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お雛祭り
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    あかりをつけましょ、ぼんぼりに
    お花をあげましょ、桃の花
    五人ばやしの、笛太鼓
    今日は楽しい、ひなまつり
  
    お内裏様と、おひな様
    二人ならんで、すまし顔
    お嫁にいらした、姉様に
    よくにた官女の、白い顔
  
    ‥‥、‥‥
  
  
  縁側に反射して、白い障子に影を映しこんでいる暖かな春の日差し、赤い毛氈の雛壇、お内裏様、三人官女、ぼんぼり、桃の花、三色重ねた菱餅、‥‥戦前の中流家庭ですかな、健全、明朗、質素、倹約、‥‥
  
  大智度論(今月分)を訳し終え、老人はなんとか今月のテーマをひねり出そうとしているのですが、先ほどから、ちびりちびりとやっているわずか一合たらずの熱燗のせいで、思考はあらぬ方へと飛び去ってしまい、もはや思考のていをなしておりません。老人の衰えた頭の中は、昔はよかった式の繰り言じみたものばかりが堰を切ったように溢れ出し、とりとめなく切れ切れの記憶に流されるまま、いつしか自分で考えるのは止めにして、混沌の海の中に埋没しております。
  
  やむをえまい、‥‥今月も童話でゆこう、‥‥
  
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 聞く地蔵と聞かぬ地蔵
宇野浩二   
  
  或る村に、聞く地蔵と聞かぬ地蔵と言う、二つの地蔵様がありました。二つとも、見たところは、別に変わったところもない、普通の石の地蔵様ですが、一つは村の東の小山の上にありました。一つは村の西手の野原の中にありました。
  今こそ、その西手の野原の中の地蔵様の前には、ちゃんとした路も附いていますし、地蔵様にはいつも線香や花やが絶えず供えてありますが、今から百年ほど前には、この地蔵様の前には線香や花どころか、そこへ行く路が、誰も踏む人がなかったと見えて、草が一面に生えていて、近所の野原との区別が附かないぐらいでした。
  街道を通る旅人が、ふとそれを見付けて、
「あの向こうの方の野原にあるのは何です、お地蔵様のような恰好(かっこう)をしておりますが、誰かのお墓か何かですか?」とその辺に働いている村の人に聞きますと、
「なァに、あれは地蔵様ですよ。聞かぬ地蔵と言ってね。いくら願をかけたって聞かない地蔵様だそうですから、今じゃ誰も参るものがないので、路も何もなくなってしまったんです、」と村の人は冷淡に答えました。
  
  東の山の地蔵様は、それとは丁度反対でした。今では山の中の、木や草が一面に生えた中に、その側まで行っても一寸(ちょっと)目に附かないほど荒れてしまって、村の人の外には、誰もそんな所に地蔵様があることなど知らない位ですが、今から百年ほど前には、中々大変なものだったのです。その山の麓(ふもと)には、「地蔵様道、これより何町」と言ったような、立派な石の標(しるし)も立っていましたし、そこから地蔵様までの山道は車が二台位ならんで通れるほどの、立派な道が附いていましたし、その又道の両側には信心する人たちが立てた道しるべの石や、灯籠が、隙間もないほど並んでいました。
  
「この上にはお地蔵様がある切りなんですか、随分立派な道が附いていますが‥‥?」と通り掛かりの旅人が、こんな風に言って村の人に尋ねると、
「お地蔵様きりかって? そんなもったいないことを言うと、罰が当たりますよ。無論、お地蔵様きりだが、そのお地蔵様は聞く地蔵様と言って、何でも願を掛けさえしたら、どんな無理なことでもかなえて下さるという、有難いお地蔵様なんだ。あんたも何か願いごとがあるなら、花でも線香でもどっさり持って、参ってお出でなさい。」
  こう言って、村の人たちは有難そうにその山の上の方に向かって、拝む形をした位でした。
  
  それがどうして、たった百年後の今日では、その反対になってしまったのか、という訳ですが、――こういうと、皆さんは屹度(きっと)、今では東の山の方の地蔵様が聞かぬ地蔵様になって、西の野原の方の地蔵様が聞く地蔵様になったのだろう、とこう思うかも知れません。が、併(しか)し、そうじゃないのです。今でもやっぱり野原の方の地蔵様が聞かぬ地蔵様で、山の方のが聞く地蔵様であるのに少しも変りはないのです。
  
  そもそもこの地蔵様が初めてこの村へ現われたのは、今からざっと百五十年ほど前のことで、或る日、どこからともなく、一人の年とった坊さんがこの村にやって来まして、
「私(わし)は国々に二体づつの地蔵様をもって歩いているものじゃが、この村にも持って来た。この東の山の上と、西の野原とに一つづつ据えておいたから、お前たち勝手に信心するがいい、」とその坊さんが言いました。
  
「ところが、一つは聞く地蔵様、一つは聞かぬ地蔵様、つまり少々無理なことでも願をかけると、きっとかなえて下さるのと、願をかけても、めったに聞き届けて下さらないとの違いじゃ。一寸(ちょっと)考えると、聞かぬ地蔵様に参るのなぞは馬鹿々々しい、聞く地蔵様に参る方がいいと、みんなは思うかも知れないが、それはどうも、そうばかりは一概に言えないのじゃ。私(わし)は実はもう三百幾(いく)つになる老人じゃが、私も初めのうちは聞かぬ地蔵様よりも、聞く地蔵様の方がいいと思っていたんだが、これは仏様のお言い付けで、仕様がないから、どこでもこの二つの地蔵様を据えて歩いているのじゃが、この二百年以来、私もだんだん聞く地蔵様より、聞かぬ地蔵様の方へ熱心に参る方がよいということを知り出したので、こうして、二つづつ据えて廻ってはいるが、聞かぬ地蔵様はお参りしよいように、野原へ置いて、聞く地蔵様をお参りしにくいように、山へ置くことにしているのじゃ。けれど、どうもやっぱりどこへ行っても、誰でも、聞く地蔵様の方が好きと見えて、その方が繁昌(はんじょう)して困るのじゃ。‥‥私の言うことはこれだけじゃ。」
  こう言ったかと思うと、もうその年寄の坊さんの姿は見えなくなってしまいました。
  
  村の人たちは早速(さっそく)西の野原に出て見ました。すると、果して、昨日までは何にもなかった野原のまん中に一体の地蔵様が立っていて、おまけに街道からそこへ行く迄に、細い路ではありますが、ちゃんとした路までついています。それから東の山に行って見ました。すると、そこには行く路はついていませんでしたが、山の上にはやっぱり、確かに昨日まで何にもなかったところに、一体の地蔵様が立っていました。
  
「野原の方が聞かぬ地蔵様で、山の方が聞く地蔵様か。なるほど聞く地蔵様の方は、さすがに参る路が中々厄介(やっかい)だな、」と村の人々は言いました。が、いつかの不思議な坊さんの話は話として、誰だって聞かぬ地蔵様と知って、わざわざお参りするものはありません。だから十年、二十年、五十年とたつうちには、野原の地蔵様の方の路は、誰もそこを踏む人がありませんので、いつの間にか路がなくなってしまったのに反して、山の地蔵様の方へは、先にも言ったような立派な道が出来たのです。
  
  それに、いつかの坊さんの言ったことは、嘘ではありませんでした。と言うのは、名の通り、その山の地蔵様は、誠に願をよく聞いて下さる地蔵様で、
「どうぞ病気がなおりますように、」と頼んで、家に帰って来ますと、病気がなおっていますし、
「どうぞお金が溜まりますように、」と願をかけますと一年もしないうちに、きっと金持ちになりますし、
「どうぞ今度は男の子が生まれますように、」と言って拝みますと、その通り男の子が生まれるのです。
  それぞれ願いごとの都合で、少し遅くなったり、早かったりすることはあっても、そんな訳で、その山の地蔵様は、頼みさえすれば、どんなことでも聞いてくれました。だから、十年、二十年とたつうちには、その村の人たちはみんな金持ちになって、みんなたっしゃで、みんな仕合(しあ)わせになりました。
  
  だが、人々は余り丈夫で、余り仕合わせで、それに皆々もう十分お金持ちでもあったものですから、毎日額(ひたい)に汗水たらして働く必要がなくなりましたので、次第々々に退屈になって来ました。余り退屈になって来ますと、悪いことでも、善いことでも、何でもかまわないから、何か目の覚めるような事件が起ってほしいと待つようになりました。
  
  それに人間というものは、それぞれ仕合わせで、金持ちになってしまうと、どんな人でも、誰よりも仕合わせになりたいとか、誰よりも金持ちになりたいとか、始終一段上を、一段上をと望むようになるものです。そこで、村の人は、言わず語らずのうちに、誰も彼もみんな山の地蔵様に出かけて、
「私(わたし)が一番金持ちになりますように、私が一番仕合わせになりますように、」と願うようになりました。すると、聞く地蔵様はそれぞれ誰の願も聞き届けるのですから、誰も彼も村中で一番の金持ちで、そして一番の仕合わせものになりました。そして又三十年も、五十年もの日がたちました。
  
  そうなると、村の人々は次第に腹が立って来ました。自分が金持ちで、丈夫であるのはこれほどいいことはないが、誰も彼も同じように、みんな自分と同じように、人々が金持ちになり、丈夫になるのが、癪(しゃく)に触ってたまらなくなって来ました。権兵衛が御殿のような家を建てると、徳松も、すぐその真似をして、王様のような家を建てました。太郎作が立派な着物をこしらえると、喜助もそれに負けないような着物をこしらえました。そして、誰も彼もみんな仕合わせで、誰一人病気になるものはなし、誰一人汗を流して働くものはなし、みんなみんな同じように何不足なく暮していました。
  
  そこで、或る男は、ふと考えついて、或る日山の地蔵様にお参りして、
「どうか私の鄰の家の人たちがみんな病気になりますように、又私の向いの家が急に貧乏しますように、地蔵様、どうぞお願い申します、」とこう祈りました。
  すると、元とより聞く地蔵様のことですから、その男の願を早速聞き届けたものと見えまして、忽(たちま)ち鄰の家では、家中が病人になり、向いの家では急に貧乏し始めました。それが初まりで、同じようなことを願う男が、方々に出来て来たものと見えて、村中あっちでもこっちでも、病人や、貧乏人が出来始めました。そしてしまいにはそれが競争になって来ました。
  
「地蔵様、どうぞ太郎作の足が一本なくなって、跛足(びっこ)になりますように。」
「地蔵様、喜助の奴が盲目(めくら)になりますように、お願い申します。」
「地蔵様、権兵衛の頭が、茶瓶になりますように。」
「徳松が聾(つんぼ)になりますように、地蔵様、よろしくお願い申します。」
  
  そんな訳で、誰もどんな祈りをしているのか、しまいには誰にも、ちっとも見当が付かなくなったものですから、人々は毎日々々地蔵様に参っては、出鱈目(でたらめ)に、思いつく人間の名前を呼び立てては、
「どうかあいつが片輪(かたわ)になりますように、」とか、
「どうかあいつが病気になりますように、」とか、終(しま)いには道を歩いている旅人にまで、
「今あすこを歩いている人が急に聾になりますように、」とか、
「今向こうから来る人が突然腹痛(はらいた)を起しますように、」とか、そんな願をかけるようになりました。
  
  だから、これまでは、よその村の人々から羨まれた村でしたが、そうなると、旅の人たちもずっと廻り道して、決してその村を通らなくなりましたので、村は益々寂(さび)れる一方でした。その上、村の人々は互いに敵(かたき)同志のような有様で、山の地蔵様の道はまるで戦場(いくさば)のように混雑しました。それが何を願いに行くのかと言うと、みんな人を困らせる為に願を掛けに行くのだから堪(たま)りません。
  
  そして、人々はみな一時に貧乏になってしまいました。誰も彼も聾になったり、跛足になったり、病気をしていたり、怪我をしていたり、一人として満足なものはなくなりました。それに、これまでだと、それぞれ金持ちのことですから、自分たちが働かなくても、よその村から食べ物を取寄せることが出来ましたが、今ではよその村のものも気味悪がって、その村の人と言ったら、誰も相手にしません。だから、人々は病気の体や、跛足や、聾の体をおして、長い間止めていた畑を作る事や、機(はた)を織る事やの仕事をしなければならなくなりました。しかし、そんなにやっても、やっぱり暇さえあると、人を呪う願ばかりかけて、山の地蔵様に参ることだけは、忘れませんでした。
  
  そのままで、もう二三十年もつづいていたら、その村はすっかり滅(ほと)びていたに違いありません。ところが、今から三四十年前のこと、ひょっこりと、何処からとなしに、又例の年寄りの坊さんがその村に現われました。
  
  もう誰もその坊さんを覚えているものはありませんでした。なぜと言って、その前に初めてその人が例の二体の地蔵様をもってあらわれたのは、それより百年の前のことですから、その時分にこの坊さんを見た人たちは、もう死んで、みんな墓の下に這入(はい)っていたからです。
  
「もうお前たちもいいかげんに欲張ることを止めて、聞く地蔵様の方へは少し足を絶って、聞かぬ地蔵様の方に参ったらいいだろう、」とその坊さんが言いました。
「百年の間、お前たちの内で、誰一人野原の方の地蔵様に参るものがなかったので、せっかく私(わし)が附けておいた路も何もなくなってしまった。今、私が行って、改めて路を開いておいて来てやった。聞く地蔵様の方は、あの時も私が言ったように、めったに参っちゃいけないと思ったので、わざと路を附けずにおいたのに、お前たちであんな立派な路をつけてしまったが、今日から当分あの山の方の地蔵様は止めて、野原の地蔵様の方に参るがいい。そして、あの山の地蔵様の路にすっかり草が生えて、あの路がすっかりなくなってしまった時分には、又むかしのように、多分お前たちは仕合わせになれるだろうから‥‥。」
  そう言ったかと思うと、坊さんの姿はいつの間にどうしたのか、どこへともなく、消えてしまいました。
  
  村の人たちは初めて目が覚めたような気で、念のために野原の地蔵様の方に行って見ますと、果して街道から一直線に、昨夜(ゆうべ)まで茫々(ぼうぼう)と草の生えていた中に、立派な路が、聞かぬ地蔵様の方についていました。
  
  しかし、聞かぬ地蔵様には何と祈りましょう?人々は何と祈っていいのか分からないものですから、無論もう人を呪う願をかける訳にも行かず、と言って自分たちの欲張った願いをしても無駄な訳ですから、唯だその地蔵様の前に行っては、何にも願うことなしに、ただ拝んで帰って来ました。そして働かなければなりませんから、男も女も、朝から晩まで働きました。
  そして朝か晩かの暇な時に、一寸(ちょっと)野原の地蔵様のところへ行っては、ただ何にもお願いしないで拝んでは帰って来ました。そして、もう誰も、恐いものですから、あの山の地蔵様にはお参りしなくなりました。
  
  だから、いつとなしに、今見るように山の地蔵様への路には、すっかり草が生えてしまって、どこにむかしの路があるのだかも分からなくなってしまいました。
  まして、旅の人などは、その山の上に地蔵様がある事さえ知らないで通り過ぎるくらいでした。が、西の野原の地蔵様への道は、昔の山の地蔵様のように、別に道しるべの石も立っていないし、灯籠もならんでいませんでしたが、一本の細い路が、その前まではっきりと続いていました。そして、三四十年前にひょっこり現われた、不思議な坊さんの言った通り、村は又だんだん仕合わせな、平和な村になりました。
  

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  何やら、われわれにも思い当たるふしの多い話です。この童話は、昭和十一年頃の作だと思いますが、世相としては現在と非常に似ているところが気になります。
  
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  「荘子」に、「人は、皆、有用の用を知れども、無用の用を知るはなきなり」という言葉がありますが、
人皆知有用之用、而莫知無用之用也
  
  この「無用の用」を知るということは、一つの文化的尺度でもありますし、‥‥
  また「荘子」は、こんなことも言っているのです、――「無用ということを知って、始めて何が有用かを語りあえるのだ。地面は広くてとてつもなく大きいが、人の用いるところは足の当たる部分だけだ。もしその足の当たる部分だけを残して、周囲を黄泉の国に到るまで、掘り進めばどうなるのだろう? 人は、それでも、なお地面を用いられるものだろうか?」と。
  
  ひとつ周囲を見回して、「無用の用」を探してみませんか、‥‥
  
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  ≪赤飯の作り方≫
1.餅米は炊き始める30分前に洗い、ザルに揚げて水を切る。
2.小豆は、餅米の二三割量を用い、洗ったらたっぷりの水で強火にかけ、沸騰したら弱火にして5分、ゆで汁を捨て、あたらに水を加えて沸騰するまで強火、その後は柔らかくなるまで、弱火にして20分ほど煮る。この煮汁で赤飯を炊くので、あらかじめ分量(餅米と等量)を量り、後に炊く時に多すぎれば捨て、少ければ水を加えて足す。
3.餅米に、分量の小豆の煮汁を加え、小豆を餅米の上に乗せて、炊飯器にかける。
  ≪菜の花のピクルスの作り方≫
1.ピクルス液の材料=酢:300㏄、水:200cc、
 砂糖:大さじ2、塩:大さじ1、ローリエ:1枚、
 グローブ:少々、粒胡椒:3粒、鷹の爪:2本。
2.ピクルス液の材料をすべて鍋に入れ、沸騰させて冷ます。
3.菜の花は、沸騰する湯に小さじ1杯の酢を加え、5秒ほどゆでたら、ザルに取って冷ます。もし人参ならば、堅いので少し長めにゆで、きゅうりは水分が多いので、あらかじめ塩漬けして水分を抜くのがよい。大根は臭いが出るし、赤かぶは色が出るので避けるのが無難。
4.菜の花が冷めたら、手のひらに押し包むようにして水気をしぼり、冷ましたピクルス液と共に瓶に入れる。
5.菜の花は早く漬かるので、半日ほどで食べ頃となる。
  
  
  では今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (お雛祭り おわり)