るのは前歯が、二枚抜けると同じことで、後(あと)の淋しさが察しられる。殊に姉妹のように親しく願っていた間柄だから、級として大打撃であると別れを惜しんだ後、
『横田さんの仰しゃる通り、会うのは別れる種、別れるのは又会う種でございますけれど、別にもう一つ心と心でいつでも会える法があります。それは文通でございます。伊達さんと中島さん、あなた方お二人のことを始終思っている三十何人のものがこの市(まち)にいることを、そうぞお忘れにならないで下さいませ。』
 と結んだ。
次は先生だった。
『伊達さんと中島さんはお父さんが、官吏でいらっしゃるから、或いはこういうことになるかも知れませんと思っていましたが、今学期限りでお別れとはあまり急でございました。学校としても、私としても、真に惜しいことに存じます。普段はむづかしい注文ばかりつけますけれども、お二人とも実は申分ない勉強家でございます。云々。』
 と二人を褒めて、
『唯今梅村さんの仰しゃった通り、級は前歯を二枚失います。しかしこの二枚の前歯は後に残る方々の中から補充しなければなりません。』
 と一同の勉強を促がした。
『抜け目がないわね。もう御注文よ。』
 と横田さんが梅村さんに囁いた。
『去って行くお二人にも一つ御注文がございます。』
 と先生は横田さんの声が耳に入ったらしい。
『伊達さんと中島さん、東京の学校へ御転校になったら、伊達さんと中島さんは一体どこから来たんでしょうかと先生方が首を傾(かし)げるほど御勉強を願います。実によく出来る。お行儀も宜しい。どこから転校して来たんでしょうかと思って、先生方が調べて御覧になると、こゝから参っています。成程、模範校から来ているということになって、本校の名声が益々高まります。』
鹿の子さんが答辞を述べる番になった。
『皆さん、どうも有難うございます。先生の御教訓も皆さんの御親切も私達決して忘れません。勉強も致しますし、お便りも申し上げます。又お目にかゝる日が必ず参ります。皆さんどうぞお身体をお大切に。』
 と唯だそれだけだった。京子さんは鹿の子さんと一緒にお辞儀をして、代表して貰ったことにした。
『これからソロヽヽよ。』
 と横田さんが、又活躍し始めた。
『あなたからなさいよ。横田さん。』
『横田さん、どうぞ。』
『発起人からどうぞ。』
 と皆が余興の注文をした。


『まだ駄目よ。』
『なぜ?』
『駄目よ。おとなしくしていなければ。』
 と横田さんは手を膝に置いて、先生の方を見ていた。皆黙って、自然、先生の方へ目を向けた。
『それでは私は学校の御用がまだ残っていますから、失礼して彼方(あちら)へ参ります。』
 と先生が仰しゃった。
『まあゝゝ、先生お宜しいじゃございませんか?』
 と横田さんが引き止めようとした。
『いゝえ。今日はもうお別れですから、あなた方だけ水入らずで御ゆっくりお遊び下さい。』
『先生がいらっしゃらないと、会がはずみませんから。』
『まあ。オホヽヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
『横田さんは外交がお上手ね。』
『オホヽヽヽ。』
『余興も結構ですけれど、こゝはお作法室ですから、それをお忘れにならないように。』
『はあ。気をつけます。』
『それではどうぞ御ゆっくり。』
 と先生は一礼して立ち上がった。横田さんと梅村さんと福田さんが玄関まで送って行った。
『横田さんはお上手ね。』
『オホヽヽヽ。』
『先生がいらっしゃると、余興なんか出来ませんわ。』
『ですから気を利かして下すったのよ。先生の方で。』
『普段厳しい代わりに分っていますわね。』
 と横田さんも先生の好評だった。
しかし余興はやらなかった。一同期せずして鹿の子さんと京子さんを取り巻いて、そのまゝ座談を始めた。
『中島さん、この間遠足の時あなたと二人で梅村さんに写して戴いた写真が早速記念になりますわね。』
 と福田さんが言った。
『えゝ。少し薄ぼんやりしていますけれど。あら、御免なさい。梅村さん。』
『どうせ素人でございますから。』
『写真を写しましょうよ、写真を。本当の写真を。オホヽヽヽ。』
 と横田さんが思いついた。
『笑わなくてもいゝわ。』
 と梅村さんがたしなめた。
『あら!笑っちゃ悪いんですか?』
『悪いとは申しませんよ。』
『あなた今日は変に威張っているのね。私を叱ってばかりいて。』
『それじゃ今お玄関で申し上げたことが、お気にさわったんですか?』
『さわりましたよ。』
『でも、先生に失礼じゃありませんか?催促がましくじっと坐ってお顔を見ていらっしゃるんですもの。』
『あれは先生ももうお立ちになりたかったのよ。私、あゝしてお立ちになる機会を拵えて差上げたんですわ。』
『でもあまり露骨じゃありませんか?』
『それは今もう仰いましたよ。二度叱るおつもり?』
 と横田さんはナカヽヽ負けていなかった。
『およしなさいよ、つまらない。』
 と福田さんが止めた。もとより仲のいゝ二人だけれど言い張り始めると、誰か仲裁するまでやめない。
『写真を写しましょうよ。皆さん、どう?』
 と横田さんが改めて相談を持ち出した。皆賛成だった。
『横田さん、あなたは写真屋さんに御親類はない?』
 と梅村さんが訊いた。
『親類はありませんけれど、よく知っているのがあります。』
『それじゃお願いしてよ。』
『私、電話をかけて特別に勉強させますわ。オホヽヽヽ。』
 と横田さんはもう御機嫌が直った。
『ところで、皆さん、私、皆さんにお願いがございますの。聴いて下すって?』
 と鹿の子さんが言い出した。


『なあに?』
 と二三人が同時に応じた。
『聴いて下されば申し上げますわ。』
『もうお別れですから、大抵の御無理なら。』
『まあひどいわ。』
『オホヽヽヽ。』
『それじゃ申し上げますよ。私、御承知の通り生き物が大好きで、小鳥を沢山飼っていますけれど、あんなもの東京へ持って行くのは大変です。皆さんにお分けして可愛がって戴きたいと思うんですけれど、どうでしょう?』
『戴きますわ。』
『私も。』
『私もよ。』
 と希望者が七八名あった。鹿の子さんの小鳥は音が響いている。
『私もお分けしたいものがございますよ。』
 と京子さんが言った。
『なあに?』
『私のは小鳥のように世話のかゝらない草花です。私のもありますけれど、鹿の子さんから戴いたのもありますから、両方の記念になりますわ。』
『戴きます。』
 とこれも希望者が多かった。
『伊達さん、私、あなたから、戴きたいものがございます。』
 と横田さんが今度は自分の方から申し込んだ。
『なあに?』
『戴ければ申し上げます。もうお別れですから、少し御無理でもいゝでしょう?』
『何よ?』
『ペルシャ猫のメリーさん。』
『あらまあ!』
『いけません?』
『私、あれだけはつれて行きたいと思っているんですから。』
『でも大変でしょう?御面倒が。』
『えゝ。』
『頂戴よ。』
『差上げれば、あなた大切(だいじ)にして下さる?』
『マスコットにするんですもの。神さま扱いにしますわ。』
『あなたのお母さん、猫がお好き?』
『大好き。お父さんも、弟も、皆。』
『家中お好きでないと可哀そうですからね。』
『一人残らずよ、私のところは。』
『それじゃ考えて見ましょう。上げるなら、あなたのところと定めて置きますわ。』
 と鹿の子さんは少し心が動いた。メリーは可愛いけれど、東京まで持って行くことは問題になっている。お母さんはこの猫を戴いてからそういゝこともなかったじゃありませんかと言っていらっしゃる。
『鹿の子さん、私、もう一つありますわ。』
『なあに?』
『やっぱり戴くんですけれど、目に見えるものじゃないわ。堪忍して戴くの。』
『堪忍?』
『えゝ。鹿の子さん、堪忍して頂戴。』
『何を?』
『私、去年の今頃あなたの悪口を随分申しましたから。』
『そんなこと、もういゝじゃありませんか?』
『いゝえ。一学期も二学期もよ。仲よしになった時、すっかり申し上げて堪忍して戴こうと思ったんですけれど、そのまゝにしてしまいましたから、お勘定をして置かないと、この先いつまでも気が咎めますわ。』
『横田さん、それじゃ私も堪忍して戴きますわ。私もあの頃のことを考えると申しわけありませんわ。』
『いゝえ。私の方がよっぽど悪いのよ。』
『私の方よ、初めの中は少しこれだったんですもの。』
『大(おお)これよ。』
 と横田さんは指で角(つの)を立てて睨む真似をして、
『オホヽヽヽ。』
 と笑いくづれた。


『横田さん、私、メリーをあなたに差上げますわ。』
『本当?』
『えゝ。』
『有難うございます。』
『あなたのような気持のいゝ人に差上げて置けば、私が飼っているよりも仕合わせになれますわ。』
 と鹿の子さんはすっかり感激していた。
なお話し込んでいるところへ、写真屋さんが駈けつけた。
『先生にも入って戴かなければなりませんよ。』
 と梅村さんが横田さんに言った。
『えゝ。』
『お早い方がいゝわ。』
『あら!又私をお使いになるの?』
『外交はあなたに限りますわ。』
『まあゝゝ。オホヽヽヽ。』
 と横田さんは駈けて行った。
一同は鹿の子さんと京子さんと小宮先生を中心に縁側へ居並んだ。写真屋さんは実物以上に写さないと評判が悪くなるから、女学校へ出張すると殊に骨を折る。彼方此方(あっちこっち)と世話を焼いて、幾度も念入りにレンズをのぞいた後、
『皆さん、そのまゝの御姿勢で、どうぞ。』
 と合図をした。折から
『初めの一枚はカラッポよ。』
 と横田さんが大きな声で言ったものだから、皆笑い出してしまった。写真屋さんは動揺の静まるのを待って、
『どうぞ。』
『オホヽヽヽ。』
『お笑いにならないで。』
『オホヽヽヽ。』
『横田さん、駄目よ。笑わないように、私、抓っていて上げますわ。』
 と囁く梅村さんの声が聞えた。
『あら!くすぐったい。オホヽヽヽヽヽヽヽ。』

十目の見る所
鹿の子さんと京子さんはそれから毎日忙しかった。出発の支度を手伝うというわけでもない。ただ落ちつかない。往ったり来たりして、お喋りをするだけだ。
『よくお話がありますのね。』
 とお母さん達が感心するくらいだった。
『御相談よ。』
『何の御相談?』
『いゝお話。』
二人は一緒に立つことに定まったのが嬉しかった。
『何でも御一緒にしましょうよ。』
 と鹿の子さんが言った。
『えゝ。』
『こゝを立つのも御一緒、東京へ着くのも御一緒よ。』
『御一緒に立てば、御一緒に着くに定まっていますわ。』
『学校も御一緒よ。』
『えゝ。』
『お家もこゝのように御一緒のところだといゝんですけれど。』
『それだけは出来ませんわ、官舎と違いますから。』
『でも学校が御一緒なら、お家が御一緒も同じことね、毎日会えますから。』
『えゝ。』


『日曜には御一緒に何処かへ遊びに参りましょう。』
『私、お上(のぼ)りさんですから、どうぞ宜しくお引き廻しを。』
『まあ、御謙遜ね。』
『私、あなたと御一緒の学校ってことに決心したのにはわけがありますのよ。』
『どういうわけ?』
『お上りさんですから、馬鹿にされましょう。一人じゃ心細いわ。』
『そんな気の弱いことじゃだめよ。当校は県下の模範校じゃありませんか?』
『そうれはそうですけれど。』
『その模範校の優等生じゃありませんか?』
『学科の方は負けないつもりですけれど。』
 と京子さんは東京の学校に呑まれている。
『学校と言えば、小宮先生のところへ御一緒にお暇乞いに上りましょうね。』
『これからいかが?』
『参りましょうよ。昼からは又梅村さんや横田さんが遊びにお出でになりますから。』
『このまゝでいゝわ。正式のお暇乞いは立つ前よ。お母さんと御一緒に上るんですって。』
『私もそうよ。』
『今日は東京の学校へ入る心得を伺って参りましょう。』
『東京の学校が気になるのね。』
『私、あなたと御一緒で嬉しいんですけれど、一つ心配があると思うと、それよ。』
『お供致しましょう。』
 と鹿の子さんは連れ立った。
小宮先生のところはかなり遠い。しかし家でお喋りをするのも同じことだから、一向苦にならない。
『鹿の子さん。』
『なあに?』
『御一緒の学校へ入っても組が違うとだめね。』
『えゝ。』
『御一緒の組ってことに先生からお願いして戴きましょう。』
『でも、私、それは少しむづかしいと思いますわ。』
『なぜ?』
『二人とも模範校の優等生でしょう。甲組と乙組とあれば、両方の先生が取りたがりますわ。』
『それはそうかも知れませんわね。』
『甲乙丙丁とあれば、争奪戦が起りますわ。とにかく、日本中に鳴り響いている学校ですから、注意を引きますよ。』
『損ね、かえって。』
『私、夢を見ましたの。東京の学校よ。私が英語を当てられて、立って読んだら、皆吃驚しましたわ。』
『まあ。』
『先生はやっぱり小宮先生よ。夢って変なものね。「あなたは一体どこから転校していらっしゃいましたか?」と驚いてお訊きになりました。「◯◯高女」 「それならよくお出来になる筈でございます」って。』
『オホヽヽヽ。』
『一寸この通りよ。』
『でも夢じゃ仕方ありませんわ。』
『夢でもこんな工合ですから大丈夫よ。』
『私、そのアベコベじゃないかと思いますわ。夢は逆夢と申しますから。』
 と京子さんはどうも自信がない。
小宮先生は鹿の子さんと京子さんを迎えて、
『まあゝゝ、お揃いで、ようこそ。どうぞ。』
 と請じた。いつもは上るまでにナカヽヽ手間の取れる二人も今日は一向面倒をかけなかった。


『先生、長々有難うございました。』
 と鹿の子さんが言った。
『本当にお名残惜しうございます。』
 と京子さんが続けた。
『私も何だか力抜けがしました。お二人御一緒ですから。』
『‥‥ ‥‥』
『御家庭の御都合で仕方がございません。いつお立ちでいらっしゃいますか?』
『二十七日。』
 と鹿の子さんが答えた。
『御一緒?』
『はあ。』
 とこれは京子さんだった。
先生も愛校心に富む。◯◯高女を県下の模範校と信じているし、又模範校たらしめるに貢献しているから、当校で修業する生徒は一番仕合わせだと思っている。二人が東京へ行って一緒の学校へ入りたいという希望を述べたら、
『結構でございましょう。どこにお定めになりました?』
 と訊いた。
『まだ分りませんけれど。』
『東京で一番いゝ学校と思っています。』
 と京子さんと鹿の子さんはそれも先生から伺って置きたかった。
『他はどこも同じようなものでございますよ。』
『とにかく、府立にしたいと思っています。』
『結構でしょう。府立なら、とにかく。』


『府立が沢山あるようですけれど、どこが一番いゝんでございましょうか?』
『似たり寄ったりでございましょう。なるべくお家からお近いところにお定めになったらようございましょう。』
『評判のいゝ学校がいゝと思うんですけれど。』
『世間の評判よりも内容でございますわ。』
『内容のいゝ学校に致します。』
『府立はどこも似たり寄ったりですから、御通学の便利ってことが一番大切でございます。お定まり次第お知らせ下されば、学校から手続きを致します。』
 と小宮先生は余所の学校の批評をして、責任を負うことを避けた。
『私(わたくし)、こゝで御卒業が出来るといゝんですけれど。』
 と京子さんが言った。
『お察し申し上げます。』
『‥‥ ‥‥』
『県下の模範校でございますからね。私(わたし)、あなた方お二人が御入学なすった時、試験の御成績を拝見して、天から授かったように思いましたが、同時に考えました。官吏のお子さん達ですから、きっと途中で御転校なさるでしょうって。』
『‥‥ ‥‥』
『理屈から申しますと、一つ学校に卒業までお通いになるのが常道ですけれど、御家庭の御都合で仕方ございません。官吏軍人のお子さん方はどうしても、多少お父さまのお勤の犠牲になります。』
『はあ。』
『それも国家の御奉公のお手伝いと思って、特別にお心掛けになれば、模範校から普通の学校へおかわりになっても、大した差支えは起りません。御自分の御勉強一つでございます。』
『模範校からなら、東京の府立へ行っても、大丈夫でございましょうね?』
『どういう意味でございますか?』
『大した引けは取りますまいと思うんですけれど。』
『呼吸器に異状があるといけませんわね。』
『はあ?』
『呼吸器の問題でございますよ。オホヽ。』
『私、胸の病気はございません。』
『伊達さん、あなたも私の申し上げている意味、お分かりになりません?』
『さあ。』
『あなた方は模範校の優等生じゃございませんか?息さえ通っていれば、どこへ御転学になっても、引けを取るなんてことは絶対にございませんよ。その点は私が御保証申し上げます。』
 と小宮先生は力をつけて下すった。
『先生、私、東京の学校へ入った夢を見ました。英語の時間で、先生がやっぱり小宮先生で‥‥』
 と鹿の子さんは又夢を話した。
『その意気込みが肝心ですけれど、初めてのところですから、お威張りになっちゃいけませんよ。』
『はあ。』
『伊達さんは御気象が勝っていらっしゃるから、むしろ控え目になさる方が宜しうございましょう。能ある鷹です。模範校で磨いた爪をお隠しになるくらいで結構でございましょう。最初から皆を驚かしてやろうなぞとお思いになると、かえってしくじります。』
『はあ。』
『中島さんの方はどっちかと申すと引っ込み思案でいらっしゃるから、これはむしろ積極的に爪を見せるぐらいにお心掛けになって、丁度でございましょう。』
『はあ。』
『何しろ、模範校で鍛えていらっしゃるんですから、どこへお出でになっても、恐れたり臆したりすることは決してございませんよ。』
『はあ。』
『御遠慮なくおやりになるんですわね。』
『はあ。心掛けます。』
 と京子さんは淑(しと)やかにうなづいた。
『私、いつもそう思いますの。お二人を混ぜ合わせて二等分しますと、丁度いゝお嬢さんがお二人できあがりましょうって。』
『あらまあ!オホヽヽヽ。』
 と鹿の子さんが笑い出した。
『何でございますか?』
『先生、それは少しおひどうございます。』
『まあ!なぜ?』
『私がでしゃばりものだと仰しゃらないばかりじゃございませんか?』
『いゝえ、決して。オホヽヽヽ。』
『中島さんは得な性分よ。』
『まづいことを申し上げましたわね。』
『オホヽヽヽ。』
『そういう意味じゃございませんけれど、まづ大体‥‥』
『結構でございます。』
『伊達さんは積極的、中島さんは消極的でいらっしゃいますから。』
 と先生はむづかしい言葉に言い直して、一方はむしろ控え目にするよう、もう一方は自信をもって活躍するようにと心得をさとした。
帰り途(みち)に、鹿の子さんは、
『京子さん、あなたは得な性分ね。』
 といった。
『なぜ?』
『得のつくように誤解されるんですもの。けれども実際のお話、あなたが消極的でおとなしいなんてことありませんわね。』
『さあ。私、恩師の仰しゃることに批評を加えたくありませんわ。』
『まあ!』
『オホヽヽヽ。』
『それでおとなしいおつもり?』
『えゝ。』
『呆れた。私、出しゃばりもの?』
『私、恩師の仰しゃることをかれこれと申し上げたくありませんわ。』
 と京子さんは涼しい顔をしていた。


『覚えていらっしゃいよ。』
『はいゝゝ。』
『でも喧嘩にもなりませんわね。』
『丁度いゝのよ、あなたが積極的で、私が消極的で。』
『あら!まだ主張なさるの?』
 と鹿の子さんが睨んだ。
昼から梅村さんと横田さんが遊びに来た。二人の出発が一緒と定まったことを聞いて、横田さんは、
『丁度いゝ御都合ね。』
『えゝ。』
『お見送りが一遍で済みますから。』
 と例の調子で笑わせた。


『後(あと)五日ね。私、毎日参りますわ。』
 と梅村さんは日数(ひかず)を勘定して見て、名残を惜んだ。それから東京の話が出た。
『他のところだとだめですけれど、東京ですから、又会えますわ。三年たてば会えますわ。』
 と横田さんは修学旅行に望みを囑(しょく)した。
『三年たてば三つになりますわ。』
 と鹿の子さんが言った。
『それは当りまえよ。』
『ですから。』
『ですからなあに?』
『復活しますわ、又地方へ。』
『あら、それじゃ三年たっても会えませんの?』
『行き違えば、もう永久にお目にかゝれないかも知れませんわ。』
『心細いわね。』
 と横田さんはシクヽヽ泣き出した。真似だと思っていたら、本当だった。
『いやな人ね。』
 とたしなめた梅村さんも鼻をつまらせていた。一寸のところで、感傷的になる。鹿の子さんと京子さんはもとよりのことだった。別れというものはどうも宜しくない。
『つまらない。オホヽヽヽ。』
 と横田さんは変化が早い。
『会うは別れる種よ。別れるのは又会う種よ。きっと会えますわ。』
 と気をかえて、元来の快活に戻った。
『鹿の子さん、私、一つ申し上げたいことがありますの。』
 と梅村さんが言った。
『なあに?』
『この間から考えているんですけれど。』
『仰しゃって下さい。』
『お憤(おこ)りにならなければ。』
『決して憤りませんわ、もう間もなくお別れですもの。』
『それじゃ申し上げますわ。あなたは東京へいらしっても、こゝのおつもりじゃ駄目よ。』
『どういう意味?』
『さあ。』
『我儘ですから?』
『それもありますわ。』
『あら。』
『我儘はお互いですけれど。』
『出しゃばり?』
 と鹿の子さんは先生の戒めを思い出した。
『それほどでもないんですけれど。』
『本当に私、出しゃばりものでしょうか?』
『いゝえ、お附き合いして見れば、そんなことないんですけれど、初めの中、そう見えて誤解される心配がありますわ。』
『有難うございます。』
『お憤りになって?』
『いゝえ。ちっとも。』
『それじゃもう一つ立ち入って申し上げますわ。』
『まだありますの?』
『えゝ。こゝの鹿の子さん時代は特別よ。』
『どうして?』
『お父さんが知事さんでしょう。どうしたって、皆さんが重きを置いて下さいますわ。しかし今度は違いましょう?』
『えゝ。』
『こゝのおつもりでお出でになると、失望なさいますわ。実はこれ、私、小宮先生から頼まれましたの。』
『まあ。』
『お察し下さい。よくお考えになるようにって。』
 と梅村さんはもうそれ以上を言わなかった。
鹿の子さんのところには兄さんの熊一君が東京から手伝いに来ていた。熊本生まれの熊一君、静岡生まれの静人君、奈良生まれの鹿の子さんという工合に皆お父さんの任地に因んで名がついている。鳥取生まれの鳥子さんは二番目で、もうとうにお嫁に行ってしまった。熊一君は長男だ。東京の家から帝大へ通っている。
『熊兄さん。』
 と静人君が呼んだら、
『兄さんと言え。熊は余計だ。』
 と熊一君は動物尽くしに感心していなかった。
『一寸からかって見た。』
『生意気になったよ。』
『ハッハヽヽヽ。』
『今日はどこへ行って来た?』
『先生のところさ。』
 と静人君は大学生と対等のつもりで話す。
『少し手伝えよ。毎日先生のところへ行くのか?』
『二年の時から習った先生のところへ一人残らずお礼に廻っている。師の恩ってことを忘れないように。』
『それは感心だな。』
『しかし僕の心持の分らない先生もある。』
『どうして?』
『折角お礼に行ってやっても、一向有難がらない。かえっていゝ幸いにして小言を言う。』
『それはお前が迷惑をかけているからさ。』
『先生ってものは覚えがいゝ。君は二年の時、教室で癇癪玉という花火を鳴らしたねなんて、こっちの忘れていることを言い出すんだもの。』
『そんなことをしたのか?』
『うむ。』
『仕方のない奴だな。』
 と熊一兄さん、今さら叱るわけにも行かない。
『東京へ行ってあゝいうことをすると模範校の名を汚すから気をつけるようにと叱り直された。損をしたよ。たいがい叱り直しを食うけれど、恩は恩だからと思って、一軒々々廻っている。』
『それはいゝことだよ。』
『歴史の先生は僕を奥さんに紹介してくれた。これが知事さんの息子さんだよと言ったのはいゝが、後(あと)がいけない。三年の二学期の試験最中に教室で大森という生徒と取っ組みあいを始めたのには驚いたぜと来た。年代をチャンと覚えている。』
『成績が悪い筈だよ。』
『僕がなんにも悪いことをしなかった先生でも急所を知っている。君は東京へ行ったら、特別に勉強しなければいけないなんて、僕の一番嫌いなことを言う。』
『本当に勉強しなければだめだ。』
『今度はやる。』
『話を聞くと、兄さんも先生のところへあやまりに廻らなければならないように思うけれど、どうだね?必要があるなら、丁度いゝ機会だから、お父さんの名代で一巡廻ろうか?』
『もういゝんだ。考えてみると、すまないことばかりしているから、実はお礼というようりも謝罪に廻って歩いたんだ。その時は何でもないと思ったことでも、悪かったことがダンヽヽ分って来る。兄さん、立つ鳥は後を濁すなってことがあるだろう?』
 と静人君は心掛けのいゝところもある。
『感心々々。』
『これでも、もうソロヽヽ智恵が出る時分だろう。』
『出る時分だろうなんて、人ごとのようだね。』
『しかし智恵は汗のようなものだと書いてある。その証拠に赤ん坊は智恵がない。智恵は心の汗だから、ある程度まで発育しなければ出て来ない。出たらもう引っ込まないと書いてある。』
『何に書いてある?』
『西洋の本に書いてある。』
『嘘をつけ。』


『それじゃ自分で考え出したんだろう。智恵は汗のようなもので、自然に出て来る。夏になると出て来るように、大人になると出て来る。』
『変な理屈をつけるね。汗は努力をすれば出る。』
『そういう場合もある。それだから冬でも出ないことはない。』
『智恵も汗も同じだよ。』
『僕の言う通りだろう?』
『努力をすれば出る。勉強すれば出る。』
『これは驚いたな。小言を教えてやったようなものだ。』
『東京へ行ったら、今度は大いに努力するんだ。いつまでも大器晩成じゃ駄目だよ。』
『やるつもりだけれど、兄さん。』
『何だい?』
『東京で一番野球の強い中学校はどこだろう?』
『そんなことを訊いて何にする?』
『兄さんも先生組だな?』
『なぜ?』
『擔任の先生にそう訊いたんだよ。やっぱり何にすると来た。そこへ転校したいんですと言ったら、叱られてしまった。』
『野球はもうよせ。』
『しかし運動は必要だ。』
『転校先は兄さんが考えてやる。』
『野球の出来ないところじゃ困る。』
『程度問題だ。それも考えてやろう。』
『有難い。』
『今度は兄さんがついているから大丈夫だ。』
 と熊一君は十分監督するつもりだった。
『大きい兄さん。』
 とそこへ鹿の子さんが口を出した。
『何だい?』
『私ばかりじゃとてもだめですわ。随分気をつけて上げたんですけれど。』
『お前は感心だ。世話を焼かせないで、世話を焼く方だから。』
『本当だ。鹿の子はえらい。僕はとても敵わない。』
 と静人君が認めた。
『兄さんはそれだからいけないんですわ。』
『どれだから?』
『私に負けても平気でいるんですもの。奮発心がないんですもの。』
『兄さんと二人でいじめるな。汗が出る。』
『智恵をお出しなさいよ。』
 と鹿の子さんは額を拭いてやった。
『本当に汗をかいているんだね。』
 と熊一君が見つめた。
『汗顔の次第です。』
『えらいことを言うね。』
『東京へ行ったら気をつけます。一つ生れ更(かわ)って見せます。』
『その調子、その調子。』
『妹に敵わないのは、妹が悧巧だから、それだけ自分の得だけれど、学校であばれてばかりいて、何一つ友達に敵わないと思うと、本当のところははづかしい。今日という今日は天下の大勢が本当に分った。
『お前の天下の大勢は余(あんま)り当てにならないって話だぜ。』
『いや、今度は確かだ。先生も勉強しろと言う。友達も皆勉強しろと言う。暇乞いに寄った先で、そう言わないところはない。家へ帰って来れば兄さんも言う。妹も言う。つまり天下の大勢が僕に奮発しろと言うんだ。』
『その通りだよ。』
『それだから、今度は少し本気になる。』
『少しじゃ困るよ。』
『本当に本気です。』
 と静人君は多少感激を催していた。
『兄さん、私も少し天下の大勢が分って来ましたわ。』
『どういう大勢だい?』
『私、少し出しゃばりですって。』
『それは少しどころじゃない。』
『あらまあ!』
『兄さん、そうでしょう?』
『うむ。お母さんからも聞いたよ。』
 と熊一兄さんが頷いたので、鹿の子さんはイヨヽヽ天下の大勢が分って来た。


出発の日が来た。前知事と前学務部長だから、見送り人が駅頭立錐の余地もないほどだった。鹿の子さんと京子さんとその弟の和歌雄さんはそれぞれ車窓から学校友達に別れを惜しんだ。中学生連中は、
『伊達君、しっかりやってくれ!』
 と叫んだ。静人君は窓から乗り出して、
『いゝとも。』
 と例の癖で鼻を押えて見せた。
『伊達君、万歳!』
『万歳々々!』
 と見送り人一同が和して、汽車が動き出した。少し走ると、鉄橋へ差しかかる。そこから市(まち)がよく見える。鹿の子さんと京子さんは瞬きもせずに眺めやって、
『もうおしまいね。』
『えゝ。』
『泣いても笑ってもおしまいよ。』
『えゝ。』
 と車窓に立ちつづけた。


少女百面相 終り

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百合根の菓子:銘祥瑞(大口屋)
では、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
今年一年が皆様にも、よいお年でありますように、お祈りもうしあげます。
  (平成28年 元旦  おわり)

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