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仏画シリーズ 地獄変相第六
  
  四生(ししょう、衆生)無常の形、生あるものは死に帰す。哀れなる哉電光の命、草露の朝を待つが如し。悲しい哉風葉の身、槿花(きんか、朝顔)の朝にして夕に至らざるに似たり。五蘊の仮舎に旅客の主、六趣を指して中有(ちゅうう、今世後世の中間)に生を求む。幽魂は無常にして独り逝き代れば、質(かたち、肉体)は山沢に残り骨は野外に曝す。人中天上の快楽は夢中にして幻の如し。八苦の悲しみ忽ち来たり、五衰(ごすい、諸天の老衰)の憂え速かに到る。地獄畜生の果報は業に依りて感ず。八寒八熱の苦しみを受け、残害飢饉の患えあり。或は鉄杖骨を摧(くだ)き、刀林膚(はだえ)を割く。眼には獄卒阿榜(あぼう、拷問者)の嗔質(しんしつ、訶責)を見、耳には罪人叫喚の声を聞く。かくの如く火、血、刀の苦しみ間(ひま)無く、億々万劫にも出でがたし。愚なる哉一旦の名利に依って永く三途の沈淪(ちんりん、沈没)を受けんこと。拙い哉この度、生死の苦海を出でずんば未来に何んが菩提の彼岸に到らん。速かに三界六道を厭いて、常楽の門に入るべし。
  
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  何かじーんと来ますねぇ、‥‥これは法然門下証空の文なのですが、読む人の心を打つ力は並大抵のものではございませんな、師匠の法然上人などでも残された消息類を読んでみますと、文章力が普通でないのを感じましたが、これにはまたそれ以上の力を感じられます。
  
  実は今月も、例の『地蔵菩薩十王経』で行こうと思っていたのですが、中を見て驚いたことに、「第六変成王(弥勒菩薩) 前の二王の秤、鏡に両現する、もしは罪もて悪に逼り、もしは福もて善を勧むるに依って、その時、天尊はこの偈を説いて言わく、――
         亡人六七滞冥途   切怕坐人驚意愚
         日日只看功徳力   天堂地獄在須臾」、と。
  
  ‥‥何うもよく解りませんが、ただ、これだけなのでございまして、しかもこの偈がどうもうまく訳せない、要するに意味が取れないのですな、そんな訳で、やむを得ず西山上人証空の出番となったような次第でございます。
  
  解り易い文章ですので、これ以上の解説は必要なかろうとは思うのですが、老婆心ながら少しばかり解説致しましょう。
  
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  四生とは、一に胎生:例えば人獣、二に卵生:例えば魚類鳥類、三に湿生:蚊や蝿等、四に化生:天、或は地獄、餓鬼に属する生き物、これを総じて衆生といい、この衆生は日に日に形を変えてやがて死に至るので無常の形といいます。無常の形はどんなに長生きな生き物でもやがては死なない訳にはまいりません。まことに哀れなるかな、電光の命、草露の朝(あした)を待つが如し。生き物は皆生まれながらにして死刑執行の判決が下っているのです。悲しいかな風葉の身、風に吹かれた木の葉のようであり、槿花の朝にして夕(ゆうべ)に至らざるに似たり。槿花(きんか)とは、一名あさがおといいますが、その実はムクゲという花木の名です。草花の朝顔と同じように朝咲いて夕にはしぼんでしまいますので、槿花一日の栄などと云われ、はかないことの喩えとなっております。
  
  五蘊の仮舎に旅客の主、五蘊(ごうん)とは色受想行識、即ち人の身体と心とを指しますが、これは常に仮の宿、謂わゆる仮舎(けしゃ)に喩えられます。旅客の主とは、旅客は旅人、即ち仮舎に宿る所の魂魄を指しています。この肉体も、この心も、謂わゆる仮の宿に過ぎず、たまたま霊魂が通りかかって、主のごとく振る舞いますが、また旅人となって去らなくてはなりません。
  
  六趣を指して中有に生を求む、その去りゆく先を六趣(ろくしゅ)といい、また六道ともいいます。即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種がそれです。この六は、どれもこれも無常であり、一瞬たりと立ち止まる訳にはまいりませんので、故に六道と道に喩えるのです。
  
  中有に生を求む、中有(ちゅうう)とは、この世とあの世との境界を指すのであり、人は死んでから七七日、即ち四十九日の間は、この中有に止まるものとされています。中有に止まって、次ぎに生まれる処を探し求めますので、中有に生を求むというのです。
  
  幽魂は無常にして独り逝き代れば、質(かたち)、即ち物質である所の肉体は、山沢に残り、骨を野外に曝すことになるのです。逝(ゆ)き代るは、逝き去ると同じです。この仮の宿を明け渡して逝くという意味に取ればよいでしょう。
  
  人中、天上の快楽は夢中にして幻の如し。八苦の悲しみ忽(たちま)ち来たり。八苦とは、一に生:六道に生まれることであり、最大の苦しみです、二に老:老いるとは、少しづつ身体と心の能力を失うことです、三に病:身体と心の能力を部分的に失うことです、四に死:生まれてより手に入れた所の、身体も心もその他の一切の所得も、すべてを手放さなくてはならず、また次の生を待たねばたりません、五に愛別離苦:愛惜する所の物との離別は常のことです、六に怨憎会苦:処処に敵を作らなくてはなりません、七に求不得苦:求めても得られないのが通常です、八に五陰盛苦:身体と心は苦しみを山盛りにする器に過ぎません。まことにこの八苦に囲まれていては人中、天上の快楽は夢中にして幻の如し、という訳です。
  
  五衰の憂え速かに至る。五衰とは天上の生物の寿命は何百万歳とか云われていますが、やはり終りがあり、その最後には五つの衰えが顕著に現れます。即ち一に衣裳が垢で汚れる、二に頭上の花鬘が萎む、三に臭気が身に入る、四に腋下に汗が出る、五に本座に居て楽しまず、ということです。
  
  地獄、畜生の果報は業に依りて感ず。地獄、畜生など、一切の罪苦の果報は、皆自らの行いにより招いた所のものばかりです。感ずとは、苦を感じることをいいます。
  
  八寒八熱の苦しみを受け、地獄には八寒地獄、八熱地獄の別があり、人中には残害、即ち残殺、傷害と飢饉の患(うれ)いがあります。
  
  地獄に入れば、業の果報により、或は鉄杖が骨を摧(くだ)き、或は刀林は膚(はだえ)、即ち皮膚を割き、眼には獄卒や阿榜(あぼう)が嗔質(しんしつ)するのを見、耳には罪人の叫喚の声を聞くことになるのです。阿榜とは拷問する者の意、嗔質は怒って質問するの意です。
  
  かくの如く火、血、刀の苦しみは間断無く、この地獄からは億億万劫にも出でがたし。愚なるかな、一旦受けた名利により、永く三途(さんづ)、即ち地獄、餓鬼、畜生の三悪道に沈淪を受けるとは。一旦は一朝、沈淪は沈み込んで見えなくなることです。
  
  拙いかな、この世にて生死の苦海を出なければ、未来に何うして菩提の彼岸に渡れよう。菩提は苦の無い理想の境地。ああ、ここにさえうまく気がつけば、菩提の彼岸に渡ることができるものを、まことに拙いかな、早く三界六道を厭うて、常楽の門に入って欲しいものだ。
  
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  さて、この『証空』でございますが、手元にある伝記などを見てみますと、やはりただ者ではございません。今月は他にお話しすることもございませんので、その辺をひもときながら、要約してみたいと思います。
  
  ○治承元年(1177)十一月九日加賀国の国守親季朝臣の家に誕生し、文治元年(1185)三月内大臣久我通親公の猶子となる。九歳。※栴檀は二葉より馨しの喩えの如く、童子の性すこぶる明敏なれば、一門の殊勝、内大臣久我通親の望を受け、その養子となり、師傅(しふ、教師)これを教養せるに、なお自修励精の功を得て智能日日に増せり。
  ○建久元年(1190)春、切に出家を求む。試に一條堀河の橋占を訪えるに、兆あれば父母これを許せり。※十四歳の春、大臣、並びに父母は世に習いてこれを元服せしめんとするに、童児これを肯んぜずして曰わく、われに理髪して俗塵に交わり、世間の名誉利達を求むる志なし。冀わくは、恩愛の家を出でて無為の境に入り、上は菩提を求め下は衆生を化益せんことを、と。大臣並びに父母、素よりこれを出家せしむるの意なく、種種に慰喩して理髪を勧むるも、童児の素志更に変ずる色なく、ここに於いて大臣止むを得ずして終に元服の儀を擱(お)き、橋占の卦に随いて出家を許せり。
  ○同年四月吉水の禅室に入り、即日に出家す。名は善恵坊、諱は証空。時に十四歳。源空五十八歳。※大臣父母は誰を師範と頼みてこの教養を託せんか、何れの寺院に送りて入室出家せしむべきか、一家一門相集うて種種に談話せるに、師は自ら当時吉水にて専ら念仏弘通せる法然上人源空の下に入室せんことを切に願い、終に希みどおり弟子入りせり。この時、上人対面して曰わく、近代の遁世者の弟子となる者も、或は師坊の跡を継ぎ、所持品を譲り受けをもする所存なきにしも非ず。然るに予が所持せる黒谷の経蔵はすでに法蓮坊に付属し、吉水の房舎は真観坊に与うべく約束しければ、汝に与うべき房舎聖教のすでに無きこと云何、と問いければ、師の曰わく、只今師の坊に参入せんとするは一に出離解脱の為にして、全く房舎聖教の付属を希むに非ず、と言いけり。
  ○同九年(1199)春、源空の選択本願念仏集を撰するに当り、勘文の事を執る。源空六十七歳、証空二十三歳。※法然上人は九條関白兼実公の帰依すこぶる厚く、時時、上人を請じて出離の要道を尋ね、浄土の法門をも聞きしところ、尊崇すること一方ならず、やがて頻りに請ぜられしかば、上人それを厭いて、建久九年正月の初めより自ら禁止して絶えて他出をひかえけり。乃ち公甚だ思慕に堪えかね、終に末代安心の亀鑑と為すべく、上人に浄土の要文を撰集せんことを求め、ここに同年春三月選択本願念仏集一巻の撰集に着手せり。時に師は二十二歳にして勘文の役に当り、命を受けて広く経論の文を引き、また義理の精談に与(あづか)れり。
  ○正治元年(1199)、師の上人に代りて九條関白に選択集を講ず。二十三歳。
  ○同年、兼実の孫九條道家の求めに応じて観経疏鈔十巻を撰す。
  ○元久元年(1204)十一月七日源空七箇条の制誡を制するに当り、門徒百八十余人連署する中にその第四に署名す。源空七十二歳、証空二十八歳。※専ら念仏往生を称する上人に対し、山門(比叡山)の風いよいよ厳しく、終に上人は七箇条の制誡を制して弟子の大衆に署名せしめ、自らも黒谷沙門源空と署名して、その立場の山門に違背するに非ざるを述べて、延暦寺住持に送れり。即ち、一に未だ一句文すら窺わざるに、真言、止観を破らんとし、余の仏菩薩を謗るを停止すべき事。二に無智の身を以って有智の人に対し、別行の輩に遇わば好んで諍論を致すを停止すべき事。三に別解別行の人に対し、愚癡偏執の心を以って、まさに本業を棄て置くべしと称し、強く嫌って嗤うを停止すべき事。四に念仏門に於いては戒行無しと号し、専ら婬酒食肉を勧め、律儀を守る者を適(せ)めて雑行人と名づけ、弥陀の本願に憑(たの)む者は造悪を恐るること勿れと説くを停止すべき事。五に未だ是非を辨ぜざる癡人が、聖教を離れ、師の説に非ざるに恣(ほしいまま)に私の義を述べ、妄りに諍論を企てて智者には笑われ愚人をも逆乱せしむるを停止すべき事。六に癡鈍の身を以って殊さら唱導を好み、正法を知らずして種種の邪法を説き、無智の道俗を教化するを停止すべき事。七に自ら仏教に非ざるを説き、邪法を正法と為し、偽って師範の説なりと号するを停止すべき事。
  ○建暦二年(1212)源空示寂す。八十歳、証空三十六歳。
  ○建保元年(1213)春天台座主慈円の付属を受けて西山善峯寺に移り、尋いで北尾往生院に居を遷して盛に師承を弘む。三十七歳。
  ○承久三年(1221)磯長叡福寺の願蓮上人に従い天台止観を学ぶ。四十五歳。
  ○嘉禄元年(1225)九月天台座主慈円、師を請じて最後の知識と為す。
  ○安貞二年(1228)正月上人の遺骸を西山に移して荼毘し、信空と議して遺骨を分かち、一分を門人に与え、一分を石櫃に納めて粟生光明寺を廟と定む。五十二歳。
  ○延応元年(1239)八月十五日念仏三昧を発得す。六十三歳。
  ○寛元元年(1243)後嵯峨天皇の勅を受け円頓戒を奉授す。この時、綸旨を賜って国師和尚に任ぜられ、弥天と号す。後毎月宮中に於いて戒を説く。乃ち布薩す。六十七歳。
  ○同三年(1245)四月皇太后に召されて戒を奉授し、また一七日戒を説く。
  ○同四年(1246)秋五部の大乗経並びに自他宗の章疏を刷り、諸山に附す。
  ○宝治元年(1247)十一月二十二日、自ら往生の期の近きを知りて門弟に対して菩薩戒及び観経の要義を示す。二十四日天台大師講を行い、二十五日泉涌寺明観の為に菩薩戒義疏の要義を談じ、二十六日晨朝大衣を着して阿弥陀経を読誦し、午前に至りて合掌念仏して終に白河遣迎院に於いて示寂す。七十一歳。遺身を西山三鈷寺に斂め、塔を立てて華台廟と称す。著作多数。
  ○寛政八年(1796)八月二十四日光格天皇より鑑智国師を賜る。
  
  故に、師に一首の歌あり、即ち
    生きて身をはちすの上にやどさずば、念仏もうす甲斐やなからん
  
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    生きて身を
      はちすの上にやどさずば
       念仏もうす甲斐やなからん
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  この歌は他に解釈の余地が無いわけではありませんが、‥‥
  これでは何うでしょう?
    ――この世に於いては、仏の如く、
         慈悲行に身を置くのでなければ、
       念仏もうして、
         何の甲斐がある?
  
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  梅干し作りは、わが家の年中行事のようなもので、梅雨が終りますと毎年このようにして土用干しということを致します。 梅干しは盆過ぎにはすでに食べられるまで漬かっていますが、わが家では二年間食べずにおき、塩味酸味が円くなってから食べるようにしています。 梅の実3キログラムに対して粗塩500グラムという昔ながらの割合で漬けますので、日の丸弁当にすれば二合のご飯が梅干し一個で食べられることになり非常に経済的です。
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  
  
  
  
  
  (仏画シリーズ 地獄変相第六 おわり)