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雪の日
 
  
  この地方には珍しく、雪が二日にわたって降り続きましたので、ついにご覧のような一面の銀世界となり、甚だ美しいこととなっております。
  
  これを見た老人は、本来具有する犬の性がここに顕れたものとみえまして、はやる心に身を引かれるように、カメラ片手に小雪のちらつく中に飛び出したのですが、‥‥
  
  まさに、この一面の雪景色の中におりますと、種々雑多な色彩は、すべてモノクロームの中に埋没しますので、それがちょうど無欲の境地にも喩うべく、清々しくも広々とした景色となり、そこには何かある種の物足りなさを感ずるはずが、種種の理由により無欲ならざるをえない身といたしましては、心境との一致によるものか、安心感にも似た感覚を覚えながらも不思議と、気分が高揚し、それと気付いてみれば、ますます犬の風情を呈して、ハアハアと息を切らしながら、畑のあぜ道を走り回り、ただ雪しか写らないような写真を、数多く撮っていたのでございます。
  
  唐の善導は、「道俗の時の衆等よ、各々無上心をおこせ!生死は甚だ厭(いと)いがたく、仏法もまた欣(ねが)いがたし」と、誠に偽らざる心情を歌の中に吐露されているのでございますが、ここにもまた、正しく無欲、無生死の境地ここに在りともいうべき見事なまでに美しい景色が展開されているのではないでしょうか、‥‥。
  
  さて、正月もあっという間に過ぎ、早くも二月、涅槃会の月に入りましたので、お釈迦さまの最後にお説きになった「遺教経(ゆいきょうぎょう)」の中に、無欲の世界を見てみたいと思います。それがはたして、砂漠のように無味乾燥の世界か、それとも安楽極まりない極楽世界か、皆様方が各自にご判断なさってくださるよう、お願い申しあげます。
  
  「遺教経」、詳しくは「仏垂般涅槃略説教誡経(ぶつしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)」と称し、鳩摩羅什の訳したものですが、ここでは時間の都合上、やや不十分な現代語訳のみをお目にかけましょう。少し長いですが、当時の生活等、いろいろ想像しながら楽しんでお読みください。
  
  仏垂般涅槃略説教誡経(また仏遺教経と名づく)
    後秦亀茲国三蔵鳩摩羅什が、詔を奉じて訳した
  
  釈迦牟尼仏は、初めて法輪を転じて阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ)を度(ど、煩悩の河を渡す)し、最後の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度し、度すべき者たちを皆度されて、沙羅双樹の間で、今涅槃に入られようとしている。
  この時、真夜中、静かな夜で声も無い中に、諸の弟子のために、略して法の要旨を説かれた。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  わたしの涅槃の後には、波羅提木叉(はらだいもくしゃ、戒経)を珍重し尊敬しなければならない。ちょうど闇の中で灯明に遇ったり、貧しい人が宝を得たかのように思え!
  よく知っていようが、これは、お前たちの大師なのである。もし、わたしがこの世に住(とど)まっていたとしても、これと異なることはない。
  
  浄戒を持(たも)つ者は、物を売買したり、交易したり、田宅を所有したり、人民、奴婢、畜生を蓄え養ってはならない。
  一切の植物を植えることも、及び諸の財宝を蓄えることもしてはならない、これ等は皆、遠ざけて、火坑を避けるようにせよ!
  
  草木を伐採することも、土地を開き墾すこともしてはならない、薬草を和合したり、吉凶を占ったり、星宿を観察したり、暦を計算したりしてもならない、皆比丘に相応しいものでないからである。
  
  身を節し、正しい時に食い、清浄に自らを活かせ!
  世事に参与したり、使いして書状、密約を通したり、呪術、仙薬をもって、貴人と好(よしみ)を結んだり、親厚したりすることは、皆相応しくない。
  
  瑕疵を包み隠し、異常なことをしてみせて、衆を惑わしてはならない。
  
  飲食、衣服、臥具、湯薬の四供養には、量を知り、足るを知り、人家に趣いて供養を得ても、蓄積してはならない。
  
  ここに、持戒の相を略して説いた。戒は解脱に正しく順ずる本であり、この故に波羅提木叉というのであり、この戒によって諸の禅定を生じ、苦を滅する智慧に及ぶのである。
  
  この故に、比丘よ!
  浄戒を持ったら、それを破ってはならない。この浄戒を持つ人は、善法を有することになり、浄戒の無い人は、諸の善功徳が生ずることはないのである。
  
  これ等の事から、戒とは第一の安隠、功徳の住する処であると知るべきである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  すでに、戒に住まることができたならば、五根(眼耳鼻舌身)を制する必要がある。五根を縦(ほしいまま)にして、五欲(色声香味触)に入らせてはならない。
  譬えば、牧牛人が、杖を執って牛を見張り、縦にさせて人の苗代を犯すことがないようにせよ!
  
  もし五根を縦にさせれば、ただ五欲には際限が無く、制せられないというには止まらないのである。
  例えば、悪馬が轡でも制せられず、人を引き連れて坑に堕ちるようなものである。
  
  世界終末の大災害であっても、苦は一世に止まる。しかし五根の賊の罪過は、累世に及ぶのである。害は甚だ重いのであるから、当然慎まなくてはならない。
  
  この故に、智者は五根を制して随わず、これを持って賊を見張るように、縦にさせないのである。もしこれを縦にさせれば、久しからざる中に、皆それの為に磨滅されられてしまうだろう。
  
  この五根は、心がその主であり、この故にお前たちは、好んで心を制すべきである。
  
  心の畏るべきことは、毒蛇、悪獣、怨賊、大火よりも甚だしく、超越しており、これ等でさえ譬喩とするに足るものではない。
  
  動転し、軽躁していては、ただ蜜のみを観て、深い坑までは見えないだろう。
  譬えば、狂象に鉤が無く、猿猴が樹を得て跳躍、跳梁すれば、もやは禁制しようにもしようがないのと同じなのである。
  
  急ぎこれを挫(くじ)き、取り押さえて縦にさせてはならない。
  心を縦にすれば、人の善事を喪失するが、これを一処に制すれば、事として成らざるは無いのである。
  
  この故に比丘たちよ!勤めて精進しその心を屈伏せよ!
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  諸の飲食は、薬を服するようにし、好悪によって増減を生じてはならない。人家に趣いて飲食を得るのは、身を支え飢渇を除くことにある。
  
  譬えば、蜂が花を採るときには、ただその味のみを取って、色香を損なわないが、比丘もそのようでなくてはならない!
  比丘が人の供養を受けるのは、それを取って自らの悩を除くためである。多くを求め、それを得て人の善心を壊(やぶ)ってはならない!
  譬えば、智者が牛の力の堪えられる分を計り、過分に働かせてその力を竭(つ)きさせないのと同じである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  昼には、勤めて心に善法を修め、時を失わせてはならない!
  初夜、後夜にも、またそれを廃することが有ってはならない!
  中夜には、経を誦して自ら時を過ごせ!
  
  睡眠の因縁で、一生を空しく過ごし、所得が無いようであってはならない。無常の火が、諸の世間を焼くのを思い、早く自ら度することを求めよ!
  
  諸の煩悩の賊は、常に伺い人を殺すのであり、これは怨家よりも甚だしい。何うして睡眠してなどいられようか?自ら驚いて目覚めようとしないのか?
  煩悩の毒蛇の睡りは、お前の心に在る!
  譬えば黒イモリがお前の室に在りながら、睡っているのと同じではないか?持戒の鉤を用いて、早くこれを排除せよ!
  
  睡りの蛇が出てしまってから、安らかに睡るのがよかろう。
  出ないのに眠るのは、恥を知らない者である。恥を知るということは、諸の装いの中でも最も第一の美服である。恥を知れば、鉄鉤のように、人を非法から制することができよう。
  
  この故に、比丘よ!常に恥じよ!恥じることを休んではならない!もし恥を遠ざければ、諸の功徳を失うことになるだろう。
  
  恥を知る人には、善法が有り、恥を知らない者は禽獣と同じで、何等異なりが無い。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし人が来て、お前の身を支節支節に解体しても、自ら心を収め、それをして瞋らせたり、恨ませたりしてはならない!
  また口を護って悪言を出させてはならない!
  
  もし怒りの心を縦にすれば、自ら道を妨げ、功徳の利を失うことになるが、もしこれを忍べば、その徳は、持戒も苦行も及ばないのである。ただ忍ぶことのできる人のみが、有力な大人といわれるのである。
  
  もし悪罵の毒を受けても、歓喜して忍び、甘露を飲むようにする者でなければ、道に入った智慧の人とはいわれまい。
  何故ならば、怒りの害は、諸の善法を破り、好もしい名聞を破り、今世、後世の人が喜んで見ようとしないからである。
  
  よく知っていようが、怒りの心は、猛火よりも甚だしい、常に防護して入らせてはならない。諸の功徳を破る賊として、怒りに過ぎる者は無いのである。
  
  俗人は五欲を受ける者であり、道を行ずる人でもなく、自らを制する法も無いのだから、怒ったとしてもなお許される。
  出家で道を行う者、無欲の人が怒りを懐けば、それは甚だ許されることではない。譬えば、清々しく冷たい雲の中には、雷火が相応しくないのと同じである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  自らの頭を摩でよ!
  好もしき飾りを捨て去り、すでに法衣を着けているであろう。
  手に鉢を持って乞食し、自らを活かしているではないか。
  
  自らをこのように見れば、もし憍慢が起こっても、疾かに滅することができる。憍慢を増長するということは、世俗の人ですら喜ばしいことではないが、まして出家であれば尚更である。
  
  道に入った人は、解脱の為の故に、自らを下く降して、その心で乞食を行ずるのである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  他人に諂って、己を曲げてはならない!
  これは道と相違するものである。
  
  この故、その心は質直でなくてはならない。
  当然知っているはずであるが、諂いや、曲げるということは、他人を欺くことであり、道に入った人には、これをしてよい道理が無いのである。
  
  この故に、お前たちは、心を正しく持って、質直をこそその本とすべきである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  よく知っていようが、多欲の人とは、多くの利を求めるが故に、苦悩もまた多いのであり、少欲の人は、求める物が無く、無欲であるが故に、この患が無いのである。
  
  ただ少欲であることですら、修行する価値がある、まして少欲からは諸の善功徳を生じるのであるから、尚更であろう。
  
  少欲の人であれば、諂い曲げることで人の意を求めることが無く、また諸根に引かれることも無い。
  
  少欲を修行する者は、心が平坦で憂えたり畏れたりする物が無く、事に触れて余りが有り、不足が無いのである。
  少しの欲が有る者には涅槃が有る、これが少欲である。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし諸の苦悩を脱れたいのであれば、当然知足を観なければならない。知足の法とは富楽、安隠の処をいうのである。
  
  足るを知る人は、地上に臥せていても、なお安楽であり、足るを知らない者は、天の宮殿にいても、まだ意に称(かな)わないのである。
  
  足るを知らない者は、富んでいても貧しく、足るを知る人は、貧しくとも富むのである。
  
  足るを知らない者は、常に五欲に引かれて、足るを知る者に哀れまれる。これを知足というのである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし寂静、無為、安楽を求めるならば、当然騒音の巷を離れて独処に閑居しなくてはならない。静かな処の人は、帝釈の諸天にすら敬われ重んぜられよう。
  
  この故に、己の衆(もろもろ)を捨て、他の衆を捨てて独り静かに思い、苦の本を滅するがよかろう。
  
  もし衆を楽しめば、衆の悩を受けることになろう。
  譬えば、大樹であっても、衆の鳥がこれに集れば、枯れたり折れたりする患が有るようなものである。
  
  世間に縛り付けられ、衆の苦に没するのは、譬えば、老いたる象が、泥に溺れて自ら出られないのと同じである。これを、遠く離れるという。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし勤めて精進すれば、事に難儀は無いのである。
  
  この故に、お前たちは、勤めて精進しなくてはならない。
  譬えば、小さな水であっても、常に流れていれば、石を穿つのと同じである。
  
  もし行者が、しばしば怠けて修行を廃してばかりいるならば、譬えば、錐揉みして火を得るのに、未だ熱くならない中に息(やす)むのと同じである。火を得ようとしたところで、何うして得ることができよう?これが精進である。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  善い知識(師匠)を求め、善い護助を求める中にも、念ずることを忘れてはならない!
  
  もし念ずることを忘れなければ、諸の煩悩の賊も入ることができない。
  この故に、お前たちは、常に一事を念じて心に掛けるようにせよ!もし失念すれば、諸の功徳を失うことになるのである。
  
  もし念力が堅固で強力であれば、五欲の賊の中に入ったところで、害されるものではない。
  譬えば、鎧を着けて陣に入れば、畏れる物が何もないのと同じである。これが念ずることを忘れないということである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし心を収めて、心が禅定に在るならば、心が定まるが故に、世間の生滅の法相を知ることができる。
  
  この故に、お前たちは、常に勤めて精進して諸の禅定を修めて集めなくてはならない。
  
  もし禅定を得たならば、心は乱れることがない。
  譬えば、水を惜む家が、善く堤を治めるように、行者も、また同じように、智慧の水の為の故に、善く禅定を修めて、漏れて失わないようにするのである。これが禅定である。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし智慧が有れば、貪著するはずがない。常に自ら省察して失うものの有るはずがない。これが、わたしの法の中で、解脱を得るということである。
  
  もしそうでなければ、それは道の人ではない。また俗人でもないというのであれば、それを何と呼べばよいのか?
  
  実の智慧とは、老病死の海を渡る為の堅牢な船である。またこれは無明黒闇の中の大明灯であり、一切の病苦の良薬であり、煩悩の樹を伐採する者の利い斧である。
  
  この故に、お前たちは、智慧を聞いたならば、それを思い、それを修めて自ら増益しなくてはならない。
  
  もし人に智慧で照すことが有れば、天眼などは無くとも、これは明見の人であり、これを智慧というのである。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  もし種種に戯の論議をすれば、その心は乱れて、出家といえども、未だ俗を脱れられないのと同じである。
  
  この故に、比丘は、急いで戯の論議を捨てて乱心を離れなくてはならない!
  
  もしお前たちが、涅槃の楽を得たいのであれば、ただ善く戯の論議の患を滅すればよいのである。これを戯の論議をしないという。
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  諸の功徳に当っては、常に一心であれ!
  諸の放逸を捨て、怨賊を離れるようにしなければならない!
  
  大悲世尊の欲する利益は、皆究め尽くされた!
  お前たちは、ただ勤めてこれを行え!
  
  山間、空沢の中、樹下の静かな処、静かな室に於いて、受けた法を念じよ!忘れたり失ってはならない!常に、自ら勉めて精進して、これを修めよ!
  無為にして空しければ、死後に憂いと悔みとを招くことになろう。
  
  わたしは、良医のように病を知って、薬を説いた。服(の)むか、服まないかは、医者の咎ではない。
  
  また善い道案内が人を導くように、善く導いた。これを聞いて行かないのは、案内人の咎ではない。
  
  お前たちは、「世間は苦である」、「苦を集めるから苦である」、「集めなければ苦は滅する」、「その道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八種である」という四つの真理について、もし疑いが有れば、疾かにこれを問え!疑いを懐いたまま、決を求めないような事があってはならない。
  
***
  
  その時、世尊は、このように三たび唱えられたが、誰も問う者は無かった。何故ならば、衆には疑いが無かったからである。
  
***
  
  その時、阿那律(あなりつ)は、衆の心を観察して仏にこう言った、――
  世尊!たとい、月を熱くすることができようと、日を冷たくすることができようと、仏の説かれた四つの真理を、異らせることはできません。
  
  仏は「世間は、苦である」と、お説きになりましたが、真実これは苦であり、「楽である」とすることはできません。「苦を、集めるからである」と、苦の因をお説きになりましたが、更に別の因は有りません。「苦が、もし滅するならば、それは因を滅するからである」と、お説きになりましたが、因が滅するが故に果が滅するのです。「苦を滅する道は、実にこの真の道である」と、お説きになりましたが、更に別の道は有りません。
  
  世尊!この諸の比丘は、この四つの真理について、心が決定しており、疑いが有りません。
  
  この衆の中に、もし未だ身に備うべきを備えていない者がいれば、仏の涅槃を見て悲しみにくれるはずですが、初めて法に入った者でも、仏の所説を聞いた者は、皆度を得ることができました。譬えば、夜に電光を見て、道が見えたのと同じです。
  
  すでに備うべきを備えた者は、すでに苦の海を渡り、ただこのように念ずるのみです、――
  世尊の涅槃に入られるのは、何と疾かであることか、と。
  
***
  
  阿那律は、このように説き、この衆の中は皆悉く、四つの真理に了達していたが、
  世尊は、この諸の大衆に、皆堅固な心を得させたいと思い、大悲心を以って、また衆の為に説かれた、――
  
***
  
  お前たち、比丘よ、憂い悩んではならない!
  もし、わたしが、この世に、世界の終末まで住まったとしても、時が至ればまた滅することになろう。会うた者は離れなくてはならないのである。
  
  自らを利し、また他人を利する法は、皆すでに説かれた。
  もし、わたしが久しく世に住まったとしても、更に益する所は何も無い。
  
  度すことのできる者については、天上、人間、皆悉く度しおわり、その未だ度さない者も、またすでに度の因縁を得させた。
  
  今より以後、わが諸の弟子は、展転としてこの道を行け!
  これが則ち如来の法身であり、常に在って滅しないものである。
  
  この故に、よく知っていようが、世間は皆無常であり、会えば必ず別離が有るのである。憂いを懐いてはならない!
  世間の相とは、こういうものなのだ!
  勤めて精進して早く解脱を求めよ!
  
  智慧の明りを以って、諸の愚癡の闇を滅せよ!
  世は実に危うく脆く、堅牢、強固なものは何も無い!
  
  わたしが今涅槃を得るのは、悪病を除くのと同じである。
  仮に身と名づけられ、生老病死の大海に没在する罪悪の物を捨てるのである。
  智者であれば、このような物を滅除して、怨賊を殺したように歓喜しない者が、はたしているだろうか?
  
***
  
  お前たち、比丘よ!
  常に、一心に勤めて世間を出る道を求めよ!
  一切の世間は、動く物も動かない物も、皆敗壊不安の相である。
  
  お前たち、この辺で止めよう!もう何も語ってはならない。
  時は過ぎようとしている、わたしはこれで涅槃に入ろう。
  
  これが、わたしの最後の教誨である。
  
仏垂般涅槃略説教誡経
  
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  ここでこの中の、「世間は苦である」、「苦を集めるから苦である」、「集めなければ、苦は滅する」、「その道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八種である」という四つの真理について、少しばかり説明しておく必要がありましょう。
  
  これを専門の言葉では、「四諦(したい)」、または「四聖諦(ししょうたい)」といい、その中の一一を、「苦諦(くたい)」、「集諦(じったい)」、「滅諦(めったい)」、「道諦(どうたい)」といっておりますが、お釈迦さまが真に発見なさった法の中の、最も基本的なものであるのです。
  即ち、お釈迦さまが、菩提樹の下に坐して覚り、最初の弟子である五人の比丘を前にして、初めて法輪を転ぜられた時に説かれた法が、これなのです。謂わゆる八万四千の法門も、これを基にして敷演して説かれたものですから、仏教を仏教たらしめる所の法が、これであると言っても過言ではないでしょう。皆様方にも、これは非常に重要な法であると知ってください。
  
  
  四聖諦(ししょうたい)、または四諦(したい)ともいい、四つの真実を指し、謂わゆる苦諦、集諦、滅諦、道諦である。
  
  一、苦諦(くたい):世間は苦であるという真実。即ち世間には生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦という八種の苦が満ちている。
  この中、生苦とは地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五道を生々流転することをいい、老苦、病苦、死苦とは現に所有せる身心は暫時の後に破壊することをいい、怨憎会苦とは憎むべき者に出会うことをいい、愛別離苦とは愛する者との離別をいい、求不得苦とは求めても得られないことをいい、五陰盛苦とは色受想行識の五陰、即ち吾人のこの身心には苦が盛られていることをいう。この八種を八苦といい、前の四種を四苦といい、前の四種を一種と見て、総じて五苦という事もある。
  仏教は、先ずこの世間は苦が満ちていると認識することから始まる。
  
  二、集諦(じったい):世間が苦であるのは、苦を集めるからであるという真実。即ち、先に苦諦を以って苦の実体を明らかにしたので、今はまた苦の因である愛を明らかにする。眼耳鼻舌身意の六根が、色声香味触法の六境に触れて愛著することをいい、これが苦の果を生ずる因なのである。
  
  三、滅諦(めったい):愛を断って滅すれば苦もまた滅するという真実。即ち、先に集諦を以って苦の因である愛を明らかにしたので、今は愛を断つことにより、苦の果は自ら滅することを明らかにする。
  四、道諦(どうたい):愛を滅するには、正しい道に依らなければならないという真実。即ち見る物、聴く物、すべてが愛の対象であるが故に、愛を滅することは甚だ為しがたく、その道は八種に分けて知ることができる。この道を八正道、または八正道分といい、謂わゆる正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
  この中、正見とは正しい見解の意であり、この四諦そのものをいう。正思とは正しい思考の意であり、因果の道理に即した思考方法をいう。正語とは正しい言葉の意であり、思考には意味と範囲の明確な言葉を用いることをいう。正業とは正しい行いの意であり、前の正見、正思、正語はその行いに正業として顕れることをいう。正命は正しい生活態度の意であり、比丘の乞食による活命をいう。正精進は正しい努力の意である。正念は正しい思念が常に心に在ることの意である。正定とは正しい禅定の意であり、目的を持った禅定は、ただ単にその禅定を味わうものでないことをいう。
  
  
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  近くの映画館で、映画祭が催され、二月からは毎週一本づつ往年の名画を、凡そ一年にわたって、上映するということで、非常に楽しみにしています。
  
  さて何を見ようか、入場料1000円は安いと思いますが、まさか全部見るわけにもいきますまい。この中から五本選ぶとして、皆様なら、何をご覧になりますか?

鉄道員
天井桟敷の人々
クレイマー、クレイマー
レインマン
ショーシャンクの空に
フィールド・オブ・ドリームス
フォロー・ミー
アパートの鍵貸します
ローマの休日
昼下がりの情事
ロミオとジュリエット
ある日どこかで
ゴッドファーザー
ワイルドバンチ
スティング
明日に向かって撃て!
太陽がいっぱい
男と女
エデンの東
スタンド・バイ・ミー
カサブランカ
第三の男
十二人の怒れる男
激突!
羊たちの沈黙
薔薇の名前
ライトスタッフ
ミクロの決死隊
パピヨン
ブリット
ウエスト・サイド物語
雨に唄えば
アラビアのロレンス
ベン・ハー
お熱いのがお好き
ショウほど素敵な商売はない
アマデウス
ストリート・オブ・ファイヤー
ライムライト
チャップリンの独裁者
大脱走
戦場にかける橋
ニュー・シネマ・パラダイス
映画に愛をこめて アメリカの夜
刑事ジョン・ブック/目撃者
追憶
眺めのいい部屋
ジュリア
裏窓
北北西に進路を取れ
 
  
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  去年の暮れ、二週間ほど軒につるして作った干し柿も、残りがついに一個になってしまいました。名残惜しいことですが、また今年の暮れまで楽しんで待つことにいたしましょう、‥‥。
  
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
 
 
 
 
 
 
 
  (雪の日 おわり)