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遺 言 書
  
  毎年十二月の初めから三月の終りまでは、寒さをしのぐためにラクダのシャツと股引を愛用しておりますが、いくら良い物でも二十年間も着続ければ、すでに生地が薄れておりますので、灯にかざせば明かりが透けて見えます。家内に命じてクリーム色のネルでツギを当てさせました。両肩から肩胛骨を覆うほどのが一つと、ほぼ尻の全体を覆うのが一つです。
  「この家もそろそろ全面修理しようか。」、針仕事をしながら家内がこう申しますので、「坂野さんにしてもらえば良い。」と答えました。坂野さんというのは近くに住む大工で、台風で瓦が飛んだときなど時々お世話になっている方です。またこの家もただ雨露をしのぐことのみを目的として購入した茅屋で、しかも三十年の年月を経てみれば満身創痍の様相は隠しようもなく、屋根は漏り、雨樋は落ちかけ、外壁のトタンは錆びて穴が開き、棟瓦をとめる漆喰は腐って堕ちております。
  三月も半ばを過ぎ、そんな事もいつしか忘れかけたころ、家内から四月十四日から二週間の工期で修理してもらうことになりましたと告げられ、やれやれ面倒な、騒がしい事が始りそうだな、その間おれは何うしておれば良いのだろう?と考えていますと、「その間はやかましいし、車が存っては足場も組めないから、阿蘇にでも旅行してきては何う?」と申します。
  阿蘇旅行、日頃の思いを叶えてみようか。わたしの少年時代とは男子ばかりの進学校に通うことでした。中高一貫教育で初めの五年間で六年分の教科を終えて、後の一年間はすべてを特別の受験勉強に充てるというような高校でした。修学旅行も二年の時にありました。まだ国鉄は電化されておらず、夜行列車で汽車の吐きだす煤で顔を黒くしながら、列車で二泊、宿で三泊の行程で別府、阿蘇、熊本、雲仙、長崎を旅行しました。
  この時、目にした阿蘇の光景をもう一度目の当たりにしたい、いつしかこのことが長年の願いとなっていたのです。五月の二十何日かであったと思いますが、この時期の阿蘇は全面緑をあらわしていました。直径三十キロメートルの巨大な外輪山の中を埋め尽くした緑の草原に、米粒状の不思議な青塚が点在する、これがわたくしの脳裏に刻まれた阿蘇のイメージです。
  あの景色ははたして実在したのだろうか?もし在ればもう一度見てみたい。家内の顔を窺いましたが、何うも裏心が在るようにも思えません、ただこれが最後のチャンスだよ、何う?独りで行けるの?とこんな挑戦を受けているように思えます。
  問題は世事に疎いわたくしが一人で旅行したことがなく、旅館というようなものは予約が必要かどうかさえよくは解っていないことです。大抵の雑事は家内が引き受けてくれますが、八ひきの猫がいては十日あまり、とても留守にはできません。一人で旅行か‥‥、これもまた面倒な。
  「体力の有るうちに行っておいた方が良いよ。」と更に追い打ちをかけます。小考の後、ついに心を決めて行くことにしました、じゃあ、宿の手配をしておいてくれ。
  
  
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  この後、宿の手配、必要物のチェックリストの作成などは家内がしましたが、その間わたくしの方は遺言書の作成にとりかかりました。『サライ』に吉行淳之介の遺言書が載っていましたので、それを参考にします。後顧の憂いを残しては、旅立てませんからね。
  
     遺 言 書
  遺言者、某男は左のごとく遺言する。
  一、葬儀のこと、
  通夜、告別式はこれを行わないのが望ましい。葬式は妻、某女一人にて骨揚げの後、某村の某寺に於いて、極めて近親者のみが集まり、導師一名、役僧一名にて行う。戒名は××××信士と為すこと。簡素なることを第一とす。
  二、遺産のこと、
  遺産は妻、某女に贈る。その理由は、遺言者の生涯に得たる所の所得はその大半が遺言者自身の趣味と娯楽の為に費やされ、遺産として残りたる所は、妻、某女よりの負債に他ならない為である。趣味の為に購入せし所のあらましを左にしるす。
  (一)自動車の部、
     ‥‥‥‥、
  (二)オーディオの部、
     ‥‥‥‥、
  (三)写真の部、
     ‥‥‥‥、
  (四)その他、
     ‥‥‥‥。    
  三、遺言執行者は妻、某女とする。
遺言者は、自ら日付および署名、捺印して右のごとく遺言す。
  平成二十年四月十三日
  遺言者 某男 印
  
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  このように遺言書を書き上げますと、封筒に入れて机に収めました。その後はチェックリストに従って買物を済ませればよいのですが、家内はまだ何か心配そうです。
  
  「ナビを買ってあげようか。一人で地図を見ながら行くのは大変でしょう?」、まったくその通り。わたくしの方向感覚はよく狂い知悉の場所でさえ道に迷うのは常のことです。まさに渡りに船、近所のスーパーに飛んで行きました。最近『sony nav−u2』という極めて簡便なナビがあることを知っておりましたので、迷うことはありません。
  結論からいうとこのナビは最上の選択でした。値段が安い上に取り付けが簡単、しかも性能がよくほとんど難のつけようがありません。
  
  実は夜中の三時ごろ、知ったつもりでナビの誘導に逆らい、別の道を取ったのですが、危うく山の中をさ迷う所だったのです。目的地に到着できたのはこのナビの功績です。 知らないうちに道を失いましたが、それでも近くに国道×号が通っていることをナビの画面上で知ることができたので、その方向をめざして無事正常のルートに戻れました。
  
  今回の旅行中は常に助手席に地図を広げ、信号待ちの時にナビの画面と見比べておりましたので、道に迷うような気は少しもいたしません。行きたい所へ確実に行くことができ非常に楽でした。
  
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(初日)
  なかば家を追い出されるような恰好で小雨の降るなかを午前二時に出発しました。阿蘇までは凡そ一千二百キロ、元気の良い第一日は普通の道を行き、なおかつできるだけ距離をのばすため出雲に泊ることにしたのです。但馬の山中で夜明けを迎えました。どこかで早い朝食を取りたいものです。景色の良い旅館の駐車場を拝借して熱いお茶を飲み、竹の皮に包まれたお結びを食べました。小雨も降り止んで薄いもやに変っています。辺りには濃い色の桜が満開です。思えば今回の旅行は初日から最後の日まで常に満開の花に恵まれていました。日本列島は、端から端まで一面の花盛りで、一反の花柄の友禅を敷き伸ばしたかのようでした。元気の出る冷たい甘茶を一口飲みまた道中を続けます。国道9号をひた走り、鳥取の海岸に出る少し前の所で昼食です。またしても満開の桜を前にして熱いお茶を飲みお結びを食べました。
  
  正午過ぎに松江に入りました。やや余裕ができたので小泉八雲の旧居を見学します。せっかく出雲に来たのにただ出雲大社に詣でたのみではやはりもったいないような気がしますが、しかし下調べなどは何もして来なかったので何処に詣でればよいか分かりません。地図を眺めてみると松江には八重垣神社があります。何となくこの名前は聞いたことが有るような‥‥。「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造るその八重垣を」とか確かこんな歌もあったような、‥‥。
  
  八重垣神社で写真を撮り、いよいよ出雲大社に詣でました。青空には日の丸が翩翻と風になびいています。数多くの観光バスも訪れていました。
  
  
  いよいよ拝殿の大しめ縄とご対面かと思いきや、今年は六十年に一度のご遷宮の年とかで、大しめ縄は片付けられ代りに細いしめ縄が懸かっていました。また工事のトラックも出入りして広場の至るところに白い工事テントを張っています。やむをえません。拝殿の前で柏手を打ち、怱々として立ち去りました。
  
  
  この鳥居の前方には出雲の神様のお隠れになった海があります。後方には松並木があり本殿に向っています。
  
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第二日
  極めて軟らかいベッドだったので良く睡れ、爽やかに朝の目覚めを迎えたのですが、それからがいけません。ベッドから起きようとしても腰が言うことを聞きません、かがめないのです。今までに経験したことのない痛みがあります。柔らかいベッドに体が埋まり、寝返りがうてなかったからではないでしょうか。前途多難を思わせる出来事に一時は引き返すことも考えましたが、少しづつ痛みもとれてきましたのでやはり前進することにしました。
  ホテルでゆっくり朝食をとり、午前九時に宇佐神宮めざして出発です。一般道を萩に向かいます。通勤の混雑を抜出し、気分の良い朝の日差しを背中に受け、快調にハンドルを右に左にきっておりましたが、だんだん腰の痛みが増幅しやがて耐え難く思われました。高速のインターチェンジを通り過ぎた辺りから、やはり高速で行こうか、それとも萩まで我慢しようかと迷いながら走っていましたが、とうとう二十キロほど道を引き返して高速に乗ることに決めました。これが正解でした。高速では左右の揺れが少ないので腰にかかる負担もずいぶん減少します。その後は特に痛みに苦しむということもなく小倉に到着し、目に付いたドラッグストアでコルセットを買いました。
  
  
  宇佐神宮は神宮皇后と応神天皇と比売(ひめ)大神の三柱の神を中心とし、数多くの神々を祀っていますが、由緒書きを読んでも錯綜としていてよく解りません。全国八幡宮の総本社として非常に高い格式を誇っています。
  
  
  本殿の前には、この急な階段と締め切った門とがあり、その前には何もないという不思議な配置をしています。
  
  
  数多くの祭神が祀られてあり、鳥居もさまざまな方向を向いて立っています。
  
  
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第三日
  いよいよ阿蘇に入ります。しかし朝から霧のような小雨が降っています。霧にけぶる桜の花を愛でながら、コルセットを締め快調に車を飛ばします。途中耶馬溪という名所に立ち寄り宿に着いたのは午後三時になっていました。宇佐からは国東半島も杵築もすぐそこなのですが、この天候ではどうしようもありません。
  
  
  雨に濡れた桜の花が出迎えてくれました。早速温泉につかりましょう。
  
  
  この宿は四つの露天風呂と二つの室内風呂のすべてが源泉掛け流しです。熱くもなくぬるくもなく、七日間の逗留でわたくしの一番のお気に入りがこの湯です。いつ来ても人気の少ないのが大変よろしいのです。湯につかって熱くなった体は、この簀の子の上で大の字になってさまします。小一時間ほどかけて、ゆったりと温泉を満喫するのです。
  
  
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第四日
  一日中小雨が降り、辺りは霧に閉ざされ視界は10メートルというところです。
  露天風呂に傘をさして行くほかは、室の中で読書するよりありません。
  
  
  室がみすぼらしいのはこれが湯治部屋だからです。本館の座敷を希望したのですが、桜のシーズンに入って七日間も一人で座敷を占有されては甚だ迷惑である、しかし湯治目的の人が自炊で泊る部屋ならお貸ししましょうという宿のたっての願いを容れたものです。三食ついて一日五千円では贅沢は言えません。
  床の間もなく籐いすを置いた縁側もありませんが、替わりに清潔なキッチンと薄い壁があり、置き炬燵も出してありますので蒲団を敷きっぱなしにしても構わない気楽さがあります。
  ここで七日間敷きっぱなしの蒲団に横になり、炬燵に足を入れて持参の『白鯨』を半分読みました。何という怠惰な生活‥‥、まさに理想というべきでしょう。
  
  温泉には日に四度から五度入ります。 
  
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第五日
  ようやく晴れ間がのぞきました。
  
  
  この湯にもよく行きました。椿の花がよく咲いています。桜の花も咲いています。
  
  宿の下駄をはいて一歩外に出ると、この宿のシチュエーションが解ります。
  
  
  向こうに見える山と今立っているこの山とは、外輪山で囲まれたその中央に聳える阿蘇五岳につながっています。山の間に遠く見えるのが外輪山です。この辺りは三月に山焼きをしますので、枯れた草の先が黒くなっています。その間から新しい草が萌えいでているのが見えます。
  
  空はどんよりと曇っています。今日も一日温泉と読書で過ごしましょう。
  
  
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第六日
  
  ようやく宿を出ることができました。昨日までとはうって変わってこの晴天です。桃も桜も満開です。今日こそは阿蘇の全貌を見なければなりません。宿からは二十分間山道を下ります。
  
  
  つづら折れの山道を下りながら素晴らしい景色を眺めます。向こうに見えるのはすべて外輪山です。山道を下りきり国道325に出た所に『そば処 ほおずき』があります。親切なここの主人が、この辺りの見所を教えてくれました。滞在中は、うまいソバに引きつけられて都合三回この店に通いました、他には熊本まで出てうなぎを食ったきりです。
  
  
  教えてもらった林間の道を行くと、突然こんな感じで阿蘇の何岳だかが見えて来ました。
  
  
  この山は近づけばこんな感じです。この後道はどんどん登って行きます。
  
  
  やがて外輪山も視角に入ってきました。下には集落が見えます。
  
  
  これも何岳だか分かりませんが五岳の一つです。
  

  火口のふもとの駐車場です。ここからはケーブルと車とどちらでも火口まで行くことができます。しかし生憎なことにガスの流れる方向が悪くこの日は両方とも休みで火口を見ることがかないません。
  結局この日を含めて都合三日間火口まで行けませんでした。
  
  
  ケーブルはこのような草一本生えない荒れ地の上を通っています。
  
  
  この辺りを草千里と呼び、平らな平面が広がります。貸し馬があり乗ることができます。火口からは水蒸気と煙が立ち昇っているのが見えます。
  
  
  更に降ると米塚が見えてきました。山の中腹にあります。中央には噴火口も見えます。向こうにかすんで見えるのは外輪山です。
  
  
  五岳はそれぞれ固有の形体があります。これはこんもりと円くふくらんでいます。
  
  
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第七日、第八日
  この両日もただひたすら阿蘇山に登り、外輪山の中を探索しました。
  
  
  山は見る面が異なるとまた違った風貌が見えます。
  
  
  このようなきざぎざした山もあります。一日見ていても見飽きません。
  
  
  孝女白菊の歌碑を見つけました。こう書いてあります。
  
阿蘇の山里秋ふけて眺さびしきゆふまぐれ、いづこの寺の
鐘ならむ諸行無常と告げわたる、をりしもひとり門にいで父を
待つなる少女あり、年は十四の春あさく色香ふくめるそのさまは、
梅かさくらかわかねども末たのもしく見へにけり、父は先つ日
遊猟(かり)にいで今なほおとづれなしとかや、軒に落ちくる木の葉
にも筧の水のひびきにも、父やかへるとうたがはれ夜な夜な
眠るひまもなし、わきて雨ふるさ夜中は庭の芭蕉のおとし
げく、なくなる虫のこゑごゑにいとどあはれをそへにけり、
かかるさびしき夜半なればひとりおもひにたへざらむ、
菅の小笠に杖とりていでゆくさまぞあはれなる。
  
  これは長い歌で、これだけでは一割にもあたりません。明治の国文学者落合直文による名作です。落合直文にはこの他にも「青葉しげれる桜井の(桜井の訣別または大楠公)」があります。この歌はメロディー付きでいくつかのサイトで読むことができます、やさしい節ですので皆様もどうぞお歌いください。わたしはこの辺りに人気のないのを幸い声を張り上げて歌ってまいりました。
  
  
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第九日
  あっという間の七日間が今にも過ぎようとしています。明日には宿を起たなくてはなりません。今日はまだ行っていない東の方に探索の足を伸ばします。東側は道が外輪山の中を通っていました。
  
  
  外輪山の中腹をぬって道は通ります。もう最後ですから、反対側からも火口に登ってみましょう。
  
  
  ご覧下さい、四日間通いつめてとうとう火口に登ることができました。目の前の建造物は火山弾を避けるための避難所です。大勢の観光客が火口をのぞき込んでいます。
  
  
  火口には青磁色の水が溜まっています。水温は七十度湯気が立ち昇っています。その手前に赤く燃える火口があるはずですが、ここからはのぞき込むことができません。薄青い煙は火口から出たものです。長年にわたる願望は、今そのクライマックスが閉じようとしています。万感の思いを胸に火口を後にしたことは言うまでもありません。
  
  
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  要するに、外輪山を埋め尽くす草原だと思っていたものは草千里という阿蘇の中腹に位置する平地でしかなく、いくつも在ると思っていた米塚も一つしか在りませんでした。しかしわたしの中では老齢にもかかわらず、ある種の驚嘆が目覚めたのです。少年の日に抱いた錯覚は今なお脳裏に鮮やかですが、更にその上に老年の目で見たもう一つの錯覚が積み重なり、終生忘れ得ぬ思い出となりました。
  
  
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第十日、第十一日、第十二日
  今日はもう帰らなくてはなりません。阿蘇の登山道はどの口からも登り、どの口からも降りました。外輪山も縦横に走り回り、阿蘇山をどの方向からも眺めることができました。もう十分です、勇んで帰ることにいたしましょう。
  
  帰りのホテルは山口と津山に観光ホテルが取ってあります。往きはビジネスホテルで還りは観光ホテル、この違いは思いの外に大きなものがありました。老人の旅はやはり疲れないことを第一にしなくてはなりません。取る道も高速道路を選びました。九州自動車道、中国自動車道から若狭自動車道につなぎます、やはり疲れないことを第一にしたのです。
  
  家には午後五時半に到着しました、猫たちは恥ずかしがって遠巻きにしています。家の修理もあらかた終っています、足場はすでに取り払われていました。
  
  
  これは近所の寺の牡丹です、もう咲いていました。ふり返ってみますと、今回のこの旅行は終始花に囲まれていたような不思議な旅でした。帰りは楽な旅でしたので次の朝も疲れはほとんど出ませんでした。
  
  では来月またお会いしましょう、それまで皆様ご機嫌よう。



     (遺言書 おわり)