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万福寺


  宇治の平等院より、北向すること十数分、黄檗(おうばく)宗の大本山、万福寺に到着しました。

  黄檗宗というのは、徳川四代家綱の頃、隠元マメと共に隠元禅師がもたらした禅宗の一派ですが、この寺は禅師が住持されていた福州の黄檗山万福寺に似せて造られたということで、この総門にも、異国の様式が顕れているように見受けられます。

  軒下の扁額には、「第一義」と書かれていますね、「空を以って第一義となす」という意味でしょう。

  この寺には、世間では滅多にお目にかかれない実に貴重なものがありますので、皆様方には、後ほどお目にかけることに致しまして、まずはこの門より中に入ってみましょう。




  総門を入って、鉤の手に曲がると、巨大な三門が見えてきます。

  入口が三ヶ所あるので、三門というのですが、真理に到達する為には、「空解脱門」、「無相解脱門」、「無作解脱門」という三種の入口があるということを示しております。「空解脱門」等の意味は、前に説明したことがありますので、そちらを御覧ください。



  三門を過ぎ、疎らな松林の中の石畳をしばらく行きますと、天王殿が見えてきます。
  四天王を祀る、謂わば仁王門のようなものですが、この堂の本尊は布袋和尚です。




  布袋和尚は、自ら契此(かいし)と称していたそうですが、「望月仏教大辞典」に依りますと、「支那明州奉化県(浙江省寧波府奉化県治)の人。姓氏詳ならず。身体腲脮にして、額蹙く腹皤く、言語恒なく、寝臥処に随う。常に杖を以って布嚢を荷い、鄽肆に入りて物を乞う。醯醤魚葅と雖も接すれば則ち之を食い、少許を分ちて嚢に入る。凡そ百一供身の具皆此の嚢中に貯う。時人称して長汀子、又は布袋和尚と号す。嘗て雪中に臥せしに、雪其の身を沾さず。又人の吉凶、時の晴雨を予知して当らざるなし。偈あり、「一鉢千家飯、孤身万里遊、青目睹人少、問路白雲頭」と。以って其の平生を見るべし。後梁貞明二年三月三日、明州奉化県獄林寺東廊下に寂す、寿欠く。或は云う、唐天復年中、奉川に寂すと。遺偈に云わく、「弥勒真弥勒、分身千百億、時時示時人、時人自不識」と。世人以って弥勒の化現となし、江浙の間に其の像を画きて伝うるもの多し。本邦に於いては之を七福神の一として俗間に祭祀せり。宋高僧伝第二十一、景徳伝灯録第二十七、仏祖統紀第四十二、仏祖歴代通載第二十五等に出づ」と言っておりますので、ざっとご説明いたしますと、
  ――「浙江省の人、姓も氏もはっきりしないが、身体は肥っており、額が狭く、腹は白く、定まったことを言うでもなく、処かまわず寢たり起きたりし、常に杖に布の袋を掛けて荷い、店に入って物を乞い、塩漬の魚なども、受けた物は何でも食い、少しを分けて袋に入れ、その他にも身の回りの道具は皆、この袋の中に貯えていたので、時の人は、長汀子(浜のひと)とか、布袋和尚と呼んでいた。かつて雪中に臥せっていたとき、雪がその身を濡らさなかった。又人の吉凶や、時の晴雨を予知して、当らないことがなかった。「一鉢に千家の飯を盛り、孤身を万里の郷に遊ばせる、親しげに人を見ること少なく、路を問うのも白雲の上だろう」という偈がある。凡そ和尚の平生は、このようなものであったようだ。後梁貞明二年三月三日に、明州奉化県の獄林寺の東廊下で死んだ。寿は分らない。ある人は、唐の天復年中に奉川で死んだとも言っている。「弥勒には真の弥勒と千百億の分身の弥勒とがあり、時々時の人にその身を示すが、時の人は自ら凡人であるが故に識ることがない」という遺偈があるので、世間の人は、布袋和尚を弥勒の化現であるとして、江西省や浙江省あたりでは、像に画かれることが多い」ということです。

  しかし、お目に掛けたいのは、この布袋和尚の像ではありません。隠元に招かれた仏師范道生(はんどうせい)の作で、まことに結構なものですがね、‥‥。




  天王殿の中を通り裏口から出ますと、また石畳があり、次の「大雄宝殿(だいおうほうでん)」に続いています。「大雄」というのは、仏の徳号であり、仏は大力を有して、能く四魔を伏するが故に大雄というのだそうです。「四魔」とは、煩悩魔、五蘊魔、死魔、天魔の四種は、能く人の善事を害するが故に、魔と呼ぶのだそうです。

  「大雄宝殿」の本尊は釈迦如来ですが、皆様にお見せしたいのは、それでもありません。
  「十八羅漢」の等身の尊像が、両側の壁面に沿って並んでいますが、これがそうです。

  「十八羅漢」とは、仏の大弟子を阿羅漢といい、その阿羅漢が十八人そろったという意味です。
  「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記」という書物には、多くの阿羅漢の中で、特に仏の勅を受け、永く此の世に住して、衆生を済度すべき者を十六人選んで、それを「十六羅漢」と称し、その名字と住処等が詳しく書かれていますが、それにその法住記の作者たる慶友尊者と、賓頭廬尊者とを加えて、十八人にしたものが、唐末頃には、そうとう流行したそうです。

  唐末の貫休(禅月大師)という禅僧は詩画に精通しており、広東省清遠峡の宝林寺に於いて、その十八羅漢の絵を画いたそうですが、それを北宋の大詩人蘇東坡が見て賛を付し、天才仏師の范道生が、その賛に心を動かされて、思うがままに腕を振るったのが、この万福寺の十八羅漢像という訳なんですな、‥‥。

  蘇東坡の賛は非常に面白いし、それを像に起した范道生もまた大したものです。
  天才が、天才に巡り会ったのですからな、面白くないはずがありません。
  ただ何体かの像は、賛が形状と合っていませんので、或いは名札を付け間違えたものかも知れません。皆様のお力で、本に戻してやってはいただけませんでしょうか?‥‥

  どうぞ、御覧下さい、‥‥
  その前に、十八羅漢の尊名に仮名を振っておきましょう、――

  1. 賓度羅跋羅惰闍(ひんどらばらだじゃ)尊者
  2. 迦諾迦伐蹉(かなかばしゃ)〃〃
  3. 迦諾迦跋釐隋闍(かなかばりだじゃ)〃〃
  4. 蘇頻陀(そひんだ)〃〃
  5. 諾距羅(なこら)〃〃
  6. 跋陀羅(ばだら)〃〃
  7. 迦理迦(かりか)〃〃
  8. 伐闍羅弗多羅(ばじゃらぷたら)〃〃
  9. 戍博迦(じゅばか)〃〃
  10. 半托迦(ぱんたか)〃〃
  11. 囉怙羅(らごら)〃〃
  12. 那伽犀那(ながせんな)〃〃
  13. 因揭陀(いんかだ)〃〃
  14. 伐那婆斯(ばなばし)〃〃
  15. 阿氏多(あじた)〃〃
  16. 注荼半托迦(ちゅうだぱんたか)〃〃
  17. 慶友(けいゆう)〃〃
  18. 賓頭廬(びんづる)〃〃



【自海南歸過清遠峽寶林寺敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第 一賓度羅跋羅墮闍尊者】

白ふ在膝,貝多在巾。目視超然,忘經與人。
面顱百皺,不受刀箭。無心掃除,留此殘雪。

白は膝に在らず、貝は多く巾に在り、
目視するも超然として、経と人とを忘る。
面顱の百皺、刀箭を受けず、
無心に掃除して、此の残雪を留む。

拂子は転がり落ちて、膝上になく、
法螺貝は吹く者もなく、袱紗上に在る、
目は凝視しているが、一切を超然として、
経も人も、何もかも忘れている。
顔にも頭にも、無数の皺を刻み、
もはや、一皺すら加えようがない。
無心に、心を掃除してきたので、
此の身を、留めるのみだが、
やがて、残雪のように消え去るだろう。

:白ふ、有るいは白氎に作る、尚お詮義すべし。

【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第二迦諾迦伐蹉尊者】

耆年何老,粲然複少。我知其心,佛不妄笑。
瞋喜雖幻,笑則非真。施此無憂,與無量人。

耆年の、何と老いたること、粲然たること、復た少なし、
我れは、其の心を知り、仏も、妄に笑いたまわず。
瞋喜、幻なりと雖も、笑えば則ち真に非ず、
此の無憂を施して、無量の人に与う。

尊者の、何と老いられたことか、
笑うことも、ほんとに少なくなられた。
わたしは、あなたの心を知っていますよ、
仏も、妄には笑われませんでした。
怒りも喜びも、幻のようですが、
笑うのも、やっぱり真の姿とは言えますまい。
此の憂の無い心を施して、
無量の人に与えていらっしゃるのですね。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第三迦諾迦跋梨隨闍尊者】

揚眉注目,拊膝橫拂。問此大士,為言為默?
默如雷霆,言如牆壁。非言非默,百祖是式。

眉を揚げて目を注ぎ、膝を拊して横に払う、
此の大士に問わん、言うとせんや、黙すと為んや?
黙すれば雷霆の如く、言えば牆壁の如し、
言うに非ず、黙するに非ず、百祖の是れ式なり。

眉を揚げて、目を注ぎ、
膝を押さえて、横に払われたな、
では此の大先生に、訊ねてみよう、――
言おうとしているのか?
黙ろうとしているのか?と。
沈黙は、雷鳴のような大音声、
言葉は、土壁のように静寂だ。
言うでもなく、黙るでもない、
百代の祖師も、是れを手本とするがよい。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第四蘇頻陀尊者】

聃耳屬肩,綺眉覆顴。佛在世時,見此耆年。
開口誦經,四十余齒。時聞雷雹,出一彈指。

聃耳属肩、綺眉は顴を覆う、
仏在世の時、此の耆年を見る。
口を開きて経を誦す、四十余の歯、
時に雷雹の出づること一弾指なるを聞く。

垂れさがった耳、寄せられた肩、
綺麗な眉は、頬を覆う、
ああ、仏の在世の時にも、
此の、老人を見たことがあるぞ。
口を開いて経を誦す、
仏と同じ四十枚の歯、
時には、雷や雹が聞こえてくるが、
指を鳴らすほどの間、出ているだけだ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第五諾矩羅尊者】

善心為男,其室法喜。背癢孰爬?有木童子。
高下適當,輕重得宜。使真童子,能如茲乎?

善心を男と為さば、其の室は法喜なり、
背癢(かゆ)し、孰(だれ)か爬(か)く?
木の童子有り。
高下適当にして、軽重に宜しきを得、
真の童子を使わば、能く茲(かく)の如きや?

善心を男とすれば、法喜が妻女か!
背中が痒いとき、誰に掻いてもらう?
やっぱり、木の孫の手だろう!
高くも低くも、ちょうど好く、
重くも軽くも、ぴったりだ。
本物の孫じゃあ、こううまく行くものか?



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第六跋陀羅尊者】

美狠惡婉,自昔所聞。不圓其輔,有圓者存。
現六極相,代眾生報。使諸佛子,具佛相好。

美の狠なると、悪の婉なると、昔より聞く所なり、
其の輔を円かにせざるや、有るは円かにする者存り。
六極の相を現して、衆生に代りて報い、
諸の仏子をして、仏の相好を具えしむ。

美しい者が、残忍であったり、
悪い奴が、美しかったり、
昔から、よく聞くところだが、
その助力を、完成していないのだ!
有るいは、それを完成した者もいるぞ!
夭折、疾病、憂悲、貧窮、凶悪、怯弱という、
六種の極相が、衆生に代って報ゆるので、
諸の仏子を、仏に成らせるのだ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第七迦理迦尊者】

佛子三毛,髪眉與須。既去其二,一則有余。
因以示眾,物無兩遂。既得無生,則無生死。

仏子に三毛ありて、髪と眉と須(ひげ)となり、
既に其の二を去るも、一は則ち余り有り。
因りて以って衆に示す、物に両遂無く、
既に無生を得れば、則ち生死無しと。

仏子には、三種の毛がある、
毛髪と、眉毛と、髭とだ、
そこで、髪と髭との二を剃り取ったが、
一は、ますます盛んである。
それに因って、衆に示すとしよう、――
物は、二つを達成する必要はない、
既に、無生を得たならば、
もはや、生も死も無いのだと。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第八伐闍羅弗多羅尊者】

兩眼方用,兩手自寂。用者注經,寂者寄膝。
二法相忘,亦不相捐。是四句偈,在我指端。

両眼を方に用ゆれば、両手は自ら寂す、
用ゆる者は経に注ぎ、寂する者は膝に寄す。
二法相忘れて、亦た相捐てず、
是の四句の偈は、我が指端に在るのみ。

両眼を用いれば、
両手は静かになる、
用いる者は、経に注がれ、
静まる者は、膝に置かれた。
眼と手とは忘れられているが、
捨てられたわけではない、
是の現在書かれている四句の偈も、
わたしの指先に在るのだから。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第九戍博迦尊者】

一劫七日,刹那三世。何念之勤,屈指默計。
屈者已往,伸者未然。孰能住此?屈伸之間。

一劫も七日も、刹那の三世、
何念の勤なる、指を屈して、黙計せよ。
屈すれば、已に往き、伸ばせば、未だ然らず、
誰か能く、此に住まる、屈伸の間に?

何千何百億年の一劫も、ただの七日も、
一刹那の過去、未来、現在に過ぎない。
何刹那、勤苦したのか?指を折り、黙って数えよ!
指を曲げれば、已に過去だ、
指を曲げなければ、まだ何もしていない、
誰か、此の屈伸の中間に住まる者がいるか?



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十半托迦尊者】

垂頭沒肩,俯目注視。不知有經,而況字義。
佛子云何,飽食晝眠。勤苦功用,諸佛亦然。

頭を垂れて肩に没し、目を俯きて注視するも、
経有るを知らず、況んや字義あるをや。
仏子にして云何が、飽食し昼に眠る、
勤苦の功用は、諸仏にも亦た然り。

頭を垂れて、肩にうずめ、
目を伏せて、注視していても、
経本すら見ていない、
況して字義を考えているわけでもない。
仏子が、なんだって飽食したり、居眠りするんだ!
勤苦の、功用を知らないのか?
諸仏すら、同じように勤苦されてきたのだ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十一羅怙羅尊者】

面門月滿,瞳子電爛。示和猛容,作威喜觀。
龍象之姿,魚鳥所驚。以是幻身,為護法城。

面門に月満ち、瞳子電爛たり、
和猛の容を示し、威を作すも喜んで観る。
龍象の姿は、魚鳥の驚く所なり、
是の幻身を以って、護法の城と為す。

口は、満月のように開き、
瞳は、電光のように輝いた、
柔和と、勇猛の容(かたち)を示し、
威厳を作るが、人は喜んで観る。
龍や象のような姿は、魚鳥こそ驚かすが、
是の幻のような身は、護法の城なのだ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十二那迦犀那尊者】

以惡轆物,如火自焚。以信入佛,如水自濕。
垂眉捧手,為誰虔恭。大師無德,水火無功。

悪を以って物を轆せば、火の自ら焚(や)くが如し、
信を以って仏に入らば、水の自ら湿すが如し。
眉を垂れ手を捧げて、誰が為に虔恭なる、
大師に徳無く、水火に功無し。

悪心を以って、轆轤を挽(ひ)けば、
火が、自らを焼くようなものだが、
信心を以って、仏道に入れば、
水が、自らを湿すようなものだ。
眉を垂れて恭しく、拱手の礼などしているが、
誰の為に、敬虔な振りなどをしているのだい?
それじゃあ、釈迦の功徳も台無しだ、
水火の力だって、効き目が無くなるだろうよ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十三因揭陀尊者】

捧經持珠,杖則倚肩。植杖而起,經珠乃閑。
不行不立,不坐不臥。問師此時,經杖何在?

経を捧げて珠を持ち、杖は則ち肩に倚す、
杖を植えて起てば、経と珠と乃ち閑たり。
行かず立たず、坐らず臥せず、
師に此の時を問わん、経と杖とは何(いづく)に在りやと。

経を捧げて、数珠を持ったが、
杖は、肩に寄りかかったままだ、
杖を突いて、起ちあがると、
経や数珠は、すっかり忘れられている。
歩くでもなく、立ち止まるでもなく、
坐るでもなく、臥せるでもない、
此の時、師に問うてみよう、――
経と杖とは、何処に在るのか?と。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十四伐那婆斯尊者】

六塵既空,出入息滅。松摧石隕,路迷草合。
逐獸于原,得箭忘弓。偶然汲水,忽然相逢。

六塵既に空しくして、出入息滅す、
松摧けて石隕(お)ち、路は迷草に合す。
獣を原に逐うて、箭を得るも弓を忘る、
偶然水を汲みたれば、忽然として相逢う。

色、声、香、味、触、法という、
六塵は、既に空なりと看破して、
出入する息を、滅したとしても、
松が摧け、隕石の落ちる悪路から、
草原の、迷路に変わったに過ぎない。
獣を逐うて、原野に入ってみれば、
箭(や)のみ携えて、弓を忘れていたり、
偶然、池の水を汲んでいると、
突然、獣に出会うようなものだ。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十五阿氏多尊者】

勞我者皙,休我者黔。如晏如岳,鮮不僻淫。
是哀駘它,澹台滅明。各妍于心,得法眼正。

我れを労する者は、皙なり、
我れを休むる者は、黔なり、
晏(やす)んずるが如く、岳の如くんば、
淫を僻(さ)けざるもの鮮(すくな)し。
是の哀れなる駘它は、
台(われ)を澹(やす)んじて、明を滅す、
各心を妍(みが)きて、法眼の正しきを得よ!

自ら労する者は、明晰である、
自ら休む者は、愚鈍である、
安んじていたり、山のように動かない者で、
放逸を、僻けられる者は少い。
是のような哀れで、のろまな蛇は、
自己を安んじて、智慧の明を滅するだろう、
各々、心を研(みが)いて、
法を、見る眼を正しくせよ!



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十六注荼半托迦尊者】

以口說法,法不可說。以手示人,手去法滅。
生滅之中,自然真常。是故我法,不離色聲。

口を以って法を説くも、法は説くべからず、
手を以って人に示すも、手去れば法滅す。
生滅の中の、自然なるもの真の常なり、
是の故に、我が法は色と声とを離れず。

口で、法を説こうとしても、
法は、説けるものじゃない、
手で、人に示そうとしても、
手が去れば、法も滅する。
生じたり、滅したりする中に、
人為を加えず、自然のものが、
真の、常である、
是の故に、自然に説く、
わたしの法は、
口と、声とを離れないのだ!



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十七慶友尊者】

以口誦經,以手歎法。是二道場,各自起滅。
孰知毛竅?八萬四千。皆作佛事,說法熾然。

口を以って法を誦し、手を以って法を歎れば、
是の二道場は、各自ら起滅す。
孰(だれ)か知る、毛竅の八万四千は、
皆仏事を作し、法を説くこと熾然たるを。

口には、法を説き、
手は、法を讃歎する、
是の口と手の、二道場は、
各、自然に起って、滅するのだ。
誰が、知っていよう、――
八万四千の毛孔は、
皆各々、仏事を作して、
盛んに、法を説いているのを。



【敬贊禪月所畫十八大阿羅漢-第十八賓頭盧尊者】

右手持杖,左手拊右。為手持杖,為杖持手。
宴坐石上,安以杖為。無用之用,世人莫知。

右手に杖を持ち、左手を右に拊す、
手杖を持つと為(せ)んや、杖手を持つと為んや。
石の上に宴坐するに、安(な)んぞ杖を以って為ん、
無用の用は、世人知る莫し。

右手に、杖を持ち、
左手を、右手に添える、
手が、杖を持っているのか?
杖が、手を持っているのか?
石の上に、坐禅する、
杖は、何かの役に立つのか?
無用という用について、
世間の人は、何も知らない。



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  「大雄宝殿」を裏口から出ますと、狭い庭を間にして、「法堂」と対峙することになります。
  「三門」から→「天王殿」→「大雄宝殿」→「法堂」と一直線上に並んでいます、中国風ですな、‥‥。

  「法堂」は、僧侶の修行の場だからということでしょうか、扉が堅く閉ざされています。


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もうじきクリスマスですね
クリスマス・ケーキに、こんなのはいかがでしょうか
では今月はここまで、また来年お会いしましょう、それまでご機嫌よう
Merry Christmas!
&
Happy New Year!!!
(万福寺  おわり)