<home>

般若寺

今年は十月に入ってから、大きな台風がたてつづけに起り、この地方にも多大なる影響を与えそうだということで、毎日何度も台風情報に目を通してはやきもきして、大分気をもませられましたが、皆様がたにはいかがお過ごしでございましたでしょうか?この地方はどうやら被害を免れたようで、ほっと胸をなでおろしたようなしだいでございます。

さて、老人はこのところ、ホームページの模様替えを敢行中で、Office-Wordをなるべく少なくすべく、Home-Page-Builderの方に移行しようとしていますが、これがなかなか一筋縄ではいかず、New-Pageのデザインだとか、スタイルシートのデザインだとか、何だとかかんだとかで、多忙をきわめておりましたところ、これにもようやく一段落つきましたので、一息ついておりますと、つぎにせねばならないのが、どこかへ行って写真を撮ってくることでございます。

貧乏人に暇がないのは、むしろとうぜんといたしましても、気ぜわしさがこのように高じてきますと、相応して思考力の衰退も倍して高じてまいります。今月の「もう旧聞」には、いった何を書けばよいのか、世間ではいったい何を問題としているのか、何がなにやらさっぱり分らず、花の写真でも撮ってくれば、何か話の種ぐらいはということで、やって来ましたのが、彼のコスモスで有名な、奈良の般若寺でございますな、‥‥この季節、コスモスよりほかには、何の花も咲いておりませんので、言わば必然というやつですが、このいかにも物の怪が住みついていそうな、古びた楼門と、ほどよく漆喰がはがれて地のでた築地塀とが、よく調和しておりますので、いかにも風情がございましょう?‥‥ということですな、‥‥はたしてこれがコスモスとどのように調和するのか、しないのか?‥‥

  

開門の九時より一時間ほど早くつきましたので、近くのコンビニでアンパンや牛乳などをとりながら、時間をつぶし、九時きっかりに駐車場に車を入れましたが、ほかに車は一台も見当たりません。

はて、不審なことよ、一年で今よりないという、この季節に、いったい観光客はどこへ行ってしまったのか?コスモスめあてのカメラマンが三脚を林立させ、その上に高級カメラを据えて、皆に見せびらかしているものだとばかり想像していたのに、この静けさはいったい何としたことか、近ごろのカメラマンは朝の光線の優れたところを知らないのか、いや実際は家を出るときには、まっくらで分りませんでしたが、ご覧のとおりの曇り空で、厚く暗雲が垂れ込めておりましたので、光線は無いに等しいのですが、まあそのようなことを疑いながら、門を入ってみますと、あにはからんや、もう一つの駐車場が中にもありまして、ほかのカメラマンは皆、それを知っていたということですな、こちらの駐車場にははや十台たらずの車がとまっておりました。

いささか鼻白む思いで、中に入りますと、案じた高級カメラも、カメラマンも、どこで何の写真を撮っているものやら、いっこうに見当たりません、‥‥

庭一面のコスモスが、ちょうど大人の背丈ほどにのびており、花に埋もれて十三重の石塔が立っています。塔身12メートル余り、境内でひときわ異彩を放っておりますが、そのスケールを表現するのに、写真はふさわしいとは言えません。皆様方の想像力にお任せするよりないのが、いかんともしたがく、痛恨のきわみとでも言うべきでしょうかな、‥‥

昔は相当な大寺だったそうですが、今は楼門と、石塔と、この本堂と、それから前の写真で見られる経蔵が残っているぐらいで、それがいよいよ現在の風情を醸し出しております。

この本堂は新しい建物のように見えますが、寛文7年(1667年)建立ということですので、そう古くはないにしても、まったく新しいというわけでもありません。中に祀られている文殊菩薩像は、後醍醐天皇の護持僧であった文観上人が、御願成就の為に造像したということで、歴史の一コマとしても、非常に興味深いものがあります。



塔の基壇ごしに見る楼門、‥‥基壇の周囲は、筒瓦を葺いた高さ1メートルぐらいの垣根で囲われています。その中にまでコスモスがいっぱいですので、寂れて荒れた風情がいや増しており、とても素晴らしいものがあります、‥‥。どうかこのままの風情を保って行って欲しいものですな、‥‥。

この塔が12メートルもあるとは、とてもそうは見えませんな、‥‥。しかたないので下の方だけを見ていてください、そのうち大きく見えてきますから、‥‥。

そろそろ写真を終えようとするころ、観光客らしいグループが本堂を背にして記念撮影をしていました。数人の年寄が、添乗員かなにかの若い人に写真を撮ってもらいながら、さんざめいています。では本堂に入って文殊様を拝んできましょう、‥‥

文殊様は余りはっきりしたことは分りませんが、いろいろ聞くところによりますと、実在の人物だったようで、あるいは般若経などの撰述に係ったのではないかもと言われておりますが、般若とは智慧のことを言いますので、智慧の文殊様と言われているのも、案外そんなところから来たのかも知れません。

さてその文殊の智慧とはいかなるものかと言いますと、「大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼」というお経には、文殊様ご自身が、このように言われています、――

無相無所有  無患無戲論  不住有無故  敬禮無所觀
智處悉平等  寂靜無分別  自他一相故  敬禮無所觀  

相無く所有無くして、患無く戯論無く、
有無に住せざるが故に、観る所無きを敬礼せん
智の処は悉く平等、寂静にして分別無く、
自他一相なるが故に、観る所無きを敬礼せん

意味を簡単に説明しますと、――

何事も見たとおりではない、お前の思っているとおりではないのだ!
自分が正しいと思うな、他人が間違っていると思うな!
お互いに間違っており、お互いに正しいのだ!と、
このように観察した方を敬礼します。

智慧で知るならば、悉くが平等だ!
心を鎮めよ、正邪を分別するな!
自分も他人も、同じなのだ!と、
このように観察した方を敬礼します。

凡そ10分の1ほどですが、ほかの部分もほぼ似たりよったりですので、あえて訳すまでもないでしょう。言うまでもなく、正邪が無いわけではありません。しかし互いに主張すれば争いに発展します。そこで「我れは聖者に非ず、彼れもまた愚者に非ず、互いに凡夫たるのみ」と、最近どこかで読んだようなことばですが、このように反省すると、これを般若の智慧といい、最上最勝の智慧なのですが、‥‥。

文殊菩薩の右手に持っていられる剣は、無上に鋭利な智慧の剣です。しかし智慧など形のないものは、人の心中を働き場所としていますので、法を聞く者の根の上下、謂わゆる鈍根利根、柔順頑迷の差異があって効き目が違います。世界中で紛争が絶えない訳ですな、‥‥。

*************************


   松風:散歩の途中、ふと目についたお店で購めました。
では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
(般若寺  おわり)