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平成27年 元旦

皆様、明けましてお目出とうございます
何卒本年も旧年同様ご贔屓の程
宜しくお願い申しあげます

  ――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
  ――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
  ――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
  ――Agnus Dei, dona nobis pacem.
  ――Dona nobis pacem.

  ――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
  ――Agnus Dei, dona nobis pacem.
  ――Dona nobis pacem, pacem,
  ――dona nobis pacem, pacem, pacem.

  一千年ごとに、一人の天才が出ると仮定いたしまして、わたしが認めるのは、第一に釈迦、第二にベートーヴェン、第三にアインシュタインまで、これでちょうど三千年間に三人となりますので、天才の出現頻度としては、見事に証明されたことになりますな、‥‥

  冗談はさておき、ベートーヴェンに並ぶ者があるかどうか、いやあったかどうかですかな、‥‥残念ながら当方のいっさい与り知らぬ所でございまして、はっきりとは分り兼ねますのでございますが、大変な天才であったことだけは否むべからざる所だと誰しも認めざるをえない所ではございますまいか、‥‥イヤこれはどうもお酒のせいですかな、‥‥口が妙によく廻りますな、‥‥

  そのベートーヴェンですが、その特筆すべきところとはというと、駄作というものがトンと見当たらないところですかな、‥‥それに作品の一曲一曲がまったく異なって見え、全部の曲の夫々には、各々似た所が少しもないところ、それにも拘わらず、皆不思議な刻印が押されていて、どの曲でも聞けば、すぐにベートーヴェンの作品だと分るところ、青年期、壮年期、晩年期の三期にわたって次第に成長していきながら、それぞれが完成しているというところと、まさに天才の天才たる所以が目白押しですが、しかしそうは言っても、やはり晩年の神品ともいうべき崇高な精神の発露こそは、ベートーヴェンの真骨頂を顕わすものとして、老人にとっては、皆どれも言いようもなく素晴らしいのですし、特にベートーヴェンの生涯にわたるシリーズの最後を飾る、交響曲No.9、ピアノソナタNo.32、弦楽四重奏No.16等に至っては、まるで自ら身をオリンパス山頂の神殿に登し、神々の座に列して書かれたにも等しく、まったく人類の発想を超越したところがあるように思えます。そして、その最晩年の神韻縹渺たる作品の中でも、荘厳ミサ曲(Missa Solemnis)の甘さに満ちた神の子羊(Agnus Dei)は老人の苦悩を慰めるに十分な曲ですので、この頃はよく聞いておりますが、どうも今年は未年ということで、冒頭に載せることにいたしました。この文句自体は典礼に依るもので、別に何ということもないものですが、甘い悲しみと希望に満ちた音楽に載せて歌われますと、にわかに現実的な意味を佩びて、胸に惻々と迫ってまいります。まあ何となく心に適ったということですかな、‥‥YouTube等にも沢山出ておりますので、皆様もどうぞお聴きください。

  ――神の子羊にして、世の罪を除き給う方よ、憐れみ給え我等を
  ――神の子羊にして、世の罪を除き給う方よ、憐れみ給え我等を
  ――神の子羊にして、世の罪を除き給う方よ、憐れみ給え我等を
  ――神の子羊よ、与え給え、我等に平和を
  ――与え給え、我等に平和を

  ――神の子羊にして、世の罪を除き給う方よ、憐れみ給え我等を
  ――神の子羊よ、与え給え、我等に平和を
  ――与え給え、我等に平和を、平和を、
  ――与え給え、我等に平和を、平和を、平和を

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  しかしまあ憐れみを乞うたり、祈ったりするのも、それしきゃないというなら、それも宜しいんでしょうが、しかしこのように恵まれた時代には、何かそぐわないような気もしますわな、‥‥つまり自らを変えなきゃ何う仕様もないという訳ですな、‥‥。

  ということで、今年は極めて教育的な読み物を探し出してきました。
  気の張らない、子供から大人まで皆が楽しめる、正月向きの読み物です。
  昭和5年から6年にかけて発表されたものですが、
  昔は好かった式に過去を振り返って見るのも、また宜しいかと、‥‥
  どうぞお楽しみください、――

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全権先生
著者 佐々木邦
挿絵 田中比左良
  五郎助(ごろすけ)叔父さん
『奥さま、五郎助さまがお見えになりました。』
 と女中が取次いだ。
『ここへ通しておくれ。あゝ、西洋間の方がいいわ。』
 と奥さんは茶の間を出た。
『姉さん、御無沙汰致しました。』
 と学生服の五郎助君が立っていた。
『こっちがいいわ。』
 と奥さんは西洋間へ案内して、
『お前、何故直ぐに来てくれなかったの?』
『忙しかったものですから、つい。』
『三度も手紙を書かせて。』
 と苦情らしく見据えた。五郎助君はこの奥さんの末弟だ。
『姉さんのところへは何うも敷居が高いんです。』
『何故?』
『さあ。』
『何故さ?』
『身分が違います。』
『そんなことがあるもんですか。』
『有態(ありてい)に言えば、反感を持っているんです。』
『まあ!』
『第一、あの門が気に入りません。』
『何うして?』
『あんまり成金式です。江の島で売っている貝殻細工の筆立に似ています。』
『口の悪い人ね。』
『それから金田金兵衛って標札が気に入りません。門まで来て、あれを見ると、ウンザリします。』
『あれは私も陶器の方が厭味がなくていいって言ったんですが、職人が金物に誂えてしまったのよ。』
『金物も気に入りませんけれど、名前それ自身が気に入りません。』
『何故?』
『金田金兵衛なんて、如何にも金の欲しそうな名前です。』
『それは仕方がないわ。自分でつけたんじゃないんですもの。』
『しかし名は体を現します。』
『姓名判断?』
『そんな迷信じゃありません。要するにいけ好かない名だと言うんです。』
『五郎助だってあまり好い名じゃありませんよ。』
『参った。』
 と五郎助君はひょうきんに頭を掻いた。丹下五郎助君は一昨年田舎の高等学校を出て帝大に入った。東京にはこの姉さんの外に身寄がないので、その御主人の金田さんに保証人を頼んである。金田金兵衛さんは『カネ金』という屋号の株屋さんで、金持だ。小僧さんから身を起して、百万近くの財産を拵えたのだから、その道にかけては無論豪(えら)い人である。
『五郎助や、お前は学生だから、そんな贅沢を言っているんですけれど、世の中はお金が大切(だいじ)よ。』
『或る程度まで必要には必要ですな。』
『絶対に必要よ。お金がなければ、何んにも出来ませんわ。』
『そんなことはありません。』
『いゝえ。早い話が、こゝの地面を買い潰すにしても、この家を建てるにしても、お金よ。お金の力よ。』
『僕、家なんか要りません。』
『お前は少し危険思想だね。』
『金を欲しがらないからですか?』
『えゝ。哲学なんかやるものだから、人柄が悪くなるばかりよ。』
 と姉さんはこの弟を理解し兼ねている。

『一体何の御用ですか?』
『実はお前に頼みたいことがありますの。』
『仰有(おっしゃ)って下さい。』
『手紙にも書いた通り、大切(だいじ)のことよ。』
『お金のことですか?』
『五郎助。』
『はい。』
『お前は何ういう料簡? さんざ待たせて、漸く来てくれたと思えば、今度は私を茶化すの?』
『失敬しました。』
 と五郎助君はコックリお辞儀をした。
『人を焦(じ)らすようなことばかり言って、本当に悪い癖ね。』
『はい。』
『いくら学門が出来ても、目上のものを侮(あなど)るようじゃ駄目です。』
『はい。』
『もっと親身になって聴いて下さいよ。』
『はい。はいはい人形。』
『又!』
 と姉さんが睨んだ。
『失敬しました。』
『真面目に聴いてくれないのなら、もうよしましょう。』
『聴きます。聴きます。何うぞお話し下さい。』
『私達がお前なんかにお金のことを頼む訳はないわ。実は子供のことよ。』
『姉さん。』
『何?』
『僕、大いに気に入りません。』
『何が?』
『お前なんかにってのは何ういう意味ですか?』
『学生なんかにって意味よ。』
『そうですか。それではお金は大切だから頼まないが、子供のことを頼むと仰やるんですね。分りました。』
『お前は皮肉ね。』
『一寸の虫にも五分の魂があります。』
『なんかと言ったのが悪いなら、堪忍して下さい。実は子供のことを頼みたいんです。皆(みんな)成績が悪くて困りますの。』
『何うせいけますまい。金田金兵衛の子が好いはずがありません。』
『五郎助。』
『はい。』
『お前は何うかしているの?』
『何うもしちゃいません。』
『あんまりですよ。姉弟(きょうだい)の間柄でも、好い加減に物をツケツケ仰有い。』
『失敬しました。』
『もういいわ。』
『姉さん。』
『いいわよ。頼まない。』
『それではこれで失礼致します。』
 と五郎助君は止められるのを承知で立ち上がった。
『まあ、お待ちなさいよ。』
『はい。』
『金田金兵衛の子だから悪いって訳もないでしょう!』
『さあ。』
『けれども本当に困っていますの。金一郎はこの春落第して来年もウッカリすると危ないらしいのよ。この間、学校から呼び出しが来ました。荒尾を代理に出したんですが、散々の成績だそうです。』
『それは当たり前です。』
『何故?』
『親の心がけが悪い。』
『五郎助。』
 と姉さんは又怖い顔になる。
『しかし学校からはお父さんに来るようにと言ってよこしたんでしょう?』
『えゝ。』
『それに番頭をやったんでしょう?』
『そうよ。主人は忙しいんですもの。』
『それがいけません。一体こゝの家では金と子供と何方(どっち)が大切なんです?』
『そんなこと分っているじゃありませんか?』
『何方です?』
 と五郎助君は平気なものだ。分り切ったことを態(わざ)と疑問にする。
『馬鹿ね。お前には何う見えるか知れないけれど、私達ぐらい心がけの好い親はない積りよ。』
『それなら商売を一日休んでも、主人が自身出頭する筈です。』
『理屈はそうね。この次から主人に行って貰いましょう。』
『そう分れば宜しい。』
『威張るのね。』
『足許(あしもと)を見ています。』
『折り入って頼むんだから仕方がないわ。』
『福子さんは何うですか?福子、徳子、銀次郎、それに金一郎と来ている。実に欲張った名前ばかりつけたものですな。』
『何とでも仰いよ。』
『金一郎君が落第しかけている上に、福子さんがいけないんでしょう?』
『えゝ。相応の積りでいましたが、私、この間父兄会へ行って、吃驚(びっくり)して参りましたの。』
『危ないんですか?』
『余程勉強しないといけませんて。』
『徳子さんは?』
『これは中どころから少し下よ。落第の心配はないようです。』
『成程。』
『その代り銀次郎は素晴らしいのよ。皆の智慧を後から持って来たんでしょう。目から鼻へ抜けるような子です。』
『それは結構ですね。しかし中学校へ入って二三年たてば、きっと兄貴同様馬鹿になりますよ。』
『五郎助。』
『はい。』
『お前はこゝの家がそんなに嫌い?』
『嫌いってほどのことはありません。』
『それじゃ何故そんなに悪口を言うの?』
『悪口じゃありません。』
『私、銀次郎がきっと馬鹿になるなんて、そんな保証はして貰いたくはありませんよ。』

『保証じゃありません。予定です。御覧なさい。馬鹿順が年順です。利巧順が年順の逆になっています。』
『本当に憎らしい人ね。』
『下はそうでもないのに、上へ行くほど成績が悪くなります。これは家庭教育が間違っているからです。』
『それじゃ矢っ張り私達の心がけが悪いんですわね。』
『いゝえ、心がけは好いんでしょうが、方法が間違っているんでしょう。』
『いいわ。間違っているなら、間違っているにして、私、お前に直して貰いたいんですが、何うですか?』
 と姉さんは折れて出た。
『さあ。』
『主人と相談づくで、あの手紙を上げたのよ。私達じゃ駄目だからお前に子供の監督を頼もうと思って。』
『家庭教師ですか?』
『まあそうよ。』
『僕はそんなこと嫌いです。』
『けれども家の子供の成績はこれから先、見す見す悪くなるんでしょう?』
『えゝ、決して好くなる筈はありません。』
『お前は叔父さんのくせに、それを平気で見ていられるの?』
『さあ。ナカナカ骨が折れましょう。』
『何ですって?』
『親身だと辛いです。』
『お前は親切気ってものがちっともないのね。』
『いや、ありますよ。』
『それじゃ来て下さいよ。報酬は幾らでも出しますから。』
『姉さん、僕はそれが気に入りません。』
『何故?』
『こゝの家は何でも金だ。金で教育が買えると思っているからいけない。』
『でも唯(ただ)って法はありませんわ。』
『それじゃウンと取りますよ。一人前(ひとりまえ)千円として、四千円戴きましょう。』
『年?』
『月です。』
『冗談はよして、来てくれるの?くれないの?』
『僕は唯だの家庭教師じゃいやです。』
『それですから、お礼は幾らでも出すって言っているじゃありませんか?』
『いゝえ、その唯とは唯が違います。お礼を貰わない代わりに普通の家庭教師じゃ厭です。条件があります。』
『何んな?』
『全権家庭教師です。』
『へえゝ。そんなのがこの頃、はやりますの?』
『僕が発明したんです。』
『全権というと何んなことをするの?』
『思い通りにやらせて戴きます。子供達は無論、兄さんも姉さんも絶対に僕の言うことを聴くんです。』
『結構ですよ。そんなら来てくれる?』
『考えて見ましょう。』
 と五郎助君は腕を組んだ。
『私、兄さんを呼びます。』
『お店でしょう?』
『えゝ。』
『兄さんが本気なら、僕、一つ引受けましょう。』
『本気ですとも。お前の来るのを待っているんです。』
『目の色を変えて宙を飛んで帰って来ますか?』
『さあ。店の都合もあることですから。』
『それじゃお断りです。』
『むづかしい人ね。直ぐ呼びますよ。』
 と姉さんは出て行った。それから主人との間に次のような会話があった。

『もしもし。』
 と麻布の声。
『おれだ。』
 と日本橋の声。
『五郎助が参りましたよ。』
『どうだ?話は。』
『引受けてくれそうです。』
『それは有難い。』
『しかし全権ですって。』
『え?』
『全権よ。全権家庭教師。』
『ゼンケンて何んだい?』
『全き権利。全き権利の家庭教師でなければ厭だと申すんです。』
『何うも分らないな。』
『お目にかゝれば分りますから、直ぐにお帰り下さい。』
『今はお客さんが見えていて忙しい。宜しく言って置いておくれ。』
『それでは私、困りますよ。』
『夕方まで待たせて置いて、晩飯でも出しなさい。一杯やりながら篤(とく)と頼むから。』
『そんな悠長なことを仰有ると、直ぐ帰ってしまいますよ。』
『何故?』
『あれは変人でございますからね。』
『成程。』
『目の色を変えて宙を飛んで帰らなければ厭だと申すんです。』
『ふうむ。』
『直ぐにお帰り下さい。』
『よし。仕方がない。』
『何うぞお早く。』
『‥‥ ‥‥』
 西洋間に待っていた五郎助君は姉さんが戻って来た時、
『姉さん、当てて見ましょうか?』
 とニヤニヤ笑った。
『何を?』
『兄さんは忙しいから晩まで待たせて置けと仰有ったでしょう?』
『いゝえ。』
 と姉さんは嘘をついた。
『直ぐお帰りですか?』
『えゝ。手のものを置いて飛んで参ります。』
『それは感心です。』
『一生懸命よ。』
『実は僕もこゝの家の子供の成績が時々苦になって、姉さんを可哀そうだと思っているんです。』
『嬉しいわ。お前がそう優しく言ってくれると。』
『折角これ丈に成上がっても、子供がヤクザだと、直ぐに潰してしまいます。』
『それを案じているんですよ。』
『成上がりの家庭ほど危ないものはありません。』
『あら、もう攻撃?』
『そうじゃありません。姉さんと兄さんが僕を信用して、すっかり委(まか)せて下さるなら、何とかなりましょう。』
『本当に全権でいいのよ。』
『及ばずながらやって見ます。実はお手紙を戴いた時、直ぐに引受ける決心をしたんです。』
『それじゃ何故早く来てくれなかったの?』。
『勿体をつけたんです。それにもう一つ気に入らないことがあったんです。』
『何?』
『兄さんはいつか、「学問なんか駄目なものだね。店で大学出を使っているが、小僧上がりほど役に立たない」と仰有いました。』
『何うも相済みません。』
『僕は黙っていましたが、癪(しゃく)に障りました。親からして学問なんか駄目だと思っているんじゃ子供の成績の好くなる筈はありません。』
『御道理(ごもっとも)ですよ。』
『金なんか何んだ?金で学問が買えるか? と僕は言ってやりたい。』
『兄さんの考え違いは私から言って直させますから、快く引受けてやって下さい。』
『えゝ。物の道理さえ分れば、僕だって親類です。お葬式の時、来て上げます。』
『まあ!』
『決して見殺しにはしませんよ。』
 と五郎助君は大威張りだった。
 金田さんは時を移さず自動車を飛ばして、麻布の自宅へ駈けつけた。奥さんが玄関に出迎えて、
『あなた、お金のことを仰有っちゃ駄目よ。』
 と注意した。
『何んだ?藪から棒に。』
『学問は馬鹿になさると駄目よ。』
『五郎助どん、御機嫌が悪いのかい?』
『どんなんて仰有っちゃ駄目よ。』
『むづかしいんだね。』
『気に入らないことが沢山あるあらしいのよ。』
『まあまあ、仕方がない。無理なことを頼むんだから、下から出る。』
『ツケツケ物を申しましょうけれど、逆らわないで下さい。』
『よしよし、安心しなさい。』
 と金田さんは頻りに頷いて、西洋間へ通ると直ぐに、
『やあやあ、これはこれは、五郎助さん、ようこそ。お待たせ申上げました。』
 と鄭重をきわめた。
『何う致しまして。姉さんが電話をおかけになってから、丁度二十分です。』
『全速力です。』
『そうでしょうな。』
 と五郎助君は満足して、
『いや、その後は御無沙汰申上げました。』
 と挨拶に移った。

『早速ですが、五郎助さん。』
『はい。』
『この度は飛んでもない御迷惑なことをお頼み申上げまして‥‥』
 と金田さんは用件を切り出した。
『承知致しました。』
『お引き受け下さるそうで、宙を飛ぶようにして参りましたよ。』
『全権よ、あなた。』
 と奥さんが注意した。
『そのゼンケンが電話じゃ能く聞き取れなかった。』
『兄さん、全権家庭教師です。僕の思い通りをやらせて戴くんです。それで差支えありませんか?』
 と五郎助君が説明した。

『結構です。家の子供は皆我儘ですから、ビシビシおやり下さい。』
『子供ばかりじゃありません。兄さんも姉さんも僕の言うことを聴いて下さい。そうでないと充分の効果が挙げられません。』
『それは無論のことです。全権のお指図通り私達も及ばずながら骨を折ります。』
『学問が駄目だなんてことは誰にも言わせません。』
『はい。』
『細かいことは追って申上げますが、第一に不良分子を家庭から放逐して戴きます。』
『私たちですか?』
 と金田さんは吃驚した。
『いや、番頭と小僧です。何人来ていますか?』
『番頭が一人、小僧が二人です。これは一番堅いのを選抜して、番犬代わりに置いてあるんですが、いけませんかな?』
『本当の犬を飼う方がいいでしょう。』
『何故ですか?』
『さあ。』
 と五郎助が少しむづかしい顔をした時、
『あなた、全権よ。』
 と姉さんが御主人に又注意した。

    男、女、女、男の子
 福子さんと徳子さんが学校から帰って来て話しているところへ、弟の銀次郎君が入って来て、
『姉さん達、大変ですよ。』
 と言った。
『何が?』
 と福子さんが、向き直って、
『あら、銀ちゃんは何うしたの? 額に瘤(こぶ)が出来ているわ。』
 と手を当てゝ見た。
『痛い。』
『喧嘩したの?』
『えゝ。ハッハヽヽ。』
『負けたの?』
『その代り鼻血を出してやった。』
 と銀次郎君は元気者だ。
『いけませんよ、喧嘩なんかしちゃ。』
『でも生意気な奴だもの。』
『同級生?』
『六年の奴さ。僕よりも大きいんだ。』
『先生に叱られやしない?』
『見ていなかったから大丈夫だ。』
『大きな瘤よ。見っともないわ。』
『それでなくても、この子はおでこですからね。』
 と徳子さんが口を出した。
『自分だって子供のくせに。』
 と銀次郎君は承知しない。たった二つ違いの姉さんだから、多少侮る風がある。
『大人だって言っちゃいないわ。』
『‥‥ ‥‥』
『詰まった詰まった。』
『生意気!』
『何うせ生でイキているものよ、人間は。』
『‥‥ ‥‥』
『詰まった詰まった。』
『ぶん撲るぞ。』
『口で言っているんですから、口でおっしゃいよ。腕力は野蛮よ。』
 と徳子さんも年が近いだけに何処までも相手になる。
『もうおよしなさいよ。』
 と福子さんはいつも仲裁役だ。間を遮るようにして、
『それはそうと、銀ちゃん、一体何が大変なの?』
 と本来の問題へ戻った。
『僕、お母さんから大変なことを聞いて来たんだ。』
『何?』
『徳子姉さんがいるから話さない。』
『いいわ、私。』
 と徳子さんは行きがかりで又反り返った。
『駄目よ、徳子さん。』
『デコ坊のお話しなんか聞きたくないわ。』
『撲る!』
『腕力は野蛮よ。銀ちゃん。』
『お徳、徳利、トクトクトク。』
『言うことがないものだから。』
『お徳、徳利、トクトクトクトクトクトク‥‥』
 と銀次郎君は息の続く限り続けた。腕力を封じられると、他に芸当がない。

『おデコ、デコ、デコ、デコデコデコ。』
『おデコでも頭が好ければいいんだよ。この中に智慧が一杯入っているんだ。』
『自慢は智慧の行き止まり。』
『今に見ていて御覧。大変だ。頭の悪い奴はひどい目に合うんだ。』
『何よ?銀ちゃん。』
 と福子さんが促がした。
『五郎助叔父さんが来る。怖いだろう?』
『何んにも怖かないわ。』
『唯遊びに来るんじゃない。来て頑張っているんだ。』
『頑張っていたっていいわ。』
『怖い顔をして、毎日頑張っているんだ。』
『玄関番?』
 と徳子さんが訊いた。
『そんなことを言うと大変だよ。』
『何でも大変ね。』 
 と福子さんが笑った。
『家庭教師に来るんだ。』
『嘘でしょう?』
『本当だよ。』
『それじゃ芳沢先生は何うなるの?』
『あの人は怒っている。』
『そんなことないわ。病気で休んでいらっしゃるんだわ。』
『病気じゃないんだって、本当は兄さんがあんまり怠けるものだから、匙を投げたらしいんだって。』
『誰がそんなことを言って?』
『お母さんがお父さんにこの間の晩話していた。兄さんはとても我儘だって。』
『それは本当よ。先生の仰有ることをちっとも聴かないんですもの。』
 と徳子さんはもう御機嫌が直って、銀次郎君の味方についた。
『その代わりに五郎助叔父さんが来るんだって。唯の先生じゃない。家に毎日頑張っていて、ゼンキンだって。』
『何?』
 と福子さんが又聴き役を勤める。
『ゼンキン。』
『前金? お金のこと?』
『お金のことなんか言うと大変だよ。』
『何でも大変ね。』
『皆追っ払ってしまう。』
『誰を?』
『荒尾さんも亀どんも松どんも。』
『何うして?』
『犬を飼うんだって。』
『犬?』
『番犬だって。』
『何んのことだか分らないわ。』
『僕もよく知らない。』
 と銀次郎君は首を傾(かし)げた。まだ尋常五年だから、むづかしいことは分らない。お父さんお母さんのお話を小耳にはさんで、知らせに来たのだった。
 そこへ一番上の金一郎君が、
『おい、福子。』
 と縁側から声をかけた。
『はい。』
 と福子さんが答えた。
『おや、皆ここにいたのかい?』
 と金一郎君は入って来た。学校から帰ったばかりで、まだ制服を着ていた。
『兄さん。』
 と銀次郎君が伸び上がった。
『何んだい?』
『大変ですよ、兄さん。』
『何が?』
『五郎助叔父さんが家庭教師になって来るんですって。』
『家へかい?』
『えゝ。』
『ふうむ。』
 と金一郎君は同時に坐って、
『分った。それで分った。』
 と考え込んだ。
『兄さん、何?』
『先刻(さっき)ね、帰る時、学校の門のところで五郎助叔父さんに会ったんだよ。』
『まあ。』
『僕、友達と話をしていて気がつかなかったけれど、叔父さんの方から、「金一郎」って、とても大きな声で呼んだ。びっくりしちゃったよ。「何処へいらっしゃるんですか?」と訊いたら、「お前の方の先生に会いに来た」ってんだ。』
『まあ。』

『家のものが学校へ来るのは碌なことじゃない。しかし黙っているのも変だから、「何か御用ですか?」と訊いて見たら、「お前は成績が好くないそうだから、一つ先生方の御意見を伺いたいと思って」とおっしゃる。それがとても大きな声で、友達のいる前だから、実に具合が悪い。』
『あの叔父さんは乱暴よ、本当に。』
『僕は早速「さよなら」と言って逃げ出そうとしたら、「金一郎」って、又呼び止めて、「福子の学校は何処だい?あれも成績が悪いそうだ」と大きな声だね、あの叔父さんは。』
『ひどいわ。』
『教えて上げたら、「よろしい」と言って、門へ入って行った。』
『私の学校へもいらしったでしょうか?』
『行ったろうとも。』
『厭ねえ。』
 と福子さんは泣きそうになった。
『兄さん、私のことは何ともおっしゃらなかったでしょう?』
 と徳子さんはいささか自信があるようだった。
『うむ。何とも言わなかった。』
『それならいいわ。』
『でも同じ学校だもの。』
 と銀次郎君は興味を持っている。家で成績の好いのは自分だけだという肚(はら)が常にある。
『子供は黙っているものよ。』
『大人かい?お前は。』
『お前とは何?』
『よせよ、喧嘩は。ついでだから徳子の方の先生にも会ったに相違ない。』
 と金一郎君は公平だった。
『会ってもいいわ。』
『お前は福子ほどじゃないからね。』
『私だって兄さんほどじゃないわ。』
 と福子さんは不服だった。
『おやおや。』
『オホヽヽヽ。』
『兄貴が一番ボンクラか?ハッハヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
『ヒッヒヽヽヽヽヽ。』
『こら、銀次郎。』
 と金一郎君は睨む真似をした。
『ヒッヒヽヽヽヽヽ。』
『何て笑い方をするんだ?』
『もうしません。ヒッヒ。』
『銀ちゃんは本当に癖が悪いのよ。』
 と徳子さんは真剣で、怖い顔になった。
『何故? 姉さん、何故?』
 と銀次郎君は負けていない。頤でしゃくって詰め寄せる。
『直ぐそれですもの。』
『何れだい? 姉さん。僕分らない。』
『少し成績が好いと思って、威張りくさっているわ。』
『少しじゃないよ。全甲だよ。』
『自慢は智慧の行き止まり。』
『貧乏徳利。』
『よせよせ。詰まらない。』
 と金一郎君が叱った。
『兄さん。』
 と銀次郎君は目を見張った。
『何だ?』
『荒尾さんも亀どんも松どんも追っ払うんですって。』
『何うして?』
『犬を飼うんですって。』
『犬?』
『番犬です。』
『何の為に?』
『お手本にするんでしょう?兄さんが勉強するように。』
『生意気なことを言う奴だな。』
『本当にこの子は生意気よ。』
 と徳子さんが手を抓った。
『腕力だね?さあ、来い。』
『こら、銀次郎。』
 と金一郎君は立ち上がった銀次郎君を捉まえた。

『先に手出しをしたんですもの。』
『女と喧嘩をするものは弱虫だよ。』
『でも。』
『よせ。言うことを聴かないとひどいぞ。』
『もうしません。』
『お母さんに褒められると思って、威張っちゃいけない。』
『はい。』
 と銀次郎君も兄さんには敵わない。しかし忌々しかったと見えて、間もなく、
『面白い面白い。』
 と又話の中へ割り込んだ。皆はもう相手にしない。
『面白いぞ面白いぞ。』
『何が面白いんだい?』
 と金一郎君が煩そうに訊いた。
『五郎助叔父さんが来ると面白い。』
『何故?』
『厳しいですからね。』
『それで困るんだ。』
『しかし薬です。』
『又生意気を言う。』
『兎に角、今に分ります。』
『何が?』
『ヘエン!』
『この野郎!』
『ヒッヒヽヽヽヽヽ。』
 と笑って、銀次郎君は逃げ出した。
『待て。』
『ヒッヒヽヽヽヽヽ。』
『仕方のない奴だ。』
 と金一郎君は素(もと)より冗談だから諦めたが、銀次郎君は調子に乗って、
『仕方のない奴だ。』
 と障子の蔭で口真似をした。
『馬鹿!』
『馬鹿!』
『ひどいよ。』
『ひどいよ。』
『撲るよ。』
『撲るよ。』
『おい!』
『おい!』
『この野郎!』
『落第坊主。』
『何?』
 と金一郎君も最早(もう)勘辨できない。部屋から出て行った。銀次郎君は縁側伝いに逃げて、追いつかれそうになった時、茶の間へ入った。金一郎君も続いて、
『こら!』
 と捉まえたが、それは出会い頭のお父さんだった。

『何だ何だ?』
『これは失礼。』
『喧嘩をしちゃいけない。』
 とお父さんは笑っていた。金一郎君は恐れ入って引き退る途中、
『驚いた。お父さんが帰っているとは思わなかった。』
 と呟いた。
 お父さんの金兵衛さんは大商人(おおあきんど)だからナカナカ忙しい。家よりも店へ行っていることが多い。子供達と一緒に御飯を食べることが少ない。夜晩(おそ)く帰って来るから、朝も随って晩いので、朝御飯に顔を合せることは殆どない。お昼は皆学校だ。時折夕方早く仕舞って、一家打ち揃うのを楽しみにしている。
『こう忙しくちゃ遣り切れない。』
 とこぼすものの、商売がそれだけ繁昌するのだから、決して苦情ではない。お母さんも、
『あなたがお閑だったら大変ですわ。』
 と言って、家中のことを一手に引受けている。但し五郎助叔父さんの考えによると、これが宜しくない。お父さんが忙しいものだから、学校から呼び出しが来ても、番頭さんを代理に出すようなことになる。お母さんだけでは何うしても子供を甘やかす。 教育は学校に頼んで置くばかりじゃいけない。 お父さんお母さんが二人がかりでやらなければ、天才児でない限り、好い効果は決して挙がらない。 その他まだいろいろとむづかしい理屈がある。
 ところで、その晩は久しぶりで皆一緒だった。
『金一郎や。』
 とお父さんは食事半ばに盃を置いた。晩酌をやる。
『はあ。』
『芳沢先生が御病気だから、勉強の方は五郎助どんに来て貰うことに定(き)めたよ。』
『はあ。そうですか。』
『今日来て承知してくれた。福子も徳子も銀次郎もその積りでいなさいよ。』
『はあ。』
 とお父さんの前だとおとなしい。
『五郎助どんは‥‥』
『あなた。』
 とお母さんが顔をしかめた。
『何だい?』
『五郎助どんじゃ困りますよ。私の弟には相違ありませんが、この子供達の先生にお願いするんですから。』
『これは俺(わし)が悪かった。五郎助叔父さんさ。その五郎ツキ叔父さんという先生は‥‥』
『あなた。』
『何だい?』
『ゴロツキ叔父さんとは何でございますか?』
『五郎助叔父さんさ。』
『ゴロツキとおっしゃいましたわ。』
『いや、五郎助と言ったんだが、酒を飲んでいて舌が廻らないから、そう聞こえたんだろう。』
『いゝえ、先刻五郎助にいろいろと言われたものですから、口惜しくてそんなことをおっしゃるんですわ。』
『何あに、酔っているからだよ。』
『第一、お酒を召上がりながら子供達にお説法をなすっても駄目だと申しましたよ。五郎助は。』
『参ったね、これは。ハッハヽヽ。』
 とお父さんは額へ手を当てた。元来気の軽い人だが、酒を飲むと、益々御機嫌が好くなる。
『後からおっしゃって戴きましょう。』
『よしよし。』
『面白い面白い。』
 と銀次郎君が言った。
『何が面白い?』
 と金一郎君が睨んだ。
『五郎助叔父さんが来ると、お父さんはお酒が飲めなくなります。』
『御覧なさい。子供にまでそんなことを言われるじゃありませんか?』
 とお母さんが笑った。
 食後、お父さんは、
『金一郎や。』
 といささか改まった。
『はあ。』
『金一郎ばかりじゃない。皆もよく聴いていなさい。』
『はあ。』
『小言じゃないよ。お父さんの昔話だ。お父さんは家が貧乏だったから、小学校も碌々やらないで奉公に出た。小僧さんさ。亀どんや松どんよりも小さかった。それでも将来豪いものになろうという気があった。何うだね? 金一郎、お前も何か目的があるんだろう?』
『‥‥ ‥‥』
『何うだね?』
『さあ。』
『学校へ通って勉強している以上は何か目的があるに相違ない。』
『兄さんの目的は活動の監督です。』
 と銀次郎君が代って答えた。
『馬鹿を言うな。馬鹿!』
 と金一郎君は少なからず慌てた。
『何だってね?』
『まだこれって考えもありません。』
『早く定める方がいいよ。お父さんは目的があったから、小僧をしていても、昼間働いて夜勉強した。それでも番頭がやかましいから、夜半(よなか)にこっそり起きて一分心のランプで本を読んだものだ。』
『電灯がなかったんでしょう?』
 と銀次郎君が又口を出した。
『無論さ。』
『エヂソンがまだ発明しなかったんです。』
『銀次郎や。』
 とお母さんが注意した。
『一心というものは恐ろしいものだよ。昼間働いて草臥(くたび)れていても、夜の十二時には必ず目が開く。それから一分心のランプをつけて、明け方まで本を読む。ところがお前達は何うだね?』
『‥‥ ‥‥』
『お父さんは黙って見ているんだが、毎朝、起されないで起きるものは一人もないようだよ。』
『‥‥ ‥‥』
『一日の計は朝にあり。朝、喜び勇んで起きないようじゃ駄目だ。』
『夜、晩くまで勉強するものですから。』
 と金一郎君が弁解した。

『それもあるだろうが、徳子や銀次郎は早く寝るようじゃないか?』
『‥‥ ‥‥』
『銀次郎も尋常一年の時は無闇に早かったが、この頃はナカナカ起きないようだ。』
『お父さんだってナカナカお起きになりませんよ。僕、この間、日曜の朝、見ていました。お母さんが起したら、うるさいって、お蒲団を被(かぶ)ってしまいました。』
 と銀次郎君が素っぱ抜いた。
『銀次郎や、お前は黙って聴いていなければなりませんよ。』
 とお母さんは再び注意する必要を認めた。

  乗り込みの日
 金田家の茶の間では、
『五郎助さんはもうソロソロ見えそうなもんだな。』
 と主人の金兵衛さんが柱時計を見上げた。先刻から待っている。
『正十時とありますから、まだ間がございますわ。それにこの時計は十分ばかり進んでいます。』
 と奥さんが言った。
『教育家にも似合わず、時間に掛け値がある。』
『掛け値なんかありませんわ。正十時というのにまだ九時半ですもの。』
『つまり三十分掛け値がある。今着いても用は足りるんだ。』
『御無理ね。』
『何んにしても困ったことだ。出掛けてしまったら、怒るだろうね?』
『直ぐに帰ってしまうかも知れませんよ。』
『むづかしい先生だ。』
『あなたこそお遊びの会じゃありませんか?少しぐらい待たせたって構いませんわ。』
『いつもならいいんだが、今度は俺(わし)が当番で世話役だから義理が悪い。』
『来たら直ぐにお出掛けになればようございますわ。』
『その積りで、この通り支度をしている。』
『お出迎えだけして下されば、後は私が言訳を致します。』
『しかし余り早々だと御機嫌を悪くしやしまいか?』
『大丈夫でございますよ。』
『碁の会だなんて言ったら、教育家だからいけまい?』
『いゝえ、五郎助も打ちますのよ。』
『はてね。それは話せる。』
『お父さんがお好きでしたから、子供の時から見覚えて、ナカナカ強いんだそうです。』
『見覚えじゃ知れたものだろうが、兎に角打つとは感心だ。』
 と金兵衛さんは魂が碁会の方へ飛んでいる。
『旦那様。』
 とそこへ番頭の荒尾さんが現われた。
『何だね?』
『小川さんからお電話でございます。』
『催促だろう?』
『はい。皆さんもうポツポツお揃いですから、直ぐにお出で下さるようにと。』
『こうっと。今出掛けるところだと言って置いておくれ。』
『かしこまりました。』
『おいおい。』
 と金兵衛さんは思い直したのか、荒尾さんを呼び止めて、
『来客があるから、十時を打つと間もなく出掛けると言っておくれ。』
 と正直なところを打ち開けた。
『はい。』
『それまでよろしく頼むってな。』
『かしこまりました。』
『十時に五郎助さんが見える。』
『はい。』
『その時、お前も出迎えなければいけないよ。』
『はい。』
『荷物を持ってお出でになる。むづかしい先生だから、芳沢先生の積りじゃいけない。万事抜け目なくね。』
『かしこまりました。』
『亀どんにも松どんにも出迎えるように言っておくれ。』
『申し聞かせます。』
 と番頭の荒尾さんは頻りにお辞儀をして立ち去った。
『お鈴や。』
 と金兵衛さんは腕を組んだ。
『何でございますか?』
『荒尾と亀どん松どんのことだが、何うしたものだろうな? この間からも言っている通り幾ら全権先生の註文でも、三人を店へ帰してしまうと、店と家との連絡がなくなって、商売に差支える。』
『それは私から訳を話してこらえて貰いますわ。』
『承知してくれるかしら?番頭や小僧が出て来たから約定が違うなんて、直ぐに帰られると大事だぜ。』
『そんな分らない人じゃありませんよ。』
『それじゃ宜しく頼む。』
『御心配はございません。皆が子供を坊ちゃんお嬢さんとおだて上げるからいけないと申すだけです。その辺を慎むように申し付ければ納得してくれますよ。』
 と奥さんは弟の五郎助さんを相応理解している。
『お鈴や。』
『何でございますか?』
『この間も言った通り五郎助さんに子供の面倒を頼んで全く無報酬ってことは何うも困るね。』
 と金兵衛さんは又考え出した。忙しいものだから、問題がそのままになっていたのである。
『お金のことを言えば怒るから仕方がありませんわ。』
『すると矢っ張り唯かい?』
『はあ。』
『何とか方法はなかろうか?』
『ございませんよ。』
 と奥さんは絶対のようだった。
『黙っていて月々貯金でもしてやるか?』
『いゝえ。唯でなければ厭だと言っているんですから、そんな御心配は全く御無用に願います。』
『学者ってものは料簡が分らない。』
『あの人は子供の時から少し違っていました。』
『世の中に唯ほど安いものはないけれど‥‥』
『ないけれど、何でございますか?』
『唯ほど恐ろしいものもない。』
『まあ。何故でございましょう?』
『どんな無理を言われても、御機嫌を取らなければならないからさ。』
 と金兵衛さんは閉口している。

 日曜は子供達に取って書き入れだ。朝から屈託なく、思い思いのことをして遊べる。しかしこの日は十時に五郎助叔父さんが見えると申し渡されていたから、皆金一郎君の部屋に集まって、矢張り待っていた。
『兄さんは叔父さんのお出でになるのがそんなに心配?』
 と徳子さんが訊いた。
『何あに、平気だ。』
 と金一郎君は肩を怒らせて見せた。
『でも元気がないようよ。』
『何あに。』
『きっと厳しいわ。』
『何あに。』
『全権って断っているんですもの。』
『何あに。』
『あゝあ。心配なものだから同じことばかり言っているんだ。』
 と銀次郎君が横槍を入れた。
『大当たり。ハッハヽヽ。』
 と金一郎君は人柄が好い。
『僕はちっとも心配じゃない。』
『又始めたわ。厭な子。』
『叔父さんに褒められるのは僕ばかりだろうってお母さんも仰有った。』
『自慢は聞きたくないわ。兄さん。』
 と福子さんは相手にならずに金一郎君の方へ向き直った。
『何だい?』
『もう活動へなんか行けませんよ。』
『駄目だ。』
『今日は日曜なのに早速ね。』
『それを考えて悲感しているんだよ。』
『私達、もう音楽会も駄目でしょう?』
『当たり前さ。叔父さんは芳沢先生と違って、学問ばかりじゃない。』
『何故?』
『修身の先生も兼ねているんだ。女の子を夜出歩かせるものか。』
『でもお母さんと御一緒ならいいわね。』
『叔父さんはお母さんを叱る。僕は聞いていたことがある。とても豪いんだからね。』
 と金一郎君も恐れを為している。

 亀どんと松どんも日曜はお店が休みだから閑だ。しかし奉公人の身分として、勝手に遊んで歩くことはならない。その間に本でも読んだらよかろうと言われている。
『亀どん、考えて見ると詰まらないね。』
 と松どんがこぼした。
『仕方がないさ。』
『荒尾さんも一緒にお店の方へ追い帰されるのだろうか?』
『どうもそうらしい天下の形勢だよ。』
 と亀どんは生意気な口のきき方をする。
『僕はお店よりも此方(こっち)の方が余っ程徳だと思う。』
『理の当然さ。第一、此方はお店よりも営養が好い。女中が大量生産をやらないから、美味いものが戴ける。』
『第二に御用が少ない。お店にいると、夜まで使いこくられる。』
『第三に坊ちゃんの御機嫌が取れる。将来の若御主人様だ。信用を得て置けば出世が早い。』
『第四に番頭さんが荒尾さんだ。何でも大目に見てくれる。』
 なぞと話し合っているところへ、その荒尾さんが入って来て、
『十時に先生がお着きになるから、お前達もお出迎えをするんだよ。』
 と主人の命令を伝えた。
『へいへい。』
『荷物を持ってお出でになるから、直ぐにお部屋へ運ぶんだよ。』
『へいへい。』
『むづかしい先生だそうだから、万事抜け目のないようにね。』
『へいへい。』
『まだ大学生でお若いけれど、とても見識の高いお方だ。滅多にお出でにならないが、お前達もお目にかかったことがあるだろう?』
『へい。いつか日曜に御門のところでお見かけ致しました。』
 と松どんが答えた。
『二人でお辞儀をしたんですが、知らん顔をしていらっしゃいました。』
 と亀どんが付け足した。
『お前達のような木っ端野郎は眼中にないんだ。』
『番頭さんあたりは如何(いかが)でございますか?』
『俺(わし)は信用がある。』
『嘘をつけ。』
『こら、何だ?生意気な。』
 と荒尾さんがたしなめた。

『御免下さい。』
『何うも亀どんは目上を目上と思わないからいけない。矢っ張り栗田さんあたりに痛めつけられて貰う方がいい。お店へ帰されるんだから、その積りでいなさい。』
『へい。』
『番頭さん、私もですか?』
 と松どんが訊いた。
『お前も帰される。』
『何の科(とが)もないのに詰まりませんな。』
『無学なものは教育の邪魔になる。』
『番頭さんはいいんですか?』
 と亀どんは相変わらず不敵だった。
『俺は大丈夫だ。俺がついていなければ、大将、早速困る。』
『僕達がいなくてもお困りですよ。』
『お前達の代わりには犬を飼うそうだ。』
『へえゝ。すると私達は犬の代りをしていたんですか?』
『先づその辺だろうな。坊ちゃんをおだてて活動を見に行ったりするところは犬よりも悪い。』
 と荒尾さんは行跡を知っている。
 五郎助叔父さんは十時少し前に着いた。荷物をトラック一台に積んで、自分も乗って来た。
『これはこれは、ようこそ。』
 と金兵衛さん初め家中のものが出迎えた。荒尾さんと亀どん松どんが荷物を下ろしに取りかかった。
『金一郎君、ポカンとしていちゃいけません。』
 と五郎助叔父さんが言った。
『はあ?』
『君も手伝うんです。』
『はあ。』
 と金一郎君は初めて気がついた。金田家の子供は人にして貰うばかりで、人にしてやることがない。
『福子さんも徳子さんも見ていないでお手伝いをなさい。』
『はあ。』
『銀次郎君は? 今いたようだったが。』
 と五郎助叔父さんは見廻した。
『あら、もう逃げちゃったのよ。とてもはしっこいわ。』
 と福子さんが感心した。
『小僧さん、その本箱は本を出してからでないと動かない。』
『へいへい。』
『番頭さん、その行李も本だから重い。一人じゃだめです。』
『へいへい。』
『大きいものは番頭さんと小僧さんに持って貰って、小さいものは子供が運ぶ。』
 と五郎助叔父さんは玄関へ上がらないで、采配を振り始めた。金一郎君初め皆否応(いやおう)ない。 銀次郎君も逃げたのではなく、いち早く内玄関から下駄をはいて来て、大きな本をセッセと擔(かつ)ぎ込んだ。

 金兵衛さんはこの光景を玄関から見守りながら、
『人の子だと思って、ふんだんに使うよ。』
 と呟いた。子煩悩だから、自分では子供に用一つ言いつけたことがない。
『あなた、唯で来て貰うんでございますよ。』
 と奥さんが注意した。
『それだから唯ほど恐ろしいものはないと言うんだ。あれあれ、徳子がボロ靴を提げている。あんなものは女中に持たせてやればいいのに。』
『聞こえますよ。』
『まあまあ、仕方がない。しかしこれでは益々おくれる。済み次第案内しておくれ。』
 と頼んで金兵衛さんは応接室へ引き退った。大勢がかりだから事が早い。荷物は間もなく片付いた。
『失礼致しました。』
 と五郎助君は姉さんに伴われて現われた。
『今回は飛んだ御面倒をお願い申上げて、何ともはや、恐縮千万です。』
『いや、一向。』
『さあ、どうぞ。』
 と金兵衛さんは椅子に請じて、ほんの少時(しばらく)話した後、
『時に五郎助さん、甚だ勝手ですが、今日は会があって皆待っていますから、これで失礼させて戴きます。』
 と奥さんに目くばせをしながら申し出た。
『何の会ですか?』
『碁の会です。』
『ははあ。兄さんはヘボ碁をお打ちになるんですか?』
『ヘボ碁は厳しい。』
『ハッハヽヽ。』
『これでも同業者間では幕内ですよ。』
『失礼申上げました。何うぞお出掛け下さい。お待たせして済みませんでした。』
 と五郎助さんは快く送り出した。
 その後、奥さん、即ち姉さんは、
『五郎助や。』
 と相談がある。
『はい。』
『この間お前から註文のあった奉公人のことですがね‥‥』
『はい。』
『あの荒尾という番頭は兄さんの秘書ですよ。』
『はゝあ。それで手放し難いと仰有るんですか?』
『頭が好いのね。オホヽ。』
『どんな人物ですか?一体。』
『申分ない人物よ。数ある番頭の中から特別兄さんの眼鏡に叶って来ているんですから、ちっとも心配ありません。』
『いいです。荒尾君は置くことにして、小僧共を追っ払いましょう。家庭は家庭らしいほど子供の為になります。店らしいほど子供が損をします。』
『五郎助や、私、その理屈はこの間聞いてよく分っているんですけれどもね‥‥』
『いけませんか?』
『お前も知っての通り株屋は一刻を争う商売ですから、夜分急用が起って、お店やお得意さまへ使を出すようなことが度々ありますのよ。』
『成程。』
『ねえ、五郎助、どうしたものでしょう?』
『商売に差支えるようじゃ仕方ありません。』
『それじゃあのまゝ置いてもいいの?』
『感心しませんけれど、少時このまゝ様子を見ましょう。』
『そうして下さい。』
『あれも人の子です。家庭に置く以上は邪魔もの扱いには出来ません。序(つい)でに面倒を見てやりましょう。』
 と五郎助君は案外簡単に納得した。
『私、安心しましたよ。』
『僕がもっと主張すると思ったんですか?』
『えゝ。』
『出来ない相談をしたって仕方ありません。商家には矢っ張り商家の都合があります。どうせこんなことに落ちつくのだろうと思っていました。いつかのは一寸勿体をつけて驚(おど)かしたんですよ。』
『人が悪いのね。兄さんは本気にして心配していましたわ。』
『ハッハヽヽ。』
『それじゃ奉公人の話はこれだけにして子供達を呼びましょうか?』
『はい。』
『彼方(あっち)へ参りましょう。皆待っているでしょうから、早速言い聞かせて下さい。』
『小言は小出しに追々の方がいいです。』
『それもそうね。』
『晩に部屋を廻りますから、その時、各自(めいめい)の机の上に成績表を出させて置いて下さい。それを見て処方を考えます。』
『博士(はかせ)の回診?』
『頭が好いです。』
『オホヽヽヽ。』
 と姉さんは諸事満足のようだった。

 五郎助君は昼まで甥姪達を相手に談笑して、食後、荷物の整理を始めた。全権だから、立派な部屋を当てがわれている。折から荒尾さんが縁側を通り合せて、
『先生、お手伝い申し上げましょう。』
 と小腰を屈めた。
『いや、結構ですが、まあ、お入りなさい。』
 と五郎助君が請じた。
『へい。』
『お尋ねしたいことがあります。』
『へいへい。』
 と荒尾さんは入って来た。
『小僧さん達を追っ払う積りでしたが、そうもそう参りませんでした。』
『はゝあ。』
『序でに面倒を見てやることにしましたから、あなたもどうぞ御尽力下さい。』
『へいへい。』
『亀どん君と松どん君でしたな?』
『へい。亀どんと松どんでございます。どんだけで沢山でございます。』
『何んな性格の子供ですか?』
『さあ。』
『あなたが監督の地位に立っているんじゃありませんか?』
『へい。そうでございます。』
『それでは大抵お分かりでしょう?』
『へい。しかしどうも一概には申上げにくいです。』
『お気づきの点だけでよろしい。』
『さあ。』
『それではお考えになった上で、報告書のようなものを書いて戴きましょうか?』
『へいへい。』
『正直だとか不正直だとか、頭が好いとか悪いとか、こういう長所があるとかあゝいう欠点があるとか。』
『かしこまりました。』
『性格が分らないと指導が出来ません。』
『一々御道理(ごもっとも)でございます。』
『本人達にも履歴書を書かせて貰いましょうか?』
『申付けます。』
『荒尾さん、大仕掛けでしょう?ハッハヽヽ。』
 と五郎助君は笑い出しだ。

  お父さんお母さん
 五郎助叔父さんは毎晩八時が鳴ると、皆の自習を見て廻る。それが至って簡単だ。先づ金一郎君の部屋へ入って、
『やっているね。よろしい。』
 と頷く。次に福子さんと徳子さんの部屋の障子を開けて、
『やっているね。よろしい。』
 とこゝも同じことだ。それから銀次郎君の部屋を覗いて、
『やっているね。小学生は早く寝る方がいいよ。』
 と言う。もう一部屋、少し離れて、亀どんと松どんのところがある。
『やっているね。』
『へいへい。』
『よろしい。』
 とそこで見廻りが終る。
 すっかりで五分ぐらいしか、かからない。直ぐに自分の書斎へ戻って、勉強を続ける。もう出て来ない。

 奥さんは期待を裏切られた。これでは頼んだ効(かい)がないと思って、或る晩のこと、
『五郎助や。』
 と稍(やや)意気込んで、書斎へ入ってきた。
『何ですか?姉さん。』
『お前、忙しいの?』
『いや、一向。さあ。お敷き下さい。』
 と五郎助君は座布団を薦めた。
『この部屋は何う?気に入って?』
『結構です。家庭教師には贅沢過ぎます。』
『ナカナカお世辞が上手ね。』
『ハッハヽヽ。』
『けれども五郎助や。』
 と奥さんは言分がある。
『何ですか?姉さん。』
『お前は家庭教師だと言っても、子供にちっとも教えてくれないじゃありませんか?』
『えゝ。』
『何故?』
『何故ってこともありませんが、まあまあ、その中(うち)にポツポツ始めましょう。』
『お前、自分の勉強が忙しいの?』
『いゝえ。常に綽々として余裕があります。』
『それじゃ直ぐに始めて貰いたいものね。』
『姉さん。』
『何あに?』
『僕は唯の家庭教師じゃありませんよ。報酬を戴かない代わりに、全権って条件じゃありませんか?』
『それは分っていますわ。』
『それなら黙って見ていらっしゃい。何うも姉弟(きょうだい)だと我儘があっていけない。』
『あら! お前の方が余っ程我儘よ。』
『ハッハヽヽ。』
 と五郎助君、平気なものだ。
『子供達の成績は見てくれたでしょうね?』
『はい。拝見致しました。』
『何う思って?』
『矢っ張り金一郎君福子さん徳子さんと上から下へ順々に良くなって行きます。』
『銀次郎は?』
『あの子だけは飛び切り上等です。銀次郎君徳子さん福子さんと下から上へ順々に悪くなって行きます。』
『又始まったのね。』
『これをもってこれを見るに、つまり、生み方はお上手ですが、育て方がお下手ってことになりますな。』
『五郎助や。』
『何ですか?』
『私はもっと親身になって貰いたいのよ。真面目に話して貰いたいのよ。』
 と奥さんは怒った。
『しかし事実その通りですから、仕方ありません。』
『それですからお前に頼んだんじゃありませんか?何うかして下さいよ、本当に家の子供が可愛いなら。』
『可愛いですよ、皆。』
『それなら叱っても叩いてもいいわ。お前の考え通りにして、成績を好くしてやって下さいよ。』
『銀次郎君はちっとも心配ありません。』
『あの子だけですよ、苦労をかけないのは。』
『徳子さんも大丈夫です。』
『福子は何う?』
『先づ間違いありますまい。』
『金一郎ですね、心配なのは。』
『はい。』

『何うでしょうね?』
『金一郎君に至っては今のところ手がつけられません。』
『まあ!』
『学力が一年ぐらい後れていますから、来年はきっと落第です。』
『あらまあ!』
『僕が保証します。』
『アベコベね、この家庭教師は。』
『学力が一年後れている上に、姉さん。』
 と五郎助君は奥さんの気色を覗った。
『何あに?』
『お泣きになっちゃいけませんよ。』
『何よ?』
『注意人物です。』
『まあ!』
『僕、学校へ行って聞いて来たんです。先学期の試験の時、不正行為をやったらしいんです。』
『五郎助や、本当?』
『はい。学校から兄さんへ呼び出しが来たのはその為でした。擔任の先生から荒尾君は詳しく話してある筈です。』
『荒尾さんはそんなことちっとも申しませんでしたわ。』
『そこが親身でないからです。きっと取り繕って報告したに相違ありません。』
『唯成績が悪いから気をつけるようにと申しました。』
『成績が悪い上に注意人物として睨まれているんですから、来年は仕方ありますまい。』
『来年って、お前、今年も落第しているんですよ。』
 と奥さんは泣き出さないばかりだった。
『二度とは少し念が入り過ぎますね。』
『五郎助や、何とか出来ないもの?お前の力で。』
『さあ。一朝一夕にはむづかしいです。何しろ姉さんと兄さんが五年かゝって今のような成績に仕上げたんですからね。』
 と五郎助君は言いたいことを言う。
『仕上げたなんて、五郎助や。』
『はい。』
『お前みたいに皮肉な人はないよ。』
 と奥さんは又イライラする。
『まあまあ、もう一遍は覚悟をすることです。』
『私達はその落第をさせたくないと思って、お前に頼んだんですよ。』
『僕も及第させたいと思って、お引受けしたんですから、及ぶ限り力になりましょう。』
『それなら何故家庭教師らしく教えてくれませんの?』
『金一郎君はまだ僕に教わる気がありません。』
『お前が黙っているからですわ。』
『いや、此方から命じたんじゃ駄目です。本人がその気にならなければ駄目です。』
『それじゃ私、金一郎に申しますわ。』
『いや、つけ焼刃じゃいけません。僕は全権ですから、姉さんがお口出しをなすっちゃ困ります。』
『それなら何うすればいいの?』
『黙って見ていて御覧なさい。今に学問が面白くなって、本心から僕を頼りにします。それまでは手がつけられません。』
『来年の試験に間に合うでしょうか?』
『さあ。一年かかるか二年かかるか分りませんな。』
『気が長いのね。その中にお前の方が卒業してしまうわ。』
『そうですな。ハッハヽヽ。』
『冗談じゃありませんよ。』
『しかし人生は悠久です。二度や三度落第したって何ですか?』
『本当に心細い家庭教師ね。金一郎はとても見込みがありませんの?』
『はい。』
『お前は姉さんの心持ちが分らないの?』
『いや、分っています。それですから落第の覚悟だけはして置いて下さい。もう一方僕の遣口が効を奏して及第するようなら目つけものです。僕はこれでも苦心惨憺しているんですよ。』
『本当?』
『はい。』
『それなら私、黙って見ていますわ。』
『そうして下さい。僕は全権って条件で引受ける時からチャンと考えてやっているんです。』
 と五郎助君は何か成算があるようだった。
『お前がそう言ってくれると、私も安心します。』
『安心して、心配していて下さい。』
『又分らないことを言い出したのね。』
『つまり大船に乗った気でいればいいんです。』
『それじゃ安心じゃありませんか?』
『三万頓(トン)の汽船、而も最新式のに乗った気でいればいいです。』
『それなら大安心じゃありませんか?』
『しかし船のことですから、万一ってことがあります。つまり大体に於いて安心して、気を許さないでいて下さい。』
『分りました。それから今のことを兄さんに話して置きましょうか?』
『何ですか?』
『金一郎が不正行為をしたことですよ。』
『いけません。』
『何故?』
『兄さんは分らず屋ですから、金一郎君を叱りつけます。』
『叱ってもいいじゃありませんか?』
『いや、分からず屋ですから、結果を考えないで叱り飛ばします。』
『兄さんだってそんなに分らない人じゃありませんよ。』
『いや、株の外何も分りません。可哀そうなものです。』
『お前の口にかかっちゃ敵いませんね。』
 と奥さんは諦めて引き退った。
 兄さん、即ち奥さんの御主人金田金兵衛さんは店の方が忙しいので、相変わらず帰りが晩くなる。しかし子供のことを案じているから、
『お鈴や、五郎助さんは何んな具合にやってくれているかね?』
 と或る晩奥さんに訊いた。
『毎晩見廻ってくれます。』
『それは結構だ。皆勉強するだろう?』
『えゝ。厳しいと思っていますから、一生懸命のようでございます。』
『よく教えてくれるだろうね?』
『さあ。』
『芳沢さんよりも身を入れてくれるだろう?』
『はあ。』
 と奥さんは自分にも腑に落ちないことだから、曖昧な返事をしたが、嘘もつけないから、
『しかし教えはしませんのよ。』
 と答え直した。
『うむ?』
『まだちっとも教えませんのよ。』
『何ういう訳だね? 先生じゃないか?』
『教えない先生らしいのよ。』
『そんな先生はなかろう。』
『あの人相応の考えがあるようですから、私は黙って見ています。』
『それじゃ見廻ってくれるだけかね?』
『えゝ。それもほんの一寸よ。部屋を開けて見るだけでございます。』
『それじゃ駄目だろう。お前から何とか註文をつけたら何うだ?』
『さあ。』
『用が足りなくちゃ困る。』
『当分黙って見ているより外仕方ありませんわ。』
『何故?』
『全権じゃございませんか?』
『成程。唯ほど安いものはないが、唯ほど気の置けるものもない。』
 と金兵衛さんは直ぐにこれが出る。
『学科を教えない代わりに、よく子供と遊んでくれますわ。』
『ふうむ。遊び相手かい?』
『えゝ。お話しが面白いと見えて、皆学校から帰ってくると直ぐ五郎助の部屋へ押しかけますのよ。』
『何んな話をするんだろう?』
『一昨日(おととい)は映画のお話だったそうでございます。』
『え?』
『活動写真でございます。』
『活動写真なんか教育になるまい。』
『いゝえ、活動も西洋の小説だそうでございます。』
『女の子に小説なんか禁物だろう。』
『五郎助のことですから、決して悪いお話は致しませんよ。』
『無論大丈夫だろうけれど。』
『私、三万頓の汽船に乗ったと思って安心しています。』
 と奥さんは昨日からそういうことに定めている。
『しかし‥‥』
『何でございますか?』
『考えは悪くなくても学者ってものは間抜けだよ。学者元来間抜け面(づら)って諺(ことわざ)がある。』
『‥‥ ‥‥』
『哲学なんてものは死学問(しにがくもん)だからね。』
『五郎助がお気に召さなければ、帰してもようございます。』
『いや、決してそういう意味じゃないけれども。』
『でも間抜けだと仰有ったじゃございませんか?』
『五郎助さんが間抜けだと言ったんじゃない。学者には往々間抜けがあるからという世間話さ。』
『そうでございましたか。』
『お前、怒ったのかい?』
『いゝえ。』
『兎に角、俺は明日夕方早く帰って来て、五郎助さんの見廻りだけでも拝見しよう。全く委せっきりでも、男親として余り無責任のようだ。』
 と金兵衛さんも何うやら不安心になった。
 それでその翌日の夕食は主人が久しぶりで一緒だった。五郎助君は、
『兄さんが始終今頃帰っていらっしゃると結構ですがね。』
 と喜んだ。
『これからは成るべく心掛けましょうよ。』
『男親がいるといないでは大分違います。船長の家庭なそは何んなものでしょうかと思って、友人に統計を頼んで置きました。』
『早速お叱りを蒙りますな。しかし私のようなものは晩く帰る方が却って子供の為かも知れません。』
『何故でしょうか?』
『この通り子供の前で晩酌をやりますから。ハッハヽヽ。』
 と金兵衛さんはお酒を飲むにも遠慮があった。
 食後、五郎助叔父さんは、
『皆、何うだね?今日は土曜日だから、自習はやめにして、僕の部屋で遊ぼう。』
 と宣言した。
『賛成!』
 と金一郎君が手を挙げた。
『僕も賛成。さあ、参りましょう。』
 と銀次郎君は叔父さんを捉まえて、
『ヨイショ! ヨイショ!』
 と書斎へ引っ張って行った。福子さんも徳子さんも従った。
『あの通りでございますよ。』
 と奥さんが言った。

『よく懐(なつ)いたものだね。』
 と金兵衛さんは感心したが、
『あれでお説法をしてくれれば申分ない。』
 と後へ註文をつけた。
『あなた、今晩は見廻りはございませんよ。』
『その代り俺は立聞きをする。』
『まあ!』
『何んな話をするか、縁側へ行って聞いている。』
『それもよろしうございましょう。』
『お前も来て御覧。』
『はあ。後から参りましょう。』
 と奥さんも参考の為め、必要を感じた。
 後刻、二人が五郎助君の書斎へ忍び寄った時、
『どうだね?豪い予言をしたものだろう?』
 と五郎助君はもう話の最中だった。
『驚きました。』
『この婆さんは十六世紀の人だ。金一郎君、十六世紀というと日本は何んな時代だったろう?』
『存じません。』
『初は足利時代さ。足利が亡びた後は?』
『織田信長です。』
『よろしい。それから?』
『豊臣秀吉です。』
 と金一郎君は調子が好かった。
『よろしい。歴史が出来る。十六世紀は足利時代と信長、秀吉。皆そう覚えてい給え。 ところでそんな昔、四百年も前にこんな予言をしたんだから、この婆さんは豪い。もう一遍読むよ。いいかね。よく聴いていて、何のことか考えて見る。』
 と断って、五郎助叔父さんは読み始めた。

 ○馬のない車が走って、人間界に事多からん。
 ○人間の思うこと、瞬く間に、世界中をめぐらん。
 ○水が益々不思議を働かん。
 ○山を乗り越す人の側に馬も驢馬もなからん。
 ○徒歩、睡眠、談話、水中にて自在ならん。
 ○空中に人あり。或いは白く或いは黒く或いは青く見えん。
 ○世界は一八八一年をもって亡びん。

『叔父さん、僕当てます。』
 と銀次郎君が叫んだ。
『言って御覧。』
『汽車と自動車と潜航艇のことです。』
『豪い豪い。』
『叔父さん、水力電気。それから人間の思うことが世界をめぐるってのはラジオよ。』
 と徳子が当てた。
『これも豪い。』
『空中の人は飛行機。』
 と福子さんも負けていない。
『大当たり。しかしこの予言の中で一つまるっきり外れているのがある。』
『世界が亡びること。』
 と異口同音だった。
『皆頭が好い。一八八一年は明治十四年だ。これが当っていようものなら、僕達は生まれていない。ハッハヽヽ。』
 と五郎助叔父さんは満足のようだった。
『叔父さん、僕は疑問があります。』
 と金一郎君が言った。

『何だね?』
『この予言は後から拵(こさ)えたものじゃないでしょうか?』
『よく気がついたね。昔からそういう議論があったけれど、最近この記録が古い文書の中からも発見されたので、イヨイヨ誤魔化しものでないということになった。』
『はゝあ。』
『こゝだよ、考えどころは。』
『はあ。』
『人間、学問と常識を兼ね備えていれば、これぐらいの予言は出来る筈だ。僕も十六世紀に生まれれば、きっとこんなことを言っている。』
『僕も言っています。』
『知っていて言うんですもの。誰にだって出来るわ。』
 と福子さんが笑った。
 それから五郎助叔父さんは人間の頭の働きについて少時述べた後、
『早い話が、お父さんは何うだろう?商売の方の学問と常識を兼ね備えているから、ドンドン儲ける。運が好いんじゃない。矢っ張り人間が豪いんだ。』
 と賞揚した。縁側で立聞きをしていた金兵衛さんは、
『お鈴や、五郎助さんはナカナカ善いことを言って聞かせる。』
 と感心したが、折から金一郎君が、
『でも十九世紀ですからね。』
 と言った。
『叔父さん、十九世紀って何?』
 と銀次郎君が尋常五年相応の質問をした。
『一九○○年、即ち明治三十三年までが十九世紀さ。一九○一年、即ち明治三十四年から此方が二十世紀さ。こゝにいるものは皆二十世紀だ。』
『それじゃお父さんは十九世紀です。』

『そうさ。頭を見れば分る。禿げている。』
 と叔父さんが言った。金兵衛さんは、
『お鈴や、矢っ張り善いことばかりは教えない。』
 と呟いた。

  感ずるところ
 或日(あるひ)、銀次郎君は学校から帰って、お茶の間で西洋菓子を頬張りながら、
『お母さん、僕、大いに感ずるところがありました。』
 と言った。
『オホヽ。』
 と笑ったお母さんの調子にも矢張り幾分感ずるところが現われていた。尋常五年生にしては智慧が特別だと信じているけれど、こんな大人らしい言葉を知っているとは思わなかったのである。
『僕、今日学校で先生に褒められたんです。』
『まあ!もっともお前は叱られることなんかないんだけれど。』
『そんな間抜けじゃありません。いつでも褒められるんです。』
『結構ね。』
『お弁当を食べた後で、順番にお話をするんです。金田君のお話はいつでも新しくて面白いって。』
『何のお話をしたの?』
『叔父さんから聞いた郵便のお話です。一寸のことで郵便がこの頃のように安くなったお話です。先生もご存知なかったようです。』
 と銀次郎君は得意の眼を輝かした。
『先生は何も彼も御存知よ。』
『そうでしょうか?』
『知っていらしっても、知らなかった風をしてお前に花を持たせて下すったんですわ。』
『兎に角、僕、褒められて嬉しかったんです。それから大いに感ずるところがありました。』
『何をそんなに感じたの?』
『いゝこと。』
『何あに?』
『お母さんがきっと喜ぶことです。』
『話してご覧なさい。』
『叔父さんのように学者になろうと決心したんです。お母さん、叔父さんはとても豪いんですよ。』
『そう?お前にもそう見えて?』
 とお母さんも弟の五郎助さんを褒められれば、無論悪い心持ちのする筈はない。
『僕、叔父さんのように学問が出来て、何でも知っていたら、随分面白いだろうと思うんです。』
『お前は利巧だから、考えが好いのね。』
『物を知っているものは、それだけ世界が広いんです。』
『それは無論そうよ。』
『お母さんなんか何も知らないから、世界が狭いでしょう?』
『まあ!』
『ハッハヽヽ。お母さんなんか郵便が安くなったお話を知らないでしょう?』
 と銀次郎君はこれがいけない。

『銀次郎や。』
『何ですか?』
『お前は褒められても、鼻高天狗になっちゃ駄目よ。』
『鼻の低い天狗なんかありませんよ。』
『そういう口ですからね。叔父さんからお話を聞いても、自分ばかり知っている積りで自慢しちゃ駄目よ。』
『自慢は智慧の行き止まり。』
『分っているのね。』
『はあ。』
『一体その郵便のお話ってのは何?』
『郵便が安くなったお話よ。矢っ張り知らないんだなあ。』
『それがいけませんよ。』
『聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥。お母さん、僕に訊いて御覧なさい。』
『仕方のない子ねえ。それじゃ訊くわ。教えておくれ。』
 とお母さんも直ぐこれだからいけない。
『日本のお話じゃありませんよ。』
『えゝ。』
『英国のお話です。昔の郵便は先払いで、若しお金を出さなければ、持って行ってしまうんですって。それに遠くから来ると大変高いんですって。或日貧乏なお婆さんのところへ郵便が参りました。五十銭です。』
『まあ!高いのね。』
『お婆さんはお金を出すのが厭だから、要らないと申しました。しかしそれを見ていた何とかいう豪い詩人が気の毒に思って払ってやりました。郵便屋さんが行ってしまってから、お婆さんは「そんなことして下さらなくてもよかったに」と苦情を申しました。その手紙は息子さんから来たんで、中には何も書いてないんです。開けて見たら、白紙が二三枚出て来ました。お母さん、何ういう意味でしょうか?』
『分りませんわ。』
『学校でも皆分らなかったんです。』
 と銀次郎は得意になって、
『お婆さんは字が読めないんです。それで息子さんはいつも白紙を入れて寄越します、それが着いたら達者でいると思ってくれという約束だったんです。』
『あらまあ!英国にもそんな無学な人がいるの?』
『お母さん、初等教育は日本が一番進歩しているんですよ。』
『物知りね、お前は。』
『このお婆さんのことをその何とかいう詩人が友達の政治家に話したんです。これも何とかいう豪い人です。』
『皆何とかいう人ね?』
『忘れてしまったんですよ。』
『惜しいわね。』
『西洋人の名前ですもの。その何とかいう政治家がこれは郵便料を是非安くしなければならないと考えついて、この頃のように何処へでも三銭で行く郵便が出来たんです。』
『以前(もと)は二銭でしたのよ。』
『本当?』
『えゝ。』
『それじゃ物価が上がったからでしょう。』
『そうよ、頭が好いわね。』
『兎に角、今から百年前のお話です。お母さん日本では何時代でしたか?』
『徳川時代です。』
『年号は?』
『さあ。』
『天保時代です。』
『百年前といえば、そうでしょうね。お母さんのお祖父さんもお祖母さんも天保でしたから。』
 とお母さんは思い出した。
『八犬伝を御存じですか?お母さんは。』
『読みましたよ。』
『八犬伝は誰が書きましたか?』
『馬琴よ。一々試験ね?』
『今から百年前、馬琴が八犬伝を書いていた頃、英国にこの頃のような郵便が出来たと覚えていればよろしい。エヘン。』
『オホヽヽ。受売りでもそれぐらい頭に入っていれば結構ね。』
『お母さん。』
『何です?』
『お母さんはジェンナーのお話を御存じですか?』
『植疱瘡(うえぼうそう)でしょう?』
『感心々々。』
『困るわね。この子にも。』
『ジェンナーのお蔭で人間が何百万人助かっているか分らないんですって。それからマルコニのお話も聞きました。無線電信が出来てからは大抵の難船が助かるんですって。豪いものでしょう?』
『えゝ。』
『ジェンナーでもマルコニでもその何とかいう政治家でも皆人類の恩人ですって。』
『それはそうね。』
『僕、叔父さんのお話を聞いていると、何うしても世の中の為めになるような人間になりたいんです。それでなければ折角生まれて来た効(かい)がありません。』
 と銀次郎君は五郎助叔父さんから申分ない感化を受けているようだった。
 子供は年下から順々に帰って来る。お母さんは刻限を外さず、お茶の間に待っていて、何彼と労るのがお役目の一つだ。少し晩いと直ぐに心配をする。間もなく、
『唯今。』
 という声が聞こえて、福子さんと徳子さんが現われた。

『お母さん、唯今。』
『丁度ね。』
 とお母さんは時計を見上げた。帰ればおやつが出る。それを戴きながら、
『徳子さん、お母さんにおっしゃいよ。』
 と姉さんの福子さんが言った。しかし徳子さんは黙っている。
『何あに?』
 とお母さんが訊く。
『徳子さんは今日先生に叱られたんですって。』
『まあ!何うして?』
『徳子さん、おっしゃいよ。独りで心配していても仕方ないわ。』
『‥‥ ‥‥』
『私、申上げましょうか?』
『えゝ。』
 と徳子さんは面目なげに頷いた。
『お母さん、徳子さんは図画のお宿題を小池さんの姉さんに描いて戴いて出しましたのよ。』
『まあ!』
『小池さんもよ。そうして二人とも先生に見つかってしまったんですって。』
『徳子や、泣かなくてもいいのよ。』
 とお母さんは優しくおっしゃった。徳子さんはもうシクシクやっていた。
『小池さんが悪いのよ。徳子さんは誘惑されたんですわ。』
 と福子さんは妹の為めに弁解して、
『小池さんは時々姉さんに描いて戴いて好いお点を取っていたんですって。あの姉さんはそんなこと平気なのよ。徳子さんが遊びに上がった時、お裁縫のお宿題だってお母さんにして戴く人が多いんですからって、一枚描いて下すったんですわ。徳子さんだってお点が欲しいじゃありませんか?ついそれに名前を書いて出したんですわ。』
 と人に託(かづ)けた。小池さんとは家が隣り同志だから、始終往き来している。
『徳子や、お前、先生に何と申上げたの?』
『初めは‥‥』
『初めは?』
『私が描きましたって‥‥』
『小池さんも?』
『えゝ。そういう約束でしたから。』
『いけませんね。』
『‥‥ ‥‥』
『お隣りの姉さんは美術学校の生徒じゃありませんか?先生が御覧になれば直ぐに分りますわ。』
『えゝ。』
『お前達強情を張ったの?』
『えゝ。少し。』
『先生はお怒りになったでしょう?』
『いゝえ。「こんなにお上手なら、今度学校の創立記念会の時、来賓の方々の前で描いて戴きますから何うぞ」とニコニコなさいました。』
『それで?』
『私、小池さんのお顔を見ましたの。小池さんも私の顔を見ましたの。』
『分ってしまったのね?』
『えゝ。』
『叱られたでしょう?』
『えゝ。』
 と徳子さんは俯向いた。
『私、先生のところへお詫びに上がらなければなりませんよ。』
『‥‥ ‥‥』
『小池さんは何うなさるの?』
『お母さんが今晩あたり御相談にお出でになるかも知れません。』
『お母さん同志二人揃ってあやまりに出掛けますの?』
『‥‥ ‥‥』
『済んでしまったことはもう仕方ありませんけれど、これからは気をつけて下さいよ。幾らお点が欲しくても、狡い心を起しちゃいけません。』
 とお母さんは尚お諭し聴かせるところがあった。
 二人が立った後へ、金一郎君が帰って来た。
『唯今。』
 と正座したのは天晴れのお行儀だったが、
『お母さん、早くよ。』
 と急き立てた。ガツガツしている。洋菓子に紅茶、金一郎君は直ぐにありついた。
『金一郎や、お前はこの頃は何う?』
 とお母さんは序でをもって訊いて見た。
『何ですか?』
『御勉強の方よ。』
『しています。』
『叔父さんから習わなければ駄目でしょう?』
『さあ。』
『叔父さんのお話を聞いて、お前、何か感じるところはない?』
『ありません。』
 と金一郎はお菓子を頬張るばかりだった。
『仕方がないのね。』
『叔父さんのお話は面白いけれど、一向為めになりません。』
『何故?』
『貧乏な家に生まれて成功した人のことが多いんです。』
『結構じゃありませんか?』
『家は貧乏じゃないんですから、張合いがありません。』
『分らない人ね。お前は。家にお金があるなんて思っていると大間違いよ。』
『ないんですか?』
『ありません。』
『嘘だ。親が嘘をつくと家庭が悪くなりますよ。』
 と金一郎君は理屈を言い出した。
『お金のことなんか子供は考えるものじゃありません。ない積りで本気になって勉強したらいいでしょう。』
『はあ。』
『分って?』
『しかしお母さん、僕は条件があります。』

『何んな条件?』
『パテー・ベビーを買って戴きます。』
『何?パテー・ベビーって。』
『映画(フィルム)を撮る写真機(キャメラ)です。大橋君も泉谷君も持っています。』
『及第さえすれば、お父さんにお願いして買って上げますよ。』
 とお母さんは矢張り甘い。一も二もなく承知してしまった。しかし五郎助叔父さんの訓諭が未だ一向利いていないと思ったら心細くなった。
 金一郎君は勉強室へ引っ込んだ。夕刻亀どんと松どんがお店から帰って来た時、
『おいおい。』
 と窓から呼んだ。
『何か御用でございますか?』
『廻って来い。』
『へいへい。』
 と二人は入って来て、若主人の前に立った。
『お前達に頼みたいことがある。』
『へいへい。』
『僕は今夜活動を見に行く。』
『有難うございます。』
 と亀どんはもうお礼を言った。
『何だい?』
『お供でございましょう?』
『馬鹿を言え。』
『おやおや。』
 と松どんも当てが外れた。
『そうは問屋が卸さない。全権先生、ナカナカやかましいんだ。』
『御道理(ごもっとも)で。』
『亀どん。』
『へい。』
『お前は僕と丈(せい)の高さが同じぐらいだから丁度好い。』
『私だけお供でございますか?』
 と亀どんは何処までも欲張っている。
『そうじゃないよ。お前は今晩、僕の洋服を着て、この椅子に坐っているんだ。叔父さんは七時頃廻って来る。戸を開けて見て、「やっているね、よろしい」とおっしゃる。決して入って来ないから大丈夫だ。お前は一生懸命になって本を見ていればいい。振り向いちゃいけないよ。』
『へい。坊ちゃんの替玉を勤めるんでございますな?』
『そうさ。』
『かしこまりました。』

『僕はお前の着物を着て抜け出るんだ。活動を見に行くのに活動の手を使う。』
『トリックでございますな。』
『うむ。智慧があるだろう?』
『妙案でございますよ。』
『松どん。』
『へい。』
『お前にも頼みがある。』
『へいへい。』
『叔父さんがお前達の部屋へ廻って行って、亀どんがいないと感づくかも知れないから、そこを巧くやって貰いたい。』
『何う致しましょう?』
『亀どんは風邪を引いて早寝をしたと言え、隅の方へ亀どんの床を取って、何か入れてふくらませて置けばいい。』
『成程。』
『頭を壁の方へ向けて置かなければいけないよ。』
『そこは如才はございません。』
『五十銭づつ御褒美を上げる。』
『有難うございます。』
 と松どんが先づ手を出した。
 そこへ五郎助叔父さんが通りかゝった。大学の講義は昼前あったり昼過ぎあったりするので、帰る時刻が毎日一定しない。
『何をしているね?』
 と叔父さんは入口に立ち止まった。

『お帰りなさい。』
『お帰りなさいまし。』
『お帰りなさいまし。』
 と三人は少し慌てた。
『どれ。』
 と叔父さんは直ぐに行ってしまったが、金一郎君は、
『一寸拙かったね。』
 と首を傾げた。
『大丈夫でございますよ。』
 と松どんが保証した。
『しかし‥‥』
 と亀どんが言い淀んだ。
『何だい?』
『僕が丁度お金を戴いたところでしたから。』
『そこまでは気がつくまい。』
『しかしチラッと御覧になりましたぜ。』
『見たってお金だか何だか分りやしないよ。これだけ離れているんだもの。』
『しかし‥‥』
『しかししかしって何だい?』
 と金一郎君が癇癪を起した。
『この為めに私達が追ん出されるようなことになりはしませんかしら?』
『それは僕が引受ける。』
『しかし‥‥』
『又!』
『先生は黙っていらっしゃるけど怖いです。』
『よし。それなら頼まない。』
『いゝえ、坊ちゃん。』
『坊ちゃんなんて気に入らん。』
『若旦那。』
『それならやるか?』
『やります。』
『見つからなければいいんですから。』
 と亀どんは退っ引きならない。
『私もやります。』
 と松どんも引受けた。金一郎君は叔父さんが来てから一度も映画を見に行かない。到頭こらえ切れなくなって、冒険を企てたのである。

  似合うかい?
 夕食後、亀どんと松どんは金一郎君の部屋へ入って来た。無理な註文でも若主人の命令だから仕方がない。しかし茶目気分も手伝っている。映画の場面をそのまゝの替え玉をやろうというのだから面白い。
『松どんは入口で番をしていておくれ。』
 と金一郎君が言った。
『へい。』
『誰か来たら、「金一郎さまは?」とお前の方から先に訊くんだ。』
『へいへい。』
『戸によりかかっていて、「一寸御用があって来たんですけれど、お部屋にはいらっしゃいません。何処へお出でになったんでしょうか?」とごまかすんだ。』
『へいへい。へい。』
 と松どんは見張りの役を勤める。
 金一郎君は制服を脱いで、亀どんの着物に着替えた。丈(せい)の高さがほぼ同じだから丁度好い。

『似合うかい?』
『ハッハヽヽ。』
『何うだ?』
『お顔が綺麗過ぎます。』
 と亀どんは如才ない。
『それは生まれつきだから仕方がないよ。』
 と金一郎君は己惚れが強い。
 亀どんは金一郎君の制服を着たのが嬉しい。
『何うです?立派な中学生でございましょう。』
 と帽子まで被(かぶ)って見た。
『似合うぞ。』
『鏡を見せて下さい。』
『そんなものはないよ。』
『お玄関まで行って、見て来ましょうか?』
『馬鹿を言うな。お前はこの部屋から出ちゃいけないんだ。』
『おやおや。』
『こゝへ来い。』
『へい。』
『この椅子にかけて本を見ているんだ。教科書がいい。』
『何なら英語の本にして下さい。』
『読めるかい?』
『読めませんけれど、英語の方が中学生らしいでしょう?』
『それじゃこれを見ていろ。こう頬杖をついて。』
 と金一郎君は命じて、入口の方へ後じざりをして見て、
『首が曲がっている。もっと真直ぐに。』
『へい。』
『もっと。』
『へいへい。』
『行き過ぎた。』
『へい。これぐらいですか?』
『よろしい。』
『写真を写すようですな。』
『叔父さんの足音がしたら、その姿勢を忘れちゃいけないぞ。』
『へい。』
『これで安心。僕はもう行くぞ。』
『金一郎さま、まあまあ、お待ち下さい。』
 と亀どんは慌てて立ち上がった。
『何だい?』
『私はつい忘れものをしました。』
『何を?』
『はばかりながら尾籠ながら‥‥』
『えゝ?』
『こう坐って見たら、小用が出たくなりました。』
『厄介な奴だな。』
『三時間ぐらいかゝるんでしょうから、とても辛抱が出来ません。今の中に行って参ります。』
『そのなりで出ちゃ困るよ。仕方がない。着替えよう。』
『恐れ入ります。』
『世話を焼かせる奴だ。』
 と金一郎君は叱ったものゝ、留守中に出歩かれてはたまらないから、又着替え直すことにした。
 この間に、福子さんと徳子さんが縁側を通りかゝった。
『松どんはそんなところで何をしているの?』
 と福子さんが訊いた。松どんはお辞儀をしたばかりだった。二人はそのまま自分達の部屋へ入った。松どんは安心したが、間もなく、銀次郎君が通りかかって、
『松どん。』
 と呼んだ。
『へい。』
『何をしているんだ?』
『何もしていません。』
 と松どんは戸に寄りかかった。
『どけ。』
『いけませんよ。』
『僕は兄さんに用があるんだ。』
『お兄さんはいらっしゃいません。』
『いらっしゃらなくても、通せん棒をする法はないよ。』
 と銀次郎は理屈を言い出した。

『通せん棒じゃありません。』
『それじゃ何だ?』
『何でもありません。』
 と松どんはよりかゝり専門で動かない。そこへ中から亀どんが押した。
『おいおい、松どん。』
 と亀どんの声。
『いけないいけない。』
『いいんだよ。』
『いけないいけない。』
 と松どんは一生懸命だった。何方(どちら)も板越しには見えない。
『おいおい、松どん、いいんだよ。』
 と金一郎君の声が聞こえた。松どんは戸から離れたが、亀どんが、亀どんのままで出て来たから安心した。しかし銀次郎君は、
『此奴(こいつ)、嘘をついた。』
 と言いさま、松どんの頭をポカリと叩いて逃げ出した。
『こら!』
 と金一郎君は追う真似をした。但しこれは計略だった。こうして置けば、当分寄りつかない。
 もう日が暮れた。金一郎君は間もなく亀どんになりすまして、裏口から抜け出した。活動館までは可なりある。電車に乗ろうと思って停留場へ急いだ。亀どんは金一郎君の身代わりになって、自習を始めた。責任が重い。教えられた姿勢を忘れまいとして、時々やって見る。松どんも用意怠らない。部屋の片隅に亀どんの床を敷いたが、何うも膨らみが悪いから、戸棚から行李を出して寝かせた。
 金一郎君は電車に乗って一停留場走った頃、急に慌て始めた。亀どんと着替えた時、ポケットから蟇口を出さないで来てしまった。
『切符を切らせて戴きます。』
 と車掌が隣席の人に言ったので、初めて気がついたのだった。
『車掌さん。』
 と金一郎君は青くなって立ち上がった。
『切符を切らせて戴きます。』
『僕‥‥』
『何処でございますか?』
『僕、お金を忘れて来ましたから、降ろして下さい。』
『困りますね。』
『‥‥ ‥‥』
『何処から乗ったんですか?』
『この前の前です。』
『仕方がないな。この次で降りて下さい。』
 と車掌は怖い顔をして凝(じ)っと見つめた。

『小僧さん、何処まで行くんだい?』
 と隣席(となり)の人が訊いた。
『‥‥ ‥‥』
『おい。』
『もう降ります。』
 と金一郎君は降口の方へよろけて行って、停車すると直ぐ逃げるようにして降りて来た。好い恥をかいた。蟇口がなくては活動館どころではない。
『あゝ馬鹿を見た。』
 と呟いて、家の方へ引き返し始めた。
『矢っ張り悪いことはするものじゃない。』
 とお坊ちゃんだから後悔も早い。これでもう事済みになった積りだったが、家ではもっといけないことが起っていた。
 銀次郎君はスリッパの裏に蝋をつけて、縁側でスケートの真似をする。その晩もそれを始めて、
『やかましいわよ。自習時間中よ。』
 と徳子さんに叱られた。
『へいへい。へいへいのへい。』
『銀ちゃん!』
『もうしません。』
 と銀次郎君は諦めたが、同時に先刻兄さんに叱られたことを思い出して金一郎君の部屋の方へすべって行った。いたづらっ子だから凝っとしていられない。
『面白いぞ。五郎助叔父さんの真似をしてやろう。』
 と急に足音を立てて、金一郎君の部屋の戸を開けた。亀どんは一生懸命だった。
『やっているね。宜しい。』
 と銀次郎君は五郎助叔父さんの声色を使ったが、振り向かない。
『感心々々。』
『‥‥ ‥‥』
『これこれ、金一郎君。』
『‥‥ ‥‥』
『兄さん。』
『‥‥ ‥‥』
『兄公(にいこう)。』
『‥‥ ‥‥』
『トンチキ。』
『‥‥ ‥‥』
『此奴、居眠りしているんだな。』
 と銀次郎君は入って行った。亀どんは顔を見られると大変だから何うすることも出来ない。困惑の余り、いきなり、ガタンと机を叩いて、両手を挙げた。銀次郎君は逃げ出したが、追って来ないので、又覗き始めた。
『変だぞ、此奴はちっと。』
『‥‥ ‥‥』
『兄さん。兄公。』
『‥‥ ‥‥』
『トンチキ。やい、落第坊主!』
 とまでからかっても、一向手答えがない。入って行くと、ガタンと机を叩いて両手を挙げる。銀次郎君は姉さん達の部屋へ引き返して来た。

『銀ちゃん、うるさいわよ。』
 と福子さんが顔を顰めた。
『姉さん。』
『何よ?』
『金一郎坊主が変です。』
『そんな口がありますか?』
『兄さんが変です。』
『何うして?』
『幾ら呼んでも返辞をしません。』
『何をしていらっしゃるの?』
『本を読んでいます。』
『それなら大丈夫よ。』
『いゝえ、いつもの兄さんとは違うようです。僕がからかっても追っかけて来ません。』
『御飯を沢山上がって、動くのが厭なんでしょう。』
『時々体操の真似をするばかりです。』
『ふざけているのよ。』
『いいです。それじゃ僕独りで探検して来ます。』
 と銀次郎君は直ぐに庭へ下りた。軒下伝いに行くと、金一郎君の部屋の窓下へ出る。背伸びしてそこから覗いたら、亀どんの顔が見えた。
『おかしいぞ。』
 と銀次郎君は益々好奇心を催して、亀どんと松どんの部屋へ廻った。
『松どん。』
『へい。』
『亀どんはいるかい?』
『へい、居ります。』
『何処に?』
『そこに寢ています。』
 と松どんは予定の行動で寝床を指さした。
『何うしたんだい?』
『風邪を引きました。』
『ふうむ。』
『寒いと言って被(かぶ)っているんです。』
『変だね。』
『何が変でございますか?』
『今兄さんの部屋を覗いたら、亀どんの顔が見えた。』
『へゝえ。』
『僕は少し心配になって来たんだから、嘘をつかないでくれ。』
『嘘なんか決して申上げません。』
『それじゃそこに寢ているのは本当に亀どんだね?』
『本当でございますとも。』
『見てもいいかい?』
『いけません。』
『何故?』
『いけませんよ。風邪が移ります。』
『移ってもいいよ。』
『いけません。私が叱られます。』
『よし。それじゃ声を聞かせてくれ、亀どんの声を。』
 と銀次郎君は退っ引きさせない。
『亀どん。』
 と松どんも大切(だいじ)のところだ。
『‥‥ ‥‥』
『亀どん、何うだい?』
『‥‥ ‥‥』
『よく寢ていますよ。』
『起せ。』
『亀どん、坊ちゃんだ。おい。おいおい。おいってば。』
『松どん、もういいよ。』
『へい。何うしても起きません。』
『嘘をついても駄目だ。荒尾さんに言いつけてやるから、その積りでい給え。』
 と銀次郎君は又姉さん達の部屋へ引き返して、
『姉さん、大変ですよ。』
 と急き込んだ。
『うるさいのねえ。何よ?』
 と今度は徳子さんだった。
『兄さんが逃げ出しました。』
『馬鹿を仰有い。』
『いゝえ。この間から言っていたんです。お父さんやお母さんが叱ってばかりいるから、アメリカへ逃げて行って、カウ・ボーイになるんですって。』
『あれは冗談よ。』
『いゝえ。いません。兄さんの部屋へ行って、見て御覧なさい。』
『嘘をつくとひどいわよ。』
『本当です。』
 と銀次郎君は顔色を変えていた。部屋にいないから、逃げたのだと思った。逃げたのならアメリカだと思った。
 福子さんと徳子さんは金一郎君の部屋へ押しかけて、戸を開けた。
『いるじゃありませんか?』
 と福子さんは見たまゝを言った。
『あれは亀どんです。』
『でも、制服を着ているわ。』
『亀どんを替玉に置いて逃げて行ったんです。』
『まさか。』
『兄さん。兄さん。』
 と徳子さんが呼んだ。返辞がない。三人が進み寄った時、可哀そうに、中学生は机の上に顔を伏せた。
『あら、亀どんよ。』
『あらまあ!あらまあ!』
 と福子さんと徳子さんも呆れ返った。
 銀次郎君は茶の間に駆け込んで、
『お母さん、大変ですよ。』
 と訴えた。
『何あに?騒々しい人ね。』
『兄さんがアメリカへ逃げてしまいました。』
『え?』
『アメリカへ逃げたんです。早く来て下さい。』
『何処にいるの?』
『逃げたんですってば。慌てちゃいけません。』
『お前こそ慌てているわ。』
 とお母さんは銀次郎君に引っ張られて来て、金一郎君の部屋へ入った。
『お母さん。』
 と福子さんも徳子さんも呼びかけた。
『何て騒ぎをするの?お前達は。金一郎はそこにいるじゃありませんか?』
『これは亀どんよ。』
『亀どん?』
 とお母さんが初めて驚いて寄り進んだ時、亀どんはワーッと泣き出した。
『亀どんや。』
『‥‥ ‥‥』
『金一郎は何うしたの?金一郎は。』
『‥‥ ‥‥』
『泣かなくてもいいのよ。金一郎は?』
『金一郎様は‥‥』
『金一郎は?』
『私にこの制服を着せて‥‥』
『制服を着せて?』
『‥‥私の着物を着て。』
『お前の着物を着て?それから何うしたの?』
『申訳ありません。』
 と亀どんは又込み上げて来て、後はクックッと泣くばかりだった。

『これはこうしちゃいられません。誰か五郎助を呼んで来ておくれ、五郎助を。』
 とお母さんも騒ぎ始めた。
『はい。』
 と銀次郎君が駈けて行った。
『何うしたんですか?』
 と五郎助叔父さんは懐手(ふところで)をして出て来た。
『大変ですよ。金一郎がいなくなりました。』
『はゝあ。』
『亀どんと着物を取り替えて何処かへ行ってしまいました。』
『はゝあ。』
『私、この間から少し小言を言い過ごしたものですから、無分別を起したものかも知れませんよ。』
『はゝあ。』
『はゝあじゃありませんよ。』
『それはそれは。』
『それはそれはなんて他事(ひとごと)ね、お前は。』
『何処へ行ったんでしょうか?』
『それが分っていれば心配しませんよ。』
『アメリカかも知れませんわ。叔父さん。』
 と福子さんが言った。
『確かにその見当でしょう。』
『五郎助や。』
 とお母さんが睨んだ。
『フィルムのアメリカですよ。』
『何処の?』
『活動写真を見に行ったんですから、十時までにコッソリ帰って来ます。』
『それなら安心ですけれど。』
『亀どん。』
 と五郎助叔父さんが進み寄った。
『へい。』
『金一郎君は活動を見に行ったんだろう?』
『へい。』
『姉さん、何うですか?』
『矢っ張りお前は頭が好いわ。』
『鉄道往生に出掛けるなら、わざわざ小僧の着物を借りちゃ行きません。』
『まあ!縁起でもない。』
『ハッハヽヽ。』
『亀どん、お前もよくよくね。』
 とお母さんは今更腹が立った。
『まあまあ、姉さん、これは亀どんが悪いんじゃありません。』
『お前に言わせると、何でも金一郎が悪いんですからね。』
『金一郎君が買収したに定まっています。』
『何うですか分るもんですか。』
『亀どん。』
『へい。』
『幾ら貰った?』
『‥‥ ‥‥』
『五十銭だろう?』
『へい。』
 と亀どんは頭を掻いた。尚お取調べを続けているところへ、金一郎君がノッソリ姿を現した。縁側を警戒して来たが、部屋の中に皆揃っているとは思わなかったから、少なからず慌てたようだった。
『まあ!』
 とお母さん初め一同がお坊ちゃんの小僧拵えを笑った。
『おやおや、うまく取っ捉まった。』
 と金一郎君は今更逃げることも出来ない。額に手を当てて、少時恐縮していた。

  家中の騒ぎ
『金一郎や、その服装(なり)は何?』
 とお母さんは可笑しさも時の間で、直ぐお小言に移った。
『着替えます。』
『いゝえ、その方が似合いますよ。』
『‥‥ ‥‥』
『お茶の間へお出でなさい。』
『着替えます。おい、亀どん。』
『へい。』
『いや、亀どんもそのまゝの方が宜しい。』
 と五郎助叔父さんは笑っていた。

『しかしこれでは何でございますから、一寸着替えさせて戴きます。』
『君もその方が似合うよ。立派な中学生だ。』
『何う致しまして。』
『着替えちゃいけない。』
『金一郎さま、何う致しましょう?』
 と亀どんは金一郎君の制服を着て身の置きどころに困っている。
『金一郎、お出で。』
 ともう一方、お母さんが引き立てる。
『お母さん、着替えます。』
『いゝえ。そのまゝで結構よ。』
『しかしこれでは‥‥』
 と金一郎君も今更小僧さんの出立(いでたち)が見すぼらしい。
『姉さん。』
 と五郎助叔父さんが呼んだ。
『何あに?』
『今晩のことは多少家庭教師に責任がありますな。』
『今頃分ったの?』
『はあ。少々ながら監督不行届でした。』
『少々じゃありませんわ。』
『恐れ入りました。僕が責任を負って将来再びこういうことのないように厳しく訓戒を加えます。』
『それじゃそうして下さい。』
『その代り全権ですよ。』
『何うするの?』
『まあまあ、お委せ下さい。』
『腕力は駄目よ、五郎助。』
『姉さんはその通り甘いからいけません。』
『その通りって、お前、ひどいことをするんじゃないの?』
『さあ。』
『五郎助。』
 とお母さんは心配そうだった。
『言うことを聞かなければぶん撲ります。』
『まあ!』
『全権というお約束ですからね。』
 と五郎助叔父さんは暗に金一郎君を威かして置く必要を認めた。
『仕方ありませんわ。金一郎。』
『はあ。』
『叔父さんの仰有ることを聞かなければいけませんよ。』
『はあ。』
 と金一郎は頷いた。
『福子さんと徳子さんと銀次郎君は部屋へ帰って自習を続ける。』
 と五郎助叔父さんは皆に退去を命じた後、
『金一郎君。』
 と厳かに呼んだ。
『はあ。』
『十時までそのまゝ謹慎している。』
『はあ。』
『亀どんも同じことだ。』
『へい。』
『金一郎君が何と言っても、その制服を脱いではならん。』
『へい。』
『脱いだが最後、お払い箱だ。』
『へいへい。』
 と亀どんはひたすら恐縮していた。

『これでもういいの?』
 とお母さんは金一郎君の部屋を出てから訊いた。少し呆気(あっけ)ないようだった。
『いや、これから松どんです。』
『松どん?松どんが何をしたの?』
『一つ穴の狢(むじな)です。来て御覧なさい。一生懸命になって嘘をつきますから。』
 と五郎助叔父さんは先に立った。小僧部屋に着くと、いつもの通りに障子を開けて、
『何うだね?』
『へいへい。』
『やっているね。』
『へいへい。』
『亀どんは何うしたね?』
『風邪を引きました。』
『はゝあ。それはいけないね。』
『お先にと申して、もう寢ています。』
『何んな具合だね?』
『頭が痛いんです。』
『大切(だいじ)にしてやりなさいよ。』
『へいへい。』
『何なら荒尾さんに話して、風邪薬を飲ませなさい。』
『それにも及ばないと申しました。』
『宜しい。』
『へいへい。』
 と松どんはうまく切り抜けた積りだった。
 五郎助叔父さんはそのまゝ障子を閉じて、
『姉さん、何うですか?』
 としたり顔だった。
『呆れたものね。』
『チャンと打ち合せがしてあるんです。誰か寢ていますよ。』
『誰でしょう?』
『さあ。』
『女中でも頼んだでしょうか?』
『そうかも知れません。』
『五郎助や、誰ですか突き止めて下さい。』
『後から分りますよ。』
『いゝえ。女中が小僧部屋へ出入(ではい)りするようじゃ困りますわ。』
『御心配になるなら、女中の方を調べて御覧になったらいいでしょう。』
『そうね。』
 とお母さんは別れて、女中部屋は廻った。お文というのが水仕事をしていた。

『お文や。』
『はあ。』
『お兼は何うしたの?』
『今こゝに居りましたけれど‥‥』
『何処へ行ったの?』
『たった今までいたんですけれど‥‥』
 とお文は頻りにその辺を見廻した。
『お兼。』
『‥‥ ‥‥』
『お兼!』
『はあ。』
 と答えて、お兼は勝手口から現われた。塵(ごみ)を捨てに行ったと見えて、塵取(ちりとり)を持っていた。
『奥さま、御用でございますか?』
『いいのよ。いればいいのよ。』
 とお母さんは合点(がてん)が行ったが、松どんのお蔭でそうでもないものに疑いをかけたと思ったら、もう容赦がならない。
『松どん。』
 と小僧部屋の障子を開けた。
『へいへい。』
『亀どんは?』
『へいへい。』
『何うしたの?亀どんは。』
『風邪を引きました。』
『嘘をおつきなさい。そこに寢ているのは誰?』
『亀どんでございます。』
『お前は何処までも私を馬鹿にするの?』
『‥‥ ‥‥』
『亀どんはもう白状しましたよ。』
『奥さま。』
『何?』
『申訳ございません。』
『誰?寢ているのは。』
『人間じゃございません。』
 と松どんは掻巻(かいまき)を撥(はぐ)って、行李を見せた。

『お前のような嘘つきは、旦那さまに申上げて、お店へ帰してしまうから、その積りでいなさいよ。』
『奥さま。』
『何です?』
『金一郎さまに頼まれたんでございます。』
『‥‥ ‥‥』
『こうしていなければ矢っ張りお店へ帰してしまうとおっしゃるものですから。』
『泣かなくてもいいのよ。』
『‥‥ ‥‥』
『金一郎が頼んだにしても、お前だって悪いでしょう?』
『‥‥ ‥‥』
『泣いても仕方がないわ。よく考えて御覧なさい。』
『‥‥ ‥‥』
『見っともないよ。大きな体(なり)をして。』
 とお母さんは持て余した。松どんは大声を立てて泣き出したのである。お兼とお文が台所から出て来た。
『何うしたの?』
 と銀次郎君も縁側をすべって来て、
『やあ。行李だ。行李だ。』
 と先刻の秘密を発見した。
『何よ?銀ちゃん。』
 と福子さんと徳子さんも続いた。
『仕方がないわね。家中の騒ぎになってしまったわ。銀次郎や、叔父さんを呼んで来ておくれ。』
 とお母さんが頼んだ。五郎助叔父さんは笑いながらやって来た。
『おいおい、松どん。』
『あゝん、あゝあゝあゝ。』
『泣くんじゃないよ。』
『あゝん、あゝあゝあゝ。』
『困りものだなあ。』
『あゝん、あゝあゝあゝ。』
『姉さん、これは泣き出すとナカナカ止まない病気ですよ。』
『いつか亀どんと喧嘩した時もこんな風でしたわ。』
『ブレーキがこわれているんです。』
 と五郎助叔父さんも手のつけようがなかった。

 間もなくお母さんと叔父さんはお茶の間へ戻った。
『あら、まだ泣いているよ。』
 とお母さんは耳を傾げて、
『仕様のない子だね。お前、後から言い聞かしておくれ。』
『はあ。』
『見す見す私に嘘をつくような子ですからね。』
『しかし松どんよりも亀どんでしょう。』
『亀どんも無論いけませんよ。智慧があるだけ横着です。癖になるから、厳しく叱ってやっておくれ。』
『はあ。しかし亀どんよりも金一郎君でしょう。』
『張本人は金一郎です。いくら活動を見たいからといって、他に出て行きようもありましょう。あゝいう心掛けじゃ末が案じられます。私からも申しますから、お前からも充分説諭をしておくれ。』
『はあ。』
『こゝへ呼びましょうか?』
『しかし金一郎君よりも金一郎君の母親でしょう。』
『私?』
『はあ。』
『私が悪いの?』
『はあ。姉さんもいけませんが、姉さんよりも父親でしょう。』
『まあ!皆悪いのね?』
『はあ。』
 と五郎助叔父さんは澄ましていた。
『お前は?』
『私は少し責任があるだけです。』
『そうして悪くはないのね?』
『はあ。』
『お前に言わせれば、何うせ皆私達が悪いんですよ。』
『そうばかりでもありますまい。』
『何う?どれなら。』
『僕は一月分悪いんです。兄さんと姉さんは一七八年分お悪いんです。』
『分りましたよ、もう。』
『お怒りになっちゃ困ります。』
『いくら私でも怒りますよ。』
『これで姉さんと僕が喧嘩を始めれば、本当に家中の騒ぎですな。』
『五郎助や、お前、もっと親身になってくれない?』
 とお母さんはヤキモキした。
『金一郎君に小言を言わないのが御不服ですか?』
『当たり前じゃありませんか?自習時間中に抜け出されて知らないでいる家庭教師がありますか?』
『知っていたんですよ。』
『本当?』
『はあ。実は今日学校から帰って来た時、三人車座になって相談しているところへ通りかかったんです。』
『まあ!』
『罪な話ですが、一部始終を立聞きしました。亀どんも松どんも若主人の命令でよんどころなかったんです。』
『それは金一郎が悪いに定まっていますけれど、お前、知っていたのなら、止めてくれればいいじゃありませんか。』
『少し考えがありました。何れぐらいのところまでやるか、将来の参考の為め、突き止めたいと思ったんです。それで日が暮れてから散歩に出る風をして、外で待っていました。』
『矢っ張り親身ね。』
『停留場までついて行って、電車に乗るところを見届けて帰りました。しかし案外でしたよ。』
『何故?』
『金一郎は見ないで帰って来たんです。先方(むこう)に着いて、流石に入り兼ねたのでしょう。後悔して直ぐに引き返したんです。』
『私も活動にしては時間が早いと思っていましたの。』
『この分では充分脈があります。』
 と五郎助叔父さんはこの点だけ感違いをしていた。金一郎君は制服のポケットに蟇口を忘れて行ったので、お金がなかったから帰って来たのだった。成程、後悔はした。矢っ張り悪いことはするものじゃないと思ったに相違ないが、それは蟇口を持っていなかったからだった。
『それじゃ頭から叱りつけるのも考えものね。』
『もう充分後悔しています。』
『こゝへ呼んで、私から穏やかに言い聞かせてもう着替えさせましょうか?』
『さあ。』
『もうソロソロお父さんが帰って来ますよ。』
 とお母さんは金一郎君が可哀そうになった。
『丁度好いです。』
『何故?』
『あの姿をお目にかけます。』

『お目にかけて置いて叱るの?』
『一体こゝの家はお父さんが一番いけません。』
『又始まったのね。』
『責任のある小言を言ったことのない人です。』
『随分言っていますよ。』
『時折早く帰って来て晩酌をやりながら、「勉強しなけりゃいけないよ」なんて言っても、子供は承知しません。』
『でも本当に閑がないんですからね。』
『お金の方が大切ですから。』
『決してそんなことはないんですけれど。』
『親として、もっと感激のある小言を言って貰いたいものですな。』
『お前も精々言って下さいよ。』
『僕は駄目です。感激がないから、控えているんです。』
『何故ないの?』
『正直の話、金一郎君が何うなろうと痛痒を感じないんです。』
『不人情ね。』
『しかし事実だから仕方ありません。僕の子じゃないんですもの。ところがお父さんには自分の子です。後継者ですから、もっと感激のある小言が言える筈だと思います。』
『理屈はそうですけれど、お前は矢っ張り情愛が足りないのよ。』
『無論足りません。金一郎君のあの姿を見ても可笑しさが先に立ちます。しかしお父さんが御覧になったら、平気ではいられますまい。』
『私は情けなくなりましたよ。』
『僕も姉さんが泣き出すといけないと思って、無理に笑ってばかりいたんです。』
『それ御覧なさい。』
『お父さんだって同じことでしょう。若し平気でいて例の通り感激のない小言を言うようなら、余っ程の唐変木です。』
『口の憎い人ね。』
『今夜は親父(おやじ)の教育試験です。』
 と五郎助叔父さんはむづかしいことばかり言い出す。尚お話しているところへ自動車の警笛が聞こえた。
『お帰りですよ。』
 とお母さんが玄関へ急ぐ間に、五郎助叔父さんは金一郎君をお茶の間へ移して、亀どんを小僧部屋へ退けた。主人金兵衛さんは番頭の荒尾君を従えて戻った。
『お帰りなさいまし。』
 と子供達は起きている限り、出迎える習慣になっている。
『早かったろう。』
 ともう九時近くだったけれど、こゝのお父さんとしては晩くない方だった。直ぐにお茶の間は入って、
『誰だい?』
 と気がついた。金一郎君はかしこまって頭を下げていた。

『金一郎じゃないか?』
『お分かりになりまして?』
 とお母さんが訊いた。
『豪い風体(ふうてい)をしているじゃないか?』
『この服装(なり)で活動を見に出掛けたのでございますよ。』
『ふうむ。』
『叱って戴こうと思いまして、このまゝ御覧に入れます。亀どんに制服を着せて、部屋へ替玉を置いて行きました。銀次郎が見つけて、兄さんがアメリカへ逃げたって騒ぎでございましょう! 松どんは松どんで又‥‥』
『うるさいね。帰って来る早々。』
『‥‥ ‥‥』
『一日働いて草臥れているんだ。金一郎、もういい。彼方(あっち)へ行って寢ろ。』
『はあ。』
 と金一郎君は無罪放免の積りで立ちかけたが、
『お待ち。あなた。』
 とお母さんは両方へ声をかけた。
『何だい?』
『私がこんなに心配して申上げるのですから、お草臥れでもございましょうが、何とか仰有って下さらなければ困りますよ。』
『それなら言うさ。』
『五郎助も今夜はいつになく真剣になって今まで私と相談していたんですから、あれへの手前もございますわ。』
『よし。金一郎。』
『はあ。』
『これから気をつかなさい。』
『はあ。』
『お父さんは一日働いて家へ休みに帰って来るんだ。ここへ坐る早々お母さんに何だ彼んだと言われたんじゃ、うるさくて仕方がない。』
『はあ。』
『病気になってしまうよ。』
『はあ。』
『もっとしっかりしなければいけない。』
『はあ。』
『活動を見に行く閑があるなら勉強をする。』
 とお父さんは仕方なしに小言を続けたが、金一郎君の小僧仕立てをツクヅクと見つめて考え込んだ。五郎助叔父さんの言った通り、感激のない小言は感激を引き起こさない。金一郎君はお父さんが黙ったのでもう事済みと思って立ちかけた。
『待ちなさい。』
『はあ。』
『いいいい。もう行け。』
『はあ。』
 と金一郎君は仰せに従った。
『お鈴や。』
『何でございますか?』
『行ってしまったよ。』
『宜しいとおっしゃったからですわ。』
『張合いのない奴だ。明日(あした)ゆっくり言って聞かせる。俺(わし)はあの子のあの姿を見ていると何とも言えない心持ちになる。結局、あの通りに成り下がるんじゃなかろうかと思うと、こうしちゃいられない。五郎助さんを呼んでおくれ。』
 とお父さんは果して感激を示し始めた。

  日曜の朝
 金田家の子供は何んにつけても努力を欠く。朝、ナカナカ起きない。お母さんは、
『もうお起きなさいよ。学校が遅れますよ。』
 と言って、部屋部屋を廻って歩かなければならない。
『はい。』
 と返辞をしていさぎよく起きるのは銀次郎君だけだ。福子さんと徳子さんは、
『はい。唯今。』
 と答えてから、可なり手間を取る。金一郎君に至っては、揺すぶらないと、目を覚さない。
『まだ早いです。』
『早いことはありませんよ。』
『五分早いです。』
 なぞと腕時計を見て苦情をつける。朝起の順も成績順と同じように年順のアベコベになっている。

『家では僕が一番早い。矢っ張り違うなあ。何でも僕が一番だよ。』
 と銀次郎君は自慢をする。これに対して或日福子さんが不服を唱えた。
『小学校の時は誰でも早いのよ。尋常一年を御覧なさい。』
『僕は五年だよ。』
『五年でもいいから、一年を御覧なさい。学校へ一番早く来るのは、一年生よ。』
『何でい?』
『小さい時ほど早く起きるものよ。』
『何でい?』
『何でいとは何?』
『でい?』
『赤ん坊が一番早いわ。お隣の赤ちゃんを御覧なさい。お母さんと一緒に起きて世話を焼かせるわ。』
 と福子さんは道理を説いた。
『何でい?生意気。』
『銀ちゃん、それは何て口?もう一遍言って御覧。』
『二度言うと風邪を引く。』
『自分こそ生意気よ。』
『無論生意気さ。人間は皆生で生きている。』
 と銀次郎君は学校友達から覚えて来たことを一々家で応用する。
『本当に厭な子ね。』
 と徳子さんが相手になった。
『お前の弟だよ。』
『お前とは何?』
『分らなければアンチョコを見る。』
『銀ちゃん。』
『へいへい。』
『馬鹿よ、この子は、余っ程。』
『何でもいいよ。朝起をしないものは出世ができない。』
『小学校とは違うわ。』
『何が違う?』
『女学校へ入るととても睡いわ。皆そう言っているわ。』
『そんなことがあるものか。』
『分らなければいいのよ。』
『分らなくてもいいことにしているものは進歩しない。』
『女学生は小学生なんかよりも睡いのよ。睡いから小学生よりも朝晩いのよ。』
『そんなことはないと言っている。』
『あるかないか、兄さんに訊いて御覧なさい。』
『兄さんは女学生じゃないよ。』
『中学生でも同じことよ。すべて中等学校は小学校よりも睡いわ。幼稚園上がりと違います。今や大人へ向けて発育の真っ盛りですから、草臥れるんです。随ってよく休まないといけません。小学生の与(あずか)り知るところにあらず。』
『おしゃべりだなあ。とても敵わない。』
 と銀次郎君は諦めた。
 日曜の朝、お父さんは大層早く起きた。実は前夜よく寢られなかったのである。五郎助叔父さんの差金通り、金一郎君の小僧姿が感激を与えたのだった。お父さんも日曜はゆっくりの方だから、お母さんは、
『大変お早いんでございますね。』
 と怪しんだ。
『親がお手本を示さなければいけない。』
『まあ、早速でございますわね。』
『いや、実は昨夜(ゆうべ)は金一郎の行く末が案じられて、オチオチ休めなかたんだよ。』
 とお父さんは顔の色が冴えなかった。頻りに首を振っている。
『何うかなさいましたの?』
『頭の中で脳味噌が動いている。』
『まさか。』
『いや、寢が足らないとコトンコトンいう。』
『私も暁方(あけがた)少しトロトロしたばかりですわ。』
『利くよ、五郎助さんがひどいことを言うんだもの。』
『あれは遠慮をしませんから。』
 とお母さんも前夜晩くまで相談したのだった。
『遠慮なく言って貰う方がいいさ。大いに参考になった。』
『黙っていても、あれで中々よく見ているんですからね。』
『本当に今が大切のところだ。うっかりしちゃいられないよ。』
『あなた今朝金一郎にお小言を仰有るんでございますか?』
『うむ。言い聞かせる。金一郎ばかりじゃないよ。』
『徳子もこの間のことがございますから。』
『うむ。徳子ばかりじゃないよ。』
『福子は成績が悪うございますから。』
『福子ばかりじゃない。』
『まあ。五郎助の真似?』
『銀次郎もあのまゝじゃいけない。増長して、馬鹿になると困る。』
『あの子は利巧ですから直ぐに分りますわ。』
『まあまあ、俺に委せて置きなさい。俺だって教育家だ。』
『あなたが?』
『馬鹿にしなさんな。』
『訊いたんですわ。唯。』
『お前も教育家だ。』
『私?』
『親は皆子供の教育家だ。俺は始終その心得だけれど、商売の方が忙しいので思うに委せない。しかし今日から実行する。』
 とお父さんは発心(ほっしん)したようだった。
『私も心掛けますわ。』
『この上とも精々やっておくれ。今までは万事、お前委せで済まなかった。』
『いゝえ、お忙しいんですもの。』
『それが悪いと五郎助さんが言っている。』
『五郎助の言う通りにしていたら商売が出来ませんわ。』
『少し理想に走るね。』
『えゝ。』
『しかし全権だから、命令通りにしないと御機嫌が悪かろう。』
『案外平気よ。あれで道理(わけ)は分っているんですから。』
『そうらしいね。』
『あなた、もうお顔はお済みになりまして?』
『いや、忘れていた。顔を洗わないで説諭をする教育家はなかろう。』
『オホヽ、それじゃ何うぞ。』
『よしよし。』
『まだ六時よ。日曜にこんなに早くお起きになったことはいつにもございませんわ。』
 とお母さんは感心していた。
 間もなく銀次郎君が起きた。姉さん達や兄さんより早く寝るから早く目が覚める。顔を洗うと直ぐに、
『お早うございます。』
 とお茶の間へ挨拶に来た。
『早いね。』
 とお父さんが応じた。
『あゝ、吃驚した。』
『何うして?』
『お父さんが起きていらっしゃるんですもの。』
『ハッハヽヽ。』
『僕は一番の積りでした。』
 と銀次郎君は小首を傾げた。
『いつもこの子が一番でございますの。世話を焼かさずに起きるのは、この子だけでございますわ。』
 とお母さんが推称した。
『感心々々。』
『日曜でも油断しちゃ駄目です。』
『そうとも。』
『それに日曜はすっかり遊べるんですから、寝坊しちゃ損です。』
『成程、うまいことを言う。』
『お父さん、新聞はまだ参りませんか?』
『まだ来ない。』
『見て参りましょう。』
 と銀次郎君は褒められたい一心で大いに努める。姉さん党を相手に迴して口喧嘩をする時とはすっかり違っている。
 お父さんは火鉢の側で長いこと新聞を見ていた後、
『どうだね?皆はまだ起きないのかい?』
 と訊いた。
『はあ。』
『晩いね?』
『起しましょうか?』
 とお母さんはもうソロソロその必要を認めていた。
『俺が起す。』
 とお父さんが立ち上がった。日曜漫画を見ていた銀次郎君は、
『面白いぞ。』
 と言って、ついて行く。

 お父さんは先づ福子さんと徳子さんの部屋を開けて、
『おいおい。』
 と呼んだ、返辞がない。
『もう起きるんだよ。』
『‥‥ ‥‥』
『起きなさいよ。晩くなるよ。』
『お母さん、日曜よ。』
 と徳子さんは掻巻を被ってしまった。
『日曜でも、もう晩いよ。』
『‥‥ ‥‥』
『徳子や。』
『知りませんよ。』
『御挨拶だね。徳子や。』
『お母さん、何の恨みがあって、私ばかり起すの?』
『これはナカナカ手厳しいぞ。』
 とお父さんは笑いながら、
『福子や、福子。』
 と呼んだ。
『‥‥ ‥‥』
『福子。』
『知らない!』
 と福子さんも被ってしまった。
『仕方のない奴等だな。』
 とお父さんは呆れて、金一郎君の部屋へ行った。銀次郎君はその間に徳子さんの側へ寄って、
『姉さん、姉さん。』
 と揺すぶった。
『何よ?うるさい!』
『今のはお父さんだよ。』
『嘘。』
『本当だよ。後で叱られるよ。』
『まあ!』
 と徳子さんは目を開いた。
『面白い面白い。』
 と銀次郎君は笑って出て来た。
『金一郎や。』
 とお父さんが呼んでいた。
『‥‥ ‥‥』
『起きなさいよ。』
『日曜だもの。うゝん。』
『俺だよ。』
『うゝん。』
 と金一郎君は目を閉じたまま拳を振った。男の子は荒い。
『危ない奴だな。』
『お父さんに言いつけたから、今日は起きてやらない。』
『おい、金一郎。』
 とお父さんは耳元で声を励ました。
『うゝん。』
『おい!』
『あッ、お父さんですか?』
『起きなさい。』
『はあ。』
 と金一郎君は起き直って、
『お早うございます。』
 と言った。
『もっと早く起きなければいけないよ。』
『はあ。』
『お父さんはいつも晩いけれど、大人は用があって夜更かしする。子供は風の子だ。』
『はあ。』
『宜しい。
 とお父さんはそれ以上咎めなかった。普段朝起きを実行していないから、強いことが言えない。甚だ不便だと思った。
『お父さん、お早うございます。』
 と福子さんと徳子さんが挨拶した時も同じことだった。
『お早う。起されたら直ぐに起きなければいけないよ。』
『はあ。』
『お父さんはいつも晩いけれど、大人は用があって夜更かしをする。子供は風の子だ。』
『はあ。』
『宜しい。』
 とお父さんはお小言が極く下手だ。風の子は寒がらないだけだ。朝起きをするという意味は入っていない。
 朝御飯は五郎助叔父さんも一緒だった。
『兄さんも今朝はお早うございましたな。』
 と五郎助君が言った通り、朝の食卓に一同揃うことは珍しい。
『今朝から実践躬行(じっせんきゅうこう)ですよ。ハッハヽヽ。』
『結構です。』
『しかし程度問題ですな。少し早過ぎました。』
『はゝあ。』
『頭の中で脳味噌がゴトゴト言っています。』
 とお父さんは首を振って見せた。
『叔父さん。』
 と銀次郎君が食卓を距てて呼んだ。
『何だね?』
『今朝は面白かったですよ。』
『何が?』
『お父さんが皆を起したんです。すると皆は‥‥』
『銀次郎や。』
 とお母さんが睨む真似をした。
『はあ。』
『御飯を戴きながらおしゃべりをしちゃいけません。』
『はあ。』
 と銀次郎君は仕方なしに黙ったが、間もなく又、
『面白いなあ。』
 と我れを忘れた。
『‥‥ ‥‥』
『とても面白いんだ。』
『何が面白いの?銀ちゃん。』
 と徳子さんがお母さんの方を見ながら訊いた。この二人は並んでいるから、いつも問題を起す。

『面白いから面白いのさ。』
『何がよ。』
『皆叱られたから。』
『銀ちゃんは人が叱られると嬉しいの。』
『うむ。』
 と銀次郎君は頷いた。
『何故?』
『何故でも。』
『何故でもじゃ分らないわ。』
『分らなければアンチョコを御覧と言っている。』
『そんなことアンチョコに書いてないわよ。道理(わけ)をおっしゃい。』
『御飯中におしゃべりをするものじゃない。』
『いいわよ。おっしゃいよ。』
 と徳子さんは肩で押した。
『喧嘩をしちゃいけませんよ。』
 とお母さんが注意したので、二人はそのまゝ黙った。しかし今度は顔で喧嘩を始めた。双方少時、怖い目をしたり頬を歪めたりして秘術を尽くし合った。
『徳子さん。』
 と五郎助叔父さんが呼びかけた。
『はあ。』
『アンチョコって何ですか?』
『さあ。』
 と徳子さんは福子さんと顔を見合わせた。

『福子さん、知っている?』
『私‥‥』
『ハッハヽヽ。』
 と銀次郎君が笑い出した拍子に噎(む)せて、
『お行儀が悪いのね。』
 とお母さんに窘(たしな)められたが、
『もう済んだんですもの。』
 と弁解して又笑った。
『銀次郎君は知っているだろう?』
 と叔父さんが訊いた。
『知っています。』
『何だね?』
『こんな小さな本です。』
『何が書いてありますか?』
『姉さん、持って来ましょうか?』
 と銀次郎君は徳子さんに相談をかけた。
『覚えていらっしゃいよ。』
『いけない?』
『知らない!』
 と徳子さんは怒っていた。
『算術のアンチョコ、理科のアンチョコ、英語のアンチョコ。』
 と銀次郎君は枚挙し始めた。
『ふうむ。』
『何でもアンチョコがあるんです。』
『成程。』
『それを一寸見ると勉強なんかしなくてもいいんですって。』
『はてね。』
『しかし僕の方は困ります。アンチョコがありません。』
『成程。そんな調法なものが出来ているのかね。』
 と五郎助叔父さんは家庭教師として大いに考えなければならない問題に行き当った。
『兄さんも‥‥』
 と銀次郎君は尚お話す積りだったけれど、金一郎君が拳固(げんこ)を出して見せたので、そのまゝ口を噤(つぐ)んだ。
『金一郎君。』
 と五郎助叔父さんが向き直った。
『はあ。』
『後でそのアンチョコってのを一つ見せてくれ給え。』
『はあ。』
 と金一郎君は頭を掻いていた。
 徳子さんの主張した通り、中等学校は小学校と異なって睡(ねむ)がる年頃に当る。同時に兔角怠けたがる時代だ。智慧がついているだけに簡便法を心掛ける。一々考えたり辞書を引いたりするのを面倒がる。この弱点につけ入って、本屋が教科書の解説をした小冊子を発行している。これをアンチョコと呼ぶ。安直に下調べが出来るからであろう。尚お蟻の甘きにつく如く生徒が甚だ好むから、アメチョコの称もある。
『アンチョコなんか見ちゃいけませんよ。』
 と先生も御存じだ。しかし生徒は少しでも楽をしたがる。金田家の子供は有らゆるアンチョコを揃えている。
 もう食事が終って、お父さんは居間へ退いた。お母さんも姿を見せない。五郎助叔父さんが腕組みをして考え込んでいるものだから、子供達もお相伴で立ち兼ねていた。
『面白いなあ。』
 と銀次郎君が又やり出した。
『何が面白いの?さあ、おっしゃいよ。道理(わけ)をおっしゃい。』
 と徳子さんが銀次郎君の手を捉まえた。
『内証だよ、兄さんに。』
『えゝ。』
『今朝はこれから兄さんがお父さんに叱られる。今にお母さんが呼びに来る。』
 と銀次郎君が囁いた。
『何よ?』
 と福子さんが徳子さんの口元へ耳を寄せた。丁度その時、お母さんが入って来て、
『銀次郎や。』
 と呼んだ。
『はあ。』
『一寸お父さんのところへお出で。』
『僕じゃないでしょう?』
『お前よ。一寸お出でなさい。』
『変だな、変だな。』
 と銀次郎君は立って行った。

  お小言総勘定
『お母さん、僕、叱られるの?』
 と銀次郎君が訊いた。
『いゝえ。』
『何?それじゃ。』
『少しお話があるのよ。』
 とお母さんが答えた時、二人はもうお父さんの居間の前へ来ていた。
『金治郎や。』
 とお父さんが呼んだ。銀次郎君はお母さんと一緒に入って行った。
『そこにお坐り。』
『はあ。』
 と銀次郎君は坐って、膝に手を置いた。
『小言じゃないよ。』
『はあ。』
『お前は学校の方が好いから安心だ。』
『先生が僕だけはきっと一中へ入れるとおっしゃるんです。』
『結構だ。』
『六年になれば、準備をしますから、もっと力がつきましょう。』
『一生懸命でやっておくれ。』
『大丈夫の積りです。兄さんや姉さん達のように私立へなんか入りません。僕は一年から五年まで‥‥』
『銀次郎や。』
 とお母さんが遮った。
『はあ。』
『お前は成績が好いけれど、それがいけないのよ。』
『何ですか?』
『兄さんや姉さん達を馬鹿にしちゃいけません。』
『はあ。』
『銀次郎や、お前はそれがいけない。』
 とお父さんはお母さんの真似をして、
『兄さんは兄さん、姉さん達は姉さん達、後から生まれて来たものは弟だ。』
 と甚だ当然のことを言った。
『分っています。』
『兄さんや姉さん達には一目置かなければいけないよ。』
『はあ。』
『もういいかな?これで。』
『あなた。』
 とお母さんが頤でしゃくった。
『まだあるよ。銀次郎や。』
『はあ。』
『お前は成績が好くても自慢をしちゃいけない。』
『自慢は智慧の行き止まりです。』
『分っているね。』
『しかし‥‥』
『何だね?』
『腕力じゃ敵いませんから、つい学問を出すんです。』
『学問も叔父さんぐらいなら兎に角、尋常五年じゃ出しても仕方がない。出さない方がいいよ。』
『はあ。その代り手を出します。』
『手も成るたけ出さない方がいいな。』
『しかし姉さん達が組になって僕にからかうんですもの。生存競争上仕方ありません。』
『豪いことを知っているね。』
『本当にひどいんです。』
『姉さん達には又言って聞かせるから、喧嘩をしないようにする。』
『はあ。』
『お鈴や、もういいだろう?後口があるんだから。』
 とお父さんはお母さんに相談した。これは頼まれて小言を言っているんだと、銀次郎君はもう察してしまった。
『亀どんや松どんを苛(いじ)めて困りますのよ、この子は。』
 とお母さんは序(ついで)をもって、もう少し所望した。
『奉公人に構っちゃいけないよ。』
『亀どんも松どんも皆の見ていないところで僕にからかうんです。生意気で仕方ありません。』
『矢っ張り子供だからね。』
『何方(どっち)が悪いか、女中達に訊いて見ても分ります。』
『よしよし。荒尾に話して置く。』
 とお父さんは真(まこと)に下手だ。
『それからこの子はいたづらをして困りますのよ。』
 とお母さんは一々数え立てる。
『いたづらをしちゃいけないよ。』
『はあ。』
『そうそう。銀次郎や。』
『何ですか?』
『この掛軸に色鉛筆でいたづらをしたのはお前だろう?』
『‥‥ ‥‥』
『何うだね?兎の目が赤く塗ってある。』
『僕です。』
 と銀次郎君は恐れ入る外なかった。

『いつこんなことをした?』
『ついこの間です。悪いことをしたと思って、後からゴムで消したんです。』
『尚おいけない。こんなに汚くなってしまった。』
『‥‥ ‥‥』
『床の間には何んな大切(だいじ)なものが置いてあるかも知れないんだから、手をつけちゃいけない。』
『はあ。これから気をつけます。』
『もう宜しい。』
 とお父さんは堪忍してくれた。
 銀次郎君は罷り退ると直ぐに、姉さん達の部屋へ行った。
『叱られて?』
 と徳子さんが訊いた。
『うむ。』
『可哀そうにね。』
『稀(たま)にはお薬よ。』
 と福子さんが言った。
『そうね、オホヽヽヽ。』
 と徳子さんも笑った。
『何でい?』
『又始まった。』
『でい?』
『それだから叱られるのよ。好い気味(きび)だわ。』
『ヘッヘヽヽだ。ハッハヽヽ。』
『何が可笑しいの?』
『今に見ていて御覧。』
『何よ?』
『そらそら。』
 と銀次郎君が振り返った時、お母さんが現われて、
『福子と徳子、一寸お出でなさい。』
 と呼んだ。
『お薬お薬!』
 と叫んで銀次郎君は逃げて行った。

 お父さんは福子さんと徳子さんが席についた時、まだ考えていた。叱るばかりではいけない。自(おのづか)ら納得の行くように言い聞かせようと思って肝胆を砕いていた。
『あなた。』
 とお母さんが催促した。
『よしよし。福子も徳子もよく聞きなさいよ。』
『はあ。』
『世の中には三本の木がある。何れも大切だ。知っているかい?』
『存じません。』
 と福子さんがお辞儀をした。
『徳子は何うだい?大切の木が三本ある。』
『存じません。』
 と徳子さんも同様だった。
『宜しい。今日お父さんが修身科を教えて上げる。小言じゃないから、よく聞きなさい。』
『はあ。』
『世の中には三本の木があって、その一本は朝起きという木だ。この朝起きという木が大切(だいじ)だよ。お前達は朝もっと早く起きなければいけない。朝起三文の徳。これは知っているだろう?』
『はあ。』
『徳子は?』
『存じて居ります。』
『俺(わし)も今日から朝起きをする。自分が朝寝をしていて子供に朝起きを勧めても仕方がない。今までは考え違いをしていた。子供は風の子だから自然に早く起きると思っていたが、それではいけない。』
『‥‥ ‥‥』
『これからは毎日お前達と一緒に起きる。』
『私も早く起きます。』
『私も。』
 と福子さんと徳子さんは恐れ入った。実行の伴う教訓には動かされざるを得ない。
『もう一本の木は正直という木だ。これが又大切だ。人間は正直でないと信用がつかない。』
『はあ。』
『お父さんは若い頃から正直者で通っている。嘘は決してついたことがない。これだけは俺がこのまゝお手本になる。なあ、お鈴。』
『はあ。もっとも私だって嘘なんかついたことはございませんよ。』
 とお母さんが主張した。
『お母さんもお手本さ。二人とも正直だから、この通り家が繁昌して行く。正直の頭に神宿る。正直ほど便利なものはない。嘘さえつかなければ、もうそれでいいんだからね。ちっとも骨が折れない。これはお父さんとお母さんをお手本にしてお前達も心掛けておくれ。』
『はあ。』
『もう一本の木は先刻から考えているんだが、確か根気という木だと思った。
 とお父さんは元来自分の頭で拵え上げた教訓でない。有り合わせを使っているのだから、少々覚束ない。
『そうでございましょうよ。』
 とお母さんも聞き覚えがあった。
『根気にして置こう。何でもそんな木だった。人間は根気がないと成功しない。つまり辛抱だね。』
『はあ。』
『いや、辛抱とは少し違う。根だよ。』
『はあ。分っています。』
『学校の勉強にしても根が足りないと駄目だ。何うだね?一つお父さんと根競(こんくら)べをして見ようか?』
『オホヽ。とても敵いませんわ。』
『いや、根は年寄りよりも若い者の方が強い。試して見よう。』
 とお父さんは火鉢から火箸を取って、
『この火箸の頭を一心に見ている。根は一心不乱になる力だからね。いつまでも瞬きをしない人が勝ちさ。いいかい?こういう具合に。』
 とお父さんが模範を示した。
『あら、もうなすったわ。』
 と徳子さんが笑った。
『三人でやって見よう。お鈴、お前もおやり。』
『駄目よ、あなた。』
『何故?』
『お小言だかお遊びだか分らないじゃありませんか?』
 とお母さんが少々不服のようだったが、仕方なしに仲間に入った。お父さんは火箸を畳の敷き合せへ突立てて、又説明した。
『いいかい?一二三。』
 と親子四人、火箸の頭をじっと睨み始めた。お母さんは笑い出して直ぐに落伍。お父さんも昨夜ロクロク寢なかったと言っているくらいだから、間もなく瞬きをした。福子さんと徳子さんは真剣だった。長いこと目を見張っていて、結局、福子さんが勝った。文字通り一瞬の差だったので、
『もう一遍。』
 と徳子さんが申入れた。
『よし。』
 とお父さんが応じた。
『今度は負けませんよ。』
 とお母さんも我れを忘れて本気になった。甘い方ではお父さんに負けない。しかし問題にならなかった。今回は徳子さんが余裕綽々として勝った。
『もう一遍。』
 と福子さんが所望した。又徳子さんが勝って、
『もうアンコールはなしよ。』
 と断ったが、福子さんは、
『厭よ。もう一遍よ。』
 と承知しない。根っきり葉っきりということになって、福子さんが勝つと、
『厭よ、姉さん、もう一遍よ。』
 と徳子さんがせがむ。
『彼方へ行って部屋でやりなさい。』
 とお父さんはお小言を忘れてしまった。
『駄目ね、あなたは。』
『矢っ張り甘いんだね。』
『尻切れ蜻蛉(とんぼ)でございますわ。』
『何あに、あれでいいんだよ。ガミガミ言ったって仕方がない。俺の心持ちは充分通じている。』
『今度は金一郎でございますよ。』
『これは厳重にやる。今までのは小手調べさ。呼んでお出で。』
『はあ。』
 とお母さんもそれからそれと忙しい。
 福子さんと徳子さんは部屋へ戻った。
『姉さん、決勝戦よ。』
 と徳子さんが挑んだ。
『睨みっこにしましょう。』
『いいわ。』
『さあ。』
『変な顔をして笑わせっこなしよ。』
『それは技術よ。』
『じゃ私も笑わせて上げるわ。』
『この一戦よ。さあ。』
 と福子さんが先づ搆えて、又根競べが始まった。丁度そこへ五郎助叔父さんが入って来て、
『何をしているの?』
 と驚いた。しかし側見(わきみ)をすると負けになるから、二人は一生懸命だった。
『勝ったわ。勝ったわ。』
 と徳子さんが叫んだ。

『ノウ・カウントよ、今のは。』
『狡(ずる)いわ。』
『いゝえ、叔父さんがお出でになったからノウ・カウントよ。』
 と福子さんは向き直って、
『いらっしゃい。何うぞ。』
 と座布団を薦めた。
『睨みっこ?』
『根競べよ。』
『大変なところを見られちゃったわ。』
 と徳子さんは顔を掩(おお)った。
『結構ですよ。叔父さんが審判官(アンパイヤ)になるから、もう一遍やって御覧。』
 と五郎助君は坐り込んだ。
『厭、私。』
『何故?』
『睨むと器量が悪くなるから。』
 と徳子さんは両手で顔を払った。徳子さんは器量自慢だ。女中に、
『お前、家で一番器量の好い人を知っている?』
 と度々訊く。
『ハッハヽヽ。』
 と叔父さんは大笑いをして、
『面白い話があるんですよ。睨みっこで思い出しました。』
 と言った。
『何?叔父さん。』
『何んなお話?』
 と二人は早速要求した。
『或る会で皆が余興に可笑しな顔の競演をやったんです。男も女もいました。一番変な顔をした人に賞品を出します。一人の紳士が一同を見渡せるところに席を占めて、審査員になりました。皆一等賞に有りつこうと思って一生懸命に顔の筋肉を歪めていました。』
『馬鹿な人達ね。』
 と徳子さんには想像がつかない。
『アベコベね、心掛けが。』
 と福子さんも不服だった。
『そこが余興です。審査員は一人の淑女を成績優秀と認めました。ツカツカと進み寄って、「奥さま、あたたが一等賞でございます」と言ったら、その奥さん、怒ったの何のってありません。賞品を突っぱねて、「私、入っていやしませんのよ」ってんです。それが普段の顔だったんです。』
『まあ!』
『オホヽヽヽ。』
『面白いでしょう?』
 と五郎助叔父さんはその辺を見廻した。

『叔父さん、もっと何か話して頂戴。』
『ねえ、叔父さん。』
 と二人は好いことにして、ねだり始めた。
『いいでしょう?叔父さん。』
『日曜よ、今日は。』
『いけません。』
『あら、何故?』
『今日は小言を言いに来たんです。』
 と五郎助君は矢張り机の辺を見ている。
『叔父さん、それ、何?』
 と福子さんは五郎助叔父さんの懐(ふところ)からはみ出している書物に気がついた。

『アンチョコ没取。』
『はあ?』
『今日のお役目はアンチョコの没取です。さあキリキリ出しなさい。』
『まあ!』
『今、金一郎君のところからこれだけ召し上げて来ました。』
 と五郎助叔父さんは懐から出して見せて、
『さあ。福子さん徳子さん。有りったけ皆戴きましょう。』
 と手を出した。二人は顔を見合わせたけれど、何とも仕様がない。各自(めいめい)本箱や机の引出に忍ばせて置いた教科書の解説を取り出した。叔父さんはそれを一々検(あらた)めて、
『これは私が皆破って掃溜へ捨ててしまいます。』
 と汚いものでも扱うように言った。
『はあ。』
『出来ても出来なくても自力でやらなければいけません。』
『はあ。』
『幾ら考えても分らないところがあったら、叔父さんが教えて上げます。』
『はあ。』
『学問に近道はありません。手間をかけるほど、深く頭に入るんです。こんなものを頼りにして一時凌ぎばかりしているから力がつかないんです。』
『はあ。』
『金一郎君とも約束して来ましたが、明日からはすっかりやり方を変えますよ。』
『はあ。』
 と二人はお辞儀をするばかりだった。
『今朝、お父さんから何かお話がありましたか?』
『はあ。ございました。』
 と福子さんが答えた。
『二人とも感心だとおっしゃいましたか?』
『いゝえ、叱られました。』
『何て?』
『朝起きをしなければいけませんて。』
『結構ですな。まだありましたろう?』
『人間は正直にしなければいけませんて。』
『それですよ。先生がいけないとおっしゃるものを見て、見ない風をしているのは不正直というものです。』
『はあ。』
『まだあったでしょう?徳子さん。何うでした?』
『人間は根気が大切(たいせつ)ですって。』
 と徳子さんが答えた。
『結構ですな。お互い凡人は鈍根に鞭打つより外ありません。それからまだあったでしょう?』
『もうそれだけでした。』
『それなら私がこれから熟(とく)と申上げましょう。』
 と五郎助叔父さんは威儀を正した。

  勉強部屋
 或る晩、自習を始める時、姉さんの福子さんが、
『つまらないわね。』
 とこぼした。向き合いの机に坐っていた妹の徳子さんは何とも答えなかった。
『叔父さんは急に厳しくなりましたわ。』
『‥‥ ‥‥』
『徳子さん。』
『はあ。』
 と徳子さんは教科書から顔を上げた。
『あなたは何が気に入らないの?』
『何あに?姉さん。』
『ツンツンしているじゃありませんか?』
『そんなことありませんわ。』
『なければ直ぐ御返辞をなすったらいいでしょう。』
『はあ。』
『もういいわ。』
 と福子さんの方が却ってツンツンした。
『私に当ったって仕方ないわ。』
『‥‥ ‥‥』
『皆兄さんのお蔭よ。』
『‥‥ ‥‥』
『誰だって勉強なんかしたかないわ。』
 と、徳子さんも好い心掛けだった。
 福子さんは英語のリーダーを拡げた。音読はお互いの迷惑になるから、控える約束になっている。
『徳子さん。』
『はあ。』
『その辞書、頂戴。』
『英和?』
『えゝ。』
『はい。』
『有難う。』
 と福子さんは辞書をはぐり始めた。
『大変ね。』
『知らない字を一々引くんですからね。』
『福子さん、アンチョコ時代はもう去りました。』
『何を言っているのよ。』
『覚悟をなさい。学問に近道はありません。』
 と徳子さんは五郎助叔父さんの声色を使ったのだった。
『本当に厳しいわ。厭になってしまうわ。』
『手間をかけるほど、よく頭へ入ります。』
『アンチョコ時代なら英語でも十五分よ。精々二十分だわ。』
『一々辞書を引いていると一時間以上かかってね。』
『スピード時代に逆行しているわ。』
『皆兄さんのお蔭よ。』
『銀ちゃんのお蔭もあるわ。』
『損ね、私達。』
『今気がついたの?』
 と福子さんはもう辞書の方がお留守になっていた。
『えゝ。』
『それだから鈍感ってのよ。』
『ひどいわ。』
『一体なら私達ぐらいの成績は世間並みよ。そう好い人ばかりはありませんわ。ビリッコケになっても叱る方が無理よ。席順は一人で一つですから、四十五人いれば四十五番になる人がきっとある筈よ。』
『そうね。本当に。』
『私、この間から考えているのよ。』
『何を?』
『一体先生も学校も無理ですわ。きっとビリになる人があるようにして置きながら、ビリにならないようにっておっしゃるんですもの。』
『本当ね。』
『落し穴を拵えて置いて、落ちないように落ちないようにとおっしゃるのも同じことよ。』
『席順なんかよしてしまうといいわね。』
『よせば甲乙丙丁か何かでしょう?矢っ張り同じことよ。丁になる人があるような仕掛けを拵えて置いて、丁になるな丁になるなとおっしゃるんですから。』
『本当ね。』
 と徳子さんは一々同感だった。

『四十五番まで下がっちゃ大変ですけれど、あなたぐらいなら先づ当たり前よ。』
『私もそう思っていますわ。』
『私ぐらいでも先づ先づの当たり前よ。』
 と福子さんは先づを二つつける必要があった。
『当たり前ですわ。』
『落第さえしなければ、当たり前の家なら問題になんかならないんですけれど、家は違いますわ。銀ちゃんがよく出来るでしょう?』
『えゝ。』
『それで銀ちゃんのように成績が好くならなければいけないって責められます。』
『銀ちゃんのいる前でおっしゃるものですから、銀ちゃんが好い気になるんですわ。』
『家では好い人を褒め過ぎて、悪い人を叱り過ぎるのよ。その影響が此方へ来るのよ。兄さんと来たら、四十何番だか知りませんが、又危ないんでしょう。それですから、兄さんのように成績が悪くなるといけないから勉強するようにって。』
『上からと下からね。』
『それだから損よ。』
『生まれ合わせが悪いのね。』
 と徳子さんは教科書の頁(ページ)をはぐった。
 自習が一時間ばかり続いた時、五郎助叔父さんが、
『何うだね?』
 と言って入って来た。この頃は見廻るばかりでない。坐り込んで、
『何をやっているんですか?』
 と訊く。
『英語の訳です。』
 と福子さんが答えた。
『下読みですか?』
『はあ。』
『分りますか?』
『はあ。』
『どれ。』
 と叔父さんは教科書を手に取って見て、
『こゝからこゝまで訳して御覧なさい。』
 と註文した。福子さんは訳し始めたが、つかえてしまった。
『こゝのところが分りません。』
『分らなければそのまゝにして、先をやって御覧なさい。』
『はあ。』
 と福子さんは五六行訳して又つかえた。
『分らないところはぬかして、その先。』
『はあ。』
『又分らないかね?その先。』
『はあ。』
『今度は調子が好いぜ。おやおや。違った。』
『はあ?』
『こゝはそういう意味じゃありません。話すのを止めたんじゃない。話す為めに止まった。話をする為めに今していることを止めたという意味です。この形は間違い易い。話すのを止めたという時には‥‥』
 と叔父さんは丁寧に説明して、
『その先。』
 と命じた。
『こゝまでしか読んでありません。』
『大変倹約をしたんですね。』
『倹約って次第(わけ)でもないんですが、一々辞書を引くものですから。』
『手間のかゝるほど、よく頭へ入りますよ。』
『はあ。』
『もう半頁おやりなさい。折角こゝまでやって置いて、先の方が当ると何んにもなりませんよ。』
『やりますけれど、叔父さん、今分らなかったところを教えて下さい。』
『分らなかったところは幾度も読んで考えて見る。この間申上げた通り、読書百遍意義おのづから通じます。』
『百遍なんて。』
『百遍は支那人の法螺です。十遍で宜しい。前後の関係を考えて、十遍読んで御覧なさい。』
『はあ。』
『二十遍なら尚お結構です。』
『はあ。』
『三十遍なら申分ありません。』
『もう分りました。』
 と福子さんは慌てゝお辞儀をした。素直にお相手をしていれば、四十遍五十遍と仰せつけ兼ねない。徳子さんは聞いていて可笑しかったと見えて、
『オホヽ。』
 と笑った。
『徳子さん。』
 と叔父さんが呼んだ。
『はあ。』
『あなたは何をやっていますか?』
『地理です。』
『他に何がありますか?明日は。』
『代数と英語の訳がございます。』
『やりましたか?』
『まだです。やさしいものからと思いまして。』
『むづかしいものから先にやる方がいいですよ。』
『はあ。』
『九時に又来ますから、代数と英語の訳をやってお置きなさい。』
『はあ。』
 と徳子さんは地理の教科書を仕舞って、代数の教科書を取り出した。

『試験はいつからですか?』
『来月の十日ごろからです。』
『それじゃもうソロソロ支度にかからなければいけませんね。』
『はあ。』
『試験勉強が利く方ですか?』
『利かない方です。いつも徹夜をするんですけれど。』
『普段よくやって置けば、そんなに慌てることはありません。徹夜は損ですよ。』
『はあ。』
『夜寝ないと、朝、頭が利きません。十時十一時と試験最中が一番いけません。昼からソロソロ回復して来るんですから。』
『はあ。』
『や、話し込んで勉強の邪魔をしちゃいけない。九時に又来ますから、分らないところへ記号(しるし)をつけて置いて下さい。徳子さんも福子さんも。いいですか?』
 と念を押して、叔父さんは出て行った。
『徳子さん。』
 と福子さんは教科書の上へ乗り出した。
『何あに?姉さん。』
『叔父さんは駄目ね。』
『何故?』
『肝心要(かんじんかなめ)の分らないところを教えて下さらないんですもの。』
『三十遍考えるのよ。読むのよ。』
『分らないものは何遍読んでも考えても分りませんわ。教えるのが先生です。家庭で教えるから家庭教師でしょう?あれじゃ家庭教師の役が勤まりませんわ。』
『芳沢先生とはやり方が違ってね。』
『事によると知らないのよ。分らないのよ、自分にも。』
『まさか。』
『自分の知らないところは具合が悪いものだから、考えて見ろとおっしゃるんじゃないでしょうか?』
『大学生ですもの。そんなことはないでしょう。』
『学校で教わってしまってから、「そうです。その通りです」って教えて下さるんですもの。あれはその間に研究して置くんですわ。』
『でも、もう少しのところまで教えて下さることもありますわ。』
『そのもう少しから先のところがアヤフヤだからおっしゃらないんでしょう。』
『兎に角、芳沢先生よりも厳しいわね。』
『とてもよ。それでいて、考えろ考えろとおっしゃるだけでナカナカ教えてくれないんですから駄目よ。兄さんも言っていましたわ。』
『何て?』
『横暴ですって。』
『それは叔父さんだから御遠慮がないんですわ。』
『叔父さんだから堪忍しているんですけれど、当り前の先生なら、もう疾(と)うに追っ払いですって。』
『芳沢先生の前の小島先生は兄さんが追っ払ったも同じことですわね。』
『あの先生も厳しかったわ。』
『あら、又お話を始めてしまって。』
 と徳子さんは代数の問題に戻った。
『兄さんは陰弁慶(かげべんけい)よ。』
『‥‥ ‥‥』
『陰で威張っても、叔父さんの前へ出ると、鼠っ子のように小さくなってしまって、頭が上がらないんですもの。』
『‥‥ ‥‥』
『徳子さん。』
『はあ。』
『あなたは悪い癖ね。』
『悪い癖って、姉さん、勉強しなければ、叔父さんに叱られるじゃありませんか?』
『あなたも陰弁慶よ。』
『女の弁慶があって?』
『あってよ。そこに坐っているわ。陰で威張るものは男でも女でも陰弁慶よ。』
『私、何を威張って?』
『叔父さんの悪口をおっしゃったわ。』
『いつ?』
『今?』
『姉さんこそおっしゃったわ。』
『‥‥ ‥‥』
『姉さん。』
『‥‥ ‥‥』
『御勉強?』
『はあ。』
『随分勝手ね、姉さんは。』
『足音がするわよ。』
 と福子さんは忙しそうに辞書を引き始めた。
『どうだね?』
 とそこへ銀次郎君が障子を開けて顔を出した。叔父さんの真似だ。二人は毎度のことだから相手にならない。
『やっているかね?』
『‥‥ ‥‥』

『感心韓信、股くぐり。』
『うるさいわよ、銀ちゃん。彼方へ行って御勉強なさい。』
 と徳子さんがいつも撃退係を勤める。
『僕はもう明後日(あさって)の分まで済んでいる。』
『‥‥ ‥‥』
『手廻しが早いだろう?』
『済んだら寢るのよ、子供は。』
『愛嬌がねえな。』
『銀ちゃん、それは何て口のきき方?』
『そんな怖い顔をすると、器量が悪くなって、お嫁に行けないよ。』
 と銀次郎君は喧嘩でもいいから、相手になって貰いたいのだった。

『銀ちゃん!』
『何でございますか?』
『お母さんに言いつけますよ?』
『お茶の間へ行って御覧、兄さんが泣いている。』
『何うしたの?』
『叔父さんが厳しくてとても続かないって。』
『本当?』
『模範生が嘘なんかつくものか。』
『徳子さん、相手になっちゃ駄目よ。』
 と福子さんが注意したけれど、徳子さんは、
『若し嘘だったら何うして?』
 と本気になった。
『千万円上げる。』
『それが嘘じゃないの。一円五十銭ぐらいしか持っていないくせに。』
『本当に本当だ。叔父さんが厳し過ぎるって。』
『それじゃ行って見るわ。嘘だったら承知しませんよ。』
 と徳子さんは到頭釣り出された。銀次郎君と二人でお茶の間へ忍び寄ると、お母さんと金一郎君の声が聞こえた。
『そら。』
『泣いちゃいないわ。』
『男が泣くものか。』
『まあ!』
『そら。』
『怒っているのね。何のお話?』
『五郎助叔父さんが厳しくて‥‥』
『大きな声を出しちゃ駄目よ。』
『ハッハヽヽ。』
 と銀次郎君は逃げ出して、小僧部屋の方へ向った。
 一番上の金一郎君は亀どんの着物を着て活動を見に出掛けて以来、すっかり叔父さんの信用がなくなってしまった。叔父さんはその折、
『この分では本人が自発的に来るのを待っていても果てしがありません。高圧的にやりますよ。』
 とお母さんに断った。
『ミッチリやって下さい。その為お前を頼んだんですから。』
『承知しました。』
『私、黙っていたけれど、お前のやり方が少し手ぬるいと思っていましたのよ。』
『今度は見ていて御覧なさい。』
 と叔父さんは全然方針を更(か)えてかかった。金一郎君は素よりのこと、福子さんも徳子さんもその為め昨今ナカナカ骨が折れる。
 甘いお母さんはソロソロ見るに忍びなくなった。
『何うだね?少し精が出過ぎやしないの?』
 と水を向けるような訊き方をしたものだから、金一郎君は早速、
『とても身体(からだ)が続きませんよ。僕は医者から腺病質だと言われているんですから。』
 と威かして、毎日のように苦情を鳴らし始めた。しかし金一郎君の口ばかりでは本当のことが分らないから、お母さんは福子さんと徳子さんを呼んで、
『何んな具合?』
 と訊いて見た。
『とてもよ。』
『とても何う?』
『とても厳しいのよ。』
『分らないところを三十遍も読ませるのよ。』
『そうして教えて下さらないで、考えろ考えろっておっしゃるのよ。』
『ですから手間が取れますのよ。』
『スピード時代の逆行ね。』
『十一時頃までのことがあってよ。』
『勉強して身体が悪くなるような人間は生きていても何うせ仕方がないんですって。ねえ、徳子さん。』
『えゝ。お前達は低能だから死んでしまえとおっしゃらないばかりよ。』
 と二人は口々に訴えた。無論苦しまぎれでおまけがついている。

 お母さんは一部始終を聴き取って、お父さんに相談した。
『矢っ張り餅は餅屋だ。兎に角、皆一生懸命になり始めたじゃないか。』
 とお父さんは相変わらず忙しいながらも承知していた。
『薬が利き過ぎやしませんかと存じまして。』
『何あに、五郎助さんだって自分の甥姪だ。無理はしやしない。』
『大丈夫でございましょうか?』
『心配なら、それとなく話して、少し加減をして貰うさ。』
『そう致しましょうよ。金一郎はあの通り弱いんですから。』
『病気になられちゃ困る。』
『五郎助は金一郎でも福子でも徳子でも大学生扱いですからね。程度が分らないんですわ。』
『学者だから常識が真(ほん)の五分ほど短い。そう言うとお前は怒るけれど。』
『いゝえ、怒りはしませんよ。私から申します。』
『しかし全権だよ。』
『それとなく話します。』
 とお母さんも矢っ張り学問の近道が欲しかった。

  試験前
 子供達は皆学校へ出払ってしまった。お父さんはいつもの通り、
『それじゃ行って来るよ。』
 と言って御機嫌よく店へ出掛けた。その後、お母さんは五郎助君の部屋の前に立って、
『五郎助や。』
 と呼んだ。
『はあ。あゝあゝあゝ。お入りなさい。』
 と五郎助叔父さんが内(なか)から答えた。
『あら!』
 とお母さんは驚いた。五郎助君は炭斗(すみとり)をひっくりかえして、畳の上にこぼれ散った炭を拾っていた。
『大変大変。』
『そゝっかしい人ね。』
『姉さんが悪いんですよ。』
『まあ!何うして?』
『いきなり呼ぶんですもの。吃驚して起きたんです。』
『寢ていたの?』
『はあ。身体は横にしていましたが、眠っていたんじゃありません。ウツラウツラと瞑想に耽っていたんです。』
『もう打っちゃって置きなさいよ。女中に取らせますから。お兼!お文!早く来ておくれ。』
『いや。自分で蹴飛ばしたんですから。』
 と五郎助君は両手の掌(たなごころ)で如何にも不器用に炭粉を掬い始めた。

『手が汚れますよ。』
『何あに。』
『お文!お兼!』
『大丈夫です。』
『あら!着物で拭いてしまって。』
『ハッハヽヽ。』
『奥さま。』
 とそこへお兼とお文が駈けつけた。
『箒(ほうき)を持って来なくちゃ駄目よ。』
『はいはい。』
『気の利かない人達の揃いね。それから塵取よ。』
 とお母さんが命じた。
『姉さんは随分御無理ですな。』
『何故?』
『こゝの家の女中は呼ばれたら箒を持って来るのが掟(おきて)になっているんですか?』
『お前は揚げ足取りが上手ね。』
『そういう次第(わけ)でもないんですけれど。』
 と五郎助君はもう一つ床の間の辺まで転がって行った炭を見つけて拾った。女中達は引き返して来て、
『御免下さい。』
 と早速後掃除(あとそうじ)に取りかゝった。
『五郎助や、あっちへ来ない?』
『何か御用ですか?』
『これってこともありませんが、お前、睡いんでしょう?』
『いゝえ。昨夜(ゆうべ)二時頃まで勉強したものですから、今朝少し頭がボンヤリして瞑想に耽っていたんです。』
『大学では座睡(いねむり)のことを瞑想と申しますの?』
『ハッハヽヽ。』
『何う?』
『降参しました。』
『睡いならお茶を一服上げましょう。』
『はあ。』
 と五郎助君はお茶の間へついて行った。
 お母さんは薄茶を立てて五郎助君の前へ置いた。
『何ですか?これは。』
『薄茶よ。』
『はあ。茶の湯ですな。何うも変なことをすると思っていました。』
『初めて?』
『はあ。これには飲み方があるんでしょう?』
『むづかしいことを言えば限(き)りがありませんわ。飲み好いようにして飲んで御覧なさい。』
 とお母さんはニコニコ笑っている。
『茶の湯ぐらい恐れません。戴きます。』
 と五郎助君は一口に飲み乾して、
『少し苦いですな。』
 と顔をしかめた。
『お菓子を戴きながら飲むものよ。』
『そうでしたか。』
『このお菓子を紙に取って。』
『紙は持っていませんから、ハンカチで間に合わせます。』
『いけませんよ。』
 とお母さんは紙を渡して、もう一服立てる。
『ナカナカ手間のかかるものですな。戴きます。』
 と五郎助君は又一口に飲み尽くした。
『何う?』
『今度はうまかったです。もう一杯。』
『一服ってものよ。』
『もう一服。』
『突き出すのはひどいわ。』
『何うするんですか?』
『そこへ置くのよ。』
『はあ。置きました。』
『この茶碗は好いでしょう?』
『そうそう。褒めるんですってね。』
『無理に褒めなくてもいいのよ。』
 とお母さんは又立てた。五郎助君は又一口に飲み乾す。ビールか何かと思っている。しかし六服目に、
『姉さん、これは一体何服飲むものですか?』
 と疑問を起した。
『御所望だけ立てますの。』
『実はもうお腹がダブダブして来ました。』
『それならお茶碗をゆすいでいる中に、「満腹でございます」と言うものよ。』
『分りました。この次に申しましょう。』
『これは私が戴いてもいいわ。』
『いや。方式通りやります。』
『六服なんてレコード破りよ。』
『構いません。』
『強情ね。』
 とお母さんが六服目を立てて出すと、五郎助君も今度は骨が折れた。漸くのことで飲み乾して、
『本当にもう満腹でございます。ゲーイ。』
 と告白した。


『お行儀の悪いお客さまね。』
『ハッハヽヽ。』
『睡気が覚めて?』
『はあ。姉さん、もう満腹でございますよ。』
『これは私が戴くのよ。』
『ゲーイ。』
『仕方のない人ね。』
 とお母さんは一心に茶筅を動かしていた。
『有難うございました。もう失礼します。』
『学校へいらっしゃる?』
『いや。今日はお昼からです。』
『それじゃ少しお話しなさいな。』
『飲み逃げも風が悪いですな。』
 と五郎助君はそのまゝ落ちついた。お母さんは一服模範的に啜って見せて、
『時に五郎助や。』
 とこれから註文がある。
『何ですか!姉さん。』
『他のことでもありませんが、子供達の勉強は何んな具合ですか?』
『皆一生懸命です。キュウキュウ言っています。見込みがありますよ。』
『随分骨が折れるようね。』
『いや。一向。』
『でも毎晩十時十一時までやるじゃありませんか?大変でしょう?』
『何あに。僕はこの通り丈夫ですから平気です。』
『お前のことじゃないのよ。子供達のことよ。』
『はゝあ。』
『家の子供はお前と違って、皆それぞれ弱いんですからね。金一郎なんかは小さい時から腺病質で、よくあれまでに育ったと思うくらいよ。気をつけなければいけないって、始終お医者さまに言われているんですからね。』
『しかし丈(せい)も高いし、血色も好いじゃありませんか?』
『見かけ倒しよ。幅がありませんわ。』
『上へ伸びる盛りです。今から兄さんのようにデブちゃんになっちゃ大変ですよ。』
『口が悪いのね。』
『失敬しました。』
『丈夫そうに見えても、生来が弱いんですから、直ぐに疲れますわ。』
『実際、根気はありませんな。』
『温室育ちですからね。余所(よそ)の子供と一緒になりませんわ。』
『体格は兎に角、頭は全く温室育ちです。あれじゃいけません。』
『それってのが小さい時から弱かったからですわ。病気で休む度に少しづつ後れたのが積り積もっているから苦しいんです。』
『その分は一遍落第して決算がついている筈です。』
『いゝえ、三年と四年で随分休んでいるんですからね。』
『それじゃ、もう一遍落第すれば丁度よくなります。』
『五郎助や。』
『はあ。』
『お前は金一郎の先生じゃないの?』
『先生ですけれど、本人の力がそんなに足りないんじゃ仕方がありません。』
『そこをお前が側についていて補ってくれる約束じゃないの?』
『精々やっています。』
『でも叔父さんの教え方はスピード時代の逆行だって皆言っていますよ。』
『はゝあ。流石に姉さんのお子さん達です。』
『何故?』
『うまいことを申します。』
『感していちゃ駄目よ。』
『スピード時代の逆行!成程。確かにそうかも知れません。』
 と五郎助君は自ら認めた。
『無論お前にはお前の法があるんでしょうけれど、先の芳沢さんは噛んで含めるようにして教えてくれましたから、子供達も少し加減が違うんでしょう。』
『僕のは噛み方から教えるんです。』
『それも結構よ。』
『手間がかゝる代わりに学問の味を覚えて自力がつくんです。』
『お前に委せてあるんだから、註文はつけませんが、及第だけはさせてやって下さい。』
『はあ。』
『福子ももう五六番上がれば結構ですわ。』
『承知しました。』
『徳子は今のままでもいいのよ。銀次郎は全甲の一番ですから、もう上へ行きっこありません。』
『好いのが悪くならないように、悪いのが好くなるようにと、これでもナカナカ苦心しているんです。姉さんは金一郎君が苦情を言っても受けつけちゃいけません。』
『別に苦情は申しませんけれど、唯苦しいんですって。』
『勉強がですか?』
『えゝ。今までが今までですからね。お前が真(ほん)の心持調子を下(おろ)して、もう少し楽に勉強が出来るようにしてくれゝばいいのよ。』
『低能扱いにするんですか?』
『そうじゃありませんよ。何分身体の弱い子ですからね。』
 とお母さんは折り入って頼まなければならなかった。
 それから程なく月が更(かわ)って学期試験が近づいた。五郎助叔父さんは自分の勉強を其方(そっち)のけにして活躍し始めた。夜分は皆の自習室を彼方此方と往復して、席の温まる暇がない。
『徳子さん、その問題が出来れば、後のこれとこれとこれは同じようなものですから、もう抜かしても宜しい。』
 という辺は一寸スピード時代式だけれど、肝心のその問題を容易に解いてくれない。
『‥‥ ‥‥』
『考えて御覧なさい。』
『先刻からやっているんですけれど、何うしても出来ません。』
『出来ないことはないですよ。前の頁のこれが出来たんですから。』
『もう少し考えて見ます。』
 と徳子さんは仕方なしに代数の問題と組討ちをしてイヨイヨ敵わなくなった時、初めて助けて貰う。
『福子さん。』
『はあ。』
『書取りをやりましょう。』
『まだこゝの訳が分りませんのよ。』
『考えましたか?』
『はあ。先刻から。』
『分らないままでいいですから、そこを書取りでやって見ましょう。一遍書取るのは十遍読むぐらいに当ります。読書百遍。』
『はあ。』
 と福子さんも叔父さんが直ぐに口授を始めるから拠(よんどこ)ろない。英語の書取りに一生懸命でペンを走らせる。
『拝見します。』
 と五郎助叔父さんは仔細に目を通して、
『よく読んであったと見えて出来が好いですよ。この字とこの字が違っているだけです。本に合せてお直しなさい。』
 と命じてから、初めて訳の説明をしてくれる。
『有難うございました。』
『分りましたか?』
『よく分りました。』
『今度は埋め込みをやりましょう。』
『叔父さん、埋め込みなんてもの学校じゃ致しませんのよ。』
 と福子さんはこれがいつも不服だ。埋め込みというのは叔父さんの独得の教授法である。英語の文章の要点になっているところを彼方此方消して置いて、そこを元通りに埋めさせる。意味がよく分っていない限り出来よう筈がない。これは本当に理解しているか何うかの吟味と見えた。

『金一郎君、何うだね?』
『やっています。』
『もう出来たろう?』
『いや。何うしても出来ないんです。』
『半分ばかり出来ているじゃないか?それじゃね。』
 と五郎助叔父さんは教科書の頁をはぐり返して、
『こゝからこゝまでと、それからこゝからこゝまでを、よく読んで見給え。』
 と可なり多量の復習を仰せつけた。
『これは先学期のところです。』
『先学期のところが分っていないから、分り悪いんだよ。よく読んで見給え。』
『はあ。』
『お父さんもお母さんも君のことを頭が悪いと言っているけれど、大変な見当違いだ。先刻の問題だって、前の方を読んだら、直ぐ出来たじゃないか?』
『はあ。』
『頭は好いんだ。努力が足りないんだ。この問題が石で十(とお)叩いて砕けるものなら、君は五つ六つ叩いて、駄目だと思い込むからいけない。さあ、もう一息だ。前の方を読んで見給え。』
『はあ。』
 と金一郎君は腕時計を見た。
『もう時間がないかね?』
『十一時半です。』
『よし。それじゃ説明しよう。』
 と五郎助叔父さんは教えるまでに長いこと考えさせる。
 銀次郎君は叔父さんの手を煩わすまでもない。自分で予習をして早く寝てしまう。徳子さん福子さん金一郎君と年順の逆にそれぞれ叔父さんの教授法から得るところと苦しむところがあった。苦しむところは即ち得るところだけれど、そんな理屈は遊びたい盛りの年頃には分らない。
『お母さん、僕はとても続きません。』
 と金一郎君は又お母さんに訴えた。
『そんな我儘を言っちゃ駄目よ。少し加減をしてくれるようにって頼んであるんですから。』
『加減どころじゃありませんよ。激しくなるばかりです。』
『それはもう試験前だからでしょう。先だって試験前は時によると徹夜までして勉強したじゃありませんか?』
『あれは試験勉強です。叔父さんのは唯の勉強ですから、骨を折っても損です。』
『勉強して損なんてことはありませんよ。』
『兎に角、毎晩十二時までやるんですから、病気になります。』
『何処か悪いの?』
『まだ何ともありませんが、これがこのまゝもう一週間続いて御覧なさい。丁度試験最中に病気になりますよ。』
『その時はその時ですわ。』
『それじゃ病気になってもいいんですか?』
『仕方がないじゃありませんか?』
『死んでもいいんですか?』
『いいわ、勉強の為めなら。』
 とお母さんも五郎助君に言われているから強く出た。

『それならもういいです。』
『何うするの?』
『お母さんのお望み通りにして上げます。』
『何うするのよ?』
『新聞を見ると、無理に勉強させられて死ぬ学生がありますからね。』
『金一郎や。』
『はあ。何ですか?』
 と金一郎は駈引きがある。お母さんを威かす積りだ。
『馬鹿なことをお言いでないよ。』
『はあ。』
『冗談にもそんなことを。』
『僕だって命は惜しいですから、無理に死にはしません。』
『無理に死なれて溜まるものですか。』
『しかし病気になれば死ぬかも知れません。』
『叔父さんも考えていらっしゃるんですから、病気になるようなことはしませんよ。まあまあ辛抱して御覧なさい。イヨイヨ続かなくなったら、お父さんとも相談して上げますから。』
 とお母さんは宥(なだ)めすかす外に道がなかった。
 福子さんと徳子さんも苦情を言っていたが、或日、学校から帰ると直ぐに、徳子さんが、
『お母さん、私、今日先生に褒められましたの。』
 と顔を輝かした。
『まあ!それはよかったわね。何うしたの?』
『英語の時間でした。真田さんて人が当って、何うしても出来ないところがございましたの。先生は「何方(どなた)でもお分かりの人」って皆にお訊きになりました。大島さんて子がいますわ。厭な人よ。とても厭な人よ。私、大嫌い。』
『その大島さんが何うしたの?』
『いつも出来る振りをする人ですから、直ぐに手を挙げました。先生が「大島さん」ってお指しになると、立って答えましたが、まるっきり違っていますの。馬鹿よ、あの人、余っ程。』
『他(ひと)のことは何うでもいいわ。』
『それから先生が「皆さん、よく考えて御覧なさい」と仰有った時、私、分りましたの。そこは昨夜叔父さんがよく考えて御覧なさいと仰有って教えて下さらなかったところでしたから、私、考えていましたの。先生が「皆さん、よく考えて御覧なさい」と仰有った拍子に、パッと頭の中が明るくなったような心持がして、意味がすっかりわかりましたの。嬉しかったわ。』
『それだけ?』
『いゝえ、先生が「金田さん」とお呼びになりました。私がニッコリしたものですから、お目に止まったんでしょう。「金田さん、お分かりになって?」お訊きになりましたから、私は立って答えました。すっかり当っていたんです。「よくお出来になりました」って。』
『まあ!よかったわね。』
『まだありますのよ。「金田さんはこの頃大変御勉強のようね」って。私、得意よ。鼻がこんな。オホヽヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
『その時間中ニコニコしていましたわ。』
『矢っ張り叔父さんのお蔭よ。』
『えゝ。叔父さんの教え方はその時は苦しくても為めになりますわ。』
『福子は何う?』
 とお母さんが突如(いきなり)訊いた。
『何あに?』
『まだ褒められない?』
『はあ。でもこの頃叱られませんわ。』
『それだけよくなったのかも知れませんよ。』
『当っても怖くないって確信がありますの。けれども私の方の先生は皆意地悪よ。此方が出来る時は決して当ててくれません。お母さん。』
『何ですか?』
『早くよ。』
 と福子さんはお菓子の催促だった。

  七番上がり十番上がり
 女の子は何んな仲よしでも成績だけは秘密である。決して打ち明けないから、
『あの人、ニコニコしていたわ。きっと好かったんでしょう。』
 とか、
『下がったのよ、きっと。停留場で別かれるまで爪ばかり咬んでいて、ロクロクお話もなさらなかったわ。』
 とかと様子で察しる外仕方がない。
『田口さん、あなた今度数学は好かったんでしょう?』
 と直接(じか)に訊いても、
『この前と同じことよ。』
『お習字は?』
『この前と似たり寄ったりよ。』
『英語は何う?すっかりお出来になったっておっしゃったわ。』
『駄目よ。この前の通りよ。』
 と相手もさるもの、新しい消息を伝えないばかりか、明してもないこの前の成績を標準にして受け流す。
 明日からお休みという終業式は学期中の総勘定だ。試験の成績を記入した通告簿が手に入るから、生徒は好い期待と悪い懸念で興奮している。
『徳子さん。』
 と仲よしの道家さんが学校の門のところで追いついた。徳子さんは姉さんの福子さんと一緒だった。
『あら、鶴子さん。お早う。』
『お早う。あゝあゝあゝ。』
『何うなすったの?』
 と徳子さんが立ち止まったので、福子さんは、
『先へ行くわよ。』
 と断って、折から、
『酒井さん。』
 と同級生を見つけた。
『角のところであなたを見つけて追っかけて来たのよ。』
 と道家さんは息を切らしている。
『まあ、そう。私、ちっとも知らなかったわ。』
『呼んだのよ。ドンドンいらっしゃるんですもの。』
『御免なさい。聞こえなかったのよ。姉さんと話しながら歩いていたものですから。』

『矢っ張り違うわ。』
『何が?』
『御成績の好い方は。』
『あら、私、駄目よ。悲観しているのよ。』
『悲観している歩き方じゃなかったわ。』
『あなたこそニコニコしていらっしゃるわ。』
『オホヽヽヽ。』
『それ、御覧なさい。』
『駄目よ。とてもいけませんの。家で叱られてしまうわ。』
 とお互いに謙遜し合って教室へ入ると、同級生はもう大方揃っていた。
 鐘が鳴って、講堂へ繰り込む。途中がやがやおしゃべりをしても、一学期間勉強して今日が最後だから、先生は大目に見てくれる。校長先生も、
『皆さんはこの長い学期中よく御勉強なさいました。』
 と御講話の中に認めて下さる。
『今学期は暑さから涼しさ、涼しさから寒さへ入る学期でありました。春が欠けているだけで、夏秋冬に亘っています。学期初めから見ると、季節がすっかり変わっています。夏服で始まって、唯今は冬服、寒がりの人は下に何枚着ているかも知れません。』
『オホヽヽヽ。』
 と生徒達が笑った。老校長は寒がりでシャツを三枚着込んでいるという評判だ。
『こういう季節の変わり目を丈夫に勤勉に過ごして来たことは真(まこと)に仕合わせであります。』
 と校長さんはいつも学暦の註解をする。去年のこの学期末にもこれをおっしゃった。前の学期には、春から夏へ移るころは身心共に兎に角ダレ勝ちのものですが、こういう季節の変わり目を丈夫に勤勉に過ごして来たことは真に仕合わせでありますとおっしゃった。老人の癖として同じことを繰り返す。それで先生方も笑えば生徒達も笑い、御自分も承知の上でニコニコなさるから、靄々(あいあい)の和気堂に満つ。
 次に学期の成績に移って、
『大体から見て、今学期の成績は前学期よりも遙かに宜しい。第一、出席の百分比が素晴らしい。全校平均が九十五パーセント。或クラスの如きは九十八パーセント。もう僅か二パーセントで百パーセントであります。これは恐らく全国の女学校を通じて前例のないことでございましょう。この百分比が学業成績の上に現われています。大体から見て、一学期の成績よりもグッと宜しい。但し個人々々について見ますと、好かった方もあれば悪かった方もあります。』
『オホヽ。』
『好かった方は結構ですけれど、油断をしてはいけません。この上益々好くなって戴くのですから、責任が重くなります。又悪かった方はお気の毒ですけれど、決して力を落としてはいけません。少し心掛けて勉強なされば直ぐに取り返しがつくのですから、楽観していて宜しい。』
 と校長先生は悪かった人達が可哀そうで溜まらない。
『好い裏は悪い、悪い裏は好い。悪いことばかり続くものでありません。又好いことばかり続くものでありません。皆さんはこの点について、アイヌの悟りを学ぶ必要があります。北海道のアイヌです。アイヌはお天気が好いと泣くそうです。雨が降ると喜ぶそうです。私達とはアベコベのようですが、道理を訊いて見ると、成程と頷かれます。好いお天気の続いた後はきっと雨が降ります。即ち好いお天気の時に来たらんとする悪いお天気のことを考えて泣くのであります。しかし雨の降った後は必ずお天気になります。即ち悪いお天気の時に、来たらんとする好いお天気のことを考えて喜ぶのであります。』
『オホヽヽ。』

『甚だ単純のようですが、真に好い教訓です。成績の好かった方は油断なく益々好くなるように心掛けて下さい。悪かった方は悲観せずに、好くなるように心掛けて下さい。』
 といった具合に、校長先生は諄々と説いて行く。
 講話が終って、生徒達はそれぞれ教室へ下がった。担任の先生が一人々々に通告簿を渡す。それを受取って開けて見る時、胸がドキドキする。徳子さんもそうだった。食いつくように見入って、覚えずニッコリした。周囲(あたり)を見廻したが、皆屈託して気がつかない。安心して又成績表に見入る。二十五番だったのが十八番に上がっている。前学期に六十点台だった科目で七十点台になったのが二つ、八十点台になったのが一つあった。
『徳子さん、景気が好いようね。』
 と隣席の道家さんがニコニコしながら話しかけた。
『駄目よ。』
『オホヽヽヽ。』
『あなたこそ好いんでしょう?』
『下がったわ。大変下がったわ。』
『でも笑っていらっしゃるわ。』
『今のアイヌのお話よ。オホヽヽ。』
『オホヽヽヽ。』
『あなたは?』
『下がったのよ。大変下がったわ。オホヽヽ。』
『上がったのよ。顔に書いてあるわ。』
『これはアイヌのお話よ。オホヽヽ。』
 と徳子さんは見すみす嘘をついた。但しこれが謙遜の嘘だということを双方辨えている。 
 停留場のところで姉さんの福子さんが待っていて、
『晩かったわね。何をしていたの?』
 と焦(じ)れ気味だった。
『御免なさい。』
『電車が二つも行ってしまったわ。』
『文房堂で買物をしていたものですから。』
 と徳子さんは別に紙包を持っていた。
 電車は反対の方向のばかりが来る。
『何う?徳子さん。』
 と福子さんは手近にいるお友達に聞こえないように訊いた。
『上がってよ。姉さんは?』
 と福子さんも摺り寄った。家では喧嘩をしても、外へ出ると模範的に仲が好い。
『私も。』
『余っ程上がって?』
『七番上がってよ。』
『私は二十四、二十三、二十二‥‥』
『何番?』
『十八番になりましたの。矢っ張り七番か八番上がっていますわ。』
『よかったわね。』
『お習字が好ければ、もう二三番上がっていたのよ。』
『お習字が悪かったの?』
『えゝ。』
『前よりも?』
『えゝ。あんなもので大損しちゃったわ。』
『私もつまらないもので損をしているのよ。』
『何あに?』
『お裁縫よ。私‥‥あら、来たわ。』
 と福子さんは皆が動き出したので気がついた。電車が来たのだった。
『唯今。』
 という声が内玄関から聞こえた時、銀次郎君が駈けつけて、
『何うだい?何うだい?』
 と訊いた。
『上がったわよ。』
『二人とも?』
『えゝ。』
 と徳子さんが靴を脱ぎながら答えた。
『これは珍しい。』
『厭な子ね、本当に。』
 と福子さんが睨んだ。
『お母さん、福子姉さんも徳子姉さんも上がりましたよ。』
 と銀次郎君はお茶の間へ飛んで行った。悪気はない。矢張り嬉しいのだった。
『唯今。』
 と二人も足が速かった。
『お帰りなさい。何うでしたの?』
 とお母さんは期待に満ちていた。
『上がったのよ。』
 と福子さんと徳子さんはニコニコして通告簿を渡した。お母さんが見ている間、銀次郎君も覗き込む。
『よかったわね。お手柄よ、二人とも。』
 とお母さんは満足だった。

『徳子さんも私も七番上がりました。』
『恨みっこなしでいいわ。』
『私、お裁縫で損をしたのよ、もう二三番上がるところを。』
『今度からお母さんがお宿題を見て上げますわ。』
『お母さんじゃ駄目よ。仕立屋にさせて持って行きますわ。』
『そんなことをすれば分ってしまいますよ。』
『何うかしてお裁縫のお点の取れる法はないかしら。口惜しいわ、私、本当に。』
 と福子さんは七番上がった上に欲が出ていた。
『お母さん、私もお習字で損をしたのよ。これでしょう?』
 と徳子さんは成績表のお習字の点を指さした。
『えゝ。』
『前より十二点も下がっているんですもの。これが前と同じだったら、もう二三番上がっていますわ。』
『本当にね。』
『つまらないわ。』
『お前達は皆お父さんに似て手先が不器用ですからね。』
 とお母さんは慰めた。
『でも上がったんだからいいわ。』
 と福子さんは成績表を眺めていた。いつもは直ぐに仕舞い込むのだけれど、今日のは取扱いが違う。
『結構よ。一寸。』
 とお母さんも又御覧になる。
『私、来学期はもっと上がるわ。』
 と徳子さんは確信があるようだった。
『何うぞ。』
『勉強の仕方が分ったから、もう大丈夫よ。』
『矢っ張り叔父さんは豪いでしょう?』
『えゝ。骨が折れるだけのことがありますわ。』
『喜びますよ、きっと。』
『お父さんに電話をかけましょうか?』
『そうね。』
 とお母さんも同感のようだった。
『つまらないなあ、僕は。』
 と銀次郎君が言った。

『何故?銀次郎。』
『僕なんか上がることがないんですもの。』
『お前は始終一番だから、下がらなければいいのよ。』
『それだから損です。』
『褒めて貰えないから?』
『えゝ。』
『昨日あんなに褒めたじゃないの?』
 とお母さんは決して手落ちがない。
『口で褒めても、こんなに喜んでくれません。』
『褒め方が足りなかったかしら?』
『通信簿を直ぐに仕舞ってしまいましたよ。』
『お前のは全甲だから見なくても分っているんですもの。』
『全甲は損です。』
『お前のはこの上なしだから、何処って別に褒めようがなかったんでしょう。全甲ぐらい結構なことはないじゃありませんか?』
『でも下がれば叱るんでしょう?』
『叱りはしないけれど、下がっちゃ大変よ。』
『それだから損だと言うんです。』
『先刻のアイヌよ。』
 と徳子さんが福子さんに囁いた。
『オホヽヽヽ。』
『何だって?』
『アイヌ。』
『何がアイヌだい?七番ばかり上がったって、電話なんかかけて騒ぐものじゃないよ。』
 と銀次郎君の主張にも道理(もっとも)なところがあった。
 五郎助叔父さんは昼過ぎに帰って来た。お母さんが福子さんと徳子さんの成績表を見せて報告したら、
『結構でしたな。』
 と言っただけだった。
『五郎助や。』
『はあ。』
『もっと何とか褒めてやって下さいよ。』
『結構でしたな。』
『張合いのない人ね。』
『これからですよ。ねえ。』
 と叔父さんは理想が高い。
 金一郎君の方の成績発表はその翌日だった。男の子は必ずしも成績を秘密にしない。通告簿を受取った金一郎君は、
『占めしめ!』
 と言って、額を叩いた。
『景気が好いのかい?』
 と親友の河本君が覗き込んだ。この子は三年の時落ちて別れたが、金一郎君は四年で落ちたので、以来又一緒になった。
『この通りだ。』
『頑張りやがったなあ。』
『ハッハヽヽ。』
『人魂(ひとだま)が一つもないじゃないか?』
『そんなものにつき纏われて溜まるかい?』
 と金一郎君は大威張りだった。落第の科目には赤インキの玉がつく。それが少し尾を引いているので、六十点以下を人魂と称する。これに三つも取りつかれると進級が覚束ない。
『飛び上がったね?』
『一躍十番上がった。と言ったところで三十一番だから、考えてみると大して自慢にもならない。』
『おれは悲観だ。』
『下がったのかい?』
『ビリッコケで下がりようがあるかい?』
 と河本君はイライラしていた。
『それじゃ居据(いすわ)りか?』
『馬鹿にするない!三番上がっていらあ。しかし人魂が離れないから厄介だ。』
『幾つある?』
『馬鹿にするない!唯(たった)一つだ。』
『どれ、見せろ。』
 と金一郎君は河本君の成績表を取って見て、
『矢っ張り君は豪い。』
 と褒めた。
『何故?』
『勉強しなくてもこれだもの。』
『いや。これでも精々やったんだ。おれはもういけねえ。』
『そんなことはないよ。一つきりだもの。取返しがつく。』
『待てよ。』
『何だい?』
『上がったんじゃないよ、これは。試験を受けなかった奴があるんだ。』
『小西君が休学で、石井君が途中から休んでいる。』
『見給え。一番上がったばかりだ。ビリから二番か。もっと何うにかなりそうなものだったのになあ。』
 と河本君は溜息をついた。
『何うだい?』
 とそこへ二三人寄って来た。金一郎君は、
『相変わらずだ。』
 と受け流した。
『行こうよ行こうよ。後からクヨクヨ言ったって仕方がない。』
 とこの連中も思わしくないようだった。
 金一郎君は驀地(まっしぐら)に家へ帰った。
『唯今。』
 という声にも元気が溢れていた。
『兄さん、上がったね?』
 と銀次郎君が出て来た。
『上がった。』
『きっと威張って来るだろうって皆で話していたんだよ。』
『玄関へ上がったって言ったんだよ。』
『おやおや。』
『下がった。』
 と金一郎君は一旦上がった玄関から土間へ下りた。いささか調子づいている。
『下がったの?』
 とお母さんが現われた。
『唯今。』
『お帰りなさい。下がったの?』
『いゝえ。上がりました。』
 と金一郎君は通告簿を渡した。

 その日、夕御飯の時、五郎助叔父さんは、
『金一郎君、何うだね?御褒美に何処かへつれて行ってやろうか?』
 と言った。
『えゝ。』
『何処がいい?』
『武蔵野館。』
『映画じゃないよ。』
『それじゃ何ですか?』
『頭を休めに行くんだ。』
『はゝあ。』
『箱根あたりが静かでよかろう。』
『湯治ですか?』
『うむ。叔父さんも随分草臥れているよ。』
『金一郎や、お前、叔父さんにお礼を申上げなければいけませんよ。』
 とお母さんが注意した。
『叔父さん、有難うございました。』
 と金一郎君は頭を下げた。
『お礼は来学期にしてくれ給え。』
『分りました。』
『何だい?』
『又勉強して十番上がるんでしょう?』
『頭が好くなったぞ。』
 と五郎助叔父さんも、骨折り効(がい)があった。

  全権先生 終り


つばめ堂近影:全権先生を前に苦悩の図



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では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまで御機嫌よう
今年が皆様にとって、よい年となりますように
(平成27年 元旦  おわり)