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小学一年生

 昔は、どこの小学校も運動場の回りには、桜の木が植わっていて、ちょうどこの季節になると、満開の桜の下に、小動物のようなエネルギーに溢れた、新入生が母親に手を引かれて、入学式に臨み、校長の訓導を聞いたり、校舎に張り出された名簿の下に集まって、教諭の説明を聞いたりしていました。

 親子共々、和やかな悦びの一日です。

 そこで、今回は、この喜びに溢れた児童たちが、今後ともつつがなく、すくすくと育つよう、願いを込めて、偉大な教育者朱文公の名前もゆかしい『小学』から、一文を抜き取って、ご覧に入れたいと思います。

 

 

  横渠(おうきょ)先生いわく、小児を教うるには、先づ安詳(あんしょう)恭敬(きょうけい)ならしむるを要す。 近世、学講ぜず、男女幼きより、すなわち驕惰(きょうだ)にして、壊了(かいりょう)し、長ずるに到りては、益々凶狠(きょうこん)なり。 ただ未だかつて子弟の事を為さざるがために、すなわちその親に於いて、すでに物我ありて、肯(あ)えて屈下(くつか)せず。 病根常に在りて、また居る所に随いて長じ、死に至るまで、ただ旧に依る。 子弟と為れば、すなわち灑掃(さいそう)、応対に安んずること能わず。 朋友に接すれば、すなわち朋友に下ること能わず。 官長有れば、すなわち官長に下ること能わず。 宰相と為れば、すなわち天下の賢に下ること能わず。 甚だしければ、すなわち私意を徇(した)がいて義理をすべて喪(うしな)うに至るも、ただ病根去らずして、居る所、接する所に長ずると為す。

 

 

 

  横渠(おうきょ)先生が言われた、

『小児に教えるということは、先づ落ち着かせ、敬わせることが肝要です。 近世の学では、これを言わなくなったので、男女とも幼い時より、驕(おご)り惰(おこ)たって、駄目になってしまい、長じてからは、益々心が悪くねじ曲がってしまいます。

 ただ未だかつて子弟として長上を敬うことが有りませんので、親に対しても、自分と対立する物と考え、喜んでへりくだろうとはしません。

 この病の根は、常に在り、また何処に居ろうと、常に成長し、死に至るまで、治ることは有りません。

 師に付いて弟子となっても、拭き掃除や掃き掃除、客の応対などをして安んじることができません。

 朋友に接する時にも、朋友に、へりくだることができず、上役に対しても、へりくだることができず、例え宰相と為ったとしても、天下の賢人に、へりくだることができません。

 甚だしい時には、自分の意見を押し通すことによって、正義も道理も、すべて失ってしまっても、まだ病の根は除かれず、居る所と接する人に随って、成長するのです。』と。

 

 

 

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 また、朱文公は『小学』の冒頭に於いて、次のように序しています。

 

 

  古の小学は、人に教うるに、灑掃(さいそう)、応対、進退の節、親を愛し長を敬い師を隆(たっと)び友に親しむの道を以ってす。 皆、身を修め家を斉(ととの)え国を治め天下を平らかにするの本となす所以にして、必ずそれをして講じて、これを幼穉(ようち)の時に習わしむ。 その習、智とともに長じ、化、心とともに成り、扞格(かんかく)して勝(た)えざるの患(うれい)無からんことを欲するなり。 今、その全書は見るべからずといえども、伝記に雑出する者、また多し。 読む者、ただ古今宜しきを異にするを以ってして、これを行うこと莫(な)かれども、殊に知らず、その古今の異なる無き者は、もとより未だ始めより行うべからざるにはあらざるを。 今、頗る蒐輯(しゅうしゅう)して以ってこの書となし、これを童蒙(どうもう)に授け、その講習に資す。 庶幾(こいねが)わくは、風化の万一に補(おぎない)有らんかと爾云う。

淳煕(じゅんき)丁未三月朔旦、晦菴(かいあん)題す。 

 

 

 

  古の児童教育は、拭き掃除、掃き掃除、客の応対、立ち居振る舞いの規則、親を愛すること、年上を敬うこと、師を尊ぶこと、親友の道などであり、皆、これで身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平らげることなどの本とされていましたので、必ず、これを教えなくてはなりませんでした。

  これを幼稚な時から習えば、習いながら知識が長じ、導かれながら心が磨かれ、物事がうまく進まないときにも、堪えられないということが無いからなのです。

  今、その全ての書籍に目をとおすことはできませんが、さまざまな伝記などに、しばしば見る所を、読んでみますと、往々にして、古と今とで、道理が異なっておれば、行うことはありませんが、古と今とで異なっていないのであれば、かたくなに始めないうちから行うべきでないとする例は無いのです。

  今、その例を、かなり多く蒐集して、この書としました。

  これを児童に授けて、その学習の資(もとで)とされ、願わくば、風化して失われることの万一に備えていただきたいと、こう思うのであります。

淳熙(じゅんき)丁未三月朔旦、晦菴(かいあん)記す。

 

 

 

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  私なんぞは、こんなことはごく当たり前の道理として受け止めておりましたが、世の遷り変りは激しくて、そんな人は稀になってしまいました。

  拭き掃除、掃き掃除、客の応対、立ち居振る舞いの規則、親を愛すること、年上を敬うこと、師を尊ぶこと、親友の道。

  これを教えられれば、将来どんなに役に立つことか、これを教えられないことが、将来どんな損を招くことか、近く改正されるという教育基本法も、気分を一新して、ここに立ち返ってみてはどうでしょうか。 どのような理想も、しっかりした土台の上にこそ建設されるべきであり、教育の基礎は、まさにここに置かなくてはならないのです。

 

(1)先ず掃除。 児童は、例え貧しくとも、身の回りを、清潔に美しく保つことにより、どんな貴人が家に来ても即座に対応できることを学ばねばなりません。 更に、これは心を美しく保つことの基でもあります。

(2)客の応対。 児童は、正しい応対は、身分を超えたものであることを学ばねばなりません。 幼少時より、身に着けることによって、誰に対しても、気後れすることなく、傲慢になることもなく、自然な自信を得ることができます。

(3)立ち居振る舞いの諸規則。 美しい立ち居振る舞いは高貴な身分を暗示するものです。 現在、低い身分に在るとしても、自然と人々に敬われ、地位も上がるものです。 これを得た児童は、真に幸福への切符を得たのと同じです。

(4)親を愛し、年上を敬い、師を尊ぶこと。 善い教えは、皆この人たちから得ます。 愛し敬い尊ぶことによって、初めて真に良いことを学ぶのです。 現代は、単に知識を得ることでは、別にこれ等の人を必要としなくなりました。 しかしそれでもなお、これ等の人からしか得られないこともあるのです。

(5)親友の道。 善友は出会いがたく、友情は、また続きがたいものです。 かすかな手がかりを友情に発展させ、保たせる道は、やはり相当に重要なことです。 児童に、それを教えれば、将来どれほど役に立つか、計り知れないものが有ります。

 

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以上、ささやかながら今年の新入生への祝いの言葉と致します。

どうかつつがなく学校生活をお楽しみください。

 

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次は、新しく老人の仲間入りをされた方に向けて

祝いの言葉を述べさせていただきます。

 

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世の中には、いろいろ賞というものがございまして、ノーベル賞、フィールズ賞等々、一一挙げるに暇ございませんが、もし言葉に対する賞というものがありさえすれば、是非差し上げたいと思っておりますのが、『老人力』という言葉です。 

美術、および言論界の重鎮に赤瀬川原平という方がおられまして、この方が発明されました。 まことにこの方に向かっては、人類ならば誰であろうと、足を向けては寝られない所なのであります。

 皆様も、とうにご存じのことでございましょうから、くだくだしく説明はいたしませんが、例えば、『近頃、物忘れがひどくなった』と言う代わりに、『近頃、老人力が着いてきた』と言うのです。 

この他にも、『体力が衰えた』、『知力が衰えた』、『重い物が持てなくなった』、『緊張感がとぎれる』、『目がかすむ』、『耳が遠くなる』、『精力が減退した』、『固い物がかめない』、『手足がしびれる』等々、このようなあらゆる老人の徴候は、皆、『老人力が着いた』という一言により、めでたいものに変わってしまい、それによって老人は気分が安泰になるという、現代医学をはるかに超越した、まさにノーベル平和賞ものなのであります。

 

 

世の中には頭の良い人もいるものだぐらいで、それほど気に留めていたわけでもございませんが、このほど私にも、相当に、老人力が着いてきたことを、見事に立証する機会にめぐまれましたので、私事で恐縮ですが、ご報告いたしたいと思います。

三月某日、夕飯のおかずは、二日前のおでんの残りでした。 何かいやな気がしましたが、別に何ともなっていないようでしたので、それを食って、寝に着きました。 真夜中ごろふと目を覚まして、覚めたその原因を探ってみますと、腹の辺りに何やらかすかに違和感を憶えております。

さては、先ほどのおでんの残りがあたったか、いろいろ腹をふくらませたりへこませたりしている中に、どのようにして力の加減を間違えたものか、尻にぬるりとした感触を得ました。

これはいけない、慌ててベッドから飛び降りて、その辺りを見てみますと、やはり証拠の物が、平穏そうに寝ております家人を大声にて起し、後は良きにはからえと言い捨てますと、慌てて風呂の残り湯に漬かり、身体の汚れをさっぱり洗い落しまして、すでに取り替えられておりました所の新しいシーツにくるまり、再度夢の中の安楽世界へと還って行ったのでございます。

 

さて、問題はその二三日後のことです。 新しい雑誌を持ち込んだので、つい風呂で長湯をしてしまいました所、ちょっとばかり心臓が苦しくなってきました。 洗い場に降り立ってみると、これがなかなかどうして、すでに立てなくなっております。 ざら板の上にしゃがみ込み、水道の水をかぶったりしておりましたが、段々と目がかすみ、頭もくらくらしてきましたので、風呂の扉につかまって起ちあがり、見えない目で何とか廊下まで出て、そこでひっくり返ってしまいました。

その後、上から下から、孔という孔は、すべて全開になってしまい、辺り一面、目も当てられないありさまで、何やら表現の領域を超えてしまったのです。 

しかしさすがにとでもいいますか、事が終ってみますと、一切気落ちすることなく、何やら妙に達観したような、誇らしげな気分になっており、家人をあきれさせたような次第でございます。

輝かしき老人力は、ついにこの身に着いたということが、証明された瞬間でした。

 

なんと、老人力の偉大さとは、実にかくの如し、

皆様方にも、是非身に着けられるようお勧めします。

 

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後日、関係者一同は、これを祝って、賞状と賞品(キャノン、パワーショットG7)を進呈してくれました。

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お見事!!

 

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【これがその賞状と賞品で撮った記念写真です】

 

頂戴した賞状

 

 

賞品のカメラで撮った著者近影

 

 

 

 

 

小学一年生 終り