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お盆

 もう二十五年ほども昔のことになりましたが、レコードに凝っていたことがあります。

 もともと何かに取りつかれ易い性格ですから、それ以前にも以後にも外車、カメラ、万年筆などに取りつかれ、収入を遥かに超える、誠に身分に相応しからぬ趣味を楽しんで来ました。

 もちろん家人に迷惑をかけながらのことですが、何しろ、万年筆にしろ、カメラにしろ、もちろん車もですが、外国製の物には何か妙に官能に訴える所があります。カメラなら巻上げる時のヌルヌルした感覚、万年筆なら書き味もさることながら、キャップを締める時の、キュッと締まる感じに旋盤における手業を思い、ついつい不用の物を数多く買ってしまうのです。

 レコードも、まったく同様の轍を踏んでいました。高さ百二十センチ幅七十センチの巨大なスピーカーを左右に並べると、狭い部屋が半分になり、音楽を聞く場所さえないような有様でしたが、これに普通の人には理解不可能な理由から、過去の遺物的存在の真空管アンプを使っていましたから、今考えると、よくもまあ狂っていたものだと、思います。

 しかしその時は、何しろ狂っている者のすることですから、そう簡単にはまいりません。それが何うしても必要だと思っていたのです。

 このアンプがまた大量の熱を、盛大に放出しますので、夏場にはエアコンの音でよく聞き取れないほどです。これでは折角の真空管も、自ら本領を発揮できずに、さぞ口惜しく思っていたのではないでしょうか。

 とまあ私の生活は、このように支離滅裂なのですが、この国の音楽も同様に支離滅裂なようで、各世代によって聞くものが全く異なるのを、誰も何とも思っていないことは、非常に不思議なことに思えます。

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 明治になって、この国にも外国の音楽、いわゆるクラッシックが入って来ますと、当時の知識人たちは、皆こぞってそれに聞き入りました。そして日本伝来の音楽は、これは誠に卑俗にして粗野なものである、婦女子に聞かせるには忍びないと、一刀両断にしてしまったのです。

 どうも私が思うに、文学界から文語文を追放したことも、これとまったく同様に野蛮な行為で、悔やんでも悔やみきれない、痛恨の一事だったのではないでしょうか。

 それ以後、日本に詩歌というものが全く無くなってしまったことを見てみれば、誰にとっても一目瞭然です。後になって、このような弊害が現れるとは、その時は思ってもいなかったのでしょう。言文一致であろうと詩心さえあれば、詩歌は時代に即応して進歩するものだなどと、甘く考えていたのですね。

 ところが大間違い、とんだ考え違いでした。神代から脈々と受け継がれて来た日本人の心は、いわゆる七五調の中に存在していたのです。七五調と文語文との間には切っても切れない関係があります。

 文語文を排斥したことは、日本人の詩心を表現する力の源泉を断ち切り、息の根を止めてしまったのです。

 それと同事に日本人の国語力も低下せずにはいられませんでした。表現力の不足です。

 もし嘘だと思うならば、樋口一葉の『にごりえ(濁り江)』を、是非声に出して読んで下さい。現代文では表現できない、心底を抉る言葉の力を感じることが出来る筈です。

 何事も突き詰めて考えない、日本人の特性が現れたのですね。

 新漢字と旧漢字にしても、緑と香A曽と曾、巻と卷など、わざわざ変える必要はどこにもありませんし、それどころかこのお陰で、外国の文献の検索に著しい不便を感じております。ましてや、碌でなしの碌などは、変えずにそのままですし、目録の録は本字がJISコード上に見当たりません。

 日本の学者の著しい見識不足。ただ一時の便利を追い求め、我が意を押し通すことのみに腐心した挙句がこれなのです。

 近年、日本の大学の世界的地位の低下が叫ばれていますが、何も今に始まったことではなく、戦後すぐから起こっていることなのです。今に日本の大学の学位は世界に通用しなくなる日が必ず来ます。そうならないように、もう一度学問というものを見直してください。学問の系統に、師弟関係に基づく派閥が有るだなんて、まったく呆れてしまいます。学問の良心というものを、もう一度問い直して欲しいものです。

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 しかし明治の知識人が、日本の音楽を排斥したことには、僅かながらも一理あります。それ以前から音楽は知識人に取っては、仇のような存在でした。朱子学などの漢学者からも、一般人の心に潜む仏教的道徳の上からも、なかなか容認できるようなものではありません。

 私は、日本の伝統音楽を、滅多に聞きませんが、何と言っても日本人の血が流れていますから、一中節(いっちゅうぶし)や新内(しんない)、あるいは単に長唄など聞きますと、何やら心地よさを感じてしまいます。

 中でも新内の蘭蝶(らんちょう)などに至っては、心が燃え立つほど好きです。

 浄瑠璃がちょっと年配であれば、若い人の唄う新内はどうも生々しくて好きになれませんので、それが年配でありさえすれば男女に係わらず、これ以上のものは世界にも有るまいとまで思えるのです。

 特に高音と低音の二丁三味線の掛け合いは、もうこれ一曲有れば、他には何もいらない、ベートーベンもバッハも全部欲しい人に差し上げますという気持ちです。

 ところが、何事にも表が有れば裏も有ると言うことで、この蘭蝶は、話の内容がよろしくありません。遊郭(くるわ)ばなしなのですな、これが。内容をかいつまんで申しますと、 

 蘭蝶という男芸者がいた。よくモテる男です。この蘭蝶には、もと芸者の『お宮』という女房がいました。

 蘭蝶は、お宮のような、世間を探しても二人とない良い女房が有りながら、『此糸(このいと)』という遊女と割りない仲になります。これが悲劇の始まり。

 蘭蝶は、此糸に入れあげ、そのお陰で仕事の方はなおざりにして、しくじってしまいます。

 女房のお宮は、何とか蘭蝶を一人前にしたい、何か小商いでもさせたらどうかというので、身を売り、そのお金を亭主に持たせますが、蘭蝶はとうとうその大切なお金をも使い切ってしまいます。

 我慢も限界の女房お宮は、此糸に、どうか別れてくだされ、二人の仲を無理に割こうとするのではないが、私にも、こう頼むわけが有ります、お前のつらさはよく知っているが、ここはどうか分別して別れてくれろと、しみじみと掛け合います。ここがまあ一番の聞かせどころですね。

 此糸としては、こうまで言われては、もう仕方ありません。のし引きならない立場に追い詰められ、いわゆる義理と人情の板ばさみになってしまい、一人死を思うのですが、それを知った蘭蝶は、お前一人を死なせるものかと、妙に男気を見せて心中するという、お宮にとって見れば、とんだ割を食ったままという、まことにけしからぬ筋立てであります。

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 とは言うものの、実のところ、これが中々の筋立てでして、ヴェルディ作の『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』よりは、よほど日本人の琴線に触れるものです。

 しかし残念なことに新内というものは、どれもこれもほぼ似たり寄ったりの内容で、知識人の反感を煽るには、十分過ぎる理由となりました。つまりその似たり寄ったりがです。

 しかし、ここでも改良するのではなく、進んだ西洋から、ちょいと拝借するという所が、拝借先の西洋から見てみると気味の悪い所です。

 彼等が日本人をまるで蝙蝠のように裏切り者呼ばわりしたとしても、我々は自身を省みなくてはなりません。こうも簡単に自国の文化を否定できることは、とても西洋人には理解できないだろうなと思わなくてはならないのです。

 だいたい日本語は難しくて、外国人が学ぶには不適当であるから、是非日本の公用語はフランス語にすべきであるとか、ローマ字ならば、たったの二十六文字を知ればよいのであるから、漢字は愚か、伊呂波四十八文字の平仮名片仮名もローマ字で書かせるべきである等の論議を、当時の文化人知識人は主張していたのです。誠に恥づべき歴史。愚かですね。

 これでは二千年の歴史も、ただ一度の議論で覆されかねません。注意しましょう。覆水盆に還らずと言いますから。

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 このような訳で、私のよく聞く音楽と言えば、当然と言いますか何と申しますか、クラッシック一筋に操を立ててと言いますか。まあ子供の時からの習慣ですから、今更変えるわけにもまいりません。

 最近になって、やっと『エンヤ(Enya)』を聞いて面白く思える程度ですから、ポピュラーに関しては、まず何の共感も感動も受けません。

 そしてそのクラッシックの中でも、特によく聞き、かつ聞き飽きるということの無いのが、『ベートーベン』。子供の頃、学齢期以前に家に有った、『英雄』とか『運命』などのアルバム、この頃は、交響曲などは十二インチ両面のSP版、それの5、6枚が、一冊のアルバムになっていました。このアルバムを蓄音機の針を取替えながら、次々と聞いていたのです。それが今だに続いているのです。

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 まあ余り昔の思い出に浸っていても何ですから、ごく最近のことに話を戻しましょう。

 ちょうど去年の今頃、六月のことです。奈良県は吉野山の蔵王堂で、御本尊の御開帳が有りましたので、朝早く車で出かけました。

 私は、何につけ待たされるということが大嫌いで、信号などに引っかかったり、渋滞に巻き込まれたりすることに、我慢がならない質です。又その他の理由もあって、高速道路も出来得る限り使用したくありませんので、この時も朝早く、この季節ですから四時には家を出たいものだという所から、三時に起き、朝食の分として、炊きたてご飯で自ら、おむすびを作り、それを持って何とか暗い中に出かけることが出来ました。

 朝のドライブは気持ちよく、家人も隣で目をつむり無言です。ようやく一時間を過ぎようとする時、東の空が白み始める頃になりまして、時間が時間ですから、どこかでクラッシックが聞けるのではないかと、ラジオを点けますと、ベートーベンの交響曲第七番が聞こえてきました。

 好きな曲ではありませんので、ただそうかと思って聞いていたのですが、なかなかどうして、ほんの一分もしない中に、その凄さが分かり、その演奏に圧倒されました。

 フレーズとフレーズの接し具合が絶妙なのです。ヴァイオリンが、一つのフレーズを奏し終り、オーボエがそれを受け継ぐというようなとき、前の音が消えるか消えないかの微妙な瞬間を捉えて、次のパートが介入してくる、これが全曲を通して、ほんの一分の狂いもない精密さ。

 まるで時計のようなと言えば、それは愚かなことで、時計は無機質、ただ秒を刻むだけなのに反し、音楽が豊かに息づきながら、ウィーンの香を放っていたのです。

 このように永い一曲の間は、聞くほうにもそれなりの努力が必要ですが、それを特に感ずることもなく、終始この演奏と同様の緊張を保ちつつ、それを聞いて、ついに飽きさせない、その指揮者の力量に、私は驚きました。

 この指揮者は誰なのだろう。無性に知りたくなって来ました。このもの凄い音楽家は一体誰なんだろう。

 最近の若い音楽家にも、こういう人が出てきたのか。現代の音楽家の演奏も見直さなくてはならないな。聞き直してみるか。このように考えていたのですが、やがてその名前がアナウンスされると、これはもう何と言ったらよいか、まあ早く言えば呆れてしまったのです。

 それは、おもに戦前に活躍した、『エーリッヒ.クライバー』だったからなのですが、まあしかし、これならば納得です。

 私もクライバーの『フィガロの結婚』を所持していますから、およそどんな音楽をする人かぐらいは知っていました。

 しかしですよ、この人が亡くなってから、もう50年が過ぎたのです。いくら何でも古すぎませんか。

 しかも車に初めから付いている、貧弱なラジオからは、そんな古い録音だなどとは少しも気が付きません。

 これは是非聞きなおさなくてはということで、現代の音楽家ならぬ、過去の音楽家のCDを探しに、帰り着いたその足でレコード店に行きました。

 しかし、ここでもまた呆れたのですね。まあ驚いたことに、指揮者では『エーリッヒ.クライバー』どころか、『フルトヴェングラー』、『ブルーノ.ヴァルター』、『アルトゥーロ.トスカニーニ』、ピアノならば『エドウィン.フィッシャー』、『アルトゥール.シュナーベル』、ヴァイオリンなら『フリッツ.クライスラー』、『エリカ.モリーニ』等々、有るわ有るわ、もうまったく古い人だらけ、現代の音楽家は一体どこへ行ったというぐらいに、戦前に活躍した人ばっかりが並んでいます。古いSPを、わざわざCDに焼き直して。

 しかしこれは、私が二十五年前に聞いて、そして面白いと思った、その演奏家たちなのですね。

 私も、当時はそれが良いと思って聞いていたのですから、それから一向に変化しないということは、やはりクラシックというものは、戦前にその頂点を迎えてしまったということになりますか、どうか。

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 クライバーの第七番は、残念ながら見当たりませんでしたので、『ベートーベン』の第三番と第五番と第六番、そして聞き比べの為に、フルトヴェングラーの第五番と第七番を買って帰りました。

 そして聞き比べた結果、クライバーの第六番『田園』と、フルトヴェングラーの第五番『運命』は最高であるということにしまして、表彰台の上に昇っていただき、満腔の祝意を奉げたという次第です。もちろん飲みかけのグラスをちょっと掲げて。

 ここで、ご迷惑でしょうが、ちょっとその時の感想を言わせてもらいますと、最初に聞いた『田園』は、この自然さが堪りません。明るい林の中で、小鳥の歌に取り囲まれて、と言いたい所ですが、そうではありません、自分自身が鳥になったかのような、この自然はそこに在るのではなく、自分自身が自然なのだという、この安心感、これが素晴らしいのです。何か聞いたことがあるな、この科白、しかし他に言いようもないから、まあ良いか。

 しかし、クライバーという人は、これを自らの青写真に基づいて自在にオーケストラを操り、しかも演じているのです。天才の証しです。これが天才でなくて、他の何を天才と呼ぶのでしょうか。素晴らしいテクニックと感性。まったくただ感心、次いで感嘆。

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 『運命』はどうでしたでしょうか。結論から言うと、これはもっと素晴らしい。ただクライバーの行き方とは全然違うのですね。

 最初の数小節で、これは只者ではないぞと思えるクライバーと、聞き進む中に、その凄さが身に染みて来て、やがて身内にパワーが充満し最後に爆発するフルトヴェングラーとの違い。

 フルトヴェングラーは、青写真を使いません。最初の一小節に渾身の精力を込め、その小節を自ら感じ取り、それに基づいて次の小節の霊感を得るという、エネルギーが一小節ごとに、自らの中に蓄えられる、この明らさまな集中力。これが凄いのです。誰にも真似のできない程の集中力、このようなものが、本当に存在することの異常さ。これが凄いのです。

 ですから、『運命』の最初のダダダダーンが、ダぁん、ダぁん、だっ、ダぁーんと、何が起こるのか、よく分からないような起こり方をするのです。

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 さて音楽の話はこれぐらいにしまして、ひたすら旅を続ける、わが愛車は、自らその老残に鞭打ちながら、その間一度も休憩することなく、吉野山にたどり着きました。時間は丁度午前八時、ベンチに腰掛け、持参のおむすびを食べ、巨大な群青色の蔵王権現三体をよく拝み、何とか時間を潰して昼まで山頂に留まり、名物の柿の葉寿司を食べて帰りました。

 その間、『太平記』に記す所の後醍醐天皇の御陵を伏し拝み、楠正成、楠正行父子の事跡にも思いを馳せておりましたが、いづれ折を見て、それについてもお話することにいたしましょう。

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 七月はお盆の月です。そこでお墓参りに相応しく、すぐに役立つお経をお教えしますから、お気の隨にお役立てください。極く短いお経ですから、手帳にでも書き留めて、お墓の前で唱えれば、ご先祖様もさぞお喜びになるのではないでしょうか。

 『舎利礼文(しゃりらいもん)』というお経です。このお経は、実は詳しいことが分かっていません。どうも中国人が作ったことは確かだろうとは思われるのですが、どうも確かではないのです。一般に日本で言われている所では、不空三蔵(ふくうさんぞう)というインド人密教僧が作ったとされているようですが、それを明かすような確かな証拠があるとも思えません。また中国の仏教学辞典では、道安(どうあん)とする記事も在りますので、この人ならば、中国仏教の大成者として有名ですし、『高僧伝』巻5には、一外国製の銅で作った仏像の頭頂部から、一粒の『舎利(しゃり、お釈迦様のお骨)』を見つけ出したと有りますので、或いはこの時にでも作られたのかと思います。

 日本では、真言天台浄土禅、その他各宗各派、ほとんどで行われていますので、その内容の有り難さは折り紙付きと言っても良いと思います。

 先ず、経文と読み方を挙げ、次にその内容意味を解釈し、更に若干の知識を記します。

 読み方は、最初の経題は読みません。振り仮名の中のカタカナはその音で延ばしてください。すべて漢字一文字を一拍で、拍子を崩さないようにしてください。ではどうぞ、

 

しゃ

らい

もん

いッ

しん

ちょオ

らい

まん

とく

えん

まん

しゃア

かア

にょオ

らい

しん

じん

しゃア

りイ

ほん

じイ

ほッ

しん

ほオ

かい

とオ

ばア

がア

とオ

らい

きょオ

いイ

がア

げん

しん

にゅウ

がア

がア

にゅウ

ぶつ

がア

じイ

こオ

がア

しょオ

ぼオ

だい

いイ

ぶつ

じん

りき

りイ

やく

しゅウ

じょオ

ほつ

ぼオ

だい

しん

しゅウ

ぼオ

さつ

ぎょオ

どオ

にゅウ

えん

じゃく

びょオ

どオ

だい

ちイ

こん

じょオ

ちょオ

らい

 

 

 はい、有難うございました。では意味を簡単に説明しましょう。

一心頂礼

一心に頂礼(頭頂を相手の足に着ける礼を)します、

万徳円満

万の徳(他人を幸福にする力)を兼ね備えたる、

釈迦如来

釈迦如来(お釈迦様)の

真身舎利

真身(身実の体)の舍利(火葬にしたお骨)に。

本地法身

その舎利の)本地(本性)は法身(世界に満ちる真実の法)であり、

法界塔婆

法界(自然界)に於ける塔婆(高く顕現するもの、仏法の存在を高く顕す標柱)です。

我等礼敬

我等は、みな礼をして敬います、

為我現身

私の為に、身を現してくださった方に。

入我我入

入我我入(仏の心が私の中に入り、私は仏と一体化)して、

仏加持故

仏が力を与えて下さいますからには、

我証菩提

私は、菩提(全ての人を幸福にすること)を証(あか)します。

以仏神力

仏の神通力のお陰で、

利益衆生

人々の役に立ちながら、

発菩提心

菩提心(全ての生き物を幸福にする志)を起こして、

修菩薩行

布施(与えること)、持戒(取らない)、忍辱(取られても怒らない)、精進(怠けない)、禅定(心が平静)、智慧(手段を尽くすこと)を修め、

同入円寂

人々と同時に、円寂(涅槃、理想の世界)に入ることが出来ます。

平等大智

平等(我と彼とに無差別)である仏の智慧に、

今将頂礼

今、まさに頂礼いたします。

 

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 全部で72文字ということは、心経よりも二百字少ないということですから、普通三回以上繰り返して読まれます。皆様もそうなさってください。これは謂ゆる仏の教えである経ではありませんが、価値が低いということは決してありません。ご安心ください。

 なお、若干の説明を付け加えましょう。

 

 入我我入(にゅうががにゅう):仏と一体になり、仏の大慈悲が体中に満ち溢れることです。

 塔婆(とうば):標柱、旗ざおのことです。遠くからでも、何処に仏教が在るか知ることができます。

 

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 この舍利礼文を三返くりかえして読んだら、次は廻向文(えこうもん)を読みそれで終わりです。

 廻向とは、今行った善い行為(お経を読むこと)の因縁が善い結果を生むように願うことです。

 先ず初めに、総廻向(そうえこう)全ての生き物が幸福になるように願います。

 

願以此功徳(がんにしくどく)

願わくは、この功徳を以って、

普及於一切(ふぎゅうおいっさい)

あまねく一切に及ぼし、

我等与衆生(がとうよしゅじょう)

我等と衆生と、

皆共成仏道(がいぐじょうぶつどう)

皆共に仏道を成ぜんことを。

 

 この他にも有りますし、読み方も振り仮名が異なることも有りますが、まあこれならば一般的です。

 

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 そして次は別廻向(べつえこう)、これは自らの志す対象の幸福を願います。

 

願以上来(がんにじょうらい)

願わくは、ここに

所修功徳(しょしゅくどく)

修めた功徳を以って、

何某の霊儀(ダレソレノれいぎ)

  または

何家一切の諸精霊(しょしょうれい)

何某の霊の

  または

何家のすべての精霊の

増上菩提(ぞうじょうぼだい)

菩提(志し)の増上せんことを。

 

 これで念佛なり何なりを数辺、好きなだけ気のすむまで唱えれば、それで終わりです。是非実行なさって下さい。鳴り物は特に必要ないでしょう。数珠は持った方が良いでしょうね。線香、ロウソク、花の三点セットは忘れずに。

 

 

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仏教豆知識 その一   < お墓 >   

 ハカの語源は、『果(は)て』と、在り処(ありか)住み処(すみか)の『処(か)』との合成語『果て処(ハテカ)』の訛ったものと言われています。最後の場所の意味ですね。

 しかし仏教では、皆様のお気持ちとは逆に、これは塔婆(とうば、ただ塔とも言う)であると考えるのが一般です。ですから、お墓を供養塔と呼ぶこともあるのです。

 塔婆とは、お釈迦様の身体の象徴です。ここに仏教が在るぞという標識なのですから、出来るだけ丈の高いものが、本来の意味を現すものと言えます。ただ単に、ご先祖様を崇敬する場所ではないのですね。

 皆様はお墓を建てることにより、仏教の弘通(ぐづう、広まること)に役立ち、先祖の供養に廻向しているということなのです。

 

 

仏教豆知識 その二   < お経を読む >   

 お経というものは、大変難しいことが書かれています。僧の役目は、その難しいことを、人々に易しく説明することにあるのです。

 では、檀家で法事等をすると、お坊さんが来て、仏壇の前でお経を読むことには、どんな意味が有るのでしょうか。漢文を音読されても、誰にも理解できませんね。

 これはこう考えて下さい。仏壇の前でお経を読むのは、仏様と対面して勉強なさっているのだと。

 檀家とは、その勉強することの上でのスポンサー、後援者のことです。学問の為の慈善家だったのですね。

 中心になるお経があって、その前後に、「どうも理解が遅くて、何度聞いても忘れてしまい申し訳ありません」と『懺悔(さんげ)』することと、「仏様は素晴らしい、とても良く理解できました。」という『讃嘆(さんたん)』と、「これからは今の教えを胸に刻み、人々の為に尽くします。」という『発願(ほつがん)』とを付け加えて、これで一通りなのです。

 皆様の家にお坊さんが来て、お経を読んでいる間は、皆様も正座をして身を正し、無駄口せず静かにしていましょう。これは大変為になることです。

 

 

 

(お盆 終わり)