桜の季節だというのにこの雨続きでは、花見客目当てのご商売には、さぞお困りだろうとお察しもうしあげておりますが、皆様方には、今年のお花見などはいかがなさいましたでしょうか?
老人はともうしますと、例によりまして、このところお天気にも桜にも見放されておりますので、余り期待することもなく、どうやら晴れ間も見えそうだという一日を選んで、かねて念願の根来寺行きを、ついに決行したところでございます。
片道250㎞を、延々5時間にわたって運転し、到着したのは7時ちょうど、空はどんよりと曇り、桜はほぼ散りはてて、葉桜のごとしとくれば、もう「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ」と言う彼の「徒然草」に思いを致さない訳にはまいりませんが、5時間の労苦をこそ偲ばれ、風雅の境地に入るまでには、とうてい至らないだろうとおっしゃるとすれば、どうやらそれは僻目らしゅうございまして、今回の目的は、この寺にこそあれ、桜は付けたりでございますので、やっと来れたという充足感の方が、やや勝っております。
巨大な三門の前に車を止めて写真を撮っておりますと、何もない所にただ三門だけが聳えていることの異様さが、いやでもこの寺の来し方を示しているように思え、なにか不思議な気がしてまいります。
根来寺は、今でこそ荒廃して本坊の他には僅々数坊を残すのみとなっておりますが、かつて信長・秀吉の時代には、三千坊に及ぶ僧坊が、ここかしこの谷間を埋め、今の高野山以上の壮麗を誇っていたといわれています。
この壯大な三門の前にたたずみ、根来寺の由来に思いを馳せることにしましょう、――
真言宗の宗祖弘法大師は宝亀五年(774)の出生ということですが、その320年後の嘉保二年(1095)が覚鑁(かくばん、興教大師)という傑出した僧の生年です。
鑁(ばん)という字は余り見かけない字ですが、梵語वं(vaṃ、大日如来の種字)を表わす以外にはほとんど使われません。覚鑁はもちろん僧としての名です。
覚鑁は、幼くして仏門に入りますと、その実力をめきめきと発揮して、やがて鳥羽上皇の知る所となり、高野山に伝法院を建立し、一山の主たる金剛峯寺の座主と、伝法院の座主とを兼任することになるのですが、面白くないのが高野山にはびこる旧勢力で、事あるごとに覚鑁にたてつくことになり、覚鑁が両職を辞して、密厳院に籠居して禅定に入られますと、そのような事でさえ火に油を注ぐことになり、奥の院に入定されている弘法大師の真似をするなど僭越の沙汰であるなどと山僧どもが色めきたつようなありさまです。
やがて旧勢力が蜂起して、伝法院と覚鑁の禅室たる密厳院を破毀するという暴挙にでるに及んで、覚鑁は高野山を降り、根来の里に伝法院を移設したのが、根来寺の濫觴となる訳ですが、その根来寺も高野山を凌ぐまでに繁栄しますと、荘園守護の為めの武力が、やがて諸大名の傭兵として世に根来衆の名を高めることとなり、秀吉にその勢力を危ぶまれて、遂に全滅させられてしまいます。
この辺の事情を、もう少し詳しく、「望月仏教大辞典」に見てみましょう、――
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