この南泉の高弟の趙州という人は師資を受けながらも、或はそれを継がなかった人なのか、ある人に「狗(いぬ)にも仏性はあるか?」と問われて、「無い!」と答え、また別の人には「有る!」と答えたということですが、これを後の人が評して「この有と無と同等に示したのは、有無の二元を超えた無であり、学ぶ人をして論理以前の体験の世界に導くものである!」と言ったのなど、まさに噴飯物としか言いようがなく、何もこうまで難しく考えなくてもよいではないか、不立文字の世界に住しながら、「無」をして「有無の二元を超えた無」と再定義するなど、まさに「無」という文字に取り憑かれたとしか言いようがないのではないか?と笑わずにはいられません。趙州が、ある人には「有る!」と答え、別の人には「無い!」と答えたのは、但だ「有る!」と答えた方が、その人の修行が進む場合には「有る!」と答え、「無い!」と答えた方が修行が進む場合には「無い!」と答えたとして、何が悪いのか?「有」に固定的な意味を与え、「無」にも固定的な意味を与え、更に別の固定的意味まで与えようとする!これじゃあ、まるで文字に取り憑かれているんじゃないか?不立文字はどうした?釈迦は、ある人には「地獄は有る!」と説かれ、ある人には「地獄は無い!」と説かれたが、但だ「地獄は有る!」と知って止悪修善を行う者には、「地獄は有る!」と説き、「地獄は無い!」と知って心が安まる人には、「地獄は無い!」と説かれたに過ぎない。別に「無」が「有無の二元を超える」必要はなく、但だ「言葉」は、その置かれた環境によって「意味」を異にするのだ!と知ればよいと、このように説くものが「中論」でありますので、何でも難しく考えたいような方は、一度お読みになればよいのではないかということで、少しばかり「中論」の宣伝をしておきました。
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