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土筆(つくし)

 この地方ではこの二月の二十二日と二十三日は大変よい天気に恵まれまして、何か浮き浮きと春めいてきました。そこでつい暖かな日差しに誘われるままに、例年よりは半月ほど早めの土筆(つくし)採りに近くの川の堤防道路に出向きましたが、さすがにこの日付ではまだ早かろうと思って出かけたのですが、そこには既に草むらの中から、ちいさなちいさな土筆が顔を出しています。家内と二人でおよそ一時間ほどかけて摘みますとスーパーでくれる袋にほぼ半分ほどになりました。

 まあ夜になってこれを食べたわけですが、やはりまだ寒いのか堅く縮こまって香りも味も薄くやや不満はありましたが、それでも春を先取りしたような気分で嫌な冬の季節ももう終わりと早くも春の到来を心待ちにする気持になったという次第です。

 この春の味覚ともうしますがこれにもいろいろあるとは思いますが、私の場合では三月の五日か六日頃から二十五日ぐらいまでは土筆、それ以後は待ちに待った筍(たけのこ)に尽きるようで、三月二十五日前後にはそわそわとスーパー巡りをいたしまして、先ず鹿児島ものが出ますと少々値が張りましても二本ほどは求めまして、まず何はなくともの気分で味噌汁にいたします。これも新筍の香りがよく立つ岡崎の八丁味噌でなくてはなりません。

 ちなみち当家では筍と茄子は八丁味噌、白菜キャベツは信州味噌、蕗の薹と菜の花は西京味噌、お豆腐はどれでもという、かなりいい加減な決め事がありまして、ほぼこれを守っていますのでこの三種の味噌はかかすことがありません。西京味噌の話が出たついでですから申しますと、水飴、蜂蜜などが入って甘すぎるものは味噌汁には向きません、原材料表などをよく読んでお求めください。一塩の鱈の切り身の味噌汁などは西京味噌がなければ、とても作る気になりません。白い味噌汁に白い切り身、大量に散らした万能ネギの緑が漆黒の椀によく映えて、鱈を食べる方法としても随一です、冬の季節にはぜひお試しください。

 そこで筍ですが、筍もやや大きくなりますと、いよいよ干しワカメと一緒に炊くようになります。出しはすべてワカメにまかせまして、あとはしょう油だけをいれて炊きますが、これがもう旨くて旨くて春そのものを食べているような贅沢なもので、毎日毎日わが家の食卓に登り、旧の天皇誕生日の四月二十九日ごろに、さすがに肝臓に疲れを覚えるまで食べ続けます。

 その頃になりますと筍もやや大味になり歯ざわりなどもざくざくして繊維を感じるようになります。

 しかしこれにはこれで良い食べ方があり、この筍を約七ミリの賽の目に切り揃えまして、同じくハサミで七ミリの四角に切った昆布、それから山椒の実と一緒に、これもしょう油と少しの酢だけで炊いて佃煮にいたします、出来上がりに粉にしたかつお節を多めにまぶして完成です。

 毎年作るこれもお茶漬けには最高で、毎度のことながらつい顔をほころばせてしまいます。

 このように我が家にとっては大変に重要な筍ですが、これの切り方には厳しく言ってあることがあります。なにしろ彼の孔子様でさえ『割(きりめ)正しからざれば食わず。』などと仰って、切り方にはこだわりがあったようで、小人が切り方にこだわることも自然のなりゆきというものでしょう。

 筍の切り方は、繊維の軟らかい穂先は繊維に沿って、その他の部分は繊維に直角にが原則で、穂先以外はすべて厚さ一センチないし一.五センチの輪切りにするというだけのことです。筍は繊維が噛み切り難いものですから、このように切りますと歯がわずかに食い込んだとき自然と割れて食べやすいということです。ところがこれを斜めにしますと前歯が繊維に沿って流れますから大変食べにくいという結果になります。ご注意ください。

 では斜めに切らなくてはならないものはと言いますと、これがあのレンコンなのですね。昔からレンコンは必ず斜めに切ることになっています。これも見た目だけのことではないのですね。レンコンは粘りがありますので、繊維を割り裂くように前歯を当てて食い込ませると歯が捕らえられて、抜くこともならず、更に食い込ませると繊維で前歯の内側の歯肉を押し上げて悪くすると傷つける恐れまであるのですから、まあ昔からの仕来たりにはそれなりの理由がということなのです。これもご注意ください。

 

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 どうも先月に続いて食い物の話が重なりましてお恥ずかしい次第で、別に食糧難の時代に育ったからということでも御座いますまいが、やはり食い物の話には一番身が入るという嫌いがあるようでして、どうもやはりその育ちの方に問題を抱えているようで、まことに汗顔の至り‥‥。

 汗顔の至りといえばもっと汗顔すべき問題を抱えております。それはこの還暦を過ぎてですね、ようやく遠い昔の己が犯した間違いに気づいてしまうという失態の領域につい踏み込んでしまい、ついに取り返しのつかぬ傷跡を我が心に深く鏤刻(るこく)してしまったということですね。

 先ず次の文を読んで皆様はどういう思いを懐かれるでしょうか。

   『謂うなかれ、今日学ばずとも来日有りと、

   謂うなかれ、今年学ばずとも来年有りと、

   日月は逝(ゆ)きぬ。

   ああ、老いたり、

   歳(とし)、我とともに延びず。

   これ誰の愆(あやまち)ぞや。』

 朱文公(しゅぶんこう)の文です、いったい何度これを親から聞かされたことか。ところが分からなかったのですね。若い時分にはこの『歳、我とともに延びず。』、これがどうしても理解できないのです。

 しかしですよ、『これ誰の愆(あやまち)ぞや。』とはほんとにいったい誰のアヤマチなんでしょうね。まったく怒れてきますよ。親ですよ。親に決まってますよね。

 親であるからには、先ず自分の子供がどの程度のものか分かりそうなものではないですか。

 それなのにこんな人の文をですよ、借りてきてですね、したり顔に投げつけてそれで責任を果たそうというのですから、まったくアキレハテテものも言えませんよ。

 まあしかし親の方にも限界というものが在ったのでしょうね。 普通なら、朱文公でさえ若い時の不勉強を嘆く、そこに疑問を懐いて何らかの工夫をこらすところでしょう?そこまでの考えに至らなかった、そんなものなのですかね。

 ところで朱文公といえばこの文自体にも変な所があります。なにしろ『小学(しょうがく)』などを著して教育者としても名高い人でしょう。そこのところになぜ気づかなかったのか。いやそれどころか、朱子自身も『ああ、老いたり。』と分かりきったことを言ってみたり、『これ誰の愆ぞや。』と嘆いてみたりして、こんなに偉い先生でも悔やむことがあったということは、もし本当にそうなら慰めになりますね。

 しかし悪く考えるとですね、これは創作ではないでしょうか。いかにも教育者の考えそうなことです。まあ悪文のお手本ということにしておきましょう。くれぐれもこの文でもって、お子様を訓導しようとなどなさいませぬよう。

 

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 というわけで今回のテーマは勉強です。

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 勉強といえば、『論語』の冒頭を飾るこの文です。この『論語』という書物は孔子(こうし)の言行を弟子が書き記したもので、なかなかためになることが書かれています。読んで見ましょう。

  学びて時にこれを習う、また説(よろこばし)からずや、

  ある朋(とも)遠方より来る、また楽しからずや。

  人、知らずとも慍(いか)らず、また君子ならずや。

 こう三つの文がならんでいることから、これを読み解きますと、意味は自ずから明らかになります、

 『むかし学んだことを、ときどき思い出して見るとしようよ、こんな喜びはまたとないよ。

  むかし机をならべた友が、遠方より君に会いに来ると思ってみなよ、こんな楽しみが他にあるかい。

  君の学問は君自身の楽しみなのだ。べつに人に認められなくとも平気だろ。

  そんな君なら本当に学問があると言えるのだがね。』

とまあこんな所でしょうか。

 孔子という人は政治を行う方法として、人民に対する慈しみというものを根本にすれば、自然と人民はなつき、国力は栄えるという理想を掲げて諸国を遊説した人で、そんな一見迂遠にみえる方法が諸国に容れられないとすると、先ず人を育てることからと弟子の育成に心血をそそぐことに専念しました。

 そこで学問として弟子に教えたものは、古くから諸国に伝わる民謡で、それを音楽に合わせて歌い、それでもって諸国における民情を教えたのです。ここで言う『習う』という言葉にはむかし学んだ歌を思い出して歌うということなのですね。なにやら現在の教育とは大分違っているようで、楽しそうだと思いませんか。民謡を教え、その中の民の苦しみと楽しみとを教え、それがいかなる理由によるものかを教えたのです。

 ここに孔子が今にいたるも尊敬され、当時においても幾人もの傑出した弟子を育て得た理由があるのですね。いわば生きた教育というものをしたのです。決してその思想が素晴らしいのみではないのですね。

 そう思って、前の孔子の言葉を味わいますと、非常に年若い弟子に向かって言ったのではないでしょうか。学問は楽しく、その他に目的はなしというのが、この文のテーマです。まず楽しいということを前面に押し立てた所に孔子の年少の者に対する気持ちが現れているように思います。

 また分かりきったことを易しい言葉で説く、ここにもなんだかそんな気がします。

 いや、だけど昔学んだことだの、昔の学友だのが若い人に通じるのでしょうか。それが言葉の真実というもので、これが案外通じるのですね、いえ、しみじみしたものは通じませんが、その喩えが心に染込むのでしょうね。

 朱子の文は自ら書き残したもので、そこには直感的ではなく作為的な何かを感じますが、孔子の言葉は弟子の心を通して、それがさらに残ったものですから、何かの違いがあるのでしょう。

 

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 さてそんな孔子の数ある弟子の中で特に孔子に愛された人が二人います。一人は顔回(がんかい)、一人は仲由(ちゅうゆう)、字(あざな、呼び名)は子淵(しえん)、子路(しろ)といい、それぞれ孔子より三十歳と九歳若く、ともに孔子に先んじて亡くなりました。

 

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 先に顔回について見てみますと、孔子はこう言っています、

 『吾(われ)と回(かい)と言うこと終日たがわず、愚のごとし。退きてその私(わたくし)を省(み)れば、また以って発するに足る。回や愚ならず。

 回(顔回のこと、弟子はその本名を呼ぶ)は一日中わたしと同じ意見でついに反論するということをしない。これは愚(おろか)かと思って、退出した後の行動を追ってみると、その行動にはわたしを啓発するものがあり、とても愚かではない。

 これほど愛した顔回が四十一歳で亡くなりますと非常に悲しみまして、

 哀公(あいこう)という人に、弟子の中で誰が学問を好みますかと訊ねられたとき、

 『顔回なる者あり、学を好んで怒りを遷(うつ)さず、過ちを二たびせず。不幸、短命にして死し、今やすなわち亡(な)し。いまだ学を好む者を聞かず。

 顔回という者がおりまして、学問を好んで怒りを他に向けることをせず、失敗を繰り返すことがありませんでした。残念ですが短命でして今はもうおりません。それいらい学問を好む者について聞いたことはありません。

 『惜しいかな。吾れその進むを見るも、いまだその止まるを見ず。

 残念だな、顔回はいつ見ても進歩していて、進歩しないのを見たことがない。

 『ああ、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり。天予を喪せり。

 あるいは、孔子がこのように大声で泣き身もだえされているのを見た従者が「先生が身もだえして泣いていられる。』と言って驚くと、

 『慟(どう)すること有るか。かの人のために慟するに非ざれば、誰がためにか慟せん。

 そうか身もだえして泣いていたか。この人のために身もだえして泣くのでなければ、誰のためにするのだ。

 弟子たちが顔回のために立派な葬式をだそうとしたが、孔子はするなと言われた。それをおして弟子たちが立派な葬式をだすと、

 『回や、予(われ)を視ることなお父のごとし。予は視ることなお子のごとくすることを得ず。我に非ざるなり、かの二三子(し)なり。

 回がわたしを見るときは父を見るようであった。それなのにわたしは子のごとくにすることが出来なかった。わたしではないのだ、あの者たちがしたことだ。

 (孔子は実子の鯉(り)の葬式は無冠の身分相応に質素であった。また喪(も)についても葬式を完全にするよりはむしろ戚(いた)め、すなわち嘆き悲しめというのが礼であるとした。)

 とこのように若年にして死んだ弟子を常に思っていたのですが、孔子より九歳若い子路については、その裏表のない性格と、何でもずばずば言うところを楽しんでいたようです。

 孔子が顔回に、

 『これを用うればすなわち行い、これを捨つればすなわち蔵(かく)す。ただ我と爾(なんじ)とこれ有るかな。

 用いてくれるものがいれば出ていって存分に働き、捨てられたならばいさぎよく引き下がって家にいる。これが出来るのはわたしとお前だけだね。と言うと、そばで聞いていた子路が、

 『子(し)、三軍を行わば、すなわち誰とともにせん。

 先生、大軍をひきいて行くとすれば、誰と一緒に行きたいですかと訊ねる。

 孔子は言う、

 『暴虎馮河(ぼうこひょうが)して死するも悔いなき者は、吾とともにせず。必ずや事に臨んで懼(おそ)れ謀(はかりごと)を好んで成す者なり。

 素手で虎を撲り殺したり大河を歩いて渉ったりして、死んでも悔いないような人とは一緒に行かないよ。絶対に何かをしようとするときには慎重になり、綿密に計画を立てる人とでないとね。

 このようにかなり扱いが違います。

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 子路は強きを挫き弱きを助ける、いわゆる侠客でありかつその性質の人でした。ただ言動が多少乱暴であったようです。

 しかしそれでもなお、これは孔子の言葉ではありませんが、

 『子路、聞いていまだこれを行うことあたわざること有らば、ただ聞くこと有るを恐る。

 子路は孔子から聞いてまだそれが出来ないうちに、次のことを聞くことを恐れた。

 このようにまあ子供のようなところもあります。

 孔子が、

 『道行われず。桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従わん者はそれ由か。

 世の中は乱れてしまった。桴(いかだ)にでも乗って海に出てしまおうか。由(ゆう、子路の本名)ならば一緒に行ってくれるだろうかね。これを聞いて子路がにこにこしていると、このようにからかいます。

 『由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なし。

 由は勇気がありすぎるよ。まだ桴の材料もないのだよ。

 これを見ていますとどうも子路という人は犬の性質の良い所を充分に持っているように思えます。しかし実力を侮ってはいけません。

 孔子はまた、季康子(きこうし)という人が子路に政治を任せてもよいでしょうかと訊ねますと、このように言って推薦します。

 『由や果(か)なり。政(まつりごと)に従ごうにおいて何か有らん。

 由は果断です。政治を行うことは何ほどでもありますまい。

 孔子が子路のかなでる琴を評して、『これで私の門人だとはね。』と言ったので、門人たちは子路を軽んずるようなことを言った。そこで孔子はこう諌めた、

 『由や、堂に昇(のぼ)れり。いまだ室(しつ、奥まったへや)において入らず。

 由は家の中には入っているのだよ。まだ奥のへやに入っていないというだけのことだ。

 また孔子が、とかく噂のある衛(えい)という国の霊公(れいこう)の夫人南子(なんし)に会いに行こうとしたとき、子路は悦びません。そこで孔子はこう誓わざるを得ませんでした。

 『予(われ)否(ひ)なる所あらば、天これを厭(た)たん。天これを厭たん。

 誓おう、もしわたしにやましい所があれば、天が許さない。天が許さない。

 葉公(しょうこう)という楚(そ)の国の地方長官が子路に孔子のことを訊ねますが答えなかった。孔子は、それをなじって言います、

 『汝、なんぞ曰(い)わざる。その人となりや、憤りを発しては食を忘れ、楽しみては以って憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみと。

 お前どうして言ってやらなかったのだ。この人はいつも腹を立てては食事を忘れ、楽器を奏でては憂いを忘れ、老人になっても気がつかないような人ですと。

 あるとき孔子は重病にかかり死にそうになった。子路は無冠の孔子に臣がいないのでは葬式が貧弱であると思い、門人を臣に仕立てあげる準備をした。

 それを後で聞いた孔子はあきれて言う、

 『久しいかな、由の詐(いつわり)を行えるや。臣なくて臣ありとなすとは、吾(われ)誰をか欺(あざむ)かん。天を欺かんか。たとい予(われ)その臣の手に死なんよりは、むしろ二三子(し)の手において死なん。かつ予たとい大葬を得ずとも、予道路において死なんや。

 なんと由めは長い間、そのような詐(いつわり)を行っていたのか。臣がいないのに臣があるような振りをして、わたしにいったい誰を欺かせようとするのだ。天を欺かせようとするのか。そのような臣の手で立派な葬式を出してくれるよりは、むしろ二三人の弟子の手でされたほうがよいわ。わたしはたとい立派な葬式をしてもらうことが出来ないとしても、まさか道路で行き倒れになるわけでもあるまいに。

 子路が子羔(しこう)をある土地の宰(さい、とりしまり)とならせた。孔子がそんなに早く大役に当たらせれば、あの若者を駄目にしてしまうと言うと、子路は『人民もあり、社稷(しゃしょく、国家機構)もあります。何も書を読むことだけが学問ではないでしょう。』と逆らう。

 そこで孔子はこう嘆きます、

 『この故に、かの佞者(ねいじゃ、口達者で実行がともなわない)を悪(にく)む。

 これだから、この口達者なやつが嫌いなのだ。

 もちろんこれは冗談です。子路は口達者で実行がともなわない人ではありません。

 

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 子路が鬼神(きじん)、すなわち神に事(つかえ)る方法を訊ねた。

 孔子は答える、

 『未(いま)だ人に事うることあたわず。いずくんぞよく鬼(き、神のこと)に事えん。

 まだ人に仕えることさえ出来ない者が、どうして神に仕えることができるのだ。

 子路は叱られるのを覚悟で死とはなんでしょうかと訊ねた。

 孔子は答える、

 『未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。

 生きるということを知らないで、どうして死が分かるのか。

 どうも子路は哲学を好むというところでしょうか。

 そこで問題のこれです。孔子にこう叱られてしまいます。

 『由や、汝にこれを知るを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ。これ知るなり。

 由よ、お前に知るということを教えてやろう。あることを知っていれば、あることを知っているとせよ。知っていなければ知っていないとせよ。それが知るということだ。

 どう思いますか。孔子はこう言われたとき、何かいらいらしていたのではないでしょうか。

 ある本には子路は自分のまだ知らないことまで知っていると考えがちであるから、孔子はその性癖を矯めようとして、このように言われたとあります。しかしその考えはどうでしょうか。私には子路の哲学好きを孔子はうるさく思ったのではないかと思うのですが。

 子路は孔子にこんな問いをしたのではないでしょうか、

 『先生、知るということはどういうことでしょうか。』と。

 いかにも子路らしいと思うのですが。よくありますよね。あまりよく知らないのに、何か難しい質問をしたくなること。そして何か教養ありげな振りをしてみたくなること。教養のない者の悲しい性ですかね。

 このようなことを今お酒をのみながら、うだうだと考えている私こそ本当に無教養で‥‥。

 

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 いま飲んでいるお酒のレシピ、内緒で教えましょうか。

 よく冷えたボンベイサファイアジンを四にドライベルモットを一の割合で細長いグラスに半分ほど入れ、オレンジビタースを二滴振りかけたら、二本の菜箸でよくかき混ぜる。

 それはドライマーティニーのことだろうと仰いますか。いえ違います。マーティニーはよくシェイクするのです。

 オレンジビタースがないときは柚子の皮を少し指先で絞ってください。

 これには塩辛いものが合います。くるみと小魚を飴炊きにした佃煮などは特によく合いますよ。甘いものは駄目、チーズも駄目、たといロックフォールでも駄目ですよ。

 

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 今月はこの雑文のみですから、どうも調子がでません。そこでおまけの詩を一遍、孔子が弟子に教えた『詩経』から取ってご紹介しましょう。

関関雎鳩 在河之洲 窈窕淑女 君子好逑

  関関(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は、河の洲に在り、

  窈窕(ようちょう)たる淑女は、君子の好逑(こうきゅう)、

参差荇菜 左右流之 窈窕淑女 寤寐求之

求之不得 寤寐思服 悠哉悠哉 輾転反側

  参差(しんし)たる荇菜(こうさい)は、左右に流る、

  窈窕たる淑女は、寤寐(ごび)に之を求む、

  之を求むれども得ず、寤寐に思服(しふく)す、

  悠なる哉、悠なる哉。輾転反側す、

参差荇菜 左右采之 窈窕淑女 琴瑟友之

参差荇菜 左右芼之 窈窕淑女 鐘鼓楽之

  参差(しんし)たる荇菜は、左右に之を采(と)る、

  窈窕たる淑女は、琴瑟(きんしつ)之を友とす、

  参差たる荇菜は、左右に之を芼(すす)む、

  窈窕たる淑女は、鐘鼓(しょうこ)之を楽しむ。

 

(注)

 関関(かんかん)とは鳥の鳴き声、雌雄相い応ずるなり。

 雎鳩(しょきゅう)とは水鳥すなわちカモメの類という、定偶ありて相い乱れず、偶常に並び遊んで相い狎(な)れず。

 窈窕(ようちょう)とはシトヤカまたスナオ。

 淑女とは淑は善、女はムスメ、未だ嫁(か)せざる。

 好逑(こうきゅう)とは、好は善、逑は匹(ひつ)また合(ごう)、似合いの夫婦の意味なり。

 参差(しんし)とは長短揃わざること。

 荇菜(こうさい)とは水草、その白茎を煮て食う。水に小舟を浮かべてこれを採るなり。

 寤寐(ごび)とは寝ても醒めても。

 思服(しふく)すとは常に心に思いて忘れぬこと。

 悠とはハルカまたウレウなり。

 琴瑟(きんしつ)とは大小の琴をいう。

 芼(すす)むとは羹(あつもの)になすの意なり、羹になして薦(すす)むるなりという。

 鐘鼓(しょうこ)之を楽しむとは琴瑟の音は細なり、鐘鼓は巨なり、細と巨と相い調和して以って楽しむ。

 

そこで恥ずかしながら、これを訳してみました、

 『けんけん雎鳩(しょきゅう)は嫁さがし、

      河の中洲に嫁さがす、

 やさしき乙女はいまどこに、

      ウチの殿様嫁さがし、

 茂る荇菜(こうさい)小舟でとろうよ、

      その間も殿様嫁さがす、

 やさしき乙女はまだ見ぬか、

      寝ても醒めてもモノ思い、

      寝返りうちうちモノ思い、

 茂る荇菜、小舟につもうよ、

      たおやか嫁御は琴かき鳴らす、

 小舟の荇菜、モウ煮えたころ、

      たおやか嫁御と鐘うち鳴らし、

      楽しくその音もチンコロリン。』

 

 

 

(以上 土筆の項終わり)