根来寺


桜の季節だというのにこの雨続きでは、花見客目当てのご商売には、さぞお困りだろうとお察しもうしあげておりますが、皆様方には、今年のお花見などはいかがなさいましたでしょうか?

老人はともうしますと、例によりまして、このところお天気にも桜にも見放されておりますので、余り期待することもなく、どうやら晴れ間も見えそうだという一日を選んで、かねて念願の根来寺行きを、ついに決行したところでございます。

片道250㎞を、延々5時間にわたって運転し、到着したのは7時ちょうど、空はどんよりと曇り、桜はほぼ散りはてて、葉桜のごとしとくれば、もう「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ」と言う彼の「徒然草」に思いを致さない訳にはまいりませんが、5時間の労苦をこそ偲ばれ、風雅の境地に入るまでには、とうてい至らないだろうとおっしゃるとすれば、どうやらそれは僻目らしゅうございまして、今回の目的は、この寺にこそあれ、桜は付けたりでございますので、やっと来れたという充足感の方が、やや勝っております。

巨大な三門の前に車を止めて写真を撮っておりますと、何もない所にただ三門だけが聳えていることの異様さが、いやでもこの寺の来し方を示しているように思え、なにか不思議な気がしてまいります。

根来寺は、今でこそ荒廃して本坊の他には僅々数坊を残すのみとなっておりますが、かつて信長・秀吉の時代には、三千坊に及ぶ僧坊が、ここかしこの谷間を埋め、今の高野山以上の壮麗を誇っていたといわれています。

この壯大な三門の前にたたずみ、根来寺の由来に思いを馳せることにしましょう、――
真言宗の宗祖弘法大師は宝亀五年(774)の出生ということですが、その320年後の嘉保二年(1095)が覚鑁(かくばん、興教大師)という傑出した僧の生年です。 (ばん)という字は余り見かけない字ですが、梵語वं(vaṃ、大日如来の種字)を表わす以外にはほとんど使われません。覚鑁はもちろん僧としての名です。

覚鑁は、幼くして仏門に入りますと、その実力をめきめきと発揮して、やがて鳥羽上皇の知る所となり、高野山に伝法院を建立し、一山の主たる金剛峯寺の座主と、伝法院の座主とを兼任することになるのですが、面白くないのが高野山にはびこる旧勢力で、事あるごとに覚鑁にたてつくことになり、覚鑁が両職を辞して、密厳院に籠居して禅定に入られますと、そのような事でさえ火に油を注ぐことになり、奥の院に入定されている弘法大師の真似をするなど僭越の沙汰であるなどと山僧どもが色めきたつようなありさまです。

やがて旧勢力が蜂起して、伝法院と覚鑁の禅室たる密厳院を破毀するという暴挙にでるに及んで、覚鑁は高野山を降り、根来の里に伝法院を移設したのが、根来寺の濫觴となる訳ですが、その根来寺も高野山を凌ぐまでに繁栄しますと、荘園守護の為めの武力が、やがて諸大名の傭兵として世に根来衆の名を高めることとなり、秀吉にその勢力を危ぶまれて、遂に全滅させられてしまいます。

この辺の事情を、もう少し詳しく、「望月仏教大辞典」に見てみましょう、――

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覚鑁(かくばん):肥前国の人。平将門の裔なり。正覚坊と号す。累代武略を以って聞こえ、父亦勇名あり。母は橘氏。四子あり皆僧と為る。師は即ち其の第三子なり。幼時思えらく、我が父は天下の豪貴なりと。一日租吏来たりて父を屈するを見る。仍りて兄の比丘に問うて、租吏は父よりも貴く、宰臣は租吏よりも貴く、天子は宰臣よりも貴きを聴き、更に天子の上に位するものあり。即ち神道、天界及び仏にして、而して仏最も貴きを知れり。比丘又曰わく、仏に過ぎたるものなし、故に仏を無上尊と名づく。仏に三身あり、法報化なり。其の教に二あり、顕密是れなり。三身の中、法身を最と為し、二訓の中、密乗を奥となす。若し夫れ三身二訓は児童の知る所にあらずと。是れより出塵の志あり。適ま慶照其の風采を見て携えて嘉承元年京に入り、之を其の師仁和寺寛助に与う。時に年十四なり。助先づ師をして南都に往き、喜多院慧暁に従いて唯識を研き、又東南院覚樹に就いて三論を学ばしむ。天永元年仁和寺に帰り、助に就いて剃髪得度し、十八契印、護摩秘軌、諸尊三昧を禀く。永久元年再び南都に往き性相の蘊底を究め、明年東大寺に於いて登檀受具す。此の年十二月高野山に上り、最禅院明寂に謁して密印を伝え、保安二年仁和寺に回りて密潅を禀け、又覚猷に随って三井の秘密潅頂を承く。同年十月又醍醐寺に到り、理性院賢覚に謁して五部の潅頂を伝え、具に一家の秘訣を受く。尋いで請せられて紀州石手邑神宮寺に住す。大治の初、鳥羽の離宮に詣でて高野山の再興を奏するや、上皇叡感斜めならず、石手の荘を賜い、尋いで勅願寺となし、神宮の号を革めて伝法院と称し、丈六の尊勝仏頂の像を安置し、学侶三十六員を置く。師は根来の狭隘にして大会を修する能わざるを憾とし、天承元年朝奏して大伝法院を野山に建つ。講堂、密室、密厳院等並びに皆宏壮を極む。十月十七日曼陀羅供養を修し、始めて伝法大会を行う。時に上皇臨幸あり。長承元年上足兼海を信貴山に上らしめ、毘沙門天王に精祈する所ありしに、天王時に珠三顆を授けらると云う。因って白河の離宮に参じて、神威を受くと奏す。上皇賞するに登地の菩薩を以ってし、鳥羽の離宮に於いて覚猷に従って秘璽を禀伝し、又醍醐山定海、勧修寺寛信、華厳院聖慧に歷次して秘願を承け、詔して小野官庫秘蔵の密疏を披覧せしむ。師乃ち弘法大師手画の等身影像、並びに善女龍王の画像を乞うて之を伝法院に鎮す。三年正月上皇の命を奉じて伝法院座主となり、金剛峯寺を兼摂す。保延元年両寺の印を解き、密厳院に住して人事を杜絶し、専ら密観を修す。山僧時に之を嫌忌し、以って空海奥院の儀相に擬する僭越の沙汰となし、六年両寺地領の境界を争うに際し、突然蜂起して密厳院を襲う。師乃ち会徒を率いて難を根来山に避く。時に山衆は伝法院の房舎一百余宇を破毀し、其の徒七百余人を追放す。尋いで朝廷命を下して山徒を罪し、師に勅して山に帰らしむ。師上奏して円明寺を建て、之を終焉の地となし、遂に復た山に入らず。康治二年十二月十二日弟子を遺誡し、趺坐結印して寂す、年四十九。天文九年十二月二十日後奈良天皇より自性大師の諡号を賜う。然るに同年三月停止となり、元禄三年十二月六日勅して興教大師の諡号を賜う。或いは密厳尊者と称し、尊んで真言宗新義派祖とす。著す所、密厳諸秘釈十巻、密厳遺教録四巻に収められ、この外、父母孝養集三巻、浄菩提心私記一巻(以上現存)、阿字略観、阿字義、阿字要略観、阿字本不生釈、阿弥陀九字釈、阿弥陀大呪句義、一心自受頌、石手荘建立奏状潅頂道具請文、潅頂一法十義、求聞持立願状、結願作法、高野奏状、極大陀羅尼秘密法、座主御坊所進消進、三品阿弥陀秘釈、受食作法、初行表自結願作法、小伝法院供養願文、浄妙法身頌、譲行校道、生相観頌、神宮寺供養日遣勅使消息、深法口決集、雑賀荘四至幷官符申請状、大伝法院供養願文、大伝法院建立奏状、大日経儀軌集、大裏進上消息、日月輪秘観、秘文鈔、表白、不動秘印、不動義釈、本不生義、槙尾寺湯屋修理勧進帳(以上不伝)等あり。大伝法院本願上人御伝、撰集抄第六、元亨釈書第五、血脈類聚記第四、高野春秋編年輯録第六、本朝高僧伝第十二、東国高僧伝第八、結網集巻上、諸宗章疏録第三等に出づ。


新義真言宗(しんぎしんごんしゅう):空海を高祖、覚鑁を宗祖とし、加持身説法の義を唱うる真言宗の一派を云う。又単に新義派とも称す。新義真言宗豊山派及び同智山派の総称にして、根来山大伝法院を大本山とし、両派推戴して交番に座主を選出しつつあり。新義の名称は、賴瑜、聖憲等によりて加持説の宗義確立せられたる後、野山の徒が呼称せしに起因し、派自ら称して新義と名づけたるに非ざるが如し。初め覚鑁は鳥羽上皇の親任を受け、長承三年十二月、院宣を蒙りて高野山金剛峯寺並びに大伝法院の両座主職に登るや、金剛峯寺方の徒衆に之を妬むものあり、幾ばくもなく覚鑁座主職を辞せしも、寺方院方の間漸く確執を生じ、保延六年十二月、寺方の徒大挙して大伝法院及び覚鑁の禅堂たる密厳院を襲い、堂舎を毀ちたるを以って、鑁は乃ち根来に逃れ、此の地に一乗院円明寺を創め、終に野山に帰らず、康治二年十二月を以って示寂せり。其の後五年にして大伝法院座主神覚は院宣を蒙り、衆徒を率いて野山に帰り、二十年間無事なりしが、適ま伝法院方の徒、覚鑁の大師号宣下を朝に奏請せんとせるに動機を発し、仁安三年正月伝法院修正会に際して所謂裳切騒動を起し、後官裁ありて一時平穏に帰せしが、七年を経て承安五年四月又両者の間に諍闘し、院方は堂舎の大半を失うに至れり。後約七十年を経、仁治三年七月寺方の衆徒又伝法院を襲いて終に之を焼き、翌寛元元年正月には、院方の徒寺方を撃ちて之が報復をなさんとし、宝治二年十二月又両徒の合戦あり、双方の軋轢常に断えず。文永の頃賴瑜出でて新義の教相を大成し、同時に大伝法院の復興亦成りしも、其の勢力漸く微弱に、弘安九年七月に至り伝法院大湯屋の事に関して両徒又相争い、院方の徒は遂に山を降りて根来に去り、尋いで正応元年三月、賴瑜は大伝法院並びに密厳院を根来に移し、以って野山との紛争を絶てり。蓋し新義の法幢を建立するに、野山は到底其の地に非ざることを悟りたるに由るなり。かくて覚鑁の寂後百四十年にして、大伝法院の根嶺移転と共に新義真言宗は全く野山より分派独立するに至れり。新義の学説は賴瑜によりて大成せられ、彼れは大疏愚草、釈論愚草等を製して加持身説法の義を明にし、以って古義の本地身説法の義に対抗せり。後十四代を経て聖憲根来の学頭となるや、大疏百條第三重、釈論百條第三重等を撰して更に其の説を立証し、尋いで快深、聖融、長盛、融秀、政憲、融喜等の諸学匠輩出して各其の義を敷揚せり。然るに衆徒の中に漸次常住方、客方の二派を生ずるに至り、文明の頃、道瑜が客方より出でて能化となるや、常住方は賴誉を立てて化主となし、以って両者対抗の気勢を作り、尋いで天正十二年化主妙音院賴玄が席を常住方たる専誉に譲るに及び、客方の徒は玄宥を擁して能化となし、両派再び対立せり。之より先乱世の自衛の為め根来にも学侶の他に行人あり、自ら干戈を執りて頗る勢力あり。豊臣秀吉の小牧出陣に際し、彼等は其の虚に乗じて和泉に侵入し、大阪を襲わんとせしも成らず。却って秀吉の怒を買い、遂に根来は天正十三年三月二十一日、秀吉の為めに根滅せらるるに至れり。此に於いて専誉、玄宥等は徒衆を率いて高野に逃れしが、其の容るる所とならず。玄宥は更に醍醐に入らんとせしも亦拒む所となり、纔かに京都北野に止まりしが、後慶長の頃に至り、徳川家康の保護を受け豊国寺の境内三区を得て智積院の基を開けり。又専誉は高野より和泉国分寺に逃れ、天正十五年秀長の外護を得て大和長谷寺に入り、豊山の法統を樹立せり。斯くて新義真言宗は法流二分し、智豊両山の別を生じたりと雖も、宗義上差異あるに非ず。尋いで家康幕府を江戸に開き、仏教を保護すると同時に之が統制を企て、智豊両山も互いに其の基礎を固くし、宗学は漸次勃興するに至れり。又根来破滅の後其の徒の関東に来たれるもの多く、幕府の開設と共に新義は漸次江戸に勢力を占むるに至り、知足院、円福寺、弥勒寺及び真福寺は関東触頭と定められ、光誉、俊賀、亮賢、隆光等の徒相次いで輩出せり。就中、亮賢は上州大聖護国寺に住し、将軍綱吉の母桂昌院の帰依を受け、隆光も亦綱吉及び桂昌院の信任を得て、其の所住の知足院を神田橋外に移して護持院と号し、元禄八年護持院総録司に任ぜられ、智豊両山に号令するに至れり。隆光は元と豊山能化亮汰の門に出でしを以って、豊山の為めに特に尽くす所多かりしが如し。次いで快意護持院第二世となりしが、綱吉薨後、隆光等の勢力衰え、智山能化覚眼第三世護持院総録司となれり。享保二年護持院類焼するや、遂に護国寺に合併せられ、総録司の職も亦廃せらるるに至れり。学匠としては既に智山に日誉、元寿、隆長、運敞、覚眼、曇寂、如幻等あり、豊山に亮典、栄誉、亮汰、卓玄、英岳、亮貞等あり。其の後両山共に専ら学山として栄え、智山には海応、信海、隆英等ありて性相学を究め、豊山には法住、林常、戒定、隆山、慧隆等あり、亦同じく宗学、性相学を以って著わる。就中、曇寂、如幻、法住等が新古両義の会通を企てたるは注目を要すべし。後明治五年六月一宗一管長の制定めらるるや、智山、豊山、高野、東寺各交代に真言宗管長に就職することとなりしが、十一年十月新古分派して各管長を置き、翌年四月更に一宗一管長の制に復し、十八年十一月に至り智豊両山合同して真言宗新義派と称し、二十年三月新義派大学林を東京護国寺内に設置せしが、三十三年八月再び分離して両山各管長を別置し以って今日に及べり。高野興廃記、元亨釈書第五、結網集巻中、巻下、本朝高僧伝第十六、豊山伝通記巻中、巻下、隆光日記、高野春秋編年輯録第六至第九、第十二、第十三、金剛頂無上正宗伝灯広録正編第二、第三、続日本高僧伝第三、仏教各宗綱要第四、新義真言宗史、秘密仏教講話等に出づ。

覚鑁の教義を、根来寺所版の冊子中に見てみましょう、――

覚鑁上人の教義:非凡な才能を発揮し、院政期における白河・鳥羽両上皇の絶大なる権力を背景に、上人は、高野山上で伝法会を復興し、僧侶のための学問の道を開いた。
上人は、ただ知識を得るための学問を追求する学僧ではなかった。一宗一派に偏し、井戸の底の一隅を守っているようなことをしていては、巨海のいくつもの流れを知ることができないと説き、広く学ぶことを力説した。自らも南都六宗や天台密教を学んだが、それは真言密教僧としての深智を得るためであった。
そして上人は、この深智によって独自の教義を確立していった。
その一つとして、浄土思想との対決があげられる。十世紀の終り頃、源信が浄土思想を説いて以来、三論系・天台系・真言系にもこの思想を説く人々があらわれ始め、いやがおうでも既成宗派や教団は、それとの対決を迫られていた。
上人もこの浄土思想と出会った結果、それを真言密教の教理体系の中に包摂し、大日如来卽阿弥陀如来と断じた。それは、如来部・菩薩部・明王部・天部におけるすべての諸尊が、大日如来の諸徳でないものはないとする真言密教の一門普門の立場を貫き通した帰結であった。
独自の教義の二つめとして、『大日経』の解釈をめぐる特色があげられる。大日如来は、自証極意に住して説法なしとするのが、真言密教本来の立場であった。しかし上人は、暗愚なる人々のために、大日如来は加持三昧に入り加持身をもって大日経を説くのだと解釈した。この解釈は、上人が新しく説いたもので、上人以来大伝法院方が真言宗の新義とよばれたゆえんはここにある。また真言宗新義派が、後に「加持門流」とよばれたゆえんもここにある。
また上人教義の特色として一密成仏を説いたこともあげられよう。一密加持に徹すれば、他の二密もそれに感応して成仏が得られると説いた。
もちろん、上人は、弘法大師以来の教え、身・口・意の三密成仏を軽んじたわけではなかった。それを理想として説きながら、理実に生きている人間を深く洞察し、この一密成仏を提唱して、多くの人々に成仏への道を開いたといえよう。

「加持身」とは、大日如来の加持を受けて、自心中に生ずる大日如来の影のようなものだと推理しましたが、これについても、「望月仏教大辞典」を見てみましょう、――

加持身(かじしん):行者に加持感応する仏身の意。即ち真言行者が三密の妙行を修し、三密相応せる時、其の瑜伽観中に来現せる仏身を云う。大日経疏第一に「即ち平等の身口意秘密加持を以って所入の門となす。謂わく平等の密印、語平等の真言、心平等の妙観を以って方便となすが故に、加持受用身を逮見す。是の如き加持受用身は、即ち是れ毘盧遮那遍一切身なり、遍一切身は即ち是れ行者の平等智身なり。是の故に此の乗に住する者は、不行を以って而も行じ、不到を以って而も到る」と云える是れなり。此の中、行者の平等智身とは、行者が三密の妙行に由りて其の心中に感応せる智法身を称したるものにして、即ち其の身を加持身となすなり。蓋し此の加持身は自性法身の分身散影にして、行者よりいえば即ち自心の浄菩提心の発露に外ならず。又大日経疏第一に「自在神力加持三昧に住し、普く一切衆生の為めに種種の諸趣の所憙見の身を示し、種種の性欲の所宜聞の法を説き、種種の心行に随って観照の門を開く。然るに此の応化は毘盧遮那の身、或いは語、或いは意より生ずるに非ず、一切の時処に於いて起滅辺際倶に不可得なり。譬えば幻師の呪術力を以って薬草を加持し、能く種種の未曽有の事を現じて五情の対する所衆心を悦可せしむるも、若し加持を捨つれば然る後に隠没するが如く、如来金剛の幻も亦復た是の如し、縁謝すれば則ち滅し、機興れば則ち生ず。事に卽して而も真に、終尽あることなし」と云えり。是れ即ち加持世界に於ける加持身を説けるものなり。又同疏第一に「自在神力の加持する所なるを以っての故に、即ち心王毘盧遮那より加持尊持の身を現ず」と云えるは、自証位中の加持門身を意味するものにして、前の加持世界に於ける加持身の本質を指すなり。同疏第一に「是の如き毘盧遮那は普く十方一切の世界に於いて、一一皆仏の加持身を現ず」と云えるも亦即ち加持門身を説けるものなり。又大日経疏鈔第一、大毘盧遮那経住心鈔第一、大日経口之疏本鈔第一、密教学等に出づ。

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三門から車で数分の所に根来寺の本坊があります。駐車場に車を止め、杉木立の中の緩い石段を登って行くと、やがて鐘楼門が見えてきますが、これが本坊の入口です。



鐘楼門の正面に根来寺の本堂があり、札所らしく鰐口の垂れ紐が下がっています。この本堂で信者の依頼を受け、先祖供養の為めにお経を読んだりするのでしょう。しかし、ここは今回の眼目ではありません。堂内も極めて普通です。



これが、今回の眼目、大塔と呼びます。第一層が四角、第二層が円形の塔を多宝塔と呼びますが、多宝塔は法華経見宝塔品所由の多宝如来の塔の意ですから、中に多宝如来が祀られていない場合は、単に宝塔と呼ぶべきだと思うのですが、既に俗称として通用しているものを、今更呼び直せといっても、直る道理がありませんので、少々の居心地の悪さを無視して、わたくしも多宝塔と呼んでいます。

根来寺の大塔は、三千大千世界に遍満する大日如来の理体を表わすと考えられますので、さながら胎蔵界曼荼羅の立体版といったところでしょうか、この大きさそのものに宇宙を覆うという意味があるのだと感じられます。

完璧に均斉がとれており、写真では分らない美しさがあります。遙々来た甲斐がありました。
大塔の隣には、法を伝えて弟子の菩提心を長養する場である、大伝法堂があります。



大塔の内部です。中央の一段高い仏様が大日如来、右手の四指の上に左手の四指を重ね両拇指端を接する印相を法界定印と呼びますが、この印相で胎蔵界の大日如来だということが分ります。

法界定印は英語でcosmic mudraと呼びますが、大日如来の智慧の世界は円満無缺であることを、手を以って表現したものと言えばよいでしょう。

胎蔵界は英語ではthe womb-container world (Skt. garbha- dhātu) of Mahāvairocanaと呼びますので、大日如来の子宮的(容器的)世界の意味ですが、全宇宙は大日如来の智慧に包まれているというぐらいに考えればよいだろうと思います。

大日如来の周囲東西南北に四如来を配し、その四隅に四菩薩を安置することにより、大日如来の智慧より発する働きが図式化(diagrammed)され、胎蔵界の立体曼陀羅であることを示しています。



大塔の内部です。円筒形の内陣があり、それを方形の外陣が取り囲んでいます。

周囲に畳を並べて席が設けられていますが、ただ坐って、観想するだけの場所であることが、これから見て取れます。大日如来の印相は法界定印でした。定印とは静慮を表わします。大日如来の智慧は宇宙に遍満していますので、とうぜん行者の心中にも見られるはずです。行者は禅定に入って、大日如来の理体である慈悲相を観想しなくてはなりません。

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大塔が自心中を観想する定(静)の場所ならば、大伝法堂は、自ら智慧を研鑽する学問の場、即ち智(動)の場です。定と智、或いは所知の理と能知の智、此の二事は倶に具足しなければならず、一方を欠いていては完全とは言えません。



行者は大仏に見守られて問答をしたり、種種の儀式を執り行ないますが、大伝法堂中には、それに相応した空間が演出されています。

中尊は智拳印を結んで、金剛界の大日如来であることを示しています。
大日如来の智体は、行者の菩提心を涵養するために種種に功夫を凝らしますが、この印相はそれを示しています。

金剛界(Skt. vajradhātu)を、英語ではThe 'diamond,' or vajra, element of the universe; it is the wisdom of Vairocana in its indestructibility and activity; it arises from the garbhadhātu (胎藏界) the womb or store of the Vairocana principles of such wisdom (理智). と言っていますので、ダイヤモンドにも比すべき大日如来の智慧の不可壊性、及び活動を示すものと考えなくてはなりませんが、又大智度論第45に、「是の菩薩の一切の聖人の主為らんと欲するが故に、大心を発して一切の苦を受く。心は堅く金剛の如くして、不動なるが故なり。金剛心とは、一切の結使、煩悩の動かす能わざる所なり。譬えば金剛山の風の為に傾揺せられざるが如し」と説くように、衆生の菩提心(世界を善くしようと思う心)をして堅固ならしめんが為めの如来の妙智を指すものであることも知らなくてはなりません。



左手は頭指(人差し指)を伸ばして他の指で拳を作り、右手は左頭指を握って拇指と頭指の先端を軽く合せた形を、智拳印と呼びます。
金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌には、「三密纔かに相応すれば自身本尊に同じ、能く仏智に遍入す。成仏猶お難からず、智と寿と力と年とを獲、一切遍行することを得て、大菩提を現証す、故に覚勝印と名づく。若し此の瑜伽を修せば、設い現に無量の極重の諸の罪障を造るも、必ず能く悪趣を超え、剋疾に菩提を証せん。此の最上甚深微密の義を顕さんが為めに、故に此の大印に住す。拳能く堅く諸仏の智法海を執持し、堅固にして散失せざれば、能く一切の印を成ず。故に金剛拳と号す。右に左の頭指を執るは十方刹土の中に唯一仏乗の如来の頂法のみありて等しく諸仏の体を持す。是の故に智拳と名づく」と言っています。

芽吹いたばかりの行者の菩提心を如来妙智の鞘で包み、外敵より護る形がこの印相だと思うのですが、、まあ当らずといえども遠からずといったところでしょうか。

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又旧来真言宗では、身に印を結び、口に真言を唱え、意を仏の心に相応すれば、仏の三密加持するが故に、容易に成仏すると説かれていたのを、覚鑁上人が、念仏の一業にも如来の三密加持するが故に、成仏することができると説かれたのは、覚鑁より38年後れて生まれた法然にも大きな影響を与えました。法然は、これに因って、一文不知の輩も、念仏の一行により往生することができると確信したのです。この国の仏教史を語るうえで、忘れてはならないところでしょう。



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≪鮎の塩焼き≫
   スーパーで養殖鮎に串を打ったのを見かけましたので、家で塩焼きにしました。天然の香も少しはありますし、値段は4分の1ですからね、贅沢を言っていられる身分でもありませんので、まあよい買物だったと言えるでしょう。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  (根来寺  おわり)

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