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吉  野


  
  新聞には、近頃では珍しく、雲一つない上天気となるでしょうと予報されていましたので、夜明にはまだだいぶん早いながらも、通勤ラッシュをさけるべく午前三時に家を出て、途中、ナビが優しく教えてくれる古い道と、道路標識の示す新しい道との二者択一に迷いながら、吉野は花矢倉の展望台に到着したのが、予定よりやや遅い午前六時二十分、すでに数台の車が駐車しており、絶好のポイントでは、やはり車と同じ数だけの三脚がひしめいております。まだ薄暗い中、有名な一目三千本の桜をいざ撮らんとばかりに、先客たちの間に狭い狭間を見付けて、三脚をうち立てたのが六時三十分、絶景を期待して、日の出を待っていますると、「満開には、ちょっと遅うおますやろ、‥‥この間の風でもうだいぶ散ってしまいましたしなあ、‥‥」と聞こえてきたのは、どうやらこの展望台に桟敷を開く茶店の主人、眼前の桜は十分花をつけているように見えますが、三千本にはほど遠く、一山の様子も少しばかりはっきりしません。
  


  
  空は厚く雲に閉ざされて、晴れ間はその気配すら感じられません。何やら悪い予感におびえつつ、それから一時間少々待ちましたが、案の定、状況はいっこうに改善されず、今年の桜は、もうあきらめようという気分になりました。しかし折角だから、その証拠写真ぐらいは撮ってかえろうということで、蔵王堂まで途中なんども車を止めては、数本の満開の木を見るごとにシャッターを切っていたのですが、天にも時にも見放されたまま、いかんとも為ん方なく、手応えを感じないままに、やがて蔵王堂の横に車を止めるに至りました。
  猫の額のような狭い境内に堂々と聳える巨大な建造物を写真におさめておりますと、まるで運にも見放されたかのごとく、この辺一帯は、午前八時三十分から歩行者天国になりますと、そこかしこに設けられた拡声器から、吉野町役場のお報せが聞こえてまいりました。
  
  蔵王堂内部には、像高七メートル余りの蔵王権現が三体ならんで、役行者(えんのぎょうじゃ)の感得そのままに、その威容を示現されておりますので、その前に坐って、蔵王権現と意を通じ合うのは、実に愉快な宗教的体験なのですが、すでに以前、経験ずみの事でもありますので、今回は遠慮しましょう。
  


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  馬の背のような蔵王堂周辺の街筋と、谷を挟んで反対側の中腹に如意輪寺があります。本堂の裏山が、後醍醐天皇の御陵ですので、堂内に坐して、本尊如意輪観音に手を合わせますと、同時に天皇の御霊をも拝むことになり、道理に適っているように見えますが、ただ後醍醐天皇は臨終のみぎり、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、これ如来の金言にして、平生朕(ちん、天子の自称代名詞)が心に有りし事なれば、秦の穆公(ぼくこう、三人の忠臣が殉死した)が三良を埋(うづ)み、始皇帝の宝玉を従えし事、一つも朕が心に取らず。ただ生生世世の妄念ともなるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思うばかりなり。朕すなわち早世の後は、第七の宮(義良(よしなが)親王)を天子の位に即(つ)けたてまつて、賢士、忠臣事を謀り、義貞(よしさだ、忠臣、新田氏)・義助(よしすけ、忠臣、義貞の弟)が忠功を賞して、子孫不義の行いなくば、股肱(ここう、手足のごとき忠義)の臣として、天下を静むべし。これを思うゆゑに玉骨(ぎょくこつ、天子の遺骨)はたとい南山(なんざん、南の山、吉野山の意)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく、霊魂)は常に北闕(ほくけつ、北の宮城、京の内裏の意)の天を望まんと思う。」との綸言を残されましたので、御陵は北向きに造営されてしまい、如意輪寺の本堂から拝む者は、後醍醐天皇を後から拝むことになりますので、礼儀の上からは、やや疑問を残すことになりました。
  
  「天勾践を空しうする莫かれ、時に范蠡無きにしも非ず」‥‥。後醍醐天皇の御陵の前にたたずみながら、児島高徳が桜の幹に刻みつけたという十字の詩に万感の思いを託したものは、恐らくわたしひとりではないでしょう。
  


  若干の通行銭を払って、庫裡の中を通り抜けますと小高い所に、如意輪搭と名づけられた、掌サイズの多宝塔が立っています。この寺を如意輪寺、本堂を如意輪堂と名づけ、その本堂に祀られている本尊が如意輪観音ですが、この如意輪という名は、如意宝珠と、法輪を示すもので、世間の財産、名誉、出世間の正法の二宝を自在に出して、願のままに与えることを意味し、その功徳の広大なことまことに甚大なものがありますので、更に詳しく説明しておきましょう。
  
  如意輪観音の形像は二臂、四臂、六臂、八臂、十臂、十二臂等の別があり、その中でも写真等で比較的よく目にするのは、六臂の像です。「観自在菩薩如意輪瑜伽(かんじざいぼさつにょいりんゆが)」という経典の中に、その像容について、こう述べています、――
「第一手は思惟なり、有情(うじょう、衆生)を愍念(みんねん、哀念)するが故に。第二は意宝を持し、能く一切の願を満ず。第三は念珠を持す、傍生(ぼうしょう、畜生)の苦を度せんが為なり。左は光明山に按ず、無傾動を成就するなり。第二の蓮を持つ手は、能く諸の非法を浄む。第三の輪を挈(たづさ)うる手は、能く無上の法を転ず。六臂広博の体は、能く六道に遊び、大悲の方便を以って諸の有情の苦を断ず。」
  
  つまり、右の第一手では、指先を右頬にあてて、衆生を哀れみ、願を満たす方法を考えています。第二手は、胸の前で如意宝珠を持ち、衆生の種種の願を自在に満たす姿を現します。第三手は、念珠を携えて下に垂し、畜生を救おうとする様子を現します。左の第一手は、地に着けて体を支え、意志の揺るがぬさまを現します。第二手は、蓮の花を持って、諸の非法を浄めるさまを示し、第三手は、輪を掌に載せて、無上の法を転ずるを現します。
  
  如意輪観音が多く、女性の姿を現した像で表されるのも、まあもっともなことと言わなくてはならないでしょう。
  


  
  庫裡の側に、御霊殿という小堂があり、後醍醐天皇を奉祀していますが、この日は特別公開ということで、厨子の中に安置された後醍醐天皇の像を拝観することができ、やはり感慨深いものがありました。
  
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  如意輪寺の拝観をすませたのが十時前、道路に車を出しますと、続々と車がつめかけ、危うく渋滞に巻き込まれるところでした。渋滞の原因はどうやら観光バスが列なって到着したことにあるようです。天気もようやく回復のきざしをみせ、時々雲の間から青空ものぞいています。ほとんど収穫のないまま家に帰るのも、気がきかないようですので、来る時、案内標識のあった談山神社(たんざんじんじゃ)に寄ることにしました。
  
  藤原鎌足のために天武天皇の7年(678年)、子の定慧と不比等が十三重の搭を起し、同9年に講堂(現在の拝殿)を建立して妙楽寺と号し、後大宝元年(701年)鎌足の木像を安置する祠堂を建てて、それを聖霊院と号した。その後、幾多の変遷を経ながら、明治の廃仏毀釈に遭い、妙楽寺を廃して、号を談山神社に改めたということですが、一山の建造物は皆、朱塗りの柱に桧皮葺の屋根を戴くことによって統一感を出し、周囲の景色に溶け込んで見事な景観をなしています。
  
  写真には十三重の搭と拝殿が写っています。桜は、ほぼ満開でしたが本数が少なく、やはり紅葉の季節に来るべきでしょう。
  


  
  十三重の搭は、般若寺の搭のような石塔ならば数多く残っていますが、木造は珍しく、この搭一基のみだということです。
  
  やはり見た目にも、珍しさが美しさを凌いでいるように思えます。
  


  
  鎌足公を祀る本殿は、もと聖霊殿と号し、拝殿と向かいあって、両側を回廊で結びますが、写真では分りづらい極彩色で、日光東照宮造営の際の手本となったということです。
  
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  多武峰(とうのみね)の談山神社からは石舞台古墳(いしぶたいこふん)を通って帰るのが、楽な道です。石舞台古墳は蘇我馬子の墓として知られていますが、いろいろ異説もあるようですので、案外、誰も知らないのではないでしょうか。
  


  
  黒い通勤着のような人が、なにやら値踏みでもしているような眼差しで、石の堆積を見ています。空はようやく晴れ渡り、ぽっかりと白い雲も浮んでいます。さて、時間もちょうど昼飯時、名物の素麺でも食べて帰ることにしましょう。
  
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では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (吉野 おわり)