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きつねに一匹 |
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子供の頃、家にあった小学生全集を、よく読んでいました。 子供向けに、当時の有名作家たちが書き下ろした、総巻数80巻にもなろうという、かなり大掛かりな全集で、文芸春秋社から出版されていました。菊池寛が発起人となり、監修、編集、翻訳などを手がけ、表紙にも新鋭の作家による夢のある絵を載せて、子供にとっては、もうそれ以上はない贅沢でした。 その中に、今でも忘れられない、アイヌについての民話があります。 『蕗(ふき)の下の神様』(宇野浩二作)といいます。あらすじを申しますと、
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どうも、原作の著作権がどうなっているのか、よく分かりませんので、不細工なものをお目にかけ、誠に恐縮いたしております。 しかし、あまりに長期に亘る著作権というものは、文化的な観点からすれば、発展を阻害しているのではないでしょうか。 例えば、レコード会社などが、絶対に発売することなど有得ないのに、権利を主張するのは、どうかと思われるのです。 日本は山が多く、平地の少ない島国ですから、産業は発展しにくく、まあ工場の流れ作業を支える、コンベアなどにしましても、平地以外に敷設することの困難は相当なもので、いつまでも、この国の産業が、外国に対して優位を保つのは難しかろうと思うのです。 そこで、考えられるのは、農業は論外としまして、折角の白砂清松も見る影もない今、観光産業もダメとすれば、文化事業をいかにして産業化するかということですが、これこそ人の数に比例して発展するもので、誠にわが国にふさわしく思うている所に、このような一時の経済優先の著作権法、この読みにくさ、分かりにくさも相当に非文化的ですが、このために、どれほどの文化の種が潰されているかと思うと、どうもこれも将来の悲観の種となってしまったと申すも、何かなさけないような気がしてきます さて、この話を冒頭に掲げようと思い立ちましたのは、いつも話の種が慢性的に品切れ状態の私にとって、ニュースさえ有れば、ついそれが何であれ、飛びついてしまうという、まるでカエルそこのけの性を露呈してしまったと、いうだけのことなのです。 ところがこの五月には萱野茂(かやのしげる)さんという方が、お亡くなりになり、決して人の不幸に飛びついたという訳でもございませんが、ここは一つアイヌもので行ってみようと思ったような次第なのです。 この方は、アイヌ人初めての国会議員ということで、アイヌの方たちの誠に悲惨な運命を、日本人に、いや外国の方たちにも知らしめて、その待遇を改善させ、あわせて自然回復の提案などもなさり、日本にとって大変に重要な人でした。ここに略歴を書かせていただき、功績を称え、併せて、ご冥福をお祈り致したいと思います。
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さて、話はかわりまして、先ほどとは、およそ真反対の働き者、こう言えばもうお分かりでしょう、言わずと知れた『ツバメ』のことです。わたくしが余りにもナマケモノであるが故に、家人が提案しまして、わが書斎の斎号を『つばめ堂』と、強制されたほどでございますから、この鳥を見るたびに、我が身を振り返って、ああ感心な奴め、それに反して俺は!と、つねに反省し、それが我が心の健康に、非常に役立つというものなのです。 どこの誰ですか、「燕雀(えんじゃく)、いづくんぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや」などと心無いことを言って、ツバメを蔑む人もおりますが、鴻鵠などと申しましても、何も翼を広げると、三百六十万里の迦楼羅(かるら、ガルーダ)という鳥から比べれば、何程もないものでして、たかが白鳥、あるいは鴨の類でありますから、燕雀とは五十歩百歩なのであります。 このツバメが、朝の九時ころ、日が昇って温かくなった時分に、田んぼのあぜ道を、散歩などいたしておりますと、低く弧を描いて飛び回っているのが、目に入ります。一羽が飛び去りますと、すぐその奇跡を追ってたどる様に、配偶のもう一羽が飛び去って行きます。 じっと見守っておりますと、二羽は互いに飛び交いながら、子供の哺育(ほいく)に必要な羽虫を捕らえて、必死なのです。わき目も振らずに、忙しく飛びまわりながら、少しの休む気配もありません。 このように、ツバメが、夫婦相和して、和やかな内にも、厳しく生活に対峙していることは、ちょっと前ならば、我々日本人は、皆納得して、常に模範としてきた所なのではないでしょうか。 どうもこの頃は、小中学校のうちから、株式を教科に取り入れてはどうだろうとか、誠に情けなくも、労働を軽視して、楽をして暮らしたいというような、風潮が目立ちますが、労働こそは人生の基本であり、身体を使った労働こそが、またその基本であるということを、強く言っておきたいと思うのです。 ************************** 楽をして暮らしても、決してそれは楽ではありません。自己を磨き上げてこそ、楽しみは得ることができるもので、楽をして儲けよう、或いは良い暮らしがしたい、常に着飾りたい、常に旨いものが食いたい、というような、虚飾の浅はかな発想からは、遥かに遠いものなのです。 まあ、このようなことは、論語、孟子などを紐解いてみれば、いくらでも書かれていることですが、ここは一つ仏教の方の言葉を聞いてみることに致しましょう。 善導大師(ぜんどうだいし)、この方は、浄土宗、浄土真宗、あるいは時宗など、法然上人の法流で高祖(こうそ)と呼ばれ、その思想は高く評価されているものですが、その本質は詩人であります。 しかし、一方、非常なる努力の人でもありまして、『唐高僧伝』、『新修往生伝(しんしゅおうじょうでん)』というような書物には、『三十余年、別に寝所なく、暫くも睡眠せず、洗浴の外は、かつて衣を脱がず』とか、『戒品(かいほん、カイリツ)を護持して、繊毫(せんごう、ワヅカ)も犯さず、かつて目を挙げて女人を見ず』とか、『綺語(きご、ザレゴト)、戯笑(ぎしょう、タワムレ)、また未だこれあらず。飲食、衣服、四時豊饒(しじほうじょう、イツモユタカ)の供養を受けれども、自らこれを口に入れず、衆徒(しゅうと、弟子衆)に供養し、自身には粗悪を食して、わずかに身を支えるを得るのみ。乳酪醍醐(にゅうらくだいご、ウマイモノ)は皆飲噉(おんたん、ノミクイ)せず』等とあります。また『阿彌陀經を写すこと十万巻、浄土の変相(へんそう、ヨウス)、即ち曼荼羅(まんだら、浄土の様子を表す絵)を描くこと三百舗(ほ、マイ)、随所に於いて伽藍(がらん、堂)および古塼塔(せんとう、レンガ造りの塔)の破壊せるを見れば、皆悉く造営して、灯を燃やし、明かりを絶やさず』等ともあります。 上に挙げた所の諸宗では、しない所もありますが、多くは六時礼讃(ろくじらいさん)という行事をします。これは、一日を昼夜三時づつの六時に分け、各およそ一時間ほどの勤行(ごんぎょう、オツトメ)をするのですが、それぞれ宗派、或いは地方地方によっても、かなり異なっておりますが、みな美しく節を付けて、浄土の素晴らしさを歌い上げております。この時に歌われますものが、善導大師の『六時礼讃偈(ろくじらいさんげ)』です。この中から、ごく短い部分をお目にかけましょう。
この様に、大変に短いものです。しかし、そこには詩人の直感による、紛れもない真実があります。 よく味わいたいものです。 |
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と、おぼつかなくも、決まったところで、今月は、これでおしまいです。 きつねはどうした、きつねは。いえ、忘れてはおりません。 我が家では、一年中、まあ寒い季節を除いてということですが、上に焼きたての錦糸卵が一杯乗った、散らし寿しをつくります。 ところが、ここ数年のことですが、非常に困っておりますことに、さる有名なカマボコ屋さんに、この散らし寿しには、必須の『厚焼き』という、魚のすり身に山芋を加えて、焼き目を両面に付けたもので、ハンペンよりは、腰のあるものですが、それが、とんと見えなくなり、どの店にも無くなってしまったのです。 何しろ、薄く切って、ご飯に混ぜ込んで使う、味の決め手となるべきものですので、これが無くては味が全然違ってしまいます。 いまさら私の好みを変えるわけにも行かず、誠に困惑いたしておりますので、店の方に、聞いたところでは、何かその原料である、白鮫(しろさめ)という魚が、海に一匹もいなくなってしまって、作ることが出来ないでいるということでした。 まあ、ほんとに、それ見たことか、とでも言うのでしょうか。危惧していた通りのことが起こってしまったのです。もうこれからは、何一つ安心は出来ません。いつ何時、何が店頭から姿を消すか、まったく分からないのです。 そこで、アイヌの方からの提案です。 もう何年も前のことになってしまい、それがラジオだったのか、それともテレビだったのか、どうもテレビだったような気がしますが、萱野茂さんの声が聞こえていました。 アイヌは、何でもすっかり取りきってしまうことは、決してしません。ギョウジャニンニクでもフキでもサケでも、来年また同じ様に取れるように、根こそぎ取ることは、決してありません。都会の人が来ると、それを知らないものだから、フキでも何でも、根こそぎ取ってしまって、来年また来たときには、一本も無いので、不思議そうな顔をしています。 アイヌは、サケを取るときは、取り過ぎないように、サケが一匹づつ目の前を通るたびに、このように歌いながら取るのです。 森のクマのために、一匹。 野原のキツネのために、一匹。 空を飛ぶカラスのために、一匹。 川のサケのために、一匹。 アイヌのために、一匹。 アイヌは五番目に取るのです。そうでないとサケの神様が死んでしまい、サケがいなくなるからです。 注、アイヌとは人間という意味です。 (きつねに一匹 終わり) |