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春たけなわ
  
  
  気がつけば、いつしか冬の厳しさがぬけ、春のものうさが世界を支配しており、老人にはよい気候となっていました。
  言い古された格言ですが、『暑さ寒さも彼岸まで』は今年もぴったりあてはまり、まことに不思議の感にうたれます。 これぞ格言の鑑、この端正にして厳格なること、まさに吾人の見習うべき所なのであります。
  
  さて、こんな中で世間をつらつら眺めてみますと、これがどうもなかなか騒がしい。 チベットでは動乱が起り、ドルの暴落、円高、株式の暴落、ガソリン価格の高騰、乳幼児虐待、どうもただただ騒がしいだけで、春らしい気分の浮き立つような話題は一向に聞こえてまいりません。
  
  老書生としては、ここでひとつ一家言をご披露するという手もないわけじゃありませんが、どうも今ひとつ気分が乗ってまいりません。 まあ言わぬが花という格言もあることですし、老人の愚癡と見られるのも業腹だしというわけで、ここはひとつ新聞だねのほうにはご遠慮ねがうことにいたしました。
    
  
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  さて、それでは何を今月の話題にすればよいか、先ほども申しましたとおり世間には楽しい話題が払底しております。 そこで回りを見回し、ふと目に付いたのが”サライ”という雑誌。 この雑誌も出はじめのころは老人向けということがめずらしく、しばらく購読していたのですが、どうもなかみが薄く感じられ物足りなくなって止めてしまいました。
  まあ購読を止めたのは他にも理由がありまして、その一つがおかしな言葉遣いをするというのがあります。 譬えば、『畢竟(ひっきょう)の宿』などと来てはどうもいけません、何やら人生の終末をここで迎えましょうというような気分になって面白くないのです。
  小学館ともあろうものが、こうも言葉に対する感覚が悪いとは嘆かわしいことです。 やはり相当のレベルで、この国の国民は国語力が低下しているのではないでしょうか。
  
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  そもそも漢字というものは、一字一字にその意味があり、熟語として合成された場合にも、その本来の意味を根強く残しているものだということは常識なのです。 しかしこの人は、たまたま辞書かなんかで見て、『畢竟』には窮極の意味がある。 これを知っている人はそうはいるまい。 これを使えば尊敬されるのではないだろうか。 と、こんな考えを懐いたのではないでしょうか。
  
  ためしに漢和辞典を引いてみましょう。
  
  『畢(ひつ)』は”すっかり尽きて済むこと”、『竟(きょう)』は”とことんまで行き終る”とあり、共に『おわる』と読むことになっているのです。 
  
  では『窮極』あるいは『究極』のほうはどうかといいますと、『窮(きゅう)』は”行ける所まで行き詰める”、『究(きゅう)』は”物事の奥底を見きわめ、推しきわめる”、『極(きょく)』は”てっぺんの意で、到達してもはやその先のない所をいう”とあり、この三字は共に『きわまる』と読みます。
  
  さて、問題の『畢竟』ですが、辞書には、”終極の意”、”つまり”、”結局”とあり、ある種の高みを指すような所はどこにも見当りません。 その上、『畢竟』という項目のかたわらには『畢命(ひつめい)』という言葉まであり、これは”生命を終える”、”絶命”という意味であるとあります。
  
  経典などを読んでいますと、畢竟空(ひっきょうくう)という名前の空というものがあると書いてあります。 これは究極的な空を指す言葉でありますが、これも詮ずる所は”空というものにも何かがあるのではないかと思って探して見たが結局は何もなくやはり空であった”というほどの意味でしかなく、決して究極の高みを指すようなものではないのです。 しかし、修行の過程において空というものに対する認識が通常よりもやや高まったという意味がありますので、高みを指す意味が絶無かというとそうとまでは言えないという所で、まあ言わば間接的に高みを指すということなのです。
  
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  この雑誌には、他にも居心地の悪さを持つ企画がありました。 『夫婦でゆく花街』であったか、『夫婦でゆくお茶屋さん』であったか、何か夫婦つれだって芸者衆の芸だか踊りだかを見にゆきましょうという企画なのです。
  まあ言ってみれば、そんなことは各人の自由ですので、連れて行きたい、連れていってほしい、来てほしい、見てほしいの三拍子、四拍子が揃ったというのでしたら、わたくしなんどの言う所はなんにもございませんので、どうぞと言うほかはないのですが、やはりわたくしの本心では居心地の悪さと気持ちの悪さとを感じてしまうのです。
  
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  『ソバをたぐる』なんていうイキな言葉を好んで使いたがるのも悪いくせです。 イキな言葉というものは、言われる場所を選びますが、それを知らないのでしょう。 だからその言葉の醸し出すイメージを想像できないのだと思います。
  『たぐる』の意味は、国語辞書によれば”両手をかわるがわる使って、手元へ引き寄せる”とあり、漁師が網を引き寄せる動作がそれであります。 ソバを食うとき、それをタグルと言えばそれでイキかというと、物を食う動作としては滑稽味が勝ちすぎてどうもいけません。 せっかくのイキな言葉がイキに聞こえないような場で使われた見事な例なのであります。
      
――おや、八つぁんぢゃないかい。
――あっ、ご隠居。 どうも春めいてまいりましたね。
――これは良いところで会った。 ちょうど昼飯時だ。 ひとりで食うのはさみしいから‥‥。 どうだいいっしょに、うなぎでも、‥‥。
――それはどうも、ごちそうさまで。 しょっちゅうごちそうになってるんで、いつもうなぎではもうしわけない。 ちょうどここがソバ屋です。 ここでひとつソバでもたぐっていきましょうか。
――八つぁん、そんな言い方をしちゃあいけません。 せっかくごちそうしてあげるんだから、なにもおこごとを言いたいわけぢゃありませんよ。 しかしね、ソバをたぐるだなんてことは、わたしゃ漁師じゃありませんよ。 漁師ならあみをたぐりますがね。 たぐるってのは、両手でこうかわるがわる引き寄せるってことですからね。 ソバがたぐれるものですか。 ソバはね、すすると言いなさい、そして噛まずにぐいと呑み込むとね。

  わたしは、根っからの田舎者ですから、江戸の言葉は話せません。 しかし、なんかこんな話があたまの中に、そう八代目文楽の口調で、‥‥。 いやこんなではありませんでしたか、どうもすみません。
  
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  しかし、だいたい『イキ』にしてからが、純粋、精粋の粋という字を当てていますので、何やら立派なような気がしますし、辞書を引けば、”〔意気から転じた語〕気性、態度、身なりがあか抜けしていて張りがあり、さっぱりしていて自然な色気の感じられること”とあって、やはり立派なような気がしますが、この自然なという所がミソなのでして、ねらってやったのではイキでも何でもない。
  まあ生れながらのものでなくてはならないわけで、ここの所がわれわれには差別されたようで面白くない。
  ですから、あえてそれをねらわないことの方がイキとは言わないまでも野暮に墜ちることはあるまい、普段つかいなれない言葉をつかったりするのは、やはり野暮の方でイキとはとても言えなかろうと思っている次第なのです。
  
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  古い国語辞典の大言海(だいげんかい)ではイキを、
――”いき”〔清爽〕俚言集覧;いき〔意気アル人ノ風采(フリ)シタルヨリ出ヅ〕サッパリトシテ、イヤミナキコト。婀娜(アダ)タルコト。粋ナルコト。俚言集覧;いきがる「自ラ風流(ミヤ)ビタリト自負スル意ナリ」「いきナ姿ノ婦人」と言っています。 なお、ここで引く俚言集覧(りげんしゅうらん)とは江戸後期の俗語辞典のようなものです。
  
  この”イキな男の代表”といえば、”助六(すけろく)”がそれに当りましょう。 これをWikipediaで見てみますと、
――京都島原の傾城揚巻(あげまき)に入れあげた大阪豪商の若旦那助六は家産を蕩尽したあげく勘当されてしまい、とうとう二人で心中してしまったという事件があり、後にこれが浄瑠璃でかたられ一中節となって江戸に伝わり、二代目團十郎によって歌舞伎に取り上げられたというようなことが書いてあります。
  
  このように『イキ』には”活きがいい”、”生き生きとした”といった感じも受けますので、旦那よりは若旦那、老練よりは未熟、重厚よりは軽薄、このようなものを有難がる言葉なのです。 ことさらに老人向けの雑誌でいうようなものではないでしょう。
  
  言葉というものは日日にうつろい、その正しい意味も日日にうつろってゆくものですから、必ずしも辞書の通りというのでも、また当然わたしの言う通りでもありません。 しかし言葉に対する感覚は常に磨いていなくてはならないものだと思っているのです。
  
  

  
  序分が本文を凌駕するというのかどうか、話しの端緒に過ぎない部分に熱が入りすぎましたが、小学館に対する攻撃はまだまだ続きます。
  
  話しを元にもどしまして、”サライ”という雑誌を手にとったところから初めましょう。
  ぱらぱらとページをめくっていた所、次のような書の写真が目に入りました。
  
  
諸悪莫作  衆善奉行
 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)
  
  
  荒々しく竹箒で書いたように筆がばらけて普通に書でいう勢い以上のものが感じられます。 京都大徳寺真珠庵にある一休さんの書です。
  
  わたくしは、ごく幼少のおりに父から、お前は手が悪いからいくら練習しても字はうまくならないと言われつづけておりました。 そして父の予言は的中し、悪筆とはとうとう縁を切れなかったのですが、一休さんの書の腕前も素人目にはやはりどうかなと思われます。
  
  一休とくれば良寛、あの良寛さんのことですが、その嫌いなものは、
 (一)書家の書、(二)歌よみの歌、(三)料理人の料理の三つだったそうです。
  
  この良寛さんの書の腕前は、これがまた大変なもので一休さんとは比較にならないと思えるのですが、はたしてどうでしょうか。
  いやいや、自らの悪筆をすっかり忘れていました。 わたくしの読んだものによりますと、何ですか自らも書けなければ書の良し悪しは解らないとありました。 自ら料理できなければ、食い物のうまいまずいは解らない。 自ら描けなければ絵の良し悪しは解らない。 ‥‥なるほど、確かに本当の事です。 気をつけましょう‥‥。

  まあ、こんなことをつべこべ言っていずに、写真でお目にかけられればよいのですが、著作権とかが関係するとうるさいので、皆様は何かの資料をお探しください。
  
  問題は、この書に関しての編集者の説明です。
  「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」という、仏教で最も重要な偈(仏法を説いた漢詩)の前半部分。 「悪いことをするな、善いことをせよ」の意味だが、では善と悪とはどこで判断するのか。 お前の心は真の善悪を分別(ふんべつ)できるのか――。
  殴り書きのような文字は、見る者にそれを問うかのようだ。 勢いのある筆跡は一休の特徴で、中国の書風を脱して日本の書を確立した、との評価もある。
  左下の署名は「狂雲子(きょううんし)」。重要文化財。大徳寺真珠庵蔵。
  と、こんな事が書いてありました。
  
  この説明の中にもありますが、この「諸悪莫作 衆善奉行」は七仏通戒の偈(げ)というものの前半で、全体では次のようになります。
諸悪莫作  衆善奉行
 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)
自浄其意 是諸仏教
 (じじょうごい ぜしょぶつきょう)
  
  意味は、『悪いことをするな、善い行いをせよ、そうすれば自ずから心が浄まる。 これは一切の諸仏の教えである。』ということです。
  
  馬鹿々々しい!こんな簡単なことが、この編集者には理解できない。 善悪は相対的であり、絶対的善悪とは何かは誰にも分からない、とこの編集者は言いたいのだろうか。
  
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  唐の詩人白楽天(はくらくてん)は道林(どうりん)という禅僧に教えを請います。 道林は即座に「諸悪莫作、衆善奉行」と答えました。 それに対し、そんなことは三歳の童子でさえ知っていることだと言い返しますと、道林は「三歳の童子にも理解できるが、八十の老人にも行こなえない。」と答えたということです。
  
  禅宗などでは弟子の心を覚醒するために、あえて逆のことを言ってみたり、してみたりすることがあるとは聞いたことがあります。 しかしそれは特殊な状況下でのみ通用するものであり、いくらお前は空だと言われても、撲られれば痛いという道理は現前としてあるのです。
  
  特殊なものを一般化し、
  一般的なものを特殊化して、
  ついに何も分からなくなってしまった。
  
  このような事が、この編集者に起ったのです。
  まあ、常識がないのですな‥‥。
  
  しかし大方の人にも、この事は起っています。
  特殊な事と一般的な事を見分ける、その方法が無いためです。
  多くの経験を積み、又多くの書物を読むより他は無いのですから。
  
  
    

  
  と、このようなわけでここからが本文です。
  
  このように善悪の存在を知らない編集者がいるということは、たしかに驚くべきことですが、ひるがえってわれわれ自身はどうなんだろう? はたして善悪とは何かを知っているのだろうか? と考えてみますと、これはもう一度確認しなおしたほうが良いかな?ということになり、そんなわけでこれからその作業に入ります。 皆様方にも今しばらくおつき合いのほど宜しくお願いします。
  
  「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」は四分律(しぶんりつ)等の僧侶が身に備えるべき戒の中に説かれた偈(げ、歌)ですが、この「諸悪莫作」が「衆善奉行」よりも先に在るところは非常に大切なことです。
  
  悪をなさないことが善の基本、悪と善とは実に表裏の関係にある。 これは非常に仏教的な考えですが、われわれも善をなすよりは悪をなさない努力をすることが大切なのです。
  
  では悪とは何か? それは戒律を見てみれば一目瞭然です。
  
  
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  いつの回でしたか、名前ぐらいは出したと思うのですが、『梵網経(ぼんもうきょう)』というお経があります。
  
  前回は具足戒について少しお話ししたのですが、その具足戒が小乗大乗に通じると言いながらも、現在は真言宗の他はごくわずかの宗派でしか行われていないのに反し、天台宗から派生した各宗派で行われているのが、この梵網経に基づく大乗戒というものなのです。
  
  具足戒はその中の一戒を定めるに至った因縁から説き起こし、お釈迦さまがそれを聞いて戒を結び、そしてその戒の詳細な範囲規定を記すのが普通です。 それに反し一方の梵網経では一切の戒は盧舎那仏(るしゃなぶつ)という仏を通して釈迦仏から授かり、これは過去、現在、未来の一切の仏に共通するとします。
  
  要するに、梵網経で定める戒は制定の因縁を持たず、地域と時代によらない普遍的なものだということです。
  
  例の五戒、(一)不殺生、(二)不偸盗、(三)不邪淫、(四)不妄語、(五)不飲酒、は、普遍的な戒なのですが、それをもっと大がかりにして、大乗の菩薩、即ち大乗を弘めるべき僧侶に対し守らせようというものです。
  
  梵網経は十重四十八軽といって、十の重罪と四十八の軽罪とを定めています。
  ここでは先に十の重罪のみを見て四十八の軽罪についてはまたの機会にゆずりましょう。 皆様も漢文の練習のつもりでご一緒にどうぞお読みください。
  
  少しばかり長くなります。 お急ぎの方は現代語訳のみ、ご覧ください。
  
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仏言。仏子若自殺教人殺方便殺讃歎殺見作随喜。乃至呪殺殺因殺縁殺法殺業。乃至一切有命者不得故殺。是菩薩応起常住慈悲心孝順心方便救護一切衆生。而自恣心快意殺生者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
仏の言(のたま)わく、仏子、もし自ら殺し、人に教えて殺さしめ、方便して殺し、讃歎して殺し、作(な)すを見て随喜せば、乃(すなわ)ち呪殺に至るまで殺の因、殺の縁、殺の法、殺の業あり。 乃ち一切の命有る者に至るまで故(ことさら)に殺すを得ず。 これ菩薩は応(まさ)に常住の慈悲心孝順心を起し、方便して一切の衆生を救護すべきを、而(しか)るに自ら心を恣(ほしいまま)にし、意を快(こころよ)くして殺生せば、これは菩薩の波羅夷罪(はらいざい)なり。
  :仏子(ぶっし):仏弟子、僧侶。
  :菩薩(ぼさつ):大乗を弘める者。
  :方便(ほうべん):手段や手だてを尽すこと。
  :讃歎(さんたん):誉め讃えること。
  :随喜(ずいき):他人の喜びを喜ぶこと。
  :呪殺(じゅさつ):まじないをかけて殺すこと。
  :殺因(さついん):殺生から生ずる因縁のうち主たるもの。
  :殺縁(さつえん):殺生から生ずる因縁のうち副たるもの。
  :殺法(さつほう):殺生により生ずる現世の事物。
  :殺業(さつごう):殺生により生ずる来世の業報。
  :孝順心(こうじゅんしん):教えの父である師に従順なこと。
  :衆生(しゅじょう):生き物、命のあるもの。
  :波羅夷罪(はらいざい):比丘比丘尼の資格を剥奪すること。
  
(現代語訳)
仏はこう言われた、
――弟子たちよ。
     もし、
        自ら殺生し、
        人に教え、そそのかして殺生させ、
        種種の方法で殺生し、
        殺生を逆に讃歎して殺生し、
        人のする殺生を見て、いっしょに喜ぶならば、
     たとえば、
        呪(まじな)いによって殺生するようなことであっても、
     そこには、
        殺生により生じる因縁があり、
        殺生により生じる現世の事物があり、
        殺生により生じる来世の業報がある。
     たとえ、
        小さな虫であろうと、
        命の有るものを、
     故意に、
        殺生してはならない。
     その上、
        菩薩というものは、
           常に変らぬ、
              慈悲心と、
              孝順心とを懐き、
           手だてをつくして、
              一切の衆生を救い護らなくてはならない。
        それなのに、
           心の欲するままに殺生し、
           殺生して快いと思うならば、
        それは、
           もう菩薩ではありえない。
  :方便して殺し:鉄砲、弓矢、毒薬等をいう。
  :讃歎して殺し:例、害獣を殺すことは良いことだ。
  :故意に:うっかり、誤解、愚か、病気、夢(遊)中、以外。
  
  漢文の読み方:
    若(にゃく):
       (1)なんじ、汝、お前、あなた。
       (2)仮定、もし〜ならば。
       (3)類似、〜のごとし、〜など。
       (4)類別、もしくは。箇条書き。或と同じ。
    仮定はこの他にも、
      設(せつ)、使(し)等があり、「もし〜ならば(なれば)」と読む。
    類似はこの他にも、
      如(にょ)等があり、「〜のごとし」と読む。
    自(じ):
       (1)みずから(が、に、を)〜する。
       (2)おのずから、自然に。
       (3)起点:〜より。
    教(きょう):教導使役。「誰々に教えて〜せしむ」と読む。
    使役はこの他にも、
      令(りょう):命令使役。「誰々をして〜せしむ」と読む。
      使(し):使役。「誰々をして〜せしむ」と読む。
      遣(けん):使役。「誰々をつかわして〜せしむ」と読む。
      助(じょ):援助。「誰々を助けて〜せしむ」と読む。
    乃至(ないし):
       (1)AよりB、〜より、乃(すなわ)ち〜に至るまで、‥‥。
       (2)極限、乃ち〜に至るまで、‥‥。 こんなものまで、‥‥。
    乃(ない):
       (1)なんじ。汝。
       (2)すなわち。 順次。次第に。やがて
           (一つ一つ積み上げた結果をいう。)
    ”すなわち”と読むのは他にも、
      即(そく):すなわち。
        (1)即時:即座に。すぐに。
        (2)とりもなおさず。他ならぬ。
      則(そく):すなわち。
        (1)原因と当然の帰結。「〜なればすなわち〜」と読む。
        (2)ようやく。乃。
      便(べん):
        (1)すなわち。するりと収まる。〜するとすぐ。
        (2)仮定:たとい。もし。
      輒(ちょう):すなわち。
        (1)毎度:そのたびに。
        (2)容易:たやすく。
        (3)とりもなおさず。
    者(しゃ):
       (1)条件の集約:〜であるならば、‥‥。
       (2)主語:〜は、‥‥。
       (3)条件を挙げて人に集約する。 〜する人。
    作(さく):
       (1)〜をつくる。
       (2)〜をなす。
    得(とく):
       (1)取得、〜を手に入れる。
       (2)理解、〜が分かる。
       (3)可能、〜ができる。
    故(こ):
       (1)故意、ことさらに〜する。
       (2)条件の帰結、ゆえに〜である。
    応(おう):当然。「まさに〜すべし」と読む。して当然の意。
    まさにと読むのは他に、
      当(とう):応と同じ。「まさに〜すべし」と読む。
      将(しょう):緊迫、「まさに〜せんとす」と読む。
    而(に):
       (1)順接:しかも。その上の意。
       (2)逆説:しかるに。それなのにの意。
        
  
若仏子。自盗教人盗方便盗呪盗。盗因盗縁盗法盗業。乃至鬼神有主劫賊物。一切財物一針一草不得故盗。而菩薩応生仏性孝順慈悲心常助一切人生福生楽。而反更盗人財物者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら盗み、人に教えて盗ましめ、方便して盗み、呪して盗まば、盗の因、盗の縁、盗の法、盗の業あり。 乃ち鬼神、有主(うす)、劫賊(こうぞく)の物に至るまで、一切の財物、一針一草なりとも故に盗むを得ず。 しかも菩薩は応に仏性、孝順、慈悲の心を生じて、常に一切の人を助けて福を生じ楽を生ぜしむべきを、反って更に人の財物を盗まば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :讃歎して盗む:例、盗賊の隠蔵する物を盗むことは良いことだ。
  :鬼神物:神々に供えられた供物。
  :有主物:不在の所有主の有る物。
  :劫賊物:盗賊の隠蔵物。
  :仏性:仏の性質。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら盗み、
        人に教え、そそのかして盗ませ、
        種種の方法で盗み、
        盗みを逆に讃歎して盗み、
        人のする盗みを見て、いっしょに喜ぶならば、
     たとえば、
        呪いによって盗むようなことであっても、
     そこには、
        盗みにより生じる因縁があり、
        盗みにより生じる現世の事物があり、
        盗みにより生じる来世の業報がある。
     たとえ、
        鬼神の物(きじん、神々に供えられた供物)、
        有主の物(うす、所有者不明の物)、
        劫賊の物(こうぞく、盗賊の隠蔵する物)であろうと、
        一切の物は、
           一針一草に至るまで、
     故意に、
        盗んではならない。
     その上、
        菩薩というものは、
           仏性(ぶっしょう、仏の性質)と、
           孝順心と、
           慈悲心とを生じて、
        常に、
           一切の人を助けて、
             福を生じさせ、
             楽を生じさせなくてはならない。
        それなのに、
           逆に、人の物を盗むとは、
        それは、
           もう菩薩ではありえない。
       
  
若仏子。自婬教人婬乃至一切女人不得故婬。婬因婬縁婬法婬業。乃至畜生女諸天鬼神女及非道行婬。而菩薩応生孝順心救度一切衆生浄法与人。而反更起一切人婬不択畜生。乃至母女姉妹六親行婬無慈悲者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら婬し、人に教えて婬せば、乃ち一切の女人に至るまで故に婬するを得ずして、婬の因、婬の縁、婬の法、婬の業あること、乃ち畜生女、諸天、鬼神女、および非道(ひどう)にて行うに及ぶに至るまでなり。 しかも菩薩は応に孝順心を生じて一切の衆生を救度(くど)して浄法(じょうほう)を人に与うべきを、反って更に一切の人に婬を起して畜生すら択ばず、乃ち母、女(むすめ)、姉妹、六親に至るまで婬を行じて無慈悲ならば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :畜生女:動物、鳥類の牡牝、雄雌。
  :非道:常の道以外。肛門、口等。
  :浄法:欲を断つ方法。
  :救度(くど):救い導くこと。
  :六親:親戚。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら婬事をし、
        人に教え、そそのかして婬事をさせたならば、
     たとえば、
        それがどのような女人であろうと、
     故意に、
        婬事を行ってはならない。
     たとえ、
        畜生の女、
        諸の天、鬼神の女であろうと、
     また、
        非道(ひどう、常の道以外)であろうと、
     そこには、
        婬事により生じる因縁があり、
        婬事により生じる現世の事物があり、
        婬事により生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           孝順心を生じて、
           一切の衆生を救い導き、
           浄い生活の方法を
              人に与えなくてはならない。
        それなのに、
           一切の人に欲情を起して、
           畜生であろうとかまわずに婬事を行い、
           母、娘、姉妹、親族にまで婬事を行うならば、
              慈悲が無く、
        それは、
           もう菩薩ではありえない。
  
先は長いですから、この辺りで一休みしてください。
  
若仏子。自妄語教人妄語方便妄語。妄語因妄語縁妄語法妄語業。乃至不見言見見言不見身心妄語。而菩薩常生正語正見亦生一切衆生正語正見。而反更起一切衆生邪語邪見邪業者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら妄語(もうご)し、人に教えて妄語せしめ、方便して妄語せば、妄語の因、妄語の縁、妄語の法、妄語の業あること、乃ち見ざるを見ると言い、見るを見ざると言い、身心にて妄語するに至るまでなり。 しかも菩薩は常に正語正見を生じ、また一切の衆生をして正語正見を生ぜしむべきを、反って更に一切の衆生に邪語邪見邪業を起さしむ、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :妄語(もうご):嘘をついて人を欺すこと。
  :正語(しょうご):道理に適った正しい言葉。
  :正見(しょうけん):道理に適った正しい見解。
  :正業(しょうごう):道理に適った正しい行為。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら妄語(もうご、嘘をついて欺す)し、
        人に教え、そそのかして妄語させ、
        種種の嘘をついて妄語するならば、
     たとえ、
        見てもいないものを見たと言い、
        見たものを見ないと言うようなことでも、
     また、
        身ぶりで妄語し、
        心の中で妄語するようなことに至るまで、
     そこには、
        妄語により生じる因縁があり、
        妄語により生じる現世の事物があり、
        妄語により生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
        常に、
           正語(しょうご、道理に適った言葉)を話し、
           正見(しょうけん、道理に適った見解)を生じて、
     しかも、
        一切の衆生にも、
           正語を話させ、
           正見を生じさせなければならない。
     それなのに、
        一切の衆生に、
           邪語を話させ、
           邪見を生じさせ、
           邪業(じゃごう、邪(よこしま)な行為)を起させるならば、
        それは、
           もう菩薩ではありえない。
  
  漢文の読み方:
    亦(やく):「また」と読む。しかも。その上にの意。
    起(き):
      (1)起立:「たつ」と読む。起ち上がること。
      (2)助け起す、「誰々をして〜を起さしむ」と読む。
  
若仏子。自[酉*古]酒教人沽酒。[酉*古]酒因[酉*古]酒縁[酉*古]酒法[酉*古]酒業。一切酒不得[酉*古]是酒起罪因縁。而菩薩応生一切衆生明達之慧。而反更生一切衆生顛倒之心者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら酒を醸(かも)し、人に教えて酒を醸さしめば、酒を醸すの因、酒を醸すの縁、酒を醸すの法、酒を醸すの業あり。 一切の酒は醸すを得ず、この酒は罪の因縁を起せばなり。 しかも菩薩は応に一切の衆生に明達の慧を生ぜしむべきを、反って更に一切の衆生に顛倒(てんどう)の心を生ぜしむ、これは菩薩の波羅夷罪なり。

  :[酉*古](こ):一夜酒。 また一説には酒を売ること、また酒を買うこと。 恐らく一夜酒を造って売ることと思われる。 JISコードに無いため、より罪の重い醸で代用。
  :明達(みょうたつ):道理に通じること。
  :顛倒(てんどう):逆しまの見解を懐くこと。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら酒を醸(かも)し、
        人に教え、そそのかして酒を醸させるならば、
     そこには、
        酒を醸すことより生じる因縁があり、
        酒を醸すことより生じる現世の事物があり、
        酒を醸すことより生じる来世の業報がある。
     一切の酒は醸してはならない、
     なぜならば、
        酒は罪の因縁を起すからである。
     その上、
        菩薩というものは、
           一切の衆生に、
              道理に通じた智慧を起させなければならない。
        それなのに、
           一切の衆生に、
              顛倒(てんどう、逆しま)の心を起させるならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
若仏子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過教人説罪過。罪過因罪過縁罪過法罪過業。而菩薩聞外道悪人及二乗悪人説仏法中非法非律常生慈心教化是悪人輩令生大乗善信。而菩薩反更自説仏法中罪過者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら出家在家の菩薩、比丘、比丘尼の罪過を説き、人に教えて罪過を説かしめば、罪過の因、罪過の縁、罪過の法、罪過の業あり。 しかも菩薩は外道の悪人および二乗の悪人の仏法中の非法、非律を説くを聞くに、常に慈心を生じて、この悪人の輩を教化し、大乗の善信を生ぜしむべし。 しかるに菩薩反って更に自ら仏法中の罪過を説かば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :出家在家の菩薩:菩薩は大乗の教えを弘める人。
  :比丘(びく)、比丘尼(びくに):出家の男と女。
  :罪過(ざいか):罪と過失。
  :外道(げどう):仏教以外の信奉者。
  :二乗(にじょう):小乗仏教の信奉者。
  :非法(ひほう):道理にもとる教え。
  :非律(ひりつ):道理にもとる戒律。
  :善信(ぜんしん):善く信じる心。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら出家在家の菩薩、比丘、比丘尼の
           罪と過失を言いふらし、
        人に教え、そそのかして言いふらせるならば、
     そこには、
        言いふらすことより生じる因縁があり、
        言いふらすことより生じる現世の事物があり、
        言いふらすことより生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           外道の悪人および
           二乗の悪人が、
              「仏法中には、
                 道理にもとる教えがあり、
                 道理にもとる戒律がある」と
               言いふらすのを
           聞いたならば、
           常に、
              慈悲心を生じて、
              この悪人たちを、教化して、
                 善く、大乗を信じさせなければならない。
        それなのに、
           菩薩が、
              仏法中の罪と過失を言いふらすならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
若仏子。自讃毀他亦教人自讃毀他。毀他因毀他縁毀他法毀他業。而菩薩応代一切衆生受加毀辱悪事自向己好事与他人。若自揚己徳隠他人好事令他人受毀者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら讃じて他を毀(そし)り、また人に教えて自ら讃じて他を毀らしめば、他を毀る因、他を毀る縁、他を毀る法、他を毀る業あり。 しかも菩薩は応に一切の衆生に代りて毀辱(きにく)を加うるを受け、悪事は自ら己に向け、好事は他人に与うべし。 もし自ら己が徳を揚げて他人の好事を隠し、他人をして毀りを受けしめば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :毀辱(きにく):悪口を言って辱める。
  :徳(とく):善行をする力。善い力。善行。
  :好事(こうじ):好ましい事。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら、
            自分を誉め称えて他人を毀(そし)り、
        人に教えそそのかして、
            自分を誉め称えて他人を毀らせれば、
     そこには、
        他人を毀ることより生じる因縁があり、
        他人を毀ることより生じる現世の事物があり、
        他人を毀ることより生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           一切の衆生に代って、毀られ辱められ、
           悪い事は自分に向けて、
           好ましい事は他人に与えなくてはならない。
     それなのに、
        菩薩が、
           自らの善行を称揚して、
           他人の好もしい事をかげに隠し、
           他人が毀られるようしむけたならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
若仏子。自慳教人慳慳因慳縁慳法慳業。而菩薩見一切貧窮人来乞者随前人所須一切給与。而菩薩以悪心瞋心乃至不施一銭一針一草。有求法者不為説一句一偈微塵許法。而反更罵辱者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら慳(おし)み、人に教へて慳ましめば、慳むの因、慳むの縁、慳むの法、慳むの業あり。 しかも菩薩は一切の貧窮(びんぐ)の人来たりて乞うを見んに、前の人須(もと)むる所に随いて一切を給与すべし。 しかるに菩薩、悪心と瞋心(しんじん)とを以って、乃ち施さざること一銭、一針、一草に至り、法を求むる者有るにも、為に一句、一偈、微塵(みじん)ばかりの法をも説かず、しかも反って更に罵辱(めにく)するは、これ菩薩の波羅夷罪なり。
  :貧窮(びんぐ):貧しさに困り果てる。
  :悪心(あくしん):憎悪する心。
  :瞋心(しんじん):瞋りを懐いた心。
  :微塵(みじん):ほこりの粒の大きさ。これ以上細分できない大きさ。
  :罵辱(めにく):罵って辱める。
  :一偈(いちげ):歌の一節。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら、物を惜しみ、
        人に教えそそのかして、物を惜しませれば、
     そこには、
        物を惜しむことより生じる因縁があり、
        物惜しむことより生じる現世の事物があり、
        物惜しむことより生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           一切の貧に窮した人が来て乞えば、
           前にいる人の求めに応じて与えなくてはならない。
     それなのに、
        菩薩が、
           憎しみと瞋りとを心に懐いて
           わずかに
              一銭、一針、一草なりとも施さず、
           法を求める人が有っても、
              一句、一偈(いちげ、一節)の
              ほんのわずかな法さえ説かず、
        しかも、
           かえって逆に、罵って辱めるならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
  漢文の読み方:
    所(しょ):
      (1)目的:「〜する所」と読む。
      (2)受身:「〜せらる」と読む。
      (3)理由:所以(ゆえ):「〜の所以は」と読む。
    以(い):
      (1)手段:「〜をもって」と読む。道具、手段、理由。
      (2)用:もちう、用いる。
    許(きょ):ばかり。幾許は「いくばく」と読む。 およその数。
  
若仏子。自瞋教人瞋。瞋因瞋縁瞋法瞋業。而菩薩応生一切衆生中善根無諍之事常生慈悲心。而反更於一切衆生中乃至於非衆生中以悪口罵辱加以手打。及以刀杖意猶不息。前人求悔善言懺謝猶瞋不解者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら瞋り、人に教えて瞋らしめば、瞋りの因、瞋りの縁、瞋りの法、瞋りの業あり。 しかも菩薩はまさに一切の衆生の中に、善根と無諍(むじょう)の事とを生じ、常に慈悲心を生ずべし。 しかるに反って更に一切の衆生の中に於いて、乃ち非衆生の中に於いてに至るまで、悪口(あっく)と罵辱を以ってし、加うるに手を以って打ち、刀杖を以ってするに及ぶも、意は猶(なお)も息(や)まず。 前の人、悔(け)を求めて善言(ぜんごん)し懺謝(ざんしゃ)せんに、猶も瞋りの解けずんば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :善根(ぜんこん):善行の根本。 身口意の行為が善いことは一切の善行の根本である。
  :無諍(むじょう):諍(いさかい)の無いこと。
  :非衆生(ひしゅじょう):生き物以外。
  :悔(け)を求む:後悔する。
  :善言(ぜんごん):言い訳。
  :懺謝(ざんしゃ):謝罪。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら、瞋り
        人に教えそそのかして、瞋らせるならば、
     そこには、
        瞋ることより生じる因縁があり、
        瞋ることより生じる現世の事物があり、
        瞋ることより生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           一切の衆生の中に、
              善根(ぜんこん、善い言葉、善い動作、善い心)と、
              無諍(むじょう、いさかいを嫌う)の心を生じさせ、
           自らの中には常に、
              慈悲心を生じなければならない。
     それなのに、
        菩薩が、
           一切の
              衆生に対して、また
              非衆生(器物)に対してさえ、
                 悪口を言って罵り辱め、
              その上、手で打ち、
              やがて、
                 刀や杖で打つようになっても、
              まだ、
                 気が済まず、
           前にいる人が、
              後悔して、言い訳し、謝っているのに、
           まだ、
              瞋りが解けないならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
  漢文の読み方:
    及以(ぎゅうい):および。こんなものまでの意。
  
若仏子。自謗三宝教人謗三宝。謗因謗縁謗法謗業。而菩薩見外道及以悪人一言謗仏。音声如三百鉾刺心。況口自謗不生信心孝順心。而反更助悪人邪見人謗者是菩薩波羅夷罪。
(読み下し文)
もし仏子、自ら三宝(さんぼう、仏法僧)を謗(そし)り、人に教えて三宝を謗らしめば、謗りの因、謗りの縁、謗りの法、謗りの業あり。 しかも菩薩は外道より悪人の一言に及以(およ)ぶまで、仏を謗るを見んに、音声は三百の鉾の如く心を刺さん。 況(いわん)や口にて自ら謗って信心と孝順心とを生ぜざるをや。 しかるに反って更に悪人と邪見の人を助けて謗らば、これは菩薩の波羅夷罪なり。
  :三宝(さんぼう):仏法僧をいう。
      (1)仏宝:仏法を生みだす宝。真実真理。
      (2)法宝:仏法を語る言葉の宝。言葉としての真理。
      (3)僧宝:仏法を弘め伝える人の宝。仏法を弘めるもの。
  :邪見:邪なる見解。 因果の道理を認めないこと。
  
(現代語訳)
――もし、
     仏子が、
        自ら、
            三宝を謗り、
        人に教えそそのかして、
            三宝を謗れば、
     そこには、
        三宝を謗ることより生じる因縁があり、
        三宝を謗ることより生じる現世の事物があり、
        三宝を謗ることより生じる来世の業報がある。
     その上、
        菩薩というものは、
           外道の所説や、あるいは
           悪人の語る一言でさえ、
              仏を謗るのを聞いたならば、
        その一言一言の音声は、
           三百の鉾となって心に刺さるはずである。
        まして、
           自らの口で仏を謗って、
              信心と
              孝順心とを
                 生じさせない者などいるはずがない。
     それなのに、
        菩薩が、
           自ら、悪人と邪見の人を助けて、
           仏を謗るならば、
     それは、
        もう菩薩ではありえない。
  
  漢文の読み方:
    謗(そし)る:陰で悪口を言う。
    毀(そし)る:口で傷つけ罵る。
  
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  以上、これを十重戒といい、この戒で滅ぼすべきを十悪といい、その結果を十善というのですが、まあ味わってみてください。 はたして三歳の童子にも理解でき、八十の老人には行い難いものかどうかを。
  
  この梵網経は将来、全文をお目にかけることができるかも知れません。 どうぞお楽しみに。
  
  では今月はここまでです。
  また来月お会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  
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     今日の晩ご飯は、これです。 一汁一菜。
     一塩の鱈(たら)のみそ汁、土筆の佃煮、そしてご飯は人参ご飯です。
  
           今日の昼ご飯はこれでした。
           土筆の卵とじ弁当です。



 (春たけなわ おわり)