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アネモネ
  
  春ですよ!とうとう春になりました、有り難いことですねぇ。
  庭にも、こんなきれいなアネモネが咲きました!ほんに有り難いことですねぇ。
  お正月にも、春が来たというて騒いでおりましたが、やはりほんものの春には敵いませんねぇ。気分が浮き立つような、ああ、お花見お花見‥‥。しかし車で行くとお酒が飲めませんからねぇ、困ったもんです、‥‥。お花見に行って、お酒がなくてはねぇ、そりゃ旦那殺生な、‥‥。いくらご馳走ならべても、いくら桜を眺めてもですねぇ、お酒のないお花見なんて、もうあほらしゅうてやっていられませんわね?どないしましょ、‥‥。
  今、こんな花も咲いていますが、やはり桜じゃありませんとねぇ、‥‥。庭に大きな桜の木でもあれば、なんぼか楽しかろうと思うのですが、‥‥。人間ですからねぇ、なんぼでも欲は広がります、まあ欲とはほどほどにつきあいながらとか言いますから、それでも構わないのですが、‥‥。
  それに三億円ですか、宝くじが当らんという事もありませんでしょう?どなたかがくださらんという事も、ひょっとしてまた、あり得ることかも知れませんしなぁ、‥‥。
  
  と、まあ暢気にも、こんなことを考えながら、今年は暖かいので、老人は、早くも露台を居間がわりにして、心地よい春のそよ風に吹かれながら、庭の草花を眺め、例によって、炒り卵、塩昆布に梅干し、麦ご飯という、極めて簡素ながらも身体に良い弁当を食べています。
  
  それから、これまた例によってですが、春になれば、お決まりの一品、筍と干し若布の炊き合わせが大鉢に載って出ています。
  子供の時分からこれが好きな老人は、三月四月の二ヶ月間は、まことに極楽に遊んでいるようなもので、ただの一日も欠かしたことがありません。
  生まれた時から竹藪に囲まれて育ち、この時期になると毎日毎日食べたせいでしょうかねェ、‥‥。まことに恐るべし、三つ子のたましい百までとはよく言ったものですなぁ。
  
  しかし山椒の芽が間に合わないというところが、いくぶん心残りといいますか、残念なところです。買い物をスーパーでするようになり、鹿児島物、宮崎物といった遠くのものが新鮮なまま手に入りますので、それは結構なんですが、‥‥。なにぶん、この地方とは一ヶ月以上、季節がずれておりますので、山椒の芽がまだ出ていないのですねェ。三月に柔らかい筍を安く手に入れて、たらふく食えるのはいいが、画竜点睛を欠く思いがどうしても残るというところでしょうか、‥‥。
  
  しかし現物を前にして、地物が出るまで待てますか?とてもできやしないでしょう?やはり画竜には点睛を欠いたままでいてもらうことになりますわね。やれやれ、‥‥。
  
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  それにしても、いつの間に春休みに入ったものやら、‥‥。てんてんと隣の小学生のつく手毬の音が聞こえてきます。
  毬と言えば、お正月に、良寛さんの詩を読みましたが、筍に関する逸話も良寛さんにはありましたね、‥‥。
  『良寛禅師奇話』によれば、‥‥
 
  師、国上の草庵に在りしとき、筍厠の中に生ず。
  師、蝋燭を点じて、その屋根を焼き、竹の子を出ださんとす。ひいて厠を焼けり。
 
  と、なるほど、‥‥。記憶では縁側の板を取り除いたんだと思っていましたが、こう来ましたか。
  それからこんな詩もありますね、‥‥
余家有竹林 わが家に竹林あり
冷冷数千竿 冷冷たる数千竿(かん)
筍迸全遮路 筍はほとばしって全く路を遮り
梢高斜払天 梢は高く斜めに天を払う
経霜陪精神 霜を経て精神を陪(ま)し
隔烟転幽間 烟(けむり)を隔てて幽間に転ず
宜在松柏列 宜しく松柏の列に在るべく
那比桃李妍 なんぞ桃李と妍(けん)を比せん
竿直節弥高 竿直にして節はいよいよ高く
心虚根愈堅 心虚にして根はいよいよ堅し
愛爾貞清質 なんじが貞清の質を愛す
千秋希莫遷 千秋、請い願わくは遷ることなかれ
)妍(けん)は美しさ。遷るは変ること。
  
  どうやら良寛さんも筍がお好きでしたようで、『筍がほとばしる』という所にその嬉しさがそれこそ迸っているようです。偉人とどこか似通った所が有る、‥‥。これも嬉しいことです。
  
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  春ですねぇ、春が来ました!
  花は紅(くれない)、柳は緑、‥‥。
  いいですねぇ、今月の漢詩は王維(おうい)の『田園楽 七首』といきましょう。
  ‥‥。
 
(注釈)●出入千門萬戸:千門萬戸:門戸は門閥。無数の邸宅に出入りする。●経過北裏南隣:北から南まで通り過ぎる。●蹀躞鳴珂有底:蹀躞(ちょうしょう)はゆるゆる歩くさま、また一本には躞蹀につくる、珂(か)は馬具のくつわ、底は何と同じ。ゆるゆる馬に乗って行き交い、くつわがしゃらしゃら鳴っているが、それがどうした。●崆峒散発何人:崆峒(こうどう)は伝説上の山、散発(さんぱつ)は時々現れる。崆峒に時々現れるというのはどのような人だろう。
(大意)宮仕えはつらいなあ、無数の高官の家々を訪ねて、市内を隈なくかけ回らなければならない。馬上で疲れ切ってくつわを鳴らすのに、どんな意味があるのだろう。崆峒(こうどう)という山には、時々仙人が現れるというが、はてそれはどんな人だろうか?
 
 
(注釈)●再見封侯萬戸:再見は二度ほど目通りする、封は大名に取り立てる、侯は大名、萬戸は一万戸。二度ほどお目通りすれば戸数一万の大名に取り立てられる。●立談賜璧一双:立談は立ち話、璧(へき)は白玉翡翠等で造ったドーナッツ型の装飾品、一双は二個一組。ちょっと立ち話をしただけで、一組の璧を賜る。●詎勝耦耕南畝:詎は何ぞ、どうして、耦耕は二人並んで耕す、畝(ほ)は約百坪の畑。それが、日当たりのよい南の畑を並んで耕すことより好いというのか?●何如高臥東窓:高臥は安心して眠る、高枕。それが、朝日のさす東の窓際で安心して眠ることより好いというのか?
(大意)二度ほどお目通りすれば、一万戸の大名に取り立てられ、ただ立ち話をしただけで一組の璧(へき)をいただけるとしても、それが日当たりのよい南の畑で夫婦が並んで耕すことより勝れているというのか?それが朝日のさす東の窓際で安心して眠ることより好いというのか?
 
 
(注釈)●採菱渡頭風急:菱は水草、実を十月に収穫して食用に供し、栗のような食味がある、渡頭は渡し場の先端。菱を採っていると渡し場の当りに急な風が吹く。●策杖林西日斜:策は杖をつく。杖をついて林の中を歩けば西日が斜めにさしこむ。●杏樹壇辺魚父:杏樹壇は孔子の教壇を杏壇というによる、魚父は漁父、魚を捕る男。杏の林の中の教壇では、孔子と漁父とが問答しているだろう。『荘子漁父篇』に孔子が弟子たちに講義していると漁父が来て孔子と問答する話がでる。●桃花源裏人家:桃花源は桃林の中の川の源。桃の花に隠された辺りには人家があるだろう。『陶淵明、桃花源記』に出る桃源郷。
(大意)小舟に乗って菱を採れば、渡し場の辺には、さっと吹く風があるだろう。杖をついて林の中を歩いていれば西日が斜めにさしこむことだろう。ひょっとして、杏の花の咲く林の中で孔子と問答する漁父や、桃の花に隠された人家にだって出会えるかもしれない。
 
 
(注釈)●萋萋春草秋緑:萋萋は草木が茂るさま、秋緑は秋になってもまだ緑が残ること。萌えいづる春草は秋になってもまだ青々としている。●落落長松夏寒:落落は点々と立ち並ぶさま、長松は丈の高い松。点々と立ち並ぶ大きな松の木陰は夏に涼しい。●牛羊自帰村巷:日中は草を求めて散らばっていた牛や羊は、夕暮れになると自ら村に帰ってくる。●童稚不識衣冠:童稚は童児、衣冠は官吏の正装。子供たちは、官吏というものを識らない。
(大意)盛んに茂る春の草は、秋になってもまだ青々としている。点々と立ち並ぶ大きな松の木陰は、夏に憩えば寒いほどだ。日中は草を求めて散らばっていた牛や羊が、夕暮れどきには自ら平和な村に帰ってくる。子供たちは、官吏の正装たる衣冠など識るはずもない。
 
 
(注釈)●山下孤煙遠村:山道から谷の方を見下ろすと、一筋の煙と遠くの村が見える。●天辺独樹高原:空を見まわせば一本の樹と高原が見える。●一瓢顔回陋巷:顔回(がんかい)は孔子の高弟、陋巷(ろうこう)は貧民街。『論語』によれば、『顔回は一杯の酒を飲み、一椀の飯を食い、貧民街に住んでいるが、それを憂いとせず、楽しみとしている。』と孔子が讃えている。一瓢の顔回と讃えられた顔回は貧民街に住んでいるが、会えるかも知れない。●五柳先生対門:五柳先生は陶淵明(とうえんめい)が自らに付けた名。対門は訪いに応えて門まで出迎える。五柳先生はきっと門に出て迎えてくれるだろう。陶淵明『帰去来の辞』には『門は設くるといえども常に閉ざす』とある。
(大意)山道から谷の方を見下ろせば、一筋の煙の立ちのぼる遠くの村が見える。空を見まわせば、一本の樹の生えた高原が見える。孔子に一瓢の顔回と讃えられた顔回は、あんな貧しげな村に住んでいるのだろう。是非訪ねてみたいものだ。客嫌いの五柳先生はどうだろう?門に出て迎えてくれるだろうか。
 
 
(注釈)●桃紅複含宿雨:複は重複、重なりあうこと、宿雨は夜の間に降った雨。紅色の桃の花は重なりあって、夜の間に降った雨を含んでいる。●柳緑更帯春煙:春煙は春霞。春の柳は緑色に垂れ、それを隠すように春霞がただよっている。●花落家僮未掃:家僮は召使い。花が落ちても、家僮は掃き集めていない。●鶯啼山客猶眠:啼は鳥が鳴く、山客(さんかく)は山に住む人。鶯が鳴いているというのに、山の住人(主人)は眠ったままである。
(大意)紅色の桃の花は重なりあい、夜に降った雨を含んで重たげだ。枝垂れる春の柳も、その緑色の葉が春のもやに包まれて霞んで見える。庭には紅い椿の花が落ちたまま、家僕もまだそれを掃き集めようとしない。鶯が近くで盛んに鳴いているのに、この家の主人はまだ眠っているようだ。
 
 
(注釈)●酌酒会臨泉水:会はたまたま、或いはかならずと読むが、行き会うこと。酒を飲もうとしていると、水の湧きでる泉に出くわした。●抱琴好倚長松:倚は寄りかかる、または身を寄せる、長松は高い松。木陰に身を寄せて琴をかき鳴らすにちょうど好い松の木がある。●南園露葵朝折:南園は南の畑、露葵は必ず露を含んだ朝に採る葵、葵はフユアオイ、葉を食用にする。南の畑の露を含んだ葵は朝に折る。●西舎黄粱夜舂:西舎は西の家、舎は建物、黄粱は粟(あわ)の類、舂は穀物をついて糠や籾殻を取り除くこと。西の家では夜に黄粱をつく。
(大意)酒を飲もうとして歩いていると、水の湧きでる泉に出くわした、近くにはちょうど松の木がある。その木陰に身を寄せて琴をかき鳴らそう。朝には南の畑で露を含んだ葵(あおい)を摘み、夜には西の小屋で黄粱をつくことにしよう。
 
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  お気づきになりましたか?『帰去来の辞』を思わせるところがございますね。
  
  平成18年11月に”鹿せんべい”の題で、この『帰去来の辞』を取り上げましたが、早いもので、もう二年半も経ったのですね、‥‥。お時間がございましたら、また読み返してみてください。
  
  陶淵明(365~427)は東晋の人、王維(701~761)は盛唐の人ですから、時代はそうとう隔たっていますが、王維は陶淵明にずいぶん傾倒していたようで、多くの作品が影響を受けているか、それを下敷きにしています。
  
  孔子の杏樹壇とはどういうことかといいますと、『荘子』という書物の漁父篇に載っているのですが、ピクニックでもしていたのでしょうか、孔子は杏の花の咲く林の中の壇、即ち小高い所に坐って一休みしておりました。弟子たちは読書をし、孔子は琴を弾いて歌っていたのですね。曲が未だ半ばにも達しないころ、ひとりの漁父が船を下りて来ました。白髪交じりの髭と眉、髪は顔に被さり、手は袂(たもと)を引き寄せています。草原を歩いて上り、丘の上に至りますと、腰を下ろして左手を膝にかけ、右手で頷を支えて歌に聴き入っていたのですが、‥‥。
  
  もちろん、この後も話は続きますし、面白い問答も聴けるのですが、
  何しろ、今は春!
  暖かい日差しの中で、花を眺めてぼんやりしている方がなんぼか楽しかろうという訳で、わたくしはこれにて失礼させていただきます。お後は、宜しいようになさってください。
  下に今訳した所を挙げておきますから、その中のフレーズで検索なされば、山ほど出てきますよ、‥‥。無責任のようですが、何しろ春ですから、‥‥!
 
孔子遊乎緇帷之林,休坐乎杏壇之上。弟子讀書,孔子絃歌鼓琴,奏曲未半。有漁父者下船而來,須眉交白,被髮揄袂,行原以上,距陸而止,左手據膝,右手持頤以聽。
(訳)孔子、緇帷(しい、黒いとばり、密生する林に譬える)の林に遊び、休みて杏壇の上に坐す。弟子は書を読み、孔子は弦歌(げんか、琴に合せて歌う)し鼓琴(こきん、弾琴)す。曲を奏すること未だ半ばならざるとき、有る漁父、船を下りて来たる。須(ひげ)と眉とに白を交え、髪を被り袂(たもと)を揄(ひ、引)く。原を行きて以って上り、陸(おか、丘)に距(いた、至)る。左手を膝に拠(お、置)いて右手に頷を持(たも)ち以って聴く。
 
  
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今晩の、ご馳走はこれです。
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鉄火どんぶり、若竹煮、筍のみそ汁。
  
○鉄火どんぶりは、キハダマグロをそぎ切りにして、粉わさびをときいれた醤油に五分漬け、海苔を散らした酢飯の上にのせます。空いたところをキュウリの薄切りでふさいでできあがり。
○若竹煮は水でもどしたワカメと筍を水と醤油だけで、ダシを使わずに炊き合わせます。
○筍のみそ汁は、八丁味噌に鰹節のダシです。
  
●八丁味噌は少しのシブミがありますが、蕗のとう、筍、菜の花、大根等の持つエグミ、カラミ、ニガミとは互いに相殺関係にありますので、ひじょうに相性の良いものです。お試しください。色が黒く、薄くしがちですので、常に濃いめを心がけるのが良いようです。
●キハダマグロを好んで用いますが、本マグロより値段が安く、”生”と表示があれば当たりハズレの少いものです。本マグロは濃い味ですが、ハズレの場合がしばしばあり、見た目では見当がつきませんので、値段の安いものは信用できません。
●筍はそれ自体にかなり多くの甘みがありますので、砂糖やミリンの類は、特別の場合を除いて使いません。また筍本来の味を大切にするならダシも使わない方がよい結果を生じると思います。
●ワカメは、必ず干しワカメを用います。生では味が出ていないのです。これは昆布も同じす。
  
  それでは今月はここまで、また来月お会いしましょう。それまでご機嫌よう。



  (アネモネ おわり)