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曼珠沙華
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  どんなに優れた学説も、それを無批判に受け入れることを教条主義dogmatismといい、またそんな態度を教条主義的dogmaticといっているようですが、学問という立場から見れば、どれほど優れていようと無批判に受け入れてよい学説というものは存在しないわけで、必ず自らの力で評価した後に受け入れるようにしなければ、とても学問的態度とはいえないわけです。
  
  さて、そのような学問的態度はさておき、この老人は、もともと妥協的精神が皆無なところへもってきて、さらにその上に老齢と、このところの暑さにまけて、冷房で頭をひやしすぎたりしていますので、すでに頑固をとおりこして、すっかり頑迷の域にたっしております。
  
  と、まづこのようにことわっておくのがよろしかろうと思うのですが、‥‥
  老人は、最近では外にでることがめっきりへって、暇をもてあましておりますので、今日はひとつ論語のよみくらべをしてみようということではじめたのが、以前にも、少しばかり触れたことのある、周知の学而第一の冒頭の一句ですがね、‥‥
  
子曰:「學而時習之,不亦說乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知而不慍,不亦君子乎?」
  
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  まずなにはともあれ、読み下してみましょう、
  ――子(し)の曰(のたま)わく、「学びて時に之(これ)を習う、亦(ま)た説(よろこば)しからずや?朋(とも)の遠方より来たる有り、亦た楽しからずや?人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。」と。
  
  この中、説(えつ)は、悦に通じておりますので、「説(よろこば)し」とよむのは、皆同じですし、また慍(おん)を「慍(うら)みず」とよむのは、岩波文庫(金谷治)と、新釈漢文大系(吉田賢抗)、「慍(いきどお)らず」とよむのは、論語の講義(諸橋徹次)ですが、いづれにしても慍(うん)の字義は、大漢和によれば怨(うらむ)、怒(いかる)、恚(いかる)等の字義に通じ、心と昷(温)とに従うとありますので、いきどおりで心があつくなる状態を指すということを知れば、これもまた読み方はどちらでもよいことなのです。まあ、読み方には問題なしとしておきましょう。
  
  では、現代語に訳してみましょう、
  ――先生は、こうおっしゃった、「学んで、おりにふれて練習してみる、これもまた悦ばしいことではないだろうか?友だちが遠方より来た、これもまた楽しいことではないだろうか?人に知られなくても、怨まない、これもまた君子ではなかろうか?」
  
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  岩波文庫では、どうでしょうか?
  ――先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね(そのたびに理解が深まって向上していくのだから)。だれか友だちが遠い所からたずねて来る、いかにも楽しいことだね(同じ道について語りあえるのだから)。人が分ってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね(凡人にはできないことだから)。」
  *先生――「子」は男子の美称、また通称。以下すべて孔子をさす。 *友だち――学習向上の結果として得られた同志の友。 *君子――徳の習得にはげむ人。また徳のでき上がった人。ここでは後の意味。なお在位者をいうときもある。
  
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  次に、新釈漢文大系では、どうでしょうか?
  ――孔子言う、学んだことをいつも繰り返し習っていると、いつの間にか理解が深まって自分のものとなり、自由に働きを表すようになる。これはなんと嬉しいことではないか。このように勉強していると、自然に同学同志で遠くから慕って来るものがあって、学問について話し合いをする。これはなんと楽しいことではないか。修養と学問は自分の力でできても、人との関係は時のめぐり合わせで、必ずしも自分の思うようにはならぬが、さて、世人が自分の学徳を認めてくれなくても、不平不満を抱かない人は、なんと学徳の高い、りっぱな人ではないか。」
  
  語釈 ○子 男子の美称、或いは通称。白虎通号篇に「丈夫の通称」とある。ここでは「先生」というほどの意。単に「子」と書いたのは、門人が記述したもので、「孔」を省いても「孔子」ということがすぐわかるからである。これは門人仲間の呼び方で「内辞」という。○学 学問のこと。朱子は「学の言たる効(なら)う」といい、白虎通辟雍篇には「学の言たる覚る」とある。「学」は人のまねをすることから始まって、遂に「なるほどこうであったか」と悟入するの意である。何を学ぶのか。昔の聖人の教え、詩経と書経を読み、礼と楽とを学んで、実践にうつすのである。○而 接続詞。訓読する場合は、読んだり読まなかったりするが、順接と逆接があって、「学而~」は順接で「テ」であり、「人不知而~」は逆接で「シカレドモ」の意である。○時 学ぼうとしてやれる時はいつでもの意。二六時中。常に。○習 繰り返し、反復すること。説文に「習とは、鳥のしばしば飛ぶ」と。反復習熟しているうちに理解が深まり、自分のものとして体得される。「習」は前の「学」をうけ、後の「説」に応ずる。○不亦~乎 「また~ならずや」と読む語形。「どうだ~ではないか」と、強くやわらかく話しかけて、相手の同意を促す意味がある。「亦」には詠嘆の意味をもって、語調を整え、やわらげる助字。「モマタ」の亦ではない。○説 悦と同じ。心中に嬉しく思う。音は「エツ」で、皇侃本には「悦」に作っているが、説文には「悦」の字は無い。自得悦楽の意で、学習はここまで至らねばならぬ。○有朋~来 朋友が遠方からやって来ることである。鄭玄の注では「師を同じうするを朋となし、志を同じうするを友となす」とあるが、ここでは区別がない。朋友とは実際には孔子の門人、或いは孔子の学を慕う人たちで、近い所の人はもちろん、遠くからも慕い集まるの意。一説には「有」は「友」という。○楽 悦びが心の外にあふれ、容貌にも現れる。自分一人の悦びをいう「悦」に対している。門人や学友と共に、研究して発明するところあるの楽しみである。 孟子にも「君子に三楽有り。(中略)天下の英才を得て之を教育するは三の楽しみなり」(尽心上)とある。○人不知 「人」は世人であるが、ここでは自分を挙げて用いてくれない君主王侯をさす。自分の学徳ができあがっても社会に登庸されない。○不慍 心中にすこしの不平不満もない。説文に「慍は怨」。朱子は「慍は怒を含むの意」と解した。また「イキドオル」とも読むが、少し本義からそれるようだ。中庸にも「君子は中庸に依(よ)り、世を遯(のが)れて知られず悔いず。唯聖者のみ之を能くす」(第十一章)とある。○君子 学徳のできあがった人。人格の高い人。立派な人。元来、位と徳とを兼ねた者の語で、学徳があって民を治める者の称であるが、後には、位はなくても学徳があって人の上に立つ資格のある者を君子と称するようになった。故に「君子」は場合によって、「有徳の人」、「有位の人」、「学者」の三義に使いわけるが、現代語ではちょっとこれに代わるものがない。「紳士」では内容的にずれがありそうだ。
  
  余説 この章は孔子生涯の履歴ともいうべき学修のことを三段階に分けたものであるが、人間形成に関する一連の発展過程を述べたものでもある。即ち第一段は、学問は空理空論ではだめで、自らの体験に訴えて、習熟体得しなくてはならぬことをいっている。孔子は十五歳で学に志してから、「学びて厭わず」(150)といい、また「憤を発して食を忘れ、老のまさに至らんとするを知らず」(166)と述懐したように、終身孜孜(しし)として勉学これ努めたことは、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者あらん。丘の学を好むが如くならざるなり」(120)の一言を以っても知ることができる。第二段は、学問は必ず同学者の共同研究によって大きな効果が得られ、また同学の者の慕い集まる楽しみは、学者としてこれ以上に過ぎるものがないことを述べたものである。史記では、孔子の弟子は三千というが、その三千の門人が、「中心悦びて誠に服す」(公孫丑上)と孟子が評したように、孔門師弟の情愛と修学の悦楽は論語の至るところに見られる。第三段は極めてむずかしい心境である。孔子は一時魯の君主に登用されてその経綸を行ったことがある。(五十一歳~五十六歳ごろ)。しかし、魯君はほんとうに孔子を知って用いたのではない。しばらくして孔子は魯君から疏(うと)んぜられたので、自ら位を去って天下を周遊すること十四年、この間、生命の危難に会ったことが一度や二度ではなかったし、門人中にも孔子の用いられないのを憤ったり、その先生たる孔子に疑いの目を向けたことも一再ではなかった。まことに道の衰えた時代の反映である。しかし、この苦難のうちに哲人の処世観は確立されていったのである。孔子は常に泰然として志を動かさず、「天を怨みず、人を尤(とが)めず、~我れを知る者はそれ天か」(370)といい、深く天命を信じて自若たるものがあった。学問とは修徳は己(おのれ)の任務であり、また、やろうとすればできることであるが、自分を知って用いてくれたり、己の真価を知ってくれないことは、人のすることで自分では如何ともできない。その時代と運命とを合わせ考え、人生窮達の理に徹し、命を知り、分に安んじたのが孔子の人生観であった。「五十にして天命を知る」(20)といい、また論語の最後に「命を知らざれば以って君子と為すなし」(499)とあるのは、まさにこの消息であって、ここに論語の編集に当って首尾を一貫させた見識を見るのである。
  かく考えると、この一章は、学問への立志に始まって、学者の俱学俱進の楽しみから、人生窮達の理を達観して、命に安んずるという聖人徳操の境に至る過程を述べたものである。実に論語の二十篇は巻いてこの一章に蔵(おさま)るともいえる。江戸時代の大儒伊藤仁斎が、「門人この章を以って一書の首に置く。蓋し一部の小論語と云う」(古義)と評したのは、極めて適当で、また孔子一代の自叙伝ということができる。論語は「学」に始まって、「学」に終わる、孔子七十余年の生涯は、学問と修徳に努めて倦(う)まざる進歩の跡であるから、この一章は論語全篇の要約ともいえよう。
  
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  最後に、論語の講義では、どうでしょうか?
  ――孔子は言う、学問をして、その学んだところを機会ある毎に復習し練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る。これはまたなんと愉快なことではなかろうか。このようにして修養を積むと自然、共鳴者、又は同志の者が出来て、遠い所からまで慕い訪ねて来るようになるであろう。これはまたなんと楽しいことではなかろうか。又自己の学習により友との切磋によって磨かれる学問は、終には真の徳操となって、分(ぶん)に安んじ命(めい)に立つ所まで進まなければならない。この境地に至れば、すでに世の毀誉褒貶は問うところではない。たとい世人が自分の学徳を認めてくれなくとも、これを怨まず尤(とが)めず、平然として世に処することができるであろう。この点まで進み得た人であれば、これこそ真に修養のできた君子人というべきではなかろうか。
  
  この章は学習上の三階段を述べた個々の教ではあるが、その中に又一貫した条理も認めうるように思う。第一説に述べる自己の学習が出来上がれば、必ず志を同じくする同志は来たり集まるものである。そこに第二節の意義がある。しかし人生は必ずしも順路のみとは限らず、いかに自己の修養が出来ても、世人がこれを認めず、或いは誤解し、甚だしきは曲解する場合もあるであろう。かかる場合に処してなお且つ自己の徳操を信じ、分に安んじ命に立つところがなければならない。これが第三節の意義である。これを孔子の一生について見ると、孔子は生まれながらにして知ると言われるほどの聖人ではあったが、しかも十有五にして学に志し、常に学んで厭わざる努力を続けた。これが孔子の学習であった。その結果、多くの門人も集まり同志も得た。人の推すところとなって魯国の君に用いられ、その経綸(けいりん)を行ったこともある。これが孔子の有朋である。しかし又、君に疏んぜられ、位を失ったこともあり、天下周遊の途次には、生命の危険にさらされたことも一再ではなかった。かかる逆境に於いても、孔子は常に分に安んじ命に立ち、われ五十にして天命を知る(為政、四)の教訓を自己の一身において実現したのである。なお上述の命を知ることが、学問終極の目的であり、且つ人間修養の極致であるとされているが、論語の最後の章(堯曰、三)に、命を知らざれば以って君子たることなしとあり、ここに論語編纂に於ける首尾一貫の態度を見ることが出来るとする人もある。
  
  ○子曰の子は、元来、男子の美称であるが、転じて師に対する代名詞としても用いられた。論語は主として直弟子によって記録された孔子の言行を編纂したものであるから、単に子といえば、孔子を指す。○学ぶとは、先輩に聞き典籍について新しく知識を得ること。○時に之を習うとは、時に当って幾度も練習実習すること。習の字は、雛鳥が巣立ちをする前にしばしば羽ばたきの稽古をすることで、従って自習を続ければ、学んだことが実行にも移されるのである。○不亦‥‥乎は、それはなんと‥‥ではないかとの意。これは疑問の形を用いて結論を強く打ち出す形式であり、その場合の亦には感嘆の意味がある。○説は、悦に同じく、心によろこびを感ずること。これに対して後の楽の字は、よろこびが外に発すること。○朋は、師門を同じくする人をいうが、又志を同じくする人にも通じて用い、時には門人をも指す。○慍は、心の中に怒りを含むこと。○君子は、学徳の出来上がった人をいう。
  


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  それでは、これ等を批評してみましょう、――
  最初は、岩波文庫です、
  
  ――○(そのたびに理解が深まって向上していくのだから)==>本文にない。○(同じ道について語りあえるから)==>本文にない。○(凡人にはできないことだから)==>本文にない。
  
  ――○*友だち――学習向上の結果として得られた同志の友。==>本文に限定の文なし。通常朋は同師同門の者、友は同志の者を指すとするが、朋友というように、相通ずるものでもあり、又大漢和には、「朋」を、「友だち。倗に通ず。」といって、[説文通訓定声]より、「朋は、実に仮借して倗と為す、倗とは俌なり、故に朋友と為し、朋党と為す」の文を引き、倗(ほう)も俌(ふ)もともに「たすける」とよんで、「てだすけする」、「力をかす」の義としておるによれば、相助け合う者を朋、或いは友というのを知るのであり、これ以上の事は本文になければ知り得ない所である。○*君子――徳の習得にはげむ人。また徳のでき上がった人。ここでは後の意味。なお在位者をいうときもある。==>大漢和によれば、主に徳の高い立派な人、及び在位者の二義とする。
  ――評論:論語は孔子の弟子の編纂によるものであり、孔子のことばは特別の意識をもって収められていると考えなければならない。故に孔子のことばを想像でもって補うのは、その本文の意味が、それを補うことによってのみ、明らかになる場合に限るべきである。では、この一句は何かを指して不十分であるといえるのだろうか?
  
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  次に、新釈漢文大系、
  
  ――○いつの間にか理解が深まって自分のものとなり、自由に働きを表すようになる。==>本文にない。○このように勉強していると、自然に==>本文にない。○慕って==>本文にない。○学問について話し合いする==>本文にない。○修養と学問は自分の力でできても、人との関係は時のめぐり合わせで、必ずしも自分の思うようにならぬが、さて==>本文にない。
  
  ――○「学」は人のまねをすることから始まって、遂に「なるほどこうであったか」と悟入する意である。==>大漢和によれば、上の意味のほかにも、大学に「初めて習う、これを学と謂い、重ねて習う、これを修と謂う。」といい、字彙に「学とは、教を受けて業を伝うるを学という」というとある。○時 学ぼうとしてやれる時にはいつでもの意。二六時中。常に。==>大漢和にこの義なし。寧ろ礼記、礼器に「礼は、時を大と為す」といい、時を時宜にかなうの意に取る。また大漢和は、「学而時習之」を引いて、ときに、ときどき、おりしもの義としている。○「亦」は感嘆の意をもって、語調を整え、やわらげる助字。「モマタ」の亦ではない。==>大漢和には「又に同じ。[正字通」亦、又也。[論語、学而」学而時習之、不亦説乎。[皇疏]亦、猶重也。」といい、同文については「マタモ」の意を取る。○説 (中略)自得悦楽の意で、学習はここまで至らねばならぬ。==>大漢和によれば説は説釈、悦楽の義で、説釈ならば悦びうちとける、悦楽ならば悦び楽しむの義としており、自ら悦楽する所を得るの義はない。また「学習はここまで至らねばならぬ」に相当する本文もない。これを思うに、亦不説乎には、確かに驚きの感情は含まれるが、それは学、習というような人の余り喜ぶ所にないものについて、「これもまた、悦ばしいものであるぞ」と教えるものであり、意としては、それで十分なのである。○朋友とは実際には孔子の門人、或いは孔子の学を慕う人たちで、近い所の人はもちろん、遠くからも慕い集まるの意。==>本文にない。○楽 悦びが心の外にあふれ、容貌にも現れる。自分一人の悦びをいう「悦」に対している。門人や学友と共に、研究して発明するところあるの楽しみである。==>大漢和によれば、「悦」について、「たのしむ、たのしみ」と、「よろこぶ、よろこび」の二義を取り、[爾雅、釈」より「悦、楽也」を引き、[張衡、東京賦」より「海内同悦(注 綜曰、悦、楽也)」の文を引き、[広雅、釈詁一]より「悦、喜也」の文を引いているし、また「悦楽」、「喜悦」の熟語もしばしば見るところである。また「楽」について、大漢和は、「たのしむ」、「よろこぶ」、「たのします」の例として、[一切経音義二」より「楽、喜也」を引き、また「有朋自遠方来、不亦楽乎」の文を引いて、[釈文」に、「外によるを、楽という(自外曰楽)」とあることをしめし、[論語雍也]に、「回也不改其楽」を引いて、「たのしみ」の例としている。その全文を挙げれば、「子の曰わく、賢なるかな、回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在りて、人は、その憂に堪えざるも、回や、その楽を改めず。(子曰:「賢哉回也!一簞食,一瓢飲,在陋巷,人不堪其憂,回也不改其樂。賢哉回也!」)」といい、「其(その)」は、人、または事物を指す指示代名詞であるから、顔回その人が、自らの「たのしみ」を改めようとしないことをいうのであり、特に門人、学友と共にわいわいがやがややる「たのしみ」の義に限定すべき理由はない。○人不知 「人」は世人であるが、ここでは自分を挙げて用いてくれない君主王侯をさす。==>本文にない。○自分の学徳ができあがっても社会に登庸されない。==>本文にない。○不慍 心中にすこしの不平不満もない。説文に「慍は怨」。朱子は「慍は怒を含むの意」と解した。また「イキドオル」とも読むが、少し本義からそれるようだ。中庸にも「君子は中庸に依(よ)り、世を遯(のが)れて知られずして悔いず。唯聖者のみ之を能くす」(第十一章)とある。==>朱子の言うとおり「怒を含む」ならば、「イキドオル」と読んでさしつかえない。○故に「君子」は場合によって、「有徳の人」、「有位の人」、「学者」の三義を使いわけるが、==>大漢和によれば、「徳の高い立派な人」、「在位者」、「君主」、「妻から夫をいう」、「君に親近して恩恵を受ける者」、「亡父などの尊称」の六を挙げるのみで、「学者」はない。○現代語ではちょっとこれに代わるものがない。==>現代語に直接代わる語はないが、「徳の高い立派な人」と、「位に在る人]との二義に「君子」を併せて使いわければ不便はない。○余説:この章は孔子生涯の履歴ともいうべき学修のことを三段階に分けたものであるが、人間形成に関する一連の発展過程を述べたものでもある。==>本文にない。後すべて略す。
  
  ――評論:総じて孔子の神格化による我田引水がはげしく、孔子の人間味を失うの弊におちいっている。儒学は秦代に焚書坑儒の難にあい、一時すたれていたものが、前漢の頃、孔子十二世の孫、孔安国により復活せられ、それが更に宋代朱熹によって新に解釈しなおされて現代にいたったのであるが、孔子の死後、その徳を慕うものたちによって、極めて早くより孔子の神格化が画されるにいたり、論語も一種の「バイブル化」がなされたのであるが、それをこの解釈は物語っているものと見ることができる。
  
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  最後は、論語の講義、
  ――○上の新釈漢文大系にほぼ準ずる。以下省略。
  
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  自釈:前に本文のみにより、妥当な解釈をくだすことができれば、想像、憶測の文句は附加すべきでないといったが、では本文のみによっては、本当に解釈できないのだろうか?前にもいったとおり、「論語」というものは、孔子に非常に近い弟子すじによって編纂されたものである。その弟子たちが、孔子の言ったことばから、重要な文句をおとすはずがない。孔子のことばそのものではないにしろ、できるだけ忠実に再現しようとしたと考えるべきではないだろうか?
  
  では、やってみましょう、――
  なにしろ〈学習、悦〉、〈朋、楽〉、〈不知不慍、君子〉、この三題に関して、適当な解をみつければよいわけだ、――
  
  まず第一句の「学而時習」について見てみよう、――
  「而」には順接の接続詞、「て、して、から」、逆接の接続詞、「しかも、しかれども、ても」、並列の助辞、「および」の三種があるので、――
  
  この中の、並列の助辞、「および」を取ってみると、こんなふうかな?――  
  先生は、こう言われた、――「学ぶだとか、習うだとかを、悦ばない者もいるようだが、本当は悦ばしいことなんだぞ。」、
  この後は、こう続くはず、――「学問で名声を得たならば、遠方からも名を慕って友だちが来ることになるぞ!これが楽しくないはずがないだろう。」、
  しかし、この後、どう続くのだろう?――「しかしなあ、名声なんかどうだっていいんだ!位はないが、そんな人も君子っていうんだぞ。」
  
  案外うまくいったのではないかな?では「而」について、順接の接続詞、「してから」を取れば、どうなるのだろう?――
  先生は、こう言われた、――「学んだら、適当な時をみはからって、練習するんだぞ!そうするとなあ、練習しているあいだに、悦びがふつふつとわきあがってくるんだ。」、
  この後、こう続くのかな?――「遠方からなつかしい友だちが来て、とつぜん目の前に現れてみろよ!どんなに楽しいか、練習っていうのも、これと同じなんだよ。」(有の本義:本無かったものが、今現れる)
  最後は、――「学問っていうのはな、それ自体が楽しいんだから、人に知られなくったって、腹の立つ道理がないじゃないか!たとえ位がなくったって、学問を楽しむそんな人も君子っていうんだよ。」
  
  これはすこしばかし無理かな?うまくいくと思っていたのですがね、‥‥
  じゃあ「而」を逆接の接続詞、「けれども」としたらどうかな?
  「学んだけれども、習ってしまった」??なんだこれは、‥‥
  
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  その時、とつぜん読者から罵声が、――
  「おい、いつまでやってんだ、ちっとも面白くないぞ!かねかえせ!!」、
  「ちょっと待ってください!かねかえせったって、そんな、あなた!‥‥一銭ももらってないじゃありませんか、‥‥」
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  それでは、お待ちかね、聊斎志異のほうに入りますね、‥‥
  いや、待ってなんかいないやい!ですって?‥‥
  そんなことおっしゃらずに、どうか見てやってください、‥‥
  今月は、「労山道士」っていう仙人のでるはなしなんですから、‥‥
  では、はじまりはじまり、‥‥
  
聊齋志異  勞山道士
邑有王生,行七,故家子。少慕道,聞勞山多仙人,負笈往遊,登一頂,有觀宇,甚幽。
聊斎志異  労山道士
邑に王生の行七、故家の子なる有り。少(わか)きより道を慕えば、労山に多く仙人あるを聞き、笈を負うて往遊し、一頂に登る。観宇有りて、甚だ幽なり。
  
  聊斎志異   労山道士
  
  地方都市の王某(なにがし)は、旧家の第七子であった。少年のころより、道教に憧れていたので、労山には道教の仙人が多いと聞くとじっとしていられず、笈を背負って遊山に往くことにした。
  とある山の頂(いただき)に登ってみると、道教の寺の屋根がつらなり、甚だ幽玄である。
  
  :聊斎(りょうさい):清初の人、蒲松齢の号。
  :志異(しい):志は識に同じ。怪異をしるす。
  :労山(ろうざん):山の名。
  :道士(どうし):道教を奉じて長生不老の術を研究するもの。
  :邑(ゆう):むら。まち。都以外の中小都市。
  :王生(おうせい):生は姓に通ずる。王姓。
  :行七(こうしち):行は兄弟の順序。第七子。
  :故家(こか):故い家柄。旧家。
  :少(しょう):わかい。少年。
  :道(どう):道教のおしえ。
  :笈(きゅう):おいばこ。書物など入れて背負う竹製のはこ。
  :往遊(おうゆう):往きて遊ぶ。
  :一頂(いっちょう):山に多く頂上ある中の一。あるいただき。
  :観宇(かんう):道教の寺のやね。観は道教の寺院。
  :幽(ゆう):奥深くてものしずか。
  
一道士坐蒲團上,素髮垂領,而神觀爽邁。叩而與語,理甚玄妙,請師之。道士曰:「恐嬌惰不能作苦。」答言:「能之。」其門人甚衆,薄暮畢集,王俱與稽首,遂留觀中。
一道士、蒲団上に坐す。素髪領(えり)に垂れて、神観爽邁なり。叩(ぬかづ)いて、而も与(とも)に語るに、理甚だ玄妙なれば、之に師(し)せんことを請う。道士の曰わく、「恐らくは嬌惰にして、苦を作すこと能(あた)わざらん。」と。答えて言わく、「之を能(よ)くす。」と。其の門人は甚だ衆(おお)くして、薄暮に畢(みな)集まる。王は俱(みな)と与に稽首して、遂に観中に留まる。
  
  一人の道士が、蒲団の上に坐っていた。白髪が垂れて襟にかかり、容貌がいかにも秀でていたので、王は地にぬかづいて挨拶し、意見をたたかわしてみた。
  道士の語る論理は、はなはだ奥深く、かつ微妙であった。
  王が請うて師事しようとすると、
  道士は、こんなことを言った、――「恐らく、あまやかされた怠け者だろう、苦行には向いておるまい。」と。
  王は、こう答えた、――「できますとも!」と。
  道士には門人が、はなはだ多かったが、夕暮れになると、皆集まってきた。王は、それ等の門人たちと共に、頭をたれて挨拶をかわすと、やがて寺の中に留まることになった。
  
  :蒲団(ほたん):僧が坐禅に用いるがまの葉で編んだ敷物。
  :素髪(そはつ):しらが。白髪。
  :領(れい):くび。えり。項に同じ。
  :而(じ):しこうして。しかも。順接の辞。~して。
  :神観(しんかん):ありさま。容子。容貌。
  :爽邁(そうまい):気性がさっぱりして優れている。
  :与(よ):ともに。
  :叩(こう):ぬかづく。頭を地につけて礼拜する。
  :語(ご):意見をたたかわす。意見をかわす。
  :理(り):ことわり。筋道。
  :玄妙(げんみょう):奥深く微妙なこと。
  :請(せい):こう。ねがう。乞に同じ。
  :師(し):ならうこと。師につかえること。師事。
  :之(し):これ。上をうけて目的語とする助辞。
  :曰(えつ):いわく。いう。謂、言に同じ。
  :嬌惰(きょうだ):だらしないこと。あまやかされてなまけること。
  :能(のう):あたう。よくす。できる。たえられる。
  :作(さく):なす。おこなう。
  :苦(く):きびしい。作苦は労苦に同じ。
  :其(き):人、又は事物の指示代名詞。
  :門人(もんじん):師の門下に列する人。弟子。
  :衆(しゅう):おおし。多い。多数。
  :薄暮(はくぼ):日ぐれ。夕ぐれ。たそがれ。
  :畢(ひつ):ことごとく。みな。
  :俱(く):みな。皆に同じ。
  :稽首(けいしゅ):座って地に頭をつける礼。
  :遂(すい):ついに。
  
凌晨,道士呼王去,授以斧,使隨衆採樵,王謹受教。過月餘,手足重繭,不堪其苦,陰有歸志。
晨(あかつき)を凌ぎ、道士は王を呼びて去らしめ、授くるに斧を以ってし、衆に随いて樵を採らしむ。王は謹んで教を受くるも、月余を過ぎて手足に繭(まゆ)を重ね、其の苦に堪えず。陰(ひそか)に帰志を有す。
  
  夜明け前、道士は、王を呼びつけ、斧を授けて、皆といっしょに薪を採りに行けと命じた。
  王は、つつしんで教を受けたのであるが、一月あまりが過ぎ、手足に胝(たこ)ができて、繭(まゆ)を重ねたようになってみると、その苦しみに堪えられず、心の中では、もう帰ろうかと思うようになった。
  
  :凌晨(りょうしん):暁をしのぐ。早朝暗いうちに行動すること。
  :呼(こ):よんで~させる。命に同じ。
  :去(きょ):ゆく。行に同じ。
  :使(し):~せしむ。使役の辞。誰々に~させる。
  :隨(ずい):したがう。
  :衆(しゅう):みな。多くの人。
  :採(さい):とる。採取。
  :樵(しょう):たきぎ。
  :月余(げつよ):一月あまり。
  :重繭(ちょうけん):足にたこができ繭の重なるがごときさま。
  :陰(いん):ひそかに。
  :有(ゆう):もつ。もちつづける。常には無きに現れること。
  :帰志(きし):望郷の心。
  
一夕歸,見二人與師共酌,日已暮,尚無燈燭,師乃翦紙如鏡,粘壁間,俄頃,月明輝壁,光鑑毫芒,諸門人環聽奔走。一客曰:「良宵勝樂,不可不同。」乃於案上取壼酒,分賚諸徒,且囑盡醉。
一夕、帰りて見れば、二人、師と共に酌む。日は已に暮れぬるも、尚お灯燭無し。師は乃ち紙を翦り、鏡の如くなるを壁間に粘(つ)くれば、俄頃(にわか)にして、月明壁を輝かし、光は毫芒を鑑(あきらか)にす。諸の門人の環聴し、奔走するに、一客の曰わく、「良宵勝れて楽しければ、同ぜざるべからず。」、乃ち案上より壼酒を取り、分けて諸徒に賚(あた)え、「且く囑(ゆだ)ねて酔うに尽(まか)さん。」と。
  
  ある日の夕方、帰ってみると、ふたりの人が、師と共に酒をくみかわしていた。
  日がすっかり暮れ、燭台には火もなかったが、師が、やがて紙を鏡のように円く切り抜いて、壁の一面にはりつけると、やがて月の明りが壁を輝かし、光が毛筋さえも、はっきりと照らし出した。
  門人たちは、客人をとりまいて、はなしを聴いたり、給仕に奔走したりしている。
  客の一人が、こう言った、――「今夜のような、けっこうな楽しみは、一同にも分けあたえずばなるまい。」と。そして机の上から、酒壷を取ると、弟子たちにわたして、こう言った、――「しばらく預けて酔うにまかせよう。」と。
  
  :一夕(いっせき):あるゆうべ。
  :与(よ):と。~と~と。
  :酌(しゃく):くむ。酒をつぐ。酒をつぎ交わす。酒を飲む。
  :已(い):すでに。とっくに。
  :尚(しょう):なお。かつ。そのうえ。且に同じ。
  :乃(だい):すなわち。上を受けて下を起す辞。そこで。
  :粘(ねん):つく。はりつける。
  :壁間(へきかん):何もない壁のおもて。
  :俄頃(がけい):にわか。またたくま。しばらく。暫時。
  :月明(げつめい):月のあかり。
  :鑑(かん):あきらか。はっきりと照らす。
  :毫芒:(ごうぼう):毛とのぎ。芒は穀の表面の毛。微細の意。
  :諸(しょ):もろもろ。多くの。
  :環聴(かんちょう):とりまいて話をきく。
  :奔走(ほんそう):走り回って用をつとめる。
  :良宵(りょうしょう):よい宵。晴れた夜。良夜。
  :勝楽(しょうらく):すぐれて楽しい。
  :同(どう):ともにする。共有する。
  :於(お):おいて。より。場所を示す辞。
  :案(あん):つくえ。ぜん。脚のついた食膳。
  :壺酒(こしゅ):壺にいれた酒。
  :賚(らい):あたう。たまう。ねぎらって与える。
  :徒(と):でし。門人。
  :且(しゃ):しばらく。
  :囑(しょく):ゆだねる。
  :尽(じん):まま。まかす。
  
王自思:「七八人,壺酒何能遍給?」遂各覓盎盂,競飲先釂,惟恐樽盡,而往復挹注,竟不少減,心奇之。
王の自ら思えらく、「七八人あり。壼酒は何ぞ能く、遍く給する?」と。遂に各、盎盂を覓(もと)めて、競いて飲み、先んじて釂(のみつく)さんとし、惟(た)だ樽の尽きんことのみを恐る。而(しか)るに、往復し、挹(く)みて注ぐも、竟(つい)に少減せざれば、心に之を奇(あやし)む。
  
  王は、こう思った、――「七八人はいるのに、壷の酒は、どうしてゆきわたることができよう?」と。そのうち、各、茶碗を手にして、競うように飲みだした。飲みつくそうとして先を争い、ただ樽が尽きるのを恐れているかのように、酒壷を往復しては汲み、茶碗に注いでいたが、一向に減るようすがない。ただ不思議に思うだけであった。
  
  :覓(べき):さがしもとめる。
  :盎盂(おうう):はちの類。
  :釂(しょう):のみつくす。
  :惟(い):ただ。おもう。
  :而(じ):しかるに。しかし。順接、又は逆接の接続詞。
  :挹(ゆう):くむ。器をもって水を酌む。
  :竟(けい):ついに。最後まで。
  :少減(しょうげん):すくなくなる。減少。
  :奇(き):あやしむ。
  
俄一客曰:「蒙賜月明之照,乃爾寂飲,何不呼嫦娥來?」乃以箸擲月中,見一美人,自光中出,初不盈尺,至地,遂與人等,纖腰秀項,翩翩作霓裳舞。已而歌曰:「仙仙乎,而還乎,而幽我於廣寒乎?」
俄(にわか)に一客の曰わく、「蒙りて月明の照らすを賜わるも、乃ち爾(こ)れ寂(しずか)に飲むなり。何ぞ嫦娥を呼びて来(こ)さしめざる?」と。乃ち箸を以(も)って月中に擲(な)ぐるに、一美人の光中より出づるを見る。初め尺に満たざるも、地に至りて遂に人と等し。纖(ほそ)き腰、秀でたる項(うなじ)、翩翩として霓裳の舞を作し、已(すで)にして歌いて曰わく、「仙仙たらんか?而して還らんか?而も我れを曠寒に幽さんか?」と。
  
  やがて客の一人が、こう言った、――「月の明りを賜って照らされながら、このように寂しく飲んでいたのではしようがない!なぜ嫦娥を呼んで来させないのか?」と。そして箸を手にして、月の中に投げつけると、一人の美人が現れ、光の中から出てきた。
  初は一尺にも満たないほどであったが、地上におりたつころには人に等しくなり、細い腰と美しいうなじで、ひらひらと揺れうごきながら、霓裳の舞を舞いおわり、、そして歌いながら、こう言った、――「ひらひらと舞いながらぁー、いざ還らんか、われをしてぇー、いざ閉じこめん、曠寒の宮にぃー」と。
  
  :俄(が):にわかに。まもなく。
  :蒙(もう):こうむる。うける。お蔭で。
  :賜(し):たまわる。うける。
  :乃(だい):すなわち。上を承けて下を起す辞。しかしさて。
  :爾(じ):これ。是に同じ。このように。
  :寂(せき):しずかに。ひっそりと。
  :何(か):いかんぞ。なぜ。反語の辞。どうして。
  :嫦娥(こうが):月世界に居る美人の名。
  :以(い):もって。
  :擲(てき):なげる。
  :見(けん):あらわれる。現に同じ。
  :自(じ):より。起点を示す。
  :盈(えい):みちる。みたす。
  :繊腰(せんよう):ほそいこし。
  :秀項(しゅうこう):優雅なうなじ。
  :翩翩(へんぺん):ひらひら揺れ動くさま。
  :作(さく):なす。やる。
  :霓裳(げいしょう):虹を裳(もすそ)に譬えていう。仙人の衣。
  :已而(いじ):すでにして。やがて。
  :曰(えつ):いう。いわく。ものをいう。言に同じ。
  :仙仙(せんせん):ひらひらと。仙仙は舞いをまうさま。
  :乎(こ):か、や、かな。疑問、感嘆をしめす辞。
  :幽(ゆう):かくす。とじこめる。
  :曠寒(こうかん):むなしく広くしてさむざむしい。
  
其聲清越,烈如簫管。歌畢,盤旋而起,躍登几上,驚顧之間,已復為箸,三人大笑。
其の声は清越として、烈(はげ)しきこと簫管の如(ごと)し。歌い畢(おわ)るに、盤旋して起ち、躍(とび)あがりて几上に上り、驚顧の間に、已に復して箸と為れば、三人大いに笑えり。
  
  その声はすんで調子がたかく、簫管のように烈しかった。
  歌いおわると、くるくると回りながらのび上がり、躍るように机の上にのぼったと見るや、驚いて見つめている間に、また箸にもどってしまった。
  気が付けば、三人が大いに笑っていた。
  
  :清越(せいえつ):すんで調子がたかい。
  :簫管(しょうかん):簫の笛と普通の竹笛。
  :畢(ひつ):おわる。
  :盤旋(ばんせん):くるくるまわる。
  :躍(やく):とびあがる。
  :几(き):つくえ。机に同じ。
  :驚顧(きょうこ):驚いてみつめる。
  :復(ふく):もとにもどる。
  :為(い):なる。なす。
  
又一客曰:「今宵最樂,然不勝酒力矣,其餞我於月宮可乎?」三人移席,漸入月中。衆視三人,坐月中飲,鬚眉畢見,如影之在鏡中。
又一客の曰わく、「今宵は最も楽しけれど、然るに酒の力には勝てず。其れ我れを月宮に餞(おく)りたまえ、可(よろ)しきや?」と。三人は席を移して、漸(ようや)く月中に入り、衆は三人の月中に坐して飲むを視るに、鬚眉も畢(みな)見えて、影の鏡中に在るが如し。
  
  もう一人の客が、こう言った、――「今夜は、非常に楽しかったが、しかし酒の力には勝てません。そこで、わたしを送るついでに、別れの宴を月の宮でやりませんか?」と。三人は席をうつし、やがて月の中に入っていった。
  門人たちの見つめるなかで、三人は月の中に坐って飲んでいたが、鬚も眉も皆よく見えて、その影は、まるで鏡の中にあるかのようであった。
  
  :今宵(こんしょう):こよい。今夜。
  :然(ぜん):しかし。上を翻して下を起す辞。
  :矣(い):かな。断定の辞。也に同じ。
  :餞(せん):おくる。送別会をひらく。
  :月宮(げつきゅう):月の宮殿。
  :可乎(かこ):よろしきや。よろしいか?
  :漸(せん):ようやく。しだいに。少しづつ進むさま。
  :鬚眉(しゅび):ひげとまゆ。
  :畢(ひつ):ことごとく。みな。
  :見(けん):みゆ。みえる。
  :如(じょ):ごとし。ようだ。
  :影(えい):すがた。かたち。鏡にうつる像。
  
移時,月漸暗,門人燃燭來,則道士獨坐而客杳矣。几上肴核尚故,壁上月,紙圓如鏡而已。道士問衆:「飲足乎?」曰:「足矣。」「足宜早寢,勿誤樵蘇。」衆諾而退。王竊忻慕,歸念遂息。
時を移して、月は漸く暗し。門人の燭を灯(とも)しに来たるに、則ち道士のみ独り坐して、客は杳たり。几上の肴核は、尚お故(もと)のごとくなるも、壁上の月は、紙の円きこと鏡の如くなるのみ。道士の衆に問わく、「飲み足りたるや?」と。曰わく、「足りたり。」と。「足りたれば、宜しく早く寝(い)ぬべし。樵蘇に誤(あやま)つこ勿(な)かれ。」と。衆の諾(うべな)いて退けるに、王は竊(ひそ)かに忻慕して、帰念遂に息(や)みたり。
  
  時がすぎ、月もやがて暗くなった。
  門人が、燭台に火をつけに来ると、道士だけが坐っており、客の影はなかった。机上の酒肴や果物はもとのままであったが、壁の月は、鏡のように円く切った紙でしかなかった。
  道士は門人たちに、こう問うた、――「飲み足りたか?」と。皆はこう答えた、――「足りました!」、――「足りたならば、もう寢ろ!薪採りに遅れてはなるまいぞ!」。
  門人たちが、「はい!」と言って退くと、王は心にうらやましく思い、「帰りたい!」との思いは、はたしてやんだのである。
  
  :移時(いじ):時をついやす。時間がすぎること。
  :則(そく):すなわち。上を承けて下を起す辞。そうして。
  :杳(よう):暗くしてはっきりしないさま。
  :矣(い):断定、判断の気分をしめす句末の助辞。
  :肴核(こうかく):酒のさかなと果物。
  :尚(しょう):なお。今も相変わらず。
  :故(こ):もと。もとのとおり。
  :而已(じい):のみ。
  :乎(こ):か。や。疑問の辞。
  :宜(ぎ):よろしく。するがよい。
  :誤(ご):支障をきたす。
  :樵蘇(しょうそ):薪を拾い、草を刈る。
  :諾(だく):うべなう。承知する。
  :竊(せつ):ひそかに。こっそりと。人知れず。
  :忻慕(きんぼ):よろこびしたう。
  :帰念(きねん):帰郷のおもい。
  :息(そく):やむ。止まる。
  
又一月,苦不可忍,而道士並不傳教一術,心不能待,辭曰:「弟子數百里受業仙師,縱不能得長生術,或小有傳習,亦可慰求教之心。今閱兩三月,不過早樵而暮歸,弟子在家,未諳此苦。」
又一月して、苦は忍ぶべからず。而も道士は並びに一術すら伝え教えざれば、心に待つ能わず。辞して曰わく、「弟子は、数百里、業(わざ)を仙師に受く。縦(たと)い長生の術を得る能わざるも、或いは小(すこ)しく、伝え習うこと有らば、亦(ま)た教を求むる心を慰むべけん。今、閲(ふ)ること両三月、早く樵(たきぎと)りて、暮れに帰るに過ぎず。弟子、家に在りては、未だ此の苦あるを諳(し)らず。」と。
  
  また一月が過ぎ、苦しみは忍びがたいまでになったが、道士は、やはり術の一つすら教えてくれない。心が、ついに待ちきれなくなり、師を責めて、こう言った、――「弟子(わたくし)は、数百里をものともせず、業(わざ)を師匠より受けるために来ました。もし長生の術を得られなくても、せめて少しぐらい習うことが有れば、教を求めにきた、この心を慰めることもできます。今は、すでに二、三ヶ月もたちましたが、ただ早朝に薪採りにでかけたならば、日暮れには帰るというだけで、弟子が、家にいたときには、思いもよらない苦しみです。」と。
  
  :不可(ふか):できそうもない。
  :並(へい):ならびに。おなじように。
  :辞(じ):せめる。うったえる。
  :弟子(ていし):わたくし。師に対する門人の自称。
  :業(ぎょう):学問、技術。
  :仙師(せんし):仙術の師。
  :縦(じゅう):たとい。よし。いえども。仮説の辞。雖に同じ。
  :長生(ちょうせい):ながいき。長寿。
  :小(しょう):すこしく。すこしだけ。
  :亦(えき):また。上を承けて他に及ぶの辞。
  :可(か):べし。なんとか~できる。
  :閲(えつ):ふ。へる。経に同じ。
  :両三月(りょうさんがつ):二三ヶ月。
  :未(び):いまだ~せず。まだ~しない。否定の辞。
  :諳(あん):そらよみする。経験する。
  :此(し):この。これ。己に近いものを指す辞。
  
道士笑曰:「我固謂不能作苦,今果然,明早當遣汝行。」王曰:「弟子操作多日,師略授小技,此來為不負也。」道士問何術之求,王曰:「每見師行處,牆壁所不能隔,但得此法,足矣。」
道士の笑いて曰わく、「我れは固(もと)より、苦を作すこと能わずと謂えるに、今果して然(しか)り。明早、当(まさ)に汝を遣(や)りて行かしむべし。」と。王の曰わく、「弟子、操作すること多日なるも、師略して、小技を授けたまわば、此れより、負いたまわざると為すなり。」と。道士の問わく、「何の術をか、之を求むる?」と。王の曰わく、「毎(つね)に師の行く処を見るに、牆壁の隔つ能わざる所なり。但(た)だ、此の法を得れば、足らん。」と。
  
  道士は笑いながら、こう言った、――「わたしはもともと、苦行には堪えられまいと言ったはずだが、今、やはりそうであったか!明朝、お前を帰してやるから、行くがよい。」と。
  王は、こう言った、――「弟子は作業に多くの日時をついやしております。師が略して、小さな技でも授けてくだされば、負い目を感じられることもございますまい。」と。
  道士が何の術を求めるのか?と問うと、王は、こう言った、――「いつも師匠の行かれるところを見ていますと、牆壁さえ遮ることができません。ただ、この法を得ただけでも、足りましょう。」と。
  
  :固(こ):もとより。初から。
  :謂(い):いう。つげる。告に同じ。
  :作(さく):なす。おこなう。
  :果然(かぜん):はたしてしかり。やっぱりそうだ。
  :明早(めいそう):明朝早く。
  :当(とう):まさに~すべし。断定の辞。そうすることにする。
  :遣(けん):やる。はなつ。
  :操作(そうさく):仕事をする。はたらく。
  :小技(しょうぎ):小さな術。つまらない術。
  :此来(しらい):これより。この後。
  :為(い):なす。みなす。
  :負(ふ):おう。おいめがある。
  :毎(まい):つねに。
  :牆壁(しょうへき):土塀。
  :所(しょ):~するところ。動詞の対象の事物をしめす辞。
  :但(たん):ただ。だけ。
  
道士笑而允之。乃傳以訣,令自咒畢,呼曰「入之」!王面牆不敢入。又曰:「試入之。」王果從容入,及牆而阻。道士曰:「俛首驟入,勿逡巡。」王果去牆數步,奔而入;及牆,虛若無物;回視,果在牆外矣。大喜,入謝。道士曰:「歸宜潔持,否則不驗。」遂資斧遣之歸。
道士は笑いて之を允(ゆる)し、乃ち伝うるに訣を以ってし、自ら咒せしめ畢れば、呼びて曰わく、「之に入れ!」と。王は、牆に面するも、敢て入らず。又云わく、「試みて、之に入れ!」と。王は果して、従容として入るも、牆に及びて阻(はば)まる。道士の曰わく、「首を俛(ふ)せて驟り入り、逡巡すること勿かれ。」と。王は果して牆を去ること数歩、奔(はし)りて入る。牆に及ぶに、虚(むな)しくして、物の無きが若(ごと)し。回(めぐ)り視れば、果して牆の外に在りたり。大いに喜び、入りて謝す。道士の曰わく、「帰りたれば、宜しく潔持すべし。否(しから)ずんば、則ち験なけん。」と。遂に資斧を、之に遣(や)りて帰す。
  
  道士は笑いながら許し、秘訣を伝受しながら、自ら呪文を唱えてみよと命じ、呼びかけて、「入れ!」と言った。
  王は牆(かき)に面しながら、どうしても入ることができなかった。
  また言った、――「試しながら入ってみよ!」と。王は、そこで落ち着いてゆっくり入りかけたが、牆までくると、やはり阻まれた。
  道士は、こう言った、――「頭を低くし、走って入るのだ!ぐずぐずするな!」と。王は、そこで牆から数歩さがり、走って入った。
  牆まで来ると、まるで何もないかのように通りぬけることができた。振り返って後を見ると、やはり牆の外に出ていたのである。
  王は、大いに喜んで中に入り、礼のことばをのべた。
  道士は、こう言った、――「帰ったならば、心を潔くして、身を持(たも)つのだ!そうでなければ、効き目がないぞ!」と。そして路銀を持たせて帰らせた。
  
  :允(いん):ゆるす。うべなう。
  :訣(けつ):奥義。秘訣。
  :令(れい):命じてさせる。使役の辞。
  :畢(ひつ):おわる。
  :呼(こ):よぶ。命ずる。
  :牆(しょう):かき。塀。
  :試(し):ためしに。こころみる。
  :果(か):はたして。ついに。
  :従容(しょうよう):ゆったりとくつろいださま。
  :俛首(べんしゅ):頭をさげる。
  :驟(しゅう):はしる。疾走する。
  :逡巡(しゅんじゅん):ぐずぐずすること。
  :奔(ほん):はしる。疾走する。
  :及(きゅう):およぶ。いたる。至に同じ。
  :虚(きょ):むなし。なにもない。
  :若(じゃく):ごとし。~のようだ。
  :回(かい):めぐる。まわる。
  :謝(しゃ):礼をいう。
  :宜(ぎ):よろしく。道理にかなう。
  :潔持(けつじ):心をきよくし、身をたもつ。
  :否則(ひそく):しからずんばすなわち。さもなくば。
  :験(けん):ききめ。効力。
  :遂(すい):ついに。
  :資斧(しふ):旅費。
  
抵家,自詡遇仙,堅壁所不能阻,妻不信,王傚其作為,去牆數尺,奔而入,頭觸硬壁,驀然而踣。妻扶視之,額上墳起如巨卵焉。妻揶揄之,王慚忿,罵老道士之無良而已。
家に抵(いた)りて、自ら詡(ほこ)るらく、「仙に遇(あ)い、堅き壁も阻む能わざる所なり。」と。妻は信ぜず。王は、其の作為に傚(なら)いて、牆を去ること数尺、奔りて入れば、頭は硬き壁に触れ、驀然として踣(たう)る。妻の扶けて之を視るに、額上に墳起せること、巨卵たるが如し。妻は之を揶揄し、王は慚(は)じて忿(いきどお)り、罵(ののし)るらく、――「老道士の無良なるのみ。」と。
  
  家につくと、王は誇らしげに、仙人にあって、堅い壁でさえ阻むことができなかったと伝えたが、妻は信じない。
  王は、自らどうやったかを思いだし、それをまねて牆より数尺さがると、走って思いっきりつっこんだ。
  ごっつーん‥‥、
  王は、頭を硬い壁にぶちあてて、ひっくり返った。妻がたすけ起して見れば額の上には、大きな卵ほどのたんこぶができている。
  妻がそのたんこぶをからかうと、王は恥じて怒りながら、こう罵った、――「老道士が、良くないのだ!」と。
  
  :抵(てい):いたる。至に同じ。
  :詡(く):ほこる。大言をいう。
  :遇(ぐう):あう。まみえる。
  :阻(しょ):はばむ。へだてる。
  :傚(こう):ならう。まねる。
  :作為(さく):なしたこと。行為。
  :驀然(ばくぜん):にわかに。たちまち。
  :踣(ほく):たうる。たおれる。
  :扶(ふ):たすく。たすけ起す。
  :墳起(ふんき):丘のように盛り上がる。
  :如(じょ):ごとし。ようだ。
  :焉(えん):形容の辞。然に同じ。ようだ。
  :揶揄(やゆ):からかう。
  :慚忿(ざんぶん):はじていかる。
  :罵(ば):ののしる。
  :無良(むりょう):善徳の無いものをいう。
  
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  老人は、甘いものならば、洋の東西をとわず、なんでも好きな方で、みやげものなどでモロゾフのアルカディアなんかをもらったひには、驚喜することこのうえなしっていう状態になるのですが、この頃はちっともそんなこともございません。
  そこでしかたなく、家内に命じて作らせましたところが、これがなかなかいいぐあいで、‥‥そんなわけで今月の料理はクッキーですが、皆様のお口にあいますかどうか、‥‥
  
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《クッキーの作り方》
材料:8枚分:
  小麦粉100グラム、バター50グラム、
  砂糖30グラム、チョコレートのチップ適量、
  ナッツ8個。
作り方:
  (1)小麦粉、室温のバター、砂糖をポリ袋に入れ、手でもみながらまとめる。
  (2)上の材料がまとまったなら、チョコチップを加え、もみほぐすようにしながら均等にまぜる。
  (3)ポリ袋に入れたまま、お団子状にし、冷蔵庫で30分間ねかす。
  (4)冷蔵庫から出して8等分し、1個を両掌にとり、左右から円盤状におしつぶす。
  (5)中央にアーモンドを押しつけて固定する。
  (6)天板にクッキングシートをしき、均等にならべてオーブンにいれ、およそ170度30分ぐらいで焼き上がるはず。ちなみに家のオーブントースターの場合は、上下中火(計650ワット)で30分です。
  (7)焼き上がりは軟らかいが、オーブンから出して、天板の上で室温までさませば、カリッとします。
 
 
 
 
では、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (曼珠沙華 おわり)