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日だまり |
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朝は、七時半に起きます。 おかゆ一膳、または食パン一枚のごく軽い朝食を食べながら、新聞にかるく目をとおすと、もう八時半。 老人は、これから更に、昼ご飯まで一眠りするのが、この所の日課です。 これが、最近ではどうも、布団の中が気持ちよくて、やや起きづらくなってきました。 二月だというのに、もう一つピリッとしないのは、やはり暖冬のせいでしょうか。 布団の中で、うつらうつらしておりますと、やがて子供の頃の記憶が出てまいります。 日なたぼっこの記憶です。 皮膚に痛いようなピリピリした寒気を感じながら、木綿の綿入れを着て、よく日の当たる、暖かい石垣にもたれていました。 顔いっぱいに、明るい日の光を受け、目を閉じて、太陽を見ますと、明るい緑色がまぶたの内に広がり、やがて赤になり、黄色から白に変わってゆきます。 多くの色彩が現れては消え、うごめいて万華鏡のように、飽きずに眺めていました。 あの頃は、また縁側に干した布団の中でも同じように、寝転んで目をつむり、まぶたの中の色彩のうごめきを、飽かず見ていました。 布団が熱でふくらんで、雲の上に寝ているようです。 ******************** 暖かい石垣からは、トカゲが顔をだし、チョロチョロと這いながら何処かへ行きます。 青紫の金属的な光を身に纏い、黒いガラス玉のような小さな目で、物珍しそうに、こちらを見たりしています。 ヘビに睨まれると身がすくんでしまいますが、この愛すべき小動物は、ちゃんと手足のあるカエルの仲間で少しも恐ろしくありません。 実際何度かは手で触れて、つまんで両手の囲いの中に動き回らせたことも有ります。 カナヘビという仲間もいました。 茶のかすり模様の光沢のないトカゲで、いくぶん大きく、顔も少し恐ろしげです。 これはどうも親しくなれそうにもありませんので、無視して、もっと他に何かいないかと、目を転じ、アリの行列を見付けます。 いろんな物を運んでいます。 虫の死骸に群がっていたり、引っ越しでもするのでしょうか、小さな卵を運んでいるのもいます。 アリの行列は、また遊び相手でもあります。 行列を指で遮って、腕に上らせようとしたり、 地面に溝を掘って、行方を変えようとしたり、小さな池を作って、そこへ導いたり、さまざまな遊びの工夫が生み出されました。 地蜘蛛は、薄い膜でできた細長い筒状の巣を地中に作る、蜘蛛の仲間です。 石垣にその巣の端の部分が十センチほどへばりついています。 それを剥がして根気よく、力を入れすぎてちぎってしまわないように、注意深く引きずり出しますと、残りの十センチを手に入れることができます。 この薄い膜でできた細長い巣の底にいる地蜘蛛は、これもなかなか楽しい遊び相手です。 巣から取り出して掌で包みますと、もぞもぞ動きますので、くすぐったい所を我慢するのがなかなかです。 それから、あれは正確には何か、よく分かりませんが、アリ地獄のような者もいました。 かちかちに乾燥した地面に、ぽつぽつと無数の穴があいています。 そこにネギの青い部分を細くしたような、らっきょうの葉を差し込んで置きますと、やがてその中の何本かが動きますので、その穴に何かがいるのが解ります。 ゆっくり引き出して、細長くて二センチほどの芋虫のように柔らかく、節ごとに何本かの短い足のある、カイコのような者を手にいれますが、これは他に遊びようがないので、直ぐに捨ててしまいます。 ********************* 日だまりの石垣と地面との境には、小さな花も咲いています。 松葉ボタンは、紅、赤、緋、朱、黄、紫、ビロードのような光沢を放っています。 それをもっと小さくしたような者は、赤紫のハート型の葉が有り、黄色い小さな花を付けます。 この葉を噛むと、スッパイ味がします。 水仙が咲くと、もう春は間近です。 徐々に春めきながら次から次と、花が咲きます。 沈丁花からは強い香りが、あたり一面にただよい、処々に咲く紫のモクレンは、わが家の春の象徴です。 不思議な花と、葉に目を奪われる泰山木は、まだ芽が堅いままです。 六月まで待たなくてはならないでしょう。 ********************* |
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***** *** * どうも老人の妄想は、あらぬ方に向かい、いささか残念な結末に終ってしまいましたが、布団の中なんぞで、うつらうつら考えていますと、思いはいつしか往時の寺の境内に替わります。 時は、昭和二十年代の半ば、折しも春の彼岸会の真っ最中。 ――境内中に溢れんばかりの人、人、人。 ざわめきと喧噪。 ――門から本堂に至る敷石の通路の両側には、ひしめき合って並ぶ出店。 ――皆、戸板一枚を一組の脚立の上に置いただけの、粗末な店。 ――竹を組んだ棚には、セルロイドのお面、桃太郎、赤鬼、青鬼、翁、般若‥‥。 ――ブリキの玩具、ボンネットとトランクの広いアメリカ車、電車、消防車、飛行機‥‥。 ――氷をカンナで削って型に入れ、ぎゅっと押して赤青の砂糖水を掛けた氷菓子。 ――赤青黄緑、小さな瓶に入ったニッキ水。 ――ガラスの棚に入った外郎(ういろう)。 ――スマートボール。 パチンコ。 射的。 ――自転車の荷台の上のアイスクリームの箱。 ――紅白の幔幕を迴らせたのは甘酒の店。 豆腐に味噌を掛けて焼く田楽の店。 ――早咲きの彼岸ザクラは満開です。 人々は、ちょっと早めのお花見を兼ねて、ぞろぞろと本堂の中へ入って行きます。 本堂からは、チンチンチンという伏せ鐘の音がします。 午後一時、ちょうど先祖供養の第一座が始まりました。 大勢の僧が、声を合わせて称える念仏。 本堂に入ると、もう坐る場所も無いほどの、黒山の人。 がやがやと堂内に響く喧噪。 子供の叫び声。 内陣の向かって右の柱の内側に設けられた、高さ一メートルばかりの高座。 折しも高座では、諷誦文(ふじもん)を供養しています。 『それ、諷誦文の書、つらつらおもんみれば、 秋の月は明るく照らせど、無明の雲厚く覆いて、‥‥ 三界を空しくさまよいて、出でんと欲するも、頼る所、これ無く‥‥』。 諷誦文というのは、以前にちょっと説明したこともあります、無常偈(むじょうげ)の日本語版で無数に有ります。 その一つを読んで、先祖を供養します。 沢山の先祖を供養しますから、諷誦文の全部を読み上げることは無く、ただ最初の方を少しだけ読んで、後は供養する先祖の戒名、念仏少々という所です。 先祖供養を小一時間行いますと、お目当ての説教が始まります。 その後また供養、また説教、二座の供養と二座の説教、これで一日の行事が終ります。 説教は、多くは各宗派の専門の僧が行いますが、住職が行うこともあり、また宗派に関係なく、処々から呼ばれる、特殊な説教師が、或は石童丸、或は安珍清姫などを、持参の掛け軸を竹で指しながら、独特の節回しで語ることもあります。 中には大スターなみに名前を知られた説教師もいました。 何しろ娯楽の無い時代です。 近隣の人に取っては大変な楽しみでした。 しかも、全くの無料ですから、現金収入の無い村人も安心です。 そんなわけで、老若男女、実に大勢の人が集まったものです。 休みの日には子供も、集まりました。 本堂の東西をしめきって、梁に掛けられた十幅の地獄絵が見たいのです。 結構な事です。 因果の理法は、ここで学んでいたのですね。 ――鉄の檻に入れられて、上から柄杓で熱湯をかけられている男女。 ――柱に縛りつけられて、ノコギリで頭頂からまっぷたつにされている男女。 ――後ろ手に緊られて、頭を鉄棒で割られている男女。 ――皮を剥がれ杭に吊された赤剥けの男女。 ――板に貼り付けられて鞣される男女の皮。 ――板の上に縛りつけられて、腹をノコギリで挽かれている男女。 ――巨大な金網の上で、こんがりと火に焼かれている男女。 ――巨大な鉄鍋で、からからと煎られている男女。 ――巨大は大釜で、ぐらぐら煮られている男女。 ――巨大な臼と杵とで、ぐちゃぐちゃに砕かれる男女。 ――槍に串刺しにされて、 ぐるぐると火に炙られる男女。 ――人面の蛇に、ぎゅうぎゅう締め付けられる男女。 ――まな板の上で、三枚に下ろされ、刺身にされる男女。 ――熱した鉄棒を渡らされ、火の坑に墜ちる男女。 ――針の山に登らされる男。 ――舌を抜かれる男女、‥‥等々無数です。 そう、いくら昔の人でも、こんなことを頭から信じていたわけではありません。 しかし、何かの役には立っていました。 これは 良いものです。 何をしてはいけないか。 何をしなければならないか。 一目で解り、骨身にしみます。 勿論、これは架空の事です。 それでいて真実なのです。 こんな良いものを、 なぜ捨てて しまったんでしょうね。 昔の人は、学問が無いから 愚かであると思って いませんか? 智慧は 生活の中で 得る方が むしろ 多いと 思うの ですが。 現代は 楽である分 生活は 薄れて いるのかも 知れませんね。 ∬∬∬∬ そろそろ時間ですが、まさか地獄の所で終るわけにもまいりませんので、彼岸について、少しばかり話しておきましょう。 ****************** 彼岸は、春と秋とに二回、それぞれ夜と昼との長さが同じになる日、春分と秋分の日を挟んで、前後に三日づつの一週間をいいます。 この春分と秋分とは、ちょうど太陽が真西に没むのですね。 真西とは、この太陽の没む方に西方極楽浄土が在るのです。 この方角に正しく向かって、没む太陽を拝めば、正しく極楽浄土の阿弥陀如来を拝むことができると、こういう訳なのです。 よく考えたものですね。 何しろ極楽は、十万億土という想像を絶する距離を超えて往かなくては行き着けない所です。 こちらで、ほんの僅か角度が狂えば、遠く往くほど距離が離れてしまいます。 それを考えたのです。 ですから、春分と秋分とは、中日(ちゅうにち)といい、彼岸の中でも、また特別の日なのです。 この日ばかりは、地獄の事は忘れて、楽しい極楽に思いを馳せましょうということで、各寺院では、特別豪華な演出をします。 美しい行列をするのですね。 天人に扮する四十人ほどの稚児には、化粧を施し袍(ほう)を着せ、額にはぽちぽちと赤い点を二つ付け、母親親戚一同も美しい色紋付きです。 僧侶もこの日ばかりは、縁故の寺の十人ばかりの高僧が集まり、色の着いた衣と、金襴の袈裟を纏い、金襴の帽子をかむって、笙、ひちりきの音とともに行列します。 極楽を地上に演出するので、美しく楽しい出し物です。 しかも、稚児は必ず泣き出して、にぎにぎしく演出に花を添え、喧噪に拍車をかけて、見物人は大いに喜ぶというわけです。 ∬∬∬∬ 彼岸会というものは、仏教が日本で、祖先を供養するという習俗と出会い、花開いた美しい文化です。 ずーっと続けば良いと思うのですが、それもどうも昔のままという事は無理のようです。 では、皆様、来月までご機嫌よう。 |
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(日だまり 終り) |