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萩すすき
  手折りてぞこしさすたけの
  君がいほりのいへづとにとて  (良寛)
  
この岡の
  秋萩すすき手折りても
  三世(みよ)の仏にたてまつらばや  (良寛)
  
この岡の
  秋萩すすき手折りてむ
  わが衣手に染(し)まば染むとも  (良寛)
  
秋の野の
  萩にすすきを折り添へて
  三世の仏にたてまつりてむ  (良寛)
  
     なぬかの日、
       「さすたけの君がみ園はせまけれど
        秋は野山の花のいろいろ」(由之)御返し
わが宿の
  垣根に得ゑし萩すすき
  道もなきまで茂りあひけり  (良寛)
  
秋の野(ぬ)の
  萩の初花咲きにけり
  尾上(をのへ)の鹿の声まちがてに  (良寛)
  
    有則がもとにやどりて
わが宿の
  秋萩の花咲きにけり
  尾上の鹿はいまか鳴くらむ  (良寛)
  
    萩の花を折りてたまはりければ
      「山かげの小道をくれば萩すすき
       花盛りなり君に見せばや」(定珍)の返し
露ながら
  手折りてぞ来し萩の花
  いつか忘れむ君が心を  (良寛)
  
秋萩の
  枝もとををにおく露を
  消たずにあれや見む人のため  (良寛)
  
ふりはへて
  わが来しものを朝露の
  たちなかくしそ秋萩の花  (良寛)
  
白露に
  咲きみだれたる萩の花
  錦を織れる心地こそすれ  (良寛)
  
萩の花
  いま盛りなりひさかたの
  雨は降るとも散らまくはゆめ  (良寛)
  
飯乞ふと
  われこの宿に過ぎしかば
  萩の盛りに逢いにけらしも  (良寛)
  
    与板といふ里にいたりて、其の許訪ひし日、
    萩の花はさかりなりけり
飯乞ふと
  われ来にけらしこの園の
  萩のさかりに逢ひにけるかも  (良寛)
  
飯乞ふと
  わが来てみれば萩の花
  みぎりしみみに咲きにけらしも  (良寛)
  
萩の花
  みぎりしみみに咲きにけり
  こしくもしるくはへる今日かも  (良寛)
  
歌詠みし
  人のこころぞしのばるる
  古きみ寺の萩のさかりは   (つばめ)
  
いにしへの
  歌のこころぞしのばるる
  みぎりしみみの秋萩の花   (つばめ)
  
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  元興寺(がんごうじ)は、奈良遷都以前には飛鳥の法興寺と称し、斑鳩の法隆寺と並び称される大寺でしたが、幾多の変遷をへて、今では猿沢の池の南にひっそりと佇む、萩の寺として有名です。
  
  その有名な萩を、写真に撮りたいというのが、長年の夢でした。しかし、問題は萩の花が余りにも地味で、撮り映えがしないということです。冬にエネルギーを畜え、春に咲き、夏に実を付け、秋に熟す。これが自然のサイクルというもので、われわれの感受性の方も春は華やか、夏は旺盛、秋は静寂に傾いておりますので、源氏物語など、王朝人の物の哀れが解らないと、萩の花も理解できないということなのです。毎年のように萩の写真を撮っていながら、ちっとも物にならないのは、この物の哀れが写っていないからではないか?と、今回は大いに感ずるところが有りましたので、張り切って出かけたのですが、‥‥
  
  
  やはりどうもいけません、電話で確認した時には、7~8分咲きということで、安心して出かけたのですが、台風の後で赤い花はあらかった散ってしまい、白い花のみが満開の状態でした。しかし、いったい白い萩を何うせよというのでしょう?
  
  行き交うカメラマンも思いを同じにしてか、ついカメラは彼岸花の方に向っているようです、‥‥
  
  
  この元興寺には面白い話が伝わっています、
    「日本霊異記巻上」に依れば、――

  雷の喜びて子を生ましむるに、強力の子を得たる縁第三
  昔、敏達天皇(これ磐余(いわれ)の訳語田(おさだ)に食国(くにお)す渟名倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の命なり)の御世、尾張の国、阿育知(あゆち)郡片蕝(かたわ)の里に一の農夫の、田を作り水を引くの時、小細雨(こさめ)降るが故に、木の本に隠るる有り、金杖を摚(つ)きて立つに、時に雷鳴あり、即ち恐れて金杖を擎(かか)げて立てば、即ち雷は彼の人の前に堕つ。雷は小子と成りて、随い伏するに、「汝は何をか報いん」と。雷の答えて言うや、「汝に寄せては、子を胎ましめて報いん。我が為に楠の船を作りて水を入れ竹の葉を泛(うか)べて、賜え」と。即ち雷の言うが如くに作り備えて与う。時に雷は、「近依ること莫れ」と言いて避けしめ、霧を靉(たなび)かせて天に登り、然る後、産まれたる児は、頭に蛇を纏うこと二遍、首尾を後に垂して生まる。
  長大するに、季(とし)十有余の頃、之の朝庭に力の人有りと聞きて、之を試みんと念(おも)い、大宮の辺に来たりて居す。爾の時の王(きみ)は、力有ること当時に秀で、大宮の東北の角(すみ)の別院に住す。彼の東北の角に方八尺の石有り、力の王は住処より出でて、其の石を取りて投げ、即ち住処に入りて門を閇(し)め、他人をして出入せしめず。小子視て念う、名に聞こえし力の人とは、是れなりと。夜、人に見られずに、其の石を取りて投ぐること一尺を益す。力の王、之を見て手拍ち攅(たを)みて石を取り、投ぐること常に従うも投げ益すことを得ざるに、小子は亦た二尺を投げ益す。王、之を見て、亦た投げんと希(ねが)うも、猶お益すことを得ず。小子の立ちて石を投ぜし処、小子の跡は深さ三寸にして践み入る。其の石も亦た三尺投げ益せり。王は跡を見て、是に居る小子の石を投ずるを念ずるや、将に捉えんとす。即ち小子は逃げ、王、小子を追えば、墻(かき)を通りて逃げ、王も墻の上を踰えて小子を追えば、小子も亦た返って、通りて逃げ走る。力の王は終に捉らうることを得ず、我れより力益される小子ならんと念い、更に追わず。
  然る後、小子は元興の僧の童子と作る。時に其の寺の鐘堂の童子、夜別(ごと)に、死せり。彼の童子見て、衆僧に白(もう)して言わく、「我れは此の鬼を捉えて、教え謹(いまし)めて、此の死災を止めん。衆僧聴きて許す。童子は鐘堂の四角に灯を儲け、四人に言いて教うらく、「我れ鬼を捉らうる時、倶に灯の蓋の覆いを開けよ」と。然して鐘堂の戸に於いて、童の鬼居り、大鬼は半夜ばかりに来たりて童子を佇(ま)ち、而も之を見て退く。鬼は亦た後夜の時に来たりて入らんとするに、即ち鬼の頭髪を捉えて、引く。鬼は外に引き、童子は内に引く。彼の儲けし四人は慌てて来たるも、灯の蓋を開くることを得ず。童子は四角に鬼を引きて依り、灯の蓋を開く。
  晨朝の時に至りて、鬼は頭髪を引き剥がされて逃ぐ。明くる日、彼の鬼の血を尋ねて、往くへを求むるに、其の寺の悪奴を埋め立てし衢(よつつじ)に至れば、即ち、彼の悪奴の霊鬼なりと知る。彼の鬼の頭髪は、今元興寺に収めて財と為せり。
  然る後、其の童子は優婆塞と作りて猶お元興寺に住し、其の寺の田を作り、水を引くに、諸の王等妨げて、水を入らしめず。田の焼け亡ぶる時、優婆塞は、「吾れ田に水を引かん」と言えるに、衆僧は、之を聴(ゆる)して、故に十余人の荷う可き鋤の柄を作りて持たしむるや、優婆塞は、彼の鋤の柄を持ちて、杖に撞(つ)き、往きて水門の口に立ちて居(お)く。諸の王等は、鋤の柄を引き棄てて、水門の口を塞ぎ、寺の田に入らしめず。優婆塞は、亦た百余人の引く石を取りて、水門を塞ぎ、寺の田に入らしむ。王等は、優婆塞の力を恐れて終に犯さざるが故に寺の田は渇(かわ)かず。而して能く之を得るが故に、衆僧は聴して得度、出家せしめ、名を道場法師と号す。後世の人伝えて謂わく、元興寺の道場法師に強力多く有りとは是れなりと。当に知るべし、誠に先世に強いて修めし、能縁の感ずる所の力なり。是れ日本国の奇事なり。
  
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  (大意) 雷を喜ばせて、強力の子を授かった因縁第三
  
  昔、敏達天皇の御世、尾張国の阿育知(あゆち)郡片蕝(かたわ、今の名古屋市中区古渡町付近)の里に一人の農夫がいた。この農夫は田を作って水を引いていたが、小雨が降り出したので、樹木の本に隠れ、鉄の杖をついて立っていた。
  その時、雷鳴がしたので、恐れて鉄杖を振り上げたところ、雷が彼の前に堕ちた。雷はまだ子供で、平伏して農夫に命乞いをした。「お前は、何を報いる?」、雷は答えて言った、「あなたには、子を授けましょう。わたしには、楠の船(飼い葉桶)を作って水を入れ、竹の葉を泛(うか)べてください」と。そこで雷の言ったようにして、船を与えると、雷は、「近寄らないでください」と言って、避けさせ、霧をたなびかせて天に登った。
  
  その後、子が産まれたが、頭に蛇を二巻きし、頭と尾を後に垂して生まれてきた。成長して十歳余りの頃、朝庭に力の強い人がいると聞き、これを試したいと思って、大宮の辺に来て、そこを住居とした。その時の王は力が秀で、大宮の東北の角の別院を住んでいた。
  
  その東北の角には、方八尺の石が有った。王は、住居を出るとその石を取って投げ、すぐに住居に入って門を閉めて、他人を出入させなかった。子供は、こう思った、「名に聞こえた力持ちとは、この人のことか」と。夜になり、人に見られずに、その石を取って投げたが、王より一尺余分に投げ益した。王は、これを見ると、手ぐすね引いて石を取り、投げたところ、いつもより多く投げることはできなかった。子供はまた二尺を投げ益した。王は、これを見て、もっと投げたいと思ったが投げますことができなかった。子供が立って石を投げると、子供の足跡は深さ三寸践み入っており、その石もまた三尺投げ益されていた。王は跡を見て、ここに居るこの子供が投げたのかと不快に思い、子供を捉えようとした。そこで子供が逃げると、王が追う。子供が垣根を通って逃げると、王は垣根の上を踰えて追う。子供は、また返って垣根を通って逃げ走り、王はついに捉えることができず、「俺より力が溢れていたが、子供のことだ」と思って、もう追わなかった。
  
  その後、子供は、元興寺の僧の童子となったが、その時、寺の鐘堂の童子が夜ごとに死ぬようなことがあった。彼の童子は、衆僧にこう申し出た、「わたしが、この鬼を捉えて、教え誡め、この死の災いを止めさせましょう」と。衆僧がこれを許すと、童子は、鐘堂の四角に灯を置かせ、四人に教えて、「わたしが鬼を捉えたら、一斉に灯の蓋を開けよ」と言った。
  
  やがて童の鬼が鐘堂の戸の処に現われ、真夜中過ぎに大鬼が来て童子の来るのを待ち、彼の童子を見るといったん退いた。鬼はまた夜明け前にも来て鐘堂に入ろうとした。そこで童子は鬼の頭髪を捉えて引いた。鬼は外に引き、童子は内に引くうちに、彼の四人も来て、灯の蓋を開けようとするが、慌てているので開けられない。彼の童子は、四角に鬼を引きずり、灯の蓋を開け、やがて夜明けの時がきた。鬼は、頭髪を引き剥がされて逃げた。
  
  明くる日、彼の鬼の血を尋ねて往くと、其の寺の悪奴を埋め立てた四つ辻に至ったので、彼の悪奴の霊鬼であったのかと知ることとなった。彼の引き剥がされた鬼の頭髪は、今元興寺に収められ、財となっている。
  
  その後、童子は優婆塞となって、なお元興寺に住んでいた。その寺が、田を作って水を引いたところ、諸の王たちは、それを妨げて田に水を入れさせまいとした。田が焼けて亡びようとする時、優婆塞はこう言った、「わたしが、田に水を引きましょう」と。衆僧はこれを許して、十余人でやっと荷える鋤の柄を作って持たせた。優婆塞はその鋤の柄を持ち、杖に撞いて、水門の口に立って置いた。諸の王たちは、鋤の柄を引き棄てて、水門の口を塞ぎ、寺の田に入らせまいとした。優婆塞は、また百余人でやっと引ける石を取って水門を塞ぎ、寺の田に水を入れた。王たちは、優婆塞の力を恐れて、もう犯そうとはせず、その故に田が渇くこともなかった。
  
  この事により、寺の衆僧は、優婆塞に得度出家を許して、道場法師と号させた。後の世の人が伝えて謂う、元興寺の道場法師は大変な力持ちであったとは、これである。これからも知ることができる、誠に先世に能縁を強いて修め、今感ずる所の力がこれであると。これが日本国の奇事である。
  
  

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  元興寺の次は法起寺(ほうきじ)です。三重の塔が有り、法隆寺の五重塔の第一層、第三、第五層を模して作られたのだろうと言われています。低い基壇、各層の軒が深すぎること、第一層の間延びしたところなどからは、ずいぶんバロックな感じがします。恐らく第一層に裳階を附けたところを想像すれば、正しくそうに違いありません。
  
  しかし、この奇矯さが、この塔を忘れがたいものにしているのかも知れません。わたしの癖で、写真を撮るとき、僅かに右に傾いてしまいました。後処理で真直ぐにするのは簡単ですが、左の建物との重量バランスを考え、敢て傾いたままにしておきます。
  
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  ≪稲荷ずしの作り方≫  (四人分二十個)
  1.薄揚げ豆腐を二つに切り、切り口から、すくうように包丁の刃を入れ、やわらかい豆腐の部分をはがして袋にし、さっと熱湯をそそいで油抜きをする。
  2.油揚を煮る。昆布だし汁:50cc、砂糖:大さじ3、味醂:大さじ3、醤油:大さじ3を煮立て、油揚を入れて汁気が無くなるまで煮詰め、火を止めて、冷えるまでおく。この時、鍋を傾けて煮汁を角に集め、油揚の一枚一枚を裏返しながら、よく煮汁を含ませる。
  3.具の下ごしらえ。干し椎茸2枚、干瓢20センチ、人参2センチ、胡麻大さじ2杯。干し椎茸は一晩水に漬けてもどしてから、微塵に切る。干瓢は水洗いして塩もみをし、更に水洗いして微塵に切る。人参も微塵に切る。椎茸、干瓢、人参は砂糖、醤油、味醂で別々に煮て、味の濃さに変化をつける。人参を色よく仕上げたいならば、薄口醤油または白醤油または塩で、さっと湯がくていどに煮る。洗い胡麻は煎ってつかう。
  4.酢飯を作る。酒:小さじ1と昆布だしでご飯:1合を普通に炊き、米酢:40ccに砂糖:小さじ1をよく混ぜたものを上からかける。杓文字を立てて使うようにして、ご飯を広げ、団扇で扇いで冷まし、その後、具を混ぜる。
  5.油揚を軽くしぼって開いたものに、ご飯を詰める。ご飯はあらかじめ個数分に分けておくと、大きさがそろってよい。
  
  
  
では今月はここまで、また来月お会いしましょう。それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (萩 おわり)