<home>

仏画シリーズ 地獄変相第七
  
**************************
  
  この暑い盛りにこんな事しなくてもよさそうなものですが、丸刈り頭というものは二週間に一度づつぐらいはバリカンでガリガリやらないと、少しばかりみっともないことになりますので、やむなく露台に座布団を敷き、その上を新聞紙で覆って臨時の床屋を開いております。汗は流れて滝のようですので、早く終らないかとそればかりを思い、ひたすら無念無想の三昧境に入っていたところ、何かいつもと違っているのに気が付きました。首に結んで前に垂した風呂敷の中に落ちる髪の毛の量がやけに少なく思えるのです。以前はバサッと景気よく前に落ちていたものが、今はポソッといった具合です。髪の毛の一本一本もやはり細くなったようが気がしますので、早晩やかんのごとくなるのもすでに止めようがないところまで来ているのかも知れません。諸行無常ということですか、‥‥と近況をご報告したところで、今月は大智度論が少し早めにかたづきましたので、奈良遷都1300年祭にでもいってこようかと思っていたのですが、何しろ連日のこの暑さ(7月24日ごろ)で、水難、熱中症などがさかんにニュースにも取り上げられています。まあここは何もせずに家に籠もっているのが一番だろうということで、新聞だのチラシの広告だのを見ておりますと、「だから、葬式は必要だ。」という本の題名が目に飛び込んでまいりました。いや確か「お葬式は、要らない」とかいう本もあったような、そこでちょっと考えてみることにしました、‥‥。
  
  葬式とくれば、結婚式ということで、先に結婚式について考えてみるのですが、これがどうも最近のは妙にキリスト教一本に絞られたようで、しかも外人の神父がカタコトの日本語でもって聖書の一節ぐらいを朗読し、新郎新婦に本当に結婚する気があるのかどうかを尋ねるというような場面に遭遇しますと、日本人としてこの奇妙なアメリカナイズに心が穏やかではいられないというようなものではなく、この厳粛さのかけらもない奇妙な茶番劇に脇役として登場してみると、どうも誰かに乗せられているのではないかと思わせる何かが確かに感じられるのです。しかし結婚式の形態はともかくとして、その効用という方面から考えてみると、非常に多くの見知らぬ人が、互いに何等かの関係を感じて一堂に会するところに、何がしかのものを期待しても無理はないようにも思われます。少々茶番じみていようと、何しろメデタイことには違いありませんので、人の気もほぐれていることですし、何等かの新たな関係、或はビジネスチャンスが生じないとも言えないのです。
  葬式の方はどうか?こちらは取りあえず仏教の独擅場ということになっておりますが、儀式としての厳かさは人により受け取りようが違うとはいうものの、やはり伝統というものがありますので、何がしかのものは有ると思っていたのですが、葬儀屋が一切を取り仕切るようになってからは、例えば葬儀場のエントランスで若い女性がフルートを吹き、『かあさんはよなべをして、てぶくーろあんでくれたー』というような曲を奏でて、茶番的雰囲気を必死に盛り上げようとしておりますので、伝統的雰囲気は薄れ、そればかりかやはり何かいたたまれないような奇妙な気がすることになっております。そこでその効用とは何かと考えますと、これはただ故人の築いた人的資源、人脈の継承ということが一番で、残された者が改めてそれを確認するということでしょうが、何も寡黙になりがちなこのような場でなくてもよいような気がしないでもありません。まあその他にも孝行の証し、不孝のアリバイといった意味もないではありませんので、そう簡単ではありませんが、数十万円、乃至数百万円を投じるつもりであれば別の方法もありそうな気がするのは云何がなものでしょうか?
  昔の葬儀は、村中総出で執り行われ、他の介入する余地のないものでしたので、そこにはさまざまな意味が存在しており、それを否定することは極めて無謀なことのようでしたが、今のように葬儀社に総てお任せしますというような事になりますと、改めてその意義を確認したくなるのです。しかしそこをもう一歩ふみこんで考えてみますと、自分は自分、他人は他人で、必要だと思われればいかにも必要でしょうし、必要ないと思われればそれはいかにも不必要なことでしょうし、他人の詮索する余地のない事であるとするのがよいのではないでしょうか?
  
  いやはやこれはどうも、何ともしまらない結論になってしまい、まことに申し訳なく思っております。これも暑さのせいでしょうかネ、‥‥。思考力の衰えについては常々感じておりますが、やはりそれは言わぬが花、これもやむを得ないことなんでしょう、何事も諸行無常‥‥。
  
**************************
  
  今月は少し暇ができましたので、経文をぱらぱら紐解いておりますと、少し気になるお経にであいましたので、少し読んでみましょう、――

如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時毘舍佉沙門般闍羅子於講堂上。集諸比丘。而為說法。言辭圓滿。所說無滯。能令大眾。聞者悅豫。聽之無厭。即得悟解。時諸比丘聞其所說。踊躍歡喜。至心聽受。供養恭敬。撿心專意。聽其說法。不為利養。及與名稱。應義才辯。無有窮盡能令聞者憶持不忘。時會大眾。皆如是聽。有諸比丘往詣佛所。頂禮佛足在一面立。白佛言。世尊。毘舍佉比丘般闍羅子。在講堂上為眾說法。不為利養名稱讚嘆。應義辯才。無有窮盡。能令聞者憶持不忘佛告諸比丘汝可往喚彼毘舍佉般闍羅子。時諸比丘受教往喚毘舍佉。既受敕已。來詣佛所。頂禮佛足在一面立。佛問毘舍佉言。汝實集諸比丘為其說法。乃至令諸比丘。至心聽受有是事不。答言實爾。佛讚之言。善哉善哉。毘舍佉。汝集諸比丘。在講堂上。為其說法。又復不為利養名稱。言辭圓滿。聞者歡喜。至心信受。汝自今已後。常應如是說法饒益。汝諸比丘。若多若少。應行二事。一者應說法要。二者若無所說。應答默然不得論說諸餘俗事。汝等今者。莫輕默然。而默然者。有大利益。爾時世尊。即說偈言

 若諸大眾中  愚智共聚集  若未有所說  人則不別知 
 若有所顯說  然後乃別知  是故汝今者  常應說法要 
 熾然於法炬  豎立仙聖幢  諸阿羅漢等  咸妙法為幢 
 諸仙勝人等  以善語為幢

佛說是已。諸比丘等聞佛所說。歡喜奉行

  
  
このように聞いた、――
  ある時、仏は舎衛国祇樹給孤獨園に在した。
  その時、毘舎佉沙門般闍羅子は講堂の上に於いて、諸の比丘を集め、為に法を説いた。言辞は円満にして、所説に滞り無く、よく大衆の聞く者をして悦予せしめた。これを聞いて厭くこと無く、即ち悟解を得た。
  
  時に、諸の比丘は、その所説を聞き、踊躍し歓喜して至心に聴受し、供養恭敬し、心を斂めて意を専らにし、その説く法を聴いた。
  利養、及び名称の為でなく、義に応じた才辯には窮尽あること無く、よく聞く者をして憶持し忘れざらしめた。
  時の会の大衆は、皆このように聴いたのである。
  
  ある諸の比丘は、仏の所に詣って、仏の足に頂礼すると一面に在って立ち、仏に白して言った、――
  『世尊!毘舎佉比丘般闍羅子は、講堂上に在って衆の為に法を説いて、利養名称讃歎の為でなく、義に応じた辯才には窮尽あること無く、よく聞く者をして億持し忘れざらしめました』、と。
  
  仏は、諸の比丘に告げられた、――
  『汝!往って彼の毘舎佉般闍羅子を喚べ!』、と。
  時に、諸の比丘は教を受け、往って喚んだ。
  すでに勅を受けおわり、来て仏の所に詣り、仏の足に頂礼して一面に在りて立った。
  
  仏は、毘舎佉に問うてこう言われた、――
  『汝は、実に諸の比丘を集めて、その為に法を説き、乃ち諸の比丘をして、至心に聴受せしむるに至ったとは、この事が有ったか不か?』、と。
  答えて言った、――
  『実にそのとおりです』、と。
  
  仏は、これを讃えて言われた、――
  『善いかな、善いかな、毘舎佉よ!汝は、諸の比丘を集めて講堂の上に在り、その為に法を説いた。また利養、名称の為でなく、言辞円満にして、聞く者をして歓喜し至心に信受せしめた。汝は、今より已後、常にまさにかくの如く法を説いて饒益すべし。』、
  『汝、諸の比丘よ!もしは多くとも、もしは少くとも、まさに二事を行うべし。一は、まさに法要を説くべし。二は、もし説く所が無くんば、まさに答うるに黙然たるべし。諸余の俗事を論説することを得ず。汝等、今は、黙然を軽んずること莫れ!而も黙然には、大利益有り』、と。
  
  その時、世尊は、即ち偈を説いて言われた、――
  『もしは諸の大衆の中に、愚と智と共に聚集せん、
   もしは未だ所説有らずんば、人は則ち別知せざらん、
   もしは説を顕す所有らば、然る後に乃ち別知せん、
   この故に汝今は、常にまさに法要を説くべし。
   熾然たる法炬に於いて、仙聖の幢を竪立せよ!
   諸の阿羅漢等も、咸妙法を幢と為せ!
   諸仙勝れたる人等、善語を以って幢と為せ!』、と。
  
  仏は、これを説きおえられた。
  諸の比丘等は、仏の所説を聞いて、歓喜し奉行した。
  
  
  このように聞いております、――
  ある時、仏は舎衛(しゃえい)国の祇樹給孤獨(ぎじゅぎっこどく)園にいらっしゃいました。
  
  その時、毘舎佉(びしゃきゃ)沙門の般闍羅(はんじゃら)子が、講堂の上に、諸の比丘を集めて法を説きましたが、その言葉は円満であり、渋滞することもなく、よく大衆を悦ばせましたので、これを聴く者は厭きることがなく、よく理解することができました。
  
  その時、諸の比丘は、その所説を聴いて躍り上がって喜び、心より聴受して、敬意をもって一心にその説法を聴きました。
  
  その説法は、利養や名声の為でなく、意味に応じて弁説は尽きることがなく、聞く者の終生忘れ難いものとなりましたので、その寺院に会する大衆は、皆悉くこれを聴いたものです。
  
  ある諸の比丘が、これを仏に告げました。
  仏は、そこで毘舎佉般闍羅子を喚ばれ、彼が来て仏の足に頂礼すると、こう尋ねられました、――
  『お前は、実に諸の比丘の為に法を説き、諸の比丘をして心より聴受せしめたそうであるが、この事は実に有ったか、無かったか?』、と。
  答えて言いました、――
  『実に、そのとおりです』、と。
  
  仏は、これを讃えてこう言われました、――
  『善くやった、善くやった、毘舎佉よ!お前は、講堂上に諸の比丘を集めて、その為に法を説いたが、また利養や名声の為ではなく、言葉は円満であり、聞く者をして歓喜し、心より信受せしめた。お前は、今より以後、常に法を説いて利益せよ!』、
  
  『お前たち、諸の比丘よ!たとえ多くとも、少くとも、まさに二事を行え!一は、法の要旨を説くこと、二は、もし説くことが無ければ、黙然として、諸の俗事を論説しないことである。お前たちは、今こそ黙然を軽んじてはならない!黙然には大利益が有るのだから』、と。
  
  その時、仏は歌で、こう説かれました、――
  『諸の大衆の中には、愚者も智者も共に集まるが、
   もし説かれなければ、人は別け知ることがないだろう。
   もし説かれたならば、その後に人は別け知るのである、
   この故にお前たちは今、法の要旨を常に説くべきである。
   法の炬(たいまつ)を燃やして、聖人の旗を打ち立てよ!
   諸の阿羅漢もまた、皆妙法の旗を振れ!
   諸の勝れた人は、善良の言葉を旗とせよ!』、と。
  
  仏は、説きおえられました。
  諸の比丘は、仏の所説を聞き、喜んで行いました。
  
**************************
  
  これ以上、
    何も解説する必要はないと思いますが、一言でこれを言えば、
    沈黙は金、洋の東西を問わず、皆言われていることは同じです。
  どうやら、
    自ら反省し誡めて、これを座右の銘にでもした方がよさそうですな、‥‥。
  
  
**************************
  
  葬式について、先ほどは思考を放棄してしまいましたので、内心忸怩たるものが無いではありません。そこで論語中より、、わたくしに代って孔子さまに語っていただくことにいたしましょう、――
林放問禮之本。子曰。大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚。
林放、礼の本を問う。子の曰わく、大なるかな問いや。礼はその奢(おご)らんよりはむしろ倹(つづまやか)なれ。喪はその易(ととの)えんよりはむしろ戚(いた)め。
  
林放という人が、礼の根本を問うたとき、孔子はこう言われた、それは大きな問題ですぞ。礼(儀式)は奢侈であるよりはむしろ倹約でなくてはならず、喪(葬儀)はその体裁を整えるよりはむしろ悲しまなくてはならないのですから、と。
  
**************************
  
  例年、この時期には天然あゆが、スーパーに並びますので、それを待ってわが家でも鮎を食べるのですが、今年は養殖ばかりが並んでおり、食べることができません。こう言いますと、いくらでも食わせる所はありますよ、と皆様は仰るのではないかと思うのですが、わざわざ出かけてまで何かを食いたいという気がもはや失われていますので、無いなら無いで食わないまで、ということにしておりましたところ、和菓子やさんに、このようなものを見つけましたので、代わりに購めてまいりました。
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  
  
  そうそう、つい忘れるところでした。肝心の仏画シリーズについて一言もございませんでしたが、今月は第七泰山王となっています。下に『地蔵菩薩十王経』より抜粋しておきますので、ご自由にお訳しになってください。
第七太山王廳(藥師如來)
依前三王處斷勘決兩舌之罪善因惡緣求於生緣爾時天尊說是偈言。
 七七冥途中陰身 專求父母會情親
 福業此時仍未定 更看男女造何因
亡人逼苦愁歎頌曰。 
 待七七箇日 不飲食逼寒
 男女以遺財 早造善扶我
 設親禁入獄 子靜居家哉
 何恐閻獄苦 頭燃猶非喻
 
 
 
 
 
 
 
  (仏画シリーズ 地獄変相第七 おわり)