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赤蓮保存田
 
    江南
  江南で、蓮をお採りなさい。
  蓮の葉が、何と青々と盛んなことか、
  魚が、蓮の葉の間に戯れておりましょう。
  魚が、蓮の葉の東で戯れております、
  魚が、蓮の葉の西でも戯れております、
  魚は、蓮の葉の南で戯れております、
  魚は、蓮の葉の北でも戯れております。
  
  
  
  
  
  蓮の花については、毎年同じような写真を山ほど撮りながら、一向に飽きることが無いといって、家人には笑われたりしておりますが、今年は花シリーズでまとめようかとさえ思っていますので、ぜひ京都奈良の名だたる名勝をカメラに収めようということで、意気込みを盛にしておりました所、しかし、ままならぬのが老人の体力と、気力、‥‥ということで、今年も相変わらず、近くの赤蓮保存田での撮影ということに相成り、やむを得ぬこととはいいながら、皆様方には名所案内にもならぬ次第で、誠に申し訳なく思っております。
  
  と、いうことで話は変りますが、最近原因は不明ながら世界的に蜜蜂が著しく減少しており、作物の結実までが心配されているそうです。又一方では種子に遺伝子操作をすれば、結実を一代限りにできるということで、巨大資本が種子の独占販売を企んでいるというような話をも聞いております。或はこれ等は互いに関係し合っているのではないでしょうか?
  
  自然界というものは想像を絶する長年月をかけて、実に微妙なバランスの上に現在のように成立しているものですから、道義を知らぬ学者が、金さえ出してくれるならば、何んな研究でもします、と軽い気持ちで引き受けた仕事が、ほんとうに困った事になってしまったのではないか、或はすでに取り返しのつかない所まで来てしまっているのではないか、と‥‥、まあ老人の心労の種は、まったく尽きることを知りません。
  
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  さて、わが家では、とうとうテレビが映らなくなりました。
  
  老人にとって、今まで得た物を捨てるということは日常茶飯事であり、去年できた事が今年はできない、昨日できた事が今日はできないというような事が日々起こっておりますので、昨日見られたテレビが今日見られなくなった所で別に驚くほどの事でもなく、しつこく宣伝してくれたおかげで、覚悟はとっくにできておりましたが、なにがしかを一つ喪ったという事では寂しくないわけではありません。
  
  そんな事で久しぶりに本を読む暇ができ、ごく気楽な読み物を読んでいた所、次のような面白い文章を見つけましたので、ご紹介しましょう、――
  
  去りながら、こまった事には、一ツつかまえているものが有って、志が立ちにくい。これに附いて、おもしろい話がある。眠さましに、お聞きなされて下されい。さるお町内に婚礼振廻がござりました。ナニガお年寄をはじめ、町役・家持の人々、一同に座につきますると、さまざまの馳走がある。時にかの年よりは酒と聞いては、笹の露にも酔う程の下戸じゃ。座中を廻るさかづきの間、退屈そうにしていられると、亭主方が気のどくにおもい、「お年寄さまは御酒はめし上がらず、御退屈にござりましょう。チトお菓子なりとも御取り下されい。」と、南京の古染附の壺に大りんの金平糖をいれて、とし寄の前に持ってくる。座中も「これはよいおこころ附き。ひらにお菓子を召上がられい。」と、すすめられて、年寄もわるうはなし、「しからば頂戴をいたしましょう。」と、壺を膝へ引上げ、手首を突込みしな、少しきしむようにおぼえたが、無理に手をさし入れて、つまみ出そうとするに、手首がつまってぬけませぬ。どうぞして抜けるかと、いろいろにこじ廻して見ても、引っぱって見ても抜けず、まごまごして居らるると、側から見つけて、「どうなされましたぞ。」「イヤ手がすこしつまりまして、思うようにぬけませぬ。」と、真がおに成っていわるる。「夫は気のどく。私が壺を持って居ましょう。無理むたいに、手をおひきなされ。」と、一人が向こうへ廻って壺をつかまえ、あとへ引くと、年よりは手を前へひく。互に「えいや。」と、引きあうありさま、景清と箕尾谷がしころ曳をする様なと、座中が一同にどっと笑えど、年寄は中々笑わず、泣きがおに成って「どうも、いたんでぬけませぬ。」という。サア是れから大騒ぎになり、「医者どのをよんでこい。難波骨つぎではゆくまいか。」と、酒宴の興もさめ果てました。時に五人組が一人すすみ出て、「いづれもお騒ぎなされな。我等うけたまわった事がある。むかし司馬温公という人幼きとき、大勢の小児とともに、大きなる壺のほとりに遊びましたが、一人の小児、あやまって彼のつぼの中へはまりました。大ぜいの子供はこれを見てにげ帰ったが、司馬温公一人は帰らず、側なる手ごろの石をとって、かの壺へ投げつけましたれば、壺はわれて、はまった小児は不思議に命を助かりましたと、或人の話じゃ。今お年寄の御難渋は、この話にヨウ似てある。いざや我等が、司馬温公となりて、たとえばその古染附の壺が、失礼ながら、何ほど高金の品でも、お年よりの腕にはかえられぬ。」と、しかつべらしく、きせるを引っさげ、向へまわれば、年寄は気のどくそうに、つぼをかぶった手をつき出すと、只一と打ちにうち砕いた。ナニガ坐中は金平糖がちらかって、雪をふらした様になると、「ヤレお年より、お助かりなされたか。」と、其手を見れば、ぬけぬこそ道理なれ、金平糖を一ぱいつかんでいられた、と申すことじゃ。ナントおかしい話ではござりませぬか。つかんだものをはなしさえすれば、自由自在に手はぬけるものを、一度つかんだら、首がちぎれても離すまいと、かた意地なうまれ附、それで自由自在の大安楽が出来ぬのじゃ。かく申せば、銭かねの事のようなれど、つかむものは是ればかりではない。器量のよいのを抓み、かしこいをつかみ、まけおしみをつかみ、家がらをつかみ、身代のよいのを抓んで、離すまいとかつぎあるくに依って、教をきく事もならず、楽をする事もならず、慎みも出来ず、詮方なさに癪気おさえたり、顔しかめたり、酒のんでまぎらしたり、さりとては気の毒なものでござります。壺わって仕廻うてからは、何いうても詮ない事じゃ。身代の壺をわらぬさきに、御用心が第一でござります。
  
  
  この話は天保年間に出版された「鳩翁道話」という書物に収録されておりますので、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、可笑しなことに、アフリカで猿を捕るときの話によく似ています、‥‥モロッコ・アルジェリア辺では瓢箪にちょうど猿の手が入るだけの穴をあけておき、それを持って畑に出ると、猿がこちらを見ているのを、気が付かぬ振りで観察し、猿によく見えるように中に米を入れたならば、それを樹に縛り付けて置くのだそうです。人の話によれば、これで案外簡単に猿が捕れるということですが、脳の容積から言っても、智慧の多寡に何れほどの違いのあるはずもなし、人の為す事が猿に似ていたところで、不思議がるほどの事ではないということかも知れません‥‥
  
  恐るべき大事故を起しながら、まだ握りしめた利権を手放そうとしない官僚や、資本家等を聞くにつけ、はたして彼等はこの猿に似ているのか、金平糖の年寄に似ているのか、つい不思議な気持ちに襲われてしまいました、‥‥
  
  ということは、やはりテレビは諦めるべきでしょうねぇ、‥‥
  
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  蓮の実ご飯
昆布だしご飯は塩加減を、少し強めにして炊く。
蓮の巻葉から軸を除き、柔らかい部分をサッと塩ゆでにしたら団扇で扇いで手早くさまし、軽く水気を絞ってから極細にきざむ。
蓮の実は、未熟で柔らかいものを選んで皮をむき、生のまま用いる。完熟して堅くなった実は生では食べにくいので、別の機会に栗ご飯の要領で炊き込みご飯にする。
蓮の実と、よくほぐした蓮の葉をご飯に対して一割量ほど混ぜ合わせる。
  
  
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (赤蓮保存田 おわり)