鐘斎 「天愚先生の御出品で、先づ座着(ざつき)の御菓子と御茶とは済みましたが、乃公(わし)がマイラ茶と指したところなどは何様でございます。」
天愚 「何様も鐘斎大人の御鑑定には恐れ入りましたわい。」
猪美庵 「此の妙に臭い変に渋い、しかも茶のようで無いところが脱俗していて異(おつ)でげす。」
無敵 「信盛豆は質朴古風で最も佳でした。美味く無いところが面白いです。」
我満 「左様だ。食品(くいもの)は何でも美味いようぢゃあ論ずるに足らんノ。」
猪 「さて無敵先生御出品の名酒でげすテ。」
辺見 「普通の酒のようで薄曇りに濁り気味の少しあるところが妙ですナ。アッ変に酸味(すみ)があって硫黄臭い。」
鐘 「フヽム、成程硫黄臭いが、酒に硫黄の入る筈は無し、植物に硫黄気は無し、すべて動物は乾いた皮と皮とを擦(こす)れば硫黄臭が発する、それにまた腥(なまぐさ)い気が極少し有って、味は一種の滋味(だし)を含んで居る。そこから推すと蓋し此れは蛇酒の類だが、硫黄臭いから蚺蛇酒(うわばみざけ)でもありましょうか。」
猪 「産地は何処でしょう大人。」
鐘 「九州で無いことは焼酎を台にして居ないので察せられます。蛇は草深く地暖かに水あるところに多いものですから、先づ野州上州、出羽の内の温泉地などと考えますナ。」
猪 「ナ、なる、なる。我満堂先生の御考は。」
我 「鐘斎大人と同辺の考ですノ。但し上州吾妻に有名な蛇酒の有る事を聞き及んだが、硫黄臭いとは聞かんかったノ。」
無 「恐れ入りました。御鑑定通り、産地まで御指しの通りでございますが、ただ此れは普通(なみ)の月桂酒と申すのでございませんで、全く非常な蚺蛇をもって製しましたので。」
鐘 「イヤ実に珍物貴ぶべしでごす。」
辺 「いよいよ蚺蛇の酒ですか、アッ、ゲッ、グッ。」
無 「ハヽヽ辺見君、如何(いかが)でございます今一盞(いっさん)。」
我 「マサカ蚺蛇を怖れもなさるまいノ。此の酸い臭いところが何ともいえん。」
無 「左様々々、酒は酸く無いようぢゃあ凡品でございますナ。」
辺 「ゲッ、グッ、畜生(ちきしょう)今に見ろ。」
猪 「何でげすかネ。」
辺 「此方の事です。」
猪 「嘗物(なめもの)一二箸(ちょ)ほどづつ、天愚先生の御出品で。これは小生(わたくし)は美濃の鶫(つぐみ)うるかかと味わいました。」
鐘 「如何にも其の通り。これを珍饌会へは、天愚先生乃公(わし)共を甘く御覧になり過ぎたようですナ。しかし辺見さんなどは御気に入りでございましょう。」
辺 「失礼ながら余り珍しくも存じません。」
天 「いや一言もござりません。猪美庵君、続いて小生(わたくし)のを御出し下さい。」
猪 「刺身でげすナ。ハヽア鶏(とり)でげす。」
我 「大金張(だいきんばり)は天愚子にも似合わん。」
天 「鶏には相違ございませんが詳(よ)く御吟味を。」
無 「成程、これは皆さん如何御味わいで。」
鐘、猪、我 「ムー。」
辺 「此の美しい肉はプリモスロックの胸肉(ささみ)と承知しました。」
猪 「これは鶏冠海苔(とさかのり)。」
我 「これは支那料理に使う鱶の鰭の筋で。」
鐘 「そんな事は知れきって居ますな、此れは金銀糸といって茶を注(か)けたのが金色になるのです。ただ此の色のおかしい肉が分りません。」
無 「これは真の黒の烏骨鶏で、これを鐘斎大人の御存知無かったのは日月も蝕(しょく)ありでございましたナ。」
鐘 「恐れ入りました。天愚先生に一本頂戴致した。罰杯を辞しません。」
猪 「天愚先生の御出品を今度は進じましょう。」
鐘 「ハヽア、此酒(これ)は賢人で、オヽ身顫(みぶるい)の出るほど酸い。成程無敵子が酒は酸く無いようぢゃあ凡品だと仰あったが、酸い酒だ、凡品で無い。しかし天愚子、此酒(これ)は感服しませんナ、朝鮮のスールで。」
天 「これは御明察、恐縮々々。蚺蛇酒を罰せられましょう。」
無 「汁が熱くなりましたらば何様か。」
猪 「今順々に上げます、無敵先生の汁で。」
鐘 「ム、臭い。三平汁ですナ。」
我 「臭いノ無敵子、食えんぢゃ無いか此様(こん)なもの。」
辺 「驚きましたナ、臭いものですナ。」
無 「ヤ我満堂先生、食えんものは差上げません。御風味をなさらないのは御自由ですが、約束通り冷水(ひやみず)一升を御飲みになって酒一駄を御出しになるのは御承知でしょうネ。」
我 「イヤ今のは粗忽々々、臭くは無い、好い香(におい)で。沢庵の糠と鰮(うるめ)の生焼けとを食うと思やあ論は無いもので。ウン、ウーン、ハア、フッ、フッ。」
辺 「沢庵の臭いばかりなら好いですが、遠方(とおく)には腸樽(わただる)のような臭いがしますナ。」
無 「イヽエ、そんな悪い臭いは致しません、此汁(これ)が召上がられんようでは食通とは。」
猪、鐘、天 「然様(さよう)、食通とは中々申されません。フッ、フッ、フッ、臭いから吹くのではありません、熱いから吹くので。フッフッフヽッ。」
無 「ハヽヽ辺見君は目を瞑(ふさ)いで御食(おあが)りですナ。」
辺 「猪美庵君大急ぎで其のスールを下さい、アヽ酸っぱい、顫(ふる)え上がる。」
猪 「無敵先生甚だ結構でげした。御覧なさい、皆さんが泣きながら召上がりましたぜ。感涙をポロポロ流して召上がったのでげす。」
無 「僕の出品の汁が是れ程皆さんの御意(ぎょい)に入ったかと思うと実に本懐です。」
辺 「猪美庵君、御願ですから僕のを早く出して下さい。」
猪 「イヤもうこうなっちゃあ早く自分のを出して他(ひと)をいきつかせなけりやあ。」
辺 「エ、何ですって。」
猪 「マア御待ちなさい、今度は猪美庵のを出しやす。さて拙(せつ)のは甘煮物でげす。見体(けんたい)がよろしうございませんから御疑いもありましょうから、先づ自らこの通り鬼役(おにやく)を致します。」
天 「大層一時(いちどき)に御頬張りですナ。」
猪 「ムニャ、ムニャ、ムニャ。この通り鬼役を致しましてございやす、何様か何分御評(ごひょう)を願いやす。」
無 「妙に猪美庵先生御澄ましですナ。」
鐘 「筍は新といってもこれは去年既に根の末へ出た奴で論になりませんし、独活(うど)も凡々言うに足らずですナ。」
我 「此の鳥の皮のようなものに見えますのは。」
鐘 「矢張り鳥には相違ありませんナ。」
猪 「敬服いたしました、御鑑定通りで。」
天、辺、無 「此のもう一つのものが分りません。」
我、鐘 「ハテナ。」
猪 「いかがです。」
我 「分らんノ、全く珍だ。」
鐘 「ハテナ。」
一同 「全く珍だ、分りません。」
鐘 「ハテナ。」
一同 「大人にさえ分りませんか。」
鐘 「ハテナ。エヽト、あゝだに依って此様(こう)で、此様だによって彼様(あゝ)かナ、ハテナ。」
猪 「兎に角皆さん、宜しうございましたか。」
一同 「美味かったが分りません、何ですナ猪美庵さん。」
鐘 「とうとう猪美庵子にあやまらせられた。分らない、冑(かぶと)を脱いだ。」
猪 「そんなら申しますが、彼品(あれ)は実は、」
一同 「彼品は、」
猪 「鶏の尻の尖処(とんがり)と、」
一同 「も一つのは、」
猪 「猿の唇で、得手(えて)先生の唇でげすよ。」
一同 「エーッ。何ッ、猿の唇だって。こりやあ堪(たま)らない。汚い汚い。ペッペッ。」
辺 「そんな馬鹿なものを食べさせる理屈がありますか。ベッベッ。」
猪 「胸倉(むなぐら)を取っちゃあ困りやすナ。苦しうげすよ。泣きながらこづいちゃあ困りやすナ。我満堂先生、唾液(つばき)をひっかけるなあ甚(ひど)うござりやす。」
鐘 「然(しか)し猪美庵子が余り酷(ひど)いものを食わせるから悪い。」
猪 「これは怪しからん、そんな事を仰あるとは何事でげす。苟(いやしく)も珍饌会でも開こうという先生方ぢゃありやせんか。猪美庵拠(よりどころ)の無い無茶な事は決して致しやせん。先生方に御承知が無いとは言わせやせん、呂氏春秋の本味の段に、何とごぜいやす。オホン、それ肉の美なるものは猩々(しょうじょう)の唇、貛々(かんかん)の炙(あぶりもの)、雋燕(せんえん)の翠とあるぢゃあげえせんか。」
鐘、天、無 「ムヽ、はゝ、結構です、珍です。」
我 「もう宜(い)い、もう宜い、分った、分った。諸君仕方が無い、猪美庵に計(や)られた。」
辺 「アヽ仕方がない。それは諦めるとして、さあ、今度は我輩の出品だ。我輩の出品は蝸牛(まいまいつぶろ)です。さあ猪美庵君召上がって下さい。」
猪 「何でげすって、蝸牛(まいまい)でげすって。」
辺 「さあさあ猪美庵君、是非召上がって下さい。我輩は君のように暗撃(やみうち)は致しません、明らかに申して置きます蝸牛(まいまいつぶろ)です。」
猪 「そう急(せ)き込んで野暮(やぼ)に御責めになっちゃあ困りやす。食ってかかるという事あ聞きやしたが、食わせにかかるというなあ初めて聞きやしたナ。いくら珍饌会でも蝸牛(まいまいつぶろ)は甚(ひど)うげすナ。小人国の雛祭ぢゃあ有るめえし、栄螺(さざい)に似て非なるものなざあ食えねえだろうぢゃげえせんか。」
辺 「食えんものを出すような無法は致しません。此の通りソレ食べて御覧に入れます。これを御存じ無いとは言わせません、猿の唇まで召上がる貴下ぢゃあ有りませんか。苟も巴里(パリー)に遊んだものの食わぬことは無い筈のエスカルゴです。ソレ又食べて御覧に入れます。アッ、グッグッ。(小声独語)失敗(しま)った、従兄弟(いとこ)の方を慌てて食った。」
猪 「何様かなすったか、御苦しそうですナ。」
辺 「ナアニ、ゲッ、グッ、グッ。」
猪 「涙を墜(こぼ)して其様(そん)な顔をなすって召上がるのは。」
辺 「ナアニ、ゲッ、グッ、それ何でもありません。余り久しぶりで食べて美味かったので思わず悦び涙――嬉し涙が出たのです。此のシュヴェットの香気(におい)とバタの味とがエスカルゴの固有の味に働く工合(ぐあい)は何ともいえません。調理人が不熟(ふなれ)で大分(だいぶ)殻と離れたのがありますが、召上がり慣れない方にはかえって殻を目近くならさんがよいでしょう。さあ是非召上がれ召上がれ。」
猪 「でも蝸牛(まいまいつぶろ)をバタで食うなあ凄うげすネ。これが食える位なら正真(しょうじん)山男と名乗って浅草の奥山で好い銭(ぜに)を取りやす。」
辺 「いやそんな野蛮な沙汰ぢゃ有りません、文明的紳士の食べるもので。」
無 「ハイカラという語(ことば)は、此の料理の肉(み)だけを食って殻を棄(パイ)するところから出たので、語原上(エチモロヂカル)にいえば、ハイカラは即ちパイカラの転訛(てんか)でございますかネ。アヽ凄い。」
我 「ナニ凄い事も何もあるものかノ。辺見君が現在食べたでは無いか、どれ乃公(おれ)も食おう。猪美庵子も食(や)りたまえ。グシャリ、ムウムヽヽッ。これはッ、ムヽヽムッ。」
鐘 「猪美庵子にも似合わない、此の噂に聞及んだ蝸牛(エスカルゴ)という珍料理を食いかねるなんぞとは。ドレ、ドレ、グシャリ。ウヽッ、これは。ウヽッ、ゲッゲエッ。ン、ウーン。あゝ珍中の珍だ、頗(すこぶ)る妙です。イヤ流石は辺見先生の御出品で、鐘斎七十五日生延びましたナ。サア猪美庵子食りなせえ。」
無 「僕もやります。」
天 「小生(わたくし)もも食りましょう。何でも我輩(われわれ)美術仲間でも和田君久保田君なぞはエスカルゴ通で、これにも葡萄畑の出と無花果畑の出とは那方(どっち)が佳(い)いというような研究があるそうです。」
鐘 「左様々々、長田君とやらが、たしか此れの大通だとかいうことを聞いて居りました。」
辺 「天愚君の御説の通りですから、葡萄の葉の形の皿に載せて、月の雫(しづく)を日本式的に置き合わせました。」
鐘 「細かい細かい、敬服々々。」
無、天 「さあ猪美庵君も召上がれ。われわれも食(や)ります。グシャリ、ウヽッ、グッ、グッ、ハアッ、これは何様も、何様もこれは。」
辺 「猪美庵君いかがです、冷水でございますか。」
猪 「アヽ情無い、仕方が無い、喫(や)りやす。(小声)南無象頭山金比羅大権現成田山不動明王。グシャリ、アヽ此奴あ、あゝ、ん、あゝ。」
我 「何様だ、美味いだろう猪美庵。しかし左様涎(よだれ)をたらたら垂しては汚いノ、牛みたようだノ。」
無 「兎にある病気ですナ。」
辺、天、鐘、我 「ハヽハヽハヽ。」
猪 「あゝ驚いた死ぬかと思った。実に珍妙でげす。不思議でげす。」
辺 「まだ一種(ひといろ)我輩の出品の、酒類では無い飲料(のみもの)を差し上げます。」
天 「何でございます、其の水の入っております壜の中に見えて居りますのは。頓(とん)とハラヽゴの粒々(つぶつぶ)が解(ほご)れたような、鰊鯑(かずのこ)の古びたような厭な色合のものは。」
無 「植物か動物か麹(こうじ)のようなものか、正体の知れない不気味なものですな。」
辺 「これは、」
鐘 「皆さん此品(これ)を御存じないの、あゝ御若いナ。辺見先生、それはマンナでございましょうナ。」
辺 「いかにも其品(それ)です。これに黒砂糖を点(おと)すと小さな気泡が立って、水は宛然(ちょうど)ラムネに似たような飲料(のみもの)になります。ただ此れは水を飲むので此品(これ)を飲まないのでして、此品は水へさへ入れて置けば段々に繁殖して、尽きる時の無いのが一つの不思議です。」
鐘 「神様が以色列人(イスレエルじん)にたまわったものだけの事はありますナ。小梅にいた瑞典人(スエーデンじん)から段々伝わったそうで、露伴(ろはん)という人のところで飲んだ事がありました。サア頂戴します。これは妙です。」
無、天、我 「成程これは妙なものですな。サア猪美庵君いかがです。」
猪 「段々凄(ものすご)くなって参りましたナ。オット少量(すこし)で沢山です。成程妙ですナ。」
鐘 「今度は我満堂先生ですが、定めし奇物で。」
我 「いや家内の者に持参致すようにと申しつけ置きましたが、まだ参りません。何様か大人のを。」
天、無、辺 「イヨ鐘斎大人の御出品、刮目(かつもく)して拝見いたします。」
猪 「何だか怖くなって来て胴顫(どうぶるい)がする。」
鐘 「乃公(わし)は最後の心算(つもり)でしたから、鍋類を一種(ひといろ)に、それから食後の菓子と茶とを献ずる趣向です。先づ茶菓は珍物ではございませんが、彼処(あれ)に備えました。ただ新年らしく目出度気(めでたげ)に致したところを御笑い下さいまし。即ち彼(あ)の朱色(しゅしょく)のものは越橘(はまなし)の実で、富士山の産でございますし、今一種は胡鬼子(つくばね)の塩漬で筑波山の産です。富士の方には白砂糖の雪のかかって居るところなどを御笑い下さい。」
猪 「御趣向々々々。」
鐘 「そこで御茶に用います水は隅田川で汲ませまして、」
猪 「嬉しい。」
辺 「汚い。」
鐘 「御茶の銘はと申しますと、河柳(かわやなぎ)。」
天 「すっかり御茶番ですナ、ハヽヽ。」
鐘 「しかも茎ばっかり。」
猪 「冬枯れの葉を振るった景色は、利きました、利きました。」
無 「御茶菓は尽く結構ですが後で頂戴(いただ)くとして、その鍋と仰あるのは。」
鐘 「お半、其の土風炉(どぶろ)を真中(まんなか)に出してナ、箸盆(ちょぼん)に小皿、片瓢(へんぴょう)、箸を載せたのを御一人(おひとり)づつに進(あ)げろ。さあ皆さんずっと風炉の周囲(まわり)にお進み下さい。」
天 「何でございますか、どうも、大層な御趣向でございますナ。」
猪 「いづれ大変な事らしい、恐ろしい恐ろしい。」
我 「猪美庵子顫えているでは無いか。」
猪 「ナニこれは早く食(や)ろうという武者顫(むしゃぶるい)で。」
無 「食物を食うのに武者顫をするという奴が那処(どこ)にあるものか。」
猪 「お鍋さんが大盥(おおだらい)を持ったお兼という身で鍋をお持ち出しだ。あゝ大きな立派な深い鍋でげすナ。」
我 「朝鮮ででもあると見える、大層味(あじわい)の佳い大きなサハリの鍋だの。流石大人の所有(もの)だけある。イヤ、御珍器を拝見したばかりでも結構です。」
鐘 「御賞詞では恐縮です。」
天 「火が熾盛(さかん)ですから、もうそろそろ沸きます。」
辺 「何だが中でもって動いて居るようです。」
猪 「泥鰌でげしょうかネ。」
無 「猪美庵君の言(ことば)を聞いて主人公が冷笑を浮べられたから左様ではあるまい。」
天 「いづれ怖ろしい珍物でしょう。しきりと動いて居ます、恐(こわ)くなります。」
我 「もう蓋(ふた)を取っても宜うござるかノ。」
鐘 「乃公(わし)が蓋を取ります。さあ御覧なすって下せえ。」
一同 「ヒ、ヒヤアッ。」
辺、天 「こりやあ堪(たま)らん。こりやあ堪らん。」
猪 「驚きやしたネ、何ぼ何でも。こりや堪りやせん。虫の毒です。見たばかりで厭な心持になって参りやす。」
鐘 「ウフン、オホン、何故左様皆さんは尻込をなさります。」
猪 「だって驚きやす、此の鍋は何です。御工夫は大したものですが二タ目とは見られないぢゃげえせんか。」
鐘 「アッハッハッハッ、猪美庵先生にも似合わねえ。イヤ疾(とう)に御承知でしょう、御装愚(おとぼけ)なさつちゃあいけません。これは百粤(ひゃくえつ)の抱竽羹(ほううこう)という料理に、乃公が少々新意を加えたのです。それ湯が段々と沸(に)え上がりますると、中に游(およ)がせてある蝦蟇(がま)先生が逃げ路を探します。ところが周囲(まわり)は直立(すぐだち)の鍋で熱いから手がかかりません。すると鍋の真ん中のところに蓮根(はす)が二本束(つか)ねて立ててございます、――それは花道(はな)に用います鉄の花留(はなどめ)の厳乎(しっかり)したので留めてありますから倒れる気遣いはありませんが、其の蓮根(はす)は湯の面(つら)より二寸ほども出て居るので、湯よりは熱くなく、且つ又鍋の肌とは違って手がかりも宜いから、蝦蟇は其の蓮根を便宜(たより)にして其れから逃げようとします。其の中(うち)に湯はいよいよ沸騰しますと、蝦蟇は蓮根を抱いたなりに熟して仕舞います。そこで抱竽羹という名もあるのでしてナ。」
我 「如何にも如何にも。唐の尉遅枢(うっちすう)の南楚新聞に見えて居ますノ。小竽(しょうう)を蓮根(はす)になすって妙に牽強(こじつ)けて御工夫なすったところは敬服々々。」
鐘 「流石に先生です。出処を御指し示し下すったは有り難い。さて本文に拠(よ)りますると、疥皮(かいひ)と申して、皮のぼろついた汚い奴が最も佳とありますから、二匹は其蟇(それ)が入れてございまする。それから赤蟇(あかひき)の大なるが二ツ、ただの青蛙(あおがえる)の絶大のが二ツ、都合三種を入れ置きました。当時は亜米利加(アメリカ)でも蝦蟇を食いますし、辺見さんは御承知でしょうが仏蘭西でも、グルヌイユとか何とか申して食うそうですナ。日本でも京阪では蟇(かえる)と言わずに、銭を取って食わせているのは通客は御承知、赤蛙赤蟇は小児(こども)でも食べます。そもそも泥鼈(すっぽん)というものは、」
我 「オット大人御説明には及ばん、この座に大人のこの御馳走を嬉しがらないものは恐らくござらん。」
猪 「アヽッ然様(そう)ですとも然様ですとも。実に珍品でげす、奇絶でげす。尻込みなんぞは致しやせん。もう斯様(こう)なりゃあ死物狂(しにものぐるい)で食いやす。オーヤオヤ、赤蟇と黒蝦蟇と青蛙めとが、眉間尺(みけんじゃく)のように蓮の周囲をぐるぐる廻っていやがる。此畜生(こんちくしょう)黒蝦蟇め、怖(おっかな)い眼をして乃公(おれ)の顔を睨みやがるナ。こいつあ堪らねえ、可厭(いや)だ可厭だ。ヤイ其方(そっち)を向いて呉れ拝むからよ。恨むなら鐘斎を恨め。乃公の所為(せい)ぢゃ無え。アッ、今度は赤蟇が遣って来やがった、堪忍(かに)して呉れやい異(おつ)な眼で睨むなあ、乃公(おら)あ後で卒塔婆(そとば)の一本も立てて車前草(おんばこ)でも供(あ)げて与(や)るからヨ。南無、南無、南無、五右衛門蟇(ごえもんがえる)!。辞世があるなら言って置きねえ。あゝとうとう熟(に)えちゃった。好く無え醜態(ざま)だナ。」
鐘 「さあ御好きずきに皿へお取りなすって、塩や胡椒は御自由に、汁は鍋から直ぐに片瓢で御掬(おすく)いなすって。」
猪、辺 「わたくしは赤蟇を。」
無、天 「僕は青蛙(あおいの)を。」
我 「然らば我満堂は大人と共に尤物(ゆうぶつ)を。」
鐘 「さあ何様か、皆様(さん)。」
我 「猪美庵子、むったりなんぞして何事でござる。骨も何もあった訳のものぢゃあござらん、如是(かよう)に頭からもりもりと食(や)らなくちゃあ、苟(いやしく)も抱竽羹でも食おうというものの真骨頭(しんこっとう)無しだノ。ソレ御覧なさい、塩をつけて此の通りに、アーンと口を開いて、黒蝦蟇の脳頂(のうてん)から。」
猪 「アッ驚きやしたナ、其の顔つきにゃあ。どうも口髭のもじゃもじゃと生えている中から蝦蟇の両手がにょっきりと出て居るなざあ、付紐(つけひも)が口の辺(はた)から下がっている御閻魔(おえんま)さまの式(かた)がありやすナ。」
天 「御覧なさい、鐘斎大人のいやにひょろ長く出て居る二本の前歯の物凄いこと、まるで人間ぢゃあ有りませんナ。」
我 「ン、中々美味い、実に絶品だ。どうです青や赤は。なんだ未(ま)だ持て余しているのか、意気地が無い、食りたまえ食りたまえ。」
猪 「ウヘェー。」
天、辺、無 「食りますとも。」
鐘 「まづ乃公(わし)と我満大人とは食って仕舞いましたナ。余の諸先生は甚(ひど)く謙退ですナ。猪美庵子、赤を半分助(す)けましょう。」
我 「此の珍品を食い澱(よど)むなどとは頼もしくない。天愚先生、乃公(おれ)に其の半分を遣(よこ)したまえ、青も試(や)って見るから。」
鐘 「お半や洋刀(ナイフ)を持って来い、お半やお半や。」
お鍋 「お半さまは、ハア。」
鐘 「何様したお半は。」
鍋 「たった今旦那様が大(でっか)い蝦蟇の頭へ、アングリと口を開(あ)いて咬(かぶ)っ着いたところを見なさるとネ、」
鐘 「ウン。」
鍋 「ホーと言って吃驚(びっくり)なさっただがネ、それから飄然(ふい)と戸外(そと)へ出て行ってお仕舞いなすってでがすよ。」
鐘 「汝(きさま)止めなかったか。」
鍋 「止めたら黙って頭(かぶり)振ってでがした。」
猪 「ホイこれは飛んだ事だ、追駈(おっか)けましょうか。」
鐘 「ハヽヽ、猪美庵子見苦しい、捨て置くべしだ。賎婢(せんぴ)我れに於いて何か有らんやだ。それよりも此の赤蝦蟇の冷えるのが惜しい。洋刀(ナイフ)にも及ばん皆貰って食おう。ムシャムシャムシャ。ア、美なるかな蝦蟇や。」
我 「偉いッ!流石は我が党の宋公明(そうこうめい)だ。婆惜(ばしゃく)を惜まずして蝦蟇を惜んだのは偉い。蝦蟇にして霊あらば感泣すべしだ。」
無 「赤蝦蟇の食いかけを突然(いきなり)引奪(ひったく)って手握(てづかみ)にして食った大人の勢の凄まじかったのには驚き入った。」
辺、天、猪 「ヤ、とても我輩(われわれ)のまだ及ばぬところだ。」
鐘 「お鍋、此の道具を下げろ。」
鍋 「ハイ我満さんの御宅から何か書生さんが持ってまいりました。」
我 「此方へ、直ぐ其物(それ)をよこして下さい。」
鍋 「ハイ、此の包でがす。」
我 「ン、宜しい宜しい、さあ諸君此の重箱へ箸を御入れ下さい。」
一同 「待っておりました、何でございますナ。」
辺 「フン、フン、大層何だか鼠臭いのですネ。」
猪 「成程おそろしく鼠臭い。フン、フン。」
天、無 「ヤア我満先生の風呂敷包が鼠臭いのですナ。」
我 「さあ我満堂の出品は此品(これ)でござる。これは遊仙窟の作者が朝野僉載(ちょうやせんさい)に書いております蜜蝍(みつそく)というものとは諸君御承知でしょう。即ち鼠の胎児(はらごもり)の、未だ眼も動かない赤い奴に、蜜を十分(したたか)に食わせたもので、箸で挟むと喞々(そくそく)と声を出す、そこで蜜蝍と名づけたものです。丁度大掃除の際捕まえてので、今日まで大切(だいじ)に蜜で飼って置きました。美味い事は必ず受合(うけあい)です。寒いので萎縮(いぢけ)て居ますが生きて居ます。」
猪 「焼くのですか煮るのですか。」
我 「焼くのでも煮るのでもありません、生で此の侭(まま)口へ持って行くと、チヽと微かな声で泣くところが妙中の妙なのでノ。さあ猪美庵子先づ御挟みなさい。」
猪 「ウヘェー。」
我 「サア。」
猪 「ウヘェー。」
我 「サアサアサア。」
猪 「蜜の中に転がっている其の赤剥(あかむけ)の樣子を見ちゃあ、臭気(におい)が胸に突掛(つっか)けて来て。」
我 「其処(そこ)が妙なところなので、さあさあさあ。」
猪 「もう我慢にも辛防が出来ない。生命(いのち)あってだ、逃げろ逃げろ。」
辺 「逃げろ逃げろ。」
無 「こりやあ敵(かな)わない、逃げろ逃げろ。」
天 「とてももう堪(こた)えきれない、逃げろ逃げろ。」
我 「さあ鐘斎大人、大人ばかりだ。」
鐘 「ウーン、ウヽ、ウーン、生で食うのだナ。」
我 「さよう、生で、活きているのを食うところが不可言の妙趣で。」
鐘 「ウヽ、ウヽ、ウヽ。」
我 「さあ召上がらんか、鐘斎大人とも言わるる方が、マサカ卑怯に逃げ走りはなさりますまい。」
鐘 「ウヽ、ウヽ、ウヽ。」
我 「さあさあ、召上がれ。何と此の香(におい)が絶妙ぢゃあござらんか。」
鐘 「白蔵主(はくぞうす)ぢゃあ有るめえし、鼠臭えのにゃあ驚く。」
我 「何ですって。」
鐘 「イヤ此方(こっち)の事(こっ)て。」
我 「召上がり兼ねるならば致し方はござりません。但し今後(これから)は食物論に於いては、此の我満堂の前だけは御控(おひかえ)を願わんければ。」
鐘 「ナアニ折角御持参の珍物を頂かんという鐘斎ではござらん。」
我 「では直ぐとサア御挟みなすって。」
鐘 「ウヽウヽウヽン。情無いナア。あゝ是非が無い。この鼠の児一匹食わない為に此奴(こいつ)に一生威張られるのも業腹だし、あゝアッお半も居無くなって見りやあ楽しみの無え浮世だ、絶体絶命だ、死んぢまえ死んぢまえ。思えば一生異(おつ)なものばかり食った祟(たたり)が現われたのだろう。もう諦めるより他は無い。サア食いますよ食いますよ。」
我 「大人の御目(おんめ)に涙が見えますようで。」
鐘 「いやいや老眼の常で何も不思議はござらぬ。サア頂戴します。ムシャリ、ムシャリ。」
我 「我満も御相伴(おしょうばん)致します、ムシャリ、ムシャリ、如何(いかが)でござる大人、蜜蝍の味(あじわい)は。」
鐘 「我満、汝(きさま)は怪しからん奴だ、此の蜜蝍というものは糝粉細工(しんこざいく)の、」
我 「様な味ではござりませんかノ。」
鐘 「何だと、我満!。」
我 「能く此の蜜蝍を召し上がったは、何んと言っても鐘斎大人、御器量骨柄(こつがら)は頼朝(よりとも)そのまま、」
鐘 「汝(きさま)は憎い文覚上人、」
我 「食わせたものも食ったものも、」
鐘 「互いに劣らぬ天下の英雄、」
我 「ただ鐘斎と我満とあるのみ、」
鐘 「蜜蝍食わぬ残余(あと)の奴等は、」
我 「一升の水、一駄の酒、」
鐘 「気の毒千万弱虫めらの、」
我 「自業自得で好い気味好い気味、」
鐘 「少しは人が悪いけれども、」
我 「罪にもならぬ一月(いちがつ)の洒落(しゃれ)。」
鐘、我 「ワハ、ハヽ、ハヽアッ。」
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