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春の訪れを待ちわびる歌
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  昨日は、寒波に覆われて、国中が凍えておりましたが、今日は打って変わって、暖かい春めいた日となりました。まあなんとなく、車でも走らせてみたくなるような陽気とでもいいましょうか、そんなことで、近所をドライブしてみますと、なるほど、春も案外近くにいるのかも知れないなあ、とそんな気分に襲われました。
  
  
  それにしても、団十郎が亡くなりましたなァ、あんな団十郎らしい団十郎は、もう二度と出ないのではないでしょうか、‥‥
――先にうけたまわれば、南都東大寺の勧進とおおせありしが、勧進帳を所持なきことはよもあらじ、勧進帳を遊ばされそうらえー、これにてぇ聴聞つかまつらんー‥‥
――なんとォー、勧進帳を読めとおおせそうろうとなあム‥‥
――いかにもー‥‥
――うム、こころえてそうろうー‥‥
――♪もとより勧進帳のあらばこそ、笈のうちより往来の巻物一巻取りいだし、勧進帳と名づけつつ、高らかにこそ読み上げにけれー‥‥
  ――そーれーー、つーらーあァーー、つゥーらーあァーー、おもんーんーみればぁーあァーーあァーーあァー、うァッ、‥‥
  
  後は海老蔵に期待するよりないのですが、‥‥
  早くなんとかなってもらいたいものですなァ‥‥
  
  
  愛知、岐阜両県の県境を流れる木曽川の堤防からは、伊吹山がよく見えます。黄砂の所為なのかも知れませんが、伊吹山(いぶきやま)の雪化粧も薄らいで、春の近いことを告げているようにも見えます。
  
  伊吹山は、艾(もぐさ)にする蓬(よもぎ)や、その他の薬草を産することで知られていますが、また日本武尊(やまとたけるのみこと)が、この山に栖む悪神を退治しようとして、かえって神の化けた大蛇の毒にあたって傷を受けられ、ついに三重県の能褒野(のぼの)の地で、薨去されたという伝説も有名です。
  
  対岸には一隻のボートが見えます。本格的な水遊びの季節が近づいている証拠でしょうか、この他にも、数人の乗ったボートが舳先を上げて、この辺を往き来していました。
  
  
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  さて、着いた所は、「千代保稲荷」、通称「おちょぼ稲荷」、商売の神さまですので、平日でも以前程ではないとはいえ、多くの人で混雑しており、参道には多くの店が軒を列ねています。年寄り相手の店が多く、他ではすでに見られなくなったような物でも、ここでは手に入れられるかも知れません。
  
  
  「千代保稲荷」の由来は、八幡太郎義家の六男義隆が、義家より祖先の霊璽、宝剣、義家の画像を賜り、「千代に保て」と言われて分家したのを、子孫の森八海が、文明年間に、この地に祀ったのを嚆矢とするということですが、しかし‥‥
  
  源氏の氏神といえば、八幡さまではなかったでしょうか?義家の呼名の八幡太郎が、京の石清水八幡宮で元服したことによるというのも、又世間周知の事実でもあります。この辺のことを知ろうとしても、この神社には、由緒書きがなく、社務所にも市発行の観光ガイドがあるきりで、他には何にもありません。どうも気になりますなァ、‥‥。
  
  
  勧請の由来を知ったところで、どうなるというものでもございませんから、分る範囲の事で、何か面白いことはないかと調べておりますと、‥‥「望月仏教大辞典」に、これはまた、ずいぶん楽しい話が出ておりました。
  この稲荷という名の神さまは、印度では荼吉尼(だきに)という名だそうで、
  「大日経疏巻10」、正式には、「大毘盧遮那成仏経疏巻10」と言うのですが、それに依れば、――
 
  次に荼吉尼の真言なり。此れは是れ世間に、此の法術を造る者にして、亦た咒術に自在なる有り。能く人の命終せんと欲する者を知るに、六月にして即ち之を知る。知り已りて、即ち法を作し、其の心を取りて、之を食う。爾る所以は、人身中に黄有ればなり。謂わゆる人の黄は、猶お牛に黄有るがごとし。若し食うを得れば、能く極大なるものの成就することを得、一日に四域を周遊して、意の随に為す所は皆得。亦た能く種種に人を治す。嫌有れば、術を以って之を治し、極まれば、病苦ならしむ。然るに彼の法は、人を殺すを得ず。要(かなら)ず、自ら方術を計すに依る。人の死せんと欲する者は、六月を去りて、即ち之を知る。知り已りて、術を以って、其の心を取る。其の心を取ると雖も、然も法術有りて、要ず、余物を以って之に代う。此の人の命も亦た終らず。死時に合するに至りて、方に壊すなり。大都(おおむね)、是れ夜叉大自在なり。世人の所説に於いて大極は摩訶迦羅所謂大黒神に属するなり。毘盧遮那は降伏三世の法門を以って、彼れを除かんと欲するが故に、化して大黒神と作り、枯れに過ぎて無量に示現し、灰を以って身に塗り、曠野中に在りて、術を以って悉く、一切法を成就し、空に乗り、水を履むこと皆無礙なる、諸の荼吉尼を召して、之を呵責すらく、猶お汝がごときは、常に人を噉うが故に、我れも今、亦た当に汝を食うべしと。即ち之を呑噉す。然も、彼れを死せしめず。伏し已りて、之を放ち、悉く肉を断ぜしむ。彼れの仏に白して言わく、我れ今、悉く肉を食うて、存するを得。今、如何が、自ら済わんと。仏の言わく、汝に死人の心を食うことを聴すと。彼れが言わく、人の死せんと欲する時、諸の大夜叉等、彼れの命の尽くるを知りて、争い来たりて、食わんと欲す。我れは云何が之を得ん。仏の言わく、汝が為に、真言の法、及び印を説かん。六月、未だ死せざるに、即ち能く之を知らん。知り已らば、法を以って加護し、他をして畏れて損を得しむる勿かれ。命の尽くる時に至らば、汝に取りて食うことを聴す。是の如く、稍引きて、道に入るを得しむ。故に此の真言あり、訶唎(二合、訶は定行、唎は垢)訶(行、彼の邪術の垢を除くなり)。
 
  このままでは分りにくいでしょうから、要点のみをかいつまんで訳してみますと、――
  この荼吉尼の真言というものがあり、この法を知る者は、人が死ぬのを六ヶ月前に知ることができ、その時になると呪術をつかって、その人の心臓を取りだし、これを食うのであるが、その人には心臓の代わりに他の物を入れておくので、この人は、本の死ぬはずの時まで、死なない。
  なぜ心臓を食うかというと、牛に牛黄(ごおう)という薬があるように、人にも薬があり、それを食えば、一日で世界を周遊したり、種種の病気を治したり、嫌いなやつを病気にしたりできるからであるが、しかしこの法は人を殺してはならない。必ず、呪術に依るだけにすることが肝要である。
  
  荼吉尼というのは、摩訶迦羅(まかから、大黒神)に属する悪鬼で、かつて人を殺して肉を食っていたのであるが、毘盧遮那(びるしゃな)仏は、これを降伏しようと思い、身を摩訶迦羅に変じて、曠野にこの荼吉尼を呼び出し、「お前は、人を食っているそうじゃな。では俺も、お前を食ってやろう。」と言って一呑みにし、ガリガリ齧っては吐き出し、齧っては吐き出し、決して死なすようなことはせず、相手が降参するまで、ガリガリやっては吐き出していると、さしもの荼吉尼も、恐れをなして降参した。
  
  毘盧遮那は、こう命じられた、
――「もうこれからは一切の肉を断つようにせよ。」。
  荼吉尼は、こう言った、
――「わたしは、ただ肉のみを食べて、命を保っております。もし肉を断てば、どのようにして保てばよいのでしょう?」
――「お前には、死人の心臓を食うことを許そう。」
――「人が死のうとする時は、おおぜいの悪鬼が来て、争って食おうとします。わたしは力が弱いので、どうすれば、この人の心臓を得ることができましょう?」
――「お前のために真言と、印を結ぶことを教えてやろう。この真言を唱えれば、人が死ぬ六ヶ月前に、それを知ることができる。お前は、それを知ったならば、法をもってその人を加護し、他の悪鬼が恐れさせたり、身を損じたりしないようにせよ。やがてその人の命が尽きれば、お前が、その心臓を取って食うことを許す。」
  つまり、その真言とは、
――「訶唎(かり)、訶(か)。」
  
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  なんとまあ、面白い話ではありませんか、ねェ‥‥。
   
  稲荷の御使が、狐だったりしたものだから、荼吉尼と習合したものでしょうかねェ‥‥。昔、狐が、死人の手足なんどを、くわえていたり、引きずっていたりしていたのが、よく人の目に触れたせいなんでしょうなァ‥‥。人は命がなくなれば、もう人ではなくなるんで、身体は別に惜しいものじゃありません。火葬にするよりは、狐や、犬に供養した方が、本来のありかただと思うのですが‥‥、‥‥。
  
  
  お参りする時に、参詣人は必ず、大きな火屋で覆われた燭台に蝋燭を灯し、御使の狐には油揚を捧げて、祈りを通じてくれるよう、お願いするというのが、作法です。
  
  賽銭箱は普通よくあるような、二枚の板が斜めになって、狭い隙間からお金がすべり落ちてゆくものでなく、ただの平たい函で、賽銭といっしょに油揚も同居するようになっています。
  
  
  短い階段を昇りきった所に、燭台の火屋があり、そこを右手に曲がった所が拝殿ですが、階段の上から下を見ると、縁起物を売る店の前に、出店を出して、蝋燭と油揚を売っています。参詣人の手にする三角の物は、藁(わら)に通した油揚です、右手には恐らく蝋燭を握りしめているはずです。
  
  財布を出して、さてお賽銭はいくらにしよう?多くては経済がもたないし、少くては効き目がない、はて十円でもいいか、百円か、五百円ぐらいか、それとも千円にしようか?‥‥?
  
  参詣人の悩みはつきませんが、はたして百円、五百円で、三億円の宝くじを当てよだの、商売を繁盛させよだのと言って良いものかどうか、誰が考えても、虫がいい話としか言えないように思われますが、‥‥。しかし、もうこれしか手だてがないんですよねェ‥‥。誰しも同じことですなァ、‥‥
  
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  話は変わりますが、童話の方も、随分しばらくぶりでございます。
  童話というものは、必ずしも子供のみを対象にするのでなく、かえって大人に向って何か言いたかったりするものですが、この話では、どんな暗喩を含んでいるものでしょうか?‥‥

 
  熊虎合戦
宇野浩二   
     
  太郎のお父さんは、今こそ太郎のお父さんで、立派な実業家ですが、まだ太郎が、生まれない先の、つまり太郎のお父さんでもなければ、実業家でもなく、ほんの書生で、貧乏で、だから、どうかして立派な人間になろうと思って、アメリカに行って苦労していた時分の、これはお話です。
  
  その時分のお父さんの貧乏さ加減と言ったら、とてもお前たちには想像がつかないよ。――とある時お父さんが、太郎や妹の花子に話しました。――そうだね、どう言ったらいいか、そうだ、九段坂(くだんざか)とか、砲兵工廠の前とかに、通り掛りの車の後押しをしてお金をもらっている、立(たち)ん坊というものがあるだろう。まあ、あんなものだったよ。実際あの時分の貧乏と言ったら、どうぞ一文下さいと言わなかっただけで、まったく乞食よりも困ったものだった。そして丁度(ちょうど)二日(か)というもの、お銭(あし)がないので、パンも何も食べないものだから、体(からだ)が弱って、ぐったりして、ニューヨークという町の、ある公園のベンチに腰をかけていたんだ。
  
  このままでいたら、もう死んでしまうより外(ほか)に仕方がないし、と言って、そんな他所(よそ)の国で乞食なんかするのは、国の恥だし、又意地にもそんな心にはなれないし、どうしたもんだろう、とぼんやり考え込んでいた。その時、
「もしもし、」とお父さんの肩を叩(たた)く者があるので、見ると、一人の背の高い、立派な装(なり)をした西洋人が「あなたは、困っているんじゃありませんか。もしそうなら、是非私(わたし)のところへ勤めに来てくれませんか。私の方では御飯を食べてもらって、その上一週間に八十円づつ給料を上げます。‥‥いいえ、仕事は決して難しいものじゃあありません。それに激しいとか、辛いとかいうものでないことも、私が引受けます。どうです、やって見る気はありませんか?」
「でも、どういう仕事なんです?」とお父さんは尋ねた。
「それは今聞かないで下さい、」と西洋人が言うのには、「だけど、今も言ったように、決して難しいとか辛いとかいう仕事でないことだけは、私が保証します。そして一週間八十円の給料というのも、私が保証します。実は私が主人なのです。だから、あなたがそれを承知して下(くだ)すったら、この場で直ぐに四十円上げても宜しい。」
  
  お父さんは、何となく気味の悪い話だとは思ったが、今言ったようにもう一日(にち)二日(か)そのままでいたら、餓死(うえじ)にしそうだったし、それに見たところその西洋人というのは、おとなしい、別に悪者らしくは見えない人間だし、まさか命をくれという訳でもなかろうと思ったので、
「よろしい、では雇っていただきましょう、」とお父さんは言って、やがてその西洋人と一緒に歩き出した。
  
  公園を出はずれたところで、西洋人はタクシ自動車を呼んで、それにお父さんを一緒に乗せて、どこへ行ったかというと、ニューヨークでは三四流、と言っても、日本の帝国ホテルよりは、ずっと立派なホテルに連れて行った。それはどうも、やっぱり気味が悪いな、と思っていると、その西洋人はお父さんに向って、
「明日(あす)から勤めて下さい。で、今日(きょう)は、まあゆっくり休んで下さい。食べたいもの、飲みたいものがあったら、いつでもそうボーイに言って好きなものをとって下さい。」そしてボーイを呼んで、「この人をあの十七番の部屋へ案内して上(あ)げてくれ給(たま)え、」と言い附けた。
  
  さあ、食べるものは何でも注文したら持って来てくれるし、昨日(きのう)までのように公園の草原(くさはら)や、ベンチの上とは違って、寢るところの立派な寝台(ねだい)は部屋の中にあるし、こんなうまい話はないのであるが、見ず知らずの日本人をつかまえて、そんなに大事にしてくれるということが、やっぱり何とも言えず気味が悪い。何かの時に部屋の中に這入(はい)って来たボーイに、
「あの人は何をする人だい?」と聞いて見ると、
「さあ?」とボーイもよく知らない様子で、「始終、活動写真の興行をしたりなんかする方のようですが、私はよく知りません。もっともニューヨークは入らっしゃると、いつもこのホテルでお泊りになりますが、‥‥。」
  
  だが、二日も物を食べなかったところへ物を食べて、それに長い間、寝床らしい寝床に寢ていなかったので、お父さんはいつの間にか寝台の上に寝転がって、うとうとと眠ってしまった。それが夕飯を食って間もなくのことだったが、余程(よほど)疲れていたと見えて、今度(こんど)眼を覚した時は、まだあたりは暗かったが、何でも夜明方(よあけがた)に近いような気がして、いつの間に降り出したのか、ビショビショと雨が降っていた。日本の宿屋などと違って西洋のホテルというやつは、夜中などに目を覚すと馬鹿(ばか)に寂しいものだ。それに雨は降っている。明日(あす)から始める仕事というのが、どんな仕事だか、まだ分らない。のみならず、相手は今迄、見も知らなかった西洋人だ。――色々と考えると、心細くて心細くて堪らなくなって来る。しかし、やっぱり疲れていたと見えて、いつの間にか又うとうとと眠ってしまった。
  
「コツコツ、コツコツ!」と戸を叩く音がしたので、お父さんは又目を覚した。見ると、窓の外はぽーッと白(しら)みかかっていた。そして雨がやっぱり降りつづいていた。立って行って、戸を開けると、昨日の西洋人が、にこにこしながら這入って来た。そして、「お早う」と言った。見ると、片手に大きな鞄(かばん)を持っていたが、それを部屋のまん中に運び込んで来て、黙ってその中を開けた。
  何が這入っているんだろう?とお父さんは息を呑んで見ていると、驚いたことには、中にはちゃんとした熊の頭のついた、熊の毛皮のようなものが、這入っていたが、西洋人は笑い顔一つしないで、
「これを被(かぶ)ってほしいんです。ですから、あなたは襯衣(シャツ)一枚になって下すって、――あなたの体は小柄(こがら)で、太っているから、丁度都合(つごう)がいいんです。――これを頭からすっぽり被って下さい。私が手伝って着せて上げます。」
  
  お父さんは、呆気(あっけ)にとられたが、西洋人の言い方が余り真面目ではきはきしているので、
「そんな事は厭(いや)です、」と断れなかった。そうこうしているうちに、いつの間にか西洋人に手伝われて、熊の皮をかぶってしまった。
「ね、目もよく見えるでしょう、窮屈じゃないでしょう。その口のところに管(くだ)が一本出ているでしょう。それは笛です。それを吹いて御覧なさい。そうすると、自然と口が開いて、熊の吠える声が出るようになっているのです。」
  なるほと、その管を吹いて見ると、自分でもびっくりした程、本物の熊にそっくりの声が出ました。
「ね、大(たい)して辛いことも、難しいこともない仕事でしょう。実は四五日(にち)前に私の興行している動物園の熊が一匹死んだのです。私の方では、呼物(よびもの)の動物が死ぬと、代りが出来るまでよくこういう方法を取るんです。が、とにかく、大勢の人間の見物相手ですから、余程巧(うま)いものでないと、欺(だま)かせませんからね。どうです、一寸(ちょっと)向こうの鏡を見て御覧なさい、あなたの姿です、」と言われて、熊になったお父さんが、その方を見たところが、実際驚いたことには、自分がなっているとは知りながらも、その鏡に映っているのは、本当の熊じゃないか知ら、とびっくりした位(くらい)だった。もうその時は大分(だいぶ)度胸も坐って来たから、一寸口の傍(そば)に突き出ている管を吹いて見ると、
「オウ!」という熊の吠え声と一緒に、鏡に映っている熊はカツと口を開(あ)いたが、全(まった)く凄い程、本物と一寸も違(ちが)わない。
  
  その時、廊下の外にガラガラと何か重い物を載せた車がやって来る音がした。そして間もなく車が部屋の前で止まると、西洋人は戸を開けて、熊になったお父さんの首をとるなり、その方へ連れて行った。見ると、それは、底に小さな車の附いた、熊の檻(おり)なんだ。ひょっとすると、例の西洋人の外は、皆、車を引張(ひっぱ)って来た連中も、その熊を本当の熊だと思っていたかも知れない。西洋人はいかにも本物の熊を扱うように、お父さんの熊を鞭を持って、
「シッ、シッ!」と追いながら、檻の中に入れると、外からカチカチと鍵をかけてしまった。
  お父さんはその時、これはうかうかこんなことを引受けたが、どうかした拍子に本当の熊になってしまうんじゃないかな、と心配になり出した位である。そのうちにホテルの玄関から檻のまま馬車に積み込まれて、雨のざんざん降る中をどこかへ連れて行かれた。気味の悪いことには、同じ馬車の中に、外(ほか)の本物の狐や狼などの檻が載せられていて、そいつ等が檻の中を歩き廻る足音や、ウーウー呻(うな)る声などが聞こえて来るのである。そしてお父さんは、ニューヨークの、つまり東京でいうと浅草というような町の、動物園へ連れて行かれた。
  
  動物園に着くと、早速四五人の人足に檻のまま舁(かつ)がれて、大きな鉄格子の嵌(はま)った檻の中に移された。
  お父さんは、のそのそと中に這入って行って、これも商売だと思えば仕様がない、なる程確かに難しくもなければ、大して辛いことでもないかも知れないが、余りいい仕事じゃないな、と思いながら、ふと隣の方を見ると、その境(さかい)が鉄格子になっていたが、そこに一匹の虎が足を投げ出して坐っているのを見附けた時には、一寸逃げ出しかける程驚いた。そして、暫(しばら)くして落付いて来ると、俺もアメリカ三界(がい)に来て、獣(けもの)に化(ば)けて、獣と鄰同志で暮らすようになろうとは、と、つくづく情けなくなった。
  が、見ると、雨降りにもかかわらず、もうポツポツ見物人が来出したし、もはや人間の声を出して、こんな仕事を止めさしてくれと怒鳴っても、かえってそんな事をしたら自分の恥のような気がしたので、なるべく熊らしく見えるように、のそのそと檻の中を歩き廻ったり、又足を前に投げ出して坐って見たりした。そして格好(かっこう)の分らぬ時には、隣の虎の方を手本のつもりで見習った。
  
  さて昼過ぎになった。昼前に雨が上がったので、見物が後(あと)から後からとたくさんやって来る。殊(こと)にほかに目立った動物がいないと見えて、虎と熊の前は大変な人気だ。そうなると、そんなに大勢の人を欺しているということが気がさすと共に、又こうなったからには出来るだけ巧く熊になり切っていなければならぬという気持で、お父さんは益々体を固くしていた。
  すると、檻の前に真赤(まっか)な帽子をかぶって、真赤な洋服を着た男が現われて、手に持っている鞭で熊と虎との方を差(さ)しながら、見物に向って何か演説を始めた。見ると、その男が昨日(きのう)お父さんを公園から連れて行って熊にしたあの西洋人なのである。が、それよりも何よりもびっくりしたのはその男の演説で、
「さあ、これから今日は呼び物の、熊と虎との合戦を御覧に入れまアす!」と言ったかと思うと、その声の終るか終らぬかの中(うち)に、あちらでもこちらでも、合図と見えて、ガンガンドンドンと鐘(かね)や太鼓を一時に叩(たた)く音が起った。そして、
「さあ、熊と虎との合戦が始まりまアす、始まりまアす!」と呶鳴(どな)る声が聞こえて来た。
  
  そして、お父さんがはッとびっくりしている暇もないうちに、例の隣の虎の檻との境目(さかいめ)の、鉄の格子(こうし)がガラガラという音と共に、両方にぱっと割れるように開(ひら)いたのである。その時、
「ウオー!」と虎が一声吠えて、お父さんの熊の方にのそのそ歩いて来た。
「しまった!」とお父さんは思った。あんなうまいことを言って、あの赤服の西洋人の奴(やつ)、欺すのに事(こと)をかいて、こんなひどい目に合わすとは、と腹が立つやら、情(なさけ)なくなるやらしたが、然(しか)し、もう何と言っても遁(に)げる訳には行かないし、と度胸を定(き)めて、こちらでも一つ、
「ウオー!」と吠えて見た。
  が、虎はそんな事ではびくともしない様子で、のそのそとこちらの檻の中に一足(あし)踏み込んだところで、ぴたりと両足をそろえて、こちらを狙(ねら)うようにかまえた。
  
  仕様がないので、こちらでもその真似をして、かまえる格好をしなければならなかった。
「ワー、ワー。やれやれ!」
「熊(くま)、しっかりしろ!」などと騒ぐ見物の声などは、もう夢中になっている熊のお父さんには聞こえなかった。お父さんの熊は口の中にある管の笛をつづけさまに吹いた。
  けれども、虎はそんな事にはびくともしないどころか、搆えたままの姿勢で、じりじりとそばへ寄って来た。
  
  熊はじりじりと後退(あとずさ)りした。が、とうとう、熊は後(うしろ)の鉄格子のところまで後退りして、もう一足(あし)も引けなくなったので、又一頻(しき)り、
「ウオー、ウオー!」と吠え立てた。が、虎の方では一声(こえ)、
「ウオー!」と返事してから、もう殆(ほとん)ど噛みつく程の傍(そば)へ寄って来た。
「ワー、ワー!熊、弱虫の熊!」と見物の中から呶鳴(どな)る奴(やつ)もある。
  
  が、熊のお父さんはそれどころではない、もう命をとられる、と覚悟しながら、思わず南無阿弥陀仏と口の中で言った。その時、
「おい、安心しろ!」何処(どこ)からともなく、確かにそういう声が聞こえて来た。
「おや?」と思ったが、どこからだか分らない。「耳の間違いかな?」と熊のお父さんが思っていると、
「おい、安心しろ!」と又声が聞こえた。「俺も人間だよ。」
  と言うのは、その虎が言っているのであった。
  その時、どこかで、ピリピリと笛が鳴って、檻の前に、見物人とのあいだに、白い幕が下りたのであった。
  
「いや、あの時程びっくりしたことはないよ、アハハハ。」とお父さんは言って笑いました。
「どうしたんです、それは?」と太郎が聞きますと、
「なァに、後で聞くと、それは活動写真にそういう場面がいるというので、撮ったんだそうだよ。何(なん)にも知らずにひどい目に遭ったのはお父さんだけさ。アハハハハ。ああしないと、本当らしく写真に写らないからなんだろうな。アハハハハ。」
  
  
  
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雛の菓子(落雁)大口屋調製
  
  
  
  
  
では、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (春の訪れを待ちわびる歌 おわり)