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抹茶のぐるぐる
  
  四月も半ばを過ぎたころ、ようやく桜の季節であることに気が付いて、お花見に行ってきました。養老山脈の中腹に在る行基寺というお寺です。天平16年、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が建立したと伝えられ、この地方きっての古刹でありながら、東山天皇の元禄年間、尾州大納言徳川義直公第二代光友公の子、徳川家康公の曾孫松平義行公が、当地高須藩の藩主に封ぜられて以来、松平家の菩提寺となり、明治維新までは、庶民の参拝は禁じられていたというような事が、由緒書きに記されています。たしかに城郭のような石垣に、そのような往時の繁栄が伺えないこともありません。
  
  
  駐車場から短い参道を登ってくると、やがて大きな三門が現われます。しかし恐らくは今ではパトロンを失っているからでしょう、ほこりにまみれ、荒れ果てた感があるのは否めません。盛者必衰の道理を、やはりここにも見ることができ、いささか感慨ぶかいものがありました。
  
  というのは、この所の家電業界の凋落ぶりのことですが、自然の摂理とでもいうのでしょうか、特需後の不況は、多くは特需を当て込んでの過剰な設備が、後に経営を圧迫することにより起るものだと思っていたところ、世界的規模のこの業界では、今回はどうやら、それが当てはまらないようです。テレビのデジタル化という特需を起して、設備投資を誘導し、かつ世界的競争力を高めようという、政府主導の、いささか見え透いた策略が、反って仇(あだ)をなすに至ったその背景は、まあ言ってみれば、要するにグローバルな視点が欠けていたということではないでしょうか。
  
  現代のワールドワイドな企業に取っては、地デジ化などということは、たかが一国の内部事情に過ぎません。恐らくは設備投資に見合うだけの効果が期待できないのではないか?とでも計算したのでしょう、まあそんなことで、ぐずぐずしていたところ、韓国の企業が、機を見るに敏、あたかも今は昇り調子ということで、OEM(相手先商標委託製造)にされてはいかがかな?と誘いの水を向けます。この国の企業は、それは敵に塩を送るものであると知っていたものかどうか、定かではありませんが、‥‥目の前にぶらさげられた人参ならぬ、僅かな口銭の魅力にはとても抵抗できません。
  
  はたしてOEMに過大な期待を抱いて、設備投資を控えたのが、吉とでたのか、凶とでたのか?つかの間の夢を見ようかと思う間もなく、地デジ化は、あっという間に終了してしまいました。もやは失った時を取り返す術はありません。それに反し、敵の塩で十分に潤った韓国企業は十分な設備投資をしたおかげで、世界中で水をあけることができましたので、してやったり!万々歳!というのが、どうやら事の顛末だったように思えます。外国企業を助けて国内企業を逼迫するという、この政府のお粗末な戦略と、せっかくの親心を徒(あだ)にする企業の無策、このような一幕を見れば、誠にむべなるかなの感を禁じ得ません。しかし、それもまあ成るべくして成ったということなんでしょう、‥‥。
  
  
  三門のほかに、建造物では取り立てて見るべきものがないので、玄関で案内を請い、庭園を拝観させていただきました。
  
  極めて良好なる眺望の中に、庫裡のしかるべき所に出された菓子を食い、抹茶を飲んだりしていると、眺めの広大なるが如く、我が胸の内もようやく開けて、気分はすこぶる良好となりました。今時の建物では到底望むことのできない、室の内外を隔てる障子を開け放ち、その中に静かに坐っていると感じられる、自己と外境との一体感、まるで身体をなくしたかのように、空中に浮遊するかの如き感覚、‥‥或いは一服の抹茶の効果も加わっていたのかも知れません、‥‥。
  
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  さて今月も、童話シリーズといきましょう、‥‥。
  
  蕗の下の神様
宇野浩二    
  
          
  
  今は昔、もうずっと昔のことですが、北海道にコロボックンクルという、妙な神様が住んでおられました。その時分はまだ北海道には日本人が一人もいなくて、山には熊、川には鮭、そして人間といえばアイヌ人ばかりでした。だからコロボックンクルはアイヌ人の神様でした。この神様は大変体(からだ)が小さいものですから、雨の降った日でも、それが丁度屋根のようなつもりで、暇さえあると、蕗の葉の蔭に休んで一服することが好きなのだそうです、だからアイヌ人がこの神様のことをコロボックンクルと呼ぶのは、それはアイヌの言葉で、「蕗の下の神様」という意味なんです。
  ところが、この小さい神様のコロボックンクルはそんなに体が小さい癖に、大の悪戯(いたずら)好きで、無暗(むやみ)に人間、と言っても今も言った通りそれはアイヌ人のことですが、と競争することが好きで、そしていつもアイヌ人を出し抜いては喜んでいました。と言うのは、例えばアイヌ人の誰かが山へ姥百合(うばゆり)を掘りに行くとしますと、そこは神様のことですから、いつの間にかちゃんとそれを知ってしまって、先廻りをするのです、そしてアイヌ人の出かけて行った時分には姥百合をすっかり取ってしまっておくのです。又外(ほか)のアイヌ人が川に魚を捕りに行こうと思って、網をもって出かけるとしますと、それをどこかの蕗の下から見付けると、早速その小さい体を兔のように走らして、やっぱり先廻りをしてその辺の川にいる魚をすっかり捕ってしまうのです。
  すると、アイヌ人は「チョッ!」と舌鼓を打って、
「又コロボックンクルさんが悪戯をしたな。仕様がない、帰ろう、帰ろう。」と言って、別に腹を立てた顔もしないで、すたすた帰って行くのです。と言うのは、前にも言った通り、悪戯好きの神様ではありますが、コロボックンクルは仲々なさけ深い神様で、そうして人を出し抜いて取った姥百合でも、魚でも、その外何でもそれを自分の物にはしないで、それぞれ平等にアイヌ人たちに分けてやるのでした。
  けれども、誰だって実はこの神様の姿を見た人はないのでした、歌っている声や、話をする声は誰にも聞こえますが、肝心の姿は隠れ蓑(みの)という姿を隠すものを着ていますので、誰にも見えないのです。だから、色々の物を持って来てくれるにしても、人の家(うち)の入口から品物だけを差し入れるようにして、そして姿を見せずに帰って行くのでした。誰かがその訳を聞くと、神様の仲間では人間に姿を見られることは、この上もない恥としてあったのだそうです。
  
          
  
  或日(あるひ)、コロボックンクルは色々な御馳走を用意して、それを成るべく困っている、可哀(かわい)そうな人に分けてやろうと思いまして、例の蕗の葉の下から、隠れ蓑で体を包んで出て来ました。そしてアイヌ人が部落をしている村の中をあちこちと見廻っていました。と、一人のいかにも貧乏らしいアイヌが目に留りました。ところが、どんな神様にも目違いということがあると見えまして、それが実は間違いだったのです、というのは、それはクシベシという、貧乏は貧乏なのですが、それというのも、その男は大変な怠け者で、そして心の善くないアイヌだったのです。だから、その日も、もうお日様がずっと高くなってからやっと目を醒ましまして、仕方がないのでやっと寝床から起き出したのですが、不断からの心がけが悪いので食べ物が少しもないのです。だからと言って、それを探しに出かけるのも大儀(たいぎ)だと言うので、困ったなア、と思って、悄気(しょげ)ていたところだったのです。そんな訳とは知りませんから、コロボックンクルは、どこか体でも悪くて、それで食べ物を取りに行くことが出来ないのだろう、と可哀そうに思いまして、
「お前さん、大変困っているようだが、これを上げよう。」と声を掛けました。で、怠け者のクシベシはひょいと顔を上げますと、目の前に色々な御馳走がにゅっと出ているのです。
「これは旨(うま)いぞ。」とクシベシは思いました。「コロボックンクルの御馳走だな。」そこで、
「いや、どうも有難う。」と言って、御馳走を受取ろうとしました拍子に、ふと、その御馳走の下にそれを突き出している、それはそれは何とも言えぬ程、可愛らしい手が見えたのです。おや?と思いましたが、元々悪賢い男ですから、それが隠れ蓑からはみ出している、コロボックンクルの手だ、と直ぐに気がつきました。すると「こいつは面白いぞ、」とクシベシは考えました。「コロボックンクルは決して人間に姿を見せたことがないという話だが、俺が一つ見てやろう。何の、神様だなんて言ったって、蕗の下にいる位だから、それにこの手から判断しても、小さい、力の弱いものに違いない。取捉(とっつか)まえて、あわよくば、見せ物にして金儲けをしてやろう。」とクシベシという男は、先にも言ったように、心のよくない人間でしたから、折角御馳走をくれようとまで言ってくれた親切などは忘れてしまって、いきなり御馳走をさし出してくれた、コロボックンクルの小さい可愛らしい手をぐっと捉(つか)まえまして、無理耶理(むりやり)に隠れ蓑を引剥(ひきは)いでしまいました。
  さあ、どんなにコロボックンクルは喫驚(びっくり)したことでしたろう、又恥ずかしかったことでしたろう!いかに敏捷(すばしこ)いと言ったところが、そういう風に乱暴な男に捉まえらえたのでは、どうにも仕様がありません。そこで、色々と悲しそうな声で、クシベシに隠れ蓑を返してくれるように、と頼みましたが、相手は唯(ただ)意地悪そうににやにや笑っているばかりなのです。終(しま)いにはコロボックンクルは泣き出しました。けれども、邪険なクシベシは平気な顔をして、言いますには、「そんなに隠れ蓑が返して欲しければ、返してやらぬこともないが、その代わりただでは駄目だよ。」
「私(わし)に出来ることなら何でも‥‥」とコロボックンクルは言いました。
  そこで、クシベシは暫く何か考えている様子でしたが、「じゃ、俺の‥‥」と言いました。が、余り色々な欲張りな考えが次から次から頭の中に湧いて来ますので、どうと言って急に考えが定(きま)らない風でした、が、やっとして、「‥‥そうさな、俺の、俺の一生の間食べ余るだけの食べ物と、着余るだけの着物とをくれると屹度(きっと)約束したら‥‥まあ、それで我慢してやろう。」
「その位のことなら何でもない。」とコロボックンクルはほっと安心したように言いました。「その位のことなら、今夜のうちに屹度持って来てやろう。さあ隠れ蓑を返しておくれ。」
「おっと、そうは行かない。」とクシベシは一層ぐっとコロボックンクルを捉まえている手に力を込めて言いますには、「それで、よしと言って、お前に隠れ蓑を返してしまったら、それ切りお前が逃げて帰って来なければそれ迄じゃないか?そんなことで俺を欺(だま)そうとしたって‥‥。」
「馬鹿なことを言うものじゃない。」とコロボックンクルはその時は流石(さすが)にむっとした声で言いました。
「欺すとか、疑ぐるとか言うのは、それは人間同志のすることだ。安心したがよい、私はそんなことはしない。隠れ蓑を返してくれなければ、私は帰る訳に行かないし、そうすればお前に約束の望みをかなえてやる訳にも行かないじゃないか?」
  そう言われてみると、クシベシもなる程と気が付きましたので、思い切って、コロボックンクルに隠れ蓑を返してやりました。そして、「じゃ、約束のものは後でとどけるよ。」と、隠れ蓑を着ましたので、元のように、こう声だけ残して、コロボックンクルが帰って行きますとクシベシは、さあ、これからは心配なしに遊んで暮らせる、と独言(ひとりごと)を言いながら、ごろりと腕枕をしてその場に寢てしまいました。
  
          
  
枡(ます)ではかって目方にかけて、
己(おの)が命を俵につめる、
エンヤラ一(ひい)、エンヤラ二(ふう)。
  
尺(さし)ではかって鋏(はさみ)で切って、
己(おの)が命を切り刻む、
エンヤラ一(ひい)、エンヤラ二(ふう)。

  いつ頃から始まっていたのか、ふとクシベシが目を醒ました時にはこういう唄(うた)が聞こえるのです。それがどうやら大勢の声のようにも聞こえますし、又一人の声のようにも聞こえるのです。クシベシは大きな欠伸(あくび)をしながら、起き上がってそこらを眺めましたが、声ばかりして人らしい姿は見えないで、一つ、二つと俵が自分の小屋の中に転がって来るのが見えるのです。「なる程、神様だけに正直だな。」と気が附きました。「コロボックンクルが約束通り、持って来やがったな。」
  コロボックンクルはクシベシには何とも言葉をかけないで、唯唄ばかりうたって、一俵、二俵、と見る見るうちに六俵の俵を積み上げました。クシベシは心の中で、ここへ六俵積んで、それからあそこへ又十俵ばかり積んで、それからどこへ積むのか知らと見ておりますと、俵は六俵積み上げられただけでそれで終いと見えまして、
「では、約束通り持って来たよ、さよなら。」というコロボックンクルの声だけが聞こえましたので、
「何だい、」とクシベシは怒鳴りました。「たった六俵ばかりで、これじゃ俺の一生どころか、三ヶ月(みつき)にも足りないじゃないか?それに着物はどうしたんだい?この俺をごまかそうたって駄目だよ。」
「これこれ、」とコロボックンクルの声が神々しい響(ひびき)で答えますには、「これこれクシベシ、私等(わしら)は人間と違って、ごまかすようなことはしない。それだけでお前の一生に足りるのじゃ。着物か?着物はもうちゃんとお前の体に着せてある筈じゃ、それも、それ一枚で足りる筈じゃ。‥‥さよなら、」と言って、どこともなく行ってしまいました。
  見ると、なる程、いつの間にかクシベシは今迄のような襤褸(ぼろ)のではない、新しい着物を着ていましたが、クシベシは、「こんなもので、これだけで足りるものか?」とぶつぶつ独言を言いながら、「あのコロボックンクルの奴、ごまかすようなことはしないなんて、大きな口をきいておきながら、こんなものでこれっぱかりで‥‥」と長い間腹を立てていました。が、根が怠け者のことですから、だが、まあこれで当分の間、食べ物の心配なしに暮して行ける、何にもくれなかったよりは増しだ、こう思って、あきらめるともなしにあきらめるうちに、いつか又ごろりと横になって寢てしまいました。
  
          
  
  その次の日から、クシベシはどうしてもしなければならぬ用事が一つ出来ました。というのは、たとえ六俵でもお米の俵が積んであるのですから、今迄のように人に食べ物をもらう訳には行かないのです、それにはご飯を煮(た)く薪(まき)がなければなりませんので、毎日不承々々ながら、それを取りに出かけるのです。
  ところが、どこへ行ってもどこへ行っても、薪が一本もないのです。どんなに早く起きて出かけても夜のうちに出て行っても、どこにもないのです。ない訳はないのですが、例のコロボックンクルが先廻りをして、クシベシの行く先々の薪をみんな取りさらえてしまっておくからなのです。だから、どうかすると、小屋の窓を壊して、薪の代わりにしなければならぬようなことになりました。薪ばかりでなく、何か野菜物をと思って畑へ行って見ても、魚を捕ろうと思って川に行って見ても、クシベシが行くとどこにも何一つないのです。何しろ、競争が上手で、悪戯好きな、あのコロボックンクルのする仕事なのですから、とてもクシベシにはかなわない訳です。終いにはクシベシも泣き顔をして、弱り切ってしまいました。
  
          
  
  そのうちに、時候の方では何の縁慮もなく、寒い寒い北海道の冬が来ました。クシベシの小屋では、今はもう壁の代わりに張ってあった材木を、大抵(たいてい)御飯を煮く薪の代わりに使ってしまったものですから、夏ならばいいが、風の吹く日などはたまらないのです。まるで私たちの家の庭にある、四阿(あずまや)の中に住んでいるような訳ですから、膚を突きさすかと思われるような風がぴゅうぴゅうと吹き通すのです。それに見ると、コロボックンクルから貰った俵ももう殆(ほとん)どなくなりかけて来たのです。さすがのクシベシもこれでは冬が越せないぞと、心配になって来ました。
  それでも、根がそういう怠け者のことですから、ぐずぐずと日を暮しているうちに、到頭(とうとう)、今日で俵のお米がみんなになってしまうという日が来ました。ところが、生憎(あいにく)、この日は一段と寒さの激しい日で見ていると、山の頂(いただき)にかたまっては流れている雲の色さえ、そのまま凍ってしまうかと思われるような寒さで、それを見ながら、ああ、ああ、明日(あした)から食べる物がなくなるんだな、と思いますと、クシベシは胸騒ぎがする程心細くなって来まして、寒さが一倍体にこたえるのです、何はともあれ、食べて体を温めようと思い立ちましたが、例の通り薪がありませんので、仕様がないので、自分の小屋の柱を一本切りました。それでどうやらこうやら御飯を煮きましたが、それも残らず食べ切ってしまいまして、愈々(いよいよ)夜になりますと、まるで氷の中に埋められたか、と思うような寒さです。とても辛抱が出来ませんので、クシベシは又一本柱を切って、それを薪にして体を温めました。言う迄もなく、それも直ぐになくなってしまいますと、又一本柱を切りました。終いには屋根も何も曲がってしまったのは言う迄もありません。
  すると、夜中から、空一ぱいに拡(ひろ)がっていた雲は到頭雪になりました。クシベシは、いつかもう薪は燃え切ってしまうし、切れるだけの柱は切ってしまいますし、仕様がないので、いつもの少しばかり土を掘って、その上に、熊の皮を敷いてある寝床の中に、もぐり込みましたが、がたがたと体がふるえるばかりで、とても、眠り入るわけには行きませんでした。
  
  やがてその夜は明けまして、見渡す限りまばゆいような雪景色の上の空は、昨日(きのう)とはすっかり変わって青々と底の知れない海のように奇麗(きれい)に澄み切っていました。その下にクシベシの家は見る影もなく、雪におし潰されていました。そして可哀そうに、クシベシはその下で凍えて死んでしまったのでしょう、何故(なぜ)と言って、その日から誰もクシベシを見たものはないのです。
  それと共に、コロボックンクルがどこかへ行ってしまったのです。何故といって、それからは誰も先廻りをして、野菜をとられたり、魚をとられたりしたこともなく、その代り、いくら困っていても、姿は見えないで、声と品物とがひょっこり現われるというようなこともなくなりました。
  無邪気なコロボックンクルは到頭怒(おこ)ってしまったのです。
  そしてコロボックンクルがいなくなると共に、アイヌ人が段々滅びて来まして、年々に数が少くなり、今ではもう殆どなくなりそうな有様だそうです、コロボックンクルはつまりアイヌの守り神様だったのでしょう。
  
  
  
  
  牡丹という花は、花王の異名でも知られるように、花の中の第一ですが、その中でも第一は、わが家で咲いた牡丹です。どうです?この気品‥‥、この花色、葉色‥‥、極上の羽二重のような艶‥‥、彼の銘香さえ羨む、馥郁として、高貴さを感じさせるこの香気、‥‥まさに世界第一ですな、‥‥。
  
  
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  ということで、今月の料理は、抹茶のぐるぐるです。皆様も、ご一緒に抹茶をぐるぐるなさってはいかがですか?
≪抹茶のぐるぐるの作り方≫
  (1)水500ccに抹茶を茶さじ1杯入れ、ダマにならないようによく溶かす。
  (2)更に葛粉50グラム、砂糖30グラムを入れ、よく溶かしてから火にかける。
  (3)中火で沸騰後2分を過ぎるまで、休みなく、ぐるぐるとかき混ぜ続けて出来上がり。2分というのは、粉臭さがなくなるまでの凡その時間です。
  ≪注意≫:必ず水からかき混ぜ続け、休みなくかき混ぜること。もし葛粉がなければ、代わりに片栗粉(馬鈴薯澱粉)でも同じ割合で使用できますが、食感は落ちます。
  
  
  
  では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (抹茶のぐるぐる おわり)