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年の瀬に思う
 もののふの
   真弓白弓梓弓
       張りなばなどか
       ゆるむべしやは  良寛
 
 もののふの
   真弓白弓梓弓
       ゆるみにしより
       その日を知らず  良寛
  
  文政十一年十一月、三条の大地震に遭った良寛は、その当時、ゆるみきった政治の現状を目の当たりにして、このように嘆いています。そして、その嘆きが現在もなお何等変わりなく続いていることを思い知らされたのが、この一年ではないでしょうか?
  
  産業界が困惑している円高とは、此の国からの輸出はもう十分です、もう結構です、もう先がありませんよと言って突きつけられた、NO!を示す世界の意思表示に他なりません。はたして世界を相手にして、どれだけ戦えると思っているのか?早く現状を見つめて、それに見合った政策を立てなくてはならないのに、ただ過去の夢を追い続けて、産業の空洞化に向けまっしぐらに突き進むこの無策!‥‥次々と高速道路を作りながら、高い関税をもうけて血流を阻害し、ただひたすら地方の荒廃を促進する、この逆進性!!‥‥血行が悪くなれば、まず最初に手や足など末端の組織から壊死するのを知らないか?‥‥この国は破産して外国の支配下に置かれるまで、決して自ら改革しようとはしないのかも、‥‥
  
ということで、老人はおのれの無力を歎じながら、今年も凍てつく寒さの中クリスマスイルミネーションを写真に撮ろうということで行ってきましたが、今年のテーマは「オズの魔法使い」ということで、何が「オズ」やら、何が「魔法使い」やらさっぱり不案内のせいで、100枚ほどの写真を撮りながらも、どうも今ひとつテーマがつかめません。その中に、どうにか雰囲気ぐらいはという写真が2、3枚ありましたのでお目に掛けましょう、‥‥
  
  
  さて、そんな事でわたくしの今年一年を振り返れば、「大智度論」もいつしか六年半を費やして100巻中39巻の半ばまで訳し終り、その中の16巻を改訂しましたが、七月からはそれを一時止めて、「中論」を訳しておりますので、それをご紹介いたしましょう。
  
  「中論」のテーマは、「空」を説くものとして知られ、またそれに間違いはないのですが、中には「空」に取り憑かれてしまったような人も多くいて、古くより印度、中国及び、わが国でもほぼ伝統的に「中論」の所説をねじ曲げ、何でもかんでも「空」に集約しようとして、ずいぶん無理な解釈をされてきたようなところがあります。
  
  博多聖福寺の仙厓は、好んで布袋和尚と幼児とが揃って月を指さす絵を画き、それに「お月さまいくつ、十三七つ」の讃を付けましたが、「空」に取り憑かれたような人は、それを解釈して、「月が枠外に存って画かれていないのは、真理は言葉では言い表せないからである」、「月を指す指は言葉の譬喩に過ぎない。指をいくら研究しても真実は見えてこない」というような風に言い、絵に描かれない月を尊び、画かれた指を賎しむようなことをしますが、真理を尊びながら、それを説き明す経文類を賎しむことで、かえって物事を難しくして、何も行わず、ただ自己満足のみが残るというような具合です。因みに、月は理想の世界、指をさす行為はそれに向かう志、布袋、幼児共に笑っているのは、正しく「指をさす心に宿る月の影、忘れはすまじこの月影を」としてみてはどうでしょう?案外、実はこれぐらいのことだったのかも知れません。
  
  さて上に挙げた二解釈の何れが正で、何れが邪か、こんな事は画いた本人の仙厓和尚にでも聞かないことには決着がつかず、又もし聞けたとしても二通りどころか、三通りにでも、四通りにでも答えられる事も考えられますので、智慧の有るひとは、これを諍いません。
  しかし、本来無明であり、智慧の眼が無いというのが、人間の本性ですので、真面目な人ほど、相手の邪論に我慢ができず、ついこれと正邪を諍うということになります。しかしこれをどう考えればよいのでしょう?ほとんどの世界の宗教戦争は、何で成り立っているのかと見ると、この正邪を争うことによって成り立っています。やはりこれを等閑にしてすますべきではないのでしょう。一方は自分が正で相手は邪だと言う。片や殘りの一方も同じく自分が正で相手が邪だと言う。これで正だ邪だ言い合えば、窮まるはずがないのですから、‥‥
  
  地獄は有るのか、無いのか?アラーか、エホバか?キリストか、マホメットか?このように誰も回答を知らず、少なくとも見たことがなく、両論並立して決着がつかないのに、互いに言い争うことを戯論(けろん)といいます。つまり無意味、無意義、有害無益の論議、それを戯論というのですが、その戯論を止めようとするのが、今訳しているこの「中論」なのです。しかし、その内容を見てみますと、実に詭辯的弁証法を用いて仏教的あらゆる真実を否定してみせ、それによって、説法の環境を無視して、ただ言葉のみを論じることの空しさを顕示しているのですから、その詭辯的論法の真意を見抜けない人が、実に多くあっても不思議ではありません。皆、詭辯の空虚なることを知らず、「空」の迷路に踏み込んで、「空」の中で迷子になっているのです。その少々問題の「中論」を、正月か、遅くとも二月には、皆様にお届けしようと準備しておりますので、或は楽しんで頂けるものと思って、秘かにわたくし自身非常に楽しみにしています。
  
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  「無門関」という禅の公案を収録した本に、次のような話が載っています。
  ある禅寺で東の僧堂の首座と、西の僧堂の首座とが、猫の児を中にして言い争っていました。一方は「猫にも仏性は有る!」と言い、一方は「猫なんぞに仏性は無い!」と言いはっております。まさか猫を解剖しても仏性など取り出せるはずがありませんので、これを言い争っても決着はつかず、一方が有る経典を楯に取れば、一方はまた別の論書を鉾にするという具合で大声にやり合っていますと、そこに現われましたのがこの寺の住持南泉です。猫を摘み挙げると「やかましい!猫なんぞに仏性が有るの無いのと!こりゃどうした!何でも言えるもんなら、言ってみろ!言わんか!言わんならこの猫を、たたっ斬ってしまうぞ!」と威嚇します。両堂の首座は、その恐ろしさに縮み上がってしまい、口はこわばり、舌が喉に張り付いて何にも言えません。「こら!言わんか!本当に斬ってもよいのだな!」と気短な南泉は、とうとう猫の児を斬り殺してしまいました。南泉はよほど気持ちが悪かったのでしょう、晩に外から帰ってきた高弟の趙州に話しました。さて話を聞いた趙州はどうしたでしょうか?何と!今履いていた草履を脱いで頭上に載せると挨拶もせずに出て行ってしまったのです。それを見て南泉はこう言って嘆きました、「お前があの場に居れば、猫を救い得たものを!」と。
  
  東堂の首座は「有(う)」に取り憑かれ、西堂の首座は「無」に取り憑かれ、住持の南泉は「非有非無(空)」に取り憑かれ、南泉の一刀は、四人の仏性をたたっ斬ってしまったのだ!猫の児と、東西両堂の首座と、南泉自身と、その他の無数の人の。そしてそれを聞いた趙州は草履を頂いて何も言わず、本末転倒、言語道断を形に表わして出て行ってしまった、というのがこの構図ですが、‥‥
  
  これ等は凡そ悟りの境地とはほど遠いものですから、間違ってもこれを「この厳しさを見よ!これぐらいの覚悟がなくては弟子は鍛えられない!」てな事を言ってはなりません。生悟りの禅宗坊主などの如何にも言いそうな事ですが、猫に厳しく自分に甘いだけの採点ですから、見るべき所は何もないのです。しかし仙厓さんは違います!見るべき所はちゃんと見ておられます。
  
  
      斬った!斬った!斬った!斬ってしまった!
      ここには、唯だ、
         猫の児と、
         両堂の首座と、及び、
         王老師しかいないのに!
  
  この中の第一句を仙厓は時に「一斬一切斬」とすることもありました。たった一刀で、一切を斬ってしまった!猫の児と、両堂の首座と、及び王老師(南泉)自身と、その他の一切を!前のように言う禅坊主は、きっとこれに斬られたに違いありません、‥‥
  
  
  この南泉の高弟の趙州という人は師資を受けながらも、或はそれを継がなかった人なのか、ある人に「狗(いぬ)にも仏性はあるか?」と問われて、「無い!」と答え、また別の人には「有る!」と答えたということですが、これを後の人が評して「この有と無と同等に示したのは、有無の二元を超えた無であり、学ぶ人をして論理以前の体験の世界に導くものである!」と言ったのなど、まさに噴飯物としか言いようがなく、何もこうまで難しく考えなくてもよいではないか、不立文字の世界に住しながら、「無」をして「有無の二元を超えた無」と再定義するなど、まさに「無」という文字に取り憑かれたとしか言いようがないのではないか?と笑わずにはいられません。趙州が、ある人には「有る!」と答え、別の人には「無い!」と答えたのは、但だ「有る!」と答えた方が、その人の修行が進む場合には「有る!」と答え、「無い!」と答えた方が修行が進む場合には「無い!」と答えたとして、何が悪いのか?「有」に固定的な意味を与え、「無」にも固定的な意味を与え、更に別の固定的意味まで与えようとする!これじゃあ、まるで文字に取り憑かれているんじゃないか?不立文字はどうした?釈迦は、ある人には「地獄は有る!」と説かれ、ある人には「地獄は無い!」と説かれたが、但だ「地獄は有る!」と知って止悪修善を行う者には、「地獄は有る!」と説き、「地獄は無い!」と知って心が安まる人には、「地獄は無い!」と説かれたに過ぎない。別に「無」が「有無の二元を超える」必要はなく、但だ「言葉」は、その置かれた環境によって「意味」を異にするのだ!と知ればよいと、このように説くものが「中論」でありますので、何でも難しく考えたいような方は、一度お読みになればよいのではないかということで、少しばかり「中論」の宣伝をしておきました。
  
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  今月は、クリスマスディナーがテーマです。初めにビーフカツレツ、いくぶん焼け過ぎの色をしていますが、ドミグラスソースがポイントです。次はフルーツケーキ、純正バターをたっぷり使うところがポイントです。
≪ビーフカツレツの作り方≫(4人前)
1.ドミグラスソースの作り方:
  材料:
    バター30g、小麦粉30g、
    シェリー酒(アモンティリャード)140cc、
    水200cc、ブイヨン・キューブ1個、
    ナツメッグ少々、塩少々。
  作り方:
    1.鍋にバター、小麦粉を入れ弱火で約10分、
      きつね色になったら火を止める。
    2.水、シェリー酒、ブイヨン・キューブを加え、
      火を付けて混ぜつづけること、約3分。
    3.ポタージュぐらいの濃さになれば、
      ナツメッグ、塩各少々を入れて味を整える。
2.カツレツの作り方:
  材料:
    牛肉厚さ10㎜以下、1枚50gのもの8枚。
    パン粉適宜、小麦粉適宜、全卵1個、
    バター20g、オリーブ油100cc、
    塩、胡椒少々。
  作り方:
    1.牛肉に軽く塩、胡椒を振り、時間を置かずに、
      小麦粉を軽くまぶし、卵にくぐらせ、
      パン粉を押しつけるようにしてまぶす。
    2.フライパンにバターを溶かし、
      オリーブ油を5㎜ぐらい入れる。
    3.油が熱したら、肉を入れて焼く。
      肉が薄いので焼き過ぎに注意。
      きつね色は焼き過ぎかも知れない。
3.盛りつけ:
    1.皿に肉を置いて温野菜をあしらい、
      皿の手前にドミグラスソースを注ぐ。
4.注意事項:
    1.塩は肉汁を外に出す作用が有るので、
      塩、胡椒の後はできるだけ手早くする。
    2.ドミグラスソースは目を離すと焦げやすい。
    3.ドミグラスソースは薄めを心がける。
    4.本式にはシェリー酒でなく、マデイラ酒を使う。
      但し、いくぶん酸味が出ることがある。
  
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≪フルーツケーキの作り方≫(20㎝ケーキ型1本分)
1.ドライフルーツのラム酒漬けの作り方。
  材料:
    ドライフルーツ250グラム、ラム酒400cc。
  作り方:
    ドライフルーツをきざみ、ザルに入れ熱湯を注ぐ。
    容器に熱いドライフルーツを入れ、ラム酒を注ぎ、
    蓋をして最底1週間、できれば1ヶ月間保存する。
2.ケーキの作り方。
  材料:
    バター180g、薄力粉120g、砂糖100g、
    アーモンドパウダー50g、全卵3個、
    ベーキングパウダー小さじ1杯、
    スライスアーモンド、アプリコットジャム少々。
  準備:
    1.バター、卵を室温にする。約半日。
    2.小麦粉、砂糖、アーモンドパウダーを、
      各、別に粉ふるいでふるう。
    3.ドライフルーツをザルに入れ水分を切る。
  作り方:
    1.ボールにバターを入れ、竹べらでねり、
      更に2、3回に分けて砂糖を加え、
      白くなるまでよくねる。
    2.卵をよく溶いて、ねりながら少しづつ加える。
    3.ドライフルーツに少分の小麦粉をまぶす。
    4.バターのボールに、小麦粉、アーモンドパウダー、
      ベーキングパウダー、ドライフルーツを入れて、
      粉っぽさがなくなるまでまぜる。
    5.ケーキ型にバターを薄くぬって、粉をふりかけ、
      余分の粉をはたき落とし、ボールの中身を入れ、
      上にアーモンドスライスをちりばめる。
    6.170度に予熱したオーブンに入れ、30分、
      160度で2、30分焼く。
    7.焼き上がりは、串を刺して見る。
      串に何もついてこなければ、型から出し、
      アプリコットジャムを上に刷毛で塗る。
3.注意事項:
    1.オーブンが無ければ、オーブントースターを使う。
    2.オーブントースターの場合は、
      最初強火で5分、弱火で約50分様子を見ながら、
      アルミホイルを被せて、焦げすぎをふせぐ。
    3.アプリコットジャムは、堅ければ裏ごしする。
  
  
★★★
  
  それでは今年はここまで、また来年お会いしましょう。
どうぞ良いお年をお迎えください。
& MerryChristmas
!!
 
 
 
 
 
 
 
  (年の瀬に思う おわり)