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仏画シリーズ 地獄変相第四
   
  
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  仏画シリーズも、いよいよ佳境に入ってきたようで、鬼の種類もどうやら増えてまいりました。手前の青鬼なんぞは鼻が鳥の嘴のように尖って極めて斬新なスタイルをしていますし、その向こうの赤鬼に至っては、何と頭が三つも余分についているような始末でございます。こうなりますと何か一番奥の緑色の鬼の普通さ加減が気になりますが、やっていることも極めて地味な作業で、釘なんどをこつこつと打ち付けているのであります。
  
  隅の札には「第四五官王 阿経忌 本地普賢菩薩」と書かれています。例によりまして、全然あてにならない「地蔵菩薩発心因縁十王経」によれば、これについて「第四 五官王の宮(普賢菩薩)。三江の間に於いて官庁を建立す。大殿の左右に各一舎あり。左は秤量(ひょうりょう、てんびんばかり)舎、右は勘録(かんろく、勘定記録)舎なり。左に高台あり、台の上に秤量幢(どう、先に旗の付いた柱)あり。業匠構巧して七の秤量を懸く。身口七罪(殺、盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語)の軽重を記せんが為なり。意業の所作(貪欲、瞋嫉、愚癡)は秤量に懸からず。次ぎに鏡台に至りてまさに鏡影を見るべし。この秤量に於いて点目に三の別あり。一には隻目、断じて重罪と為す、重の中に軽を開いて二八獄の罪あり。二には両目、断じて中罪と為す、餓鬼の罪なり。三には分目、断じて下罪と為す、畜生の罪なり。不妄語戒を破るを先とし、余の造悪を後とす。秤の前に至る時、秤の錘(おもり)自ら動いて自然に高低し、亡人を呵して言わく、汝が所造の罪を秤量するに重しと定むと。亡人、欺き咳(しわぶ)いて言わく、われ未だ秤に昇らず、闇に何を為すとも、われ敢えてこれを信ぜずと。その時、獄卒、罪人を取りて秤盤の上に置くに、秤目故(もと)の如し。亡人、口を閉じ、造悪の面を変ず。獄卒、これを下ろして勘録舎に伝え、赤紫の冥官をして点秤を書かしめ、光録司侯の印を録帳に押し、具に憲章に載せて閻魔宮に奏す。」とありますが、秤量幢や鏡台などはどこにも見当たりません。まあ、この画師は、そのような瑣末の事を一切省いて、ひたすらインパクトのある場面のみをねらったということでしょうか。
  
  気を取り直して、絵の中に解を得ることにしましょう。ここには四種の罪人が描かれています。一は身体に釘を打たれ、二は氷に閉じこめられ、三は火焔の中に追い込まれ、四は煮えたぎる泥、恐らく糞尿の中で大蛇に噛まれています。
  「大智度論巻16」によれば、どうやら阿鼻(あび)地獄と寒氷地獄という二つの地獄が描かれているようです。
  
  阿鼻地獄というのは、地獄中の最も深い辺りに縦横四千里の鉄の城壁があり、その中では獄卒の羅刹(らせつ、鬼)が罪人を、大金槌で鍛冶屋が釘を打つように打ったり、頭から足の先まで皮を剥いで、牛の皮をなめすように板に釘で打ち付けたり、両方に引っ張って引き裂いたり、燃える鉄の車に載せて火の坑に堕とし入れたりして、間断なく苦痛が続きます。燃えさかる炭を抱かせて煮えたぎる糞の河を出させ、その熱い糞の河の中に追い込みますと、鉄の嘴をもった毒蛇が出てきて頭を食い破り、鼻の孔から入って足先から出るというようなこと致します。この他にも、剣を隙間なく立てた道を走らされて足下から刺身のようにズタズタになったり、落ち葉のように飛び交う利刀によって耳や鼻や手足などを削がれたり、恐ろしい鉄の牙をもった犬に追いかけられて棘の林の中を逃げ回り、毒蛇悪虫に身体を囓られたり、大きな鳥によって嘴で頭を破られ脳みそを啜られたり、苛性ソーダの河に入ったり、熱した鉄板や鉄の棘の上を歩かせられたり、尖った鉄の杭の上に坐らせられて肛門から口まで貫かれたり、口をヤットコで開かせられて溶けた銅を流し込まれ、鉄の丸を呑まされたりと、思うことさえできないような苦しみが次から次と絶え間なく続いて果てしがない。これが阿鼻地獄です。阿鼻とは絶え間がないという意味なのです。
  もう一方ですが、八つある寒氷地獄の中でも、これは尼羅浮陀(にらぶだ)地獄という地獄でしょう。罪人は隙間のない氷に閉じこめられてまったく身動きができません。
  阿鼻地獄に堕ちる者とは、その昔、五逆の罪を犯した者です。五逆とは、一父を殺す、二母を殺す、三阿羅漢を殺す、四仏身を傷つけ血を出させる、五和合僧を破ることをいいます。阿羅漢(あらかん)とは悟りを開いた聖者をいい、和合僧を破るとは論争を起して全僧侶の統合を壊ることです。また、善根を断って一切の善行を行わず、法を法でないと言い逃れ、因果の道理を信じず、善人を憎んで嫉む者もこの地獄に堕ちます。この地獄に堕ちたならば永久にそこから出ることはありません。
  寒氷地獄に堕ちる者とは、仏、仏弟子および持戒の人を誹謗中傷した者など、口の四罪を犯した者がこの地獄に堕ちます。口の四罪とは、一妄語、二両舌、三悪口、四綺語をいいます。妄語とは嘘やデタラメを言うこと、両舌とは仲の良い二人に別々の事を言って仲違いさせること、悪口とは悪口雑言および聞くに堪えないことば、綺語とは飾ったことばや冗談などの実のないことばをいいます。
  
  まあ何によらず絶対ということはございませんから、このようなことが絶対ないとは言い切れないものがあります。お互い、用心するに越したことはないのですから、是非ともご用心くださいませ、ということで地獄の解説を終ることにいたしましょう。
  
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  わが家から車で30分ほども走りますと、銀杏(ぎんなん)の産地があります。今年は次から次と何かと物入りが続いておりますので、ひたすら節約に努めておりますが、こりゃもみじ狩りも手近な所で済ませた方がよかろうということで、カメラ片手に半日ばかりぶらついてきました。
  
  上の写真は真っ黄色に色づいたいちょうの葉が太陽に透けるところをねらったものですが、左上の小枝の隙間から洩れた光線がレンズの中でハレーションを起して右下に思わぬ効果をあげています。本来なら失敗写真と言ってもよいのですが、思わぬ所に赤のアクセントがついて、どうです面白うございましょう?
  
  デジタルカメラというものは実に結構なもので、一枚当りの単価を気にしなくてもよいということが、これほどまでにも心を楽にしてくれるのですね。少しばかり気が引けますが、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということでしょう、面白い写真が以前よりは確実に多くなったように思えます。
  
  しかし何ですねぇ、後になってディスプレイ上で見てみますと直接眼で見るのとは違って、光線の良し悪しというものが、写真としての出来映えに非常に影響があるってことがよく分かりますね。
  太陽が厚い雲に覆われた曇天の空は、光が死んだようになって生気のある写真が撮れませんし、太陽を背にした順光線も、実際に立体物を両目で見るのとは違って、物が平べったく写りますので、やはり面白くありません。
  
  それから下の写真をご覧ください、右横少し前方から太陽の光を浴びていますね。三角に束ねられた藁の影がやはり三角に伸びていますので、それがよく分かります。十一月の下旬、ちょうど二時頃のこの光は物に陰影を与え、陰影があることによって物が立体的に見えるのです。それから遠くの物にもコントラストがついて明了に見えますね、空気に透明感が感じられるのはそのためです、‥‥。
  
  あっ、これはどうもついわたくしとしたことが、‥‥  
孟子曰、人之患、在好為人師。
  『孟子曰く、人の患(わずらい)は、好んで人の師と為るに在り。(孟先生はこう言われた、人が災難に遭うとは、好んで人の師となりたがるところに在る。)〔孟子離婁(りろう)〕』。
  これを見ますと、人に物を教えたがるのは人の常ということらしゅうございますね。どうもわたくしなんどには、特にその傾向が強くでているようで、よくよく人の上に立ちたい性分なんでございましょうか?‥‥弱い犬ほどよく吠える、ここは少しばかり反省の必要がございますナ。何しろ言うこと為すこと全部人の受け売りでは、そのうち恥をかくのは必然ですからネ、‥‥いえ実をいうと、ほんとうはもうすでに何度もかいてるのですよ、‥‥いやはやこれは何の因果かトラウマか、‥‥まったく困ったことで、‥‥まあ深く反省することにいたしましょう。
  
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  さて、写真好きの方々にとって、しばしば格好の被写体ともなりますこの美しい落ち葉ですが、冬期には根の水分を吸い上げる活動が鈍るため、余分の水分の補給で根に過度の負担がかからぬよう、樹木が自衛のために自ら択んで葉を落とすということだそうで、万物は生住異滅の4サイクルによって成長し発展するという事に思いをいたさないわけにはまいりません。
  『生』は誕生以来の成長過程、『住』は壮年の働き盛り、『異』は思いもよらぬ衰弱過程、『滅』は死んでから次ぎに生まれるまで、この四つのサイクルがあるので、万物は突然変異などによる発展を期待できるというものなのです。
  
  テレビを何気なく見ていますと、人間だったか日本人だったかの二人に一人が癌にかかり、三人に一人が癌で死んでゆくというようなことをいっています。更に癌細胞が自らを薬から防御するためにはマクロファージという一種の白血球を用いるが、それは正常な細胞の免疫機能と同じだとか、HIF-1(低酸素誘導因子)というタンパク質は癌細胞の転移に大いに貢献しているが、それはまた人の成長過程にもなくてはならないものであるとか、癌に効く新薬が出ると、癌の方もまたそれに対抗する手段を得るとかもいっています。
  
  考えてみれば癌やインフルエンザやエイズというものは、何が何でも死なせずにはおかないという、非常なる決意に満ちあふれているように見えますが、これははたして自然の摂理というものではないのでしょうか?恐らくは人間が百歳近くまで生きられるということ自体が自然界の摂理に反しているのかも知れません。自然界にとっては人間なんどがいなくても少しも困らないのですからね、‥‥。
  また逆説めいていますが万物は死ぬためにのみ生まれ、死ぬためにのみ生きているのではないのか?死、或いは生住異滅の繰り返しこそが本来の状態であり、ただそれを達成するためにのみ生まれたのではないのか?‥‥、‥‥。
  
  老人の心は落ち葉に誘発されて、いつとはなしに思考の袋小路に迷い込んでしまいました。果てしなく、‥‥何の足しにもならないことを考えながら、‥‥。オサケヲトメラレテイテハコレモシカタナイネ、‥‥。
  
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  それではいよいよ年末の恒例行事、盛大なる反省会といきましょう、‥‥。
  
  先ほど引用した『孟子』の同じく『離婁篇』の中に、こんな文句を見つけました。
行有不得者、皆反求諸己。
  『行いて得ざること有らば、皆反って諸(これ)を己に求めよ。(思うようにいかないことがあれば、皆反省してその原因を自分の中に探せ。)』
  
  『論語衛霊公第十五』の中にも、同じようなことばがあります。
子曰、君子求諸己、小人求諸人。
  『子曰わく、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。(先生はこう言われた、立派な人は何事も自分の中に求めるが、つまらない人は何事も他人の中に求める、と。)』
  
  いやー、いつもながら身につまされますナ、‥‥。
  
  最後に同じく『論語衛霊公』から、
子曰、過而不改、是謂過矣。
  『子曰わく、過(あやま)ちて改めざる、これを過つと謂う。(先生はこう言われた、間違っても改めない、これが間違えるということだ、と。)』
  
  ウム、なるほど、‥‥、まあ覚えておきましょう。ということで今年の反省会も無事に終了しました、めでたしめでたしと、‥‥ウム?
  


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  もうじきクリスマスです、クリスマスといえば赤と緑。そこで、緑といえばキャベツ、赤といえばトマトしかありませんねぇ、そんな訳で今月の料理は、ロールキャベツに決まりました。

  それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。
  Merry Xmas & Happy New Year!
  また来年お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  
  
  
  
  
  
  
  
  (仏画シリーズ 地獄変相第四 おわり)