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仏画シリーズ 地獄変相第二

  
  九月も下旬に入りますと、直射日光も強さを失います。空気には冷たささえ感じられますので気分も爽やかになり、この日、一日ぐらいはパソコンの前を離れたが善かろうというようなことで、外に出かけることにいたしました。
  
  家で早めの昼食を済ませますと、車で小一時間走り、目指すは西国第三十三番満願霊場の谷汲山華厳寺です。
  この古寺も以前は大変に人出が多くて、参道の両側には、大勢の参詣人を当て込んだ土産物屋、旅館を兼ねた料理屋、焼き椎茸と菜めし田楽の店、おでん屋、古道具屋、仏具屋、うなぎ、天ぷら、そば、うどんなど何でも食わせる店、駄菓子屋、青物店、荒物屋、雑貨屋、小菊の鉢物などを売る植木屋、草餅、ういろうを売る店等々が軒をつらねており、常ににぎわっていたものですが、ここ何年かは人出が随分減ってしまったようで、今では参道の両側も櫛の歯の抜け落ちたるがごとく空店、空地が目立ち、いやが上にも寂しさを顕しています。
  
  しかし諸行無常を知る老人にとって、そんなことは嘆くほどの事には当りません。雲一つない青空の下、まことに天下太平、絵に描いた平和そのものといった風情。カメラを首からぶら下げて、無心に写真などを撮っております。
  心に結ぶわだかまりも何のその、すっかり忘れはてて、またとない結構な一日を過ごしたのでありました。
  『諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽』、‥‥
  
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  昔、というても、お釈迦さまの前世の話です。雪山(せっせん)、今のヒマラヤのことをこう言うのですが、その山中で大乗の法を求めて修行なさっていたそうです。
  
 「南本大般涅槃経(なんぽんだいはつねはんぎょう)巻13」では、それを「その山、清浄にして、流泉、浴池、樹林、薬木、その地に充満す。処処の石間に清流水あり。諸の華香多くして周遍厳飾す。衆鳥、群獣、称計すべからず。甘果、滋繁にして種別計りがたし。また無量の藕根、甘根、青木、香根あり。われ、その時に独りその中に処し、ただ諸果のみを食す。食しおわりて心を繋け、思惟し坐禅す。無量歳を経るに、また如来の出世、大乗経の名あるを聞かず。」と、こんな風にいっております。
  
  帝釈天はそれを見て、昔、過去の諸仏より聞いた所の法を、この若者に教えても善いのではないか、その前に一つ試してみなければ、‥‥と思いまして、天上から地上に降り立ち、恐ろしい顔の鬼神に化けて、
  「諸行は無常なり、これ生滅の法なり」と、閑雅な声で、歌の前半のみを歌いました。その意味は、
  「一切の動きあるものは断えず遷り変る。これが生滅するということの本質である。」という事です。
  
  若者はそれを聞いて、これこそが求めているものに違いないことを知ります。
  何とかして、この後半を聞きたいものだと思いながら、山奥に尋ね入りますが、ただこの恐ろしい顔の鬼がいるのみで、他には誰にも出会えません。
  そこでこの鬼にこう問いかけました、――
  「尊いお方よ、今お歌いなった歌は、どなたに習われたものでしょうか?この半分のみの歌は、過去、現在、未来の諸仏のお説きになる所であり、正道を歌ったものに違いありません。今、一切の世間の衆生は、常に邪見の網に捕われて、このような諸仏の法を聞くことができませんので、どうか後半をもお聞かせください。」と。
  
  それを聞いた鬼は、こう答えた、「若者よ、そのような無理を仰られても困惑するばかりです。わたしは、ここ何日も何一つ食っていない。方々探し求めたが何一つ得られず、心が乱れて何も思い出せないのです。」
  
  若者はこう問うた、「尊いお方よ、もしこの歌の後半をお聞かせくだされば、一生お側に仕えて弟子となりましょう。お説きになられた前半のみでは意味を尽くしておりません。なぜ残りをもお説きにならないのですか?財の施しは尽きることもありますが、法の施しは尽きることがなく、その利益もまた尽きることがないとか申します。どうかわたくしの為に後半をもお説きください。もしお説きくだされば、喜んで弟子となりましょう。」
  
  鬼はこう答えた、「お前は、智慧が過ぎておる。ただ自分の事を言うばかりで、人の事は少しも考えていない。おれが飢に苦しんでいるのが分からないのか?これでは説こうにも説くわけにはゆかぬわ。」
  
  若者、「あなたの食われる物は、いったい何でございましょうか?」
  鬼、「問うまでもない、もしおれがそれを話せば人は皆怖れることだろう。」
  若者、「ここにはわたくししかおりません。どうかお話しください。」
  鬼、「おれの食う物は、人間の軟らかい肉、おれの飲む物は、人間の熱い血。おれは福徳が薄いので、それしか食えないのだ。一日歩き回って何も食えないことすらある。世に人は多いが、皆、天が守護しており、しかもおれは力が弱くて殺すことさえできないときている。」
  
  若者、「どうかお説きください。わたくしは聞きおわったならば、すぐにこの身を差し上げましょう。」
  鬼、「誰にそんな事が信じられようか?たった八字の為に身を捨てるなどと。」
  若者、「あなたには、それがお分かりにならないのですか!譬えば、人が瓦の器を施して、七宝の器を得るように、わたくしは堅固ならざるこの身を施して、金剛の身体を得ようとしているのです。」
  そこで鬼は、「それほどまでに言うのなら、善く聴け、後半を歌ってやろう、――
  「生滅を滅しおわりて、寂滅を楽となす。」と言いながら、元の高貴な帝釈天の姿に復りました。この部分を解りやすく訳すと、こんな意味になります、――
  「生滅に心を奪われていなければ、心は静まって楽になる」。
  
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  『南本大般涅槃経巻13』から要点だけを抜き出し、何とか意味が通じるぐらいに中身を端折って訳したのですが、「諸行無常」というこんな簡単な一言を得るためにも、大変な苦労があったものだ、ということでございますな、‥‥因縁恐るべし、智慧を得るに王道はないという事でしょうか、‥‥。わたくしなんどが、こんな事を知っておりますのも、皆このような方々による昔のご苦労があったればこそでございます。
  
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  さて、お待ちどおさまでございました。
  地獄変相第二、初江王(しょこうおう)の図の説明に入りましょう。
  本に戻ってもう一度、ご覧くださいませ。
  
  今月も相変わらず何やら恐ろしげな光景が白日の下に繰り広げられておりますが、この画師は崇高さよりは生々しさを描くことの方が得意だったようで、原画で見ると下の方の青黒い人たちなども、その一人一人の表情までが丁寧に描きこんであります。
  
  「地蔵菩薩発心因縁十王経」は相変わらず見つかりませんので、「望月仏教大辞典」から引用しますが、それを信用すればこの経には、「第二初江王宮、釈迦如来。葬頭河(そうづが)の曲、初江の辺に於いて官庁相い連承する所に前の大河を渡る。これ即ち葬頭なり。亡人を渡すを見るを奈河津(なかづ)と名づく。渡る所に三あり、一は山水の瀬、二は江深の淵、三は橋ある渡しなり。官の前に大樹あり、衣領樹(えりょうじゅ)と名づけ、影に二鬼住す、一を脱衣婆(だつえば)と名づけ、二を懸衣翁(けんねおう)と名づく。婆鬼は盗業を警めて両手の指を折り、翁鬼は無義を悪(にく)みて頭足を一所に逼る。尋いで初開の男その女人を負い、牛頭(ごづ)鉄棒にて二人の肩を挟み、疾瀬を追い渡し、悉く樹下に集まる。婆鬼は衣を脱がし、翁鬼は枝に懸けて罪の低昻を顕し、後に王の庁に与う。」と書いてあるそうです、‥‥
  
  何かよく訳の分からない所がございますが、まあ訳してみましょう、――
  「第二は初江王の宮殿、釈迦如来である。三途(さんづ)の川の入り江、初江の辺に官庁が相い連なり、その前に大河を渡る。亡者が渡る川を奈河津(なかづ)というが、その渡る所は三カ所あり、一は山に挟まれて瀬になった部分、二は大河の深い淵、三は橋である。官庁の前に大樹があり、それを衣領樹(えりょうじゅ)という。その影に二鬼が住みついていて、一を脱衣婆(だつえば)、二を懸衣翁(けんねおう)という。婆鬼は盗みを警めるために亡者の両手の指を折り、翁鬼は無義を悪(にく)んで頭と足とを一処に束ねる。初めに現れた男の後を追って女人が続く。牛の頭の鬼が鉄の棒で二人の肩を引っかけて疾瀬を追い渡し、悉く樹下に集める。婆鬼が亡者の衣を剥いで脱がすと、翁鬼がその衣を枝に掛ける。この枝のしなり具合は罪の高低を顕すので、後になって王庁に知らせられる。」と、こんな所で宜しいのでしょうか?
  
  ここで説かれている脱衣婆ですが、本シリーズでは第三図に出ております。全然このシリーズの画と符合しないというのもおかしな話ですが、まあ気にするほどの事でもございますまい。
  
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  とはいうものの、どうも種本があまり当てにできませんので、いささか困惑気味ですが、まあ机の前に坐っているのは初江王でしょうね、‥‥。
  次に机の上には書き付けがありますが、それには恐らく彼の衣領樹のしなり具合でも記してあるのではないでしょうか。
  
  右側の枠の中に「第二 初江王」と書いてあり、この初江王の本地が釈迦如来と書かれています。また初江王の左側の枠内には釈迦如来の像が描かれております。
  ここで本地(ほんじ)とは何かといいますと、仏または菩薩は、衆生を済うために種種に姿を変えて現れるが、その本の仏あるいは菩薩をいう、と辞書には書かれています、この初江王は釈迦如来の化身である、ということなんですね。
  人というものは口で教えても、なかなか言うことを聞かない。
  そこで罰を与えたり、恐れ入らせたりする為に、ちょっとばかり姿でも変えてみようか、というような、やや密教的な思想が、この中には見て取られます。
  
  また右側の枠内に以芳忌(いほうき)書かれてあありますが、これは二七日の別名ですから、ここに描かれている出来事は死んでから十四日目の事であると示しているのです。
  人が死ぬと七日ごとに七回供養しますが、その一一にこのような別名があります。余り重要な事ではないので深入りはしませんが、ちなみに初七日は所願忌(しょがんき)というそうです。
  
  次に白い帷子(かたびら)を着た亡者が五色の雲に包まれていますが、これは罪を許されて、極楽からお迎えが来たということです。
  
  さて、初江王の前には、赤、緑、白の三鬼がおり、それぞれ鋸、斧、鉄棒を持って、罪人を責めております。この三鬼の色ですが、赤は怒ると顔が赤くなることから連想されるように忿怒を表し、青または緑は海よりも深い貪欲、白は白痴を表します、頭の中が真っ白になったとかよく言いますね。これを専門的に言い換えると瞋恚(しんに)、貪欲(どんよく)、愚癡(ぐち)といいますが、この三は三毒ともいって、人の代表的な煩悩ですので、或いはこの鬼たちは、人の心の中に存在する煩悩を指しているのかも知れません。
  
  次に柱に縛り付けられた二人の罪人たちですが、はたして彼等は何をしたのでしょうか?屠殺人か?それとも料理人か?恐らくは生業(なりわい)に関連した罪を犯したのでしょう。鬼たちの顔もいくらか真面目そうに見えます。
  殺せば殺される、盗めば盗まれる、犯せば犯される、これが物の道理というものですので、たとえば、それが仕事であったりして、少しばかりやむを得ない事情があったとしても、罪は罪ですから少しも容赦されることはないのです。
  
  次にその右側には、罪人が首枷を付けられてうなだれています。列を作って殺されるのを待つ牛のように、ここでも自らの順番を待っているのですね。いくら哭いても後の後悔先に立たずで、今更どうしようもありません。
  
  次に下にうごめく七人の青黒い人は、餓鬼(がき)という生き物です。一般的な地獄の生き物よりは、やや楽な暮しをしていますので、鬼によって痛めつけられるというような事はございませんが、飯を食おうとすれば茶碗から火が出て、ご飯があっという間に真っ赤な炭になったり、また水を飲もうとすれば、その水からやはり火が出たりしますので、ただただ腹が減って腹が減ってどうしようもないというものです。
  
  その有様を恵心僧都の「往生要集」によって一部引用してみましょう、――
 「第二に餓鬼道を明かせば、住処に二あり。一は地下五百由旬(ゆじゅん、一由旬は約10キロメートル)の閻魔王界(地獄中)に在り、二は人、天の間に在り。
  
  その相は甚だ多し。今少分を明かせば、その身長は一尺、或いは身量は人の如く、或いは千由旬の如く、或いは雪山の如し。
  
  或いは鬼(餓鬼)あり、鑊身(かくしん、鑊は鉄鍋)と名づく。その身は長大にして人に過ぐること両倍、面に目の有ること無く、手足はなお鑊(かく、鉄鍋)の脚の如し。熱火、その中に満ちて、その身を焚焼す。昔、財を貪りて屠殺せし者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、食吐(じきと、へどを食う)と名づく。その身、広大にして長さ半由旬、常に嘔吐を求むるも、得ることの能(あたわ)わざるに困(くる)しむ。昔、或いは丈夫にして、自らは美食を噉(くら、食)えるも、妻子には与えず、或いは婦人にして、自ら食うて夫子に与えざりしかば、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、食気(じきけ、空気を食う)と名づく。世人、病により、水の辺の林の中に祭(祭壇)を設くるに、この香気を嗅ぎて以って自ら活命す。昔、妻子等の前に於いて独り美食を食える者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、食法(じきほう、法を食う)と名づく。険難処に於いて馳走(ちそう、走ること)して食を求む。色は黒雲の如く、涙の流るること雨の如し。もしは僧寺に至りて、人の呪願し、説法する時有れば、これによりて力を得て活命す。昔、名利を貪って不浄の説法をせし者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、食水(じきすい、水を食う)と名づく。飢渇、身を焼けば、周章(しゅうしょう、あわてて動きまわる)して水を求むるも、得ることの能わざるを困(くる)しむ。長髪、面を覆うて目に見ゆる所無く、走って河辺に趣き、もし人、河を渡らんとすれば、脚足の下に遺(のこ)り落つる余水を、速く疾かに接取して以って自ら活命す。或いは人、水を掬(すく)いて、亡き父母に施せば、則ち少分を得て命の存立することを得。もし自ら水を取らんとすれば、水を守る諸の鬼、杖を以って撾打(かだ、打ちすえる)す。昔、沽酒(こしゅ、売り酒)に水を加え、或いは蚓(みみず)、蛾を沈めて、善法を修めざる者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、希望と名づく。世の人、亡き父母の為に祀(まつり、祭壇)を設くる時、得てこれを食い、余は悉く食うこと能わず。昔、もしは人、労して少しばかりの物を得たりしに、誑惑(おうわく、たぶらかす)して、これを取りて用いし者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、海渚(かいしょ、海中の小島)中に生まる。樹林も河水も無く、その処は甚だ熱し。彼の冬日を以って、この人間の夏に比(くら)ぶるに、過ぎ踰(こ)ゆること千倍なり。ただ朝露を以って自ら活命す。海渚に住すといえども海を見れば枯渇せり。昔、行路人(ぎょうろにん、行商人)、病苦して疲れ極まれるに、その賈(こ、商品)を欺(あざむ)き取りて、直(あたい、値)の薄少なるを与えし者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、常に塚間(ちょうけん、墓場)に至りて屍(しかばね)を焼く火を噉(くら)うも、なお足ること能わず。昔、刑獄を典主(てんしゅ、統治)して人の飲食を取りし者、この報を受く。
  
  或いは鬼あり、生まれながらにして樹中に在るに、逼迮(ひっさく、圧しひしぐ)して身を押すこと、木賊虫(とくさむし)の如くして大苦悩を受く。昔、陰(かげ)の涼(すずやか)なる樹を伐(き)り、及び衆僧の園林を伐りし者、この報を受く。
  
  また、鬼あり、頭髪を下に垂して遍く身体を覆えるも、その髪は刀の如く刺してその身を切る。或いは、変じて火と作(な)り、周匝(しゅうそう、周囲)して焚焼す。
  或いは鬼あり、昼夜に各々五子を生み、生むに随いてこれを食うも、なお常に飢えて乏(とぼ)し。
  また、鬼あり、一切の食は、皆噉(くら)うこと能わず、ただ自ら頭を破りて脳を取りて食らうのみ。
  或いは鬼あり、火を口より出だして、飛ぶ蛾に火を投げ、以って飲食と為す。
  或いは鬼あり、糞(くそ)、涕(はなじる)、膿血、洗器の遺余を食う。
  
  また、外障によって食うことを得ざる鬼あり。謂わゆる、飢渇、常に身体の枯渇せるを急(せ)かせば、適(たまたま)清流を望みて走り向かい、彼に趣くも、大力の鬼ありて、杖を以って逆(むか)え打つ。或いは変じて火と作り、或いは悉く枯涸(ここ、かれる)す。
  或いは、内障によって食うことを得ざる鬼あり。謂わゆる、口は針の孔の如くして、腹は大山の如く、縦(ほしいまま)に飲食に逢(あ)えるも、これを噉うに由(よし、方法)無し。
  
  或いは、内外の障無きも用うることの能わざる鬼あり。謂わゆる、適(たまたま)少しばかりの食に逢えるに、これを食い噉(くら)えば、変じて猛焔と作り、身を焼きながら出づ。
  
  人間の一月を以って一日夜と為し、月と年とを成すに、寿は五百歳なり。」
    
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  以上で、仏画シリーズ 地獄変相第二図の説明を終ります。
  どうも、お疲れさまでした。
  
  一段罪の軽い餓鬼道でさえこれですからね、地獄ならばどれほどか、‥‥
  皆様、どうぞお大事に、このような事があっては大変ですからね。
  
  なお、「往生要集」は面白くて為になりますよ。
  岩波文庫にありますので、是非一度ご覧になってください。
  
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今月は秋の恵みです。どうぞご堪能ください。
ぶどう、くり、パセリ、それとこれは食べられませんが秋のバラ。
  
  
  では今月はここまで、また来月お会いしましょう。それまでご機嫌よう。
  
  
  
  



  (仏画シリーズ 地獄変相第二 おわり)