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仏画シリーズ 地獄変相第十
  
  皆様方と共に長らく楽しんでまいりました地獄シリーズも、遂にめでたく結願を迎え、今月は第十 五道転輪王でございますが、相変わらず鬼供は日日の営務を果たすべく精出しておるようで、季節は若干異なりますが『時は春、春は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這い、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。』といったような、誠に蕩蕩たる風情をかもしだしておるのでございます、‥‥
  
  しかし、ここで老人ははたと困るわけですなぁ‥‥、来月からどうしよう、頼りにしていた地獄シリーズが終ってしまい、他に適当なシリーズ物を思いつかない今、まあ当然のことではございますが、それにしてもどうしたものか、‥‥。極楽シリーズがあれば大分楽になるのになあ、‥‥、と愁いの日日を送っておりますが、‥‥
  
  まあ、無いには無いなりの相当の理由がどこかにあるのでございましょう。ここは何とか我慢して石にかじりついても、何とかしようとまなじりを決して覚悟を固めたところまではよいのですが、案外無駄な事に心を使っているのかも知れませんなあ、‥‥、「どだい自分の力以上の事をしようなどと、無理をするから大変なのであって、何事も気楽にやればいいんですよ、人生なんて楽なものです」というような、なんだか仏教学者のひろさちやさんの仰る言葉のようなものや、「後は野となれ山となれ」とか、「誰もお前の書く物なんか見ないんだから、気楽にやりなよ」とか、仏の声だか悪魔の声だかよく分らないものが聞こえてまいりまして、きっとお釈迦さまが聞かれたという魔王の三人女の声もこんな物ではなかったか?いや、それともキリストが荒れ野の中で四十日の断食の後、聞かれたという「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」の声だろうか?イエスはその時、「人はパンのみで生きるものではない」と答えられたそうだし、彼の菩提樹の下で三魔女が、「仁善の釈子まさに王と作るべし、云何が彼の大樹の下に坐す?この盛なる上春の妙時節に、男女合会して喜歓を生ずれば、なお諸鳥自ら相娯しむが如く、欲心一たび発らば止息し難し。時至れば且らく共に楽を受くべきに、何の故にか心を守りて我れを観ざる?我等今はまた以って来たり、宜しくまさに同行し心のままに適(たのし)まん」てなことを言うと、お釈迦様はこれに答えて「五欲は霜の如く久しく住まらず、また秋の雲雨の暫時なるが如し。汝女よ!畏るべきこと蛇の瞋れるが如し。帝釈、夜摩、兜率等も悉く魔王に属して自在ならず、欲事の百怨を何んが貪るべきや」と言われたそうですな、‥‥。なかなかできない事で、‥‥
  
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  さて、今月のテーマの極楽ですが、これを阿弥陀仏の浄土を指す固有名詞だとご存知の方は案外少いかも知れません。浄土が普通名詞です。何が浄か?染汚心が無いから浄なのです。謂わば煩悩が無いことが浄なのですが、大乗的に謂えばその国の一切の人々の心の中に自他、彼此の差別が皆無であることを浄というのです。自他の差別が無いから貪らない、瞋らない、愚でないのであり、この浄土には貪瞋癡の三毒が無いのです。阿弥陀仏の浄土を極楽というのは、この状態が極めて楽しく、幸福であるからに他なりません。
  
  はたしてそのような浄土とは、何のようにイメージすればよいのか?これを、ただ心の問題であるのだから、今と大した違いはあるまいと考えてきたのが、われわれこの国の仏教者たちなのです。各ご家庭にあるお仏壇は、浄土を写し取った物だと言われていますが、それを見てみればよく分ります。ただ黒漆と金箔で飾られた豪華さ、霊的には気高いかも知れないが五感の快さはまったく無視されています。
  
  しかし、仏典ではこれが目もあやな色彩の洪水です。試しに「観無量寿経」に見てみましょう、「次ぎに水想をなして水の澄清たるを見よ!また明了ならしめて、意をして分散せしむることなかれ!既に水を見おわらば、まさに氷想を起すべし、氷の映徹なるを見て琉璃想をなせ!この想なりおわらば、琉璃の地を見よ!内外映徹して下に金剛七宝の金幢(どう、柱)あり、琉璃の地をかかぐ。その幢は八方八楞(りょう、面と面の会う角)具足して、一一の方面は百宝のなす所なり。一一の宝珠には千の光明あり、一一の光明の八万四千の色は琉璃の地に映じて億千の日の如く、具さに見るべからず。琉璃の地の上には黄金の綱を以って雑廁間錯(ざっしけんじゃく、縦横に区分する)し、七宝の界を以って分斉分明(ぶんさいぶんみょう、界分が整然として明了である)なり。一一の宝中に五百の色あり、その光は華の如く、また星月にも似て、虚空に懸かりおりて光明の台となり、楼閣千万にして百宝合成す。台の両辺に於いて各百億の花幢に無量の楽器あり、以って荘厳す。八種の清風、光明より出で、この楽器を鼓し、苦空無常無我の音を演説す」とありますねぇ、‥‥。これが何うして金仏壇になるんでしょうか?まあ好みと言えばそれまでですが、‥‥色彩、音楽、花香を以って五感を快くし、心を柔軟にして真理を体得させる、これが浄土なのです。
  
  もう一つ見てみましょう、「摩訶般若波羅蜜経巻27」によれば、薩陀波崙(さつだはろん)菩薩は、かつて般若波羅蜜を求めて身命を惜まず、名利を求めず、誰もいない閑寂な林の中で坐禅をしていると、空中に、「汝、善男子よ!これより東に行き、疲極を念ずるなかれ、睡眠を念ずるなかれ、飲食を念ずるなかれ、昼夜を念ずるなかれ、寒熱を念ずるなかれ、内外を念ずるなかれ!」と言う声を聞き、その声に向かって「我れまさに教に従うべし。何を以っての故にか、我れ一切衆生の為に大明とならんと欲し、一切諸仏の法を集めんと欲し、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲するが故に」と答えた。その時、薩陀波崙はまた空中に声を聞いた、謂わく「善いかな、善いかな、善男子よ!汝は空無相無作の法に於いて、まさに信心を生ずべし。相を離るるの心を以って般若波羅蜜を求め、我相を離れ、乃至知者、見者の相を離るべし。まさに悪知識を遠離すべし、まさに善知識に親近し供養すべし。何等かこれ善知識なる、よく空無相無作、無生無滅の法、及び一切種智を説いて、人の心をして歓喜し信楽に入らしむ、これを善知識と為す。善男子よ!汝、もしかくの如く行ぜば、久しからずしてまさに般若波羅蜜を聞くべし」と。その時、薩陀波崙は、この空中の教を受けおわり、これより東に行くこと久しからずして、こう思った、「我れ云何が空中の声に問わざりし、我れはまさに何処に去るべき、去ることまさに遠近なるべき、まさに誰に従ってか般若波羅蜜を聞くべき」と。そこで声を出して泣きながら、もうそれを聞くまではここを一歩も動くまいと決心した。薩陀波崙が嘆き悲しんでいると、空中に仏あって薩陀波崙にこう語った、「善いかな、善いかな、善男子よ!過去の諸仏の菩薩道を行ずる時、般若波羅蜜を求めしも、また汝が今日の如し。善男子よ!汝は、これを勤めて精進し、法を愛楽するが故に、これより東に行け!ここを去ること五百由旬(ゆじゅん、一由旬は約10㎞)にして城あり、衆香と名づく。その城は七重にして、七宝もて荘厳せり。台観欄楯皆七宝を以って校飾し、七宝の塹、七宝の行樹の周匝すること七重なり。その城は、縦広十二由旬、豊楽安静にして、人民熾盛なり。五百の市里、街巷相当し、端厳にして画の如く、橋津は地の如く寬博にして清浄なり。七重の城の上には皆七宝の楼櫓あり。宝樹行列し、黄金、白銀、車渠、瑪瑙、珊瑚、琉璃、玻璃、紅色の真珠を以って枝葉と為す。宝縄連綿し、金は鈴網となり、以って城の上を覆う。風の鈴を吹くや、声その音を和雅して衆生を娯楽せしむ。譬えば、巧みに五楽をなせば甚だ悦喜すべきが如し。その城の四辺には、流、池清浄にして冷暖調適なり。中に諸船ありて七宝もて厳飾す。これ諸の衆生の宿業の致す所にして、この宝船に乗じて娯楽遊戯す。諸の池水の中に種種の蓮華あって青黄赤白なり。衆の雑好華は遍く水上を覆い、この三千大千世界の有らゆる衆華はその中に在り。その城の四辺に五百の園観ありて、七宝もて荘厳し甚だ愛楽すべし。一一の園中に各五百の池あり、池は各縦広十里、皆七宝を以って校成し、雑色もて荘厳せり。諸の池水の中にもまた青黄赤白の蓮華ありて、水上に弥覆し、その諸の蓮華の大きさ車輪の如く、青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光あり。諸の池水の中に鳧鴈、鴛鴦、異類の衆鳥あって音声相和す。この諸の園観の適(こころよ)くして所属なきは、この諸の衆生の宿業の果報なり。長夜に深法を信楽し、般若波羅蜜を行ぜし因縁の故に、この果報を受くるなり。善男子よ!この衆香城の中に大高台ありて、曇無竭(どんむかつ)菩薩摩訶薩の宮舎上に在り。その宮は縦広一由旬にして、皆七宝を以って校成す、雑色の荘厳は甚だ喜楽すべし。垣墻は七重にして皆また七宝なり。七宝の欄楯、七宝の楼閣の宝塹は七重なり、皆七宝を以って深塹を周匝し、七宝累成せり。七重の行樹には七宝の枝葉ありて、七重に囲遶す。その宮舎の中に四種の娯楽園あり、一を常喜と名づけ、二を離憂と名づけ、三を華飾と名づけ、四を香飾と名づく。一一の園中に各八池あり、一を賢と名づけ、二を賢上と名づけ、三を歓喜と名づけ、四を喜上と名づけ、五を安隠と名づけ、六を多安隠と名づけ、七を遠離と名づけ、八を阿惟越致(あゆいおっち、不退の意)と名づく。諸池の四辺の面は各一宝なり、黄金、白銀、琉璃、頗梨、玫瑰を以って池と為し、底はその上に金沙を布く。一一の池の側に八梯陛あり、種種の妙宝を以って厳飾す。諸の梯陛の間に閻浮檀金(えんぶだんこん、紫金)の芭蕉の行樹あり、一切の池の中に種種の蓮華あり、青黄赤白にして水上を弥覆す。諸の池の四辺に好華樹生じ、風諸華を吹いて池水の中に堕つ。その池は八種の功徳を成就す、香は栴檀の若く、色味は具足し、軽く且つ柔軟なり。曇無竭菩薩は六万八千の婇女と、五欲具足して共に相娯楽す。及び城中の男女は倶に、常喜等の園、賢等の池中に入りて五欲具足し共に相娯楽す。善男子よ!曇無竭菩薩は諸の婇女と遊戯し娯楽しおわりて、日に三時、般若波羅蜜を説く。衆香城の中の男女の大小は、その城の中の多く人を聚(あつ)むる処に於いて、大法座を敷く。その座の四足は、或は黄金を以ってなし、或は白銀を以ってなし、或は琉璃を以ってなし、或は頗梨を以ってなす。敷くには雑色の茵蓐を宛転するを以ってし、垂るるには諸の幃帯を以ってし、妙白氎を以ってその上を覆い、散ずるには雑妙の華香を以ってし、座は高さ五里、白珠の帳を張り、その地の四辺に五色の華を散らし、衆の名香を焼き、沢香を地に塗る、般若波羅蜜を供養し恭敬するが故なり。曇無竭菩薩はこの座の上に於いて般若波羅蜜を説き、彼の諸の人衆はかくの如く曇無竭を恭敬し供養す、般若波羅蜜を聞かんが為の故なり。この大会に於いては、百千万衆の諸天、世人一処に和集し、中に聴く者あり、中に受くる者あり、中に持する者あり、中に誦する者あり、中に書く者あり、中に正観する者あり、中に説の如く行う者あり、この時の衆生はこの因縁を以っての故に、皆悪道に堕せず、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転なり。汝、善男子よ!曇無竭菩薩の所に往詣して、まさに般若波羅蜜を聞くべし。善男子よ!曇無竭菩薩は世世にこれ汝が善知識にして、よく汝に阿耨多羅三藐三菩提を教え、利喜を示教す。曇無竭菩薩の本、般若波羅蜜を求めし時も、また汝の今の如し。汝、去りて昼夜を計するなかれ!障礙心を生ずるなかれ!汝は久しからずして、まさに般若波羅蜜を聞くべし」と。
  
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  薩陀波崙はこれを聞いて心勇んで東方に行き、以後言いようもない艱難辛苦を受けながら、遂に衆香城に到りますと、実に説かれた如き荘厳がなされていたのでした。そして曇無竭菩薩に拝謁し、念願の般若波羅蜜を受けるのです。
  
  般若経ではこのように浄土を説いているのですが、「般若経27巻」の最後の巻に、この薩陀波崙の物語を置くということは、般若波羅蜜を行うに於いて薩陀波崙のように行えば、必ずこのような浄土が得られると保証するものに他なりません。
  
  悪魔はイエスに「汝はパンを望むか?」と聞きますが、浄土を望む者が、敢えてパンを望むでしょうか?そのような道理は端からないのです、悪魔は退却せざるを得ません。般若波羅蜜の指す所の道理もこれと同じなのですが、しかし人間の煩悩は余りにも厚く深い、これが薩陀波崙菩薩の苦行の理由です。お分かりいただけたでしょうか?永遠に得られない浄土を求めて果てしない旅をする、それが菩薩であり、人間の欲望をすべて満たすもの、これが浄土なのですね。
  
  最後にもう一つ見てみましょう、「阿弥陀経」には、こう説いていますね、「また次ぎに、舎利弗よ!彼の国には常に種種の奇妙、雑色の鳥あり、白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽(かりょうびんが)、共命の鳥、この諸の衆鳥は、昼夜六時に和雅の音を出すに、その音は、五根、五力、七菩提分、八聖道分、かくの如き等の法を演暢す。その土の衆生は、この音を聞きおわりて、皆悉く仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗よ!汝は、この鳥を実にこれ罪報の所生なりと謂うなかれ!所以は何んとなれば、彼の国土に三悪趣の無ければなり。舎利弗よ!彼の国土は、なお三悪道の名すらなし、何に況んや、実あるをや。この諸の衆鳥は、皆これ阿弥陀仏の、法音を宣流せんと欲する変化の所作なり。舎利弗よ!彼の国土は、微風吹き動かすに、諸の宝の行樹、及び宝の羅網は微妙の音を出し、譬えば百千種の楽、同時に倶になすが如し。この音を聞く者は、皆自然に、仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心を生ず。舎利弗よ!その仏の国土は、かくの如き功徳の荘厳を成就せり」。
  
  極楽の鳥だけが阿弥陀仏の変化の所作であるはずがない、この国の鳥もまた同じはずです。その鳥の鳴声に何を聞くかは、人の心に在る、これを阿弥陀経はこう説いているのです。
  
  またそれを唐の善導大師は、このように歌っています、
『鳥群は、実の鳥にあらず、
 天類も、あに真の天ならんや、
 須らく知るべし、妙楽を求むるとは、
 かならずや、これ戒香の全きなりと』
鳥の群れは、実の鳥でなかった!
天類も、まさか真の天ではあるまい。
どうだこれで分ったか!浄土を求めるとは、
かならずや、戒香を全うしなくてはならないと!
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  ここで『極楽を求めるとは、持戒を全うすることであるぞ』と善導は説いているのですね、浄土とは鳥類を始め、有らゆる生き物が幸福であるということなんです。その幸福な世界はまかり間違っても黒漆と金箔で表されるようなものであるはずがありません。この辺を間違えると、極楽のリアリティは突然失われ、単なる架空の世界、或はただ心の中だけの世界となってしまうのです。
  
  また、いただきますと言いさえすれば、何を何のように食ってもよいという事ではないはずなのに、誰かが言っていましたが、この国の人は、案外この「いただきます」を免罪符のように思っているのではないでしょうか?勿論言わないよりは言った方が良いに違いありませんが、口で言ってなんとかなるものではないのです。わたくしは最近、「いただきます」と言うごとに、内心忸怩たる思いを覚えてなりません。或は極楽にリアリティが無いから、このような風潮が世にはびこるのではないでしょうか?
  
  浄土の話から、とんだとばっちりが「いただきます」に降りかかったようですが、皆様も「いだだきます」と言われる時には、本当にいただいてしまって良いものかどうか、是非お考えいただきたいものと思います。
  
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  浄土はこの世の変じた結果であるか、それとも十万億土の彼方に在るのか、それはそれでまた大問題ではありますが、老人は何故かそれ以上、無性に自分の声が聞きたくなったのであります。まあ言ってみれば、録音機に歌を吹き込んで、それを聞いてみたくなったのですな、‥‥。
  
  昔、ラジカセに吹き込んだことがありましたが、それが再生してみると妙に野太く艶のない声に変じていましたので、恐れをなして、それ以後は一切その手の物に係わらないようにしてきたものですが、新聞の折り込みチラシに新にICレコーダーと名を変えて登場するに及んで、昔の夢が息を吹き返したと見え、またしても悪魔だか何だか分らないものが、「これでYouTubeにデビューしましょう!」と囁くのす。
  
  「耳元で囁かれると、つい、ふらふらと‥‥」と仰る方は、さだめし大勢いらっしゃることと思いますが、わたくしもまったくご同様でございまして、耳元で囁かれたり、値段が安かったりしますと、めっきり抵抗力が落ちてくるのでございますよ。
  
  早速近くの量販店で、店も品物も広告とはまったく関係なく、「 IC-recorder ICD-AX80」というSONYの製品が、触れてみてズシリとくる質感があり、かつ値段も安い物でございましたので買ってまいりました。他の物は皆妙に軽くて質感が感じられなかったからなのですが、何しろ説明書にはWindows XP/Vistaの名を挙げながら、Windows 7の名が無かったりするものですから、やはり軽い方が新型で、重い方は旧型だったのかな?と、少しばかり不安ではあります。
  
  胸を中学生のようにわくわくさせながら、吹き込みましたねぇ、‥‥。♪あれ、天人は羽衣の舞を舞い舞い帰り行く、風に袂がヒラヒラと~、「羽衣」唱歌ですね、次は♪ここは串本、向かいは大島~、そう「串本節」小唄勝太郎ですね、♪南の国、歌の国~、「懐かしのボレロ」は藤山一郎、それから♪はあ~、天竜下れば、ヨーホホイノホイノサッサ~、しぶきに濡れるよ~、「天竜下れば」は市丸さん、好きですねぇ、♪野崎参りは~、屋形船でまいろ~、「野崎小唄」は東海林太郎、♪牡丹のようなお嬢さん、シッポ出すぜと浜松屋~、「弁天小僧」これは三浦洸一ですね、♪雨は降る降る、城ヶ島の磯に~、「城ヶ島の雨」日本歌曲、これは「羽衣」と同じく梁田貞の作曲です、♪流す涙が、お芝居ならば、何の苦労もあるまいに~、「むらさき小唄」東海林太郎、♪ロイド眼鏡に燕尾服、泣いたら燕が笑うだろ、涙出た時ゃ、空を見る~、「街のサンドイッチマン」鶴田浩二、男にも惚れられるような好い男ぶりでした、そして最後に♪南の薔薇、そよ風にほほえむ君の姿、胸に抱きくちづける花よ、バラの花~、そう「南の薔薇」は近江俊郎が歌っていました。
  
  これで十曲ですか、‥‥よほど自分の声を聞きたかったのですな、‥‥よかった、よかった‥‥。
  
  現代の音響技術は一昔前とは比べものになりません、これならYouTubeにデビューする日も案外近いかも知れません、‥‥ハゲミになりますな。
  
  これは槙の実です。散歩の途中で見つけました。この実の青い部分は食べられませんが、赤い部分は食べられます。針葉樹独特の芳香がありますので、甘い実ですが多く食べようとは思いません。しかし美しさは抜群です。
  
  
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  
  
  
  
  
  
  (仏画シリーズ 地獄変相第十 おわり)