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平成21年元旦
  謹んで、新年のお慶びを申しあげます。
  旧年中は皆様には頻繁にご愛読たまわり、誠に有難うございました。
  本年も相変わりませぬよう、なにとぞ宜しくお願い申しあげます。
  
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 あめがしたのどけき御代のはじめとて
         今日を祝はぬ人はあらじな     良寛
 いづくより春は来ぬらむ柴の戸に
         いざ立ちいでてあくるまで見む   良寛
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  正月は実にかくありたいもの、まさに年頭を飾るにふさわしい名歌をもって今年を始めさせていただいたものと、わたくし自身いささか自負してはおりますが、はたして現代の人に、この歌のよさが理解できるものかどうか、そこのところに一抹の不安がないわけでもありません。
  お茶などをたしなまれるようなお方ならばあるいはと思いますが、この歌にあるような静謐(せいひつ、静かなこと)というようなものは、その価値がなかなか理解され難いところに問題があります。まあそれも無理からぬ所でしょう。このような静謐は心が無欲でないと、到底得られない所で、あれが欲しい、これが欲しいと思っている中は心が騒いで、恐らくそれどころではございません。
  
  今月はこの無欲について少々考えて見たいものと思っております。
  
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  というようなことで、新聞などで最新のニュースをチェックしておりますと出てきました。トヨタ自動車は何でも円が対ドルで一円高くなると、400億円とかの巨額の損失が出るんだそうで、それによって2009年3月期の決算では1500億円の赤字が出るんだそうなというような記事が出ておりました。
  しかしですねェ、トヨタがGMを抜いて売上高で世界一になったというような事がかしましく世間で言いはやされていたのは、つい先頃のことではございませんでしたか?その舌の根も乾かないうちにこれですからねェ、何やら薄利多売の神話もだんだんあやしくなってきましたねぇ?薄利多売が産業の発展につながるという神話がいつの頃にかできあがり、まるでウイルスのように日本中に蔓延しておりましたが、振り返って見ると、それが実に多方面に悪さを働いておったのかも、‥‥。
  
  大資本は必ず小資本に勝つというのが、その仕組みの特徴でありますので、その故に、大資本は増々その資本を増やして大きくなり、小資本は増々その資本を減らしてついには倒産に追い込まれ、謂わゆる産業内にその格差を広げることになります。しかし、やがては大資本自身も、つには食いつぶすべきものをすべて食いつぶしてしまい、自らも飢のために死んでしまうというのがその筋書きではないかと何となく予感していたのですがねェ、いよいよそれが現実の事になってきたのではないでしょうか。
  そのようなものが何故かくももてはやされたものか?どうにもそこの所が腑に落ちないのですが、大竜巻の通った跡には、死屍累々としてただ荒廃が残るように、大資本の通った跡にも、現在かくあるような、全国の市町村に来した荒廃が残っているに過ぎません。まあこれを見てもまだ分からなければどうしようもないのですがネ。
  
  大資本は非常に嫉妬深く、小資本が自らの発明と努力で築いた産業を何の発明も努力もせず、ただまねをするだけで奪い取ってしまい、それを少しも恥じません。即ち正義の敗北です。しかし本当に正義は敗北したのでしょうか?
  ここで少しばかりギリシャ神話「ギリシャ神話(呉茂一、新潮社)」をひもといてみましょう。エリュシクトーンという男にであいます。その中で、この男はどんな目に会ったのでしょうか?楽しみですね、‥‥。
  
  
  テッサリアの領主エリュシクトーン(英語読みイリジクソン)は、元々神々を軽蔑していたので、神々に供物を捧げるようなことも怠っていたのだが、あるとき自分の屋敷を増築しようとして、女神デーメーテール(英語読みデメテル)の社の森の大木の中でも、特別女神の大切にしていた槲の古木を切ってしまおうとくわだてた。それも侍臣や村人が止めようとするのを振り切り、あの当の女神がみずから年老いた巫女の姿で現れてそれを諌めたというのに、それさえ馬鹿にして聞こうともせず、あっさり切ってしまったのだ。
  こうして命を終えた古木の精(ニンフ)のためには、大勢の森の精たちが集まり、黒い衣をまとって弔った。そして女神にあの男を罰するように請うたのだ。これを聞いた女神は、この貪欲な男のために、それにふさわしいとっておきの罰を与えることにした。
  まもなく凍てついた北の果、スキュティアから、色青ざめて骨ばかりな飢餓の神が呼び寄せられた。女神に命じられて、その神は一匹の羽虫に化してこの男の胃の腑の中に入りこんだのだ。
  エリュシクトーンは深い眠りの中に、豪勢な饗宴に臨んでいる夢を見ていた。やがて夢から覚めてみると、非常に強い空腹感をいだいていたのに気がついた。台所に入って、そこに有るだけの食い物を食ったが、空腹感はいっこうに収まらない。急いで住み込みの召使いすべてを呼び起こし、家に有るだけの金で食い物を買ってこさせ、それを次から次へと食い続けた。
  エリュシクトーンは、この食っても食っても収まらない絶えざる空腹感に追われるがまま、畑を売り払い、家を売り払って食物を得、それを食い続けた。それでいったいその空腹は満ちたのであろうか、いや少しも満たされることはなかったのだ。
  召使いたちは、これが女神のしわざであると気づいて、恐れて逃げてしまった。
  牛も馬もとうに売ってしまい、もう売る物も無くなってしまった。そこで娘を売って金を作り、それで食い続けようとしたのである。しかしエリュシクトーンの飢餓はいよいよ深まり、とうとう娘を売ったその金の届くのをさえ待ちきれなくなってしまった。
  この哀れな男は、ついに自分の足を食い、手を食い、腹まで食い尽くして、とうとう死んでしまったのである。
  
  
  どうですか?いや、なかなかどうして、ギリシャの神々も相当ですな。目には目を、貪欲には食欲をですか。はてさて、いったい我々にはどんな罰が下されるものやら。どうも心配なことで、‥‥。
    
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  さて、貪欲な男の末路をたっぷり見てきましたが、その口直しには何が宜しいですかな?少し一服しましょう、‥‥。大好きな伊達巻きとかまぼこを食いながら、正月用のお酒を飲んで、えびの塩焼きも結構ですな、酢蓮根もなかなか、勿論数の子も、黒豆も‥‥。そうそう忘れていました、昆布巻きこれを忘れてはいけません、‥‥。
  
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  やっぱり、そうですな、‥‥。初めの歌と同じく良寛さんの、これまた無欲を漢詩にたどり、その暮らしぶりに思いを致してみましょうか。これしか思い浮かばないのですよ、‥‥。
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  最初の詩は七十歳を過ぎたころの作と思われます。
(大意)○振り返ってみれば、もう七十年余りが過ぎてしまった。○人間界の事は善事も悪事も、もうどうでもよい。○行き来した足跡が、深夜の雪に隠れてかすかなように、今までの記憶もおぼろである。○一本の線香を焼(た)き、窓際で坐禅をしてみよう。
(注)線香は坐禅の時、時間が分からなくなるのを防ぐため焼きます。
  
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  次は五十歳を過ぎたころの作です。
(大意)○振り替えってみれば、もう五十年余り。○人間界で過ごしてきた日々の事は僧の事も俗の事も、皆一夜の夢の中の出来事のようだ。○いつの間に五月になったものか、山房には黄梅の雨が降っている。○真夜中ごろ降り始めたようだ、しとしとと窓の破れた障子に降りそそぐ音がする。
(注)黄梅雨(こうばいう):黄梅は黄色く熟した梅のことで、この頃の雨をいう。梅雨。
  
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  この詩は七十二歳ごろの作です。
(大意)○毎日毎日、来る日も来る日も。○のどかに子供たちの後を追って日を暮らしている。○衣の袖の中には二三個の毬が常にある。○飽かずにこの遊びに酔っていると、世間には春が来ているように、自分にも太平なること春のごとしという気分がやってくる。
(注)間:仕事の合間。ひま。また閑に通じて「のどか」とも読む。ひまにまかせての意。
  
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  最後は六十歳を過ぎたころの作です。
(大意)○六十歳を過ぎてから僧としては恥ずかしいことだが、病むことが多くなった。○国上山の五合庵を下り、村の乙子(おとご)神社わきの庵に住むようになったのだが、それでもまだ人家には遠い。○深夜になって、岩の根を穿たんばかりに雨がふりだした。○燈火の明滅するのは命のはかなさを暗示しているためか、窓際に坐禅して己の弱さを観察しよう。
(注)良寛さんは六十歳のとき、およそ二十年間住んだ国上山の五合庵を捨て、村の乙子神社わきの菴(社務所)に住むようになる。日日の登山が苦痛になってきたためである。
  
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  良寛さんの詩のすばらしさは、ここに見るとおりです。何事も隠さず、何事も飾らずの態度で、実に堂々としたところにあるのです。つまり実物大の良寛さんが、そのまま詩の中に映し出されていますので、読む人は皆その詩の中の言葉に感動するのではなく、その言葉の奧にある人格そのものに心を動かされます。
  
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  それにしても正月だというのに、新聞では”派遣切り”などという楽しからざる言葉が紙上を飾るようになり、テレビからは連日のごとく、首を切られた派遣労働者のため息が聞こえてきます。それにしても、その現状に対して正規の社員たちが、一向に立ち上がる気配を見せないのは何故でしょうか?
  『明日は我が身』ということばを知らないのでしょうか?それとも他人の惨状に思いやるだけの想像力を欠いているのでしょうか?それとも弱い者が痛めつけられるのは当然のことだと思っているのでしょうか?それともただ単に感受性を欠いているのでしょうか?何やら社会的な活力を全然感じられないのですが、いつからこのような状況に、現在の日本は陥ってしまったのでしょう?
  
  弱い者が更に弱くなるのが、資本主義の特性なのですから、それを早急に、しかも強力に抑止して、一切が共倒れするのを防ぐ必要があるのです。国ごと地滑りして谷底に堕ちてしまわないうちに、国には是非速やかになんとかしてもらいたいものです。
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  どうも正月早々、ため息混じりの愚癡のようなものをお聞かせしてしまい、まことに相い済まなく思っております。こんな事を言ってみても、何も変らず、謂わば何の功果も、功能も無い薬のようなもので、要するに何の甲斐もないことは、よく知ってはいるのですが、やはり何ですな、物言わぬは腹ふくるる業なりと申しますし、愚癡でしかないのに、つい出るのが愚癡というものの特性であり、人間はついに愚癡からは逃れられないといったようなことでもございますので、皆様には心苦しいところではございますが、まあ我慢願ったというような次第でございます。(シカシセケンガワルイノデハソレモシヨウガナイネ)
  
  それではそろそろお時間でございます。最後は良寛さんのお歌でもって締めくくることにいたしましょう。
  
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 この宮の森の木下にこどもらと
      遊ぶ春日は暮れずともよし    良寛 
 道のべに菫つみつつ鉢の子を
      忘れてぞ来しあはれ鉢の子    良寛 
   
   貞心尼が良寛の手毬好きを詠んだ歌
     『これぞこの仏の道に遊びつつ
       つくやつきせぬ御のりなるらむ』に返して、
 つきてみよひふみよいむなここのとを
      十とをさめてまた始まるを      良寛 
 ひさかたの光受けたる縁先に
      ねこらは何を夢に見るらむ     つばめ
 
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この中の漢詩および和歌は、『良寛歌集』および『良寛詩集』(共に渡辺秀英、木耳社)を参照しましたが、漢詩についてはいくつかの漢字を現代風に改めました。
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  『清浄歓喜団』(京都東山区祇園石段下南 亀屋清永製) 六通自在、智慧自在、敬愛自在、五穀成就の神様、大聖歓喜天に供えるお菓子です。
  
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お知らせ
  『仏所行讃』を始めます。
  仏所行讃とは、お釈迦さまの伝記の一つですが、極めてやさしく現代語訳いたしましたので、どなた様にも楽しめるものになっております。この『もう旧聞に属しますが』のみの読者の方にも是非おすすめいたします。
  
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  それでは今月はここまで、今年もつつがなくお過ごしください。
  また、来月お会いしましょう。それまでご機嫌よう。



  (平成21年元旦 おわり)