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名   月
 
 
  秋の名月を見ながら、布袋和尚が、子供といっしょに月をゆび指して、――
「お月様、幾つ、十三七つ」と歌っています。いや、お尻の大きさとか、胸のあたりとかを見てみますと、これは子供ではなく、和尚の女房でしょうか、いややはり、ここは子供であったほうがよいようです、‥‥子供が、「お月さん、いくつ、十三七つ」と歌っていますと、
  布袋和尚がやってきて、こんなことを言うんでしょうな、――
「坊や、善い人はね、死んだらあそこへ行くんだよ、お月さまに住むことになるのだ、」とね。
  さて、布袋和尚の心中には、どのような世界が映っていたのでしょう、‥‥
*************************
  ところが、この布袋和尚、実ははなはだ寡黙な人だったということで、その辺のことは何にも残っておりません。和尚の胸中に去来した月の世界とは、はたしてどのような世界だったのか、まったく知るすべがないのですが、しかし、もしも極楽にでも往きたいと思っていらしたのだとしますと、話はずいぶん容易になりますな、極楽のようすならば、かのわたくしの深く尊敬して置くあたわざる善導大師が、美しい偈(げ、詩文)を残されておりますので、今回は、その辺をすこしく味わってみることにいたしましょう、――
法藏因彌遠  極樂果還深  異珍參作地  眾寶間為林
華開希有色  波揚實相音  何當蒙授手  一遂往生心
法蔵の因弥(はる)かに遠く、極楽の果還(ま)た深し
異珍参じて地を作(な)し、衆宝間に林を為す
華は希有の色を開き、波は実相の音を揚(あ)ぐ
何(いか)んが当(まさ)に授手を蒙りて、一えに往生の心を遂ぐべき
  法蔵菩薩が、
    修行という因を起こされたのは、遠い昔のことだが、
    極楽という果には、今なお非常に深いものがある。
  地平には、
    金銀宝石等の、珍宝が参集しており、
    多くの宝が、間をおいて林となっている。
  花が開けば、
    世にも、珍しい色であり、
    波が揚がれば、実相を説く声がする。
  何のようにすれば、
    阿弥陀仏の、授ける手に引かれて、
    往生を願う、この一心を遂げることがでるのだろう?
  
:法蔵(ほうぞう):阿弥陀仏修行中の名。
:極楽(ごくらく):阿弥陀仏の建立した理想的世界の名。
:異珍(いちん):珍宝。
:衆宝(しゅぼう):多くの宝。
:希有(けう):珍しい。
:実相(じっそう):真実のすがた。相は見聞の対象。
:授手(じゅしゅ):授けられた手。
:往生(おうじょう):極楽に往きてうまれる。
濁世難還入  淨土願逾深  金繩直界道  珠網縵垂林
見色皆真色  聞音悉法音  莫謂西方遠  唯須十念心
濁世還入し難く、浄土の願逾(いよい)よ深し
金縄は直に道を界(かぎ)り、珠網は林に縵垂す
見る色は皆真の色、聞く音は悉く法の音
西方遠しと謂う莫(な)かれ、唯だ十念の心を須(もち)いよ
  濁世には、
    もう還りたくない!
    浄土を願う心は、いよいよ深まる。
  金の縄が、
    道の両側に張られて、境界線となっている!
    林には、真珠の網がゆるやかに垂れている。
  物の色は、
    皆、これこそ真実の色だ!
    聞く音すら、皆、法を説いている。
  西方が、
    遠いだなんて、誰が言ったのだい?
    ただ、十念を要するのみなのに。
  
:濁世(じょくせ):清浄でない濁った世界。
:還入(げんにゅう):ふたたび入る。
:浄土(じょうど):清浄の国土。極楽のこと。
:金縄(こんじょう):金のひも。
:直(じき):まっすぐ。
:界(かい):かぎる。さかいをなす。
:珠網(しゅもう):真珠のあみ。
:縵垂(まんすい):ゆるやかにたれさがる。カーテン状。
:色(しき):いろ。又物質のこと。
:法音(ほうおん):正法を説くこえ。
:西方(さいほう):極楽の存する方位。
:須(しゅ):もちいる。必要にしてかくべからざるの意。
:十念(じゅうねん):十回心に強く思う。
已成窮理聖  真有遍空威  在西時現小  但是暫隨機
葉珠相映飾  砂水共澄煇  欲得無生果  彼土必須依
已(すで)に窮理の聖と成りたまえば、真に遍空の威有り
西に在りて、時に小を現じたまえど、
但だ是(こ)れ暫(しばら)く機に随うのみ
葉珠相映飾し、砂水共に澄煇なり
無生の果を得んと欲せば、彼の土に依ること必須なり
  聖者は、
    とっくに道理を、窮められた!ので、
    満空に、威厳ある姿を現わされている!
  西方では、
    時には、身を小さくされる!が、
    これは、小さな衆生のためなのだ!
  葉上の、
    真珠の露は、たがいに影を映しあう!
    河底は、水が澄んで金の砂が輝く!
  無生という、
    果を、得ようと思えば、
    彼の土地に依るのは、必須だ!
  
:窮理(ぐうり):道理をきわめた。
:聖(しょう):ひじり。ここでは阿弥陀仏。
:遍空威(へんくうのい):大空に充満する威儀威容。
:西に在りて:西方極楽浄土において。
:小を現ずる:観無量寿経によれば阿弥陀仏の身量は百千万億の夜:摩天の如しといい、又別の経典に夜摩天の天衆の身量は二由旬(約20㎞)というので、想像を超えた大きさであるが故に、阿弥陀仏は見る人に応じて身の丈を変じて現われる。
:暫随機(しばらく機にしたがう):ちょっとの間、見る人のために身の丈を小さくする。機は人を自在ならざるが故に機械にたとえていうことば。
:葉珠(ようしゅ):珠玉のような露が蓮の葉の上をころがる。
:相映飾す(あいようじきす):互いに姿を映してかざる。
:砂水(しゃすい):河底の砂と水。
:澄煇(ちょうき):水が澄んで河底の砂が火のように輝く。
:無生果(むしょうのか):この世界には苦が充満しているが故に、この世界には決して生まれないという果報。はなはだ得がたいが、ただし極楽に生まれることを通ずれば、容易に得られる。
五山毫獨朗  寶手印恒分  地水俱為鏡  香華同作雲
業深成易往  因淺實難聞  必望除疑惑  超然獨不群
五山の毫独り朗らかに、宝手の印恒に分る
地水倶(とも)に鏡と為り、香華同じく雲を作す
業深ければ往き易きを成じたまえど、因浅ければ実に聞き難し
必ず望んで疑惑を除けば、超然として独り群れず
  五山の毫は、
    独峯のように、明るく朗らかだ!
    掌紋のはっきりした、宝の手は変わることがない!
  地も水も、
    共に、鏡のようだ!
    香と花とは、同じく雲をなしている!
  極楽は、
    業が深ければ、往きやすい!が、
    因が浅ければ、名を聞くことすら難しい!
  聞いた者は、
    業が、深いということだ!
    必ず、極楽を望んで疑惑を除け!
  極楽は、
    あんなに、超然として、
    ひとり、群れずに屹立している!
  
:五山毫(ごせんのごう):毫は細い毛。仏の眉間には細い毛が螺のように巻いて積もり、その大きさは須弥山を五つ重ねたぐらい。
:独朗(ひとりほがらかに):独立して明らか。
:宝手印(ほうしゅのいん):宝石のように美しい手の掌紋。
:恒分(つねにわかる):変わることなくはっきりしている。
:地水ともに鏡をなす:観無量寿経によれば極楽の地は水晶のように透明で地の底まで透けて見える。
:香華(こうけ):香と花。
:業深(ごうふかし):業は後生の果報を生ずるもの。
:往き易きを成ず:往きやすい世界をつくった。
:因浅(いんあさし):極楽に生ずる業因がすくない。
:疑惑を除く:極楽の存在を疑わない。
:超然(ちょうねん):他を超えて屹立する。
:独不群(ひとりむれず):他と懸け離れているが故にこれと似たものがないことをいう。
心帶真慈滿  光含法界團  無緣能攝物  有相定非難
華隨本心變  宮移身自安  悕聞出世境  須共入禪看
心は真慈を帯びて満ち、光は法界を含んで団(まる)し
無縁にして能く物を摂すれば、有相なりとも定めて難きに非ず
華は本心に随いて変じ、宮移れば身自ら安んず
出世の境を聞かんと悕(ねが)わば、須く共に禅に入りて看るべし
  仏心は、
    真の慈悲が、充満している!
    光は、衆生界を含んで球のように膨らんでいる!
  縁が無かろうと、
    衆生を、つかんで離さない!
    身体が有っても、きっと難しくないはずだ!
  花だって、
    心のままに、色を変える!
    宮を従えていれば、いつでも身を安められる!
  世間を、
    超出した境界を、聞きたいかい?
    ちょっと、禅定に入って見てみよう!
  
:心は真の慈を帯びて満つ:仏の心は真の慈悲で満たされている。
:光は法界を含んでまるし:仏の放つ光は世界を含んでふくらんでいる。観無量寿経によれば、仏身の光明は60x1万X1億X那由他(なゆた、無量)x恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス河の河底の砂粒の数)x由旬(約10㎞)とある。
:無縁(むえん):見たことも聞いたこともなく、心に思ったこともない。
:能(よ)く物を摂(しょう)す:衆生をつかんで離さないでいる。漢文では物をおよそ天地間に生ずる一切の物をさしていう。
:有相(うそう):相を有するもの。衆生。相は見聞の対象。
:定非難(さだんでかたきにあらず):きっと難しくはないはずだ。
:華は本心に随いて変ず:花は心に思うとおりに姿を変える。
:宮は移る:宮殿はまるで犬のように人の後を追い従って飛行する。
:出世境(しゅっせのきょう):世間を超出した境界。極楽世界。
:入禅看(禅に入りてみる):瞑想の中にみる。
迴向漸為功  西方路稍通  寶幢承厚地  天香入遠風
開華重布水  覆網細分空  願生何意切  正為樂無窮
迴向漸く功を為し、西方の路稍(やや)通ず
宝幢は厚き地を承け、天香は遠風に入る
開華は重なりて水に布(し)き、覆網は空を細分す
願生の意の何ぞ切なる、正に楽の無窮なるが為なり
  迴向したせいで、
    ようやく、効き目が顕われた!
    西方への、道がすこしは通じたようだ!
  宝幢が、
    厚い、水晶の地を受けている!
    天の香りが、遠くの風に運ばれる!
  開いた花が、
    重なりあって、水面を覆っている!
    真珠の網が、空を細分している!
  生まれたいという、
    願いの、何と切なることか!
    ただ、楽が窮まりないというだけなのに!
  
:迴向(えこう):善業の果報を念じてある目的に振り向ける。
:漸(ぜん):ようやく。やっと。
:功(く):働きがあらわれる。功は仕事を果たすこと。
:宝幢(ほうどう):金銀宝石で造られた柱。極楽の地は水晶のように透明であるが、宝石の列柱をもって支えられている。
:天香(てんこう):天のかおり。
:遠風(おんぷう)に入る:風に乗って遠くにはこばれる。
:重ねて水に布(し)く:花びらが水の上に重なって浮いている。
:覆網(ふもう):林は真珠の網で覆われている。
:願生(がんしょう):極楽に生まれたいと願うこと。
:意(い):こころ。意志。
:切(せつ):はげしい。
:楽無窮(らくのむぐう):楽が窮まりない。
欲選當生處  西方最可歸  間樹開重閣  滿道布鮮衣
香飯隨心至  寶殿逐身飛  有緣皆得入  正自往人希
当生の処を選ばんと欲せば、西方最も帰すべし
間樹は重閣に開き、満道に鮮衣を布く
香飯は心に随うて至り、宝殿は身を逐(お)うて飛ぶ
有縁は皆入るを得れど、正に自ら往く人は希(まれ)なり
  生まれる、
    処を、選ぶとすれば、
    西方に、帰着するんだろうな!
  静かな、
    並木が、重なる楼閣に向って開き、
    道いっぱいに、鮮やかな衣が敷かれている!
  香りのよい、
    白飯が、心に思うだけで現われる!
    宝の宮殿は、身を追って飛んでいる!
  縁が有れば、
    誰でも、入ることができる!のに、
    まっすぐ、往く人は希なのだ!
  
:当生処(とうしょうのところ):生まれるはずのところ。
:可帰(きすべし):身を寄せるによろしい。
:間樹(けんじゅ):間をおいた樹木。並木。または静かな樹木。
:重閣(じゅうかく):重層の建物。楼閣。
:満道(まんどう):道いっぱいに。
:鮮衣(ねんね):色鮮やかなころも。
:香飯(こうぼん):かぐわしい白飯。
:心に随(したが)うて至る:心で思えば現われる。
:宝殿(ほうでん):金銀宝石で造られた宮殿。
:身を逐(お)うて飛ぶ:飛びながら、身の後をついてくる。
:有縁(うえん):縁があれば。心に思えば。
:皆入るを得(う):誰でも入ることができる。
:正に自ら往く人は希(まれ):まっすぐ自分で往く人はめったにない。
十劫道先成  嚴界引群萌  金砂徹水照  玉葉滿枝明
鳥本珠中出  人唯華上生  敢請西方聖  早晚定相迎
十劫道先に成り、界を厳(かざ)りて群萌を引く
金砂水を徹して照り、玉葉枝に満ちて明るし
鳥は本珠中より出で、人は唯だ華上に生る
敢て西方の聖に請う、早晩定めて相迎えたまえと
  十劫の、
    昔に、とっくに道が出来ており、
    飾りたてられた、世界が人々を誘っている!
  金の砂が、
    水を徹して、照り輝いている!
    珠玉の葉が明るく、枝に満ちている!
  鳥は、
    本、真珠の中から生まれた!
    人だけが、花の上に生まれるんだ!
  馬鹿みたいだが、
    西方の聖に、請うてみよう!――
    近いうちに、どうか迎えにきてください!と。
  
:十劫(じっこう):劫は世界の生滅の1サイクル。阿弥陀仏は10劫の昔にすでに仏となり、極楽国土の建設はすでに成就している。
:道は先に成る:極楽に至る道はすでに造られてある。
:界を厳(かざ)る:極楽の世界を壯大にかざりたてる。
:群萌(ぐんもう)を引く:衆生を引き寄せる。衆生は群れて生ずるが故に群萌という。
:金砂(こんしゃ):黄金のすな。
:水を徹(とお)して照らす。水をとおして光り輝く。
:玉葉(ぎょくよう):玉で造られた葉。玉は軟らかい宝石。
:鳥は本より珠中に出づ:極楽は母胎を通して生まれることはなく、人ならば蓮の花の中に生まれ、鳥ならば珠の中より生まれる。
:敢て請う:愚かさを承知してこいもとめる。
:早晩(そうばん):近いうち。
:定んで相(あい)迎う:近いうちにきっと迎えにきてください。
十方諸佛國  盡是法王家  偏求有緣地  冀得早無邪
八功如意水  七寶自然華  於彼心能係  當必往非賒
十方の諸仏の国は、尽(ことごと)く是れ法王の家なり
偏(ひと)えに有縁の地を求め、
早きを得んと冀(こいねが)うも、邪無し
八功如意の水、七宝自然の華
彼(かしこ)に心を能(よ)く係くれば、
当に必ず往くべし、賒(はるか)なるに非ず
  十方の、
    諸仏の国は、皆法王の家だ!
    心に感じて、早く往きたいと願ったところで、
    罪であるはずがない!
  水には、
    功徳が、八種ある!
    七宝でできた、自然の花!
    彼の国に、心を係(か)けさえすれば、
    必ず往けるはずだ、遙かな先でなく!
  
:十方(じっぽう):東西南北、東南南西西北北東、上下各方向。
:法王(ほうおう):仏の異名。仏は法において自在であるから。
:偏(ひとえ)に求む:ただそれだけを求める。
:有縁地(うえんのじ):見聞きしたり、心に思い描いたりした土地。
:早きを得んと冀(こいねが)う:早くそうなりたいとこいねがう。
:無邪(よこしまなし):心に邪意がない。
:八功如意水(はっくにょいのみず):八種の功徳を意のままに得る水。八種の功徳とは一に澄んで浄らか、二に清く冷たい、三に甘美、四に軽く軟らか、五にたっぷり、六に安らかに和らぐ、七に飢渇等の無量の患を除く、八に根力、体力が増長する。
:七宝(しっぽう)自然(じねん)の華(はな):七宝が自然に集まって花となるをいう。七宝は金銀宝石真珠馬瑙等の七つの宝。
:当(まさ)に必ず往くべし:必ず往くことになる。往くはずである。
:賒(はるか)なるに非ず:遙か先のことではない。
淨國無衰變  一立古今然  光臺千寶合  音樂八風宣
池多說法鳥  空滿散華天  得生不畏退  隨意既開蓮
浄国に衰変無く、一たび立たば古今然(しか)なり
光台は千宝合し、音楽は八風に宜(よろ)し
池に多きは説法の鳥、空に満つるは散華する天
生を得れば退くを畏(おそ)れず、意に随うて既に蓮を開く
  清浄な、
    国土は、衰変しない!
    ひとたび建立すれば、古今変わらないのだ!
  光の台は、
    千種の宝が、合成して放つ光だ!
    八方の風には、音楽がうまく乗っている!
  池には、
    多くの鳥が、法を説いている!
    空には、花を散らす天が満ちている!
  生まれた者は、
    死んで、退くことを畏れない!
    意のままに、蓮が開くのだから!
  
:浄国(じょうこく):浄らかな国土。
:衰変(すいへん)無し:衰退も変質もない。
:一立(いちりゅう):ただ一たび建設するのみで。
:古今然(しか)なり:今も昔もこのとおり。
:光台(こうだい):極楽の宮殿は光の台上に在る。光に支えられ空中に浮ぶことをいう。
:八風(はっぷう)に宜(よろ)し:八方の風にうまくのる。
:説法鳥(せっぽうのとり):極楽の衆生は鳥の鳴声を聞いて、自然に法を会得する。
:散華天(さんげのてん):天衆が空中より花を散らす。
:得生(しょうをうる):生まれたならば。
:不畏退(たいをおそれず):死んで退却することがない。
:随意(ずいい):思うがままに。
:既(すで)に蓮を開く:思うがはやいか、もうとっくに蓮を開いていた。
坐華非一像  聖眾亦難量  蓮開人獨處  波生法自揚
無災由處靜  不退為朋良  問彼前生輩  來斯幾劫強
華に坐するは一像に非ず、聖衆も亦た量り難し
蓮開けば人独り処し、波生ずれば法は自ら揚ぐ
災無きは処の静かなるに由り、退かざるは朋の良きが為なり
彼の前生の輩に問う、
斯(ここ)に来たりて幾ばくの劫か強なる
  花の上に、
    坐しているのは、阿弥陀仏だけではない!
    聖衆も、また数えきれないほどだ!
  蓮の、
    花が開くと、人がひとり坐っている!
    波が生ずると、法の声が自然に揚がる!
  災難が無いのは、
    この処が、静かだからだ!
    この処を、退かないのは、
    朋友が、善良だからだ!
  あそこの、
    前に生まれた、同類に問うてみよう、――
    どれくらいの劫、前に来たのですか?と。
  
:一像(いちぞう):阿弥陀仏を指す。
:聖衆(しょうじゅ):諸の菩薩衆を指す。
:前生輩(ぜんしょうのやから):自分より以前に生まれた同類。
:斯(ここ)に来たりて幾(いく)ばくの劫か強(おお)し:わたしより何劫前にここに来られたのですか?
:強(ごう):多い。
光舒救毘舍  空立引韋提  天來香蓋捧  人去寶衣齎
六時聞鳥合  四寸踐華低  相看無不正  豈復有長迷
光を舒(の)べて毘舎を救い、空に立ちて韋提を引く
天は来たりて香蓋を捧げ、人は去りて宝衣を齎す
六時鳥の合するを聞き、四寸華を践(ふ)んで低し
相看て正しからざる無し、豈(あに)復(ま)た長く迷うこと有らん
  仏は、
    光をのべて、毘舎を救い、
    空に立って、韋提を誘われた!
  天が来て、
    香りのよい、蓋(かさ)を差し掛けてくれた!
    人は去りぎわに、宝衣を着せ掛けてくれる!
  日に、
    六たび、鳥の鳴き交わすのが、聞こえる!
    花を践(ふ)めば、地が六寸低くなる!
  誰を、
    見ていても、不正する者がない!
    煩悩に迷う者など、いるはずがない!
  
:毘舎(びしゃ):中印度の毘舎離(びしゃり、ヴァイシャーリ)国の衆生は五つの病に苦しんでいたが、阿弥陀仏が大光明を放って救ったという話が、請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼経の中にある。
:韋提(いだい):摩竭陀(マガダ)国王頻婆沙羅(びんばしゃら、ビンビサーラ)は、王位を簒奪しようとする悪太子阿闍世(あじゃせ、アジャータシャトル)のために牢獄に幽閉され、餓死させられようとしていたが、王妃韋提希(いだいけ、ヴァイデーヒー)が計略を用いて秘かに食物を牢中に持ち込んでいたので、死をまぬがれていた。しかしやがて阿闍世の知るところとなり、韋提希は一室に禁じられて自由をうばわれることとなった。現実に絶望した韋提希は、仏に慈悲を乞い、悲しみのない国を説いてほしいと切に要請したのが、観無量寿経の説かれた因縁である。
:香蓋(こうがい):香木で造られた天蓋。
:宝衣(ほうえ):金銀宝石で造られたころも。
:六時(ろくじ):一日に六回鳥が鳴き合せる。
:四寸(しすん)華を践(ふ)んで低し:地は華が積もって軟らかく、踏めば四寸低くなる。
:相看(あいみ)て正しからざる無し:不正を看ることはない。
:豈(あに)復(ま)た長く迷うこと有らん:どうしていったい永久に煩悩に迷うことがあろう。
普勸弘三福  咸令滅五燒  發心功已至  係念罪便消
鳥華珠光轉  風好樂聲調  但忻行道易  寧愁聖果遙
普く勧む三福を弘げて、咸(ことごと)く五焼を滅せしめよ
心を発(おこ)せば功已に至り、念を係くれば罪便(すなわ)ち消ゆ
鳥と華とに珠光転じ、風好ましくして楽声調う
但だ忻(よろこ)んで行け道は易し、
寧(むし)ろ聖果の遙かなるを愁えよ
  誰にも、
    勧めよう、三福を弘く積んで、
    五焼を、皆滅しなさい!と。
  心を、
    起こしたとたん、効き目が顕われ、
    念を係ければ、罪がたちどころに消える!
  鳥や、
    花から、珠玉の光が転がりだす!
    風は好もしく、調った楽の音が聞こえる!
  ただ、
    欣んで行けばよい、
    道は易しいのだから!
  むしろ、
    小乗を学んでいれば、
    聖果が遙かなんじゃないかい?
  
:普(あま)ねく勧む:誰であろうと、こうすすめよう。
:三福(さんぷく)を弘(ひろ)げる:世俗の福をもたらすものを盛大にする。三福は、一に世俗の福をもたらす善行、二に小乗の福をもたらす持戒、三に大乗の福をもたらす布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜をさす。
:咸(ことごと)く五焼を滅せしむ:身心を焼く五つのものをほろぼす。五つのものとは、生き物を殺す、物を盗む、邪な婬事、口で人を害する、酒を飲む。
:心を発(おこ)す:この世界を良くしようと決心する。
:功(く)はすでに至る:効き目はもうあらわれている。
:念を係(か)ける:世界を良くしようと、思いをかける。
:罪は便(すなわ)ち消ゆ:罪がたちどころに消える。
:寧(むし)ろ聖果(しょうか)の遙かなるを愁えよ:小乗は欲を滅し、足るを知り、多くの戒をたもって、聖果を得るが、なかなか容易なことではないという意味。
珠色仍為水  金光即是臺  到時華自散  隨願華還開
遊池更出沒  飛空互往來  直心能向彼  有善併須迴
珠色仍(かさ)なりて水と為る、金光即ち是れ台なり
時到れば華は自ら散り、願に随いて華還(ま)た開く
池に遊んで更に出没し、空を飛びて互いに往来す
直心なれば能く彼に向うも、
善有らば併(あわ)せて須らく迴らすべし
  珠の、
    色が重なると、水になり、
    金の光は、宮殿の台だ!
  時がくれば、
    花は、ひとりでに散るが、
    願うだけで、また開く!
  池に遊べば、
    かわるがわる、出たり入ったりし、
    空を飛べば、互いに往ったり来たりする!
  心が、
    まっすぐなら、そこへ向かうことができるが、
    善を積んでいるなら、それもいっしょに迴らすべきだ!
  
:珠色(しゅしき):鳥や花の放つ珠玉の光。
:金光(こんこう):金色の光が宮殿の台となって空中に支えている。
:更に出没す:かわるがわる池から出たり入ったりする。
:直心(じきしん):まっすぐな心。
洗心甘露水  悅目妙華雲  同生機易識  等壽量難分
樂多無廢道  聲遠不妨聞  如何貪五濁  安然火自焚
心を洗う甘露の水、目を悦ばす妙華の雲
同生の機は識り易く、等寿の量は分ち難し
楽多くとも廃道無く、声遠くとも聞くを妨げず
如何(いかん)が五濁を貪り、
安然として火に自らを焚(や)く
  心を、
    洗うは、甘露の水!
    目を悦ばすは、美しい花の雲!
  生まれが、
    同じなら、識別しやすい!が、
    寿命の量では、等しくて見分けられない!
  楽は、
    多いが、悪道はない!
    仏の、声が遠くても、
    法を、聞くことを妨げない!
  何故、
    五濁の、世界を貪っているのか?
    安心して、火に自らを焼いているのか?
  
:同生機(どうしょうのき):同じ時に生まれた衆生。
:等寿(とうじゅ):極楽の寿命は等しく永久である。
:廃道(はいどう):悪道。
:五濁(ごじょく):世界が濁る五つの原因。一に劫濁(こうじょく)、時とともに世界は次第に濁りが増大する、二に見濁(けんじょく)、自他を区別して見る、因果の道理を見ない、三に煩悩濁(ぼんのうじょく)、人は生まれた時から貪り、怒り等の煩悩がまといついている、四に衆生濁(しゅじょうじょく)、時とともに衆生の濁りも増大する、五に命濁(みょうじょく):濁りが増大する結果、寿命が短くなる。
臺裏天人現  光中侍者看  懸空四寶閣  臨迴七重欄
疑多邊地久  德少上生難  且莫論餘願  西方已心安
内裏に天人現われ、光中に侍者看(み)る
空に懸かるは四宝閣、臨みて迴る七重の欄
疑い多きは辺地に久しく、徳少きは上生難し
且く余の願を論ずる莫(な)かれ、西方は已に心安らかなり
  台の上には、
    天人が現われた!
  光の中には、
    侍者が仏を見守っている!
  空には、
    金銀等、四宝の楼閣が懸かり、
    七重の、欄干が取り巻いている!
  疑いの、
    多い者は、辺地に生まれ、
    徳の少い者は、上生は難しい!
  しばらく、
    他の願いを、考えるのは止めよう!
    西方に到れば、心が安らぐのだから!
  
:台裏(だいり):台のうち。台上。テラスの上。
:侍者(じしゃ):阿弥陀仏には無数の菩薩の侍者がつきそう。
:四宝閣(しほうのかく):金楼閣、銀楼閣、水精楼閣、琉璃楼閣。
:七重欄(しちじゅうのまがき):7重のテラスをかこむ手すり。
:辺地(へんじ):阿弥陀仏より遠いところ。
:上生(じょうしょう):極楽の生じ方には上中下の三種、或いは上上ないし下下の九種ある。
六根常合道  三塗永絕名  念頃遊方遍  還時得忍成
地平無極廣  風長是處清  寄言有心輩  共出一苦城
六根常に道に合し、三塗永く名を絶(た)ゆ
念頃に方に遊びて遍(あまね)く、還る時には忍成ずるを得(う)
地平らかにして広を極むる無く、風長くして是(こ)の処を清む、
言を心有る輩に寄す、共に一苦城を出でんと
  西方では、
    六根が、常に道に適合している!ので、
    三塗は、その名前すら途絶えた!
  一瞬の間に、
    十方の、諸仏の国に遊ぶ!が、
    還れば、また実相を実感する!
  地は、
    平らかで、広さは極まりがない!
    風が長く吹いて、この処を清めている!
  心ある、
    人々には、こう言っておこう!――
    こんな、苦の城はいっしょに出よう!と。
  
:六根(ろっこん):眼耳鼻舌身意は意識、煩悩の根本である。
:三塗(さんづ):塗炭の苦に満ちた三種の道。地獄、畜生、餓鬼。
:永く名を絶(た)つ:極楽には地獄、畜生、餓鬼はその実体はおろか、その名前さえない。
:念頃(ねんきょう):一念のあいだ。一念は非常に短い時間。
:方に遊びて遍(あまね)し:あまねく十方に遊ぶ。遊ぶは往くに同じ。
:忍(にん)の成ずるを得(う):忍は真実を認めて忍ぶこと。また極楽という真実を実感する。十方の世界に遊ぶという意味は、衆生を哀れんで慈悲を起すことであり、一種の煩悩を生ずることであるが、ふたたび極楽世界に帰還した時には、煩悩を脱して、真実世界を実感することになる。
:地は平らか:極楽の地は、極まりなく平らかであるが、ただ景観をのぞむ時には、山河が現われる。
:一苦城(いっくじょう):この世界を苦の城にたとえる。
哀愍覆護我  令法種增長  此世及後生  願佛常攝受
哀愍して我れを覆護し、法種をして増長せしめたまえ
此の世にも及び後の生にも、願わくは仏常に摂受したまえ
  哀れんで、
    わたしを、見守ってください!
    法種を、増長させてください!
  この世にも、
  後の世にも、
    仏が、常にわたしを、
    つかんで、離されないために!
  
:この一句は、勝鬘経(しょうまんぎょう)による。
:哀愍(あいみん):あわれむ。
:覆護(ふご):おおいかぶさってまもる。
:法種(ほうしゅ):正法の種子(たね)。正法の種族。
:摂受(しょうじゅ):しっかりつかんで受取る。
千輪明足下  五道現光中  悲引恒無絕  人歸亦未窮
口宣猶在定  心靜更飛通  聞名皆願往  日發幾華叢
千輪足下に明らかに、五道の光中に現ず
悲しみて引くこと、恒に絶ゆる無く、
人帰して、亦た未だ窮まらず
口に宣ぶるも猶(な)お定に在るが如く、
心静かなるも、更に通を飛ばす
名を聞けば皆往くを願う、
日に発(ひら)く幾ばくの華叢
  観音菩薩は、
    足裏の、千輪の相も明らかに、
    五道の、光の中に現われる!
  大慈悲は、
    衆生を、引いて絶えることがない!が、
    衆生は、それを信じて頼っており、
    その数は、すこしも減るようすがない!
  禅定を起(た)たずに、
    口で、法を説き、
    心静かに、化仏を飛ばす!
  極楽は、
    名のみ聞くだに、喜ばしい!
    毎日、どれほどの花々が開いているのだろう!
  
:この一句は、観世音菩薩を讃ずる。
:千輪足下(そくげ)に明らか:観音菩薩の足裏には千の輻(や)の車輪の相がはっきりしている。
:悲しみて引く:衆生を哀れんで、苦の世界より引き抜く。
:人帰(き)する:人が信じてたよりにする。
:亦(ま)た未だ窮(きわ)まらず:一向に止まるようすがない。
:口に宣(の)べる:口で正法を説く。
:猶(な)お定(じょう)に在るがごとし:まるで禅定に入っているようだ。
:更に通(つう)を飛ばす:つぎつぎと休むひまなく、神通力を用いて化仏、化菩薩を他方世界に飛ばす。
:日に発(ひら)く:毎日花が開いて、その中から人が生まれる。
:幾(いく)ばくの華叢(けそう):どれほどの花の群れだろうか。
慧力標無上  身光備有緣  動搖諸寶國  持座一金蓮
鳥群非實鳥  天類豈真天  須知求妙樂  會是戒香全
慧力の標は無上にして、身光は有縁に備う
諸の宝国を動揺し、持する座は一金蓮
鳥群は実鳥に非ず、天類豈(あに)真の天ならんや
須らく知るべし、妙楽を求むるは、
会(かなら)ずや是れ戒香の全きなりと。
  勢至菩薩の、
    智慧の力は、無上に高く掲げられ、
    身体の光は、見る者のために備えられた!
  勢至菩薩は、
    諸の宝国を、感動させる!が、
    行者のために、金蓮の座を手にしている!
  極楽では、
    鳥の群れさえ、実の鳥ではない!
    天の類も、真の天であるはずがない!
    皆、阿弥陀仏の化身なのだ!
  これだけは、
    是非知らなくてはならない、――
    極楽の楽しみを求める!とは、
  きっと、――
    戒香が完全になる!ということなのだ。
  
:この一句は勢至菩薩を讃ずる。
:慧力(えりき):智慧の力。
:標(ひょう):標識、標柱が高くあがって目立つこと。
:身光(しんこう):身体より放たれる光。
:有縁(うえん):見たり聞いたりする人。
:諸の宝国を動揺する:多くの仏国を感動、動揺させる。
:金蓮(こんれん):黄金の蓮。観無量寿経によれば、行者を極楽に運ぶ台には、金剛台、紫金台、金蓮華等の別がある。
:実鳥に非ず:極楽の鳥類は、皆阿弥陀仏の化身であることをいう。
:須(すべ)からく知るべし:必ずこう知らなくてはならない。
:妙楽(みょうらく):絶妙の楽。極楽の楽しみ。
:会(かなら)ず是(こ)れ戒香の全(まった)きなり:当然これは戒香が完全になるということだ。戒香は持戒を妙香にたとえて、その周囲を清々しくするをいう。戒香が全くなれば、極楽を待つまでもなく、この世界が、とりもなおさず極楽になるということ。
  
  善導大師には、「観経疏(かんぎょうそ、観無量寿経に関する論書)」という、それこそ読めば心が洗われるような名著があって、頭脳が極めて明晰な人だったことが分りますが、また豊かな詩才を持つことでも知られておりまして、残されたいくつかの書物からでも、その一端を垣間見ることができます。
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  次は、
    メンタルテストですな、‥‥
    物事は、なんでも見ることから初まりますので、
    何事も、先づは正しく見る訓練を積まなくてはなりません、
    皆様には、ここに何が見えますか?――

MUJINA

On the Akasaka Road, in Tokyo, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka,—which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the Province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens;—and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

 All because of a Mujina that used to walk there.

狢(むじな)
東京の赤坂通に、紀伊国坂と呼ばれる坂があり、その坂の片側は、古くからの宮城の堀で、深くて非常に広く、緑の芝生が高い堤をなして、どこかの庭園にまでとどいており、もう片側は、宮城の長く高い塀が伸びていた。街灯や人力車の時代以前は、日暮れ時、この辺は非常に寂しくなるので、遅れてこの辺を通る人は、何マイルも遠回りして、日没後には、ひとりで紀伊国坂を通るのを避けるようにしていた。

これは皆、ここにはいつも狢が出ていたからである。

The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyobashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it:—
その狢を見た最後の人は、京橋に店を構える老人で、もう三十年も前に亡くなっているが、この話について、彼れは、こう語っていた、――
One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power.
ある晩、遅くなったので、紀伊国坂を急いで上っていると、ひとりの女が堀端にうずくまり、たったひとりで激しく泣いているのに気が付いた。その女が身投げでもしようとしているのではないかと恐れたので立ち止まり、何か援助でも、慰めでもできることはないか、力の及ぶことはないかと言おうとした。
She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. "O-jochu,"he exclaimed, approaching her,—"O-jochu, do not cry like that!... Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you." (He really meant what he said; for he was a very kind man.)
その女は細くて、しとやかそうに見え、丁寧に着飾っていて、髪も良家の娘らしく結われていた。「お女中、」彼れは側によって、こう声をかけた、――「お女中、そんなに泣いていちゃあいけませんよ!‥‥話してごらんなさい、いったい何があったんです?なんかお助けできることがあるかも知れませんよ、わたしなら、喜んでお助けしますがね。」(彼れはほんとうに、今言ったとおりに思っていた、というのは彼れは非常に親切な人だったからである。)
But she continued to weep,—hiding her face from him with one of her long sleeves. "O-jochu," he said again, as gently as he could,—"please, please listen to me!... This is no place for a young lady at night! Do not cry, I implore you!—only tell me how I may be of some help to you!"
しかし、その女は、長い袖で顔をかくして、泣き続けた。「お女中、」彼れは、できるかぎり親切そうにして、こう語りかけた、――「どうか、わたしの話を聞いてくださらんか!‥‥ここは、若い娘さんが、夜であるくような所じゃございません!泣くのはお止しなさいまし、お願いしますよ!ただ、なにかお助けできることがないか、教えてくださいまし!」
Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:—"O-jochu!—O-jochu!—O-jochu!... Listen to me, just for one little moment!... O-jochu!—O-jochu!"...
その女はゆっくり立ち上がったが、背を向けたまま袖で顔をかくし、悲しげにすすり泣いていた。彼れはそっと手をその女の肩にかけて、こう話しかけた、「お女中!――お女中!――お女中!――ちょっとだけ聞いてくださいまし、ほんのちょっとでようございますから!お女中!――お女中!」
Then that O-jochu turned around, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;—and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,—and he screamed and ran away.
しばらくして、お女中は振り返りながら袖を落し、手を挙げるとすーっと顔を撫で下ろした。そこにその男の見たものとは、その女の顔には、目も、鼻も口もなにもなかったのである、――男は、ギャッという悲鳴を挙げると、一目散に駆け出した。
Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the soba-seller, crying out, "Ah!—aa!!—aa!!!"...
紀伊国坂を駆け上り、何もない真っ暗闇の中を走りに走った。どんどん走り続けていると、その間中、恐ろしくて一度も振り返らなかったのだが、やがて提灯の明りが見えてきた。あまりに遠くて、螢の火ぐらいにしか見えなかったが、それに向って走り続けていると、やがてそれがそば屋の屋台にかけられた提灯があるだけだと分ってきた。そば屋が、道端に屋台をおいていたのだ。しかし、どんな明りだろうと、どんな類の人間だろうと、あんな経験をした後では、そんなことはどうでもよかった。彼れはそば屋の足下に崩れおれて、こう叫んだ、「あー!ああ!!ああ!!!」‥‥

"Kore! kore!"roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you? Anybody hurt you?"

"No—nobody hurt me," panted the other,—"only... Ah!—aa!"

"—Only scared you?" queried the peddler, unsympathetically. "Robbers?"

"Not robbers,—not robbers," gasped the terrified man... "I saw... I saw a woman—by the moat;—and she showed me... Ah! I cannot tell you what she showed me!"...

「これ!これ!」不作法な声を挙げて、そば屋が、こう言った、「いったい!何ごとでござりまする?だれかお前さまを襲った者でもござりやしたか?」

「いやだれも、わたしを襲ったのではない、」相手は息を切らしながら、こう言った、――「ただ、‥‥あー!ああ!」

「ただ、お前さまを恐がらせただけかね?」そば屋は、同情するようすもなく、こう尋ねた、「追剥ぎでも出ただかね?」

「追剥ぎじゃない、追剥ぎじゃない、」喘ぎながら、怯えきった男が言った、‥‥「わたしは見たのだ、‥‥わたしは見たのだよ、ある女が出て、お堀端に、わたしに見せたのだ、‥‥あー!わたしには堪えられない、お前に教えてやろうにも、あの女が、わたしに見せたものときたら!」‥‥

"He!Was it anything like THIS that she showed you?" cried the soba-man, stroking his own face—which therewith became like unto an Egg... And, simultaneously, the light went out.
「へー!それはこんなんじゃあ、ございませんでしたかえ、その女が、お前さまに見せたものとは?」そう叫んで、そば屋が、顔をつるりとひと撫ですると、――それは卵そっくりになり、‥‥そして、それと同時に灯りも消えてしまった。

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  先月の、兔の郵便に、「とうきび畑をエッサッサ」という歌詞がありましたが、それが頭の片隅にひっかかって、何か忘れ物をしたような気分でおりましたところ、やがてそれが以前読んだ、「詩経」中の「王風、黍離(しょり)」だということに思い当りました。そこで、とうきびの写真をインターネットで探してみますと、”とうきび”というのは黍(きび)ではなく、玉蜀黍(とうもろこし)のことを言うのだと、遅まきながら知ったわけですが、まあだいぶん違うといえば違うのですが、同じ”きび”どうしということで、福井県と岐阜県との境にある石徹白(いとしろ)という村に行って写真を撮ってきました。
  で、その「王風、黍離」とはどういう内容かといいますと、むかし今から3000年ぐらい前に、中国では”周”という国がさかえて、多くの諸侯の上に立っていたわけですが、やがてその宗室としての威厳が衰えてきますと、諸侯の権勢がかえって盛んになって、とうとう都を遷さなくてはならなくなりました。そんな時に、周の大夫(だいふ、大臣)がたまたまかつての都の辺を尋ねてみますと、すでに宮殿は跡形もなく、畑になってしまっており、そこには黍が盛んに稔っていたので、それを憂えて、歌ったものと言われています、――

黍離(しょり)
彼黍離離
彼稷之苗
  行邁靡靡 中心搖搖
  知我者 謂我心憂
  不知我者 謂我何求
  悠悠蒼天 此何人哉 
彼(かしこ)には、黍(もちきび)離離たり
彼(かしこ)には、稷(うるきび)の苗あり
   行き邁(ゆ)きて靡靡たり、中心揺揺たり
   我れを知る者は謂(い)う、我が心憂(うれ)うと
   我れを知らざる者は謂(い)う、我れ何をか求むると
   悠悠たる蒼天、此(こ)れ何人(なんぴと)ぞや
  
:黍(しょ):もちきび。きびの粘りあるものをいう。
:稷(しょく):うるきび。きびの粘りなきものをいう。
:離離(りり):稲、黍等の穂がはじけそうに実って垂れ下がるさま。
:靡靡(びび):ふし垂れてゆっくり行くさま。
:中心(ちゅうしん):心のうち。心中。
:揺揺(ようよう):動きて安まらざるさま。
:悠悠(ゆうゆう):はるかに遠きさま。
:蒼天(そうてん):あおぞら。
都の趾(あと)には、黍(もちきび)が実を垂れている、
宮の跡(あと)には、稷(うるきび)の苗が植えられている、
  頭を垂れて行きなやみ、わたしの心は揺れうごく、
  私を知る者は言う、わたしの心が憂えているのだ!と、
  私を知らない者は言う、わたしが何かを落したのだ!と、
  遙かなる青空よ、これはいったい誰のせいなんだ!
彼黍離離 
彼稷之穗 
  行邁靡靡 中心如醉
  知我者 謂我心憂
  不知我者 謂我何求 
  悠悠蒼天 此何人哉 
彼には、黍離離たり
彼には、稷の穂あり
   行き邁きて靡靡たり、中心酔うが如(ごと)し
   我れを知る者は謂う、我が心憂うと
   我れを知らざる者は謂う、我れ何をか求むると
   悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや
都の趾には、黍が実を垂れている、
宮の跡には、稷の穂が出ている、
  頭を垂れて行きなやみ、わたしの心は酔っているようだ、
  私を知る者は言う、わたしの心が憂えているのだ!と、
  私を知らない者は言う、わたしが何かを落したのだ!と、
  遙かなる青空よ、これはいったい誰のせいなんだ!
彼黍離離 
彼稷之實 
  行邁靡靡 中心如噎
  知我者 謂我心憂
  不知我者 謂我何求 
  悠悠蒼天 此何人哉 
彼には、黍離離たり
彼には、稷の実あり
  行き邁きて靡靡たり、中心噎(むせ)ぶが如し
  我れを知る者は謂う、我が心憂うと
  我れを知らざる者は謂う、我れ何をか求むると
  悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや
都の趾には、黍が実を垂れている、
宮の跡には、稷の実が稔っている、
  頭を垂れて行きなやみ、わたしの心は咽がつかえたようだ、
  私を知る者は言う、わたしの心が憂えているのだ!と、
  私を知らない者は言う、わたしが何かを落したのだ!と、
  遙かなる青空よ、これはいったい誰のせいなんだ!

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玉蜀黍は、鮮度が非常に大切です。
畑で、もいだのを手渡しで買ってきました。
では、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
  (名月 おわり)