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蕗の薹(ふきのとう)
  
  
  早いもので、おせち料理を前に酔っぱらっていたのはつい先日のことのように思っていましたが、もうガラス戸の外では日差しが暖かくなり、うぐいすの声さえ聞こえようかというところまできてしまいました。 まったく夢うつつの中に日が過ぎ去ってゆくものですが、まあ言ってみればめでたいことです。 老人が酒中に逃避する所以も、この辺にあるのでしょう。
  
  たしか二月も初旬が過ぎようかというころ、この地方では久しぶりに雪が降り、二階の窓から見てみますと、今写真で見ていただいたようなことになっておりました。
  
  朝から全然日も差さず、寒さが冷え込んで何もする気がおきません。 こんな日は、朝から風呂に入って酒でも飲むのがいちばんと、まあ気楽にかまえ、何年ぶりかの朝風呂に入り、ほかほかのからだで好物の”ふな味噌”をさかなに、これも好物の”白鷹”を飲みながら、ほかには何もすることもないのでぼんやり考えごとをしていました。
  
  以下がその時考えたことですが、まあ早く言えば酔っぱらいのたわごと、論理も条理もあったものではございません。 それではいったい何を考えていたかというと、例の連日新聞紙上を騒がしている『中国冷凍餃子事件』です。 『何を今さら騒いでいるんだろう?』 これがわたくしの正直な感想です。 まあ、やはり酔っぱらっていたんでしょうね、‥‥。
  
  しかし不思議でも何でもありません、やはり国民の関心が非常に深いということなんです。 しかしねえ、これは食の問題ですから、人ごとではないんですよ、新聞のニュースを見て、今さら騒ぐようなことですかねえ。 食には普段からもっと関心を持つべきではないんですか?
  
要は、『守る』という視点の欠如ではないでしょうか?
(1)皇室の方々には、皇統を守っていただかなくてはなりません。
(2)政治家は、国民を守らなくてはなりません。
(3)外交官は、国益を守らなくてはなりません。
(4)自衛隊は、国土を守らなくてはなりません。
(5)警察は、国民の生活を守らなくてはなりません。
(6)夫は、家庭を守らなくてはなりません。
(7)妻は、子を守らなくてはなりません。
   
  なるほどねえ。 何となくこの国の事が見えてきたような。
  
  社会への女性の進出がさけばれてから、もうだいぶ時間がたちますので、近頃では女性が男性の部下を持つことも、そう不思議なことではなくなりました。
  『女は三界に家無し』、『家に在りては親にしたがい、嫁(か)しては夫にしたがい、寡婦(かふ)となりては子にしたがえ』、このようなことが言われた時代からすれば、よくもこれだけ進歩したものだと、ただただ恐れ入っておりますが、これを正常進化だとみなせば、社会的活動には子供は障碍になります。 どこかの不見識な国の大臣の言う、『女は子を産む機械である』は、時代錯誤のそしりを受けてもしかたないでしょう。
  
  それにしても、『女は子を産む機械』とはよくも言ったりですが、これにすかさず曽野綾子さんが、『男は子を産ませる機械である』と切り替えされました。 仏教の方では、『人は皆機械にほかならない』というような事を言っておりますので、これもまあ妥当なところでしょう。
  
  話が横にそれました、すこし前に戻しましょう。 言いたいのは、母親が食の面で子を守れないようではやはり問題であろうと思うのです。 何も女性にばかり言うのではありませんよ、子を育てる責任は男性にもあります。 特に今のこの時代に結婚して子供をもうけようというような夫婦は男女平等であるべきです。
  
  台所仕事を、ただ面倒で面白くない事、つまらない事だと思っていませんか? また必要だからやむを得ずする事だとか、楽しくない事だとか思っていませんか?
  
  それは間違っています。
  台所仕事こそは、最も重要な事、創意工夫の余地のある楽しい事、言わば簡単で誰でもできる芸術であると思い直してください。
  
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  だいたい餃子というものは、家庭料理に最も適したもので、何の工夫も手際も必要なく、しかもこれは完全料理ですので、他におかずは一切いらず、ご飯さえ無くてすむようなものなのです。 ぜひご家庭でつくって食べていただきたいと思うのですが、これをなさらない、ここに問題があります。
  ただ、
    (1)挽肉、にら、白菜、土生姜、餃子の皮を買ってくる。
    (2)にら、白菜を細かくきざみ、塩もみして絞る。
    (3)野菜、きざんだ生姜、挽肉をよく混ぜる。
    (4)餃子の皮で包む。
    (5)焼く、又はゆでる。
  たったこれだけ、‥‥、そうこれだけなのです。
  
  時間にして小一時間、きざんで混ぜて焼く。
  
  しかも、この一時間は非常に充実した時間なのです。
  子供と楽しみながらいっしょに作れば、それがりっぱな教育にもなります。
  
  
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  どこの誰が作ったか分からないものを食うよりは、自分で作ればよほど安心なのは言うまでもありませんし、それでこそ子を守ると言えるのです。
  
  しかし何事にも限界がありますので、醤油、塩、砂糖、油、酒、味醂、味噌これらは結局誰かに作ってもらわなくてはなりませんし、また牛乳、チーズ、バター、ハム、ソーセージから挽肉にいたるまで、他人の手をかりなくてはなりません。 しかしそれでもなお、自らの手で作る部分が多ければ多いほど安心を守ることができます。
  
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  考えてみれば、われわれの暮らしは他人任せの部分が多すぎです。
  政治家、役人、警察等々、‥‥他人に任せる部分が多ければ多いほど、他人の言うなりにならなくてはなりません。
  
  イギリス人などは、この点、自立防衛の意識が非常にたかく、法律などにもそれが良くあらわれているようです。 
  慣習法という制度がそれです。 慣習を重んじて法律をあえて成文化しないことです。 成文化した法律による一律化を嫌い、地方独特の文化習俗を守ろうというのですが、ただそれだけではありません、その根底には、『自らの生活は成文化した法律ではなく、人々の良識によって守ろう』という意識があるのです。
  
  そこで思いだすのが先日の奈良の”騒音おばさん”。
  警察は被害者が明確に傷害を受けたと確認するまでは、ほとんど何もしませんでした。
  
  警察は自らの組織を守ったのですね。 証拠もないのに人を取り締まれば、何か言われるのではないかと恐れたのでしょう。 
  
  そこで何デシベル以上を騒音とするなどという成文化された法律が無ければ動きが取れないというんですね。 しかし、そこに住む人のほとんどが迷惑と考えればやはり取り締まるのが警察の役目ではないでしょうか。 住民の良識というものを疑っているのです。 
  
  昔は、道路本来の制限時速60kmで何の不便もなかったものを、近頃は至る所に円い標識でいちいち制限時速を表示してあります。 われわれの安全を守るのに、そこまでする必要があるのですか。 一事が万事、えらい国に生まれたものです。
  
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  『おいおい守る方向が違っているのではないかい?』と問いたくなるのは、何も警察ばかりではありません。 検査をしなければ、何も診断しない医者もそうです。 
  
  ただ注射を一本打つだけでよいのに、体温を測る、体重を量る、血液の検査をする、レントゲンを撮る、心電図を取る、脳波を取る、CTスキャン、MRI何とか、‥‥
  
  よほど証拠が無ければ、馬鹿なことを言って訴えられたくない。 これが本音でしょうが、まあこれは訴える方にも問題があります。 両方とも子供なんです。
  
  マークス寿子さん(イギリス国籍の方で、称号はイギリス男爵夫人だそうです)に『大人の国イギリスと子どもの国日本』という著書がありますが、自分を守れない日本人は、やはり子供なんだなあと思うのです。 他人のなすがまま、まったく情けない!
  
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  こんなことを書いている最中に、イージス艦”あたご”と、はえなわ漁船”清徳丸”の衝突のニュースが入ってきました。
  
  新聞、テレビでは、この事件をイージス艦のみが悪く、漁船は悪くないという見方で報道しているようですが、はたしてそれで良いのでしょうか? 弱い者は、自ら身を守ることを第一とすべきではないでしょうか? イージス艦は7700トン、漁船は7.3トン。 イージス艦は鋼鉄、漁船はグラスファイバー。 
  名目上の重量の差は1000倍ですが、船のトン数の数え方は複雑ですから、実際にはその何倍もの違いがあったと思われます。
  例えば、20トン積みのダンプカーの直前を自転車で横切れば、悪いのは自らを守らない自転車です。 単なる紙の上の言葉にすぎない法律で自転車をどうすれば守れるのですか? 弱い者が自ら守らなくてはならない所以です。 他人まかせにして良いのですか?自分の命なのに。
  
  この事件では、恐らくイージス艦側に、”たるみ”、”ゆだん”、”おごり”などが山ほどあったのでしょう。
  しかし、そんな事は関係ありません。 世間とはそういうものなのです。
  
  
  『横断歩道、手を挙げて渡りましょう』
  『右を見て左を見て、すばやくさっと渡りましょう。』
  
  
  ここに二つの標語があります。 どちらが正しい標語でしょうか?
  
  もちろん横断歩道を渡ることには意味があります。 第一事故に遭ったときの保険の出方が違います。 手を挙げることもよいでしょう。 何事によらず、意志を表すことはよいことです。
  しかし、手を挙げたから渡れるというものではありません、何よりも安全を確認することを第一とすべきです、‥‥‥‥‥‥。
  
  まあこんな事はいくら言ってもぬかにくぎですかな。 口に緘して黙するにかぎるということでしょうか? お酒の抜けた老人はだんだんテンションが下がってまいりました。
  ちょっと家内のお供をしてスーパーにでも行ってきましょう。
  
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  ほらッ、どうですか。 まだ雪の季節だというのに、こんなりっぱな蕗の薹(ふきのとう)が出ていました。 自然は人を見捨てないというか何というか。 季節はずれの蕗の茎までが、いっしょに店にならんでいてももう驚きません。
  
  蕗の薹は白みそで炊き、茎のほうはなまり節といっしょに炊くことにしましょう。 やはり有りました、季節はずれのなまり節が、‥‥。 これがうまいんですよ、大好きです。
  
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  これが蕗の薹を白みそで炊いたもの。 蕗の薹はさっと茹でて水にとり、よく絞って白みそであえます。 白みそは西京味噌ですが、水飴、蜂蜜等の入らないものをつかい、酒と味醂を等量に煮きったものでゆるめ、火にかけて温めます。 火を入れすぎないよう気をつけなくてはなりません。
  はしりの蕗の薹は軟らかく、写真のように丸ごとでもよいのですが、半分に切ったほうが味もよくしみて、おいしいでしょう。
  
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  これが出会いもののなまり節と蕗の炊いたもの。 山椒の若芽がないのが季節はずれの証拠です。 味は良いのですが、やはり香りが不足しています。 茹でてあくを除き皮をむいた蕗をなまり節とともに水、酒、醤油のみで薄味に炊きます。 
  
  よく出会いものと言いますが、なまり節と蕗は本当の出会いもので、これ以外はどうしても炊き合わせることができません。 蕗はかつおのだしを吸ってうまくなり、かつおは蕗のあくで生臭さを消す。 この組み合わせが最高です。
  
  
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  ある種の国では法律がどんどん作られ、国民の生活がだんだん窮屈に不便になります。 しかし、昔のインドも同じであったようで、お釈迦様もずいずんお困りになっています。
  仏典に出てくる六群比丘(ろくぐんびく)というのは、六人の良識というものを知らないまことに困った性格のお坊さんでした。 この困ったお坊さんは常に何かかにか問題を起こして、そのたびにお坊さんの法律である具足戒(ぐそくかい)というものに一条づつ追加されたのです。 ほんの少しだけそれを見てみましょう。
  具足戒というものは、案外皆様のお目にとまることも少なかろうと思いますので、できるだけ原文に忠実に、しかもむづかしい言葉をやさしく言い換えてお見せしようと思います。 これにより当時の僧の集団のことがいくぶん理解できるのではないでしょうか。
  
  お坊さんの戒律には重いものもあれば軽いものもあります。 僧の集団から追い出されるのが一番重い罪で婬事、窃盗、殺人、自ら聖者だと偽って供養を得るの四罪があります。 また一番軽い罪はただ自ら反省すればよい罪で、これが百罪あります。 これは一番軽い罪の話です。
  
(百軽罪の中の第一)
  その時、お釈迦さまは舎衛国(しゃえいこく、国名)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、寺院名)にいらっしゃった。
  その時、六群比丘は、涅槃僧(ねはんそう、腰から下をおおう筒状の下着)を次のように身に着けていた。 或る者は下の方に着け、或る者は上の方に着け、或る者は象の鼻のように着け、或る者は棕櫚の葉のように着け、或る者は細かくひだを取って着けた。
  有名な六人のいたずら者の坊主がスカートのようなものをみっともない方法で身に着けてふざけていたのです。
  それを見た檀家の人たちはこう言った、
――この沙門(しゃもん、出家)の釈子(しゃくし、お釈迦様の弟子)には恥というものが無いんだろうか。 外に向っては自らをほめ称えて、『わたしは正しい法を知っている。』と言いながら、このような事のどこに正しい法がある。 なぜ涅槃僧を着けるのに、ある時は下の方に着け、ある時は上の方に着け、ある時は象の鼻のように着け、ある時は棕櫚の葉のように着け、ある時は細かくひだを取って着けるのだ。 まるで国王、長者、大臣か、祭りの時の役者のようだ。
  
  その時、何人かの比丘(びく、出家の弟子)がこれを聞いた。 この人たちは、小欲知足で乞食を行じ、戒を学ぶことを楽しみ、恥を知る者であった。
  
  この人たちは、六群比丘を叱りつけてこう言った、
――なぜお前たちは、涅槃僧を着けるのに、ある時は下の方に着け、ある時は上の方に着け、ある時は象の鼻のように着け、ある時は棕櫚の葉のように着け、ある時は細かくひだを取って着けるのだ。
  
  この人たちは、お釈迦様の前に出て礼をすると坐ってこの事を告げた。
  お釈迦様は、そこで比丘たちを皆集め、六群比丘を叱りつけて、こうおっしゃった、
――お前たちのしたことは良くない。 礼儀に適わず、出家のなすべきことではない。 浄い行いでも従順でもない。 なしてはならないことなのだ。
――なぜお前たちは、涅槃僧を着けるのに、下の方に着けたり、上の方に着けたり、象の鼻のように着けたり、棕櫚の葉のように着けたり、細かくひだを取って着けたりするのだ。
  
  このように叱りつけると、その他の比丘たちには、こうおっしゃった、
――この愚か者は、迷いの世界に多くの種を植えて最初に戒を犯した。 今より以後は、比丘のために戒を結んで十利を与え、すなわち正法を存続させよう。 戒を説く者はこのように説け、『必ず正しく整えて涅槃僧を着けよ。』と。 このように戒を守らなくてはならない。
  ここで十利とは、(1)すべての比丘を取りまとめるため、(2)すべての比丘を喜ばせるため、(3)すべての比丘を安楽ならしめるため、(4)いまだ信じない者を信じさせるため、(5)すでに信じる者をもっと信じさせるため、(6)信じさせがたい者をよく信じさせるため、(7)恥を知る者に安楽を得させるため、(8)現在の煩悩を断つため、(9)未来の煩悩を断つため、(10)正法を永久に留めるためをいいます。
  この戒の条文はまだ続き、戒の詳細を説明します。 
(説明)
  この中に、『正しく整えない』とあるのは、ある時は下の方に着け、ある時は上の方に着け、ある時は象の鼻のように着け、ある時は棕櫚の葉のように着け、ある時は細かくひだを取って着けることである。 『下の方に』とは、帯を臍の下に懸けることである。 『上の方に』とは、裾をまくって膝上にすることである。 『象の鼻のよう』とは、前に一角を垂すことである。 『棕櫚の葉のよう』とは、前に二角を垂すことである。 『細かくひだを取って』とは、腰のまわりに多くの皺を寄せることである。
  もし比丘が、涅槃僧を下の方に着け、あるいは上の方に着け、あるいは象の鼻のように着け、あるいは棕櫚の葉のように着け、あるいは細かくひだを取って着けたならば、ことさらに犯した者は一比丘の前で懺悔せよ。 もし過って犯した者は反省せよ。 比丘尼は反省せよ。 見習い中の者は反省せよ。 以上を犯すとなす。 無犯とは、次のような病の者である。 臍の中に瘡(おでき)ができて帯を下の方に懸けた者、もしくは脚のふくらはぎに瘡ができて上の方に着けた者、もしくは村の外、もしくは作業中、もしくは道中を行く者は犯すことにならない。 無犯とは、未だ戒が定められていない時、狂人、心が乱れている者、痛みか悩みにまとわりつかれている者である。
  これが、最も軽い罪の一例です。 誰か他の比丘の前で懺悔するか、うっかり犯した者であれば、自ら反省すればよろしい。
  しかしこの六群比丘の所行はこれだけに止まりません。 まだまだ続きます。
(百軽罪の中の第二)
  その時、お釈迦さまは舎衛国の祇園精舎にいらっしゃった。
  その時、六群比丘は、三衣(さんね、比丘に許された三枚の衣)を次のように身に着けていた。 或る者は下の方に着け、或る者は上の方に着け、或る者は象の鼻のように着け、或る者は棕櫚の葉のように着け、或る者は細かくひだを取って着けた。
  先ほどは下着を不正に着けたのですが、今度は外出着、正装、作業着の三枚の衣を不正に着けます。
  それを見た檀家の人たちはこう言った、
――この沙門の釈子には恥というものが無いんだろうか。 外に向っては自らをほめ称えて、『わたしは正しい法を知っている。』と言いながら、このような事のどこに正しい法がある。 なぜ衣を着けるのに、ある時は下の方に着け、ある時は上の方に着け、ある時は象の鼻のように着け、ある時は棕櫚の葉のように着け、ある時は細かくひだを取って着けるのだ。 まるで国王、長者、大臣か、祭りの時の役者のようだ。
  
  その時、何人かの比丘がこれを聞いた。 この人たちは、小欲知足で乞食を行じ、戒を学ぶことを楽しみ、恥を知る者であった。
  
  この人たちは、六群比丘を叱りつけてこう言った、
――なぜお前たちは、三衣を着けるのに、ある時は下の方に着け、ある時は上の方に着け、ある時は象の鼻のように着け、ある時は棕櫚の葉のように着け、ある時は細かくひだを取って着けるのだ。
  
  この人たちは、お釈迦様の前に出て礼をすると坐ってこの事を告げた。
  お釈迦様は、そこで比丘たちを皆集め、六群比丘を叱りつけて、こうおっしゃった、
――お前たちのしたことは良くない。 礼儀に適わず、出家のなすべきことではない。 浄い行いでも従順でもない。 なしてはならないことなのだ。
――なぜお前たちは、衣を着けるのに、下の方に着けたり、上の方に着けたり、象の鼻のように着けたり、棕櫚の葉のように着けたり、細かくひだを取って着けたりするのだ。
  
  このように叱りつけると、その他の比丘たちには、こうおっしゃった、
――正法を存続させ、比丘が正法を説くために、これ以後はこのように戒を定める。 『必ず正しく整えて三衣を着けよ。』と。 このように戒を守らなくてはならない。
  これ以下は前の戒と同じです。
  
  六群比丘の所行はこれぐらいでは終りになりません。 これ以後も、衣の裾ををまくって檀家の家に入ったり、衣を頚に襟巻きのように纏わせて檀家の家に入ったり、衣で頭を覆って檀家の家に入ったりしますが、あまり続けてもお退屈でしょうから、ここまでにしておきましょう。
  
  
  
  ちなみに、イギリス、アメリカなどアングロサクソンの国々では、法は必ずしも正義を表さないことを知っていますので、無批判に法に従うことを善い事だとはしていません。 時には良心に従って法に背くこともあります。 昔よく耳にした”良心的兵役忌避”などが許される所以です。 またアガサクリスティの『オリエント急行殺人事件』などもその顕著な例です。 また日本人が外人に誤解される所以でもあります。 ちょっと気をつけたほうがよいかな、‥‥。
  
  では、来月またお会いしましょう、それまでご機嫌よう。
  



  (蕗の薹 おわり)