術競べ
その六
抜麿「これお狐、心理生理の二面に渡って哲学宗教の秘密に触るる神秘深奥の学問の為にナ、汝(きさま)の身体(からだ)を暫時実験に用いるからその積もりで居ろよお狐。」
お狐「アノ何んでござりまするか解りませんが、どうか御免(ごめん)下さいまして!。」
抜麿「解らんなコレ、怖(こわ)い事では無い、学問の為である。」
お狐「でも妾(わたくし)をどうか為(な)さりますので?。」
抜麿「いやどうも致すのでは無い。もちっと予に近う寄って、ただおとなしくして居ればよいのじゃ。予が呪文を唱え手先を動かすのを黙って見聞(みきき)して居るとナ、その中(うち)に好い心持になってウトウトと睡くなる。そうしたら一向構わず寢て仕舞えばそれで宜いのだ。」
お狐「厭(いや)でございまするネエ、正体(しょうたい)が無くなるのでございますか。」
抜麿「さようさ、正体が無くなるというのでも無いが先づ睡くなるナ。」
お狐「お上(かみ)の前で居睡りを致して御覧に入れるのは余(あんま)り御羞(おはずか)しいことで、これあ妾(わたくし)はどうぞ御免なすって下さいまし。」
抜麿「イヤ苦しう無い、鼾声(いびき)をかいても涎(よだれ)を垂しても免(ゆる)して遣わすから。」
お狐「いくら御免(おゆる)し下さいますにしても、これだけは御免(ごめん)下さいまし、女のたしなみに背(そむ)くことでございますから。」
抜麿「大事無い、誰も見ては居らぬし、予ばかりのことである。そんなに頑硬(かたいじ)になって女のたしなみを兔角(とかく)申さずとも予の命令(いいつけ)に従うが宜い。」
お狐「いくら仰(おっし)あいましても御羞しうございますから。」
抜麿「困るナ、そう強情(ごうじょう)では。‥‥ムヽ、宜し宜し、最初一度だけの事である、後は又どうにでもなることであろうから、欺(だま)すに手無しである、利を以って誘(いざな)って遣ろう。コレお狐、その方何か欲(ほし)いものは無いか。」
お狐「欲しいものと申しますと?。」
抜麿「衣服(きもの)とか髪飾りとか、何かそのようなもので。」
お狐「妾(わたくし)は嘘言(うそ)いつわりは申しません、正直(まっすぐ)に申しまするが、そりゃあ欲しいものは沢山(たんと)ございます。」
抜麿「先づ差当たりは何んであるナ、お狐。」
お狐「お召縮緬(めし)が欲しくって欲しくって堪(たま)りませんのでございます。」
抜麿「お召は何程ぐらい致すものである?。」
お狐「品(しな)次第でございますけれども、十四五円なら宜うございますネ。」
抜麿「高いナ。も少し手軽(てがる)なもので欲しいものは無いか。」
お狐「そうでございますネエ、節糸織(ふしいと)で十円、伊勢崎(いせざき)で八円、秩父銘仙(ちちぶめいせん)でも見好(みよ)いのは五円位(ぐらい)も取られます。」
抜麿「よくいろいろと知って居(お)るナ。では仕方が無いその秩父銘仙というのを買って遣わす。どうだ嬉しいか。」
お狐「あの妾(わたくし)に買って下さいまするので?。」
抜麿「そうだ。」
お狐「そりゃあどうも真(まこと)に有り難うございまするが、」
抜麿「その代りこの方の用も足すかどうだ。」
お狐「ハイ、‥‥アノ‥‥何でございますか‥‥それは、」
抜麿「厭(いや)なら買っても遣らぬがいよいよ厭か。」
お狐「ハイ。イヽエ。イヽエ。ハイ。‥‥」
抜麿「どうだどうだ、分からんことを申さずとも自分の好みの物を買って、主人の用事を勤めたのが当世(とうせい)であろう。それ五円遣わす。受取るが宜い。」
お狐「それ程までに仰(おっし)あることならば御試験の為に、どのようにも妾(わたくし)の身体(からだ)を御使い下さいまし。これは頂くには及びませんでございます。」
抜麿「ン、予の熱心に感じたところは感心な奴だ。これは一旦遣ったものであるから袂(ここ)へ入れて置いて遣る、サアサア予が引っ張る通り前へ出て、前へ出て!。そう!、先づそこで宜し。さあ術を掛けるぞ、気を静(しずか)にして!。」
お狐「何だか寒いような怖(こわ)いような心持が致しまして。」
抜麿「怖いことはちっとも無い、安心して居れ。予の指を見て居れ、動く通りに。」
お狐「オヤオヤ砂の上へ「へへののもへじ」を画(か)くような指(て)つきをして、人の眼の前で何かなさるのネ。」
抜麿「黙って居らんではいかん。法事(ほうごと)であるから、真面目(まじめ)になって居れ。じきに睡くなる。予が唱える呪文を気を鎮(しず)めて聞いて居れ。ウルマノヲトコハイモクテネー、コクリノヲトコハパパスーテネー、トラネルサウネルワッパネルー、トンネルパンネルフランネルー、オーライ、ウトーリ、ヒナタネコー。そーれ睡くなって来た。どうだ眼眶(まぶた)が下がるだろう。オーライ、ウトーリ、ヒナタネコー、オーライ、ウトーリ、ヒナタネコー。や、とうとう睡(ね)て仕舞った!。実に奇妙であるぞ!。あゝ実に妙だ、我ながら妙だ!。実に感心だ、実に不可思議だ、実に人間の最霊最妙の現象だ!。アヽ朽藁(くちわらの)抜麿、弘法伝教(こうぼうでんきょう)の徒と相距(あいさ)る幾干(いくばく)ぞやだ!。どれどれ術家の所謂(いわゆる)パッスを行って遣わそう。‥‥さて先づこれで好し、これから試験を為(し)て見よう。これお狐、どうだ時候も大分(だいぶ)温暖(あたたか)になったナ。」
お狐「ハイ、さようでございます、温暖でございます。」
抜麿「フヽヽ、この寒いのに暖気(あたたか)だと云って居る。これあおもしろい、どうだお狐、こういう陽気になると虱(しらみ)が這い出すと申すが、汝(きさま)なぞも定めしたかられて居(お)ることであろう。ヤ、この領元(えりもと)にコレ胡麻粒(ごまつぶ)程の立派な奴(やつ)が一匹這って居(お)るでは無いか。」
お狐「まあ、おゝ厭(いや)だこと!。御羞(おはずか)しうございます!。」
抜麿「フヽヽ。綿塵(わがごみ)を指して申したにほんとの虱かと思って、真っ赤な顔を仕て羞しがって居(お)る。こりゃあ面白い!。これ、襟にさえこの通り這って居るようでは、背中にも定めし沢山居ようぞ。痒(かゆ)かろう痒かろう、どうだお狐。ヤ、面(かお)をしかめて痒がり出した。奇妙々々!。これあ可笑(おか)しい。お狐、予が呪文を以ってその虱を尽(ことごと)く退散致させて遣わす。マーゴノテパアリパリ、マーゴノデパアリパリ。どうだ治(なお)ったろう、もう痒くはあるまい。」
お狐「有り難うございます、痒くはございません。」
抜麿「フヽヽ、どの位性(しょう)が抜けて馬鹿になるものであろう!。居りもせぬ虱が居て痒いと云ったり、マーゴノテパアリパリと云えば痒くなくなったと云ったり、アッハヽハヽ、ほんとに馬鹿だナア、アハヽハヽハヽ、可笑(おか)しいナアお狐、可笑しいだろうお狐、ハヽハヽハヽ。」
お狐「オホヽホヽホヽ。」
抜麿「ヤ、こりゃあ馬鹿だ、訳も分からないのに可笑しそうに笑って、しかも自分の事を笑われて居るのも知らんで笑うというのは、どこまでノンセンスになったものか数(すう)が知れないわ。アハヽハヽハヽ。」
お狐「オホヽホヽホヽ、オホヽッ、オホヽッ。」
抜麿「真(しん)に可笑(おか)しそうに笑って居るところが実に絶妙だ。さも予が馬鹿々々しいことを仕て居るのでも見て可笑しくって堪(たま)ら無いように笑い居るのが可笑しい。ハヽハヽヽ。」
お狐「オホヽホヽホヽヽ。」
抜麿「フヽフヽフ、まだ笑って居る!。もう止(よ)させて遣ろう。お狐!、考えて見れば可笑しいことは何んにも無かったナ。人間というものは一体馬鹿で何んにも知らんで笑ったりなんぞして居るが、気がついて見れば自分の馬鹿なのはつくづく悲しいナア。乃公(おれ)は何だか悲しくなったが汝(きさま)も悲しいだろう。ナアお互いに馬鹿なのが悲しいナア。」
お狐「なるほど妾(わたくし)も悲しうございますネエ、な、な、情無くって!。」
抜麿「ヤ、啜(すす)り泣きまでして悲しみだした。フヽフヽフ。予も汝(きさま)の馬鹿なのが可愍(ふびん)で悲しいが、汝も予の馬鹿なのが可愍で悲しいか、エーンエーン。ト泣き真似をして見せたものだ。」
お狐「妾(わたくし)もエーンエーン、若様の御馬鹿なのが、エーンエーン、御愍然(おかわいそう)で、エーンエーン、悲しくってなりません。エーンエーン。」
抜麿「ハヽハヽハ、大笑いだ、自分の事は棚に上げて置いて宜(い)い事を云い居る!。大層な泣声だぞ、羊でも鳴くようだ。そう泣かすばかりでも可笑しく無い、陽気にして遣わそう。お狐!、しかし泣いてばかり居ても詰(つ)まらん世中(よのなか)だ、ちと浮かれるも宜い、酒は憂(うれい)を掃(はら)うものだ、一杯遣わそう、これを飲むとたちまち酔って宜(い)い心持になるぞ。それそれどうだ、身に浸(し)み渡るだろう。正宗(まさむね)だぞ。酔(よい)が発して来たろう、どうだお狐。」
お狐「アヽ顔が熱(ほて)って眼がちらちらして好(い)い心持になりました。」
抜麿「ハヽヽ。湯を飲ませたのに酒だと思って、面(かお)を紅くしてまったく酔ったような心持で居(お)ると見える。不思議々々々。どうだお狐、好(い)い心持なら歌でも唱わんか。それ隣室(となり)で三絃(さみせん)の音がする!。汝(きさま)の唱うのを待って居る様子だ。唱え唱え。」
お狐「都々逸(どどいつ)の三味線ですネエ。面白くなってまいりした。じゃあ一つ聞きおぼえを遣りますよ。お前もーどぢーなら妾(わたし)もーどぢーで、どぢーとどぢーとでー抜(ぬけ)ー裏(うら)だ。」
抜麿「聞こえもせぬ三絃(さみせん)に浮かれて唱い出したのが面白い。こりゃあ妙だ、実に妙だ、珍妙だ。も一つ唱え、も一つ唱え。汝(きさま)の歌は面白い。」
お狐「お前もー馬鹿なら妾(わたし)も馬鹿で、馬鹿ーに仕合うもー馬鹿々々し。」
抜麿「ン、ナアル程、哲理を含んで居る歌だナ、面白いッ。も一つ唱え、も一つ唱え。」
お狐「骰子(さい)のー一(ぴん)の処(とこ)あ、狸ーのお尻、それーが、知れなきゃあ、嘗(な)めーて見な。」
抜麿「ハヽハヽハヽヽ、何だかどうも尾籠(びろう)な歌で理由(わけ)が分からんナ。しかしもうこの種の実験はこれで済ますとして、これから大切の天眼通の実験を仕なければならん。これお狐、汝(きさま)は北利奇之助を見た事が有ろう、――年賀に来たから。あの男の宅は直(じき)近処だが、あれのところへ参ってあれが何を為(し)て居るか見て帰って来い。こらこら立って行かずとも宜い、そこに居て。」
お狐「ヘエー。」
抜麿「汝(きさま)は今既に通力(つうりき)を得て居(お)るのだ。眼を瞑(ふさ)いで居て天下の事が分かるのだ。さあ北利の家へ行って何を仕て居るか見て来て話して聞かすが宜い。」
お狐「こうも馬鹿げきった事が云えば云われるものかネー!。どうも変な事を云うと思ったら妾(わたし)に命令(いいつ)けてるなあ、つまり身体(からだ)はここに置いて魂魄(たましい)だけで北利の家(うち)へ行って来いというのだよ。人!馬鹿々々しい、鼻の孔(あな)から煙草(たばこ)の煙でも出しゃあ仕まいし、そうお手軽に魂魄が体から抜けて出て堪(たま)る訳のものじゃあ有りや仕無い。細螺(きしゃご)のお化けだってあの殻の中から出っきりにゃあ為(な)らないものを、豚の何かの風船に五色の糸でも付けて飛ばすように、魂魄が尾を曳いてふらふらと身体の外へぶらつき出しでもしたら御慰みだろうが、そうしたら生憎(あいにく)風でもって吹きつけられてその尻尾(しっぽ)が電信線(でんしん)に搦(から)まって仕舞って、魂魄(たましい)の立往生(たちおうじょう)っていうような頓痴気(とんちき)なことも始まりそうな話だ。仕方が無いからこうやっていろいろの事を思いながら薄目を開(あ)いてぼんやりとした顔をして黙って坐って居ると、今妾(わたし)の魂魄が北利の家へでも行ってる最中かと思って妙な顔をして妾(わたし)を視詰めて居るこの抜麿さんの御顔ったら無いネ!。オヤオヤこの人も眼が二つあるよ!マア感心に鼻が下を向いて着いてる中(うち)が可愛らしいじゃ無いか、そして眉毛(まみえ)が眼の下に着いても居ないのネー!、ホヽヽこれでもやっぱり普通(なみ)の人の形をしていらっしゃるから宜(い)い、魂魄が見えないものだから宜いようなものゝ、手に取って検(あらた)めることの出来るものなんだろうもんなら、この抜麿様の御魂魄(おたましい)なんぞはきっと洲(す)が立って居らっしゃるよ!。どれどれ、もう帰った積もりに仕ても宜い時分だろう。宜い加減な茶羅(ちゃら)っぽこを振り蒔いて遣ることとしましょうよ。エヽ北利さんのところへ行ってまいりましたが‥‥。」
抜麿「ムヽそうかそうか、途中が寒かったろう、大儀であったナ。」
お狐「どうも夜分の事でございますものですから寒うございましてネ、それに大きな洋犬(かめ)が居りましたので怖うございました。」
抜麿「ウン、そうだったろう、そうだったろう。寒い晩である!。なるほどあすこには大きな洋犬が居る!。ハテ神妙不可思議の事である!、よく分かったものである!。なるほど天眼通である!、神通である!。ハアッ有り難い辱(かたじけ)ない、予は神通を得た!、神通自在になった!、安部清明(あべのせいめい)が識神(しきじん)を使ったというのも今思い当ったが、清明何んするものぞやだ、もう羨ましくは無いぞ。して北利は何をして居ったか、それを聞かせい。」
お狐「生憎(あいにく)北利さんは御不在(るす)でございました。」
抜麿「ナニ、北利は不在(るす)だったと?、それは残念だった!。何か別に見聞きした事は無いか、有るなら云って聞かせい。」
お狐「御女中が二人(ふたり)で北利さんの御噂を仕て居りました。」
抜麿「フム、何んと申して居った?」
お狐「春の事だから大方(おおかた)待合へでもいらしって、芸者(げいしゃ)でも掲げて遊んでおいでなのだろうと申しまして。」
抜麿「フム、そうか、他(ほか)には何も申さなかったか。」
お狐「きっと又芸者を御召(およ)びなすったらそれに催眠術を掛けるなんて云っては厭(いや)がられて御いでだろうって。」
抜麿「フーム、もう他には何も申さんだったか?。」
お狐「まだその他には、どうも旦那様の催眠術も宜(い)いけれども、余(あんま)り心無しに長ったらしく掛けられると、後でがっかりして疲労(くたび)れて仕舞って御用の出来無いには弱る、と申して居りました。」
抜麿「ナアル程道理(もっとも)である、これはそうであろう、汝(きさま)には後で沢山(たんと)休息させて遣るから賢い主人だと思へ。さ、もう天眼通の実験も済んだから醒まして遣っても宜(い)いが、ン、まだ有ったまだ有った、暗示力(あんじりょく)の実験だ!。いかほど施術者の命令は被術者の覚醒後にも行われるか試(ため)して見なければならん。この実験には少し常理に脱(はず)れたような事を命令(いいつ)けて見ねばどうも無意識でする事か記憶(おぼえ)が有って為(す)る事かの判別が出来んから、よしよし少々出来かねるような突飛なことを申しつけて見て遣ろう。去年もこの暗示力の実験では大成功したのだが、お品を相手にさせたために大珍事が起って、とうとうお智世に暇(ひま)を遣るに至ったが、今度は誰を相手にさせたもので有ろうか。吾家(うち)の中の者では、後でごたごたが起った時に困るし、まさかに往来の者にこれこれの事を仕掛けろと、おかしな事を命じて置く訳にも行きかねるが、ハテ誰に仕掛けさせたものであろう、誰に仕掛けさせたものであろうか?アヽ北利奇之助!、あれに限る、あれに限る!。あれは平生(ひごろ)催眠術に就いての自信が甚だしく強くって、自ら卓絶した術者だと思って予を軽く視て居る!。いや内々(ないない)では予を侮(あなど)って居(お)る!。あれを実験の相手にして遣れば後で取り調べるにも何かと便利であるし、且つ少々は甚(ひど)い事をして遣ってもあれならば関(かま)わん。あの鼻を挫(くじ)くには寧ろ少しは思い切った事を仕掛けて遣る方がいい位である。ヤ、鼻を挫くと云えばお智世にお品を愚弄(なぶ)らせたのは実に巧く行ったものだった。しかし余り巧く行き過ぎたので事になって仕舞ったが、奇之助は同じ催眠術研究者であって見れば、暗示力の実験の相手にしていささか愚弄したところで、お品のように無暗にも怒(おこ)るまい。イヤ怒ればいよいよ以って愚弄して遣ってもいい位である。すれば先づ相手は北利として、何んとさせたものであろう?。ア、鼻を挫くというところから面白い事を思いついたぞ、少し甚(ひど)いかも知れないが、関(かま)わん、実験だ。ウフヽフヽフヽ、これあ堪(こた)えられない、あの北利めがどんな顔をするだろう、これあ可笑(おか)しくって独りで堪(こた)えられない!。これお狐、汝(きさま)に確(しか)といいつけて置くから命令(いいつけ)通りに致すのだぞ。」
お狐「ハイ。」
抜麿「明朝汝(きさま)が起きたら起き抜けに直(すぐ)に、」
お狐「起き抜けに直に、」
抜麿「先づ顔を洗い、白粉(おしろい)を付け、身じまいを致して、」、
お狐「先づ顔を洗い、白粉を付け、身じまいを致して、」
抜麿「北利奇之助を尋ねて、面会を求めるのだ。あれは晏起(あさね)ゆえ寐(ね)て居るであろうが、如何様(いかよう)にしても起して強(し)いて面会をして、」
お狐「如何様にしても起して強いて面会をして、」
抜麿「面(かお)を見るや否や思いきった大きな声を掲げてナ、朽藁式催眠術の妙作用はこの通りと申して、」
お狐「朽藁式催眠術の妙作用はこの通りと申して、」
抜麿「手の中指無名指(くすりゆび)と拇指(おやゆび)とを寄せて他の指を伸ばしてナ、俗に申す狐々(こんこん)チキの形を両手ともにこしらえて踊り回るのだ。」
お狐「狐々チキの形をこしらえて踊り回って、」
抜麿「奇之助を化かす心持で散々(さんざん)に嬲(なぶ)り立てた上、好い機(しお)を見てあの鼻の端(さき)をいきなりポーンと指で弾(はじ)くのだ。」
お狐「好い機を見ていきなり鼻の端をポーンと弾いて、」
抜麿「そしてトントントンと三歩(みあし)後へ退(さが)って眼を瞑(ねむ)って首を振りながら、」
お狐「三歩後へ退って眼を瞑って首を振って、」
抜麿「フヤラノ、フヤラノ、フンと申して、ベッカッコウをして見せるのだ。」
お狐「フヤラノ、フヤラノ、フン、と申してベッカッコウをして見せるので。」
抜麿「そうだ、それでいいのだ。」
お狐「ハイ。」
抜麿「ではもう実験は沢山だ。予の新式は成功した。抜麿君万歳だ。さあ覚醒(さま)して遣ろう。この水を飲め、これを飲むと了々(はっきり)としてすっかり常の心持になる。さあ一ト口に飲め、そうだ、そうだ、それ了々としたろう。」
お狐「アヽッ、アヽアヽ。オヤ、欠伸(あくび)ばかり出てこれあ怪しからないこと!。マア妾(わたくし)は何時(いつ)の間(ま)にか若様の御前(おまえ)でうっとりとして仕舞ったのでございましょう!。ちっとも存じませんでしたよ。」
抜麿「ハヽヽそうで有ろう、何も知らんのか?。」
お狐「何んにも存じませんが、何かおかしい事でもございまして?。」
抜麿「ハヽヽ、いや別におかしい事も無かったが、お狐汝(きさま)は都々逸が上手(じょうず)だナ。」
お狐「あら嘘(うそ)ばっかり。」
抜麿「嘘では無いぞ、骰子(さい)の一(ぴん)の処(とこ)あ狸のお尻なんぞという稀代(きたい)な文句の歌を汝(きさま)は知って居(お)るな。」
お狐「何んでございますか知りませんが他人(ひと)が唱って居りましたのは存じて居ります。」
抜麿「イヤ他人(ひと)が唱ったのでは無い、汝(きさま)が唱ったのだ。」
お狐「あらマア嘘を仰(おっし)あいます!。」
抜麿「嘘言(うそ)では無い、ほんとに汝(きさま)が唱ったのだ。」
お狐「ほんとに?。」
抜麿「ほんとにサ。」
お狐「マアどうしましょう、嫌(いや)でございますネエ。」
抜麿「コレコレそう羞かしがって慌てて逃げて行かんでも宜い。ハヽハヽハヽ、夢中になって逃げて行って仕舞った。可憐な奴(やつ)である!。」
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