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平成26年元旦




  皆様、
    明けましておめでとうございます。
      本年も旧年に相変りませず、
      宜しくお願い申しあげます。

  例によりまして、さっそく一句、
   初春の光をあびし若駒は、身も艶やかに駆け抜けにけり  つばめ
   ひさかたの光のどけきわがいほは、春のきざしに少し色めく  つばめ

  世間の騒がしさに比べて、わが家の静けさは、何やら台風の目を思わせるようで、決して安心を催す風のものでもございませんが、何はともあれ、一年を無事過ごせたことは有り難いことでございます。

  さて、つばめ堂では早くより、新年の演物(だしもの)をいろいろ探しておりましたところ、どうも手頃なものが見当たりません、ということで昨年に続きまして、今年もまた談話の名手として広く世に知られた露伴大人の口を借りることにし、いと面白く語っていただくことにいたしましょう。例によって例のごとく、御酒など召上がりながら、どうか宜しくお楽しみいただきたいものと思っております。

  題目は、「珍饌会(ちんせんかい)」といって、何でも食道楽の限りを尽くすというお話しでございますが、このつばめ堂、決して皆様方をただではお帰しするようなことはいたしません。お帰りの際にはチャンと一つの教訓をお持たせいたすことになっておりますので、それも併せてどうぞ、ご存分にお楽しみください。

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珍饌会(ちんせんかい)
    その一
「イヤもう十分頂戴いたしやした。流石の猪美庵(ちょびあん)も此の上はいけやせん。」
「コウ乃公(わし)の前でそんな事をいって通ると思っているようじゃあ足下(そっか)も青いぜ。いいさ、仮面(めん)を脱いで正体をさらけだしてへべるまで飲(や)るさ。生虚言(なまぞら)あ使って十分なんぞたあ、伊勢屋の隠居さんに熊公の言うせりふじゃあごんせんか。」
「へッへッへ。こりゃあ酷(ひど)い。そろそろ鐘斎大人(ちょこざいたいじん)の風雅的中腹(ちゅうっぱら)てえ奴(やつ)が出て参りやしたナ。実際のところもう飲(い)けないんで。まづこうでげす、お聞き下さい。今朝(けさ)第一番に新年の御慶(ぎょけい)と躍り込んだのが無敵(むてき)さんのところでげしょう。何があの強者(つわもの)の無敵さんの事でげすから、善来(ぜんらい)!猪美庵!我れ汝(なんじ)の来たるをば待つこと久し、さあ来い戦わん、というのですから逃げもされません。心得たりというので飲り始めたのでげす。ところが此方(こっち)も此方なら敵も敵ですから、勝負は果てしなくて、相退(あいびき)に退きましたが、いや何様(どう)も人交(ま)ぜもせず長々と戦ったのでげす。」
「フン。無敵と足下たあ好(い)い取組だ。だが無敵のところじゃあ碌な下物(かぶつ)は出すめえ。あの男の家(ところ)の下物を当てて見ようか。先づ塩鰊鯑(しおかずのこ)の一ト腹(ひとはら)そっくりとして居てちっとも潰(くず)れていねえという奴が一寸(ちょっと)自慢で、それに青味をあしらいか何ぞしたのを講釈付きて食わせたろうッ。」
「イヨーッ、明察恐るべし、仰(おっし)やる通りさ。」
「それから又後(あと)が鱈(たら)の卵(こ)の味噌漬で、こりゃあ味噌を僕が吟味して東京から送って遣(や)って、其奴(そいつ)へ彼地(あっち)で漬け込ませただけが天狗でござる、と言いながら味噌だらけのまま出した奴を、彼(あ)の男が巧者(こうしゃ)らしい顔をして皿の上でもって、卵(こ)が被(かぶ)っている美濃紙をするりと取って見せるネ。」
「妙々(みょうみょう)。石龍子(せきりゅうし)々々々。」
「竹の色の真青(まっさお)な美しい利休箸で、大きな方頭魚(あまだい)の味噌漬を客の前で取り分けるというような事あ、段々にお茶屋の婢(ねえ)さんがやらなくなるから、其の代わりにまた彼様(あん)な変通(へんつう)が現われるのかネ。」
「厳(きび)しうがすナ、どうも。元日罵(ののし)り初(ぞめ)という訳でげすかイ。」
「ハヽヽ。ナニサ褒むべきことは乃公(わし)だって褒めるさ。無敵が、鱈の卵はポン鱈といって小さい鱈があります、その小さい鱈の卵に限りますからそればかり漬けさせます、普通(なみ)の鱈の卵は漬けさせません、と言っているが、彼処等(あすこら)は何といっても彼(あ)の男も話せるところがあるんだネ。」
「成程。」
「だが、毎年々々同じ味噌漬で高慢はあやまるじゃごんせんか。あれが手前味噌とも駄味噌ともいうもんだネ。第一蝦夷地(えぞち)ばかりで持切っているのが下らないさ。松浦多気志楼(まつうらたけしろう)時代ならそれもおかしかろうがだ。」
「どうも胴切(どうぎり)という罵り方でげすナ。マア無敵はその辺で容赦(ゆる)してお遣んなすって下さい。それから小生(わたくし)は道順ですから辺見君のところへ出ましたネ。」
「フーン。あの高襟(ハイカラ)男がまた缶詰で持切るにゃあ降参したろう。」
「でげすナ。実に何とも何様(どう)も驚きやすよ。勝手の知れないものばかり出されるんですからネ。しかも今日はまた酒が、」
「また例の合せ酒じゃあ無かったか。あの樣子と来たら何の事は無い、頓と西洋手品だネ。」
「イヤ、あの先生の御手づからの合せ酒と来たら堪(たま)りやせんネ。変に苦かったり甘かったり、一度なんざあペッパーミントとか何とかいうものが入り過ぎたっていうんで、緑青色で、異(おつ)に甘くって、薄荷のようにスウスウする酒を、飲め飲めって飲まされたにゃあ不気味で弱りましたよ。」
「ハヽヽ、緑青色の酒なざあ面白いネ。」
「ヘッヘッヘ、その時あ中々笑い事どころじゃあ無かったんでげす。それでも今日はまあ年の首(はじめ)だけに、村井長庵(むらいちょうあん)が洋行してウエイタアを勤めて来た挙句(あげく)に仕そうなような事は始まらずに仕舞いましたが、その代りチャンと出来ているコックテイルとか何とかいうのを飲まされやした。」
「フーン、其の方が無難でマア好かったろう。そうして其れあ何様(どん)なだったネ。」
「複雑(いりくん)だ味でげすから何様なともいえやせんが、つい口当たりが好いもんで貪って飲みやしたら、前に飲んだ酒の有る上ですから、さあ酔って酔って困りやした。」
「どうも洋酒は危険(けんのん)だから口に欺されちゃあならねえ。いったい彼の男のところで迂闊(うかつ)に物は食えねえ。一寸した菓子なんかでも彼地(あっち)のものは異(おつ)に強い香気(におい)なんぞが含ましてあるから、下手なものを食おうもんなら腹の中まで香水臭くなって仕舞う。」
「流石の大人も何かに中(あ)てられやしたネ。」
「ナアニ。ウーン。何、あんな若輩な男に驚かされるものか。それから足下は此処(ここ)へ来たのか。」
「いえ、辺見君のところを出てから天愚子(てんぐし)ところを訪(と)いますと、天愚先生は不在でした。そこで例の美細君に御茶を所望して、冗談(むだばなし)一時(いっとき)大きに酔いを醒ましたところで此方(こっち)へ伺ったのでげす。こういう訳で、すっかりと地(じ)のあるところへ、また大人と一戦に及んだのですから、残念ながらもう太刀打ちは出来やせん。」
「いけねえ、いけねえ。足下も猪美庵とも言われて堂々たる新聞の珍だね記者じゃあ無えか。その猪美庵ともあろうものが、川縁(かわっぷち)に出張した平家じゃあ有るめえし、へたくたに逃げを張るという事あ無えじゃあごんせんか。まあ御交際(おつきあい)なせえ、今絶妙という下物をあげます。其れを味わって貰わなくっちゃあ、お半(若き妾)が恨みますゼ、ハヽヽ。足下が帰りを急ぐ理由(わけ)も分っているが、好いさ、まあ好いさ、もうちっと飲(や)るさ。」
「ですが大人、いづれまた伺いやす、今日はもうこれで、」
「好いさ、猪美庵じゃあ無えか。」
「ですが、もう、」
「えゝ、分らねえ人だ、お交際(つきあい)なせえというのに。」
「でももう、」
「なんだえ、猪美庵子(し)!。お半、お半、汝(てめえ)がこしらえるものは薄汚いっていうんでナ、猪美庵さんは御帰んなさるとよ。酒の下物(さかな)一つ手綺麗(てぎれい)にやあ出来ねえ、薄鈍(うすどん)な奴じゃあ無えか、忌々しい。」
「あら猪美庵さん、酷い事ねえ。たんと妾(わたし)を御叱らせなすって、そうして貴下(あなた)は何処かへ行って甘ったれたいの。厭な人ねえ、二日は明日(あした)ですよ。ちょいとあの三や猪美庵さんの御雪駄(はきもの)をネ、向こうの溝(どぶ)ん中へ抛(ほう)り込んでお仕舞いよ。」
「驚きやすな、お半の方!どうも乱暴ですな、果断過(えらす)ぎやすナ。ぢゃあ是非に及びやせん打死にと覚悟を決めて飲む事と致しやす。」
「ハヽヽ。」
「ホヽヽヽ。」
「何様(どう)も此家(こちら)は御手当は結構だが、大人の酒量(たる)が大過ぎるのと客当りが荒いのとが玉に瑕だ。大人の肝癪と皮肉と強情たあ誰でも恐れていやすからネ。」
「ハヽヽヽ。」
「ホヽヽヽ。妾あ肝癪持でも皮肉でも強情でも無いけれど、ただ一寸門前の、」
「小娘で人真似をするんだと仰やるのだろうが左様(そう)はいきません、貴所(あなた)もなかなか御人が悪い。」
「ようござんすよ、たんと注(つ)ぎますよ。」
「いくらでも御注ぎなさい、その代り酔い倒れて仕舞ってから夜半(よなか)になって、何様(どん)な事を仕出かすか知れやせんぜ。」
「ハヽヽ、酒は斯様(こう)戯(ふざ)けて来なくちゃあ面白くない。お半、汝(おまえ)は下物(さかな)を疾(はや)くこしらえて来い。」
「ハイ、ただ今。」
「時に猪美庵子、足下を引留めたのにも仔細ありで、ちと年甲斐も無いようだが一ト謀反起そうかという考案(かんがえ)があるからだ。何と一味連判には加わって呉れねえか。」
「ハテネ、謀反といって大人がまさか新橋柳橋へ御出馬という事でもございやすまい。」
「もとより其様(そん)な事では更に無しさ。事の起りはこうなのだがネ。それ此の頃評判の食心坊(くいしんぼう)という小説があろう、彼書(あれ)を目前(めさき)の見えない椋鳥紳士(むくどりしんし)がわしのところへ歳暮に呉れたのだ。其書(それ)を閑暇(ひま)だから読んで見たところから思いついたのがだ、彼書に書いてあるのはマア真面目な方でおかしく無い。彼様(ああ)でも無い斯様(こう)でも無いっていうような事を論じている我が党にやあ白湯(さゆ)を呑んだも同(おんな)じ事だ、そこで一つ正月の娯楽(なぐさみ)に我が党の五六人でもって、彼(あ)の書(ほん)なんぞにゃあ到底(とても)無い奇々妙々の珍料理の持寄り会をして、遊ぼうという謀反だがこれあ何様(どう)だ。」
「面白いッ、是非やるべしでげす。こりやあ可(い)い。あの小説が売れたのを見ても、天下の亭主どもが平生(ふだん)どんなに不美(まづ)いものばかりを嚊(かかあ)どんのために食わされて居るかが分って憫然(かわいそう)でならないでげすナ。せめて此の書でも買って嚊に読ませたら、少しあ嚊が美味いものでも食わせて呉れるだろう、鰯の目刺だの塩鮭や塩鰩魚(しおとび)だのをころりと抛(ほう)り出されたり、大根(だいこ)胡蘿蔔(にんじん)の味も無い源平汁(げんぺいじる)位でばかり逐払(おっぱら)われ通(どお)しじゃあ情けない、というところから買ったものが多いのでげしょう。そんなものを大人のところへ持って来たなざあ大笑いでげすナ。一体此の節は何(ど)の新聞にも雑誌にも、闇雲(やみくも)に料理の事が出ていますが、随分大変なことが出て居ますぜ。」
「あてになるなあ赤堀老人(あかぼりろうじん)のいう事位なもので、其の他のにやあ素敵滅法界(すてきめっぽうかい)なのが多いようだ。そりやまあ何様(どう)でも関(かま)わねえが、此方あ何様せただの美味いものを食ったって悦ぼうという玉じゃあ無えので、人のまだ食わねえ誰も知らねえ、通の上の通、異(おつ)の上の異なものを食おうというんだから、ただの鼠で無え連中で、」
「みんな獻産屋(けんざんや)の鼠ですかい。」
「古い古い。思いきって珍な料理の持寄りというなあ宜(よ)かろうじゃ無いか。そこで先づ会の名は珍饌の持寄りというところで珍饌会は何様だ。」
「宜(よ)うがすナ。世間の料理天狗や食物本草(しょくもつほんぞう)の荒肝を抜くようなものを持寄るのでげすな。」
「それ、それ、其れの事さ。いくら美味いたって知れきった物じゃあおかしくない。早いはなしがそれなら寧(いっそ)黒人(くろうと)に頼んだ方が会をするより増しな位だ。だがこれお互いに三両五両する蒲鉾を食ったって今更美味いともいうまいと思ったり思われたりして居る高慢男だ、だから何様転んでも普通(なみ)一ト通りじゃあ面白くない。何でもいいから、赤堀も甘めえもんだ気の毒だけれども此の味あ知るめえ、といったような物を持寄るんだナ。」
「ン、なあるほど。」
「そこで会主が乃公(わし)さ、副(そえ)が足下さ。二人名前で回状を出して、来たる十五日に此家(ここ)で開会、品評の上、一番凡俗のものを持って来た奴は罰するというのだ。」
「罰は、」
「罰もいろいろ考えたがナ、苟(いやしく)も食い物の論に口でも容(い)れようという奴が、下らないものを持ち寄った以上は、もうちっと物の味でも記憶(おぼ)えて来いという理屈で、味の源は水だから水を飲ませるのが可(よ)かろう。」
「此の寒の中(うち)に冷や水でげすかネ。」
「左様(そう)さ、罰の事だから辛(つら)く無くちゃあ。処処の井戸の水河の水を一合づつ一升飲ませるんだナ。」
「ウへェー。井戸の水河の水を一合づつ十種、やこれあ堪(たま)りやせんネ、ふるえ上がる。そして賞は、」
「賞は些(ちと)趣向が無さ過ぎるが、負けたのと食い得なかった連中とから酒一駄は何様だ。」
「宜(よ)うがしょう。」
「いくら珍だからって食え無い理合(りあい)のものを持って来たものも水一升、いくら異なものだって食える筈のものを味わわないものも水一升の罰だナ。」
「ウへェー。段々物恐ろしくなって参りやしたナ。しかし宜うがしょう。」
「ぢゃあ檄文(げきぶん)は足下書いて呉れさっせえ。宛名は先づ無敵で、其の次がハイカラの辺見だナ。無敵は怖かあ無えが辺見は何を以って来るか一寸怖ろしいぜ。それから天愚と、我満とだが、来ない奴は人間(ひと)で無いように言って、何でも彼でも顔を出させるように仕無けりやあいけねえぜ。」
「早速今書きましょう、面白うがす。」
「談話(はなし)はこれで決まった。さあ又酒を流行(はや)らせよう。」
    その二
「人面白くも無い。散々に引張って留めて置いて、絶妙の下物を食わせるというから何だと思やあ、方領大根(ほうれいだいこ)の風呂吹を鶸味噌(ひわみそ)で食わせた位の事だ。同じ事なら本の宮重(みやしげ)にすればいいのに、あれで料理天狗も無いものだ。五十面(づら)を下げて若い妾を置きやがって、幾人(いくたり)取り替えても呼名をお半としているところなぞは悪く世間を馬鹿にして独りで、がって居やあがる。金(かね)の有るんで異に自由を聞かせて、年の功にいろいろな事を知って居るので、妙に高慢な変通爺(じじい)だ。いろいろ力になって貰う事があるので出入りすりやあ、大人々々って立てられるので好いかと思いやあがって、奇妙に変な熱を吹きやあがる。や、珍饌会だなんて、どんな事が出来やがるか知らん。何にしろ変物が集まるのだから可笑しいには違い無かろう。待てよ、下手にまごつくと冷水(ひやみず)一升飲ませられなきゃならないぞ。老夫(じじい)め何か巧(うま)いものを工夫して置きやがって、みんなをぎゃふんという目に会わせようと思って居るに違いない。何でもこれあ変法来(へんぽうらい)なものを工夫し無けりやあ叶わないぞ。ン、好い智慧が出た、造作は無いぞ、明日(あした)昔の先生のところへ年始に行く、其のついでに何か異なものを聞き出そう。そうそうそれが宜い、何か妙なものを聞き出して、老夫を首(はじめ)として変通共に一ト泡吹かせてやらなくちゃあ面白く無い。」
    その三
「妙な事を伺いますが、先生、何か古い書物かなんぞに食物の奇異(ふしぎ)なものか何かございますまいか、少々調べたいことがございますのですが。」
「何を調べるのか知らんが、大分(だいぶ)近来は食物の噂をする事が流行するようじゃな。孟子を忘れたか、忘れてはいかんよ。思うことが出来るような身になった暁(あかつき)に、おそろしい大きな膳を控えて美味いものを食おうというのは、卑しい劣(さも)しい料簡であるのぢゃぞよ。」
「ハイ、それは承知致して居りますが、ちと調べたいものがあるのでございます。易牙(えきが)の事よりほかに何か古い故事なんぞはございますまいか。」
「さればさ、料理の事を可なり詳しく書いてある古いものは、まあ呂氏春秋ぢゃな。」
「へエー、呂氏春秋。」
「そうさ、呂覧の孝行覧のところだと思ったっけ、たしか本味という一篇があった。」
「へエー、食物の名なぞも挙がって居りますか。」
「あゝ、何の肉や何の魚が佳(よ)いというような事もあったと思ったっけ。書(ほん)を出して来て見るがよい。」
「ハイ有りがとうございます、一寸それでは御書斎へ入ります。」
「さあ取っておいで。」
「これでございますか。」
「おゝそれだ、それ此処(ここ)を御覧、何と書いてある。肉の美なるものは猩々(しょうじょう)の唇、貛々(かんかん)の炙(あぶりもの)雋燕(せんえん)の翠(すい)とあるでは無いか。」
「猩々の唇は解りましたが余(あと)は何です。」
「貛々は鳥の名と注にある。多分貛々と鳴く鳥であろう、さ無くば穴熊なんぞでもあろうか。雋燕は子規(ほととぎす)で、翠は鳥の「ひたれ」ともいい膩尻(あぶらじり)ともいうものぢゃ。一体鳥でも獣でも魚でも、肉は皆其の動く部が美味いものであるから、雉なども翠は美味いものと決って居て、遊仙窟(ゆうせんくつ)にも御馳走のことを書いた段に、雉翠(ちすい)の二字があったようだ。」
「しめたッ。猩々の唇はとても得られないが、猿は猩々と同類だから猿の唇が宜い、雉と鶏とは同類だから鶏の尻こぶらを食わせて遣ろう。猿の唇に鶏の尻、ヤ、これあ恐らく珍饌だろう。」
「何だ。」
「イエ此方の事で。もう御暇(おいとま)いたします。左様なら。」
「マア宜いわ、話して行くがよい。」
「いづれ又、左様なら。」
「どうしても帰るのか、是非が無いの。」
「あゝ窮屈な先生の前をやっと脱けた。妙々、猿の唇は両国のもゝんぢい屋で二三匹分買って、鶏の尻も鶏屋で好い加減に買うんだ。そうして当時(いまごろ)有る奴は彼(あれ)あ正当(ほんとう)の新(しん)じゃあ無いけれどまあ兎も角も新で通っている筍(たけのこ)と、独活(うど)かなんぞと一緒にして、そいつに柚子でも振りかけて甘煮(うまに)にして食わせるんだなあ。有り難いぞ。いくらあの老夫(じじい)が食物通だって、よもや得手公(えてこう)の唇やコケコッ公の尻こぶらたあ知音(ちかづき)じゃああるめえから、愚案の甘煮を御評を願いますっていうんで出すと、彼奴(あいつ)の事だから先づ筍を新でないと論じたり、独活を凡俗だと罵ったりするだろうが、得手公の唇に至っちゃあさあ分らねえから、こりやあ何様も異なもんだ、流石に猪美庵子の出品だ、なんぞと褒めやがる。そこで彼奴等に悉皆(すっかり)食わせて仕舞った上、実はキャッキャの唇でげして、しかも牝(めす)のでげすから柔らかでげして、御口触(ざわ)りも宜しうげしたろう、と鉄砲の火蓋を切りやあ、皆(みんな)ダアになって、何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も眼を白黒して嫌がりやあがるだろう。ヤ此奴は有り難い、面白い、そこで何故そんな馬鹿なものを食わせやがったと怒って来れあ、オホン、これは食物通の仰せとも覚えぬ、呂氏春秋に曰わく、肉の美なるものは猩々の唇、貛々の炙、雋燕の翠と本文を引出して止(とど)めを刺して仕舞うんだ。何様な面(つら)を仕やがるだろう、ウッフ、こりやあ堪らねえ。ウフヽヽヽ、ヤ其れあ可(い)いが、人を詛(のろ)えば穴二つで、自分も一寸でも得手公先生と接吻(キッス)だけにしろ仕無くちゃあならないが、こりやあ驚いた、敗北した、ちつとあやまるな、中位(ちゅうぐらい)だナ。ハテナ何とか智慧のありそうなものだが、ウン巧い事を考え出したぞ、鶏の砂肝を似つこらしく切って上へ載せて置いて、自分は先へ一人でサッサとそれを不残(みんな)食べるんだナ。あゝ我れながら妙計々々、こいつあ面黒くなって来たな。大人如何(いかが)でげす得手公の唇は?、何様でげすお半の方、大人は甚(ひど)く得手公が御気に入ったそうで、なぞと嫌がらせを言ってやるなざあ好い気味だなあ。しかし野獣屋(もゝんぢや)へは自身出馬して掛合わ無きやなるまい、得手公の面へ包丁を当てて唇を引剥(ひんむ)くと、其の後から悪く白い歯が現われるなざあ、想って見ても余り好い景色じゃあ無いナ。アヽ何だか厭だ、いっそ会の方は逃げて仕舞って、湯治場へでも二三日行って居ようか知らん。イヤ左様しちやあ一生言われるだろうから左様もなるまい。」
    その四
「何だ古風な状箱に奉書半切(はんきれ)の手紙たあ何様しても彼の老夫(じいさん)は徳川カラだナ。オヤ猪美庵まで連名で厳めしげに何を言って来たんだ。ウー、何だ、ウー、珍饌会だと、これあ好いナ。だが老夫と猪美めで何か企んだに違い無い、うっかりすると冷水を飲まされかねないぞ。何か一ッ彼等の知らないものを調理して閉口させなけりやあ。エヽト何か好い考案(かんがえ)は無いか知らん。ある!、有る!。エスカルゴ!、エスカルゴ!。彼品(あれ)に限る!。蝸牛(まいまいつぶろ)の大きな奴をバタで食うのは徳川カラは知るまい。シュヴェット(野蒜)の刻んだのと一緒になっているのを食うなぞは古風(むかし)の人は知るまい。此方は巴里(パリー)で食べつけて居るから驚かないが、鐘斎老人や猪美庵は食い兼ねるだろう。そこで我輩大きに仏蘭西(フランス)通を振り廻して、平素(ふだん)我輩の事を冷笑して居る奴等を笑い返して遣って、世界の眼という巴里で行われて居るエスカルゴも食い兼ねるような、其様(そん)な薄弱な通人がありますかと言って遣るのだ。日本でも上総(かづさ)や信州では食うということだが、彼等は蓋(けだ)し蝸牛(まいまい)の味は知るまい、定めし気味を悪がる事だろう、そこへ付け込んで、此の蝸牛の滑(ぬる)りとする加減のところに、舌鼓を御打ちなさらないようでは巴里では笑われましょう、と一ト当て当付けて遣ったらば、あゝ好い心持ちだろう。権田(ごんだ)、権田!。」
「ハイ。何御用でございます。」
「汝(きさま)ナ、今日から戸外に出る度に注意してナ、成る可く大きな蝸牛(かたつむり)を採集して呉れ。」
「ヘー、何を採集いたしますので。」
「蝸牛をさ、まいまいつぶろをさ、でんでん虫をさ。」
「かしこまりましたが、何か御研究にでもなりますのですか。」
「イヽヤ食うのだ。」
「ヘッ?。」
「いやさ、食いたいのだから採って呉れというのだよ。」
「ハアッ。」
「採ったら廂下(ひさしした)の三和土(たたき)の上かなんぞに十分湿気を与えて飼って置いて呉れ、十五日までは大切(だいじ)にしてナ。」
「ハイ、しかし定めし這い出しましょうと存じます。」
「汝(きさま)さえよく番をしたら宜(よ)かろう。」
「ハアッ。ハイ、承知いたしました。」
「分ったら彼方(あっち)へ行け。」
    その五
「大変な馬鹿げた用を吩咐(いいつ)かったナア。自費で洋行までして遊んで来て、帰っても何にも為(せ)ずに居られるような此様な結構な身でありながら、何が不足で蝸牛(まいまいつぶろ)なんぞを主人は食べたがるのだろう。野狐が憑くと油揚を欲しがるものだが、何でもこれは家(うち)の主人は、西洋で変てこな物に憑かれたんだナ。それにしても蝸牛を食べたがるのは何が憑いたのだろう。国が異(かわ)ると憑物まで異ると見えて、さっぱり何が何だか当りが付かぬ。」
    その六
「コレコレ権田。」
「ア、また喚んで居る。今度は蚯蚓(めめず)でも食いたいというんじゃ無いか知らん。蚯蚓が食べたいというのなら屹度(きっと)蛙か鮒か憑いたんだが。」
「権田、権田。」
「ハイ、何御用で。」
「汝(きさま)此の手紙と小さな清潔の瓶とを持ってナ、築地の彼(あ)の尼さんのところへ行って、」
「あの西洋人の尼さんですか。」
「左様さ、あの人のところへ行ってマンナというものを貰って来てくれ。」
「ヘ、マンナというのでございますか。」
「左様。」
「蚯蚓(めめず)の類で?。」
「何を言うんだ、そんなものぢゃ無い、天から賜った不思議のものなんだ。」
「ハアッ、天から?。」
「天からさ。」
「どうも段々怪しくなって来た。」
「何だ。」
「ヘエ、此方の事で。」
    その七
「何様です無敵子。鐘斎、猪美庵が凄い事を発企(ほっき)したではございませんか。」
「ナニサ天愚子、公(こう)は人が好いから驚くのだが、驚くにやあ足らないさ。高が鐘斎猪美庵ぢゃあ無いか。向こうでも定めし妙なものを食わせて驚かせようというのだろうから、此方でも思うさま変てこな物を持って行って驚かして遣るさ。」
「でも小生(わたくし)にやあこれという案じもつきませんから、貴下(あなた)の御出品(おだしもの)の御振合(おふりあい)を伺って、其の上で決めようと思って居ります。」
「其様(そう)公のように温順(おとなし)く出られちゃあ仕方が無い。秘中の秘だけれども公だけにやあ僕の趣向を話すとする。僕は先づ酒を一種(ひといろ)出すな。」
「ハヽ、何様いう御酒(ごしゅ)で。」
「名は月桂酒というのだがネ、産地は上州吾妻郡赤岩村という山の中で、一体は薬酒だから慰みに飲むべきものぢゃ無いが、原料(たね)と味とがちょっと可笑しいから、出して驚かすつもりさ。」
「ハヽ、して何が異(かわ)って居りますので。」
「実は蝮蛇(まむし)に香薬を加えて出来て居るので、何にも仔細は無い補薬だけれども、蝮蛇は誰も驚かないからそれに少許(ぽっちり)ばかり硫黄の香(におい)を付けて、蚺蛇(うわばみ)の酒だといって驚かして遣るつもりだ。」
「ハヽ、成程、硫黄臭く仕て置いて蚺蛇酒だというのは驚かしますネ。就きましては小生(わたくし)も一つ酒を出しましょう。」
「公のは何だネ。」
「小生のは朝鮮のスールというので、物は珍しくはございませんが、馬鹿々々しく酸っぱくて味の悪いところが妙でございます。」
「ムヽ好い好い。そういうものが無くっちゃあ鐘斎や辺見を対治するわけにやあいかない。」
「それから茶と菓子は何様でございましょう。」
「何でもよかろう、矢っ張り朝鮮かネ。」
「イエ、茶は番茶も番茶も甚(ひど)い番茶で、実は茶でも何でも無いマイラ木(ぎ)というものの葉でございまして、飛騨の細江という山村の産ですが、其の辺を旅行した人に貰って持って居りました。矢張り渋味のある山家(やまが)臭いものでございます。」
「好かろう。いったいマイラ木たあ何だネ。」
「槭(かえで)の類だとかいう事です。」
「菓子は。」
「これは別段変なものでもございません。砂糖に青海苔を交ぜて衣にかけた豆を京都じゃあ今に信盛豆(しんせいまめ)と申して居りますが、小生の出そうというのは其の本源(みなもと)ので、大根(だいこ)の葉を焙烙で炒って粉(こ)にしたのを塩水で溶いて節分の豆へ掛けるという質朴なものです。ただこれは慶長時分信盛庵で毎年新年に配ったものだという、其の新年というところだけをキッカケにして出そうというのですが何様でしょう。」
「誰も吃驚はしまいが、左様いう無難のものも全(まる)で無くっちゃあ困る。出したまえ出したまえ。しかし公も若手じゃあ通って居る画家ぢゃあ無いか、もちっと恐ろしいものを出さなくっちゃ冷水を呑ませられそうだぜ。」
「どうも小生は気が弱くて、自分で食べられませんようなものは出せませんから。ですがまだ他にも出品(だしもの)を致しますつもりで、漬物には矢瀬(やせ)の柴漬と申して、柴樹(しばき)の木の葉やなぞと一緒に漬け込みましたものを出します。」
「そりやあ名も雅(が)で、物も一寸詩趣があって面白いネ。公の出品には相当して居る。僕も漬物を出すが、僕は蝦夷一点張りだというんで、僕の事を鐘斎なんぞが何とか彼とか冷笑(あざわら)うということだから、意地になって蝦夷地の鯡漬(にしんづけ)を出してやる。何が彼(あ)の脂(あぶら)の強い臭みの高い鯡と一緒に大根(だいこ)なぞを漬けたのだから、慣れない奴は到底(とても)胸が悪くなって食えや仕ないのさ。鐘斎めを其れで甚く悩まして遣るつもりで、其ればかりぢゃあ無い、汁を一ト種(いろ)出して又弱らせるのさ。汁は三平という奴で、魚を塩糠に漬けたのを其の侭(まま)沸湯(にえゆ)へ抛り込むんだから、これまた蛮気甚だしいもので、大抵な食通も閉口さ。」
「そりやあ小生が第一に閉口します。」
「公は其の他にあもう無しか。」
「イエ、まだ美濃の恵那郡あたりで出来ます鶫(つぐみ)うるかというのを出します。これは鶫の腸(わた)を塩でなれさしたものでネ。」
「鶫の塩辛か、そりやあ些(ちと)怖ろしそうなものだネ。」
「それから小生の出品(だしもの)の中の魁首(おしょく)としては、刺身を出そうというのですが、食べかねるものは出しません、刺身はいづれも家鶏(にわとり)の肉を使おうというのでして、ただプリモスロックの胸肉(ささみ)と本黒の烏骨鶏の胸肉とを作り分けにして、何が何の鳥だということを食通先生方に鑑定をして頂こうというところが謀反気です。」
「ム、中々公も温順(おとなし)いけれども異に捻(ひね)るネ。こりやあ鐘斎や猪美庵もギウと詰まりそうなことだ。僕にだけ内々で教えて呉れたまえ、どんなのがプリモスロックだエ。」
「ハヽヽ、聞いて置いて御威張りなさろうというなあ御人が御悪うございますな。プリモスは洋鶏中肉味の第一の鶏(とり)で、肉は甚だ清らに美麗ですし、烏骨鶏は白や桜はそうでもありませんが、本(ほん)の黒絹毛(くろい)のは肉の色もただの鶏とは異(ちが)いますから直ぐ知れますし、特別に滋養に富んでいるという俗説があるので高価の鶏ですから、其処を一ツ高慢をいって頂きたいので。」
「宜しい、ほかの奴等がマゴマゴして居るところで、僕が大きに鶏肉通(とりつう)を振り廻して降参させてやろう。」
「そこで其の刺身にただの物を取り合わせても詰まりませんから、能登の宇出津(うせつ)から出る鱶鰭(ふかのひれ)の貰ったのがありますから、其の筋を抜いて、少許(ぽっちり)ばかり添えようと思います。其の鰭の筋の糸のような、蚯蚓のような、金色のと銀色のとありますが、別の品に見せて実は一ツで、白湯を注(か)ければ銀色になり、茶をかければ金色になるところが秘伝でございます。食通先生等(たち)も支那料理で魚翅(ぎょし)といって用いるものですから品(もの)は知っては居られるでしょうが、悪くすると金銀糸(きんぎんし)の色の出る所以(わけ)は御承知あるまいと思います。」
「成程、公は流石に黙々虫(だんまりむし)で壁を通す方だ。温順(おとなしく)て居て、深くたくらむな。」
「然様(そう)いたしまして天草の鶏冠海苔(とさかのり)を付けるのは何様でございます。」
「ハヽヽ、ン成程、鶏のさし味に、蚯蚓のような金銀糸というもの、そこへ鶏冠海苔なぞは驚いた御悪戯(おふざけ)だネ。面白い面白い。」
    その八
「何ですよ貴郎(あなた)、また今日も図書館へいらっしゃるのですか。そりやあ悪いところへ御出になるのぢゃあ有りませんから何も申すのぢゃあ有りませんが、新年の事ですから珍しい方もお来臨(いで)になるのに、貴下(あなた)が御不在(おるす)ぢゃあ御気の毒でなりませんよ。親類内(うち)や何ぞは何様でも好いとしたところで、詩の御話や何ぞを為(な)さろうと思って御来駕(おいで)の方や何かにやあ、いくら丁寧に妾(わたし)が御挨拶をしたって全然(まるで)無益(むだ)な事ですし、皆さんが不満足なような顔色を仕て御帰りですから、せめて少許(すこし)は家(うち)に在(い)らっしゃって下さいましな。図書館へ行らっしゃらなくったって家にも沢山書籍(ほん)はあるぢゃあございませんか。」
「なに乃公(おれ)だって図書館へ行きたい事は無いのだがノ、乃公も豪條我満堂主人だ、何か一ツ恐ろしい工夫をして鐘斎猪美庵の輩をして顔色無からしめようと思って居るのだ。下らない書(ほん)を読んで変な事を探して居るのだ。これも畢竟(つまり)は汝(きさま)が料理に暗いから起った事だ。そもそも女は、」
「中饋(ちゅうき)といって何様とか斯様(こう)とかと、仰(おっし)あるのでしょう。宜うござんすよ御講釈なんぞは。それぢゃあ彼の珍饌会の御話のために、今日で三日というもの図書館へ御出でになるのですか。」
「そうさ。マサカ我満堂ともいわれる乃公が、下らない食品(くいもの)も出せないから、一同(みんな)をぎゃふんと言わせるようなものを出そうというのでノ、それで図書館に調べに行って居るのだ。それも随園(ずいえん)や眉公(びこう)や笠翁(りつおう)なんぞという野郎の料理通ぢゃあ可笑しくないから、何か変なものがあればと思って探すと、図書館にも根っから書(ほん)は有りやしない。飲膳正要(いんぜんせいよう)、易牙遺意(えきがいい)、妙饌集、饌史、続遺意、飲食須知(いんしょくすち)なんぞというものは名は知っているが、書(ほん)は見やしない。」
「あなた、妾(わたくし)にそんな不足らしい顔をなすって書の談(はなし)を仕掛けたって仕ようがありません。それにしても馬鹿げて居ますネ、珍饌会だなんて。あの鐘斎さんなんていう方は、途方も無い方なんですもの。いつかも御出臨(おいで)になって御酒(ごしゅ)をあがった時、妾が精進揚げを仕てあげましたが、蓮根(はす)や胡蘿蔔(にんじん)を出そうものなら俗だ俗だと御罵(おくさ)しなさるに定(き)まっていますから、話にばかり聞いていた虎耳草(ゆきのした)の天麩羅を製(こしら)えて上げましたよ。左様すると何様でしょう其れを召上がって、これは虎耳草ですナ、甚だ妙です、流石に御令閨は茶気(ちゃき)が御有んなさる、と変に沈着(おちつ)いて澄まして褒めるんですもの。それから余(あんま)り憎らしいので、雪隠(ちょうづば)の傍に生えて居た槖吾(つわぶき)の茎の天麩羅をこしらえて黙って食べさせたら、妙な顔つきをして我慢して食べながら、何様も御令閨の博通には敬服いたしました、此品(これ)は流石の愚老にも分りかねますが、蓋し雅品の尤(ゆう)なるもので、此の苦渋のところが何ともいえません、一体これは何というものです、後学のためにうかがい度い、と褒めて居ると、貴郎(あなた)がまた知らないと言うのが口惜しいものだから、大人の御褒めに預って甚だ満足で、これは台湾産のアンヤンシーという野菜でございます、と変痴奇(へんちき)な顔を仕ながら挨拶して在(い)らしった其の時の樣子ったら有りや仕ませんでした。妾は台所(だいどこ)の方から覗いて見て一人で涙をこぼして笑って居ましたヨ。あんな馬鹿げた人達が骨を折って変なものを持寄る会なんぞへは、生命(いのち)が惜しい中(うち)は御出(おで)なさらない方が宜うござんすよ。強(たっ)て御出席(おいで)なさるなら五千円取り位の生命保険を付けてからになさい。そうしてお馬の遺(おと)し物の天麩羅でも持っていらっしゃるが宜うございましょうよ。左様すりゃあ、貴下が死んでも妾は困りませんから。」
「此奴、人を俗了(ぞくりょう)する。甚だしい悪語を放つ奴だ。しかも彼の日は幾何(いくら)糺(ただ)しても言わなかったが、今の白状で聞いて見りやあ良人(ていしゅ)に槖吾の天麩羅を食わせやがったノ。」
「だって、貴下が口癖のように、下らないものばかり食わせる、智慧の無い奴だ、何か工夫をしろ工夫をしろ、歌客(うたよみ)は毎日々々新しい歌を詠む、乃公は毎日々々五古(ごこ)や七律(しちりつ)の四篇五篇は屹度作る、それだに女性(おんな)たるものが、何時(いつ)も何時も同じものばかり人に食わせて居て済むと思うか、まごまごすると流行(はやり)ものの「食心坊(くいしんぼう)」の背後(うしろ)に三行半(みくだりはん)を書いて横っ面へたたき付けて遣るぞ、と妾に仰やるから、一生懸命に工夫して新手を出したのですハネ。」
「馬鹿ッ、いくら新手だといって槖吾を食わせるという事があるものか。そんな平仄(ひょうそく)も韻も構わ無いような事をされて堪(たま)るものかコラ。」
「だって珍饌会なんかは猶おの事、韻も平仄も無茶でしょうヨ、わざわざ危ないものを食べっ競(くら)するんぢゃありませんか。」
「ハヽヽ、こりやあ違無い。ぢゃあ嶮韻(けんいん)カナ。ハヽヽ。何でも可い、行って来る。」
「ア、とうとう出ていらっしったよ。ほんとに心配でなりやしない、彼の勢いで変てこな本の中から変なものを見つけようというんだもの。何様なものを人様に食べさせようという事になるか知れやしない。良人(うちのひと)が左様だから人様も左様だろう。定めし槖吾のような理屈のものばかり出る事だろう。あゝ恐ろしい、怖ろしい。」
    その九
「権田、権田。」
「ハイ、何でございます。」
「何様だ、蝸牛(まいまいつぶろ)は余程採集出来たか、今日は十五日で其れが要(い)る日だが。」
「ヘッ。ハイ。」
「ハイではいかん。何様したのだ。」
「実は一生懸命に採集は致しましたが、晴天つづきなので、中々見つかりません。それがため大きに苦心いたしました。」
「フン。」
「藪陰の湿地だの、塵捨て場のようなところだのを注意致しまして、落ち葉の腐りかかったのや木片(きぎれ)藁屑などの朽ちかかりを掻き除(の)けたり致して探して居りますと、朝報社(ちょうほうしゃ)の債券でも取ろうとして居るのかと思いまして、ヤアあの慾張りの顔を見ろやい、左様巧く掘り出せるものかいッ、と小児(こども)が囃すので実に弱りました。蝸牛を捜して歩いて居て、慾張り書生だというんで往来の人に顔を見られるのは実に心外でした。」
「こりやどうも些(ちっと)気の毒だったナ。しかし日数(ひかず)も有った事だから大分(だいぶ)採ったろうナ。」
「ハイ。採る事は随分捕りましたが、仰やった通りに湿気を与(や)りますと、中々威勢(いきおい)が出るものでございまして、何時の間にか何処かへ逃亡して仕舞いますので、折角捕りました大きな奴は七八分通りは逃げました。そこで湿気を与えずに置く事に致しましたら、また今度は乾いて枯(から)びて仕舞ったのが多うございます。」
「困るナ。では大きな奴は幾個位(いくつぐらい)ある。」
「一寸以上の殻の奴はやっと五六個しか御座いません。」
「仕方が無いナ、それんばかりでは。コレ汝(きさま)も堂々たる大丈夫では無いか、その大丈夫たるものが十数日を費やして蝸牛を捕るのに、たった五六個しか捕れんとは何事だ。意気地無しめ。」
「ハイ。」
「ハイでは無い、今になって蝸牛(まいまい)が無くっては此の辺見の男が立たん。」
「ハアッ。蝸牛(まいまいつぶろ)が無くっては男児(おとこ)が御立ちになりませんか。」
「立たんは、立たんは、男児が立たんは。手ぶらで出掛けては高襟(ハイカラ)を以って鳴って居る此の辺見の顔が潰れるは。高襟男が棄(す)たって仕舞うは。」
「ヘッ、蝸牛が無くっては高襟男が棄たりまするか。」
「如何にも廃(すた)るナ。」
「左様いう訳でございますなら一生懸命になりまして、是非とも後刻(のちほど)までには三四十個は差し出しましょう。」
「頼む頼む。是非探して呉れ。」
    その十
あゝ落胆(がっかり)した、何様も見つからない。仕方が無い、無いものは無いというばかりだ。考えて見りやあ馬鹿々々しい。蝸牛(まいまいつぶろ)が無くったって有ったって男が上がったり下がったりする道理も無い。好い加減にして置こう。下らない。帰ろう帰ろう。」
「おゝ待って居た。何様した蝸牛は。」
「何様もございません、たった一個(ひとつ)捕って参りました。」
「たった一個だと、そりやいかんナ。馬鹿ッ、何故(なぜ)そんな意気地の無い事をいうのだ。困るでは無いか、分らないナ、蝸牛(まいまい)が無ければ男が棄たるというのに。」
「何様もございませんから是非が有りません。何卒(どうぞ)男をお棄て下さいますように。」
「馬鹿ッ。何をいう、痴漢(たわけ)め。今日珍奇な食物を持寄る会合がある、其会(それ)に持出して一同(みんな)に食わせて遣ろうというのだから、是非とも無くてはいかん。探せ探せ。」
「困りますな、死んで乾涸らびたのなら三四十もございますが、あれでは御間にあいませんか。」
「いかん、生きて居るので無ければ。」
「とても、もう見つかりません。」
「是非見つけろ。見つけて来ないと洋杖(ステッキ)だぞ。」
「逃げます小生(わたくし)は。御暇(おいとま)をいただきます。」
「憎い奴だ、主人の命を用いないで勝手に逃げ去るなら、給金の前貸しを今弁償しろ。」
「アヽ困りましたナア、探します、探します。」
「是非探して来い。待って居るぞ。」
    その十一
「是非が無い、これだけ探しても又たった一個(ひとつ)だ。仕方が無い、謝罪(あやま)っても承知されなければ何様でもしろ。ヘイ只今帰りました。」
「有ったか。」
「ございません。小生も出来るだけは探しましたが見つかりませんから、尋常な御処置を受ける覚悟を致しました。」
「仕様が無いナ、我輩は泣きたくなるぞ。」
「小生も泣きたくなります。」
「ほんとに泣かされるナ。」
「ほんとに泣かされます。」
「アヽアッ。」
「アヽアッ。」
「困ったナア、今さら新規に工夫も無し、何とか智慧はあるまいかナ。」
「何様でございましょう、蝸牛(まいまい)の代わりに蛞蝓(なめくじ)では。」
「蛞蝓?。」
「ハイ。」
「蛞蝓は我輩も食べた事は無いが、蛞蝓ならば沢山(たんと)あるのかナ。」
「蛞蝓ならば裏に棄ててある明樽(あきだる)の底に三四十も聚(かたま)って居るのを見つけて置きました。」
「蛞蝓と蝸牛とは、」
「従兄弟(いとこ)同士で、」
「馬鹿をいえ。食う段になっては大変な相違だ。蛞蝓の方は消化が悪そうだナ。」
「しかし高が野ぶせりと大名との違いで、家の無い奴は皮が硬(こわ)い位のものでしょう。」
「でも、どう考えても蛞蝓にバタを付けたのぢゃ食えんからナ。」
「アヽ好い事を考えつきました。貴下は真正(ほんと)の蝸牛(ででむし)を召上がって他の方に蛞蝓を御廻しなすったら何様です。」
「アヽこれは好い、智慧者(ちえしゃ)、智慧者。他の奴には蛞蝓の方が却って面白い。乾涸らびたのが有るこそ幸いだ、其の殻さえ見せりやあ、料理人が不熟(ふなれ)で殻と離れたのだといって胡麻かしても済む事だ。では先づ活きたのを茹(う)でて栄螺(さざい)を扱うように腸などを去って、野蒜の繊塵(こまごま)したのと一緒にまた殻へ詰めて、バタを殻の口のところへ塗って置いて呉れ。正当(ほんとう)の分は我輩が食うのだから注意して調理しろ。それから蛞蝓の方は好い加減に煮散(にち)らかして、乾涸らびた蝸牛(まいまい)の殻とごちゃまぜにしろ。野蒜とバタとを適宜に塗(まぶ)してナ。」
「かしこまりました。」
「やっと安心した。アヽ嬉しい、鐘斎我満堂等に蛞蝓を食わせるのは有り難い。」
    その十二
鐘斎 「天愚先生の御出品で、先づ座着(ざつき)の御菓子と御茶とは済みましたが、乃公(わし)がマイラ茶と指したところなどは何様でございます。」
天愚 「何様も鐘斎大人の御鑑定には恐れ入りましたわい。」
猪美庵 「此の妙に臭い変に渋い、しかも茶のようで無いところが脱俗していて異(おつ)でげす。」
無敵 「信盛豆は質朴古風で最も佳でした。美味く無いところが面白いです。」
我満 「左様だ。食品(くいもの)は何でも美味いようぢゃあ論ずるに足らんノ。」
猪 「さて無敵先生御出品の名酒でげすテ。」
辺見 「普通の酒のようで薄曇りに濁り気味の少しあるところが妙ですナ。アッ変に酸味(すみ)があって硫黄臭い。」
鐘 「フヽム、成程硫黄臭いが、酒に硫黄の入る筈は無し、植物に硫黄気は無し、すべて動物は乾いた皮と皮とを擦(こす)れば硫黄臭が発する、それにまた腥(なまぐさ)い気が極少し有って、味は一種の滋味(だし)を含んで居る。そこから推すと蓋し此れは蛇酒の類だが、硫黄臭いから蚺蛇酒(うわばみざけ)でもありましょうか。」
猪 「産地は何処でしょう大人。」
鐘 「九州で無いことは焼酎を台にして居ないので察せられます。蛇は草深く地暖かに水あるところに多いものですから、先づ野州上州、出羽の内の温泉地などと考えますナ。」
猪 「ナ、なる、なる。我満堂先生の御考は。」
我 「鐘斎大人と同辺の考ですノ。但し上州吾妻に有名な蛇酒の有る事を聞き及んだが、硫黄臭いとは聞かんかったノ。」
無 「恐れ入りました。御鑑定通り、産地まで御指しの通りでございますが、ただ此れは普通(なみ)の月桂酒と申すのでございませんで、全く非常な蚺蛇をもって製しましたので。」
鐘 「イヤ実に珍物貴ぶべしでごす。」
辺 「いよいよ蚺蛇の酒ですか、アッ、ゲッ、グッ。」
無 「ハヽヽ辺見君、如何(いかが)でございます今一盞(いっさん)。」
我 「マサカ蚺蛇を怖れもなさるまいノ。此の酸い臭いところが何ともいえん。」
無 「左様々々、酒は酸く無いようぢゃあ凡品でございますナ。」
辺 「ゲッ、グッ、畜生(ちきしょう)今に見ろ。」
猪 「何でげすかネ。」
辺 「此方の事です。」
猪 「嘗物(なめもの)一二箸(ちょ)ほどづつ、天愚先生の御出品で。これは小生(わたくし)は美濃の鶫(つぐみ)うるかかと味わいました。」
鐘 「如何にも其の通り。これを珍饌会へは、天愚先生乃公(わし)共を甘く御覧になり過ぎたようですナ。しかし辺見さんなどは御気に入りでございましょう。」
辺 「失礼ながら余り珍しくも存じません。」
天 「いや一言もござりません。猪美庵君、続いて小生(わたくし)のを御出し下さい。」
猪 「刺身でげすナ。ハヽア鶏(とり)でげす。」
我 「大金張(だいきんばり)は天愚子にも似合わん。」
天 「鶏には相違ございませんが詳(よ)く御吟味を。」
無 「成程、これは皆さん如何御味わいで。」
鐘、猪、我 「ムー。」
辺 「此の美しい肉はプリモスロックの胸肉(ささみ)と承知しました。」
猪 「これは鶏冠海苔(とさかのり)。」
我 「これは支那料理に使う鱶の鰭の筋で。」
鐘 「そんな事は知れきって居ますな、此れは金銀糸といって茶を注(か)けたのが金色になるのです。ただ此の色のおかしい肉が分りません。」
無 「これは真の黒の烏骨鶏で、これを鐘斎大人の御存知無かったのは日月も蝕(しょく)ありでございましたナ。」
鐘 「恐れ入りました。天愚先生に一本頂戴致した。罰杯を辞しません。」
猪 「天愚先生の御出品を今度は進じましょう。」
鐘 「ハヽア、此酒(これ)は賢人で、オヽ身顫(みぶるい)の出るほど酸い。成程無敵子が酒は酸く無いようぢゃあ凡品だと仰あったが、酸い酒だ、凡品で無い。しかし天愚子、此酒(これ)は感服しませんナ、朝鮮のスールで。」
天 「これは御明察、恐縮々々。蚺蛇酒を罰せられましょう。」
無 「汁が熱くなりましたらば何様か。」
猪 「今順々に上げます、無敵先生の汁で。」
鐘 「ム、臭い。三平汁ですナ。」
我 「臭いノ無敵子、食えんぢゃ無いか此様(こん)なもの。」
辺 「驚きましたナ、臭いものですナ。」
無 「ヤ我満堂先生、食えんものは差上げません。御風味をなさらないのは御自由ですが、約束通り冷水(ひやみず)一升を御飲みになって酒一駄を御出しになるのは御承知でしょうネ。」
我 「イヤ今のは粗忽々々、臭くは無い、好い香(におい)で。沢庵の糠と鰮(うるめ)の生焼けとを食うと思やあ論は無いもので。ウン、ウーン、ハア、フッ、フッ。」
辺 「沢庵の臭いばかりなら好いですが、遠方(とおく)には腸樽(わただる)のような臭いがしますナ。」
無 「イヽエ、そんな悪い臭いは致しません、此汁(これ)が召上がられんようでは食通とは。」
猪、鐘、天 「然様(さよう)、食通とは中々申されません。フッ、フッ、フッ、臭いから吹くのではありません、熱いから吹くので。フッフッフヽッ。」
無 「ハヽヽ辺見君は目を瞑(ふさ)いで御食(おあが)りですナ。」
辺 「猪美庵君大急ぎで其のスールを下さい、アヽ酸っぱい、顫(ふる)え上がる。」
猪 「無敵先生甚だ結構でげした。御覧なさい、皆さんが泣きながら召上がりましたぜ。感涙をポロポロ流して召上がったのでげす。」
無 「僕の出品の汁が是れ程皆さんの御意(ぎょい)に入ったかと思うと実に本懐です。」
辺 「猪美庵君、御願ですから僕のを早く出して下さい。」
猪 「イヤもうこうなっちゃあ早く自分のを出して他(ひと)をいきつかせなけりやあ。」
辺 「エ、何ですって。」
猪 「マア御待ちなさい、今度は猪美庵のを出しやす。さて拙(せつ)のは甘煮物でげす。見体(けんたい)がよろしうございませんから御疑いもありましょうから、先づ自らこの通り鬼役(おにやく)を致します。」
天 「大層一時(いちどき)に御頬張りですナ。」
猪 「ムニャ、ムニャ、ムニャ。この通り鬼役を致しましてございやす、何様か何分御評(ごひょう)を願いやす。」
無 「妙に猪美庵先生御澄ましですナ。」
鐘 「筍は新といってもこれは去年既に根の末へ出た奴で論になりませんし、独活(うど)も凡々言うに足らずですナ。」
我 「此の鳥の皮のようなものに見えますのは。」
鐘 「矢張り鳥には相違ありませんナ。」
猪 「敬服いたしました、御鑑定通りで。」
天、辺、無 「此のもう一つのものが分りません。」
我、鐘 「ハテナ。」
猪 「いかがです。」
我 「分らんノ、全く珍だ。」
鐘 「ハテナ。」
一同 「全く珍だ、分りません。」
鐘 「ハテナ。」
一同 「大人にさえ分りませんか。」
鐘 「ハテナ。エヽト、あゝだに依って此様(こう)で、此様だによって彼様(あゝ)かナ、ハテナ。」
猪 「兎に角皆さん、宜しうございましたか。」
一同 「美味かったが分りません、何ですナ猪美庵さん。」
鐘 「とうとう猪美庵子にあやまらせられた。分らない、冑(かぶと)を脱いだ。」
猪 「そんなら申しますが、彼品(あれ)は実は、」
一同 「彼品は、」
猪 「鶏の尻の尖処(とんがり)と、」
一同 「も一つのは、」
猪 「猿の唇で、得手(えて)先生の唇でげすよ。」
一同 「エーッ。何ッ、猿の唇だって。こりやあ堪(たま)らない。汚い汚い。ペッペッ。」
辺 「そんな馬鹿なものを食べさせる理屈がありますか。ベッベッ。」
猪 「胸倉(むなぐら)を取っちゃあ困りやすナ。苦しうげすよ。泣きながらこづいちゃあ困りやすナ。我満堂先生、唾液(つばき)をひっかけるなあ甚(ひど)うござりやす。」
鐘 「然(しか)し猪美庵子が余り酷(ひど)いものを食わせるから悪い。」
猪 「これは怪しからん、そんな事を仰あるとは何事でげす。苟(いやしく)も珍饌会でも開こうという先生方ぢゃありやせんか。猪美庵拠(よりどころ)の無い無茶な事は決して致しやせん。先生方に御承知が無いとは言わせやせん、呂氏春秋の本味の段に、何とごぜいやす。オホン、それ肉の美なるものは猩々(しょうじょう)の唇、貛々(かんかん)の炙(あぶりもの)、雋燕(せんえん)の翠とあるぢゃあげえせんか。」
鐘、天、無 「ムヽ、はゝ、結構です、珍です。」
我 「もう宜(い)い、もう宜い、分った、分った。諸君仕方が無い、猪美庵に計(や)られた。」
辺 「アヽ仕方がない。それは諦めるとして、さあ、今度は我輩の出品だ。我輩の出品は蝸牛(まいまいつぶろ)です。さあ猪美庵君召上がって下さい。」
猪 「何でげすって、蝸牛(まいまい)でげすって。」
辺 「さあさあ猪美庵君、是非召上がって下さい。我輩は君のように暗撃(やみうち)は致しません、明らかに申して置きます蝸牛(まいまいつぶろ)です。」
猪 「そう急(せ)き込んで野暮(やぼ)に御責めになっちゃあ困りやす。食ってかかるという事あ聞きやしたが、食わせにかかるというなあ初めて聞きやしたナ。いくら珍饌会でも蝸牛(まいまいつぶろ)は甚(ひど)うげすナ。小人国の雛祭ぢゃあ有るめえし、栄螺(さざい)に似て非なるものなざあ食えねえだろうぢゃげえせんか。」
辺 「食えんものを出すような無法は致しません。此の通りソレ食べて御覧に入れます。これを御存じ無いとは言わせません、猿の唇まで召上がる貴下ぢゃあ有りませんか。苟も巴里(パリー)に遊んだものの食わぬことは無い筈のエスカルゴです。ソレ又食べて御覧に入れます。アッ、グッグッ。(小声独語)失敗(しま)った、従兄弟(いとこ)の方を慌てて食った。」
猪 「何様かなすったか、御苦しそうですナ。」
辺 「ナアニ、ゲッ、グッ、グッ。」
猪 「涙を墜(こぼ)して其様(そん)な顔をなすって召上がるのは。」
辺 「ナアニ、ゲッ、グッ、それ何でもありません。余り久しぶりで食べて美味かったので思わず悦び涙――嬉し涙が出たのです。此のシュヴェットの香気(におい)とバタの味とがエスカルゴの固有の味に働く工合(ぐあい)は何ともいえません。調理人が不熟(ふなれ)で大分(だいぶ)殻と離れたのがありますが、召上がり慣れない方にはかえって殻を目近くならさんがよいでしょう。さあ是非召上がれ召上がれ。」
猪 「でも蝸牛(まいまいつぶろ)をバタで食うなあ凄うげすネ。これが食える位なら正真(しょうじん)山男と名乗って浅草の奥山で好い銭(ぜに)を取りやす。」
辺 「いやそんな野蛮な沙汰ぢゃ有りません、文明的紳士の食べるもので。」
無 「ハイカラという語(ことば)は、此の料理の肉(み)だけを食って殻を棄(パイ)するところから出たので、語原上(エチモロヂカル)にいえば、ハイカラは即ちパイカラの転訛(てんか)でございますかネ。アヽ凄い。」
我 「ナニ凄い事も何もあるものかノ。辺見君が現在食べたでは無いか、どれ乃公(おれ)も食おう。猪美庵子も食(や)りたまえ。グシャリ、ムウムヽヽッ。これはッ、ムヽヽムッ。」
鐘 「猪美庵子にも似合わない、此の噂に聞及んだ蝸牛(エスカルゴ)という珍料理を食いかねるなんぞとは。ドレ、ドレ、グシャリ。ウヽッ、これは。ウヽッ、ゲッゲエッ。ン、ウーン。あゝ珍中の珍だ、頗(すこぶ)る妙です。イヤ流石は辺見先生の御出品で、鐘斎七十五日生延びましたナ。サア猪美庵子食りなせえ。」
無 「僕もやります。」
天 「小生(わたくし)もも食りましょう。何でも我輩(われわれ)美術仲間でも和田君久保田君なぞはエスカルゴ通で、これにも葡萄畑の出と無花果畑の出とは那方(どっち)が佳(い)いというような研究があるそうです。」
鐘 「左様々々、長田君とやらが、たしか此れの大通だとかいうことを聞いて居りました。」
辺 「天愚君の御説の通りですから、葡萄の葉の形の皿に載せて、月の雫(しづく)を日本式的に置き合わせました。」
鐘 「細かい細かい、敬服々々。」
無、天 「さあ猪美庵君も召上がれ。われわれも食(や)ります。グシャリ、ウヽッ、グッ、グッ、ハアッ、これは何様も、何様もこれは。」
辺 「猪美庵君いかがです、冷水でございますか。」
猪 「アヽ情無い、仕方が無い、喫(や)りやす。(小声)南無象頭山金比羅大権現成田山不動明王。グシャリ、アヽ此奴あ、あゝ、ん、あゝ。」
我 「何様だ、美味いだろう猪美庵。しかし左様涎(よだれ)をたらたら垂しては汚いノ、牛みたようだノ。」
無 「兎にある病気ですナ。」
辺、天、鐘、我 「ハヽハヽハヽ。」
猪 「あゝ驚いた死ぬかと思った。実に珍妙でげす。不思議でげす。」
辺 「まだ一種(ひといろ)我輩の出品の、酒類では無い飲料(のみもの)を差し上げます。」
天 「何でございます、其の水の入っております壜の中に見えて居りますのは。頓(とん)とハラヽゴの粒々(つぶつぶ)が解(ほご)れたような、鰊鯑(かずのこ)の古びたような厭な色合のものは。」
無 「植物か動物か麹(こうじ)のようなものか、正体の知れない不気味なものですな。」
辺 「これは、」
鐘 「皆さん此品(これ)を御存じないの、あゝ御若いナ。辺見先生、それはマンナでございましょうナ。」
辺 「いかにも其品(それ)です。これに黒砂糖を点(おと)すと小さな気泡が立って、水は宛然(ちょうど)ラムネに似たような飲料(のみもの)になります。ただ此れは水を飲むので此品(これ)を飲まないのでして、此品は水へさへ入れて置けば段々に繁殖して、尽きる時の無いのが一つの不思議です。」
鐘 「神様が以色列人(イスレエルじん)にたまわったものだけの事はありますナ。小梅にいた瑞典人(スエーデンじん)から段々伝わったそうで、露伴(ろはん)という人のところで飲んだ事がありました。サア頂戴します。これは妙です。」
無、天、我 「成程これは妙なものですな。サア猪美庵君いかがです。」
猪 「段々凄(ものすご)くなって参りましたナ。オット少量(すこし)で沢山です。成程妙ですナ。」
鐘 「今度は我満堂先生ですが、定めし奇物で。」
我 「いや家内の者に持参致すようにと申しつけ置きましたが、まだ参りません。何様か大人のを。」
天、無、辺 「イヨ鐘斎大人の御出品、刮目(かつもく)して拝見いたします。」
猪 「何だか怖くなって来て胴顫(どうぶるい)がする。」
鐘 「乃公(わし)は最後の心算(つもり)でしたから、鍋類を一種(ひといろ)に、それから食後の菓子と茶とを献ずる趣向です。先づ茶菓は珍物ではございませんが、彼処(あれ)に備えました。ただ新年らしく目出度気(めでたげ)に致したところを御笑い下さいまし。即ち彼(あ)の朱色(しゅしょく)のものは越橘(はまなし)の実で、富士山の産でございますし、今一種は胡鬼子(つくばね)の塩漬で筑波山の産です。富士の方には白砂糖の雪のかかって居るところなどを御笑い下さい。」
猪 「御趣向々々々。」
鐘 「そこで御茶に用います水は隅田川で汲ませまして、」
猪 「嬉しい。」
辺 「汚い。」
鐘 「御茶の銘はと申しますと、河柳(かわやなぎ)。」
天 「すっかり御茶番ですナ、ハヽヽ。」
鐘 「しかも茎ばっかり。」
猪 「冬枯れの葉を振るった景色は、利きました、利きました。」
無 「御茶菓は尽く結構ですが後で頂戴(いただ)くとして、その鍋と仰あるのは。」
鐘 「お半、其の土風炉(どぶろ)を真中(まんなか)に出してナ、箸盆(ちょぼん)に小皿、片瓢(へんぴょう)、箸を載せたのを御一人(おひとり)づつに進(あ)げろ。さあ皆さんずっと風炉の周囲(まわり)にお進み下さい。」
天 「何でございますか、どうも、大層な御趣向でございますナ。」
猪 「いづれ大変な事らしい、恐ろしい恐ろしい。」
我 「猪美庵子顫えているでは無いか。」
猪 「ナニこれは早く食(や)ろうという武者顫(むしゃぶるい)で。」
無 「食物を食うのに武者顫をするという奴が那処(どこ)にあるものか。」
猪 「お鍋さんが大盥(おおだらい)を持ったお兼という身で鍋をお持ち出しだ。あゝ大きな立派な深い鍋でげすナ。」
我 「朝鮮ででもあると見える、大層味(あじわい)の佳い大きなサハリの鍋だの。流石大人の所有(もの)だけある。イヤ、御珍器を拝見したばかりでも結構です。」
鐘 「御賞詞では恐縮です。」
天 「火が熾盛(さかん)ですから、もうそろそろ沸きます。」
辺 「何だが中でもって動いて居るようです。」
猪 「泥鰌でげしょうかネ。」
無 「猪美庵君の言(ことば)を聞いて主人公が冷笑を浮べられたから左様ではあるまい。」
天 「いづれ怖ろしい珍物でしょう。しきりと動いて居ます、恐(こわ)くなります。」
我 「もう蓋(ふた)を取っても宜うござるかノ。」
鐘 「乃公(わし)が蓋を取ります。さあ御覧なすって下せえ。」
一同 「ヒ、ヒヤアッ。」
辺、天 「こりやあ堪(たま)らん。こりやあ堪らん。」
猪 「驚きやしたネ、何ぼ何でも。こりや堪りやせん。虫の毒です。見たばかりで厭な心持になって参りやす。」
鐘 「ウフン、オホン、何故左様皆さんは尻込をなさります。」
猪 「だって驚きやす、此の鍋は何です。御工夫は大したものですが二タ目とは見られないぢゃげえせんか。」
鐘 「アッハッハッハッ、猪美庵先生にも似合わねえ。イヤ疾(とう)に御承知でしょう、御装愚(おとぼけ)なさつちゃあいけません。これは百粤(ひゃくえつ)の抱竽羹(ほううこう)という料理に、乃公が少々新意を加えたのです。それ湯が段々と沸(に)え上がりますると、中に游(およ)がせてある蝦蟇(がま)先生が逃げ路を探します。ところが周囲(まわり)は直立(すぐだち)の鍋で熱いから手がかかりません。すると鍋の真ん中のところに蓮根(はす)が二本束(つか)ねて立ててございます、――それは花道(はな)に用います鉄の花留(はなどめ)の厳乎(しっかり)したので留めてありますから倒れる気遣いはありませんが、其の蓮根(はす)は湯の面(つら)より二寸ほども出て居るので、湯よりは熱くなく、且つ又鍋の肌とは違って手がかりも宜いから、蝦蟇は其の蓮根を便宜(たより)にして其れから逃げようとします。其の中(うち)に湯はいよいよ沸騰しますと、蝦蟇は蓮根を抱いたなりに熟して仕舞います。そこで抱竽羹という名もあるのでしてナ。」
我 「如何にも如何にも。唐の尉遅枢(うっちすう)の南楚新聞に見えて居ますノ。小竽(しょうう)を蓮根(はす)になすって妙に牽強(こじつ)けて御工夫なすったところは敬服々々。」
鐘 「流石に先生です。出処を御指し示し下すったは有り難い。さて本文に拠(よ)りますると、疥皮(かいひ)と申して、皮のぼろついた汚い奴が最も佳とありますから、二匹は其蟇(それ)が入れてございまする。それから赤蟇(あかひき)の大なるが二ツ、ただの青蛙(あおがえる)の絶大のが二ツ、都合三種を入れ置きました。当時は亜米利加(アメリカ)でも蝦蟇を食いますし、辺見さんは御承知でしょうが仏蘭西でも、グルヌイユとか何とか申して食うそうですナ。日本でも京阪では蟇(かえる)と言わずに、銭を取って食わせているのは通客は御承知、赤蛙赤蟇は小児(こども)でも食べます。そもそも泥鼈(すっぽん)というものは、」
我 「オット大人御説明には及ばん、この座に大人のこの御馳走を嬉しがらないものは恐らくござらん。」
猪 「アヽッ然様(そう)ですとも然様ですとも。実に珍品でげす、奇絶でげす。尻込みなんぞは致しやせん。もう斯様(こう)なりゃあ死物狂(しにものぐるい)で食いやす。オーヤオヤ、赤蟇と黒蝦蟇と青蛙めとが、眉間尺(みけんじゃく)のように蓮の周囲をぐるぐる廻っていやがる。此畜生(こんちくしょう)黒蝦蟇め、怖(おっかな)い眼をして乃公(おれ)の顔を睨みやがるナ。こいつあ堪らねえ、可厭(いや)だ可厭だ。ヤイ其方(そっち)を向いて呉れ拝むからよ。恨むなら鐘斎を恨め。乃公の所為(せい)ぢゃ無え。アッ、今度は赤蟇が遣って来やがった、堪忍(かに)して呉れやい異(おつ)な眼で睨むなあ、乃公(おら)あ後で卒塔婆(そとば)の一本も立てて車前草(おんばこ)でも供(あ)げて与(や)るからヨ。南無、南無、南無、五右衛門蟇(ごえもんがえる)!。辞世があるなら言って置きねえ。あゝとうとう熟(に)えちゃった。好く無え醜態(ざま)だナ。」
鐘 「さあ御好きずきに皿へお取りなすって、塩や胡椒は御自由に、汁は鍋から直ぐに片瓢で御掬(おすく)いなすって。」
猪、辺 「わたくしは赤蟇を。」
無、天 「僕は青蛙(あおいの)を。」
我 「然らば我満堂は大人と共に尤物(ゆうぶつ)を。」
鐘 「さあ何様か、皆様(さん)。」
我 「猪美庵子、むったりなんぞして何事でござる。骨も何もあった訳のものぢゃあござらん、如是(かよう)に頭からもりもりと食(や)らなくちゃあ、苟(いやしく)も抱竽羹でも食おうというものの真骨頭(しんこっとう)無しだノ。ソレ御覧なさい、塩をつけて此の通りに、アーンと口を開いて、黒蝦蟇の脳頂(のうてん)から。」
猪 「アッ驚きやしたナ、其の顔つきにゃあ。どうも口髭のもじゃもじゃと生えている中から蝦蟇の両手がにょっきりと出て居るなざあ、付紐(つけひも)が口の辺(はた)から下がっている御閻魔(おえんま)さまの式(かた)がありやすナ。」
天 「御覧なさい、鐘斎大人のいやにひょろ長く出て居る二本の前歯の物凄いこと、まるで人間ぢゃあ有りませんナ。」
我 「ン、中々美味い、実に絶品だ。どうです青や赤は。なんだ未(ま)だ持て余しているのか、意気地が無い、食りたまえ食りたまえ。」
猪 「ウヘェー。」
天、辺、無 「食りますとも。」
鐘 「まづ乃公(わし)と我満大人とは食って仕舞いましたナ。余の諸先生は甚(ひど)く謙退ですナ。猪美庵子、赤を半分助(す)けましょう。」
我 「此の珍品を食い澱(よど)むなどとは頼もしくない。天愚先生、乃公(おれ)に其の半分を遣(よこ)したまえ、青も試(や)って見るから。」
鐘 「お半や洋刀(ナイフ)を持って来い、お半やお半や。」
お鍋 「お半さまは、ハア。」
鐘 「何様したお半は。」
鍋 「たった今旦那様が大(でっか)い蝦蟇の頭へ、アングリと口を開(あ)いて咬(かぶ)っ着いたところを見なさるとネ、」
鐘 「ウン。」
鍋 「ホーと言って吃驚(びっくり)なさっただがネ、それから飄然(ふい)と戸外(そと)へ出て行ってお仕舞いなすってでがすよ。」
鐘 「汝(きさま)止めなかったか。」
鍋 「止めたら黙って頭(かぶり)振ってでがした。」
猪 「ホイこれは飛んだ事だ、追駈(おっか)けましょうか。」
鐘 「ハヽヽ、猪美庵子見苦しい、捨て置くべしだ。賎婢(せんぴ)我れに於いて何か有らんやだ。それよりも此の赤蝦蟇の冷えるのが惜しい。洋刀(ナイフ)にも及ばん皆貰って食おう。ムシャムシャムシャ。ア、美なるかな蝦蟇や。」
我 「偉いッ!流石は我が党の宋公明(そうこうめい)だ。婆惜(ばしゃく)を惜まずして蝦蟇を惜んだのは偉い。蝦蟇にして霊あらば感泣すべしだ。」
無 「赤蝦蟇の食いかけを突然(いきなり)引奪(ひったく)って手握(てづかみ)にして食った大人の勢の凄まじかったのには驚き入った。」
辺、天、猪 「ヤ、とても我輩(われわれ)のまだ及ばぬところだ。」
鐘 「お鍋、此の道具を下げろ。」
鍋 「ハイ我満さんの御宅から何か書生さんが持ってまいりました。」
我 「此方へ、直ぐ其物(それ)をよこして下さい。」
鍋 「ハイ、此の包でがす。」
我 「ン、宜しい宜しい、さあ諸君此の重箱へ箸を御入れ下さい。」
一同 「待っておりました、何でございますナ。」
辺 「フン、フン、大層何だか鼠臭いのですネ。」
猪 「成程おそろしく鼠臭い。フン、フン。」
天、無 「ヤア我満先生の風呂敷包が鼠臭いのですナ。」
我 「さあ我満堂の出品は此品(これ)でござる。これは遊仙窟の作者が朝野僉載(ちょうやせんさい)に書いております蜜蝍(みつそく)というものとは諸君御承知でしょう。即ち鼠の胎児(はらごもり)の、未だ眼も動かない赤い奴に、蜜を十分(したたか)に食わせたもので、箸で挟むと喞々(そくそく)と声を出す、そこで蜜蝍と名づけたものです。丁度大掃除の際捕まえてので、今日まで大切(だいじ)に蜜で飼って置きました。美味い事は必ず受合(うけあい)です。寒いので萎縮(いぢけ)て居ますが生きて居ます。」
猪 「焼くのですか煮るのですか。」
我 「焼くのでも煮るのでもありません、生で此の侭(まま)口へ持って行くと、チヽと微かな声で泣くところが妙中の妙なのでノ。さあ猪美庵子先づ御挟みなさい。」
猪 「ウヘェー。」
我 「サア。」
猪 「ウヘェー。」
我 「サアサアサア。」
猪 「蜜の中に転がっている其の赤剥(あかむけ)の樣子を見ちゃあ、臭気(におい)が胸に突掛(つっか)けて来て。」
我 「其処(そこ)が妙なところなので、さあさあさあ。」
猪 「もう我慢にも辛防が出来ない。生命(いのち)あってだ、逃げろ逃げろ。」
辺 「逃げろ逃げろ。」
無 「こりやあ敵(かな)わない、逃げろ逃げろ。」
天 「とてももう堪(こた)えきれない、逃げろ逃げろ。」
我 「さあ鐘斎大人、大人ばかりだ。」
鐘 「ウーン、ウヽ、ウーン、生で食うのだナ。」
我 「さよう、生で、活きているのを食うところが不可言の妙趣で。」
鐘 「ウヽ、ウヽ、ウヽ。」
我 「さあ召上がらんか、鐘斎大人とも言わるる方が、マサカ卑怯に逃げ走りはなさりますまい。」
鐘 「ウヽ、ウヽ、ウヽ。」
我 「さあさあ、召上がれ。何と此の香(におい)が絶妙ぢゃあござらんか。」
鐘 「白蔵主(はくぞうす)ぢゃあ有るめえし、鼠臭えのにゃあ驚く。」
我 「何ですって。」
鐘 「イヤ此方(こっち)の事(こっ)て。」
我 「召上がり兼ねるならば致し方はござりません。但し今後(これから)は食物論に於いては、此の我満堂の前だけは御控(おひかえ)を願わんければ。」
鐘 「ナアニ折角御持参の珍物を頂かんという鐘斎ではござらん。」
我 「では直ぐとサア御挟みなすって。」
鐘 「ウヽウヽウヽン。情無いナア。あゝ是非が無い。この鼠の児一匹食わない為に此奴(こいつ)に一生威張られるのも業腹だし、あゝアッお半も居無くなって見りやあ楽しみの無え浮世だ、絶体絶命だ、死んぢまえ死んぢまえ。思えば一生異(おつ)なものばかり食った祟(たたり)が現われたのだろう。もう諦めるより他は無い。サア食いますよ食いますよ。」
我 「大人の御目(おんめ)に涙が見えますようで。」
鐘 「いやいや老眼の常で何も不思議はござらぬ。サア頂戴します。ムシャリ、ムシャリ。」
我 「我満も御相伴(おしょうばん)致します、ムシャリ、ムシャリ、如何(いかが)でござる大人、蜜蝍の味(あじわい)は。」
鐘 「我満、汝(きさま)は怪しからん奴だ、此の蜜蝍というものは糝粉細工(しんこざいく)の、」
我 「様な味ではござりませんかノ。」
鐘 「何だと、我満!。」
我 「能く此の蜜蝍を召し上がったは、何んと言っても鐘斎大人、御器量骨柄(こつがら)は頼朝(よりとも)そのまま、」
鐘 「汝(きさま)は憎い文覚上人、」
我 「食わせたものも食ったものも、」
鐘 「互いに劣らぬ天下の英雄、」
我 「ただ鐘斎と我満とあるのみ、」
鐘 「蜜蝍食わぬ残余(あと)の奴等は、」
我 「一升の水、一駄の酒、」
鐘 「気の毒千万弱虫めらの、」
我 「自業自得で好い気味好い気味、」
鐘 「少しは人が悪いけれども、」
我 「罪にもならぬ一月(いちがつ)の洒落(しゃれ)。」
鐘、我 「ワハ、ハヽ、ハヽアッ。」


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  イソップの寓話中の「酸っぱい葡萄」は、皆様とっくに御存じの通りでございますが、老人も、彼の狐と類を同じうするもののようで、囲碁将棋の類が好きなわりに、勝負に負けますと、「ふん何だい、こんなもの、負けたってどうってことないやい!」と悪態をつくばかりで、その道に精進しようというような殊勝な気はとんと起した試しがございません。

  ということで、勝負事にはめっきり弱いのですが、近頃では囲碁将棋の方は諦めて、「チェス」に凝っておりまして、パソコン相手に腕を磨いておりましたところ、腕前が何れぐらい上達したのか、いよいよ実践に試してみたくなりまして、手近に相手もいないことから、嫌がる家人に無理矢理ルールを教え込んだところまではよかったのですが、旬日を経るか経ないかの中に、ものの見事に負かされてしまい、どうにも締まらない話となってしまいました。他日の教訓として撮った、その時の記念写真が上の写真です。

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  富士山が世界遺産に登録された初めての正月に、何かふさわしいものはないかということで、デパートを物色していますと、「とらや(虎屋)」の「高根羹(たかねかん)」という、切り口の面積が普通の倍はあろうかという、大きな羊羹が目に入りました。
  お目出たい図柄ですな、味の方も、これぞ羊羹という、まあ言ってみれば大胆にして繊細というか、名前に恥じない非常に結構なものでした。
では今月はここまで、皆様、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
(平成26年元旦  おわり)