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ド ラ イ ブ

  いやー新車は良い者ですな、とか何かそんなことを言ってみたく思っておりましたが、どうも中々そうは問屋が卸してくれませんので、何やらがっかりしてしまいました。 何しろ千五百c.c.もあるにしては、もう一つ力強さに欠け、ハンドルも一向に路面の情報を伝えてくれません。 こんなはずではないがと首をかしげる日々が続いております。 おまけにもう一つ悪口を付け加えれば、エンジンブレーキが一向に効きません。 恐らく、燃費を気にしてのことと思いますが、ややアクセルを開き気味にしてコーナーに入り、危ういところで馬の鼻面を引き戻すようにエンジンブレーキをかけて後ろを滑らし、ここぞという所で一鞭くれるという、運転の醍醐味が味わえないとなると、もうこんなものは何のために買ったのやら、千c.c.のエンジンでも充分じゃないか、いっそ亀にでもなりゃあがれなどと、毒づいておる次第です。
  そのようなことで、老書生に取ってただ一つの楽しみが、ついに奪われてしまったのですが、これも恐らくは天の配剤、いやそれとも案外と日頃迷惑を掛けられている者どもの怨みか、等とまあ思ってみれば、それもまたやむを得ないことで、さっぱりと諦めるより外はありません。 まあ、めでたしめでたしということなのでしょう。 これにもいづれ慣れるより外ありません。 考えてみれば、十年前にも同じようなことがあったのですから、こんどの車もかけがえのない愛車となることは間違いない所でしょう。

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  と、このような心理状態のとき、まったく間の悪いことに、コンピューターがおかしくなってしまいました。 メーカーに問い合わせてみると、システムの再セットアップが必要ということです。 ウィンドウズもオフィスもATOKも、このホームページビルダーも、何もかもを、もう一度入れ直せと言っております。 まったく何をか況や、ああと天を仰いでひとしきり嘆いた後は、まあ言われるとおりにするよりしようがありません。 昔、ギリシャに、ミダス王という王様がいらっしゃいまして、手に触れた物は何もかも黄金に変ってしまいますので、物を食うこともできず非常に困ったと言われておりますが、かく言うわたくしも、電気にしろ機械にしろ何にしろ、難しそうなものは全て、手にした途端に壊してしまい、その上、面倒なことは何より苦手といういやな癖があります。 わたくしとしては、できるものならば何もしたくないと、先に先にと引き延ばしておりましたが、しかし何事にも限界はございます、段々と心配になってまいりまして、とうとうセットアップを敢行することに致しました。
  これが、正味二日間かかったという訳です。
  マイドキュメントを外部媒体に移し、マイピクチャーを移し、お気に入りを移し、ただ入力用の辞書だけは、何よりも大切ですから、毎日バックアップを取っております、他にも、ワードの設定項目の写真を撮ったり、何をしたりと、大変な気の使いようで、終ったときには、すっかり疲労困憊していました。
  コンピューターの購買時に附属していたマカフィーを取り外し、回線に附属するウイルスバスターをインストールして、ついに回線を接続した時、またもや思いも掛けぬ各種プログラムの更新ダウンロードやインストールなどが殺到して、もはや訳が分らぬ状態です。
  このような事情で、今月は何所へも行く気が起きません。 新車はただ買い物につきあうだけといった有様で、あれほど楽しみにしていた記念ドライブはついに取り止めになってしまいました。
  表題のドライブは、叶わぬ願望の思わぬ発露ということでございます。 題名を見て胸をときめかしたお方には誠にお気の毒様でございました。

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  ということで、今月は映画を見ることにしました。 それも二本も、全部フランス映画です。 たった二本で全部は言葉遣いが変ですね、まあフランス映画を二本見たということです。 かなり面白い映画でしたので、ここで少しばかりあらすじを申しましょう。
  一本は『サン・ジャックへの道』という邦題がついています。 三人の仲の悪い兄弟姉妹がスペインのサンチャゴまで、いやいや巡礼するという話しです。 もう一本は、『輝ける女たち』、ニースにあるキャバレー”青いオウム”の持ち主ガブリエルが亡くなったことにより、浮気者の奇術師ニッキーと、その二人の妻たちと二人の子供たちとの間に波紋が起こります。 二本とも似たところが少しもない、全く違う内容の映画でありながら、同じテーマ、同じモチーフである所が不思議なことです。 同じテーマというのは家族の再会、同じモチーフというのは遺産、これが何のような発展をいたしますものか、及ばずながらお伝えしましょう。


  『サン・ジャックへの道』:サンジャックとはスペインの大西洋岸近くに在る大聖堂の町、サンチャゴのフランス語読みです。 このサンチャゴの大聖堂は、フランスのル・ピュイという町の大聖堂から始まる総延長1500kmにおよぶ巡礼路の終着点です。 ヨーロッパの至る所から、毎年大勢の人がここで巡礼を試みます。 それも、ひたすら二本の足で歩くのですからなかなか大変なことです。 病人などは人に負ぶわれたりもしましょうが、まあ普通の人は、ただ決められた道をただただ歩いて行くのです。 それも平坦な道ばかりではありません、険しい山道もありますし、車はとても通れないような荒れた道もあります。
  そんな訳ですから、巡礼者たちは夏休みを利用したり、会社から特別の休暇をもらったりして、二ヶ月間ただもくもくと歩きます。 それは、四国のお遍路でも同じことでしょうが、先達というか案内の人もいると便利ですし、宿にも適当に泊まりたいということにでもなりますと、ツアーを利用したりして、費用も二ヶ月分となりますので、そんなに安くはありません。
  さて、話はパリの公証人の事務所から始まります。 仲の悪い三兄弟が集まりました。 羽振りの良い社長のピエール(男)、高校のフランス語教師クララ(女)、酒飲みで世間から見捨てられた一文無しのクロード(男)、彼等は、母親が死んで相当な額、たしか70万ユーロ、約一億円の遺産が公平に分配されることになりました。 しかし、それには三人がそろって例の巡礼を完遂し、一人の脱落者も出さないことという途方もない条件が付いていたのです。 その条件が満たされないときには、すべて何かの団体に寄付されてしまいます。 肉体労働が嫌いな虚弱体質のピエールはそんな事はしたくありません、そもそも会社を休んだりしたら会社の運営に差し支えます。 怒りっぽい高校教師は失業中の夫をかかえ、家計を支えています。 一文無しのクロードは、ここへ来るためのタクシー代さえ払えずに、タクシーを待たせたままにしています。 とはいえ結局、この三人は巡礼をしなければなりません。 ただもともと気が合わないので、巡礼の間中、常に角突き合ってばかりいます。
  ツアーの他の参加者は次のとおりです。 エルザ(女)とカミーユ(女)は高校の卒業記念で、金持ちの両親に費用を出してもらいました。 ザイードとラムジーはアルジェリア出身のアラブ人で、裕福ではありませんが、ザイードがカミーユにぞっこんで、その後を追って参加しました。 ラムジーはザイードの従兄弟で、優しい性格ですが智慧がやや足りず、ザイードにメッカへの巡礼だと欺されて、二人分の費用を持たせられています。 マチルドは病気です、放射線治療の後遺症でしょうか、頭に毛が無いのでターバンを巻いています。 そして案内人のギイ、この中年が五人、若者が四人の総勢九人がツアーを構成しています。
  彼等のどたばた喜劇はここから始まります。 バスでルピュイの大聖堂に着きいざ歩くだんになりますと、早々に社長のピエールは山登りでもするような豪華な装備でいどんだのですが、その重さに音を上げ、あらかたを道端に捨てて行かなくてはなりません。 気楽な物見遊山のつもりの女の子も、リュックの中から電気ドライヤーや数々の化粧品のビンを引っ張り出して、皆、捨ててしまいます。 着た切り雀のクロードは、山道を歩くときも普段履いている革靴のままですので、痛む足を引きずっています。 ザイードはカミーユに相手にされません。 無神論者のクララは怒ってばかりいます。 
  幾日かが過ぎます。 皆もおよそ旅に慣れはじめてきました。 身の上話などしながら、徐々に胸の内が明かされてきます。 ピエールには会社のことが心配で携帯電話の通じない所にくると居ても立ってもいられない様子です、しかもその上、アルコール中毒の妻がいて自殺でもするんではないかと心配しています。 案内人のギイにも、病気の子供がいるようで、しばしば携帯で連絡を取っています。 親切なカミーユはラムジーに字を教えてやりたいのですが、教え方が分りません。 クララに教えてくれるよう頼むのですが、高校教師のクララはそんな小学生に教えるような面倒なことは嫌なので、にべもなく断ります。 ラムジーがメッカへ行きたいと思ったのは、この字を覚えたいということが始まりでした。 メッカへ巡礼すれば字が覚えられると嘘を教え込まれたのです。 カミーユは、まずABCから教えようとましたが、自分で考えた方法で教えましたので、ラムジーをますます混乱に突き落としてしまいました。
  さらに幾日かが過ぎます。 緑豊かな自然の道は、人々を豊かな気分にします。 来る日も来る日も、ただただてくてく歩くことで、肉体を酷使し、粗食に耐え、数々の娯楽を絶って、健康と、優しい気持ちとを取り戻して行きます。 皆の中には仲間意識さえ芽生えて来たのです。 あの意固地なクララは、失敗したカミーユに思いやって内緒の内に、ラムジーに字を教え始めます。 頭の足りないラムジーも、雑念が無いからでしょうか、徐々に字が読めるようになり、嘘をついたザイードには気を遣って言いませんが、どうやらメッカへ行くのではないことに気がつきます。 金持ちで他人のことには無関心のピエールも別ではありません、ある修道院で一夜の宿を願ったとき、他の人はよいが、あの二人のアラブ人はお断りすると言われると、じゃあ自分が払うから今夜は豪華ホテルに泊まることにしようなどと思わず言ってしまいます。
  やがて苦しいピレネー山脈を越えてしまい、いよいよスペインに入ると、物語は終幕にさしかかります。 仲の悪い兄弟は仲良くなり、恋の願いは叶い、酔っぱらいのクロードは病気のマチルドと恋人になります。 ただ字を覚えたラムジーには試練が待っていました。 大切なお母さんが死んでしまったのです。 身もだえをして悲しむラムジーを、あのクララが引き取ることにしました。 薬物依存症のピエールは、あの時、薬まで一緒に捨ててしまったおかげで、薬を絶つことができ健康になりました。 このようにして見事、皆が幸せになり、三兄弟は相続した母親の邸宅を訪れます。 売ってしまう前に、自分たちの育った場所を一目目にしたかったのです。 やがて帰るために玄関から門までの長い並木道を歩いて行く兄弟、後ろから見護る窓に映った母親の幻影、三人の後ろ姿を映して映画は終りです。
  


  『輝ける女たち』:離ればなれになっていた家族がまた一つになるというよくある愛憎劇です。 舞台はフランスの地中海沿岸の豪華なリゾート地ニース。 そしてそこに在る昔風のキャバレー。 舞台があって、ヌードダンサーによるラインダンスや奇術、あるいは漫談などが売り物という、お酒の飲める劇場のようなものをキャバレーといいます。 ”青いオウム”というのがその名前です。 この”青いオウム”のオーナーの老人が死んだことにより、物語は始まります。

  最初に役の説明から入りましょう。 
  (1)”青いオウム”の持ち主の老人をガブリエル(男、70)といいます。 女装の芸人で、古い女声のレコードに口を合わせてシャンソンを歌い、なかなか魅力的ですが、性的倒錯者ではありません。
  (2)アルジェリアから十五歳のとき叔父を頼ってフランスに出て来たニッキー(男、55?)が主人公です。 叔父の家が”青いオウム”の隣という縁で、ガブリエルの本に出入りし、奇術師として身を立てるようになりました。 それ以後は、初老にさしかかった現在まで、ガブリエルの屋敷に住んでガブリエルの車を乗り回し、さしずめ親子同然の暮らしをしています。 大変女に持てる色男です。
  (3)ニッキーの幼なじみシモーヌ(女、50?)は、ただ一度だけニッキーと関係して女児をもうけましたが、実はガブリエルの愛人です。 二人ともニッキーに気遣ってこのことを内緒にしています。 現在はワインの小売商をしています。
  (4)雑誌の編集長マリアンヌ(女、30?)は、シモーヌとニッキーの間に生れ。 現在、夫と離婚の調停中ですが、ロシアから養子を取ろうとしています。 両親の浮気の果実であるという、自らの血を恥じてのことですが、それを知らない夫はそれに反対しています。
  (5)ニッキーの別れた妻がアリス(女、50?)です。 シモーヌと関係したニッキーに腹を立て、一児を連れて別れました。 大変気の強い女で、息子にはニッキーを憎むように教えます。
  (6)ニッキーとアリスとの間に生まれたのが、ニノ(男、30?)です。 同性愛者で大学生の恋人がいます。 会計士で”青いオウム”の会計を見ています。
  (7)キャバレーの歌姫レア(女、35?)は、昔、別の舞台に立っていたとき、ニッキーと一夜を共にしたことがありますが、ニッキーがそれを忘れて誘いをかけてくるため、ニッキーをうまくはぐらかしてじらしています、しかしニッキーを憎んでいる訳ではありません。

  物語は、ガブリエルが、豪華な屋敷”ミモザ館”と”青いオウム”とを残して、自殺してしまったことから始まります。 ガブリエルは、まだ美しい内に死にたいという願望を果たしたのです。

  ガブリエルの死から始まった物語ですが、実際のシーンは大勢のヌードダンサーのひしめく、”青いオウム”の楽屋から始まります。 そこにはオーナーのガブリエルもニッキーもレアもいて互いに一言づつ声を掛け合っています。 次いで海辺のガブリエル、実はガブリエルは海に身を投げて死んだのです。 パリの出版社では、マリアンヌが夫と離婚の調停中であるにもかかわらず養子を取ることについて言い合っています。 ニノのアパート、ニノは恋人と愛しあっている最中にニッキーから連絡を受けてガブリエルの死を知ります。 ガブリエルの屋敷、ニッキーはガブリエルに真っ赤な舞台衣装を着せてベッドに寝かしつけます。 空港、ニノとマリアンヌが到着します。 墓地、ガブリエルの埋葬で短い会話が処処に交わされます。 再びガブリエルの屋敷、店の従業員もレアも含めて皆が集まり、それぞれに短い会話があります。 道路沿いで車を修理するニッキー、レアをホテルへ送る途中、ニッキーはレアに家族関係を説明しています。 ホテル、ニッキーはレアを明日の食事に誘います。

  このように、この映画は前編が短いシーンの連続で、次々と場所を変えながら劇が進行し、物語の状況を徐々に明かしてゆきます。

  ここで物語は思わぬ展開を見せます。 場所は公証人の事務所。 ガブリエルの遺産は、主に屋敷と”青いオウム”ですが、それはニッキーの二人の子供に遺されました。 ニッキーには、ただガブリエルの男性用舞台衣装と趣味で集めたカフスボタンが遺され、シモーヌには、女性用の舞台衣装が遺されました。

  大金持ちになるものだとばっかり思っていたニッキーは、子供たちの前で二人の面倒は俺が見てやるから心配するなと、大見得を切ったばかりです。 これにはさすがのニッキーもかなりの傷手を受けました。 一方二人の遺産相続者たちは、パリに仕事がありますので、”青いオウム”の面倒など見ていられません。 早速売ってしまう相談をして、ニッキーを悲しませます。 ニッキーは舞台を離れては生きて行かれませんし、すでにテレビでは『あの人は今』という番組で取り上げられるほど、芸人としても落ち目です。 追い出される前に出て行くのだと言ってニッキーは屋敷を引き払い、ホテル住まいをしはじめます。

  ニッキーには、まだ傷手の追い打ちが残っています。
  シモーヌが、夫に捨てられたことをこれ幸いとばかりに、ニッキーはもう一度コンビを組もうと誘い、”青いオウム”の舞台で、舞台衣装を着たシモーヌを箱に入れ、箱ごとまっぷたつにする奇術の練習を始めました。
  箱にシモーヌを入れたまま、ニッキーは実は妹のようにしかお前を愛していなかったのだと打ち明けます。 答えて、シモーヌも、ニッキーを愛したことなど一度もなかった、常にガブリエルを愛していたのだと言い返します。

  皆に裏切られていたのだと知ったニッキーは海で死のうと思い、裸になって水際まで行きますが、死にきれません。
  レアのアパートに来て慰めてもらおうと思えば、レアは昔、ニッキーの奇術の助手をしたことがあり、そのとき車の中で関係したと種明かしをされます。
  なぜ今まで黙っていたと、ここでも裏切られてアパートを飛び出しました。

  同じころ、互いに反目していたアリスとシモーヌは、アリスの部屋で酒を飲んで意気投合していますし、ニノとマリアンヌの兄弟は”青いオウム”の中を探検していて、隠し部屋を見つけ出しました。
  深紅と深緑のビロードの垂れ布に覆われた部屋は、一目で情事の為の特別の部屋だということが分ります。 更に分け入ると、若く美しいアリスの扇情的なヌードの画像が懸けられています。
  若いときアリスはここで”翡翠の心”という専属の娼婦をしていたのでした。

  ショックを受けたニノは、母親に詰め寄ります、僕は一体誰の子なんだ。 アリスにとってニノは敵ではありません、心配しないでちゃんとニッキーの子ですよ、それに母親の性生活にまで口を出すんじゃない、と軽くあしらいます。

  ニノには、恋人が会いにきます。 ベッドの中からは夜空に打ち上げられる色とりどりの花火が、二人は裸のままベランダに出て肩を組んで見上げます。 アリスの部屋でシモーヌと三人で仲良くするニッキー、次の朝にはアリスのベッドに裸でいます。 アリスは青いオウムのペンダントを見せます、これを覚えてる?ガブリエルが母親から貰ったものだろう?お前が持っていたのか。 これを上げるわ、旅のお守りに。
 
  レアには、アメリカから仕事の話が入ります。
  飛行場までのタクシーに乗る時、つき沿うニッキーに、一緒に飛行機に乗ろうと誘いますが、ニッキーはここにはやることが残っていると断ります。 ニッキーは青いオウムの幸運のお守りを出して、これをお前にやろう。

  空港で、アリスがレアに声を掛けます。 そのお守り、大事にしてね。 もちろん。
 
  最後は、”青いオウム”が舞台です。
  ニノが店を改装して経営することになりました。
  飛行機嫌いのニッキーはアメリカへ船で立つことにしました。 別れの挨拶に立ち寄ったのです。
  もういつ戻っても帰る所があり、安心して好きなことができます。

  ニッキーが立ち去った所へシモーヌが来ます、もう彼は発った?別れは苦手なの。 そこへロシアからマリアンヌの手紙が届きます、同封の写真にはマリアンヌとアリスと養子が一緒に写っています。

  海岸道路を歩くニッキー、ガブリエルの亡霊が話しかけ、大笑いしているところで映画は終りです。

  しばしば映されるヌードダンサーの美しい胸の短い映像をアクセントにして、速いテンポで進む映画ですが、美しくも瞬間に咲く花火の映像と呼応しあって、人生のはかなさと楽しさを、或はもう一つのテーマとしているのでしょうか。
  『シェルブールの雨傘』、『昼顔』で美貌を顕したカトリーヌ・ドヌーヴをアリス、『愛と運命の泉』、『美しき諍い女』で可憐な姿を見せてくれたエマヌエル・ベアールをレアに配して、非常に豪華な顔ぶれでした。
  余談ですが、『諍い女(いさかいめ)』だなんて、よくも汚い字面の新造語を表題にしたものです。 フランス語の辞書を引いてみた所では、『がみがみ言う美人』とありましたので、さすがにそのままではいけませんが、せめて『不機嫌な美人』ぐらにしたら何うですかね。
  この原題は、『家族の英雄』、ニッキーのことです。 好き勝手をして、家族から英雄あつかいされるのでしょうか。 フランスですねー。

  この地方では、フランス映画はなかなか見ることができません。 この映画も非常に小さな個人経営のような劇場で見ました。 しかしここで見たものは、小粋に登場人物も観る者をも突き放し、それでいて本当によく人生を理解している者だけに、表現可能な微妙な部分を、余すことなく映像化したものでした。 或はこれはフランス人にしかできない技かもしれません、他ではなかなか得難い雰囲気がフランス映画にはあるのです。 
  何とか多くの方に、フランス映画を見ていただき、もっともっと劇場公開されますようにと願って、及ばずながら粗筋なりとご覧に入れたいと思い、このようにお話しいたしましたが、いかがでしたでしょうか。 映像を文章で伝えることには無理があることは、初めからよく理解してはいるのですが、何とかがんばってみました。 お気に召せば宜しいのですが‥‥。
  
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  この所うれしい事があります。 知人の女の子が、一月に赤ちゃんを産み、それを時々、連れて見せに来てくれることです。 偉いですねー、まだ成人式を迎えたばかりなのに、働き者のご主人に支えられて、立派に赤ちゃんを育てています。 生まれてから、四ヶ月もたつと、もうつやつやした頬の可愛い赤ちゃんに育つのですね。 わたしの顔を見たとたんに泣き出しましたが、ほっぺたを指で撫でてやりますと、すぐに泣きやみ、こちらを見てにこにこしています。 たしかに智慧も付いてきてますよ。 心から、すくすく育って、無事であることを願ってやみません。
  
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  これに関連して、思いだしました。
  熊本で『赤ちゃんポスト』が設置されたということです。
  慈恵病院というキリスト教系の病院が設置しましたが、賛否両論あるということです。
  反対する人の意見は、
    (1)両親が子供の面倒を見るという基本がないがしろにされる。
    (2)性的道徳が廃れる。
  どうやら、この二点に集約されそうです。
  では伺いますが、
    既に捨てられてしまった赤ちゃんは何うなるのでしょうか?
    野良犬や野良猫が面倒を見てくれるのでしょうか?
    現実に捨て子はあり、現実に両親にその能力が無い場合も有るのです。
      その場合には、本来誰が面倒を見るべきでしょうか?
    まさか、何もしなくても良いいうご意見をお持ちなのですか?

  『赤ちゃんポスト』、まさかこんな良いものに反対する人がおろうとは、思ってもみませんでした。
  名前が手軽すぎるという方もおられました。
    では何のような名前でも結構です、あなたが開設してください。

  インドのカルカッタで『死を待つ人の家』を開設したマザーテレサをご存知ない方は、恐らく何所にもいらっしゃらないでしょう。 
  このマザーテレサは、常に托鉢、そう要するに托鉢です、家々を順に回って布施を乞うのです、この托鉢をして、それによって得た物を貧しい人に、更に施していました。 
  これに文句を付けた人がいます。 つまり、貧しい人に物を与えていたのではきりがない。 ここは是非、釣った魚を与えるのではなく、魚を釣る方法、つまり釣り竿などを与えてはどうか、とこういうことです。
  これに対して、マザーテレサは答えます、『中には釣り竿さえ持てないほどに体力の弱った人もいるのです。 その人たちが、釣り竿を持てるほどに力を付けたならば、あなたの方に送りますので、その時には釣り竿を差し上げてください。』と。

  仏教にも、『箭喩(せんゆ)経』というお経の中に、似たようなことが有りますのでご覧にいれましょう。

 お釈迦様の弟子に、摩羅鳩摩羅(まらくまら)という人がいました。
 この摩羅鳩摩羅は、坐禅をしていながら、こんなことを考えていました。
『一体、世界に終わりは有るのだろうか?無いのだろうか?
 一体、世界の果ては有るのだろうか?無いのだろうか?
 一体、命と身体とは同じものだろうか?違うのだろうか?
 一体、命に終りが有るのだろうか?無いのだろうか?
 一体、物とは有るのだろうか?無いのだろうか?』と。

 これを考え出すと、どうにも我慢ができません。
  『世尊(せそん、お釈迦様に対する尊称)は、
     一体、何うお考えだろうか。
     前に、お訊ねしたときには、何もお答えにならなかった。
     もし、もう一度訊ねて、お答えにならなければ、
       もう諦めて、ここから帰ってしまおう。』と、
 このように心を決めて、坐禅から起ち上がると、
   世尊に礼をして、先ほどの問いを訊ねました。
  『世尊が、この問いにたいする答えを、
     もし、ご存知ならば、はっきりとお答えください。
     もし、ご存知でなければ、はっきり分らないと仰ってください。』と。

 世尊は、摩羅鳩摩羅にお問いになります、
   『これ摩羅鳩摩羅、
      お前は、それを知ったならば、
      ちゃんと、修行ができるのか?』
   『いいえ、それはありません。』
   『何という馬鹿者だ、お前というやつは。』

 世尊は、皆を集めて、たとえ話をされました、――
   ある愚か者が、このように思った、
     『わたしは、世尊に従って修行する前に、
      世尊に、はっきりと、
        世界には終りが有るかどうか、
        世界には果てが有るかどうか、
        命と身体とは同じかどうか、
        命には終りが有るかどうか、
        物は有るのかどうか、
      このことについて、答えさせよう。』と。

    この愚か者は、このような事を考えている間にも、
      自らの命が終ってしまうことを知らないのだ。
    それはちょうど、
      ある人が、毒箭(どくや)にあたった時のようである、
    親戚の者たちが、医者を探して治療させようとしたが、
    その時、
      この人はこう考えたのだ、

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         箭を射た人のことをすっかり知らなければならない、
         その人は、
           姓は何で、名は何で、容姿は何うなのだ?
           背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?
           肌の色は、黒いのか、白いのか?
           刹利種(せつりしゅ、王族)か?
           婆羅門種(ばらもんしゅ、祭司種)か?
           居士(こじ、仏教信者)か?
           工師か?
           東から来たのか、南からか、西からか、北からか?
         一体、誰がわたしを射たのだ?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         わたしを射た弓について、
           すっかり知らなければならない、
         その弓は、
           薩羅(さら、樹木名)の木でできているのか?
           多羅(たら、樹木名)の木でか?
           支羅鴦掘梨(しらおうくつり、樹木名)の木でか?』

      『わたしは、この箭(や)を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その弓に巻いた筋について、知らなければならない、
         それは、
           牛の筋か?
           羊の筋か?
           ヤクの筋か?
         何が、その弓に巻いてあったのだ?』
      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その弓の弓束(ゆづか、弓を持つ所)について
           知らなければならない。
         それは、
           白い骨でできているのか?
           黒い漆でできているのか?
           赤い漆でできているのか?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その弓の弦について、知らなければならない、
         それは、
           牛の筋でできているか?
           羊の筋でできているか?
           ヤクの筋でできているか?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その箭について、知らなければならない、
         それは、
           舎羅(しゃら、樹木名)の木でできているのか?
           竹でできているのか?
           羅蛾梨(らがり、樹木名)の木でできているのか?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その箭に付いた羽について、知らなければならない、
         それは、
           孔雀の羽でできているのか?
           鶴の羽でできているのか?
           鷲の羽でできているのか?
         何の翼で、その羽はできているのだ?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その箭の鏃(やじり)について、知らなければならない、
         それは、
           先が尖った鏃なのか?
           先が丸い鏃なのか?
           先に刃の付いた鏃なのか?
         何の鏃で、わたしは射られたのだ?』

      『わたしは、この毒箭を抜かせないぞ、
       まず先に、
         その鏃の刀鍛冶について、知らなければならない、
         それは、
           姓は何で、名は何で、容姿はどうなのだ?
           背は高いのか、低いのか、中ぐらいなのか?
           肌の色は黒いのか、白いのか?
           東の人か、南か、西か、北か?』と。

    この人は、このような事をしている間に、
      命が終ってしまうことに気が付いていないのだ。

    世界に終りが有ろうが無かろうが、
      修行しなければならない、
    世界に果てが有ろうが無かろうが、
    命と身体とは同じであろうが同じでなかろうが、
    命に終りが有ろうが無かろうが、
    物が有ろうが無かろうが、
      修行しなければならない。

    何故ならば、
      このようなことは、
        義(ぎ、正しい意味)でもなく、
        法(ほう、正しい教え)でもなく、
        梵行(ぼんぎょう、正しい修行)でもなく、
        神通(じんつう、不思議な力)を成すでもなく、
        仏と同じ道を行くでもなく、
        涅槃(ねはん、理想の境地)に相応することもない。
    この故に、
      これを言うべきではないのだ。
  

  本になる経は、非常に有名なものですが、省略が多く、かつ繰り返しが多いという大変にやっかいな性格を持っています。 そのために、ここではおよその大意を示すに止めました。 詳しくお知りになりたい方は、『その他の仏典』の中に『箭喩経』として現代語訳してありますので、そちらをご覧になってください。 ただし大変難しいものです。

 
  

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お皿の中の黒いものは、自家製の”ゆべし”です。
 
 材料:柚子・八丁味噌・砂糖・味醂・ごま・くるみ
     乾いちじく・松の実・レーズン
 作り方:@ほぼ同量の味噌・砂糖と味醂少々を
        火にかけて暖めながら練り合わす。
      A他の材料を適宜刻んで混ぜ合わす。
      B柚子はへたの部分を適当に切り取って、
        中身をくりぬき、混ぜ合わせた味噌を
        七割ほど詰め、へたの部分でふたをする。
      C蒸器に並べ、40分ほど蒸す。
      D軒下などの風通しの良い日陰に吊す。
  10日程で出来上り!
     ・・・柚子の大きさで日数は決まる。
  食べ方:薄く切って食べる。












  (ドライブ おわり)