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運 命
  運命というのは、言わずと知れたあのベートーベンの運命のことです。交響曲第5番 ハ短調 op.67とも言いますというか、どうやらこちらが本名のようですがね。
  とまあこのように持って回ったような言い方を何故するかといいますと、もう十年にもなりますか、NHK教育テレビで女性司会者がこの曲のことを運命と言いますと、解説者の某指揮者が顔を赫くして怒り出したのです。女性司会者も少し困っていましたね。
  しかし日本人の殆どがあの曲を運命と言っているのに、どんな理由があれ、個人的意見にて、あそこまで固執するのかねまったく。何故運命と言われるのか、その訳にはまったく関心がないのかね。とこのように私は思ったのでした。これについて少し考えて見ましょう。
  指揮者が怒ったのはこのような理由による。
1   非難:ベートーベンは運命とは呼ばなかった。
  反論:しかしベートーベンの音楽はどれもこれも運命をモチーフにしていないか? 運命と呼ばなかったからと言って何故運命ではないと言い切れる? 運命との和解と言われているあの最後の弦楽四重奏はいったい何だったのだろうね?
2   非難:表題音楽ではない。
  反論:意味のある言葉かな。音楽はすべて情念が作り出すものではないのかな。ならばそこには何らかの情念からくるモチーフがある筈だろう? 標題音楽でないとどうして言い切れる? もしあの曲に運命のモチーフを見つけることが出来ないようなら、どのようにして人を感動させることが出来るのかね? だいたい標題音楽を何か恥ずかしいもののように考えるのは、そのこと自身が人生に対する無知を表わして、却って恥ずかしいことではないかな。運命こそが人生最大の謎、いかなる音楽といえども解明することの出来ないもの、ベートーベンだからこそ能くその一端を覗かせてくれたと言うべきではないかな。
3   非難:純粋のソナタ形式としての様式をすべて備えた音楽である。
  反論:様式が人を感動させるのかな? 様式が如何に整っていようとカスはカスでしかないだろう?
4   非難:外人には運命などと言う人は一人もいない。
  反論:常に神によって虐げられて来た西洋人にとって、神の意志の現れである運命は当たり前すぎて、そう呼ぶことは気が引ける。又はベートーベンの音楽の全てが運命なので今さらこれのみを運命と呼ぶことは気が差す。等々考えられますが、もしそうではなくて唯だ日本人だけがこの曲に運命を読み取っているのだとしたら、その人達だけが、ベートーベンの心に近づくことが出来るのだから、ぜひ教えを請うべきだと思うね。
  我々が音楽を鑑賞するときに表題があるということは、時に強い味方となってくれます。例えば田園に表題がなかったとしたら、あれほど朝の爽やかを聞き取ることが出来るでしょうか、勿論人にも由ることですから一概には言えませんが、音楽家ではない普通の人にとって、表題は聞くときの心のゆれをなくし、直に作曲家の心と通じ合うキーワードでもあるのです。この故に勝れた表題は誰が付けたとしても有難いものです。例えばハイドンのひばりなどは、最初の何小節かにひばりを思い浮かべるだけで、この曲を聴くときの基点が定まって後は何の滞りもなく一気に時間が通り過ぎて往くのです。
  運命も優れた表題です。この表題があるために、普通の人がこの曲を聞いて、何の差障りもなくベートーベンと交感出来るのです。素晴らしいと思いませんか。
  我々日本人は西洋人とは環境の違い、感情の違い、感覚の違いがあります。一般に西洋人は日本人よりも暗いところでも明るく見え、感じる色相にも違いがあって青に鈍感で黄色に鋭感であるようです。当然音感も異なり、或る小節から受ける感じ方、そこから湧き起こる情念にも違いがあります。日本人の音楽家が西洋で活躍できるのも、その違いに新鮮さを感じるからではないでしょうか。
  しかしそもそも日本人がまともに西洋音楽をして、西洋人と同様に出来る訳はありません。外人の清元、新内と同様だと思わなければなりません。日本人は直ぐに西洋人と同じ様に出来ると思いがちですが、そう錯覚するのは島国根性というものです。もし母親の子守唄を聞いて、あるいは日本語を聞いて育ったのならば、異国で育ったとしても、日本的な情感を捨て去ることは容易ではないのです。
  恐らくカラヤン風、ベーム風、あるいはフルトヴェングラー風といった誰々風、逆にまったく無個性に演奏することは無数にCDがあるので素直に真似れば、あるいは個性を消して中庸でならば容易でしょう。しかし自分なりの個性を際立たせようとすると、聞いているこちらが恥ずかしくなるような妙な違和感を感じさせられることになります。
  このような理由から、偶にショパンコンクールなどで日本人の演奏を聴くと、他の人のCDを聞いたことが有るのだろうか思えるほどリズムが狂っていたり、フレージングかアーティキュレーションで装飾音符の割合を間違えているためにメロディーが体をなしていなかったりと気持ちの悪くなるような演奏も西洋人にしてみれば、また別の趣が有るのかも知れないのです。
  このように西洋人の感覚は知りようもないのですから、無闇に西洋人は何う言ったというようなことは、気にしない方が良いだろうと思うのです。日本人の西洋音楽で貫き通しましょう。気持ち悪いけどね。
(運命  おわり)