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聖  書
  
  新聞テレビはもちろんインターネットでも、情報は、いっときわれわれの耳目を掠めますが、あっと言う間に次の情報に押し出され、アーカイブの中に格納されて、われわれの記憶から忘れさられてしまいます。
  
  しかし、この記事はどうでしょうか?初めて新聞でこれを見たとき、わたくしの心臓は凍り付き、絶望が心をよぎりました。その思いは二週間を過ぎて今なおわたしの心を捉えて離しません。
  
  カルデロン・のり子という女子中学生について新聞は語っています。十五年以上も前のことでした。フィリッピン人の両親が他人の名義で来日し、現在にいたるまで不法滞在をしていた。のり子という女子中学生はこの両親から日本で生まれ日本の教育を受けて育ったが、不法滞在が知られてからは、両親と共にフィリッピンに帰るか、又は両親は本国に帰って本人一人が日本に残るかを選択しなければならない。しかし、そのどちらも選択しなかったために、本人一人が日本の親戚に身を寄せて両親は本国に強制送還されるというものです。
  
  インターネット上での反応は何うだったでしょうか?世間はおおむねこの措置を歓迎しているように見えます、
――法律を破ったのだからしようがない。
――かわいそうだがかわいそうな人はいくらでもおり、そのすべてを救うことはできない。
――本人の事業自得である。
――のり子が日本語しかできないというのは、あり得ない話であり、のり子は嘘つきだ。
――法律は厳正に護られなければ、とめどがなくなりやがて法律の存在意義がなくなる。
――日本は法治国家であるからして、当然の措置である、等々々々‥‥
  
  よくもまあこんなにと思うぐらいに憎しみに満ちた言葉が行列しています。
  
  やっぱりわたくしが間違っていたのか?
  なるほど一一ごもっともです。勿論そいうことになりますわなあ、‥‥
  
  しかし、こんなにも大勢の方々が法律を信頼していらっしゃるとは!
  本当にそれで大丈夫ですか?
  
  日本の法律、憲法、政令、規則等を合計して、その条文の数がいくつぐらいあるか、ご存知ですか?
  
  むちゃくちゃ多いのです。インターネットによれば、――
  法務省の編集した「現行日本法規」は全125冊130,000ページぐらいあり、その上、毎日官報が刊行され、改正や新件が毎日発生するので確定のしようがないと言っています。
  
  まさに江戸時代!
  謂わゆる『依らしむべし、知らしむべからず』ではありませんか? 
  そんなものに依っていて、本当に大丈夫でしょうか?
  
  国民が、法に求めるものとは?
  あの革命の三つの標語、自由、平等、博愛の三原則ではなかったかしら?
  自由:束縛からの解放、平等:差別の撤廃、博愛:憎しみの根絶、‥‥。
  
  今なお、この国の法は、この三原則を備えていますか?
  すでに、この国の法は、たんなる束縛に変っているのではありませんか?
  
  本来、法というものは人を縛る縄、人を閉じこめる檻のようなものです。
  また、『法令に則り、厳正に対処しています。』などと言って、ずいぶん便利に使われてもいますが、権力者の言い訳に用いられると、なかなか反論できません。

  しかし、庶民を護る働きの方は、はたして本当に有るのでしょうか?
  わたくしは、多数の泥棒、多数の人殺し、多数の強盗を取り逃がすよりは、むしろ一人の無辜の人の蒙る冤罪の方を、より恐れる者なのです。
  
  仏教では、
    布施(ふせ):与える、
    持戒(じかい):取らない、
    忍辱(にんにく):取られても我慢するという三つの行動原理、
  即ち
    『優しさの極み』をもって、世間の法律に替えるのを理想としています。
  
  キリスト教ではどうでしょうか?
  あまり慣れていませんが、少しばかり聖書を見てみましょう。
  
  『マタイ伝』には、キリスト教の教主"イエス"の言ったこんな言葉が載っています、少し長いですが我慢して読んでください、――
律法について
  わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
  
  
腹を立ててはならない
  あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟(すべての人々を指すことば)に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。
  
姦淫してはならない
  (省略)
  
離縁してはならない
  (省略)
  
誓ってはならない
  また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
  
復讐してはならない
  あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
  
敵を愛しなさい
  あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
  
施しをするときには
  見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
  
祈るときは
  (省略)
  
断食するときは
  (省略)
  
天に富を積みなさい
  あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に摘みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
  
体のともし火は目
  (省略)
  
神と富
  だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
  
思い悩むな
  だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
  
人を裁くな
  人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なもの(裁き)を犬に与えてはならず、また、真珠(律法)を豚に投げてはならない。それを足で蹈みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
  
求めなさい
  求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
  
狭い門
  狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少い。
  
実によって木を知る
  (以下省略)
  
  
  仏教の経典に比べて聖書は実にやさしい。
  だれでも読めば容易に分かるように、イエスはユダヤ教に基づく律法を悉く破棄して『腹を立てないこと』、『人を愛すること』、『人に施すこと』、『人を裁かないこと』等々でもって神の国を打ち立てようとしました。
  
  もう一つ見てみましょう。
  次は『ヨハネ伝』からの引用です。
わたしもあなたを罪に定めない
  イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起して言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起して言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
  
  ご存じでしょう?有名な場面です、‥‥。
  仏教でも、
    『罪を犯す者』と『罪を犯さない者』とは判別できない、と言っていますね。
  
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こんな事を考えているうちに
何か無性に奈良に行きたくなりました
頃はよし、満開の桜の下で、鹿にせんべいをやろう
大仏殿で、瓦を寄進しよう
恥ずかしさに汗を流して、皆に見られながら
瓦に願文を墨書する快感
!!
  
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  そうでなくても、この季節には奈良に心を牽かれます。
  例によって、日の出前に家を出て、車の少い田舎道をひた走ります。
  日が出るとミラーに映ってまぶしいので、暗いうちに距離をかせがなくてはなりません。日の出前の清澄な空気を切り裂きながら、宇多田ヒカルの『Traveling』のような快調なリズムで、先に先にと、‥‥。
  
  このところ初夏の陽気が続いていますので、今日も快晴でしょう。
  
  こんな気分に、ちょうどぴったりの漢詩があります。ご覧にいれましょう、――
  
(語釈)○漁翁(ぎょおう):漁師。○西巌(せいがん):西岸の崖際。○清湘(せいしょう):清くすんだ湘江(しょうこう、河名)の水。○楚竹(そちく):楚は南方の国名、美しい竹。○欸乃(あいだい):船をこぐ時のかけ声。○迴看(かいかん):ぐるりと見まわす。○天際(てんさい):天の際。
  
(大意)夜、漁師は船を崖際に寄せて眠る。早朝、清く澄んだ湘江の水を汲み、竹を燃やして飯を食う。炊事の煙が消え、日が出ても人影は見えない。やっと一声かけ、船を緑深い山水にこぎ出した。両岸の高く切り立った断崖を眺めて中流を下る。断崖の上には無心の雲のみが船のあとを逐い、慕っている。
  
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  到着しました、空気が澄んでいます。
  奈良は、すばらしく晴れあがっていました。
  思った通り、桜が満開です。
  
    聞こえてくるのは、北京語、台湾語、フランス語、ドイツ語、英語、‥‥。
    肌の色も、白、赤、黄、黒、‥‥。
    大仏殿の境内には、外国人がいっぱいです。
    
  そんな訳で、今年も無事、瓦を寄進して鹿にせんべいをやれました。
  だんだん、このような年中行事がしんどくなってきましたが、はたして来年は?
  明日のことにまで、思い悩むな!ですかな、‥‥
  
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  老人の夜はひまです。一口のアルコールに導かれるまま、こう考えました。
  
  釈迦、イエスとくれば、次は孔子にきまっている。
  さて孔先生は、どう仰っているかな?
  
  『論語、為政篇第二』に見てみよう、――
子曰:「道之以政,齊之以刑,民免而無恥;道之以德,齊之以禮,有恥且格。」
  
子(し)の曰(のたま)わく、『これを導くに政(まつりごと)をもってし、これを斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民は免れて恥づる無し。これを導くに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば、恥づること有りてかつ格(ただ)し。』と。
  これは、こういう意味です、――
先生はこう仰った、――
 『民を導くのには法律をもちい、民をまとめるのには刑罰をもちいる。これでは民は法の網をくぐっても、恥じることが無い。
  民を導くのには恩恵をもちい、民をまとめるのには敬意をもちいる。これならば民は恥じることを知って、かつ秩序がたもたれる。』と。
  
  実に簡潔にして的確、‥‥。
  
  やっぱりそうか?
  皆様もそう思いませんか?
  世界の三大聖人が、皆声をそろえて仰っているのですから、‥‥。
  
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  今月のご馳走は、筍の佃煮、非常に簡単です。作ってみましょう。
(作り方)
  1:昆布を7㎜角の正方形に切って鍋に入れ、
  2:醤油5、酢1の割合を昆布が浸るほど加える。
  3:10分過ぎるのを待ち、
  4:茹でた筍の7㎜の賽の目に切ったものを、
  5:実山椒の佃煮と共に鍋に加え、
  6:弱火で約5分間、かき混ぜて煮、
  7:汁がなくなれば、火を止めて、
  8:かつを節の粉を、ふりかけてまぶし、
  9:器に盛って、できあがり。
(注意)
  1:筍は繊維に斜めに包丁を入れてはいけない。
  2:佃煮にする筍は、根本に近く堅い部分を用いる。
  3:佃煮は、汁が完全に無くなると、すぐに焦げる。
  4:実山椒は時期が有るので、見かけたら少量の醤油で汁がなくなるまで煮て、佃煮にしておく。
  
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  シンガポールの方からメールをいただきました、――
    『ほんとうに、あたなの大智度論を高く評価します。ありがとう。』
  ただ、これだけですが、わたくしの大智度論を評価していただいて、非常に嬉しく思っています。こちらこそありがとう。
  
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう。それまでご機嫌よう。



  (聖書 おわり)