文殊様は余りはっきりしたことは分りませんが、いろいろ聞くところによりますと、実在の人物だったようで、あるいは般若経などの撰述に係ったのではないかもと言われておりますが、般若とは智慧のことを言いますので、智慧の文殊様と言われているのも、案外そんなところから来たのかも知れません。
さてその文殊の智慧とはいかなるものかと言いますと、「大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼」というお経には、文殊様ご自身が、このように言われています、――
無相無所有 無患無戲論 不住有無故 敬禮無所觀
智處悉平等 寂靜無分別 自他一相故 敬禮無所觀
相無く所有無くして、患無く戯論無く、
有無に住せざるが故に、観る所無きを敬礼せん
智の処は悉く平等、寂静にして分別無く、
自他一相なるが故に、観る所無きを敬礼せん
意味を簡単に説明しますと、――
何事も見たとおりではない、お前の思っているとおりではないのだ!
自分が正しいと思うな、他人が間違っていると思うな!
お互いに間違っており、お互いに正しいのだ!と、
このように観察した方を敬礼します。
智慧で知るならば、悉くが平等だ!
心を鎮めよ、正邪を分別するな!
自分も他人も、同じなのだ!と、
このように観察した方を敬礼します。
凡そ10分の1ほどですが、ほかの部分もほぼ似たりよったりですので、あえて訳すまでもないでしょう。言うまでもなく、正邪が無いわけではありません。しかし互いに主張すれば争いに発展します。そこで「我れは聖者に非ず、彼れもまた愚者に非ず、互いに凡夫たるのみ」と、最近どこかで読んだようなことばですが、このように反省すると、これを般若の智慧といい、最上最勝の智慧なのですが、‥‥。
文殊菩薩の右手に持っていられる剣は、無上に鋭利な智慧の剣です。しかし智慧など形のないものは、人の心中を働き場所としていますので、法を聞く者の根の上下、謂わゆる鈍根利根、柔順頑迷の差異があって効き目が違います。世界中で紛争が絶えない訳ですな、‥‥。
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