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春が来た!
 
  
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  今月は、"鉄道員"と、"天井桟敷の人々"を見ました。共に映画史上一二を争うとまでは言えないが、僕の中では五本の指に数えて苦しからずと言ったところの名画中の名画ですので、その面白さを十分に堪能したのですが、何がそんなに良かったのかと問われても、すぐに答えられないのは、われながら何とも口惜しい次第です。
  
  いつまでも記憶に残る名画の条件としてすぐに列挙できるのは、一に普遍的なテーマ、二に筋書きの説得力、三にテンポ、及び推進力、四に映像美、及び総合的美術力、五に俳優、及びその演技力、これ等の五条件に、平等に各、五点満点を与えて、その中の一項目でも五点以外を取ると、もう名画とは呼べなくなるのではないかと思うのです。まあそんな"へんちく"映画論はさておき、まだご覧になっていなくて、先に内容を聞いてもまったく苦にしないという方のために、特別に"天井桟敷の人々"の粗筋と、見所などをご紹介いたしましょう、――
  
  
  ≪天井桟敷の人々≫
 
○第一部、犯罪大通り
――花の都、パリ。
――殺伐たるナポレオン時代が終り、平和な時代にふさわしく人々は娯楽を求めて走り回る、‥‥
――ごった返し、渦巻いている、人の波、波、波‥‥
――通称"犯罪大通り"、四頭立ての馬車の行き交う目抜き通りは、今日も娯楽を求める人々に埋まっている、‥‥
――両側に建ち並ぶ大小の劇場、芝居小屋、お上りさん目当ての見世物小屋、皆客を呼び込もうとて、特有のだみ声を張り上げて口上を述べるのに余念がない、‥‥
  
――とある一軒の見世物小屋、えーいらっしゃい、いらっしゃい、真理がここにあるよ、昼なら幻、夜なら夢か、見なきゃ損だよ、一糸まとわぬ裸の美女だよ、生まれたままのあで姿、さあ入った入った!‥‥数人の客が、呼び声につられて入って行く、薄暗い通路を抜けると奥の方に筒井戸があって、その中には、女がひとり、手鏡をかざし、ひっつめに結ったおのが美貌をうっとりと眺めているばかり、しかも見えます物はとくれば、ただ肩から上のみ、そんなインチキにも客がおとなしいのは、その美貌の故か、やがて後から来る客に背中を推されるようにして、外に出る、‥‥
  
――ごった返す大通りの人波に、もまれるでなく、かき分けるでもなく、しゃなりしゃなりと歩いてくるは、先ほどの井戸の女、生き馬の目を抜くような人混みの中も、この女にとっては生まれ故郷も同然、清流を泳ぐ鮭のごとく、艶然たる笑みをたたえたまま、辺を見るでもなく見ないでもなく、行き先があるでもなく、ないでもなくと言った、ごく気楽な風情を漂わせている、‥‥
  
――あっ!笑いましたね、‥‥と、若い男が声を掛ける、この男も大変な美貌だ、‥‥あなた、わたしに笑いかけましたね!ああ、人生は美しく、あなたも美しい、‥‥
――さあ、どこへ向かいましょうか?
――お互いの、鼻の向いてる方へ、‥‥
――では同じ方向だ!
――違うわ、‥‥
――なぜ?
――約束があるの、‥‥
――わたしの名はフレデリック、あなたは?
――ガランス、‥‥
――ガランス?
――花の名よ、‥‥
――唇のように赤い花だ、‥‥
――では、さようなら、フレデリック、‥‥
――えっ、もうこの通りに置き去りですか?次ぎに会えるのは、‥‥?
――いつかね、‥‥
――パリは広いんですがね、‥‥
――好いた者にとっては、そうでもないのよ、と男を残して去る。
  
――代書屋の看板。袖口と胸に襞飾りのある白いシャツ、このダンディーな代書屋は、名をラスネールという。手下を持ち、盗み、強盗、かっぱらい、必要とあれば殺しさえする悪党だが、今しも客のために、家出中の神さんを呼び戻す手紙を代筆しているところ、‥‥わが命よ、君去りし後、悶々の日々を送り候、何卒帰られたくお頼み申し候、今後は天地神明に誓って決して手を挙げまじく候、‥‥と、こんなところでいかがかな、‥‥?いや、もう大変に結構で、‥‥。客と入れ替わりのように、ガランスが入ってくる、‥‥
――もう井戸からでたのか?
――もう井戸はおわったの、‥‥
――おわった?
――肩先だけじゃね、‥‥
――客は正直だからね、しかも欲張りだ、‥‥
――欲張りで、醜いのよ、‥‥
――そう醜すぎる、片っ端から殺してやろうか?
――残酷ね、‥‥
――残酷ではなく、正しいのだ!
――今も、大勢殺してるの?
――全然!社会は俺に屈辱をせまった!‥‥子供の時から古くさい型にはめようとしたのだ!くだらない本を読ませ、頭に埃を詰め込ませた!そしておれは閉じこもった!‥‥誰とも関わらない!絶対の孤独、絶対的自由、これが俺だ!‥‥俺は決して誰も愛さない!君さえもな、ガランス、‥‥ただ、君だけは憎悪することもないのだが、‥‥
――わたしも、愛してなんかいないわ、‥‥
――では、なぜ会いにくる?
――退屈しのぎよ!しゃべりっぱなしでお芝居みたい、‥‥と、机の上の書きかけを手に捉り、‥‥あら、芝居を書いているの?
――退屈紛れにな、‥‥
――悲劇?喜劇?
――軽い喜劇を、悲劇は嫌いだ!‥‥低俗だ、悪事をせずに殺し合うなんて、愚劣だ!
  
――フュナンビュル座の前。ここはパントマイムの劇場、台の上では四人の踊り子が楽隊に合せ、脚を振り上げて踊っている、‥‥呼び込みの口上、‥‥さあ、お入り!特等席か、天上桟敷か、財布に、とくとご相談の上、さあ、お入り!‥‥出し物は、処女林の危機だよ!またの名を、美徳の罪と題しまする、大無言劇、異国情緒たっぷり、見せ場たっぷり、さあどうぞどうぞ、‥‥
  
――口を開いて台を見つめる野次馬の最前列辺、ガランスもこれに加わって台を見上げる、‥‥台の隅、樽の上に坐るは、ひとりの白ずくめ白塗りの男、‥‥しょんぼりと項垂れて下を見ている、ピエロの化粧、‥‥
  
――アトラス山の、獅子に追いかけられる乙女だよ!山火事、軽気球の脱出作戦だよ、どうぞご覧あれ、‥‥わたくしこと、アンセルム・ドゥビュローも出演いたします、トルコの後宮に招かれて、喝采を博した、このわたくしです、‥‥ただし、こやつは、‥‥と、片隅のピエロの頭を杖でコンコンと打ち、‥‥絶対に、舞台には出しません!何の芸もないんですわ!能なしです、碌でなしでございます、‥‥なんと、わたくしのせがれです!一家の恥でございます、‥‥ある満月の夜、バケツの中に落っこちて、見つけた時にはもう手遅れでございました、‥‥さて、一家の恥はこれまでにして、舞台の方をどうぞご覧ください、見ものですぞ!‥‥しかし、しぶいお方もご安心を!‥‥このせがれの、バチストを無料で残しておきます!‥‥けちん坊の方々は、どうぞこちらをご覧ください、‥‥と、踊り子たちを、せかしながら台を降り、劇場の中へはいる、‥‥後に残るは、台の上のバチストただひとり、‥‥
  
――前列の太った紳士、おい、バチスト!子ができたらひとつくれ、‥‥隣のガランスを振り返って、‥‥間抜けづらですな!ありゃ‥‥
――きれいな目だわ!‥‥
――あれが、目なもんですか!‥‥ポケットを探るが時計がない、‥‥時計!時計がない、‥‥ガランスの腕を捉らえて、この女だ!この女が盗った!泥棒、泥棒だ!‥‥
――放してよ!気が変になったの、‥‥?
――気が変だと!泥棒!警官、警官はどこだ!おお、巡査、‥‥
――何が起こったのですか?
――わたしが、時計を盗ったんですとさ!不思議なことさね、‥‥
――不思議ですと?では、あなたには罪はないと、‥‥?
――子羊のようにね、‥‥
――確かです!この女に盗られました!
――わたしじゃあ、ありませんよ!‥‥
――そうかね!‥‥と、巡査はガランスの腕を捉らえて周囲に呼びかける、‥‥誰か、証人はいませんか?
――わたしが、‥‥!と、台の上からバチスト、‥‥
――お前が?‥‥何か見たのか、‥‥?
――何もかも!‥‥バチストは腰掛けていた樽を降り、巧みにパントマイムを始める、‥‥太った男が、時計をポケットに入れ、やがて台の上に気を取られる、‥‥その横にひとりの男が立つ、そっと手をこの太った男の背中に伸ばし、反対側のポケットに指先を入れて、時計を抜き取る、‥‥そして、素知らぬ顔で立ち去った、‥‥
――何か言うことはあるかね?と、巡査、‥‥
――何も!誰しも間違いはあるもので、‥‥
――間違って罪をお着せになるなんて!もう行きますよ、‥‥
――あなたは、自由です!‥‥
――わたしは、自由が好き!‥‥と、ガランスはにっこり笑い、一輪の赤いバラをバチストに投げる、‥‥
――赤いバラを、受け取って恋する風情のバチスト。
  
――フュナンビュル座。‥‥色男のフレデリックは、俳優志願ながらも一時、フュナンビュル座に身をおくことにして、先ほどの大活躍により舞台に登ることを許されたバチストと、バチストに思いをよせるナタリーとの三人で、にわか舞台を務めて、大いに喝采をあびる、‥‥
――そして、その夜、バチストは、宿無しのフレデリックのために、自分の下宿屋グラン・ルレーを紹介する、‥‥  
――アパルトマンをお望み?‥‥と、フレデリックに訊ねるのは、バチストも定宿にしている下宿屋の女将エルミーヌ、‥‥肉付きがよくて色香もあり、なかなか捨てたものではないが、フレデリックの美貌には、参りましたとばかりに愛敬たっぷり、‥‥すっかり、触れなば落ちんの風情、‥‥
――いや!部屋の方を、‥‥
――残念ね!独身の方には、ぴったりなのに、‥‥
――夜分にお邪魔したのでなければよいが、マダム、‥‥?
――エルミーヌよ!‥‥ご心配なく、夜は本を読んでいますの、‥‥
――恋物語を?
――あら!女のことをよくご存知ですこと、ムッシュ、‥‥?
――フレデリック!‥‥マダム、お先にどうぞ、‥‥
――あなたこそ!‥‥どうぞお先に、‥‥
――おやすみ!フレデリック、‥‥おやすみ!マダム・エルミーヌ、‥‥と、バチストは再び夜の街に出る、‥‥
――こんな夜更けに、‥‥?
――夜ごと、出歩くんですよ、‥‥
――まるで、夜の猫のように?‥‥と、マダム・エルミーヌを後から抱きかかえて、その耳元にささやく、‥‥夜の猫のように、ひそやかに/愛をいざなう、夜の闇の中に/愛と美と、歓びとを慕いて/ひとりおののきながら待つ、裸の女のもとへ/、‥‥
――すてきですわ!フレデリック、‥‥このお部屋でどう?
――いい部屋だ!‥‥
――ダブルベッドなら、隣のお部屋に、‥‥
――ダブルがいい!‥‥と、隣の部屋へ、
――それでは、おやすみなさいまし!鍵はドアに、‥‥
――開けておきます!美人が入ってくるかも知れませんから、‥‥
――あら、美人だけ?お若い方は、気むずかしいこと、‥‥
――マダムが美人でないなどと、誰か言いましたか、‥‥?
――まあ、フレデリックたら!ああ、フレデリック、‥‥
  
――弁護士は、自白するなと奴に言ったんだが、‥‥と、深夜の居酒屋で、犯罪の話をするのは、彼のインテリ強盗のラスメール、‥‥実は昼間、時計をすり盗ったのも、この男、‥‥聞き手はガランスと、ラスメールの手下のアヴリル、‥‥
――面白くなさそうだな?‥‥
――人が死ぬ話ばっかり!‥‥
――人が死ぬんだ!俺じゃない、‥‥真面目な人なら、誰だって皆、死を考えるものだ、‥‥
――愛の話をした方が、まだましよ!‥‥と、帰ろうとする、‥‥
――おい、本当に帰るのか、‥‥?
――もう眠いのよ!退屈したわ、‥‥
――おい、ガランス!俺は絶対しないんだ、‥‥
――絶対、愛さないって言うんでしょう、‥‥?
――お前が欲しい、って言ってほしいのか?自尊心を傷つけろってか!
――わたしが、なびけばいいの?少し不健康じゃない、‥‥?
――残念だ!二人ならば何かできそうなのに、‥‥俺は血の河を流し、君はダイヤの滝を落とす、‥‥
――興味ないわ!
  
――そこに古着屋ジェリコが来て、ガランスの手をとり、美しい手ですな、手相なと見て進ぜよう、‥‥なるほど、旅の相が出ていますな、‥‥
――あら!インドね、きっと、‥‥
――占いはそこまでだ!ジェリコ、‥‥夢判断もするそうだな!やってもらおう、‥‥俺の見た夢では、お前は裏切り者で、役所に出入りしていた、‥‥
――とんでもございません!めっそうもない、‥‥
――告げ口屋!こうもり!ユダ!と、世間では言っているぞ!‥‥
――いえいえ、決して!‥‥世間は口が悪い、‥‥、
――以後、慎んでもらおう!‥‥ジェリコは、おどおどしながら引き下がる、‥‥
――ガランス、君は裏切ってもいい!‥‥その資格が有るのだから、‥‥
――見損なわないでよ!
――いや、裏切るだろう!‥‥しかし、わたしは君を助けることになる、‥‥
――よしてよ、もううんざり!‥‥踊りにきただけなんだから、‥‥
  
――バチストは、夜の探索に疲れ、にせ盲の乞食といっしょに飲みながら話していたが、‥‥これを見て立ち上がり、ガランスの手を捉る、‥‥いっしょに、踊りませんか?
――ガランスは、にっこり笑いながら、バチストとフロアに立つ、‥‥
――いいんですかい?親分、‥‥
――あれは、誰だ?
――パントマイムの役者ですよ!‥‥
――不潔な人種だ!教会も夜に埋葬するような、‥‥
――やりますか?
――好きにしろ!
  
――あなただと分らなかったわ!‥‥気をつけてね、あの人たち悪党よ、‥‥
――平気さ!こんなに幸福なんだから、‥‥
  
――二人の踊りが、ラスメーヌの席に近づく、‥‥ラスメーヌの手下のアヴリルは席を起ち、バチストの背中に手をかけ、‥‥もう止めな!と、言いながら、その胸ぐらを把んで、色ガラスの窓を破って外にたたきだす、‥‥そして、ラスメーヌの席に戻ろうとすると、‥‥
――ドアを、開けて入ってきたのは、すずしい顔のバチスト、‥‥上着の汚れを手で払い、胸から落ちた昼間の赤いバラを、もう一度、丁寧に胸に挿す、‥‥
――アヴリルは、また懲りないのかとばかりに、あなどって胸ぐらに手をのばすが、‥‥その隙をついて、バチストの長い足が、するどく相手の腹を蹴る、‥‥蹴られたアヴリルは、暫く立ち上がれない、‥‥
――情けない奴だ!と、ラスメーヌ、‥‥もう止めろ!女なんかどうでもいいんだ、‥‥それより仕事の話をしよう!‥‥月末には、銀行の集金係が大金を持ち歩くだろう?‥‥それを部屋に呼んで片付けよう!‥‥一部屋借りて、偽の手形を振り出すんだ、‥‥
  
――バチストと、ガランスの二人、‥‥もう遅い!お送りしましょう、‥‥と、そろって外に出る‥‥
――見かけより、強いのね!
――いつも、いじめられていたから!‥‥身を護る術を覚えたんだ、‥‥
――不幸だったの、‥‥?
――不幸なときは寝ていた!‥‥夢を見て、殴られても分からないほど、ぐっすりと、‥‥そして待っていたんだ、‥‥たぶん君を、‥‥
――まあ!
――笑わないで!‥‥たぶん今日、君に花を投げられて、始めて目が覚めるまで、ずっと眠っていたんだ、‥‥
――君は美しい!‥‥特に夜は、瞳の中で光が輝いている、‥‥
――あの小さな街の光よ!‥‥メニルモンタン、‥‥母といっしょに小さな部屋で暮らしていたの、‥‥生まれた街よ、‥‥長いあいだ幸せに、‥‥父が母を捨ててからも、‥‥母は洗濯女をして働いていたわ、‥‥陽気で美しい大好きなお母さん、‥‥死んでしまったの、‥‥十五の時よ、‥‥男たちが、すぐにわたしに纏わり付いてきたわ、‥‥
――ああ、悲しまないで!
――悲しむ?‥‥いいえ、陽気よ!
――笑うとすてきだ!‥‥
――笑うのが、わたしの命!‥‥
――わたしの命は、君だ!‥‥君の名前は、‥‥?
――ガランス、‥‥
――ガランス、‥‥
――あら、振るえているの?寒い、‥‥?
――幸福に、振るえているだけだ!‥‥君がいるから、わたしのそばに、‥‥愛してる!
――子供みたいね!‥‥愛は夢の中のことよ、現実じゃないわ、‥‥
――夢も現実も、同じことだよ!‥‥そうでなきゃ生きてるかいがない、‥‥愛してる!二人は抱き合ってキスする。
  
――送ろう!
――どこへ?
――君の家まで、‥‥
――宿無しなの!住み込みの仕事を止めたから、‥‥
――じゃあ、僕の所へ行こう!
  
――下宿屋グラン・ルレー。玄関で何度も呼ぶが返事がない、‥‥
――起しちゃ悪いわ!‥‥
――おかしいな!‥‥マダム・エルミーヌ、‥‥
――はい、ただいま!‥‥と、乱れた衣服をなおしながら、上気した顔のエルミーヌ、‥‥おや、お嬢さんもご一緒?待たせて、ご免なさい!上に病人が、‥‥でも、もう大丈夫、‥‥それで何がお望み?
――部屋を!‥‥急に雨が降り出して、‥‥
――まあ、雨が?美人ねえ、‥‥三階の十号室へどうぞ!鍵はドアに掛けてあります、‥‥と、ランプをバチストに渡して、‥‥どうぞ、いい夢をご覧なさいまし、‥‥
  
――びしょ濡れだ!
――窓際に着物をかけましょう?じきに乾くわ、‥‥いい部屋ね!でも、何だかさびしいわ、‥‥
――さびしい?
――ひとりで寝るのは、さびしいの!‥‥と、ベッドの上から、さし招き、‥‥ここで朝まで、お話ししましょう?
――ドアの所から、一歩近づき、‥‥フュナンビュル座で働きませんか?
――わたし、何にもできないのよ!‥‥でも足を見せることならできるし、客もきっとそれで喜ぶわ、‥‥
――愛してるんだ、‥‥
――真剣にならないでね!わたしは、あなたの夢みる女とは違うの、‥‥単純なのよ!‥‥あなたが愛してくれれば、わたしも愛する、‥‥ただ、それだけ!‥‥と、ランプの灯を消して、‥‥いらっしゃい!窓から見える月の光がすてきよ、‥‥
――月の光か、‥‥わたしの故郷、‥‥一家の恥が、ある満月の夜、バケツの中に落っこちて、‥‥それ以後、見果てぬ夢を見るだけ、‥‥今も、また夢のつづきを見ているのだろうか?、‥‥ガランス、わたしが愛するのと、同じやりかたで愛して欲しいんだ!‥‥と、ガランスを、抱きかかえそうになるのを、敢て止め、急ぎ部屋を出る、‥‥
  
――隣の部屋では、フレデリックがシェークスピアのオセロの台詞の練習中、‥‥あれの血は流すまい、雪よりも白く、アラバスターよりも滑らかな、あれの肌に傷はつけまい、でも生かしちゃおかれん、灯を消して、‥‥と、本を閉じ、‥‥眠るとするか、‥‥おやすみ!デスデモーナ、‥‥おやすみ!オセロ、‥‥と、寝ようとすると、どこからともなく歌声が聞こえてくる、‥‥わたしはわたし/もともとこうなの/笑いたいから笑うのよ/わたしを好きなら愛してあげるわ/、‥‥
  
――ベッドを降りて窓にかけより、‥‥ガランス!‥‥
――ベッドカバーを身に纏って顔を窓から出し、‥‥フレデリック!
――すてきな衣裳だね!‥‥ここに住んでるの?
――こんな所で会うなんて!‥‥
――好いた者にとっては、パリだって狭いのさ!‥‥ひとりかい?
――そうなの!ひとりぼっち、‥‥
――かわいそうに!‥‥
――もうすぐ夜が明けるわ!太陽は早起きよ、‥‥
――ドアには、鍵をかけて寝るのかい?
――泥棒に、盗られるものは何もないわ!‥‥これを聞いてフレデリックは、部屋を出て、ガランスの部屋に入る、‥‥
  
――フュナンビュル座。新しい出し物を上演中、アンセルム・ドゥビュローの口上、‥‥わたくしの自慢の息子!天下に比類無きバチストの、自作自演による出し物は、題しまして、月に恋する男でございます、‥‥まことにご好評につき、演じつづけること早三週間を越える次第となりました、‥‥料金もまことにお安くなっております、前の桟敷は、一フランと五十スー、天井桟敷は、たったの三十スーでございます、‥‥
  
――今しも舞台ではパントマイムが始まろうとするところ、‥‥舞台中央に月の女神ディアーヌの銅像、実はガランスが身に薄物を纏って立っているだけ、手には小さな弓矢を持つ、‥‥桟敷からじっと見つめるモントレー伯爵と、その取り巻き貴族数人、‥‥
  
――上手からバチスト扮するピエロが現れ、女神像に恋する風情、‥‥満員の客席からは万雷の拍手、‥‥呼び声、‥‥ピエロは花束を女神像に捧げてひざまづくが、女神は応えない、やがて疲れて眠りこけるピエロ、‥‥
――下手からフレデリック扮するアルルカンが現われ、ピエロの抱える花束をそっと取り、女神に捧げる、‥‥それに応えて台を降り、アルルカンに手を取られて下手に消える女神、‥‥
――目を覚ましたピエロは、女神像が無くなっているのに気付き、驚きあわてる、‥‥巡査が現われ、不審なピエロを捕えようと追いかけまわす、‥‥観客の大爆笑、‥‥幕間‥‥
  
――ピエロは、遙かに去りゆく船の上の、女神とアルルカンを哀しく見送り、とぼとぼと歩きつづける、‥‥一本の木の枝にかかる手頃な縄、‥‥それを手に取ると、ひとりの少女が現われて、‥‥それを貸してちょうだい!ピエロの手より縄を受け取り、縄跳びをする、‥‥ようやく戻ってきた縄、‥‥ピエロは縄の一端を木の枝に結びつける、‥‥そこに現われたるはナタリー扮する洗濯女、‥‥その縄に洗濯物を干すんだから、手伝ってちょうだい!‥‥ピエロはもう一端を結びつける木を探すが、少しだけ尺が足らない、‥‥じゃあ、しかたないわ!その端を持って、そこに立っていてね、‥‥洗濯物を地に着けて汚さないでよ!‥‥ピエロは縄を持つ手を、上に挙げたまま、舞台の袖を見る、‥‥と、ガランスとフレデリックが親密そうに話している、‥‥そして、青ざめて呆然と立ち尽くすバチスト、‥‥
――バチスト!‥‥と、パントマイム中に思わず声を出すナタリー、‥‥
  
――楽屋に向う廊下。ナタリーと、バチスト、‥‥
――誰も、悪くないのに!うまくいかないのね、‥‥回転木馬みたい!わたしの愛してるのはあなた、あなたはガランスを、ガランスはフレデリックを、‥‥
――ガランスが、フレデリックを愛してる?
――そうよ!二人はいっしょに暮らしてるんですもの、‥‥
――そうじゃない!愛してるふりをしているんだ!愛じゃない、‥‥
  
――楽屋。鏡台の前のガランスと、フレデリック、‥‥
――ガランスに向かって、‥‥ガランス!‥‥わたしのやさしい夜の小鳥よ!昼間の花よ!黒髪のイゾルデよ!イフゲーニアよ!‥‥
――いつまで続けるの?
――つれない女よ!‥‥愛の声ぐらい、話させておくれよ!‥‥
――愛の声?
――そう、愛の声だ!‥‥スフィンクスよ!何を思うや?
――何にも!‥‥世の中には、黙って通じる恋人たちだっているのよ!‥‥言葉少なに、普通に話すの、‥‥すてきだわ、‥‥
――君は、不幸なんだね?
――あなたもね?
――わたしが?
――冗談で気をつかい、笑わせたり慰めたり!愛とはちがうわ、‥‥わたしも幸福でもなく、不幸でもないだなんて!自慢できないわね、‥‥
――わたしが君を悩ませればいいのかな?‥‥思い出をほじくり、身辺を探り、嫉妬に狂って、君を責めればいいのかな?‥‥誰の夢を見ているのか、と問いつめたりして、‥‥いや、そんな必要もないか、‥‥
――なぜ?
――君は、寝言を言うから、‥‥
――何て、言ってた?
――つまらんことさ!‥‥バチスト、と言ってたね、‥‥
――わたしが、バチスト、って言ってた?
――そう、バチスト、と言ってた、‥‥
――その他には?
――何にも、‥‥ただ、バチスト、とだけ、‥‥しかし、それだけでも、わたしを絶望させるのには十分だ!‥‥オセロが、デスデモーナを殺したのも、つまらない、取るに足りない物のためだった!‥‥一枚のハンカチのために‥‥そう、またしてもバチスト(麻)のハンカチだ!‥‥楽屋から出て行く、‥‥
  
――楽屋。鏡台の前のガランス。大きな花束を抱えて誰か入ってくるが、花束が大きすぎて誰だか分からない、‥‥ガランスさんに、このお方が是非にと、‥‥後から、エドゥアール・ド・モントレー伯爵が現われる、‥‥
――あら、こんなに大きな花束!誰か、お亡くなりになったの?
――そう、亡くなりました!何事も、思いどおりになる、と信じていた男が、‥‥あなたのために、‥‥
――まあ!恐ろしい女ですこと、‥‥
――そして、別の男に生まれかわりました!‥‥あなたのために、何もかも捧げる別の男にです、‥‥
――何をなさりたいの、‥‥?
――あなたの、お心のままに!‥‥あなたのために心を打たれました、‥‥何もかも捧げます!生活が一変しましょう、‥‥パリ中の女が、皆羨むダイヤモンドも、豪華な馬車も、‥‥
――馬は怖いわ、‥‥
――お願いです、ご返事を、‥‥
――欲しくないのに、‥‥?
――せめて希望だけでも、‥‥
――皆の羨むダイヤモンド?豪華な馬車?元々持っているものならともかく、‥‥生活が一変する?この生活が好きなの!わたしの貧乏を心配してくれているの?大きなお世話よ!‥‥誰かが、わたしを愛してくれ、わたしもその人を、‥‥
――ありえません!あなたの美しさを愛するにふさわしい者など、ありえません!ただ、その美しさを求めているだけです、‥‥
――あなた、女たらしなの?
――とんでもない!ただ、あなたに避難所を捧げたいのです、‥‥
――避難所を?
――失礼いたしました!お許しください、‥‥思わず、取り乱してしまったようで、‥‥あなたの美しさに打たれて、‥‥申し遅れました!わたくしはモントレー伯爵と申します、‥‥と、一枚の名刺を取り出だして、ガランスに渡し、‥‥どうぞ、お持ちください!災難は人、時を選びません!お役に立つこともあろうかと存じますので、‥‥その時は、わたくし身命を投げうって、お力になりましょう、絶対的に、信頼なさっていてけっこうです!‥‥と、伯爵は、一礼して去る、‥‥
  
――下宿屋グラン・ルレー。中庭の奥にある二階の一室、カーテンの影から外を伺う人影、‥‥実は代書屋強盗ラスネールが、銀行の集金人を待ち構えているところ、‥‥
――フォレスチエさんは?‥‥下宿屋の入り口で、隣の女と立ち話をしているマダム・エルミーヌに、ラスネールの偽名を言って訊ねる銀行の集金人、‥‥
――奥の二階ですよ!‥‥
――カモが来たぞ!‥‥と、ラスネール、‥‥ぬかるなよ!‥‥
――少し振るえてるんだ!‥‥と、手下のアヴリル、‥‥
――いいから、ドアをあけたら殴れ!最後は俺が片付ける、‥‥
――集金人が奥の二階へ上がるのを見ながら、‥‥フォレスチエさんは、いつもお留守なの、‥‥と、エルミーヌ、‥‥まだ、家具も届いていないのに!‥‥今日から、お住みになるのかしら、‥‥?
――どんな人?と、エルミーヌの話し相手。
――立派な方よ!ただ、ガランスさんと話していらっしゃったわ、‥‥
――ガランスさんが、お嫌いなのね、‥‥?
――あばずれよ!フレデリックさんを丸め込んでね、‥‥でも、二階にいい人が来てくれて、これで雰囲気も改まるでしょう、‥‥
  
――人殺し!人殺しだ、‥‥と、叫び声、‥‥ラスネールと、アヴリルが急ぎ足に出てくる、‥‥
――何事なんですの?
――喧嘩ですよ!わたしは警官を呼んできます、‥‥と、言って走り去る、‥‥ラスネールは、アヴリルがドジを蹈んだため、強盗に失敗し、二人はパリを、別れて脱出する、‥‥
  
――下宿屋の玄関の間。集金人が警視に、その武勇伝を語っている、‥‥ライオンのように闘いました!‥‥
――警視は、マダム・エルミーヌに向かって、‥‥その男は、ガランス嬢の知り合いですか?‥‥
――立派な方のように、お見受けしたんでございますがね、フォレスチエさんは、‥‥しかし、ガランスさんは、知らないって仰ってます、‥‥きっと、とぼけてらっしゃるのね、‥‥
  
――外から帰ってきたガランス、野次馬に向かって、何かあったの?
――誰かが四階から、突き落とされたって、皆言ってますよ、‥‥
――中に入ろうとするガランスを、巡査が止めて、立ち入り禁止です!
――ここの住人よ!‥‥
――それなら、どうぞ!
――マダム・エルミーヌは、ガランスを指さし、あの女です、‥‥
――警視付きの巡査も、ガランスに目を止め、あの女だ!時計の件で放免した女です、‥‥
――警視は、ガランスを呼び止めて部屋に入れ、‥‥いいから、坐りなさい!‥‥あなたの名前は?
――ガランス、‥‥
――変な名前だ!‥‥本名ですか?
――呼び名よ!‥‥本名はクレール、‥‥
――名字は?
――捨て子だったから、無いわ!‥‥
――職業は?
――芸人、‥‥
――どこで、いつから?
――フュナンビュル座、三週間前から、‥‥
――渡り鳥か!‥‥その前は?
――モデルを、‥‥
――誰の?
――アングルさんとか、‥‥
――どんなポーズを?‥‥
――そんな失礼な質問を!‥‥と、意地の悪い質問に口をはさむ集金人、‥‥
――取り調べです!
――取り調べは、もう十分のはずです!
――ガランスは、集金人を見て、‥‥誰かを突き落としたっていうのは、この人なの、‥‥?
――ふざけるな!
――わたしが、何をしたっていうの?
――すぐに、わかるさ!‥‥まず、フォレスチエさんっていうのは、いったい何者ですか?
――フォレスチエさんなんて、知らないわ、‥‥
――では、これならどうですか?‥‥調書を読みながら、‥‥黒ずくめの服装、白い上等のシャツ、‥‥白いシャツだ!これなら分かるだろう、‥‥
――洗濯女もしたことありますよ、‥‥五万といるのよ!白いシャツの人なんか、‥‥
――それなら憶えています!‥‥と、巡査、この女といっしょに、時計を盗んだ男です、‥‥
――まさか!‥‥無実と分かって、放免したんじゃあなかったの?
――よせ!時計なんか、どうだっていい、‥‥謀殺未遂だ!共犯でも四、五年は下るまい、‥‥と、ガランスの頷に手をやり、観念しな!‥‥
――さわらないで!無実よ、‥‥
――無実かね?‥‥もういい、逮捕だ!ふん縛ってしまえ、‥‥
――壊れ物よ!気をつけてね、‥‥わたしのことは、ご存じなくても、‥‥と、ガランスは、バッグから一枚の名刺を取り出し、‥‥この方なら、ご存知でしょう、‥‥?
――モントレー伯爵の、名刺を食い入るように見つめて、顔色を変える警視‥‥
  
――第一部終り――
 
  
  さて、ここまでが物語の前半、第一部です。少々長くなりましたが、何しろ総上演時間が三時間十五分という大作ですので、粗筋といっても、少しぐらい長くなるのは、やむを得ないところでしょう。このように、枝葉をすべて刈り取ってしまい、ただ太い幹のみを残しますと、この映画のテーマ、即ち言いたいことが、手に取るように見えてくるように思えるのですが、皆様にはいかがでしょうか、‥‥
  さて、ここまでに、物語の因果関係でいうと、"すべての因が集った"、ということになるのですが、皆様方には、後半の第二部、因果関係の中の、"果がすべて熟した"というところまで、どうか、ご辛抱願いたいものと思うのであります。
  そこで、そう願えるものと信じて続けますと、ここまで特に注目すべきは、ガランスという女性の一種独特の性格であります、またラスネールという男も、単純ではありますが、物語の上では、その性格が極めて重要となってきます。この辺を、再度ご確認の上、次の第二部へ進んでいただきたいと思います。ただし、第二部は、果の熟す所のみを描写するにとどめて、更に枝葉を刈り込んで短くしますので、細部の面白さは、酷く失われることになります、しかしそれも、やむを得ないこととして、ご了承くだされば幸いです、‥‥
    
   
  ≪天井桟敷の人々≫
  
○第二部白い男
――数年が流れた、‥‥
――パリ。犯罪大通り。
――グラン・テアトル座。フレデリックは、今ではこの劇場の人気俳優、三人の劇場付き作家の書く台詞を、自在に削ったり付け加えたりして、常に、めちゃくちゃに改変して演じているが、それがまた観客には大受け、‥‥ついには、頭に来た作家から、決闘を申し込まれるしまつ、‥‥
――フレデリックの楽屋。フレデリックがファンに囲まれながら、楽屋に入り、ドアを閉め、鍵を掛けて振り向くと、見知らぬ男が自分の椅子にいる、‥‥実は、これラスネールが金をゆすりにきたところ、‥‥決闘を明朝にひかえて、気分が高揚するフレデリックは、大金を与えて、いっしょに酒を飲み、二人は意気投合する、‥‥
――明朝、林の中の決闘場。三人の劇場付き作家は、介添人を従えて待っている、‥‥フレデリックは、ラスネールと、その手下のアヴリルとの二人を決闘の介添え人として、酒でへべれけになりながら、その場に馬車で乗り込む、‥‥
  
――グラン・テアトル座は、フレデリックが腕を負傷して本日休演、‥‥――フレデリックは、腕を黒い布で首から吊し、ぶらぶら、大通りを歩いてくる、‥‥フュナンビュル座の前、‥‥切符は売り切れ、‥‥それでもちょっとでも何か見えないかと入り口をのぞき込む客で、黒山の人だかり、‥‥
――フュナンビュル座の切符売りの男、‥‥おや!フレデリックさん、‥‥お怪我ですか?‥‥
――ちょっとね!鳩につつかれて、‥‥
――で、今夜は休演というわけで?‥‥何でも、昨夜は大盛況だったとか、大変な噂ですよ!‥‥バチストの方も、このところ売れにうれて、パリ中で切符の奪いあいでさぁ、‥‥
――わたしの席は、頼めるかね?
――それがねぇ、‥‥あっそうだ!実は社交界のご婦人が、毎晩お忍びでいらっしゃってるんですがね、‥‥その方に、お願いできるか、どうか、‥‥と、フレデリックを案内して、とあるボックスのドアを開け、‥‥奥様!申し訳ございません、‥‥怪我をなさった方ですが、どうか隅のお席をお貸しくださいまし、‥‥
――切符売りに導かれるまま、ボックスの中に入ったフレデリックは、ベールに包まれた顔を横から見て、‥‥ガランス!‥‥
  
――豪華な衣裳に身を包んだガランスが、あでやかに振り向く、‥‥あら!フレデリックさん、‥‥なぜ、ここに?
――好いた者には、パリも狭いのさ!‥‥それにしても、フレデリックさん、とは!‥‥ああ、デスデモーナよ!不実の女よ!‥‥ある日、突然、姿を消して、もう何年も行方知れず、‥‥それでフレデリックさん?‥‥待ってたんだぞ!フレデリックさんはな、‥‥
  
――変らないのね!
――ガランスさんもね!‥‥いや、君は変ったよ!どことなく‥‥
――上品にでしょう?‥‥お怪我なさったの?
――なに、もう治ったよ!‥‥しかし、癒えぬ傷もある!自尊心の傷が、‥‥そうか、やっぱり伯爵といっしょだったのか?‥‥それで、どこへ行っていたのだ?‥‥インドか?
  
――インドも行ったけど、‥‥主にスコットランドね、‥‥
――スコットランドは、どうだった?‥‥
――好いところよ!でも遠いわ、‥‥わたしは、パリが好き、‥‥
――パリと、その思い出がか?、‥‥それで毎晩お忍びで、バチストを観にくるんだな!フレデリックさんだって、毎晩舞台にお立ちだっていうのに?‥‥と、嘆いてみせるフレデリック、‥‥舞台のバチストを観て、歓声をあげる観客の声、‥‥
  
――わたしも、昔はよく笑ったわ!大声を挙げて、‥‥
――今は、悲しいのかい?‥‥
――いいえ!悲しくもないし、楽しくもない、‥‥古くなったオルゴールのよう、‥‥同じ曲を奏でていても、古びた音色がするの、‥‥舞台では、酬われない恋人を演ずるバチストが、舞踏会に入るための礼装を得ようと、古着屋を殺して衣裳を奪おうとしている、‥‥
  
――変ね!あの人が、あんなに残酷な目をしている、‥‥
――まだ、彼を?
――あの日から一日として、あの人を想わない日はなかったの、‥‥
――彼には、知らせたのか?
――いいえ!もう別の人生だもの、‥‥
――胸が傷むねぇ!笑わせるんじゃないよ、‥‥
――どうかしたの?
――嫉妬かな?こんな気持ちは初めてだ!‥‥抜き打ちとは、‥‥不愉快だ!‥‥しかし、この嫉妬は役に立つぞ!ついに、オセロを演じることができそうだ‥‥バチストにも会って、礼を言うことにしよう!‥‥と、ボックスを出ようとして、振り返り、‥‥何か伝言は?‥‥
――およしなさいよ!
――まじめに話すだけだ!嫉妬はしても、分別を無くしたわけじゃない、‥‥それに、彼は結婚して、子供もいる身だ、‥‥それにつけても、もうひとりの男の方は、‥‥では、行くよ!
――ひとことだけ!伝えてちょうだい、‥‥わたしは、すぐに発つけど、挨拶できたら、嬉しいって、‥‥
  
――楽屋。アンセルム・ドゥビュロー扮する古着屋から、奪い取った礼服に着替えるバチスト、‥‥フレデリック!‥‥
――バチスト!‥‥
――肩に手をかけて、‥‥よく来てくれたね!‥‥
――そう、わたしの方から、先に観に来たよ!‥‥
――先に?僕は、もう何度も君の舞台を観たよ!‥‥
――楽屋にも、訪ねずに?‥‥
――遠慮したんだよ!相手が偉大すぎてね、‥‥
――まさか、君こそ、名優だよ!パントマイムのすべてを創造したんじゃないか、‥‥
――とても、嬉しい!
――伯爵夫人の衣裳を着けたナタリーを見て、‥‥ナタリー!‥‥君か?美しくなった、‥‥
――美しくなったんじゃあないわ!ただ、幸福になっただけ、‥‥
――幸福は、美と一致するものさ!‥‥大道具の馬車の中に一人で遊ぶ五、六歳の子供を見て、‥‥おや、この子かい?‥‥坊や!名前は?‥‥
――バチスト!‥‥
――そうか!同じ名か、‥‥
  
――古着屋ジェリコが、売り物の衣裳を持って現れる、‥‥古着屋のジェリコでござい!‥‥
――バチストは不愉快な表情を浮かべて、‥‥行こう!あいつを見ると気が滅入る、‥‥
――古着屋が、アンセルム・ドゥビュローに向かって、‥‥やい!この、‥‥恥を知れ!よくも俺をモデルにしたな、‥‥
――パリの古着屋は、お前だけじゃない!‥‥それに、あれはお前から仕入れた衣裳じゃないか、‥‥
――坊やまで!わしを嫌うのか、‥‥挨拶をしないか?‥‥それにバチストも、わしを嫌っておるような、‥‥
――余計な、お節介をやくからよ!‥‥と、ナタリー、‥‥
――それこそ、余計なお節介じゃ!‥‥ナタリーの側により、声をひそめて、‥‥話がある!これもお節介じゃが、お前のためだ、‥‥
――じゃあ、およしよ!‥‥
――いいから、お聞き!‥‥ガランスが来てるんじゃ!二階の七号ボックスに、‥‥バチストを待っているんじゃないか?‥‥
――ガランスが?‥‥
――そう、七号のボックスに、‥‥忘れなさんな!‥‥と、顔にいやな笑みを浮かべて去ってゆく、‥‥
――ナタリーは、馬車の中の子供に向かい、‥‥バチスト!‥‥
――ママ!‥‥
――よく、聞くのよ!‥‥
  
――楽屋から舞台に通じる廊下。フレデリックは、バチストに向かい、‥‥いっしょに働いていた頃が、懐かしい!‥‥思い出さないかい?
――ああ、懐かしい思い出だよ!‥‥
――じゃあ、もう恨んでいないんだな?‥‥
――何を?‥‥
――ガランスのことを、‥‥
――ガランス?‥‥もう昔のことだ、‥‥
  
――七号ボックス。ノックの音。‥‥どうぞ!‥‥ドアが開くと、小さなバチストが立っている、‥‥
――あの、‥‥お言づてです!‥‥ボク達は、しあわせに暮しています、‥‥
――パパが、そう言えって?‥‥
――いいえ!ママが言ったの、‥‥パパもママと同じだって!、‥‥ママが言ってたよ!‥‥
――なんて?‥‥
――きれいな人がいるって!‥‥ボク、結婚する時は、おばさんみたいに、きれいな人がいい!‥‥でなきゃ、ママみたいな人、‥‥
――いい子ね!坊や、‥‥
――おばさん、結婚してる?‥‥
――いいえ!‥‥
――子供はいないの?‥‥
――そう!子供はいないの、‥‥
――じゃあ、ひとりっきりなの?‥‥
――そう、ひとりっきり、‥‥
  
――舞台の袖。出番を待つバチスト、‥‥舞台では伯爵夫人に扮するナタリーが踊っている、‥‥
――バチストの出番が近づくと、フレデリックが、バチストの耳に、そっとささやく、‥‥毎晩、君を観に来る女に、気が付いていたか?‥‥それとも、女なんか慣れっこか?‥‥早く言えばよかったんだが、‥‥ガランスなんだ!‥‥彼女は今パリにいるが、じきに発つので、その前に君に会いたいんだってさ!‥‥
――舞台監督の叫ぶ出番の声。バチストは舞台に出て、ナタリーと踊り始めるが、すぐに立ち止まってしまう、‥‥
――ナタリーは小声で、‥‥どうかしたの?‥‥
――バチストは、身をひるがえして舞台から走り去る、‥‥
――バチスト!‥‥と、思わず叫ぶナタリー、‥‥劇場騒然、‥‥
――七号ボックス。ドアを開けるバチスト、‥‥すでに、人影はない、‥‥
  
――モントレー伯爵の邸。フュナンビュル座から、ガランスが帰ってくる、‥‥玄関の間は、何本も柱が建ち並び、馬蹄形の階段を有する豪壮な造り、‥‥
――ガランスが、階段を上り、廊下までくると、そこにラスネールが待っている、‥‥久しぶりだな!‥‥
――ピエールフランソワ!‥‥と、ラスネールの名を呼ぶ、‥‥
――何に?‥‥ピエールフランソワ?‥‥変名を使いすぎて、すっかり本名の方を忘れていたよ!‥‥警察は何も知らないが、俺は何もかも知っているよ!‥‥君が、いつ戻ったのか、も‥‥誰と、どこで暮しているのか、も‥‥
――何も、隠せないの?‥‥
――俺の天使が、豪華な檻に飼われていることも!‥‥しかし、なぜ笑わない?‥‥昔は、よく笑ったものだが、‥‥久しぶりに会うのが、不愉快なのか?‥‥
――まさか!会いにきてくれて、うれしいわ、‥‥昔を、思い出すわね、‥‥
――昔を、思い出す?‥‥
――ええ!昔はよかった、‥‥幸福な日々、甘い生活、‥‥
――気をつけろよ!過去を振り返ると、碌なことはないからな、‥‥
――幸福になれたかも知れないのに、‥‥
――そういえば、フュナンビュル座の、あの白い男!俺は、あれを殺そうと思ったこともあったよ、‥‥滑稽だな!月に斬りかかるようなものだ、‥‥それから、フレデリック!‥‥こいつは殺す口実を設けて、わざわざ出かけていったが、‥‥だめだった、‥‥
――なぜ、だめだったの?
――金を出せって言えば、断るかと思ったのに、大金を出してきたからさ!‥‥
――無欲な方ね!
――無欲な方?たかが役者だ、方はなかろう、‥‥方っていうのは、社交界のことばだ、‥‥モントレー伯爵を呼ぶにはそれでよかろうが、‥‥
――変ったわね!昔は、自分のことばっかり話してたのに、‥‥
――今では、俺も有名になった!犯罪の方でな、‥‥警察が血眼になって、俺を捜している、‥‥
――大物なのね!‥‥
――文学の方で、大物になってたらな、‥‥
――欲だけは、相変わらずだわ!‥‥
  
――伯爵は、芸術家のパトロンだと聞いたが、‥‥お会いしたいものだ!
――利用するの?
――いや、ただ見たいだけだ!俺の天使を富の力で奪った男を、‥‥
――わたしは、自由よ!‥‥買われた身でも、自由なの、‥‥
――そうだろうよ!昔と変らぬ君だからな、‥‥いっそ金で汚されて、身も心も堕落していてくれたらなあ、‥‥その方が、まだましだ!俺の心が乱されずにすむ、‥‥
――かわいそうに!ピエールフランソワ、‥‥
――俺は怪物か?‥‥
――あなただけじゃないのよ!‥‥と、言い、奥の間へ去る、‥‥
――残念だな!‥‥ラスネールは、ステッキを振り回しながら、階段を降りる、‥‥その時、玄関のドアを召し使いが開け、モントレー伯爵が入ってくる、‥‥
――階段で無言ですれ違う二人、‥‥ラスネールは伯爵を振り返り、‥‥伯爵ですな?‥‥
――そうですが、‥‥
――ぜひ、お会いしたかったのだが、‥‥
――面白くて、また意外でもありますな!‥‥ぜひ、お名前を、‥‥
――名のるような、名はありません!‥‥
――不愉快な態度ですな!‥‥あなたは、何者です?
――何者とは、また不愉快な!愚問ですな、‥‥
――何と、お答えを?‥‥
――無礼な問いに、答えろと?‥‥つまり、おざなりに姓名、肩書きを名のれと、仰るので?‥‥しかし、真の自分を、語る者など、決して有りませぬぞ、‥‥
――あなただけのことでしょう?‥‥
――誰しもです!身も知らぬ他人に向かって、何者とは、‥‥非常識極まる!‥‥
――けっこう!場所の指定をどうぞ、‥‥
――愚劣ですな!わたしは決闘はしません、決して、‥‥
――正体を現しましたな!‥‥
――ただし、常に武器は自分のを使います!このとおり、肌身離さず持っていますので、‥‥と、服の裾を少しまくり、匕首をちらりと見せる、‥‥
――それは、便利でしょうな!‥‥では、もうお話しはありませんね、‥‥と、執事を呼ぶ、‥‥ヴァランタン!‥‥
――おとなしく、たたき出されはしないぞ!‥‥
――ご心配なく!老人の執事です、‥‥ヴァランタン!お見送りを、‥‥戸口で、振り返るラスネール、‥‥
  
――ガランスの部屋。ガランスの歌が聞こえる、‥‥ドアをノックをして、中に入る伯爵、‥‥ガランス!‥‥
――鏡台に向かったまま、‥‥お帰りなさい!‥‥
――どうしました?わたしが留守の時に歌っていながら、わたしが帰ると止めるのですか、‥‥
――こんな歌は、お嫌いでしょう?‥‥
――好みの問題ですからな!しかたありません、‥‥今夜は、どこへ行かれたのですか?‥‥
――フュナンビュル座へ、‥‥
――またですか?‥‥
――あなたは、あのおぞましい闘犬見物?‥‥
――おぞましいなどと、‥‥単なるゲームですよ!‥‥明日も、フュナンビュル座ですか?‥‥
――もう、行きませんわ!‥‥
――それは、けっこう!‥‥
――わたし達が、知り合った劇場よ!‥‥
――フュナンビュル座へ通われるのは、そのためですか?‥‥
――いいえ!‥‥
――残念ですね!ところで、今の人は、どなたですかな?‥‥フュナンビュル座にも、ごいっしょに行かれたのですか?‥‥
――いいえ、昔なじみ!挨拶に寄ってくれましたの、‥‥
――変った方ですね!何者ですかな、‥‥
――作家よ!ありのままに言えば少しは泥棒もし、人殺しも少しはしたとか、‥‥
――昔、あの男と何かあったのですか?‥‥あなたを、信じてはいますが、‥‥
――あなたに、嘘をついたことは、ございませんわ!‥‥
――確かに!しかし、‥‥できれば、もう会いたくないのですが、‥‥役者なら、まだしも!泥棒や、人殺しには、‥‥不愉快になりますのでね、‥‥
  
――去年、あなたはスコットランドの青年と決闘なさいましたわ!‥‥
――しましたが、それが何か?‥‥
――射撃の、下手な方でしたわ!‥‥
――すぐに、分りました!‥‥
――それなのに、お殺しになったのね!‥‥
――名誉の、問題ですから!‥‥
――わたしが、笑いかけたから?‥‥
――そうでした!しかも、人の見ている前で、‥‥
――思い出して笑っていたのよ!他の人を、‥‥
  
――分かってください!‥‥と、ガランスの、手に口をつけ、‥‥わたくしを、愛していただきたい!‥‥もう、苦しめないで、‥‥わたしは、あなたのために何でもできます、‥‥
――わたしのために?ずいぶん勝手な言い分だわ、‥‥
――愛しているのです!‥‥
――それで、何がご不満なの?‥‥
――わたしを、愛してほしいのです!‥‥
――愛していますよ!魅力的で、お金持ちで、才気もあり、人には尊敬され、女性には騒がれ、皆様に愛されていらっしゃいますよ、‥‥わたくしも、同じですわ、‥‥
――言わないでくれ!よくご存知のはずだ、‥‥
――おかしなことを、仰るのね!貧乏人と同じように愛されたいだなんて、‥‥貧乏人にも、何か少しは残しておかなくては!何もかも奪うものじゃないわ、‥‥
――分かってほしい!‥‥
――分かっています!お望みどおりにいたしましょう、‥‥何でしたら、パリ中に触れてまわりましょうか?あなたを愛していますと、‥‥ただ、あなただけには、はっきり申しますが、わたしは、ある人を愛しています、‥‥その人に会うために、パリに戻ったのですが会えませんでした、‥‥今、わたしの考えるのは、再び旅にでることだけです、‥‥
  
――下宿屋グラン・ルレー。この一室にバチストが閉じこもっている、‥‥マダム・エルミーヌが食事を運んでくる、‥‥
――お食事ですよ!食べなくてはだめよ、‥‥皆さんが、探していらっしゃいますよ!フュナンビュル座の人たちや、奥様が‥‥、
――今日は、何曜日だ?‥‥
――木曜日ですよ!フレデリックさんのオセロの初日です、‥‥気晴らしに、行っていらっしゃいな!‥‥あら、すみません、‥‥
――いや、いい!オセロか、‥‥いいパントマイムにできそうだ!愛する女を殺して、自分も死ぬ、‥‥愚かしくも、悲しい!数年前のわたしのようだ、‥‥あの人は、この部屋で微笑んで、こう言った、‥‥単純なのよ!あなたが愛してくれれば、わたしも愛するだけだって、‥‥それなのに、それに耳をかさなかった!抱こうともしなかったのだ‥‥人の愛に注文をつけて!永久に二人を隔ててしまった、‥‥ああ、こうしていると狂いそうだ!外に出てオセロでも見てこよう、‥‥
  
――マダム・エルミーヌが、そっと階下に降りると、表にナタリーが待っている、‥‥どう?何か食べた?‥‥
――これから食べるとこ、‥‥と、エルミーヌは安心させる、‥‥
――あの人は、そっとしとく方がいいみたい!‥‥屋根の上の夢遊病者のように、へたに呼ぶと落ちてしまうの、‥‥バチストも同じよ!そっと目を覚ますまで待っているの、‥‥そうしたら、きっと帰ってくるわ!‥‥
  
――グラン・テアトル劇場。フレデリックがオセロを演じている、‥‥二階のボックスの中に見える二人の人影はガランスとモントレー伯爵、‥‥平土間にはラスネールの顔も見える、‥‥
――モントレー伯爵は、今演じられているオセロを評して、‥‥格調がありませんね!大仰で過激だ、‥‥これがシェークスピアですか?‥‥
――あなたが、わたしを連れてきたのよ!‥‥
――ちょっと、わけがありましたので!‥‥
――ドアをノックする音、‥‥どうぞ!‥‥大きな花束が届く、‥‥
――花束に付けられたメッセージを、伯爵が声を出して読む、‥‥ありがとう!デスデモーナ、‥‥オセロより、‥‥
――何かの間違いよ!‥‥
――何もないのですか?あなたと、オセロに、‥‥
――間違いよ!絶対に、‥‥
  
――幕間。楽屋へ通じる廊下。ガランスが、止めるのも聞かず、楽屋へ向うモントレー伯爵、‥‥
――ただ、あの名優に挨拶するだけです!‥‥
――それなら、ここでお別れよ!‥‥
――あの男ともな!‥‥
  
――ガランスは、伯爵を見送る、‥‥ふと振り向くと、そこにバチストが立っている、‥‥バチスト!‥‥
――バチストは、ガランスの腕を取り、‥‥行こう!‥‥
――どこへ?‥‥
――分からない!どこかへ、‥‥二人はフランス窓から、誰もいないベランダに出る、‥‥
――その二人を、じっと見つめるラスネール、‥‥
  
――楽屋の前。モントレー伯爵と、その取り巻きの数人の貴族、‥‥、顔を黒く塗ったオセロの扮装で楽屋に入ろうとするフレデリック、‥‥
――モントレー伯爵は、フレデリックを呼び止めて、‥‥ああ、残忍な役を、見事に演じられましたな!‥‥
――いや、シェイクスピアの書いたままに演じているだけです!‥‥
――奇怪ですな!シェイクスピアは、ただ肉を切る場面を書くのみで名声を得たとか、‥‥
――まさしく!そのとおりですな、‥‥
――そのせいですかな?その戯曲には品がなく、人足や馬方に好まれているとかいうのは、‥‥
――その他に、王にも好まれています!‥‥
――道理で、不快な芝居でした!明晩は馭者を寄こすことにしよう、‥‥
――馬のために、特別席を用意しておきましょう、‥‥
  
――ベランダ。バチストと、ガランスは抱き合って話している、‥‥
――バチスト!あなたには、もう会えないかと、‥‥
――ああ、ガランス!わたしこそ、もう永久に、‥‥
――忘れなかったわよ!夢にまで見たわ、‥‥年もとらず、堕落もしない空虚な生活!孤独でも、悲しくなかったわ、‥‥あなたが、常に愛してくれたから!‥‥
――今もだ!愛してる、‥‥ずっと、愛し続けて、‥‥君は?いや、答えなくていい、‥‥何もいらない!君がいるだけでいい、‥‥と、二人はキスしながら強く抱き合う、‥‥それをベランダの暗い片隅で、ラスネールが見ている、‥‥十分に見届けると、口元に笑みを浮かべ、伯爵とフレデリックのところへ向う、‥‥
  
――おめでとう!フレデリック、すばらしいできだった、‥‥
――ご紹介しましょう!‥‥と、フレデリックはラスネールを、伯爵に紹介しようとする、‥‥
――その方なら、すでにお会いしました!‥‥いやになるほど、‥‥
――それは面白い!実は、この紳士方に喧嘩を売られていてね、‥‥
――恐らく、ひまつぶしでしょうな!‥‥
――この友人は、最近知り合ったばかりですが、才能が、非常に豊かですよ!‥‥
――豊かですと?‥‥
――創造に必要な才能です!もちろん破壊にも、‥‥と、ラスネール、‥‥
――なるほど!しかし決闘はなさらない、‥‥
――絶対に!‥‥
――現在は、どの方面の創造に、才能をお使いですか?‥‥
――劇を書いています!今は最後の章、死の場面です、‥‥
――悲劇を?‥‥
――通俗劇、喜劇、茶番劇、何と仰ろうとけっこうです!もちろん悲劇とも、‥‥皆、違いはない!ただ王が裏切られるのを、悲劇と呼ぶのです、‥‥
  
――王の悲劇は、運命ですね?‥‥と、フレデリック、‥‥
――そうです!王の場合は運命です、‥‥しかし、わたしや伯爵など、哀れな者の場合は、‥‥ここでわたしを入れたのは、言葉のあやですがな、‥‥この場合は、断じて悲劇ではない!通俗劇、道化芝居であり、寝取られた亭主の滑稽譚に過ぎません、‥‥モントレー伯爵は、それを聞いて、言葉を失い顔面蒼白、‥‥
――しかし、王でも、夫でも、額に生える嫉妬の角は同じですな!愛が冷める時、腐って落ちるあの角はね、‥‥と、フレデリック、‥‥
――そのとおりです!角も同じ、愛の物語も同じ、涙も同じです、‥‥ただ、面白い劇でありさえすればよい!作者が笑えるような、‥‥
――上演されまい!‥‥と、取り巻き貴族の中の一人、‥‥
――ご安心ください!じきに、上演されますぞ、‥‥いや、もうすでに上演中です、‥‥
――面白い!‥‥、と、先の貴族、‥‥
――そうです!実に面白い、‥‥だが、殺人があります!しかも幕が下りても役者は立ち上がりません、‥‥
――うるさい男だ!君たち、叩き出してはどうかね?‥‥と、伯爵、‥‥
――それは名案だ!‥‥と、取り巻き貴族たち、‥‥
――二人の貴族に胸元をつかまれるが、憤然として振りほどき、‥‥俺はなあ、屈辱に甘んじるような男じゃないぞ!‥‥通俗喜劇の役者は俺じゃなく、お前だ!‥‥見せてやろう!‥‥と、窓際に走りより、さっとカーテンを開く、‥‥ベランダで抱き合うバチストと、ガランス、‥‥
――二人は、驚いて振り向く、‥‥
――なんてことをするのだ!‥‥と、詰め寄るフレデリック、‥‥
――関係ない!‥‥と、カーテンを締める伯爵、‥‥
――実に、よい場面だった!よく味わいましたかな?‥‥これも、わたしを叩き出そうとするからですよ!‥‥
――モントレー伯爵は、フレデリックに、‥‥あなたには、無関係でしょう!‥‥
――なぜです?嫉妬は、すべての男に共通ですぞ!‥‥
  
――ベランダ。ガランスは、楽屋の様子を覗いながら、‥‥決闘するわ!わたしのせいで、‥‥でも、今夜は、大丈夫!今夜は、わたし達のもの、‥‥二人だけのものよ!‥‥
  
――モントレー伯爵は、フレデリックと作法どおりに決闘の約束を交わしている、‥‥邸に不在の時は、トルコ風呂で見つかるはずです!‥‥
――では、立会人を二人、そちらへ差し向けましょう!‥‥と、フレデリック、‥‥
  
――下宿屋グラン・ルレー。バチストの部屋。
――見て、バチスト!‥‥月の光が!何も変っていないのね、‥‥
――あなたも!変っていない、‥‥その瞳の中の、美しい光も、‥‥
――二人は抱き合い、ベッドに横になる、‥‥
――心臓の、鼓動が聞こえる!‥‥
――バチスト!‥‥
――君のいうとおりだ!ただ、愛すればよかったのだ、‥‥

――トルコ風呂。フレデリックの差し向ける二人の立会人、実はラスネールと、アヴリル、‥‥黒人の受付係に向かって、‥‥モントレー伯爵に面会だ!‥‥
――伯爵は、お休み中ですが、‥‥
――約束している!‥‥
――では、ご案内しましょう、‥‥
――奥の広い個人浴場。伯爵はローマ時代の貴族のような、白く豪華な長い布を身体に纏い、数本の石柱が建ち並び、蒸気が充満する部屋の中をゆっくりと歩いている、‥‥ドアにノックの音、‥‥どうした?
――ご面会の方が!お二人ですが、‥‥
――二人?お通ししなさい、‥‥
――ドアが開くと、ラスネールと、アヴリルが入ってくる、‥‥顔色を変える伯爵、‥‥
――ラスネールは、腰の匕首を抜き取り、伯爵に近づく、‥‥刺す音、‥‥うめき声、‥‥浴槽に落ちる水の音、‥‥
――ラスネールは、アヴリルに言う、‥‥振るえているのか?情けない奴め、‥‥ここは、もういいから田舎にでも引っ込んでろ!‥‥
――あんたは?‥‥
――俺は、ここに残る!田舎者に俺の首を落とさせて、たまるもんか、‥‥
――そっと、その場を逃げ去るアヴリル、‥‥呼び鈴の紐を引くラスネール、‥‥外は、カーニバルで沸き立っている、‥‥狂ったように踊る人の波、‥‥ビルの間に舞い上がる紙吹雪、‥‥
  
――下宿屋グラン・ルレー。ナタリーはカーニバルのために、騎兵隊の衣裳を息子のバチストに被せ、その手を引いて現れる、‥‥坊や!ここでまってるのよ、‥‥と、言い聞かせて下宿屋の中に入り階段を上って行く、‥‥
――バチストの部屋。バチストと、ガランスは朝の身支度をしながら、別れを惜しんでいる、‥‥
――すばらしい夜だったわ!でも、行かなくちゃ、‥‥行って、決闘を止めさせるの、‥‥
――どうやって?‥‥
――あやまれば、いいのよ!わたしが、愚かでしたって、‥‥そして、心から愛してるって言えばいいの、‥‥
――愛していないのに?‥‥
――それは、どうだっていいの!ただ、わたしに愛してるって言ってほしいだけなんだから、‥‥
――いっしょに、発つのか?‥‥
――そう!いっしょに発って、‥‥また、戻ってくるわ!‥‥
――なぜ?‥‥
――そうしなきゃならないの!だって、あなたには子供がいるし、‥‥
――愛してるんでしょう?ナタリーを、‥‥それに、仕事も、‥‥
――わたしが愛するのは、君だけだ!‥‥行かないでくれ!‥‥
――わたしも、行きたくないわ!‥‥でも、しかたないの!‥‥ノックの音、‥‥しかし、二人には聞こえない、‥‥
  
――ドアが開いて、ナタリーが入ってくる、‥‥二人が抱き合って話しているのを見て、‥‥あら、ごめんなさい!あなた、ひとりだと思って、知らなかったの、‥‥今日は、カーニバルだから、坊やがよろこぶと思って、‥‥連れてきたの!騎兵隊の衣裳で、‥‥きれいな服よ!‥‥、‥‥ねえ、何か言ってよ!何でもいいわ、‥‥帰れとでも、何とでも!言ってよ、‥‥
――ナタリー!
――たった、それだけ?‥‥
――ガランスが、出て行こうとする、‥‥ナタリーはそれを押し止めて、‥‥だめ!また行くの?行って、また戻ってくるのでしょう?‥‥気楽なことね!名残を惜しんだり、惜まれたり、‥‥思い出に飾られ、懐かしがられて、‥‥でもね、わたしは違うの!一日一日を彼といっしょに暮してきたの、‥‥小さな思い出を、二人で分かち合いながら、‥‥六年の間、毎日毎日!ずーっと彼といっしょなのよ、‥‥
――わたしもだわ!‥‥
――あなたもって?何を、‥‥
――そうよ、どこにいても、何をしていても、昼も夜も、ずーっといっしょだったわ、‥‥夜ごといっしょだったのよ、‥‥
――ガランス!‥‥
――いいえ、しゃべらせてやって!聞かせてほしいわ、‥‥知りたいの!わたしに何が残っているのか、‥‥バチストに向かって、‥‥ねえ、バチスト!わたしといっしょの時も、この人のことを想っていたの?‥‥答えて!‥‥
――ガランスは、そっとドアを開けて出てゆく、‥‥ガランス!‥‥と、そこに立ったまま、目だけで後を追うバチスト、‥‥ひょっとしたら、もう一生会えないのではないか?‥‥、と、一瞬、胸の中によぎる思い、‥‥そして、その恐怖、‥‥
――答えて!バチスト、‥‥いつも、あの人を想っていたの?‥‥と、問いつめるナタリーを振り切って、ガランスの後を追うバチスト、‥‥
  
――下宿屋の表。道路を埋づめつくすカーニバルの人波、‥‥足早に去るガランス、‥‥慌てて道路に飛び出すバチスト、‥‥戸口に立って待つ息子の姿も目に入らない、‥‥
――古着屋ジェリコが現れ、バチストの前に立ちふさがる、‥‥あきらめろ!無駄なことだ、‥‥もう、家にお帰り!‥‥
――放せ!お前なんか、嫌いだ、‥‥必死に、ガランスの馬車を追いかけようとするが、人波に隔てられて、少しも近づけないバチスト、‥‥道路の遠景、カーニバルの人波‥‥幕。
  
――天井桟敷の人々 終り――
  
  
  腰の痛みを忘れて三時間、ひたすら画面を注視していたほど、これは面白い映画でしたが、どうでしょう、少しは伝わりましたか?‥‥
  
  ところで、この映画のテーマはといいますと、「一寸の虫にも五分の魂!」、または「自由こそ、わが命!」、こんなところではどうでしょうか?
  
  この映画の主人公ガランスは、自由な精神の持ち主であり、他人に干渉されないのを何よりも喜び、人生を楽しんでさえいたのですが、友人のラスネールという紳士強盗が窮地に陥り、それを助けるためには、大富豪の助けを借りる必要があって、そのために自ら、その持ち物となっていたところを、ラスネールが最後に男気を見せて、その借りを返したというのが、この映画の骨子です。そして、この映画は、この二人の気高い気質の故に、フランス映画史上屈指の名画といわれる所以なのです。
  
  ここでは、ガランス以外は、皆、心が何かに拘束されていて、自由ではありませんが、フランス人の中には自由を重んずる人が特に多いということは、昔から、つとによく知られたところです。この映画が、ナチス占領下の1943年8月16日にクランクインして以来、ナチスの監視を受けながらも莫大な費用をかけて撮り続け、1945年3月、解放直後のパリで公開されたことと考え合せると、感慨深いものがあります。
  
  名画の条件として、先に五つの条件を挙げましたが、ここで一つ追加することにしましょう、"総てをまとめる監督の手際"、まあ、当然ですな、‥‥えっ、何ですと?お前の言うことは、全部間違っている、と?‥‥、‥‥もちろん、そうあるべきです!百人寄れば百の智慧ありですからな、‥‥他人の意見は、参考にこそすれ、拘束されることなど、絶対にあってはならないのです!‥‥もちろん、そうあるべきです!何しろ、自由こそわが命ですからな、‥‥
  
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  庭の"侘助"が、二十年ほど前に一度咲いたきり、咲かなくなっていましたが、今年はどうしたわけか、四個ほど蕾を付けていたので楽しみにしていたところ、ようやく咲きました。もっと青みがかった、幽玄味のある色を想像していたのですが、‥‥それがなんと!可愛らしい、こんな好い色になってしまいました、‥‥
  
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  ブリの照り焼きは、この時期がいちばん脂がのって好いのですが、それも、ブリ本来の旨みと、香りとは、天然物でなくては味わえません。天然物は大きくて、身の色も透き通り、血合いの色も濃い色ですが、養殖物は、全体に脂が浮いていて、身は白く濁り、血合いも白っぽく不健康な色をしていますので、スーパーで見比べれば、天然物と、養殖物とは、簡単に区別できます、その上、値札の横には天然物とか、養殖物とか書かれていますので、間違えようがありません、‥‥
  ところが、世の中には不思議なこともあるようで、大きくて美しい天然物の値段よりも、小さくて不味そうな養殖物の方が高いという、この理不尽さはどのように理解すればよいのでしょうか?世の中は、何かが間違っています、‥‥。いつの間に、味の優劣は、脂の多少に置き換わってしまったのでしょうか?‥‥それとも、‥‥???
  
  
それでは、今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (春が来た! おわり)