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四 不 殺
  台風一過、秋晴れのような爽やかな日に突然の地震。 地震にともなう惨事もさることながら、もっと気になるのは原発の方です。 
  原発というもの自体を、今さらどうのこうの言っても始まらないとは思うのですが、原発の設計ミスが見過ごされていたというようなことは、あってはならないことで甚だ理解に苦しむのです。
 
  中国新聞の記事によりますと、この原発を設計するに際して想定した、地震時の揺れの強さが、今回の揺れの半分以下でしかなかったということなのです。
 
     その数値を挙げてみましょう。
想定した揺れの強さ 273ガル
実際に揺れた強さ 680ガル
 
  1995年の阪神淡路大震災の時の強さが833ガル、
  1994年のロス大地震が1000ガル超だったそうです。
 
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それにしても
この異常な値の低さは、何んなんでしょう
変な、気がしませんか?

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  もし、これが意図的に低い値を設定したものだとしたら、そう考えると怖ろしくないですか。 

  日本の学者のレベルはこれほど低いということでしょうか。 本より、日本は地震国です。 そのような事があるとはとても思えません。 一体何うなってるんでしょう。 本来盤石の上にこそ建設すべきものを、あえて軟弱な地盤の上に建設したいがために、あえて低く見積もったということにはならないでしょうか。
 
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  他にも原発の事故があったような気がしますが、そうつい最近の事でした。 たしか、制御棒が抜け落ちて、あやうくメルトダウンする所だったのです。
  わたくしのあやふやな記憶では、この原発では、制御棒を下から上に押し上げ、燃料の中に差し込んで、ブレーキにしていたのではなかったかと思います。
  しかし、安全を考えれば、物は上から下に落ちるのが自然の法則、マジックハンドでつかんでいた制御棒が滑り落ちたとしても、それが制止する方向でさえあれば、安心できるのではなかったでしょうか? それが上に向って差し込んでブレーキにするとは、どんな心得違いをしているのでしょう。 昔だったら、たしなみがないの一言でかたずけられ、そのような設計はとうてい通ることができないはずです。

  自然の法則に逆らうことで、安全を図れると思うほど高慢なのは、一体どうしたことでしょう。 理解に苦しみます。
 
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これは、はたして
愚かなのか、犯罪なのか
それとも
単に過失なのか
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  ここで言うガルとは、加速度の量を表しています。
  ある物体に加わる力を測るには、その物体に力を加えて加速させ、その加速度を測るという事をよくします。 その加速度に目方をかけた値が、その物体にかかる力です。 同じ力を加えても、軽い物ならばよく動き、重い物はなかなか動かないということです。
  地震学者の間では時速何キロメートルではなく、秒速何センチメートルを用いていますから、加速度を言うときも、1秒の間に秒速が何センチメートル上がったかを言っています。
 
  何故、このようにして力を測るかといいますと、測りやすいということが一番の理由です。 四角い箱の真ん中にパチンコ玉を置き、四方からバネで抑えて、その箱に力を加えて動かしますと、パチンコ玉は東西南北いづれかのバネを押えて縮ませます。 その縮んだ量を測ればよいのですから、極めて単純な原理と装置ですみます。 また、箱の上から一本の糸を垂らして、その先に重りを付けてもよいでしょう。 電車の中では加速する時つり革が後ろに傾き、ブレーキを掛けると前に傾くのと同じように、その傾いた角度を測っても力を測ることはできるのです。
  
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  近くに教えてくれる良い先生がいないのでまったくの素人考えですが、本当に加速度を測るだけで安全は保たれるのでしょうか。
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  確かに、物が動くのは力によります。 しかし力が掛かれば必ず物が動くとは限りません。 意外にもまったく根拠の無い論理の上に原発が建てられているとしたら。
  ある量を直接量ることは困難であるとき、便宜的に関連のある量を量って、これに代替えすることはよくあります。 先の力と加速度の関係もそうです。 
  そこに問題は無いのでしょうか。 無ければ実に幸いです。 習慣的に加速度を測って力を測ったと見なしているがために、それが常に通用すると思いこんでいるのではないでしょうか。
  常に疑う、これは学者のたしなみです。
  地震学者はガルを設計の基準にしようと思い立ったとき、あらゆる事をはたして疑ったのでしょうか。
 
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いづれ学者の皆さんは
まじめに学問をなさってきたに違いありません。
是非とも
最先端の技術に挑戦したいことでしょう。
しかし、ちょっと待ってください。
次のようなことを言っている方もいるのですから。
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  前回も申しましたとおり、わたくしは始終漢和辞典を引いて暮しております。 それは時として、心を引かれる言葉に出会うことにもなります。 例えば次のような言葉に出会う時は、何やら胸が痛くなるような気がします。
 
 首丘(しゅきゅう):狐は死する時、首をもと住みたる丘に向ける。其の本を忘れざるに喩ふ。檀弓「古之人有言、曰、狐死、正丘首仁也」。=丘首。  (字源)
 
  檀弓(だんきゅう)という書物に書かれていますが、――
  昔の人が言っている、「狐は死ぬとき、首を生まれた丘に向ける」と。 哀れである。 まあ、これだけの事なんでございますね。 これが忘れられないのです。 含蓄のあるよい言葉ですね。
  
  
  そして、時として次のような言葉にも出会います。
 
  四不殺(しふさつ):修身治國の上に於ける四っの不殺。崔援(さいえん)、座右銘「無以嗜慾殺身、無以貨財殺子孫、無以政事殺民、無以學術殺天下」  (字源)
  
  これは、2000年ほど前の崔(さい)某という人の座右の銘だそうです。
 
 
嗜慾を以って身を殺すこと無かれ
財貨を以って子孫を殺すこと無かれ
政事を以って民を殺すこと無かれ
学術を以って天下を殺すこと無かれ
   
         嗜慾(しよく)とは、美食をしたりして、贅沢な生活をすることです。
 
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まあなにはともあれ
大変なことにならないよう
くれぐれもお願いします
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   仏教では、人間には貪瞋癡(とんじんち)という三つの毒が身体中に回っているために、なかなか心配事が絶えないというのが通説のようでございます。
  中でも、この癡(ち)というものがなかなか問題で、愚癡者、あるいは痴呆者とも言いますが、このわたくしのような者のことをそう申すのだそうでございます。 
  そのいわゆる人間の品性というものが、知らず知らずの中に堕落しておるのでございますね。 
  癡の中でも、またその中によく見受けられますのは、いわゆるグチと言うやつで、いまさら言ってみてもはじまらないことを、いつまでもグチグチ、グチグチと止まらなくなってしまうやつでございますが、言っている本人にしてみれば、いわば人間の本能に従っているのでございますので、これを言っているということはなかなか気持ちの良い、こころよいもので言ってみればこれもまたなかなかよいものなのです。
  わたくしは、正直、ごく普通の愚癡者、平たく言えば世間並みの、”おろかもの”でございますので、いや世間以上のと言い直すべきですか、そんな訳でインターネットを始めたのも、何かグチグチとグチってみたい、こんなお粗末な動機があったのです。 しかしだんだんと気がついてまいりました、聞かされる方はたまったものではないと、まあ要するにそんなことでは読者はつかないぞということにですな、気がついたのです。
  しかし、おろかものの本性などは、そう簡単に抜けてくれるものではございません、毎月毎月グチを並べ立てて、いつのまにか今月も上のような具合になっています。
  これはいけない、何か楽しい話題はないだろか、喜んで読んでもらえるような話がどこぞに転がってはいないだろうか、仕入れなければ商品なし、寝転がっていれば種がつきる、犬も歩けば棒に当る、あわてる雲水鉢かるし、そうだ仕入れの旅に出よう。
  しかし、家には家の子郎党、八匹の猫がいるので泊まりはできません。 トイレの始末を最底一日に一回はしないと、皆は機嫌をそこねて好きなところをトイレにしてしまいます、流しの中、座布団の上、廊下、机の上、ベッドの中、これは相当な覚悟がないとならないことです。 お仕置きが成功して、してやったりとばかりににんまりしている猫たちの顔が想像されます。 どうも猫たちは拾われて家の子郎党にしてもらった恩をすっかり忘れいるようです。 家内は一人でどこへでも行って大いに気を養ってこいと申します。 それじゃあ後を頼むと言えればよいのですが、小心者のわたくしはなさけないことに不公平が気になって、なかなかそんな大それた気にはなりません。 最近、車でうろうろするのも骨がおれるようになってきましたが、他に仕ようがない、ようやく見つけた晴れ間をのがさず行ってきました。 総走行距離440キロ。
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  三時間半ほどのドライブのすえ到着しましたのは、先ず中将姫で有名な当麻寺(たいまでら)、ここの奥の院に浄土庭園が有りますので、ここに蓮の花でも咲いていたら、さぞ美しかろうと思って最初の目的地としました。 それにしても、いやどうも驚きました、蓮の花どころか、何の花も咲いていません、本堂の前に鉢植えの蓮がいく鉢も置いてありますが、もう蜂の巣状の実が残っているばかりですし、その上、浄土庭園には本から蓮の花がありませんでした。 これはこちらがウカツでした、いつもながら計画を立てないからいけないのです。 
  中将姫が蓮の糸で織ったという大曼荼羅、珍しくも東西にそびえる二つの塔、中央の通路を挟んで対面する金堂と講堂、白鳳時代から平安時代にかけての尊像、当麻寺はこれが初めてならば見る物の多い寺ですが、もう何度も来ていますので、いまさら珍しい物は何もありません。 目当ての浄土庭園がこれでは何もすることがなく、空しく辺りをうろつくばかりです。 まだ11時にもならないというのに、門前の茶店で奈良県の名物柿の葉ずしを食べました。 日頃カロリー制限を受けていますので注文したのは、たったの三つ限り、五つ目が家内の口の中に消え去るのをじっと見つめる愚かしさ。 よく脂ののった鯖の言いしれぬ塩加減、砂糖も塩も身体に悪いとは知りながら、やっとの思いであと三つと注文するのをこらえました。 これは反って毒ではありませんか。
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  次は、河内の観心寺、あでやかな如意輪観音で知られています。 ふっくらとした頬、ぽっちゃりとした唇、切れ長の目にすずやかな瞳、ぷるんとした頷、首の回りを飾る三重の線、若くも見え年増にも見えるあこがれの理想像。 しかし何としたことか、お目にかかることはできませんでした。 ただ年一回、四月の十七、十八日にのみ、厳かに開帳される秘仏だったのです。 恥の上塗りはなれっこですが、見込み違いがこうまで重なっては早くも疲れがでてきます。
  しかし、窓口でもらったパンフレットを本堂の縁側に腰掛けて目を通しますと、あの天下第一の忠臣、楠木正成(まさしげ)の首塚が在るではございませんか。 それから本堂の脇に見える茅葺きの小ぶりな御堂は建掛塔(たてかけのとう)、寄進した正成の討死により完成ならなかった三重の塔の初層部分に屋根を葺いたものだったのです。
  耳がじーんと鳴り出して顔が火照ってきました、もういけません、何しろ老人は忠臣という言葉に弱いのです。 忠臣なんどは時代に特有のものだとは思いますが、アナクロニズムもなんのその、何しろ正成という名を聞いただけで、頭の中では四条畷(しじょうなわて)だの桜井の訣別(大楠公)だなどという、子供の頃からのおなじみの歌詞が次から次に浮かんできて収執がつきません。
  特に、『汝(いまし)をここより帰さんは、わがわたくしのためならず』、ここの部分がいけません、声はつまり目には涙があふれて、これはもうとても今時の人間とは思えなくなってしまうのです。
  正成の手勢は常に僅かです。 赤坂城の戦いでは敵の三十万、千早城の戦いでは百万の軍勢に対し、一千にも満たない小軍勢で常に城を持ちこたえ、莫大な報賞に目がくらんで手柄にはやる敵の軍勢を掴んでは捨てちぎっては投げ、散々な目にあわせてきました。 しかしこれも一気に押し包まれることのない峻険な地形にある山城であったればこそ、縦横無尽の奇略を生かすことができたのです。
  実戦経験の無い公家なんどにはここの所が分りません。 
  一旦は五百にも足りない手勢を引連れて九州に落ちのびた足利尊氏(たかうじ)は、いつの間にやら九州一円はおろか四国山陽の国々の軍勢までも味方に付け、弟の直義(ただよし)には二十万余騎を託しまして大将として陸を行かせ、自らは威風堂々、兵船七千五百余艘を並べて海上を上ってゆく。
  味方の新田義貞の軍勢は六万、加古川辺りで待ち受けておりましたが、尊氏が大軍を率いて攻め上ってくると聞いては、大多数が逃げ去ってしまい、ついに二万にまで減ってしまいました。 義貞は、要害の地である兵庫にまで退き、そこで戦おうとして、その由を後醍醐天皇に奏上します。
  天皇はすぐに正成をお召しになり、「急ぎ兵庫へまかり下り、義貞に力を合わせて合戦を致すべし」と仰せになった。
  正成はかしこまって奏した、「尊氏卿すでに筑紫九ヶ国の勢を率いて上洛なされたというならば、定めし雲霞の如き大軍でございましょう。 味方の疲れた小勢で以って、機に乗った敵の大勢に懸け合って、尋常の戦いを致すようでは打ち負け致すは必定、新田殿をただちに京へお召しになり、以前なされた如く比叡山にご臨幸ください。 正成も河内へまかり下り、畿内の手勢を寄せ集めて淀川の河口を塞ぎます。 比叡の新田殿と南北から京を攻め、尊氏の軍の兵糧を疲れさせれば、その間に敵は次第に疲れて数を減らし、味方は日々に馳せ集まることでしょう。 その時に当って、新田殿は山門より押し寄せられ、正成はからめ手にて攻め上れば、敵を一戦にて滅ぼすこともできると思われます。 新田殿も定めて同じ考えでございましょうが、路次に出て一戦もせずに帰れば、不甲斐なく思われるのを恥じて兵庫に止まっていられるものと思われます。 合戦とは最後に勝つことこそが肝要、よくよくお考えの上、公議を定められるべきでございましょう。」と。
  坊門宰相清忠という公家はこう反対した、「正成のことば、道理のように聞こえるが、征伐のために差し下された将がいまだ一戦もしていないのに、一年の中に二度までも山門に臨幸されるようでは、一つは帝位を軽んずるに似て、また官軍の面目も失うということでございます。 たとえ尊氏が筑紫勢を率いて上洛するとしても、去年関東八ヶ国を従えて上洛した折の軍勢にはよもや及びますまい。 およそ戦いの始まりより、敵軍敗北に至るまで、味方は小勢ながら毎度大敵を攻めなびかせてきました。 これはまったく武略が勝れているためではございません。 ただ聖運が天に叶っていたのでございます。 それならば、戦いは帝都の外で決して、敵を滅ぼすことに何の困難がありましょうか。 ただ時をかえず、ただちに楠まかり下るべし。」と。
  正成は「この上はさのみ異議を申すに及ばず。」と言って都を立ち、五百余騎にて兵庫に下った。
  公家とは口でするのが仕事、正成はよもや口で勝とうとは、たとえわずかにだに思いません。 ここまで言えばもう言うことは無い、後は兵馬でもって身を立てらんのみ。 京から兵庫へ下る途中、桜井の駅にて、その時十一歳の一子正行(まさつら)を呼び寄せて、「おれはこれから兵庫に向い討ち死にしようと思う、お前はただちに河内に帰って時を待ち、天皇の再度の呼びかけにこたえよ。」とこう申します。
  この桜井の駅の場面、それを歌ったのが落合直文作詞、奥山朝恭作曲のあの名歌でございます。 ではご一緒に歌いましょう。 一番より四番まで、
青葉しげれる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木の下かげに駒とめて
世の行く末をつくづくと
しのぶ鎧の袖の上に
ちるは涙かはた露か。
 
正成なみだをうち払い
わが子正行呼びよせて
父は兵庫におもむかん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまて来つれども
とくとく帰れ故里へ。
 
父上いかにのたもうも
見すてまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られなん
この正行は年こそは
未だ若けれもろともに
御供仕えん死出の旅。
 
汝をここより帰さんは
わが私のためならず
おのれ討死なさんには
世は尊氏のままならん
早く生い立ち大君に
仕えまつれよ国のため。
 
  以下省略
  いやどうもご一緒に、まことにありがとうさんでござります。 どうも読者の方もなかなかご苦労さんなことですな。
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  さてその次は、これも名高い磯長(しなが)の叡福寺(えいふくじ)、大寺の割にいたって地味な印象の寺でございますが、所がさにあらず。 あのかつては千円札でおなじみの聖徳太子の御廟が境内の奥にちゃんと在るのでございます。 聖徳太子と言えば十七条の憲法、和を以って貴しと為す、篤く三宝を敬え、これ等の名言でつとに有名でございます。 しかし本当にこの寺には見るものが何にもない。 その上なんたることぞ、宝物殿までが今日休館日の看板が立てかけられてあります、運の悪さも三度かさなればこれはもう立派なものです。 御廟の前に進み、大香炉の前で合掌して、それでおしまいです。 写真をやたらに多く撮りましたが、要するに何もないので何を撮っても満足できなかっただけのことでございます。 仁徳天皇の御陵の前でそのあまりの大きさに鳥居の他は何も見るものがないのと同じような気持ちでした。
  ここまででもうへっとへとに疲れてしまいましたので、用明天皇の御陵も推古天皇の御陵もご遠慮申し上げて、ひたすらまっすぐ帰路についたのでございます。
 
  それでは皆様また来月もお会いしましょう、それまでご機嫌よう。
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正成公首塚



  (四不殺 おわり)