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日嗣の皇子(ひつぎのみこ)

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  平成十八年九月六日十二時、小雨、車中のラヂオより

 秋篠宮妃紀子さまに男児誕生の知らせ聞き、感慨胸に迫ること有りてつい作れる歌二首

 天晴れて見させまつれよ大神に天つ日嗣はけふぞ生れます

 ラヂオよりいま生れまししの知らせきく日嗣の皇子は幸くましませ

訓み、天:あめ、天つ:あまつ、日嗣:ひつぎ、生れます:あれます、皇子:みこ、幸く:さきく、

  君が世は千代に八千代に、皆様まずはお目出度うございます。

 

 

 

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 爽やかな話の後では甚だ恐縮ですが、どうもただ今現在の世の中を称して”格差社会”といいますそうで、あらゆる悪は格差が生み出しておることを知らない人はおるまいと思っておりました所が、いやそうではない格差は必要なのであってこれでよいのだと、偉い人も偉くない人も世を挙げて言っておるような気がしております。これはあるいは被害妄想というものですかも知れませんが。

 まあそんな気でおりますと、何やら怒りが溜まってまいります。

 そこで今月はその怒りを爆発させた人の話をしてみたいと思うのです。

 

 

 誰に問うまでもなく、天台宗を開いた伝教大師と、真言宗を開いた弘法大師とは日本仏教史上空前の双璧と言ってもよいのであります。この両巨頭がぶつかり合いました、というか伝教大師が友好的にただ本を借りようとした所、いきなり弘法大師がハードパンチを喰らわしたということなのです。

 ここで相手もお返しをすれば面白いのですが、さすが伝教大師、黙って引き下がってしまいました。

 皆様には、これから暫く弘法大師のこのハードパンチの威力を味わっていただきましょう。

 友好的な言葉の内に込めた猛毒、これが見所です。

 

 仏教の初心者のためにあえて補足いたしますと、中国で法華経を学んで帰った伝教大師は密教も取り入れてみたいと思い、その方面の専門家である弘法大師にしばしば経巻などを借り入れておりました。

 しかし弘法大師にはこれが気に入りません、だいたい密教というものは秘密の教えというほどのものであるからには、経典や論書などいくら読んでみた所で理解できるわけがない。本当に密教を理解したいのであれば、わたしに暫く弟子入りしてみてはどうですか。

 これに対して伝教大師は大人です、自分より歳も若く、位も低く、僧となって以来の年数も若い、そんな弘法大師の弟子になっても良いとお考えになったのです。 比叡山の方が忙しくてそんなに永く留守にするわけにもいきませんが、二三週間でしたら何とか。 いやとてもとても少なくとも二三年は。 それでしたら弟子をお預けいたしましょう、それに教えてやってください。――とこんな具合でありました。

 そんな事がありまして、伝教大師が『理趣釈(りしゅしゃく)』という論書が必要であるによってどうしてもお借りしたいと手紙をよこした時に、とうとう弘法大師は怒りを爆発させてしまったのです。あんなに言ったのにまだ分からないのか。文字や言葉に表せるものではないとあれほど言っておいたのに。そんなに密教のことが知りたければ弟子になって修行しろよほんとに。とまあこんなことがこの返書には書いてあるのです。

 

 しかしそれだけでは怒りを爆発させたとは申せません。

 この手紙の内容は仏教用語が充満していますが、それが全てこれを教えてさしあげましょうと言う言葉のもとにあり、そしてそれは密教独特の用語ばかりではありません。仏教者ならば誰でも知っている常識的なことがほとんどなのです。

 中には伝教大師の専門とする法華経からも引用しています。これはまるで相手を馬鹿にしきった態度なのであります。

 

 しかしこれを非難できるでしょうか。禅宗坊主は棒を喰らって悟ります。

 まして弘法大師は遍照金剛(へんしょうこんごう)とも言われ、大日如来とその説法の相手である金剛薩埵(こんごうさった)の名を戴いた、大日如来から数えて第八代の教主を自負しておられる方ですから、なぜ言葉にきぬ着せるような真似をする必要がありましょうか。

 

 一方の伝教大師も非難するには当たりません。

 大学の学長職は単なる研究者、教師には勤まりません。比叡山を一大仏教センターとなし、僧侶の階級を整備し、世代を次いで法灯を絶えざらしめるという願いを実現するためにはまた別の能力が必要なのです。世代を超えて見つめる冷徹なる目、これが伝教大師の特徴なのです。

 このぶつかり合いの中に散った火花がこれがそれです。

 

 

叡山の澄法師の理趣釈経を求めたるに答うるの書

 

 お手紙を頂戴いたし、深く慰められました。雪が寒うございます。

 顔を伏せれば思い出されます、

  天台宗の座主である法友は私に勝れ、それが常でございました。

 指を折って数えてみました、

  二人が友情の契りを結んでからもう何年になったのかと。

 常に思っております、

  膠(にかわ)か漆(うるし)のように着いて離れない友情の芳しさ、

  松柏(しょうはく、マツとヒノキ、共に常緑の樹)が枯れないように、

 二人の友情も枯れることがありません。

 それどころか乳と水のように、二人は溶け合って香り、

  その香りは芝蘭と競い合っています。

 

  芝蘭(しらん):芝は霊之(レイシ)、古木の根に生ずる芳香のある塊。蘭はキク科の蘭草、芳香がある。

 

 あなたは、

 止(し、禅定)と観(かん、観察)との両翼を広げて飛びあがり、

  高みから人も物も空であるという虚無の世界を見下ろし、

 禅定と智慧という千里の馬を駆け馳せて、三有(衆生世界)の内外を自由に行き来し、

 多宝如来と半座を分かって、釈尊に代わって法を弘めていらっしゃいます。

 このようなあなたの志と友情の契りとを、誰が忘れ誰が言わずにおられましょうか。

 

  止観(しかん):禅定と智慧、次々と起こる妄想を止めることにより、平等の智慧を起こし観察すること。鳥の両翼に喩える。仏教全体の教えであるが、天台大師智(ちぎ、天台宗の開祖)は『摩訶止観』著している。

  三有(さんう):欲界、色界、無色界の三界をいう。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道と同じ。

  多宝(たほう):多宝如来、東方宝浄世界の教主。入滅後に本願を以って全身舎利となり、諸仏が法華経を説くときに必ずその場に現前する。(『大智度論』巻第七)

  また釈迦が法華経を説いたとき、地より宝塔が涌出した。その塔の中に多寶仏と釈迦が座を分けて坐る。(『法華経』見宝塔品第十一)

 

 そうではありますが、天台宗の教えは、あなたでなければ伝えることができませんし、

  秘密の教えはわたくしが伝えようと誓うものでございます。

 あれこれと法を守り伝えることにいそがしく、談話している暇もございませんが、

  言わなくても分かるこの志を、いつの日にか忘れてもよいものでしょうか。

 このようなことを考えながら、封を開きよくよく拝読いたしました所、

  『理趣釈(りしゅしゃく)』をお求めのことと得心いたしました。

 しかしながらどうも納得いたし難く思われます、

 理趣という言葉は甚だ多くの意味を含んでおります、

  お求めになったのは、どの理趣を指して仰るのでございましょうか。

 

  理趣(りしゅ):覚りへ至る道をいう。

 

 そもそも理趣の道と、釈経(理趣釈)の文とは天でさえ覆うことができないほど広く、

  地も載せることができないほど重く、

 全世界を粉にして一塊にしたほどの墨と、河と海の水を全部尽くしても、

  これらの一句一偈の意味すら書きつくすことは、誰にもできないことなのです。

 わたくしたちが、一切を生み出すこと大地のごとき如来の心と、

 広く寛容なること大空のごとき菩薩の心とを持っていないのであれば、

  どうしてそれを信じ、理解し、受け、保持することなどできましょうか。

 

  わたくしは愚鈍ではございますが、簡単に釈迦の教えをお示し申しましょう。

 なにとぞ智慧の心を正し、戯れの論議を誡めて、

  理趣の意味と密教の奥義をお聴きください。

 

 そもそも理趣の意味は、妙にして広く無量無辺、思議し難きものでございます、

  そこで詳細ではなく簡略に、枝葉を捨てて根本のみということにすれば、

 ほぼ三種に分けることができましょう。

 

 一は聞く理趣、二は見る理趣、三は念(おも)う理趣でございます。

 

 もし聞く理趣をお求めであれば、聞かなければならないのは、

  あなたの声がそれでございます。

 その上に他人の口中にまで求めてはなりません。

 

 もし見る理趣をお求めであれば、見なくてはならないのは、

  あなたの身体がそれでございます。

 その上に他人の身辺にまで求めてはなりません。

 

もし念(おも)う理趣をお求めであれば、

 あなたの一瞬ごとの心中に本来備え持っておられます。

その上に他人の心中にまで求めてはなりません。

 

 また別の三種もございます。

 心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣と申します。

 

 もし心の理趣をお求めであれば、

  あなたの心の中にございます。

 別人の身体の中にまで求めてはなりません。

 

 もし仏の理趣をお求めであれば、

  あなたの心の中にある仏性がそれでございます。

 または諸仏の辺にお求めになればよろしいでしょう。

 凡愚の者の辺にお求めになるものではございません。

 

 もし衆生の理趣をお求めであれば、

  あなたの心中には無量の衆生がお有りです。

 そこにお求めください。

 

 また三種あります。

 文字と、観照(観察)と、実相(真如、真実なるもの)と申します。

 

 もし文字を求めるのであれば、

  文字とは声の調子が上がり下がりすること、

 これは物ではありませんので、お求めになっても困ります。

 

 紙と墨が和合して生み出した文字をお求めならば、

  あなたの所にもきっとそれが有りましょう。

 あるいは筆と、紙と、文章博士の辺にお求めになってはどうでしょうか。

 

 もし観照をお求めであれば、

  観るものは心、観られるものは心に映った世界です。

 物でないものを誰が取り、誰が与えることができましょうか。

 

 もし実相をお求めになっているのであれば、

  実相は見ることも聞くこともできません。

 見ることも聞くこともできなければ、虚空(大空)と同じです。

 あなたの所にも空はございましょう、その外のものを求めないでください。

 

 

 また理趣釈経と言われておりますものは、

  あなたの身と口と意(こころ)の行為がそれです。

それが釈経なのです。

 あなたの身と口と意とは空であり、わたくしの身と口と意も空なのです、

  これを誰が求め誰が与えることができましょうか。

 

 また別の二種もごさいます。

 あなたの理趣と、わたくしの理趣がそれです。

 もしあなたの理趣をお求めであれば、

  それはあなたの辺にございます。

 わたくしの辺にお求めにならないでください。

 

 もしわたくしの理趣をお求めであれば、それには二種のわたくしがあります。

 一はわたくしの身と心、これを化我(けが、仮の我)と申します。

 二は無我、これを大我(宇宙と一体化した我)と申します。

 

 もしわたくしの身と心、即ち仮我をお求めであれば、

  化我は空であって実体はございません。

 実体がない者を、何をお求めになって得ることができましょうか。

 

 もし無我の大我をお求めであれば、

  大日如来の三密(秘密の身口意の行い)がそれでございます。

 

  三密(さんみつ):三密とは仏の力の働きで思慮の及ばない世界であり、身口意の働きが隠されていることをいう。また衆生の三密とは衆生の本性は仏と同じであることからいう。

 

 大日如来の三密(身口意)は至るところに遍満しており、無いところはございません。

  あなたの三密(身の行い、言葉、想い)がそれなのです。

 外に求めることが適当であるとは申されません。

 

 またわたくしには、未だ知ることができないでおりますが、

 あなたは仏の化身でしょうか、

 それともただの凡夫(ぼんぶ、凡人、聖人と対の言葉)と考えてよろしいのでしょうか。

 

 もし仏の化身であれば、

  仏の智慧に欠けたものはございません。

 何が欠けているとて、懸命に探し求めていらっしゃるのでしょうか。

 

 もし修行中の仏であって、探し求めていると仰るのであれば、

  昔、釈尊が外道に仕えたように、

  文殊菩薩が釈迦に仕えたようになさってはどうでしょうか。

 もしただの凡人であれば、

  当然仏の教えには随うべきでしょう。

 

 仏の教えに随うということは、

  仏の心に外れてはならないということなのです。

 仏の心に外れて非法に教えを授受すれば、

 伝える者にも、受ける者にもそれは無益なことなのです。

 

 そもそも密教の興廃は、

  ただあなたとわたくしとにだけかかっております。

 あなたがもし非法に受け、わたくしがもし非法に伝えたならば、

 将来の法を求める人は、

  道を求めるということの意味を、何によって知ることができるでしょうか。

 非法に伝受することを法を盗むと申します、

 これは仏を欺くことなのです。

 

 また密教の奥義を文にすることは貴ばれておりません。

 ただ心から心に伝えることを貴ぶのです。

 

 文は、これは糟粕(そうはく、酒粕)、これは瓦礫なのです。

 糟粕や瓦礫をお受けになれば、大切な真実を失ってしまいます。

 真を捨てて、偽を拾うのは、愚か者のすることです。

 愚か者のすることに、あたたは随わないでください。

 もうお求めになりませんよう。

 

 また、昔の人は道の為に道を求めておりました。

 今の人は名利の為に道を求めております。

 名の為に道を求めるのは、道を求めようという志ではありません。

 

 道を求めようとする志は、自分を忘れて求めるものなのです。

 昔、転輪聖王(てんりんじょうおう、全世界を支配する王)が

 仙人に仕えたようになさらなければなりません。

 

 道々お聞きしてお答えになることは、釈尊もお許しになっておりますが、

 聞く時と、聞く人が相応しくないときには、

  黙然としてお答えになりませんでした。

 

 それはなぜかと申しますと、法とは思考し難いものです、しかし

  心から信じておれば理解することもできるのです。

 口で信じております、修めますと言っておりましても、

 心が嫌い、それから逃げようとするのであれば、

  頭が有って尾の無いものと同じです。

 

 言っても行わないのであれば、

 信じ修めていたとしても、それは信じ修めることにはなりません。

 素直から始まって君子(道を得た人)に終る、

 このような人でなくてはならないのです。

 

 世の人は宝女を嫌って、卑賤の女を愛し、

 宝珠を笑って、燕の巣にある石を大切に包み、

 描かれた偽の龍を好んで、真の龍を見逃し、

 仏を助けた乳粥を憎んで、金銭を作る真鍮を宝としている。

 背に瘤のある者が、左手を切って治すというような迷信もこれであります。

 

  乳粥(にゅうじゅく):乳糜(にゅうび)、釈迦は苦行を止め、乳粥を食べて覚りを開いた。

 

 濁った水(けいすい、河の名)と、澄んだ渭水(いすい、河の名)とを区別できないならば、どうして醍醐(だいご)の最高の美味を知ることができましょう。

 

 顔の美醜を知ろうと思えば、まず鏡を磨かなくてはなりません。

 なぜ鏡を造る水銀があるかどうか議論なさるのですか。

 

 波風に騒ぐ心の海を渡って、彼岸に到達しようと思うのであれば、

 まず船をこがなくてはなりません。

 船や筏(いかだ)が空であるか、実であるかを談じておる場合ではないのです。

 

 毒矢に射られたならば、まず抜かなければなりません。

 抜かずにその矢がどこから来たのか、訊ねておられるのはなぜでしょうか。

 

 道を聞いても動かなければ、千里も先のものをどうして見ることができましょう。

 泥で作った団子を、二つばかり投げつけることでさえ、

  鬼を追い返すことができます。

 仙薬をひとさじ掬って飲めば、仙人になることもできます。

 

 しかし、たとい千年の間、薬学書や医学書を読んだところで、

 それだけでは、この身が病んだとき、どうして治すことができましょうか。

 

 百年の間、八万もある仏法を談論したところで、

  どうして煩悩を除くことができましょう。

 

 自ら進んで海の水を酌みつくす信頼と、鎚を磨いて針にする努力の人でなければ、

 どうして直ちに覚るという教えを信じ、思議し難い密教の修行をすることができましょう。

 

 止めましょう、止めましょう。捨て置きましょう、捨て置きましょう。

 わたくしも、そのような人に会ったことはございません。

 

 しかし、その人は遠くにいるのではありません。

 信じて修めれば、それがその人なのです。

 

 もし信じて修めておるならば、

 男女を問わず、皆その人なのです。

 貴賎を択ばず、誰でもその器(法を入れる器)であるのです。

 

 その器が来て玄関の鐘を打ち鳴らせば、谷中に響き渡ることでしょう。

 決してわたくしに聞こえないことはございません。

 

 妙薬が篋(こばこ)に満ちていても、嘗めなければ無益です。

 珍衣が櫃(ひつ)に満ちていても、着なければ寒いではありませんか。

 決して法を惜しむのではございません。

 

 阿難は仏の近くにいて多く聞いておりますが、

 これで良いというわけにはまいらないのです。

 

  阿難(あなん):釈尊の十大弟子の中の多聞第一。仏に近侍して常に法を聞く。

 

 釈迦は精進して勤められました。

  よい手本が近くにあるではございませんか。

 何を見ても手本になるのです。

 

 悲しいかな。今は濁世(じょくせ)でございます。

  釈迦も濁世には涅槃に入ってしまわれます。

 釈迦のお弟子たちも、大乗を聞いては五千人が退出してしまいました。

 

  濁世(じょくせ):五濁(ごじょく)、五つの世の中の濁り。

    (1)劫濁(こうじょく):末世という時代のもつ汚れ、飢饉、疫病、天災、戦争をいう。

    (2)見濁(けんじょく):邪悪な思想、見解が栄える。

    (3)煩悩濁(ぼんのうじょく):貪欲、瞋恚等の、さまざまな悪徳がはびこる。

    (4)衆生濁(しゅじょうじょく):衆生の質が落ち、身体は衰弱し、苦は多く、福は少なくなる。

    (5)命濁(みょうじょく):人の寿命が短くなる。

  五千:釈迦が法華経を説こうとするとき、五千の弟子が『我等はすでに妙果を得たり、聞くまでもなし』として退席した。(『法華経』方便品第二)

 

 毒を塗った鼓を打ち鳴らして人を殺すように、

 仏の声は悪を滅して、その慈悲は無辺ですが、

 干将(かんしょう、名剣の名)は、

  刀剣師干将と妻の莫耶(ばくや)との非常なる努力のたま物であり、

  熱した鉄を水に入れて堅くするようなことまでしなくてはならないのです。

 

  毒鼓(どくく):毒を塗った鼓を打ち鳴らすと人を殺すことができる。同じように、仏常住の声も衆生の犯す十悪(殺生、偸盗、邪婬、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)を殺害する。

  干将(かんしょう):刀剣師干将は妻の莫耶(ばくや)と非常なる努力の末、二口の剣を造り、それに干将と莫耶と名づけた。

 

 諸師の誡めは慎んで聞かなくてはなりません。

 

 あなたが、もし身命を護るように、密教の戒律を守って、非法に授受することをせず、

 眼目を愛するように、四重禁戒(婬戒、盗戒、殺人戒、妄語戒)を堅持して、

 

 教えのように観(観察)を修め、墓穴に臨んで功績があれば、

 如来の秘密の印(認許)も、また戻ってくることもあろうかと思います。

 お待ちになってみてはいかがでしょうか。

 

 このようになされば、転輪王が髻(もとどり)の中に秘蔵する明珠ですら、

 誰が隠し誰が惜しむことがございましょう。努力して御自愛ください。

 使いの者の還るに詫して、ここに一二を示します。  釈遍照(しゃくへんしょう、空海

 

  髻中の明珠(けいちゅうのみょうじゅ):転輪聖王の髻(もとどり)の中に秘蔵された珠。聖王は衆兵の中の手柄により、あらゆる物を与えたが、ただこの珠だけは与えなかった。この秘蔵の宝は法華経に喩えられる。(『法華経』安楽行品第十四)

 

 

 

 いかがですか。このようにして何度も読み返してみますと、なにやら冒頭の一句、「雪が寒うございます」の句にも、「ゾッとしたよ」というような意味が隠されているのではないかと、つい邪推してしまいます。

 この手紙は明らかに相手を侮辱し罵倒しています。密教の奥義を伝えようとした手紙であるとなどは決して言えないのです。

 仏教とは、そんな甘いものではありません。特に日本を代表するこのクラスでは常に真剣勝負なのです。歯に着せるための衣は教化すべき俗人のためにこそ用意されているのです。

 読者はここを正しく読み取らなければなりません。しかしなかなか面白い手紙です。

 

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 話は変わりまして、何でもあと四五年もいたしますと、わが家のテレビは役に立たなくなるそうで、近頃のテレビはなかなか壊れるようなものではございませんので、捨ててしまうというのも、何かこう内心忸怩たる想いがないわけでもないのですが、ここは一つ清水の舞台から飛び降りるつもりで、えいやッと放り投げてしまおうと、私は心の内で意を堅くしておりますのでございまして、

 それと申しますのも、何うも最近番組が全然面白くない、何か見ていて不愉快になってくるようなものばかりで、これではいくら私が時間をもてあましているといいましても、わざわざ見てやるような義理はどこにもないんでございますから、テレビが無くなること自体は全然苦痛ではないんです。

 ただ物としてまだ役に立つ物を捨てるのが気に食わないだけのことですから、ここは名より実を取ることにしようと思っているんです。

 

 この頃の番組は、何ういうものか食い物の番組がやたら目に付きますようで、

 私も食い物の話は好きでよくいたしますが、はたから見ていますと、どうも食い物の話というものは何か卑しげで浅ましいような気がしまして、他人さまの台所を指をくわえて見ているような、一種の気恥ずかしさを憶えてしまいます。

 

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 前にも申したことがあります、何事も関連していて単独には起こらないと。そこでこれを読み解いてみますと、現在の世相がやはりここに現れているようでございます。

 

自信喪失――>飢餓状態――>痴呆状態――>想像力不足――>創造力不足

 

 これぐらいは誰でも考え付くことですが、特にこの食い物に関する番組という観点から考えてみますと、想像力不足、これには思い当たることがあります。

想像力が無いので、極めて現実的なことにしか興味が持てない。

 これは極めて憂慮すべきことです。

 道理で最近残虐な事件が多すぎる訳です。

 想像力が無い為に自分の痛みとして感じられないのですね。

 

 想像力は大切です。これさえ有れば何んな高級料亭、レストランでも思いのまま、吉兆辻留、トゥールダルジャン、タイユヴァン等々どこであろうと、一文無しのまま、まったく気後れせず、堂々と席に着いて、最高の料理を味わえるというのですから、これを身に着けておきますと一生食いっぱぐれがない。これは言いすぎですが、まあ人さまを見て、羨ましがる、妬ましく思うとか、こういうことが無くなるということぐらいは、或いは有ろうかと思うような次第なんです。

 先入観なしで考えてみれば、何んな高級レストランでも一度食えば分かってしまいます、それらは決して上手くできた家庭料理に敵うものではありません。

 お金にうんと余裕があれば別に何をなさってもかまわないのですが、なけなしをはたいてまで行く所ではないのですね。

 大体にしてからですが、今時そう旨い物など食わせる所は、きっぱり言ってありません。

 

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 当地方にも最近、神田の何がしとかいう有名そば屋の出店ができまして、子供の時からのソバ好きでもありますから久しぶりで本場のソバをと、かなり期待していましたが、これがまあ食ってみてびっくり、ソバツユがいけません。ざるソバの命のソバツユがいけないんですから、これはもう何うしようもない。

 サバ節を多くして、カツオ節が少し、宗田鰹は行方不明。これではいくら打ちたて茹でたてのソバを誇っても、家庭で作る削りたてのカツオ節をたっぷり使ったものにはとても敵いません。

 神田の本店がこれほどけち臭いとは決して思いませんが、テナント料に食われてしまうようでは、ソバのように値段の決まったものは苦しいに決まっています。

 もう一つ、これも銀座のさる有名中華レストランの出店のことですが、十年前には高価でしたが確かにそれだけの物はありましたので、私も十年ぶりにそれを思い出しまして、八千円ほどの定食を注文したのです。しかしこれがいけません、以前の面影はかけらも残っていませんでした。

 薄っぺらな見せかけだけの飾りで、何やら田舎モノを馬鹿にしたような、そんな料理が並んでいました。皿の縁が欠けていたのに至っては、目が点になってしまいました。

本当にこれならば、家でただ想像していただけの方が何れほど良かったことか。

 皆様も十分御注意なさってください。

 

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 テレビというものは世の中を映す鏡です。何とも哀しいことです。

 若者がただ食い物にしか興味が無いだなんて一体誰が信じられますか。

 それでいて全くの味覚不全ときては、お気の毒をとおりこしてそろそろ心配になってきます。

 自分の食っている物に自信がない、それで人の食い物が気になる、食ったのに食った気がしない。

 想像力が有りさえすれば、人さまが何を食っていようと全然気にならない訳ですから、こんなことにはなる筈がありません。これで証明終りということでしょうか。

 

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 近ごろ週刊誌などを騒がせております、あの崖から子ネコを放り投げて殺す人なども、何か特別の事情がおありなのかも知れませんが、何うもそういうんではなくて単なる想像力不足を来たしていらっしゃるのではないでしょうか。

 しかし作家が想像力不足ではお困りではないかしらん、と同じ病を持つ者同士としてご同情申しあげます。

 

こういう方の為には、お薬をお出ししましょうね。

ごく飲みやすいお薬をほんの少しお出ししましょう。

 

『ツバメと民衆への祈り』 (アッシジのフランチェスコ)

説教したって何になろうか、兄弟たち?

あなたがたに天国への小径を示したって、何になろうか?

あなたがたはすでにその道を歩いているのだ。なぜなら、貧しくて、

つつましく、無学で、よく働き、申しぶんなく神に愛されているのだから。

 

兄弟たちよ。

この世の人生は偽りの夢だ。ほんとうの生、永遠の生は、あそこ、

天国で私たちを待っている。

だから、目を伏せて地面を見ずに、みなさん、反対に目を上げなさい。

あなたがたの魂は籠のなかでたたかい、傷ついているが、

籠を開けて、飛んでゆきなさい!

 

わが妹なるつばめたちよ、お願いだ、しゃべらせてくれ・・・・

大地に春をもたらしてくれる魅惑的な、小さな、神の使者たちよ、

暫く翼をたたみ、そっと屋根の上に並んで聞いてくれ。

 

私たちはつばめや人間をお創りになった神様のことを、

私たちみんなの父であるお方のことを話しているのだ。

 

彼を愛しているのだったら、

親切なつばめたちよ、

あなたがたの兄弟であるこの私を愛しているのだったら、

黙っていてくれ!アフリカへの旅立ちの準備をしていることはわかる。

神がお援けくださるだろう!けれども、途につくまえに、

彼の言葉を聞くのもいいことだよ。

 

 

( N.カザンスキ 著 (清水 茂 訳) : 「アシジの貧者」みすず書房 )

 

 

 

 

 

 

 

日嗣(ひつぎ)の皇子