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日嗣の皇子(ひつぎのみこ) |
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*********************************** 平成十八年九月六日十二時、小雨、車中のラヂオより 秋篠宮妃紀子さまに男児誕生の知らせ聞き、感慨胸に迫ること有りてつい作れる歌二首
(訓み、天:あめ、天つ:あまつ、日嗣:ひつぎ、生れます:あれます、皇子:みこ、幸く:さきく、) 君が世は千代に八千代に、皆様まずはお目出度うございます。 |
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爽やかな話の後では甚だ恐縮ですが、どうもただ今現在の世の中を称して”格差社会”といいますそうで、あらゆる悪は格差が生み出しておることを知らない人はおるまいと思っておりました所が、いやそうではない格差は必要なのであってこれでよいのだと、偉い人も偉くない人も世を挙げて言っておるような気がしております。これはあるいは被害妄想というものですかも知れませんが。 まあそんな気でおりますと、何やら怒りが溜まってまいります。 そこで今月はその怒りを爆発させた人の話をしてみたいと思うのです。 誰に問うまでもなく、天台宗を開いた伝教大師と、真言宗を開いた弘法大師とは日本仏教史上空前の双璧と言ってもよいのであります。この両巨頭がぶつかり合いました、というか伝教大師が友好的にただ本を借りようとした所、いきなり弘法大師がハードパンチを喰らわしたということなのです。 ここで相手もお返しをすれば面白いのですが、さすが伝教大師、黙って引き下がってしまいました。 皆様には、これから暫く弘法大師のこのハードパンチの威力を味わっていただきましょう。 友好的な言葉の内に込めた猛毒、これが見所です。 仏教の初心者のためにあえて補足いたしますと、中国で法華経を学んで帰った伝教大師は密教も取り入れてみたいと思い、その方面の専門家である弘法大師にしばしば経巻などを借り入れておりました。 しかし弘法大師にはこれが気に入りません、だいたい密教というものは秘密の教えというほどのものであるからには、経典や論書などいくら読んでみた所で理解できるわけがない。本当に密教を理解したいのであれば、わたしに暫く弟子入りしてみてはどうですか。 これに対して伝教大師は大人です、自分より歳も若く、位も低く、僧となって以来の年数も若い、そんな弘法大師の弟子になっても良いとお考えになったのです。 比叡山の方が忙しくてそんなに永く留守にするわけにもいきませんが、二三週間でしたら何とか。 いやとてもとても少なくとも二三年は。 それでしたら弟子をお預けいたしましょう、それに教えてやってください。――とこんな具合でありました。 そんな事がありまして、伝教大師が『理趣釈(りしゅしゃく)』という論書が必要であるによってどうしてもお借りしたいと手紙をよこした時に、とうとう弘法大師は怒りを爆発させてしまったのです。あんなに言ったのにまだ分からないのか。文字や言葉に表せるものではないとあれほど言っておいたのに。そんなに密教のことが知りたければ弟子になって修行しろよほんとに。とまあこんなことがこの返書には書いてあるのです。 しかしそれだけでは怒りを爆発させたとは申せません。 この手紙の内容は仏教用語が充満していますが、それが全てこれを教えてさしあげましょうと言う言葉のもとにあり、そしてそれは密教独特の用語ばかりではありません。仏教者ならば誰でも知っている常識的なことがほとんどなのです。 中には伝教大師の専門とする法華経からも引用しています。これはまるで相手を馬鹿にしきった態度なのであります。 しかしこれを非難できるでしょうか。禅宗坊主は棒を喰らって悟ります。 まして弘法大師は遍照金剛(へんしょうこんごう)とも言われ、大日如来とその説法の相手である金剛薩埵(こんごうさった)の名を戴いた、大日如来から数えて第八代の教主を自負しておられる方ですから、なぜ言葉にきぬ着せるような真似をする必要がありましょうか。 一方の伝教大師も非難するには当たりません。 大学の学長職は単なる研究者、教師には勤まりません。比叡山を一大仏教センターとなし、僧侶の階級を整備し、世代を次いで法灯を絶えざらしめるという願いを実現するためにはまた別の能力が必要なのです。世代を超えて見つめる冷徹なる目、これが伝教大師の特徴なのです。 このぶつかり合いの中に散った火花がこれがそれです。 |
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いかがですか。このようにして何度も読み返してみますと、なにやら冒頭の一句、「雪が寒うございます」の句にも、「ゾッとしたよ」というような意味が隠されているのではないかと、つい邪推してしまいます。 この手紙は明らかに相手を侮辱し罵倒しています。密教の奥義を伝えようとした手紙であるとなどは決して言えないのです。 仏教とは、そんな甘いものではありません。特に日本を代表するこのクラスでは常に真剣勝負なのです。歯に着せるための衣は教化すべき俗人のためにこそ用意されているのです。 読者はここを正しく読み取らなければなりません。しかしなかなか面白い手紙です。 |
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話は変わりまして、何でもあと四五年もいたしますと、わが家のテレビは役に立たなくなるそうで、近頃のテレビはなかなか壊れるようなものではございませんので、捨ててしまうというのも、何かこう内心忸怩たる想いがないわけでもないのですが、ここは一つ清水の舞台から飛び降りるつもりで、えいやッと放り投げてしまおうと、私は心の内で意を堅くしておりますのでございまして、 それと申しますのも、何うも最近番組が全然面白くない、何か見ていて不愉快になってくるようなものばかりで、これではいくら私が時間をもてあましているといいましても、わざわざ見てやるような義理はどこにもないんでございますから、テレビが無くなること自体は全然苦痛ではないんです。 ただ物としてまだ役に立つ物を捨てるのが気に食わないだけのことですから、ここは名より実を取ることにしようと思っているんです。 この頃の番組は、何ういうものか食い物の番組がやたら目に付きますようで、 私も食い物の話は好きでよくいたしますが、はたから見ていますと、どうも食い物の話というものは何か卑しげで浅ましいような気がしまして、他人さまの台所を指をくわえて見ているような、一種の気恥ずかしさを憶えてしまいます。 |
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前にも申したことがあります、何事も関連していて単独には起こらないと。そこでこれを読み解いてみますと、現在の世相がやはりここに現れているようでございます。 自信喪失――>飢餓状態――>痴呆状態――>想像力不足――>創造力不足 これぐらいは誰でも考え付くことですが、特にこの食い物に関する番組という観点から考えてみますと、想像力不足、これには思い当たることがあります。
これは極めて憂慮すべきことです。 道理で最近残虐な事件が多すぎる訳です。 想像力が無い為に自分の痛みとして感じられないのですね。 想像力は大切です。これさえ有れば何んな高級料亭、レストランでも思いのまま、吉兆辻留、トゥールダルジャン、タイユヴァン等々どこであろうと、一文無しのまま、まったく気後れせず、堂々と席に着いて、最高の料理を味わえるというのですから、これを身に着けておきますと一生食いっぱぐれがない。これは言いすぎですが、まあ人さまを見て、羨ましがる、妬ましく思うとか、こういうことが無くなるということぐらいは、或いは有ろうかと思うような次第なんです。 先入観なしで考えてみれば、何んな高級レストランでも一度食えば分かってしまいます、それらは決して上手くできた家庭料理に敵うものではありません。 お金にうんと余裕があれば別に何をなさってもかまわないのですが、なけなしをはたいてまで行く所ではないのですね。 大体にしてからですが、今時そう旨い物など食わせる所は、きっぱり言ってありません。 **************************** 当地方にも最近、神田の何がしとかいう有名そば屋の出店ができまして、子供の時からのソバ好きでもありますから久しぶりで本場のソバをと、かなり期待していましたが、これがまあ食ってみてびっくり、ソバツユがいけません。ざるソバの命のソバツユがいけないんですから、これはもう何うしようもない。 サバ節を多くして、カツオ節が少し、宗田鰹は行方不明。これではいくら打ちたて茹でたてのソバを誇っても、家庭で作る削りたてのカツオ節をたっぷり使ったものにはとても敵いません。 神田の本店がこれほどけち臭いとは決して思いませんが、テナント料に食われてしまうようでは、ソバのように値段の決まったものは苦しいに決まっています。 もう一つ、これも銀座のさる有名中華レストランの出店のことですが、十年前には高価でしたが確かにそれだけの物はありましたので、私も十年ぶりにそれを思い出しまして、八千円ほどの定食を注文したのです。しかしこれがいけません、以前の面影はかけらも残っていませんでした。 薄っぺらな見せかけだけの飾りで、何やら田舎モノを馬鹿にしたような、そんな料理が並んでいました。皿の縁が欠けていたのに至っては、目が点になってしまいました。
皆様も十分御注意なさってください。 |
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テレビというものは世の中を映す鏡です。何とも哀しいことです。 若者がただ食い物にしか興味が無いだなんて一体誰が信じられますか。 それでいて全くの味覚不全ときては、お気の毒をとおりこしてそろそろ心配になってきます。 自分の食っている物に自信がない、それで人の食い物が気になる、食ったのに食った気がしない。 想像力が有りさえすれば、人さまが何を食っていようと全然気にならない訳ですから、こんなことにはなる筈がありません。これで証明終りということでしょうか。 ************************** 近ごろ週刊誌などを騒がせております、あの崖から子ネコを放り投げて殺す人なども、何か特別の事情がおありなのかも知れませんが、何うもそういうんではなくて単なる想像力不足を来たしていらっしゃるのではないでしょうか。 しかし作家が想像力不足ではお困りではないかしらん、と同じ病を持つ者同士としてご同情申しあげます。 |
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こういう方の為には、お薬をお出ししましょうね。 ごく飲みやすいお薬をほんの少しお出ししましょう。 『ツバメと民衆への祈り』 (アッシジのフランチェスコ)
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日嗣(ひつぎ)の皇子 |