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勿体ない
もったいないを世界に広めよう。』という何やら気持ちの悪い言葉によって、万博は幕を閉じました。
しかし世界には『もったいない』がないのですか。
『もったいない』を別の言葉に置き換えますと、ただ『浪費する』ということではないでしょうか。これなら有りそうです。
ためしに英語の辞書を引いて見ますと、やはり、
――「waste、無駄にする」、
――「squander、濫費する」、
――「dissipate、散財する」、形容詞では、
――「extravagant、贅沢な」と有りますが、どうも金銭、財産、才能というような自己の所有物を無駄に散財するという意味で、少し『勿体ない』という意味から外れているようです。

これには驚きました。正直に言えば辞書に見つけて、どうだ外国にもちゃんと『勿体ない』が有るじゃないか。まったく外国に広めたいなどとおこがましいことを言うなと文句の一つも言ってやろうと思っていたのです。まあ考えて見れば、いくら何でもそこまで底が浅いと思ったほうが悪いのでありました。反省しましょう。

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こうなったからには仕方がない。わたくしも『勿体ない』を世界に広めるお手伝いをいたしましょう。
そもそも『勿体ない』とは正確には何(いか)なる意味があるのでしょう。ここから初めましょう。
『勿体ない』を漢語風に書きますと「無勿体」となります。「体が勿(な)いことが無い」と読みますが、これでは何のことか分かりませんので、ひとつ『体』について辞書を引いて調べてみますと、
  1. 名詞:からだ、身体。
  2. 名詞:からだの各部分。例:四体(四本の手と足)。
  3. 名詞:各部分の一定の組み立て方、スタイル。例:字体、文体。
  4. 名詞:働きのもととなる実体。対:用。例:中体西用(実体は中国式で働きは西洋式)。
  5. 名詞:表面の姿。例:体裁。
  6. 動詞:身に着ける。例:意を体す。
  7. 副詞:身に着けて。みずから。例:体得。
と、このように書いてあります。
『実体が勿(な)いことが無い』、言い換えると『実体が有る』。つまり『勿体無い』は『実体が有る』これは何うも良い意味ですな。では『勿体無いことをするな』は『実体が有ることをするな』ですか。なにか良いことをして叱られたような、何うも意味が通じません。

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国語辞書を引いて見ましょう。
『勿体無い』を引いて見ますと、「勿体は物体、勿体無いは物体無い、物の正体が無いこと。」とあります。まあこれなら意味は通じますわな。
『勿体』は、「勿は無い、体は正体、内容はさほどでもないのに、ちょっと見には何かを秘めているように見せかけること。」とあります。本当かいな。
つまり『勿体』とは、
  1. 物の正体、
  2. 内容が無い、
という、二つの相反する意味があるのです。

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ここからはまったくの愚案ですから、あまり信用してもらっても困るわけですが、『もったい』これは何うも『勿体』と『物体(もったい)』、この二つが混同された結果では無いでしょうか。読みが同じなら混同されることは止むを得ないことで、それが正反対の意味を持つとしても有りうることなのです。このあたりはぜひ学者の方が時代別にどちらの意味で使われたか調べたらよかろうと思うのですが。
まあそれはさて置き、我が管見に於きましてはこの『勿体』のいかにも坊主臭いところに目を付けまして、仏教的な意味を探って見ようということです。この場合、『物体(もったい)』にはちょっと出番を控えていただいて、『勿体無い』このことについて論じようという訳です。

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仏教では『体』にはやや特別の意味があります。正確には『体大(たいだい)』と言うのですがこれは仏性という意味なのです。「大」は美称の類ですから、『体』と呼んでかまいません。
我々の身体には『仏性』というものが宿っているのですね。『山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)』、山にも川にも草にも木にもことごとく仏性有りなどと言いまして、あらゆる物に仏性というものが存在するのです。まあ『一粒の米』にも仏性が有るということでしょう。
さてそのような見地に立ってこの『勿体無い』を見てみますと、『体に勿(あらざ)るは無し』、言い換えますと『仏に非ざるは無し』、つまり全ての物は『勿体無い』、仏様だと言うことなのですね。

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このように『勿体無い』は我々の所有物を浪費するという意味は全くありません。一粒の米、それ自体が尊いものという意味だけがあるのです。この違いをしっかりと認識してくださいよ。我々が毎々の食事の前に『いただきます。』、あとに『ごちそうさま。』というのは、別にその家の主婦の苦労をねぎらって言っているのではありません。
『勿体無い』とはその物に対する『尊敬の念』から初まらなければならないのです。
では、我々はどのように生活にこの知識を生かせば良いのでしょうか。徹底的にその物を生かし尽くす、このようにすれば良いのです。その辺りのことを仏典から見てみましょう。

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印度の優顛王(うでんおう)の第二王妃娑摩婆帝(しゃまばてい)は深く釈尊及びその弟子に帰依した夫人であった。
ある夏のころ安居(あんご)が終わった時に娑摩婆帝は五百領の衣を阿難(あなん)に供養した。阿難はこれを教団の人々に分かち与えた。この事を聞いて驚いた優顛王は阿難を訪(と)い、沙門(しゃもん)として余り多くの供養を受くるは欲深き行為ではないかと詰(なじ)った。そして阿難と取り交わした問答は次の通りである、
 ――「大徳(だいとく)はかくの如き多くの衣を如何(いか)に処置せらるるか。」
 ――「大王よ私は衣の破れた比丘(びく)に分かち与えます。」
 ――「その破れた衣をいかにせらるるか。」
 ――「破れた衣で敷布を作ります。」
 ――「古い敷布を如何にせらるるか。」
 ――「枕の嚢(ふくろ)を作ります。」
 ――「古い枕の嚢をどうなさるか。」
 ――「敷物を作ります。」
 ――「古い敷物をどうなさるか。」
 ――「足拭(あしふき)を作ります。」
 ――「古い足拭をどうなさるか。」
 ――「雑巾にいたします。」
 ――「古い雑巾をどうなさるか。」
 ――「大王よ、私共はその雑巾をこまざきに泥に混ぜ壁の塗り込みに用います。」
 ――「宜(うべ)なるかな、大徳よ、仏弟子等は能く物の利用を心得ていられます。」
と、王は感じ入ってその場を去った。

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これは古い本からの又引きですから、多少言葉が厳めしいようですが文意は分かっていただけたと思います。安居について少し説明いたしますと、仏弟子たちは遊行(ゆぎょう)と言いまして、常に一つの住所に留まることなく、村から村、家から家と乞食しながら求められれば法を説くという生活をしていました。要するに歩き回るのが修行だったという訳ですが、雨季の三ヶ月だけは網の目のようなガンジス河が増水して、村から村へが出来なくなります。このためにその三ヶ月だけは定住するより他なくなり、乞食しやすい都城の近くで坐禅なり学問なりをして過ごすのです。これを安居と言うのですが、この安居の間に次にする遊行の為に破れた衣を繕ったり、新しい衣を信者の方から寄付してもらったりしなくてはならないのです。
まあ、このようにすれば徹底して物を生かして使うと言えるのですね。

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奈良に唐招提寺というお寺があります。鑑真和尚が開いた寺としても有名ですから、知らない人はいないと思うのですが、近くの薬師寺がけばけばしく衣替えしたのと対照的にあらゆる物に1250年の風格が浮き出た素晴らしい寺です。ことに春になりますともの寂びた建物に、はなやいだ桜が調和しまして、浮き浮きした気分のままに近くの垂仁天皇の御陵まで行きますと田道間守(たじまもり)の墓にも桜が満開で楽しく一日を過ごすことが出来ますから、ぜひ奈良に行楽の折には足を延ばしていただきたいと思うのですが、この唐招提寺は律宗の総本山でして、ここでは昔ながらの戒律そのままが厳重に守られていることについては、御存知の方もそんなにはいらっしゃらないだろうと思います。

この律宗は1400年ほど以前に中国で南山大師という方によって開かれました。
この南山大師という方が、僧の生活に関して率直にお説きになったものに『行事鈔(ぎょうじしょう)』というものが有ります。このなかに日本でも仏教の各宗派で食事の時に用いられています、『五観の偈』とそれに関する注釈とが有りますので、それによって『勿体無い』とは具体的にはどのような心構えであれば良いのか探ってみたいと思うのです。ただ全文を見ることは大変ですので、まあ垣間見る程度でお許し願います。

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<五観の偈>
  1. 巧(こう)の多少を計り、彼の来処を量る。
  2. 自ら己(おの)が徳行の全欠多減を忖(はか)る。
  3. 心を防ぎ過(とが)を顕すには三毒に過ぎず。
  4. 正に良薬を事とし形苦(ぎょうく)を済(すく)うを取る。
  5. 道業(どうごう)を成ぜんが為には世報は意に非ず。
これらは全て言葉は難しいように見えますが、言っていることは至って簡単なことです。
  1. 巧(こう)の多少を計り、彼の来処を量る。
      これを『行事鈔』ではこう説明しています。
      巧は手わざのことです。いま食べようとする物にはどれだけの手間がかかっているか考えよ。例えば一粒の米にも、田を作るために開墾し、籾を種え、耕し、草取りをし、刈入れ、脱穀し、籾殻を取り除き、臼で搗いて糠を取り、洗って炊かなくては食べることは出来ません。その間に流した汗の量を考えよという訳です。
      彼の来処とは、例えば僧がいただく食事は、あるいは施主がその妻子の分を奪って、後世の福を求めてくれたものではないのか、よく考えて見よということです。
  2. 自ら己(おの)が徳行の全欠多減を忖(はか)る。
      おのが徳行とは、自分のしたことは世の中に役に立ったか、ちゃんと坐禅はしたか、経は読んだか、それはこの食事にふさわしいか。
      全は完全になしたか、欠は不完全ではなかったか、多は標準よりも多いこと、これを食べてもお釣がくるほど多くしたか、減は少ないこと足らないのではないか、よく考えよ。
  3. 心を防ぎ過(とが)を顕すには三毒に過ぎず。
      心を防ぐとは、食べたい腹が減ったということに惑わされずに、過を顕すとは、食べ物はよく考えないと毒にもなるぞ。三毒に過ぎず。食い物には三つの毒が有るぞ。
      その一は、上等の食事。これは食うことを楽しみ満腹に満足して、修行どころではなくなる。来世には貪(むさぼり)の罪により、地獄に堕ちて、永遠に苦しむだろう。
      その二は、下等な食事。これは見るのも嫌だ、腹が立つ、まったく修行どころではなくなろう。来世には瞋(いかり)の罪により、餓鬼道に堕ちて、永遠に食い物に在りつけないだろう。
      その三は、中等の食事。これは何も考えず、捨てたりして、勿体無いことをするだろう。来世には痴(おろか)の罪により、畜生道に堕ちて糞を食べ糞を楽しむだろう。
  4. 正に良薬を事とし形苦(ぎょうく)を済(すく)うを取る。
      良薬を事としとは、薬だと思え、形苦は肉体の苦しみ、これを取り除くために食事を取るのだ。腹が減っては修行どころではない、そのための薬だと思え。ここでは二つのことを考えよ。
      その一は車の心棒に差す油だと思え。車が満載の荷物を運ぶのに油は必要であるが、美味である必要がどこにある。
      その二は何日も何日も険しい山道を行かなければならない。険しい道がいつ終わるとも知れないのに食料が尽きてしまい、とうとう一番弱い子供が死んでしまった。この子供の肉を食わなければ自分たちも死んでしまうから、もし食ったとすれば味が好いからもっと食いたいと思うかね。
  5. 道業(どうごう)を成ぜんが為には世報は意に非ず。
      道業とは仏道の修行、この為にのみ食事を取る、世報とは世間的な関心事、長生きしたいと思うのは仏道修行のためであり、食事を取るのは味が好いからではない。

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中国人は非常に実際的な国民性を持っていますが、特に中国人の坊主などという者はもの言いが大変率直でまさに歯に絹を被せずといいますか、何にしろ大甘の日本人などにはとても真似の出来ない所で、驚かれた人もいると思います。まあ中国人を相手にするときは十分気を付けなければいけません。冗談はさて置き、
この他にも『行事鈔』を見てみますと、
衣はこのように思え、ただ寒さ暑さと羞恥を除けばよい。
家はこのように思え、ただ雨と風とを遮ればよい。
食はこのように思え、ただ飢えを除けばよい。
とか、およそ食事は三匙で足りる。
一切の悪を断たんが為に初めの匙。
一切の善を修めんが為に中の匙。
一切の衆生を度(すく)わんが為に後の匙。
仏道に廻向せんが為にその他の菜。
仏道に廻向するとは今食べたものは全て仏道修行に役立てるという意味ですが、
この他にも多く食えば五つの苦しみが有るぞとも言っています。
一には、大便の数が多くなる。
二には、小便の数が多くなる。
三には、睡眠が多くなる。
四には、身が重くなり修行に堪えられない。
五には、しばしば病気に罹り、食べても消化できない。
とか、いろいろあります。

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『勿体無い』は何も食事に限ったものではありません。建って十年もしない何千万もした家を、建て替えるからとあっさり壊してしまう。それも瓦は割り砕き、柱はへし折り、アルミサッシはぐにゃぐにゃに折り曲げ、ガラスは割りといったように狼藉無残を働くようなことが良いわけはありません。
まだ使えるものを埋め立てて後の世に禍根を残すようなことが、どうして出来るのでしょうか。
そろそろこの辺りで我々日本人は反省しなくてはならないでしょう。
『勿体無い』はものごとの本質にせまった実によい言葉です。一時の流行語にしてはなりません。世界にだろうと、日本にだろうと良いものは弘めなければなりません。どんどん弘めてください。

本当に弘めてくださいよ、いい言葉なんだから。

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余談ですが『勿体無い』は二度づつ言ってください。より実感が湧きます。
ああ、勿体無い、勿体無い。
ああ、勿体無い、勿体無い。
ああ、勿体無い、勿体無い。
ああ、勿体無い、勿体無い。
ああ、勿体無い、勿体無い。
とね。
(勿体ない  おわり)