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名古屋ボストン美術館
  名古屋ボストン美術館は、ボストン美術館所蔵の優れたコレクションを恒常的にわが国に紹介する唯一の施設です。美術鑑賞の場を広く提供するとともに、伝統あるボストン美術館の広範かつ高水準の美術館活動との提携を通じ、日本の文化振興並びに日米文化交流の進展に寄与することを目的とします。
(名古屋ボストン美術館の公式サイトの案内から)
 名古屋ボストン美術館は、上述の案内に見るように、ボストン美術館の収蔵品を借り出して、それを展示するための美術館で、独自に美術品を収集することはありません。
 しかし文化という観点から言うと、これはどう考えたらよいのだろう。美術館というものは、あくまでも地元の人々の文化的生活を、地元の人々が再確認したり、あるいは他国の人に誇示したりすることを、基本とするべきではないだろうか。
 もちろん他国の文化を広く紹介することは必要です、しかしそれも、それによって地元の文化を刺激し、文化的生活の向上が認められてこそではないでしょうか。
 そもそも文化とは、地方地方によって独自に発展発達した生活の中の遊びの部分であり、地方の風土的な特色を強く匂わすものです。砂漠の中の日本庭園が不自然であることは言うまでもなく、和服が日本的な体型の人によく似合い、ダイアナがいかに美人であろうと、その和服姿の妙に間延びのした不自然さに気が付かない日本人はいないと思います。日本の風土が日本人の体型をつくり、和服をつくり、数奇屋をつくり、日本庭園をつくるのです。
 アメリカ人が強くヨーロッパ文化に引かれ、ヨーロッパ絵画の収集に夢中になることは、自らの先祖の生活を思い、自身の出自を確認し、アメリカ人はぽっと出の田舎者で、文化もよう持たないような者では決してないぞと再確認するために必要なのです。ボストン美術館の収蔵品も、このような基準で収集され展示されています。
 このような観点から見てみれば、名古屋ボストン美術館は日本人が何百億円、何千億円もの巨費を投じて、有難がらなければならない筋合いのものではありません。それどころかアメリカ人自身が自らの費用でもって、アメリカ領事館の中で展示して、自らの文化を宣伝するのが当然でしょう。
 借り物を展示するような常設館をつくって、それで文化が向上するとはとんだ考え違いです。そのようなことで向上するのはただ借り物文化の向上で、恥ずべき考え違いです。
 だいたい日本人は物まね猿で、独自の文化などは、とうてい持つことも敵わず、日本人が自らの文化だと声高に叫んでいるのは、皆中国文化、朝鮮文化の亜流ではないのかと、このように思っている人は外国人の大半を越えているのですよ。それを上書きするような、恥の上塗りのようなことをして、よく平気でいられるものです、あきれて返って言葉もでません。
 アメリカ文化はグローバルな文化だというようなことを言うような人もいるようですが、世界中のいかなる小国の国民といえども、自国の文化こそがグローバルであるべきだ思っています。日本人だけが、そうではないのでしょうか。あるいは名古屋の人だけでしょうか。それとも経済を優先させた結果でしょうか。誰が儲けて、誰が損をしたのでしょうか。馬鹿にされるのは誰でしょうか。馬鹿にするのは誰でしょうか。
 美術館は博物館とおなじで、使われなくなった美術品の墓場です。またそのような意味でこそ、価値があるのです。決して大きな美術館があるから文化が高いのではありません。美術館よりは生活のなかの文化が、すなわち遊びが、それも心の中の遊びが大切なのです。お金ではありません。
 みなさんは、一銭のお金も使わずに遊ぶことができますか、たった一人でも遊べますか、一生でも遊ぶことが出来ますか。もしあなたが文化的であれば、気に入りのたった一枚の絵を眺めているだけで、一生過ごすことができ、それが自分のものでも、自分のものでなくても、少しもかまわないのです。そのような人にこそ美術館も意味があります。美術館が意味を持つのは、さきに文化的な人が必要なのです。名古屋の人はみな、この美術館の設立に関係があります、十分恥じてください。
(名古屋ボストン美術館  おわり)