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考えよう
今回は『考える』、これがテーマです。つい最近のことです、トレビアの泉というテレビの番組を見ていました。その中で一つの実験がなされたのですが、それは『このはしわたるべからず。このはしをわたってはいけません。』とこのように書かれた立て札を、ある橋のたもとに立てて、百人の幼稚園児(五才)がその橋を一休さんと同じように正しく渡れるかどうか、百人の中の何人ができるか、それを番組の出演者に当てさせるというものでした。
私は問題が提出されるや即座に0人と声に出して言ってしまいました。結果も予想どおり、案に違わず誰一人『このはしわたるべからず。このはしをわたってはいけません。』を理解できなかったのです。
百人をどのようにして選んだのかそれを知ることは出来ませんが、みな少なくともこの問題を読み取る力があり、その上みな有名小学校の受験を目指しているようでしたから、それなりの家庭の児童らに違いないと思います、皆母親が付き添っていまして、園児が問題を読み解こうとしている間、バンに備え付けられたモニターでその様子を見ていました。
それを我々がまた見るというのが趣向のようで、母親がモニターを見ながら「しっかり。」とか「もっとよく考えて。」などと言っているのが聞こえてきます。
しかしこれ等の母親の誰一人、わが子にはこの問題を解く力がないと見抜けなかったことが、私にはショックでした。いや恐らくは見抜いた人はいたのだが、その人は番組に出なかったということでしょう。
しかし大勢の母親の力不足は実際のことなのです。
 一体、道路でも橋でも、端を歩くという言い方はあるとは思いますが、わが子がそのように言っているのを聞いたことのある人がどれくらいいるのでしょう。
代わってこの問題ならばどうでしょう。
 『はしをもってご飯を食べてはいけません。』この問題を解くことのできる幼稚園児がどれくらいいると親達は思っているのでしょうか。

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しかしどうやら本当に受けなくてはならないショックは「よく考えて。」と言っている人がいたことの方なのですね。『考える』ということについて、思いのほかみな理解していないということなのです。
我々が『考える』とき、実は思い出しているだけで、その場では考えていないことの方が多いのです。ですから無い知識はいくら思い出そうとしても出てこないわけですね。
考えるということは二つの知識を互いに結び付けるという行為ですが、ほとんど大部分が寝ている間とか、ぼんやりしている時とか、別の知識を取り込んでいる時とかに、前もって無意識のうちに完了していて、考えた結果はすでに新しい知識として蓄積されているのです。
子供の知識の量は多くありません、考えてもすぐ結論が出る筈です。だから母親の「もっとよく考えて。」は無駄ということなのですね。まあ「もっとよく落ち着いて。」と言うほうが理に適っているのです。
母親が言う、「もっとよく考えて。」は子供に無駄なストレスを与えているのですよ。

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『考える』ということは、一つの技術ですから、訓練次第でよく考えることも出来るようにはなります。
しかしその『考える』材料、つまり知識がなければ、せっかくの訓練も実を結びません。
一方こんなことも有ります。私は子供のとき、近所の子供たちと遊ぶことが出来ませんでしたので、家の中にばかりいて、字が読めるようになると本ばかり読んでいました。文芸春秋社の小学生全集、改造社の現代日本文学全集、このようなものを読んでいたのですが、大人のものは到底歯が立ちません。
芥川龍之介の上海遊記などには京劇の名優、梅蘭芳(めいらんふぁん)が見事に手鼻をかんだなどとあり、けっこう面白く読んだような気がしますが、同じような普通の紀行文だと思って読んだ永井荷風のあめりか物語とか夏目漱石の倫敦塔などは、振り仮名があるので読むことはできますが、分からないことが多すぎて、一種の敗北感ですか、大人には適わない、ぼくは大人になれるのだろうか、とまあこんな感じですね、そんな感じに打たれたものなのです。
そのせいでしょうか、何事によらず、自信の無い、優柔不断の、知識だけが豊富の空威張り人生が始まったのは。いくら知識に恵まれても良い考えの指導者がいないとだめだという見本でしょう。
人格形成の大切なときに良い導き手がいないと、私のように価値観をよう持たない、要するに大人になりきれないものが出来上がることもあるのですね。本人にとって大人になったという自覚がまったくないのです。

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人間は知識と思考力が十分になり、決断力が付きますと、人として一人前になり、自己が確立するということになります。もう価値観が存在するのですから、その行動には確固たる意志が働いているのです。他から干渉されたくないという思いも出てきます。何でも自分で決めたいと思うようになるのです。ここに至るまでが大切なのですね。
私などは先に述べました二つの全集によって育てられたようなものですが、本のみによって得られた知識はどうも碌なものではないようで、実地に得られた知識にくらべて応用性に欠けます、ものを考える力は私の場合、ついに付かずじまいのままでしたが、これを知識過多の思考力不足による決断力不足と呼ぶとしますと、知識僅少による思考力不要の決断力過多と言ってよいのが、ゲームによって育てられた子供たちではないでしょうか。
ゲームでは常に決断を要求されます、しかもそれが素早い決断なのですね。これがいけません。何でも自分で決断できれば、もう両親を必要としませんね、もう立派な大人なのです。ほんの少しの知識のままで大人になってしまうのですね。もちろん肉体的な成人を言っているのではなく、子供ながらにする精神的な成人、自己の確立、価値観の樹立、これを言っているのですよ。
生きてゆくのに必要な知識が不足したままで、他からの干渉を拒絶するのです。恐ろしくないですか。私は恐ろしいことだと思います。小学生が教室内で切れたり、小中学生の凶悪犯罪といった事件を最近よく見聞きするようになりましたが、このゲームに問題があったのではないでしょうか。

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しかし、もう一歩進んで考えてみましょう。親達はどうでしょう。子供がゲームに夢中になっても、テレビに夢中になっても、はたまたケイタイなんていうものもありますね。子供も大人も歩きながら、自転車に乗りながら、車を運転しながら、みなケイタイに夢中になっています。誰も何とも思わないのでしょうか。
心ここに在らずとは、このことなのですね。これもどうやら日本だけの現象なのだそうです。まったくこの国の将来はどうなるのでしょうね。
我々は何か面白ければよい、あるいは楽しければよい、面白いか、楽しいことだけが関心事だという時代に踏み込んでしまったのです。テレビにはもう高級な笑いは存在しません。クスグリだけが存在しています、くすぐって無理やり笑わそうという番組がはびこっているのですね。人を馬鹿にして笑う、この笑われる人を芸人というそうですが、大勢で一人を笑いものにすることをイジメと呼ぶことを皆さんはご存知ですか。
毎日のようにテレビで見せられて、子供にとってはイジメはもう特殊のことではなくなってしまっているのです。学校ではなんとか自分がイジメの対象とならず、イジメるがわに廻りたいということばかり考えているのですよ。

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よく知りもしない外国の事情を話すことには、大きな抵抗があります、しかし羞じを省みずに受け売りを話しますと、ヨーロッパのある国ではテレビは子供には毒だとして、一日あたり一時間のみ食後のある時間帯に限って子供が見ることを許すそうです。あちらではゲームなどのただ面白いだけのものに対する警戒感が非常に強く、なかなか子供がそれを持つことを許すような親は少なくて、そうでなくともやはり時間を一時間に限って許すことが精々だそうです。私などはこれを聞きますと、良いシステムだと思うのですが、どうでしょう良き手本とすべきではないでしょうか。
ある雑誌の著名な編集者だったと思いますが、こんなことを言っていました。パリでフランス人の友人と一日を共に過ごそうということになり、パリ郊外のディズニーランドに行くことを提案したそうですが、どうもそのフランス人は渋っている、そこで行けば絶対に面白いから、行って損はないから是非行こうと、ある意味、強引に彼を誘って連れ出すことに成功したのです。当時パリのディズニーランドは不思議なほど閑散としていたそうで、二人はあらゆる乗り物、出し物を十分に楽しみ、久しぶりに童心に返って大いに若返ったのでした。楽しい時間もやがて過ぎ終わり、二人は帰路車中の人となったのですが、編集者はフランス人にどうだい楽しんだかい。今度は子供を連れて来てはどうだろうと問うたところ、フランス人は、自分としては十分に楽しんだし、一種の驚きもあって有意義であった。しかしもう一度来ようとは思わないし、子供を連れて来ようとも思わないと答えました。編集者は訝ってその訳を問うたところ、理由ははっきりしている。我々フランス人はものごとが決して見た目どおりでないことを知っている。楽しいもの必ずしも善良とは考えないのだ。だから子供には面白いことよりも、もっと大切なことがあるということを知って欲しい。自分は子供にテレビを見せないほどには旧弊ではないが、子供には何が必要かは常に考えている。ディズニーランドが子供の情操に欠くべからざるものだとは、自分には思えなかったのだと答えたそうです。まあこの話が何に出ていたかどうしても思い出せないので確かめることは出来ませんが、よくフランス人を表わす言葉だとして記憶しておいたのです。

どうですか、考えさせられませんか。
一緒に考えてみませんか。
考えましょう。

考えよう。
(考えよう  おわり)