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せんとくん
  
  
  3月28日の産経ニュースに次のような記事が載っていました。
平城遷都マスコット「再考を」 寺院の親睦団体
2008.3.28 01:23


デザインをめぐり論議を呼んでいる平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターについて、奈良市内などの19寺院でつくる親睦(しんぼく)団体「南都二六会」(会長、橋本純信・十輪院住職)は27日、「仏様をちゃかしたようなキャラクター」として、図案の再考を求める意見書を、事業主体の平城遷都1300年記念事業協会に提出した。

 意見書では「キャラクターは長い耳と白毫(びゃくごう)があり、明らかに仏様を連想させる」とし、「仏様の頭にシカの角を生やすことに違和感、嫌悪感を禁じ得ない」と指摘。これに対し、協会側は「キャラクターは童子であり、仏様を冒涜(ぼうとく)するつもりはない」と答えたが、その後、報道陣に対しては「今のところ図案を変えるつもりはない」と明言した。

 橋本住職は「キャラクターの第一印象にぞっとした。あまり見たくない」と話しており、再考が拒否された場合は「祭には協力しても、境内にキャラクターが印刷されたポスターやステッカーを掲示することはできない」と述べた。
平城遷都1300年記念事業協会にマスコットキャラクターの変更を求める意見書を提出する「南都二六会」の僧侶=27日午後、奈良市内
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  いやー、久しぶりにおもしろい話を聞きました。この話はもう皆さんも、もうよくご存知ですよね?その南都二六会に嫌われたキャラクターに、めでたくも先頃名前がつきまして、それを『せんとくん』というのです。えっ、これももうご存知ですか?では、そんなに嫌われた『せんとくん』っていったいどんな‥‥?
  
  
  えっ!これですか?なんと、なるほどね、なんとなく分るような、しかし案外可愛いんじゃないですか?ちょっと家内にも聞いてみましょう。なるほど『目つきが媚びている。』とね、ふぅーむ、‥‥。どうもむづかしいもんですな、‥‥。この鹿の角がいいと思うんですがね、どうも目つきが気に入らないとは、‥‥。『やっぱり、鹿の角もいやだ。』と、なんとそんなこともおっしゃるんですな!だいたいね!お前は知らないだろうと思うけど、お釈迦さまはですね、なんども鹿に生まれて角を生やしていらっしゃったんですよ!『鹿に角があるのはいいけれど、人間に角があるのはいやだ!』、しかしね!生えてしまったものはしようがないじゃないか!ちょっとすまないけど、焦げ茶のコールテンで鹿の角を作ってくれないか。太さ二センチ、中に綿の芯を入れておくれ。『そんなもの作ってどうなさるおつもりですか?』、写真に撮ってホームページに載せるに決まっているじゃないか!『ご自分でかぶって写真に撮るのですか?』、あったりまえ!『絶対いやだ!そんな恥ずかしいこと。』、お前がかぶるんじゃないから、いいじゃないか!『ぜったいいやだ!』と、まあこんな事がありまして、残念ながら鹿の角がどれほど人間に似合うかどうか、実証することはできませんでした。そうだ!奈良に行って鹿にせんべいをやってこよう!ひょっとしたら鹿の角のかぶりものを売っているかも知れない!
  
  ‥‥ということで行ってきました、奈良へ!冒頭の写真はこういうことなのです。
  しかしですねェー、鹿の角のかぶり物はどこにも売っていません!修学旅行の生徒でいっぱいの南大門前の参道、鹿がいっぱいの若草山山麓、そこここの土産物屋など、くまなく探したのですが、どこにもないのです!それどころか”せんとくん”グッズがぜんぜん見当らないのはどうしたわけでしょう?
  鹿角カチューシャなら売っていましたがねェー、あれはどうも、まさか女子高生でもあるまいし、かぶって鹿と記念写真を撮るといってもねェ、それはさぞ気持ち悪い写真ができあがることでしょうな、‥‥。
  
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  それで、まあその代わりといってはなんですが、こんなおみやげを買って帰りました。もちろん”だるまさん”です。店の入り口にみょうにあいそのいい猫がいて、なでているうちに、つい買うことになってしまったのです、‥‥。
  
  (さっそく、シュロの葉で編んだ敷物の上に坐っていただき、記念撮影しました。)
  
  この重い木の彫り物を家内に預けますと、わたくしはカメラを片手に、さらに鹿の角のかぶり物を探さなければなりません。戒檀院、大仏殿、三月堂、若草山、南大門前と、この辺りを往ったり来たりしました。
  歩きに歩きましたので、もうへっとへとになっていましたが、それ以上の成果にはありつけません。もうこれまでと時計を見れば、時刻はちょうどお昼まえ、それでもあまりおかしなものは食べたくないので、いつもの興福寺五重の塔下の『柳茶屋』までたどりつきました。
  今日はちょっと贅沢をしてみましょう、‥‥。
  
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  さて、この鹿の角事件より少し前のことです。例の如くに大智度論を訳しておりますなかで、いろいろなしらべものをしていたのですが、その中である経に目を通さなくてはならなくなり、そこで釈迦族の滅亡を目の当たりにすることになりました。
  お釈迦さまは、今のネパールとインドとの国境あたりで、小国の王子としてお生まれになりましたが、その小国は隣国に滅ぼされてしまった。この話は、いろいろの本に書かれていることで、まあだいたいは知っていましたが、実際経に目を通してみますと、また一段と感慨深いものがあります。
  時あたかも、ビルマ(ミャンマー)と中国とで起きた大災害が新聞紙上をにぎわしております。何か不気味な暗合を感じないでもありませんが、それとは別に、この話はなかなか味わい深いものがありますので、ここで皆様にも読んでいただくことにしました。
  
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  このように聞いております――
  
  ある時、仏は波羅奈(はらな)国の仙人鹿野園(せんにんろくやおん)の中に住まわれていた。仏はまだ成道してから間がなかったので世間の人にはただ大沙門(しゃもん、出家)とのみ呼ばれていた。
  その頃、舎衛城(しゃえいじょう、国名)では波斯匿(はしのく)王が新たに王位を紹(つ)ぐことになった。この時、波斯匿王はこう思った、
 ――おれは今新たに王位を紹ぐことになった。まず釈迦族の家から娶(めと)ろう。もし娶れればよし、娶れなければ行って強引に迫ればよいのだ。
  
  そこで、一人の大臣にこう言った、
 ――迦毘羅(かびら、仏の故国)国の釈迦族の家に行き、おれの名を告げてこう言え、『波斯匿王は、こうご挨拶申しております。ご機嫌いかがですかと無量の言葉で挨拶いたしますと。そしてこう申されました、わたしは釈迦族の女を娶りたい。もし娶ることができれば、多くの徳があるだろう。もし違うようならば、力で取ってみせよう。』と。
  大臣は王の命を受けて迦毘羅城に入ると、釈迦族の貴族たち五百人の集りの中で波斯匿王のことばを伝えた。
  
  これを聞いて、釈迦族の男たちは瞋った、
 ――おれたちは名誉ある家柄である。何の縁があって婢(はしため)の子なんどと親戚になる必要がある!
  
  その時、釈迦族の摩訶男(まかなん)という男が、こう提案した、
 ――皆さんのような賢い方々がいっしょになって瞋ってはなりません。なぜならば、波斯匿王は極めて乱暴者だからです。もし波斯匿王がわが国の国境まで来れば、わが国はひとたまりもありません。わたくしが波斯匿王に会って事情を説明してきましょう。
  
  摩訶男の家には婢の生んだ一人の女がいた。世にも希な端正な美人であった。摩訶男はこの女に沐浴させると、素晴らしい衣服を身につけさせ、美しく羽で飾り付けた車に載せ、波斯匿王に送り与えてこう言った、
 ――これはわたしの娘です。共に親戚になりましょう。
  
  波斯匿王はこの女を得て非常に歓喜し、この女を第一夫人に取り立てた。数日ならずして懐妊し、八九月を経ると一人の男児を生んだ。世にも希な美しい男の子であった。
  波斯匿王は名を決めるため多くの占い師たちを集めた。占い師たちは王の話を聞きおわるとこう言った、
 ――大王、このように知っていられましょうか?王が夫人を求められた時、釈迦族の者どもは、このように言って諍いました、ある者は『与えよ』と言い、ある者は『与えるな』と言い、答えがあれこれ流離(るり、さまよう)したのです。それで太子は流離と名づけられるのがよろしいでしょう。
  
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  悲劇の根はここにあります。釈迦族は非常に高慢な一族であったようで、卑しい身分の女をいつわって大国の王にさしだしました。無事にすむはずがありません。
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  波斯匿王は、流離太子を非常に愛し、一度も目前から離すことがなかったが、流離太子が八歳になると、こう言った、
 ――お前はもう大きくなった。迦毘羅城に行って弓を射る術をいろいろ学んでこい。
  
  波斯匿王は、太子に多くの使用人を与え、大象に乗せて摩訶男の家に行かせると、こう言わせた、
 ――波斯匿王はわたしをここに来させて、弓を射る術をいろいろ学ぶようおおせられました。どうかお祖父さまお祖母さま、事事にご教授してください。
  
  摩訶男はこう答えた、
 ――術を学ぼうとすることは善いことである。よく習うがよかろう。
  そして釈迦族の五百人の童子たちを集め、流離太子といっしょに弓を射る術を学ばせた。
  
  その時、迦毘羅城の中に新たに講堂が建てられ、釈迦族の者たちは、たがいにこう言いあった、
 ――こうして新しい講堂が建ち、彩色されて絵などが描かれてみると、まるで天の宮のようだ。まず仏をはじめ大勢の僧侶たちをこの中で供養して、無量の福をさずかることにしよう。
  そして、釈迦族の者たちは、この堂の中に種種の坐具を敷き、美しく壁掛けや幡(はた)などで飾りつけ、香水を池にそそぎ、末香を燃やし、好い水をたくわえ、多くの灯明をともした。
  
  この時、流離太子が五百の童子を引連れて講堂に来ると、仏のための上座に坐った。
  釈迦族の男たちはこれを見て憤り、前に出ると太子の臂を捉えて門外に追い出し、罵ってこう言った、
 ――この婢の子めが!誰も中に入ってもいないというのに、よくも中に入って坐りおった。
  そして、流離太子を捉えて撲りつけ、地面に投げ捨てた。
  
  この時、流離太子はすぐに起ち上がると長くため息をついて後を視た。好苦(こうく)という名の梵志(ぼんし、婆羅門の尊称)の子が控えていた。流離太子は好苦にこう言った、
 ――この釈迦族の者めらが、おれを捉えてこうまで辱めた。もしおれが王位を紹いだ時には、この事をおれに告げて思いださせてくれ!
  好苦はこう答えた、
 ――太子の言われるままに!
  
  以後、この梵志の子は日に三度、太子に、
 ――釈迦族に辱められたことを憶えていられますか?と言い、このような歌を歌った、
   『すべては必ず尽きるもの、
    果物熟せば地に堕ちて、
    集まりたるは散り散りに、
    おごれるものもいつか死ぬ。』と。
  
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  一人は深く心に怨を懐き、一人はその怨を焚きつけます。怨が増長しないはずがありません。
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  この頃、波斯匿王はまだ生きていたが、後に命を取られて死ぬと、流離太子が王と為った。
  この時、好苦は王の所に行くとこう言った、
 ――王、憶えていられますか?昔釈迦族に辱められたことを。
  王はこう答えた、
 ――善く言った、善く言った!あの事は善く憶えているぞ!
  
  流離王は、あらためて瞋りをおぼえ、群臣たちにこう告げた、
 ――今、人民の主は誰か?
  群臣たちはこう答えた、
 ――大王です!今日統治なさっているのは流離王です!
  王は、それに答えてこう言った、
 ――お前等は、速かにおれの乗り物を用意し、四部(象、馬、車、歩)の兵を集めよ!釈迦族を征伐しに往こう!
  
  群臣たちは、王の命を受け、すぐに雲が集まるように四部の兵を集めた。
  流離王は、四部の兵を将(ひき)いて迦毘羅城に軍を進めた。
  
  その時、多くの比丘(びく、僧侶)たちは、『流離王が釈迦族を征伐する』と聞き、世尊(せそん、仏の尊称)の所に来ると、頭で世尊の足に礼をして壁の一面に立ち、今聞いたことを包み隠さず世尊に申しあげた。
  
  世尊は、比丘たちの語るのを聞きおわると、流離王の進む道に行き、一本の枯木の下に足を組んで坐られた。この枯木には一枚の葉さえなかった。
  
  流離王は、遥かに世尊が枯木の下で坐っていられるのを見ると、車を下りて世尊の所まで来た。世尊の足に頭を付けて礼をすると一歩退いて立ち世尊にこう申しあげた、
 ――世の中には、尼拘類樹(にくるいじゅ)のように枝も葉もよく茂った樹が有りますのに、なぜこのような枯れ木の下にお坐りになっているのですか?
  世尊はこう答えられた、
 ――親族の蔭は、外の人に勝る。
  
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  ここで少し説明しましょう。尼拘類樹というのは一本の樹が枝を横に張り、その横枝から気根を地面に垂してそれを幹とし、そこから更に横に枝を張りますので、一本で数百坪にもなる葡萄棚のような巨木です。大きな物ならば百輌の車がその下に入ると言います。世尊がその下で坐られた樹は、一説には舎夷樹(しゃいじゅ、チーク)といい、釈迦族を象徴する樹だと言われています。
  また世尊と流離王とは釈迦族を介してたがいに親戚であることも忘れないでください。
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  この時、流離王はこう思った、
 ――今日は世尊と親戚のままでいてやろう。そうだ今日は本国に還り、迦毘羅城を討つのは止めにしよう。流離王はこうつぶやくとすぐに軍勢を還した。
  
  国では好苦梵志が王にこう言った、
 ――釈迦族に辱められたことを思いだされませ!
  流離王は、それを聞くと、また瞋りがわき起こった、
  ――お前等は、速かにおれの乗り物を用意し、四部の兵を集めよ。釈迦族を征伐しに往くぞ!
  
  群臣たちは、すぐに四部の兵を集め、舎衛城(しゃえいじょう、流離王の居城)を出ると、釈迦族を討つために、迦毘羅城に軍を進めた。
  
  その時、多くの比丘たちは、『今、また流離王が釈迦族を討つ』と聞き、世尊の所に来ると世尊にそう申しあげた。
  世尊は、比丘たちの語るのを聞きおわると、流離王の進む道に行き、また一本の枯木の下に坐られた。
  
  流離王は、遥かに世尊が枯木の下で坐っていられるのを見て車を下りて世尊の所まで来た。世尊の足に頭を付けて礼をすると一歩退いて立ち、世尊にこう申しあげた、
 ――もっと好い樹があるのに、その下には坐られず、今日はなぜこのような枯れ木の下に坐っていられるのですか?
  世尊はこう答えられた、
 ――親族の蔭は、外の人に勝る。
  そして世尊は、このような歌で説明された、
   『親族の蔭は涼しく、
    釈迦族に仏は出でぬ。
    これなべてわが枝葉ゆえ、
    その下にわれは坐れり。』と。
  
  それを聞いて流離王はこう考えた、
 ――世尊が今日世に出られたのは釈迦族によってである。やはり討つべきではないだろう。隊列を収めて本土に帰ろう。
  そして流離王はすぐさま舎衛城に還った。
  
  好苦梵志はまた王にこう語った、
 ――王、むかし釈迦族に辱められたことを思いだされませ!
  流離王はこの言葉を聞くとまた四部の兵を集め、舎衛城を出て迦毘羅城に軍を進めた。
  
  この時、大目乾連(だいもっけんれん、神通第一の弟子)は『流離王がまた釈迦族を討つために軍を進めた』と聞き、世尊の所に来ると、頭で世尊の足に礼をして壁の一面に立ち、世尊にこう申し上げた、
 ――今日、流離王は四部の兵を集めました。釈迦族を討とうとしています。わたしは今ならば神通力で流離王の四部の兵を他方の世界に放り投げることができますが!
  世尊は、こう教えられた、
 ――これは釈迦族が過去世に結んだ縁である。どうしてお前にできよう、これを他方の世界に放り投げることなど?
  目連は仏にこう申しあげた、
 ――実に宿命の縁では他方の世界に放り投げることはできません。
  
  そして世尊は目連にこう言われた、
 ――お前はひとまず座につきなさい。
  目連はまた仏にこう申しあげた、
 ――迦毘羅城を虚空の中に移すことならできますが!
  世尊はこう教えられた、
 ――お前が今釈迦族の宿縁を虚空の中に移すというのか?
  目連が答えた、
 ――いえできません。世尊!
  仏は目連に教えられた、
 ――もうよい、お前はもとの所に還れ!
  目連がまた仏に申しあげた、
 ――どうかこれをお許しください。鉄の籠で迦毘羅城の上を覆いたいと思うのですが!
  世尊は教えられた、
 ――何と、目連!鉄の籠で宿縁を覆えるというのか?
  目連は申しあげた、
 ――できません、世尊!
  
  仏は目連にこう教えられた、
 ――お前は今すぐ本の所に還れ!釈迦族は今日宿縁が熟し、今報を受けようとしているのだ。
  そして世尊は歌で説明された、
   『目連は通力あれば、
    天と地を入れ換えんとも、
    釈迦族に繋がる縁は、
    仏とていかで消しなん』と。
  
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  誤解の無いように説明しておきますが、縁は必ずしも不変のものではありません、一切は縁によって起るのですから、縁によって変わることはあります。ただし変えがたいことは事実ですので、ここでは分りやすく説かれているのです。
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  その頃、流離王は迦毘羅城に軍を進めていた。
  釈迦族の男たちはこれを聞いて、これもまた四部の兵を集めた。そして流離王の軍を向え討つために一由旬(ゆじゅん、一日の進軍行程)ばかり進むと、流離王まで後一由旬という所で遥かに遠くから弓を射かけた。
  
  流離王を射た箭(や)は、或は耳の孔を射ても耳を傷つけず、或は頭の髻(もとどり)を射ても頭を傷つけず、或は弓の弦を射てもその人は殺さず、或は鎧を射てもその人は殺さず、或は床几を射てもその人を殺さず、或は車輪を射て壊してもその人は殺さず、或は軍を指揮する旗を射て壊してもその人は殺さなかった。
  
  流離王はこれを見てたちまち恐怖を懐き、群臣たちにこう告げた、
 ――お前等は観たか?この箭は何処から来たのか?
  臣下の者たちはこう答えた、
 ――これは釈迦族の男たちが、ここより一由旬向こうで射た箭です。
  流離王はこう言った、
 ――彼等がもし本気でおれを殺そうと思えば、どの箭が当っても死んでいたはずだ。中止して舎衛城へ還ろう!
  
  この時、好苦梵志が進みでると王にこう言った、
 ――大王、怖れてはなりません。この釈迦族の者たちは皆、持戒により虫ですら殺さないのですから!まして人を殺すことなどどうしてできましょう!今は前進なさるのみ!必ずや釈迦族を滅ぼせましょう!
  
  流離王がようやく前進して釈迦族に向った時、釈迦族の者たちはすでに城の中に退いていた。
  流離王は、城の外から内に向ってこう声をかけた、
 ――お前たちは、速かに城門を開けよ!もし開かなければ皆殺しにするぞ!
  
  その時、迦毘羅城に奢摩(しゃま)という釈迦族の童子がいた。年は十五であった。彼は鎧を着け武器を持つと城壁の上に駆け上がり、流離王の兵と闘い、多くの兵が殺され、敵は散り散りに逃げ去りながら口々にこう言った、
 ――これはいったい誰なんだ!天だろうか?鬼神だろうか?遠くから見れば小児のように見えるが!
  
  これを見た流離王は、またしても恐怖を懐いて地中に掘った孔の中に隠れた。
  そして釈迦族の男たちは、流離王の兵が散り散りに逃げ去るのを見て、奢摩童子にこう訊ねた、
 ――お前は幼少ながら、なぜ釈迦族の名誉を傷つけた?釈迦族は善法を修行しているのを知らなかったのか?おれたちは虫さえ殺さず、まして人を殺すことなどはないのに!おれたちは、この軍勢を破ることができ、一人で万人に敵することもできる!しかしおれたちはこう考えているのだ、
 ――しかし、数え切れないほどの生き物を殺せばどうなる?世尊もこう説かれている、『人が人を殺せば、死んで地獄に入り、もし人中に生まれるようなことがあってもその寿命は極めて短い』と。お前は速かにここを去れ、二度と還ってくるな!
  
  奢摩童子は国を出て去り、またふたたび迦毘羅城に入ることはなかった。
  この時、流離王はまた門の下に来ると中の人に向ってこう言った、
 ――速かに城門を開けよ!ぐずぐずするな!
  釈迦族の男たちは、たがいにこう言い合った、
 ――門を開こうか、開かないでおこうか?
  
  その時、魔王波旬(はじゅん、魔王の名)は釈迦族の一人に化けて皆にこう言った、
 ――お前たち、速く城門を開けよ!皆でいっしょに悩むのはもうたくさんだ!
  
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  釈迦族の者たちはせっかく不殺生を学びながら、高慢を抑えることについては学び損なったようです。
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  釈迦族の者たちが城門を開くと、流離王は群臣たちにこう命じた、
 ――今見ると、この釈迦族の人民は極めて多い、刀剣では殺せそうにもないな!皆の脚を地中に埋めて象に踏みつぶさせよ!
  臣下たちは、王の命を受けてすぐに象に蹈み殺させた。
  
  流離王はまた群臣たちにこう命じた、
 ――お前たちは速かに好い顔をした釈迦族の女を選んで五百人連れて来い!
  臣下たちは、王の命を受けてすぐに五百人の顔の好い女を選び、王の所に引いていった。
  
  この時、摩訶男が流離王の所に行きこう言った、
 ――おれの願いを聞いてくれ!
  流離王は言った、
 ――どのような願いだ?
  摩訶男は言った、
 ――おれは今池の底にもぐろう!その水に沈んでいる間だけ釈迦族の者たちを逃がしてくれ!おれが水から出たら、好きなように殺せばよかろう!
 ――それは大いにおもしろい!やってみよ!
  
  摩訶男は池の底にもぐると、頭髪を水草の根に結びつけて命を終った。
  この時、釈迦族の者たちは、或は東の門より出てまた南の門より入り、或は北の門より出てまた東の門より入り、或は西の門より出てまた北の門より入った。
  
  この時、流離王は群臣たちにこう言った、
 ――摩訶男じいさんは、なぜ水中にもぐったまま出てこない?
  臣下たちは王の命を受けて水中に入り、摩訶男を救い出したがすでに死んでいた。
  
  流離王は摩訶男の死んだのを見ると、少しだけ後悔した、
 ――おれのじいさんは死んでしまったが、それも親族を愛するからなのだ!まさか死んでしまうとはなあ!もし死ぬと知っていれば釈迦族を討ちには来なかったものを!
  そして流離王は九千九百九十万の釈迦族を殺した。血は流れて河となり、迦毘羅城を巡って尼拘類樹の園の中に留まった。
  
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  流離王の性は必ずしも悪ではありません。祖父にあたる摩訶男までは殺そうと考えていませんでした。しかし殺すということには少しの抵抗も無かったようです。しかしこの頃ではあたりまえのことです。
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  この時、流離王は釈迦族の五百人の女に向ってこう言った、
 ――お前たちは、何も心配することはないぞ!おれがお前たちの夫なら、お前たちはおれの妻だ!約束だ、うまくやってゆこう!
  そして流離王は手をさし伸べて一人の釈迦族の女を捉え、これを弄ぼうとした。
  
  その時、釈迦族の女はこう言って訊ねた、
 ――大王さまは何がなさりたいの?
  王が答えた、
 ――お前と情を通じたいのだ。
  女が言った、
 ――わたしが、なぜ婢の生んだ種族なんぞと情を通じるの?
  これを聞いて流離王は怒り狂い、群臣に命じた、
 ――すぐにこの女を捕えよ!手足を切り捨て、深い横穴に押し込めよ。
  臣下たちは王の命を受けて、すぐに女の手足を切り捨て、身を深い横穴に押し込めた。
  
  五百人の釈迦族の女たちは皆口々に王を罵ってこう言った、
 ――誰がこの身を婢の生んだ種族なんかに与えて情を交えたりするものですか?
  王は瞋って五百人の釈迦族の女を捕らえ、皆その手足を切り捨て、身を深い横穴に押し込めた。
  
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  釈迦族の女もなかなか高慢ですが、印度ではこれで普通のようです。
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  そして流離王は、迦毘羅城を隅々まで壊しつくして、舎衛城に還りついた。
  
  その頃、祇陀(ぎだ、波斯匿王の子)太子は宮の奥深くで歌い女たちと娯楽していた。
  それは流離王の耳に入りこう訊ねた、
 ――何の音がここまで聞こえてくるのか?
  群臣たちはこう答えた、
 ――これは祇陀王子が宮の奥で歌い女たちと楽しまれているのです。
  流離王は乗っていた象の御者にこう命じた、
 ――お前は、この象を廻して祇陀王子の所に行け!
  王宮の門番は、遥かに王の姿を見るとこう言った、
 ――王、しばらくお待ちください!祇陀王子が今宮の中でいろいろ楽しんでいられます。お邪魔なさらないでくださいとのことでした。
  流離王はすぐさま剣を抜くと、この門番を斬り殺した。
  
  この時、祇陀王子は流離王が門の外にいると聞き、歌い女たちを留めたまま、外に出て王を迎えた、
 ――よくいらっしゃいました、大王!しばらくお乗りものを停めてお入りください。
  流離王はこう答えた、
 ――わたしが釈迦族どもと闘っていたことを知らなかったのですか?
  祇陀はこう答えた、
 ――いえ聞いておりました。
  流離王は言った、
 ――なぜ歌い女たちと遊んでいて、わたしを助けなかったのですか?
  祇陀王子はこう答えた、
 ――わたしは生き物の命を取って殺すことに堪えられないのです。
  それを聞いた流離王は瞋りがこみあげ、すぐに剣を抜くと祇陀王子を殺した。
  祇陀王子は命を終え、天に生れて五百の天女たちと共に楽しんだ。
  
  世尊は、天眼で祇陀王子が命を終え天に生れたのを観察すると、歌を歌ってこうお説きになった、
   『人天に生まれて受くる、
    祇陀の福これぞ徳なる、
    善なせば報(むくい)ぞ受くる、
    今なせば後にぞ受けん。
    今憂い後にも憂う、
    流離王は二処に憂えん、
    悪なせば報ぞ受けん、
    報こそ虚しからざれ。
    福あらば功(いさお)あがらん、
    前になし後にもなして、
    独りなし皆にてもなし、
    そを人に知られざりとも。
    人天に福を受くるは、
    二処ともに福を受くるは、
    善なさば報ぞ受けん、
    報こそ虚しからざれ。
    今憂い後にも憂う、
    悪なさば二処に憂えん、
    悪なして受くる憂いは、
    報こそ虚しからざれ。』
  
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  釈摩訶男には愛著をおぼえた流離王も異母弟の祇陀王子には遠慮しません。釈迦族の男どもと同じようなことを言われて腹が立ちました。
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  この時、あの五百人の釈迦族の女たちは、仏の名を呼び叫んでいた、
 ――仏はここで生まれ、ここを出て出家し、そして仏に成られた。しかし、仏は今日まで永い間わたしたちを忘れていられる。このような苦しみに遭い、このような痛みを受けているのに、世尊はなぜ忘れたままでいられるのですか?
  
  その時、世尊は天耳でもって、釈迦族の女たちの言う仏に向っての怨み言を聞き、こう比丘たちに教えられた、
 ――お前たち、皆来なさい!いっしょに迦毘羅城に行こう。親族たちの命が終るのを観に!
  比丘たちはこう答えた、
 ――おおせのとおりに!世尊。
  
  そして世尊は、比丘たちと共に舎衛城を出て迦毘羅城に行かれた。
  
  五百人の女たちは、世尊が比丘たちと来るのを見ると皆恥ずかしく思った。
  その時、帝釈天と毘沙門天とは世尊の後から扇であおいでいた。世尊は、振り返って帝釈天にこう言われた、
 ――この釈迦族の女たちは皆恥ずかしく思っているな!
  帝釈天はこう答えた、
 ――そのとおりでございます、世尊!そして帝釈天は着ていた天衣を脱ぐと五百人の女の身体の上に掛けて覆った。
  
  そして世尊は毘沙門天にこう言われた、
 ――この女たちはもう永いこと飢えて渇いている。何かしてやれることはないか?
  毘沙門天は仏にこう言った、
 ――おおせのままに、世尊!そして毘沙門天は自ら自然の天食を用意して釈迦族の女たちに与え、皆は満たされた。
  
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  世尊はここで女たちに説法されます、皆さんもどうぞごいっしょにお聞きください。
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  そこで世尊は、おもむろに女たちに素晴らしい法を説いて聞かせられた、
 ――あらゆるものは皆離散する。別離は合会(ごうえ)の中に有る。お前たちは、これを知っていただろうか?
 ――人の身と心とは、皆このような多くの苦痛と悩みとを受けなくてはならない。天上、人間、畜生、餓鬼、地獄の五つの道に趣かなければならないのである。
 ――この身と心とを受けるということは、必ず行いの報を受けるのである。行いの報が有るので、胎中に生を受け、胎中の生を受ければ、また必ず苦楽の報を受けなければならない。
 ――もしこの身と心とが無ければ、胎中に生を受けることは無く、胎中に生を受けなければ生まれることも無く、生まれなければ老いて死ぬことも無い。死ぬことが無いので、合会と別離の悩みも無いのである。
  
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 ――この故に、皆、この身と心との成り立ちについて考えよ!
 ――身と心とを知るとは、見たいという欲望、聞きたいという欲望、嗅ぎたいという欲望、味わいたいという欲望、触れたいという欲望の五つの欲望を知るということである。
 ――五つの欲望を知るとは、愛するということを知ることである。
 ――愛するということを知るとは、物に染みついて離れない愛欲の心を知るということである。
 ――これ等のことをすべて知りおえたならば、ふたたび胎中に生を受けることは無く、胎中に生を受けないので、生も老も病も死も無いのである。
  
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  その時、世尊は釈迦族の女たちのために、この法をお説きになり、さまざまな論をお説きになった。その論とは施しについて、戒について、身の不浄を観察することについて、解脱すれば楽になるということについてである。
  
  そして世尊は、この女たちの心が開け、意(こころ)の凝りが解けたのをお知りになった。
  
  仏たちの常に説かれる法とは、苦について、苦が集まることについて、苦を滅するということについて、苦を滅する道についてである。
  
  世尊が、この女たちにこの法をお説きになると、女たちは諸の煩悩の垢が洗い流されて、ものの真実を見きわめる力がつき、その所で命が終ると、皆天上に生れた。
  
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  そして世尊は、城の東門にお行きになると、城の中は煙火が充満して何も無くなっているのを見られた。そこでこの歌を歌ってお説きになった、
   『動くものなべて常無し、
    生まるれば必ず死なん、
    生まれずば死ぬるあたわず、
    滅するは楽の最たり。』
  
  そして世尊は、比丘たちに『お前たちも皆来い!尼拘類樹の園に行こう。』と仰り、園についてお坐りになると、比丘たちにこう教えられた、
 ――この尼拘類樹の園では、昔大勢の比丘たちに法を説いたものであるが、今は見るとおり空虚となり誰もいない。昔数千万の人々がここで道を得て、真実を見る目を養ったものだが、もう今日以後は、わたしもここに来ることはないだろう。
  
  このように世尊は比丘たちに法をお説きになると、座よりお起ちになり舎衛国にお還りになった。
  
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  流離王も因果の道理からは逃れられません。
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  そして世尊は、比丘たちにこう教えられた、
 ――今、流離王とその兵たちは世に永くいないだろう。七日の後には何も無いだろう。
  流離王は世尊のこの予言を聞いて怖れを懐き、群臣たちにこう言った、
 ――仏は今こう予言された、『流離王とその兵たちは世に永くいないだろう。七日の後には何も無いだろう。』と。お前たちは国境で、盗賊が来ないか、水難火災が無いか、国境を侵す者が無いかを見張っておれ!なぜならば、仏の言葉に嘘は無く、言われたことは必ず実現するからだ。
  
  その時、好苦梵志が王にこう言った、
 ――王、怖れられますな!今国内には盗賊も敵の侵略もございませんし、また水難火災もございません。今日王は快くお楽しみください。
  流離王はこう言った、
 ――梵志は知らないのか!仏というものは、言われた言葉が違うことがないのだ。
  流離王は人に日をかぞえさせ七日目に入ったとき大いに歓喜して踊り狂った。そして兵たちと女官たちとを引連れて、阿脂羅(あしら)河の辺に行き、大いに楽しみ、その夜はそこに野営した。
  その夜半のこと時ならずして雲が起り、暴風が吹き激しく雨が降った。
  流離王と兵たちは皆ことごとく水に流されて消滅し、身が壊れて命が終ると阿鼻地獄に入った。また天火があって城内の宮殿をことごとく焼き尽くしてしまった。
  
  世尊は、天眼で流離王および四部の兵が皆水に流されて命を終り地獄に入ったのをご覧になり、歌でこうお説きになった、
   『悪なすにいかに激しき、
    なべて皆身と口による、
    今の身に悩みを受けて、
    命さえかくも短し。
    家の中されど虚しく、
    火に焼かれ煙とならん、
    その命終る時には、
    必ずや地獄に堕ちん。』
  
  その時、大勢の比丘が仏にこう訊ねた、
 ――流離王と四部の兵は、今命を絶たれて何処に生れるのですか?
  世尊はこう教えられた、
 ――流離王は今阿鼻(あび)地獄の中にいる。
  
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  では過去の因縁とはどんなものか、今それが明かされますが、非常に単純なものです。しかしこの単純さこそが重要なのです。
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  比丘たちは仏に訊ねた、
 ――今のこの釈迦族は昔どのような因縁を作って、今流離王に害されたのですか?
  
  その時、仏は比丘たちにこう教えられた、
 ――昔、羅閲(らえつ)城の中に魚を捕らえる村が有った。その時世界は飢饉であり、人々は草の根を食い、一升の金貨で一升の米を買わなくてはならなかった。
  
 ――その村には大きな池が有り、また多くの魚がいた。羅閲城の人間は皆池に行き、魚を捕らえてこれを食った。
  
 ――ちょうどその時、池の中に二匹の魚がいて、一を拘巣(くそう)といい、二を両舌(りょうぜつ)といった。この二魚はたがいにこう言っていた、『おれたちはこの人間に何をしたというのだろう?おれたちは水に住み、彼等は平地に住むというのに、この人間は皆来ておれたちを捕らえて食う。前世に少しばかりの福徳が有ったならば、必ず怨を報いてやるものを!』と。
  
 ――その時、村の中に八歳になるひとりの小児がいた。魚を捕らず命ある者を害することも無かったが、たまたま池の魚が岸に上がり、ことごとく命を失っているのを見て、たいへん歓んだ。
  
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  仏は『身と口と意(こころ)を護れ』と言って説法を締めくくられます。護るとは自分自身を護ることです。
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  比丘たちよ、これを知っているか!お前たちはこのようにこれを魚のことだと観てはいけないのだ!
 ――その時の羅閲城の中の人々とは誰であろうか?それは今の釈迦族がこれである。
 ――その時の拘巣魚とは今の流離王がこれであり、その時の両舌魚とは今の好苦梵志がこれである。
 ――その時の小児で魚が岸に上がっているのを見て笑う者とは今のわたしがこれである。
 ――その時、釈迦族の者たちは、このように魚を殺して食うという罪を犯した。その因縁により無数劫という永い間、地獄の中に入り、今はまたこの罰を受けるのである。わたしはその時、見て笑うという罪を犯したので、今も頭痛を患い、石に押潰されたり、須弥山を頭に載せているように苦しむのである。
  
  それならば、仏というものは、もう肉身を受けず、諸の行いも無く、諸の厄難を蒙むることも無いのに、なぜこのように苦しむのかと言えば、それは比丘たちよ!この因縁の報をこのように今まさに受けているのである。
  
  比丘たちよ!まさに身と口と意(こころ)の行いを護らなければならない。これを護っている人には、まさに敬いの心をもって仕えなくてはならない。このように比丘たちよ!よく学べ!
  
  そして比丘たちは仏の説法を聞いて、大いに歓喜しそれを恭しく行なった。
  
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  さて、もうお分かりですね?そうです!この物語は大蔵経の中の増一阿含経巻第二十六の等見品第三十四の中の一経なのです。分りますか?等見品!等しく見る、何を等しく見るのでしょう?世尊はここで敵と味方とを等しく見ていられます。
  ねっ!仏も鹿も等しく見る!南都二六会の人たちは仏は尊く、鹿は卑しいと見ているのです!しかし自分の身体はどうでしょう?ひょっとして角の生えた牛、ひずめを持った豚からできているのではないですか?しかしまあ、下品なあてこすりはやめましょう。
  
  仏教の要とは、まさにこの等見、等しく見ることにあるのです。はい、とんだことから勉強してしまいました!しかし勉強になったのですから、もう人のことを悪く言うのはよしましょう。そう、等見とはこういう事なのです。
  
  
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仏も鹿も尊さは同じ
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  仏も鹿も同じぐらいに尊い、この命題を奈良で撮ってきた写真で証明しましょう。
  はい、皆様おなじみ奈良の大仏でございます。たいへん暗い所でしたので、柱にカメラを押しつけて撮る必要上、この角度はやむを得ません。どうです?尊いお顔ですね!
  
  
  お腹がいっぱいで、満ち足りた顔の鹿です。いくぶん眠そうですが午睡の最中にお邪魔したのですから、これもやむを得ません。しかしどうですか?鼻筋がしっかり通り、ぼくなんぞよりかはよっぽど立派な顔立ちです。しかもどことなく品があり前世を思わせますね!来世にはきっと仏に成り、よい世界を造ってくれますよ!
  
  
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  ではこの辺で‥‥、来月またお会いしましょう。それまでご機嫌よう。



  (せんとくん おわり)