巻第九十九(下)
大智度論釋曇無竭品第八十九
1.【論】曇無竭菩薩の説法
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大智度論釋曇無竭品第八十九
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】曇無竭菩薩の説法

釋曰薩陀波崙菩薩。雖知諸法空無來去相。未能深入。亦不能解種種法門。於諸佛身恭敬深重故不能觀空。如大海水波其力雖大到須彌山邊則退而無用。薩陀波崙亦如是。雖有大空智力。到佛所則亦無用。 釈して曰く、薩陀波崙菩薩は、諸法の空にして来去の相無きを知ると雖も、未だ深入する能わず。亦た種種の法門を解する能わず、諸仏の身に於いて恭敬し深重するが故に空を観る能わず。大海水の波は其の力大なりと雖も、須弥山の辺に到れば則ち退きて無用なるが如し。薩陀波崙も亦た是の如く、大空智力有りと雖も、仏所に到れば亦た無用なり。
釈す、
『薩陀波崙菩薩』は、
『諸法は空であり!』、
『来去の相が無い!』と、
『知る!』が、
未だ、
『深入しない( cannot understand deeply )!』ので、
『種種の法門』を、
『解することができず!』、
『諸仏の身を恭敬し深く重んじる!』が故に、
『諸仏の身』に、
『空を観ることができない!』。
譬えば、
『大海水の波の力は大ではある!』が、
『須弥山の辺に到れば、退いて!』、
『無用である( be useless )ようなものであるように!』、
『薩陀波崙』も、
是のように、
『大空智力が有りながら
have a huge power based on understanding emptiness )!』、
『仏所に到れば!』、
『無用なのである!』。
  無用(むゆう):◯梵語 ayatna の訳、無功用/無作用( absence of performance or work )の義。◯ avyaapRti の訳、仕事の欠如( luck of occupation or activity )の義。◯ aprayojana, apaarthaka の訳、役立たず( useless )の義。
是故曇無竭菩薩。今為說諸佛無所從來去亦無所至。此中曇無竭自說因緣。所謂諸法如不動相。諸法如即是佛。 是の故に曇無竭菩薩は、今為めに諸仏の従来する所無く、去りて亦た至る所無きを説けり。此の中に曇無竭は自ら因縁を説かく、謂わゆる『諸法の如は不動相にして、諸法の如は即ち是れ仏なり』、と。
是の故に、
『曇無竭菩薩』は、
今、
『薩陀波崙の為めに!』、
『諸仏には従って来た所も、去って至る所も無い!』と、
『説いたのである!』が、
此の中に、
『曇無竭』は、
自ら、
『因縁を説いている!』、謂わゆる、――
『諸法の如は、不動の相である!』が、
『諸法の如』が、
『即ち、仏なのである!』、と。
問曰。何等是諸法如。 問うて曰く、何等か、是れ諸法の如なる。
問い、
何のようなものが、
『諸法の如なのですか?』。
答曰。諸法實相。所謂性空無所得空等諸法門。 答えて曰く、諸法の実相にして、謂わゆる性空、無所得空等の諸の法門なり。
答え、
『諸法の実相であり!』、
謂わゆる、
『性空や、無所得空等のような!』、
『諸の法門である!』。
問曰。摩訶般若波羅蜜。於佛法大乘六波羅蜜中第一法。若無佛則無說般若者。三十二相八十隨形好十力四無所畏等。色無色法等淨妙五眾和合。是故名為佛。如五指和合名為拳。不得言無拳。名字既異形亦異力用亦異。不得言無拳。是故知有佛。 問うて曰く、摩訶般若波羅蜜は、仏法、大乗、六波羅蜜中に於いて第一法なり。若し仏無ければ則ち般若を説く者無し。三十二相、八十随形好、十力、四無所畏等と色、無色法等の浄妙の五衆の和合を、是の故に名づけて仏と為す。五指の和合を名づけて拳と為せば、拳無しと言うを得ざるが如し。名字既に異なれば、形も亦た異なり、力用も亦た異なれば、拳無しと言うを得ず。是の故に仏有るを知る。
問い、
『摩訶般若波羅蜜』は、
『仏法、大乗、六波羅蜜』中の、
『第一の!』、
『法である!』が、
若し、
『仏が無ければ!』、
『般若を説く!』者が、
『無いことになる!』。
『三十二相、八十随形好、十力、四無所畏等と!』、
『色、無色法等の浄妙の五衆と!』が、
『和合する!』が故に、
『仏と称されるのである!』。
譬えば、
『五指の和合を、拳と称したとしても!』、
『拳が無い!』と、
『言うことはできないようなものである!』。
『名字が、既に異なれば!』、
『形( form )や、力用( power and function )が!』、
『異なるはずであり!』、
『拳が無い、と言うことができない!』が故に、
『仏が有る!』と、
『知ることになる!』。
答曰。不然。佛法中有二諦。世諦第一義諦。世諦故言佛說般若波羅蜜。第一義故說諸佛空無來無去。如汝說清淨五眾和合故名為佛。若和合故有。是即為無。 答えて曰く、然らず。仏法中には二諦有り、世諦と第一義諦となり。世諦の故に、『仏は、般若波羅蜜を説きたまえり』、と言い、第一義の故に、『諸仏は空にして、無来、無去なり』、と説く。汝は『清浄の五衆の和合の故に名づけて、仏と為す』、と説けるが如きは、若し和合の故に有らば、是れ即ち無しと為す。
答え、
そうではない!
『仏法』中には、
『二諦が有り!』、
『世諦と!』、
『第一義諦とである!』が、
『世諦』の故に、
『仏が、般若波羅蜜を説かれた!』と、
『言うのであり!』、
『第一義』の故に、
『諸仏は空であり来、去が無い!』と、
『説くのである!』。
お前は、こう説いているが、――
『清浄の五衆の和合』の故に、
『仏』と、
『称するのである!』、と。
若し、
『和合の故に、有ったならば!』、
是の、
『仏』は、
『即ち、無いことになる!』。
如經中佛自說因緣。五眾非佛。離五眾亦無佛。五眾不在佛中。佛不在五眾中。佛非五眾有。何以故。五眾是五。佛是一。一不作五。五不作一。又五眾無自性故虛誑不實。佛自說一切無誑法中我最第一。是故五眾不即是佛。 経中に仏自ら、因縁を、『五衆は仏に非ず、五衆を離れても亦た仏無く、五衆は仏の中に在らず、仏は五衆中に在らず』、と説きたまえるが如く、仏は五衆に非ざる有なり。何を以っての故に、五衆は是れ五、仏は是れ一なり。一は五と作らず、五は一と作らざればなり。又五衆には自性無きが故に虚誑、不実なればなり。仏の自ら説きたまわく、『一切の無誑の法中に我れは最も第一なり』、と。是の故に五衆は即ち是れ仏にあらざるなり。
『経』中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれたように、――
『五衆は、仏でない!』が、
『五衆を離れれば!』、
『仏は無い!』。
『五衆は、仏中に存在せず!』、
『仏』は、
『五衆中に存在しない!』、と。
『仏』とは、
『五衆でない!』、
『有である( is an existence not being the five aggregates )!』。
何故ならば、
『五衆は五である!』が、
『仏』は、
『一であり!』、
『一は、五に作らず!』、
『五』は、
『一に作らないからである!』。
又、
『五衆には自性が無い!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実だからである!』。
『仏』は、自らこう説かれている、――
わたしは、
『一切の無誑法』中に、
『最も第一である!』、と。
是の故に、
『五衆』が、
『即ち、仏だということはないのである!』。
復次若五眾即是佛。諸有五眾者皆應是佛。 復た次ぎに、若し五衆は、即ち是れ仏ならば、諸の五衆有る者は、皆応に是れ仏なるべし。
復た次ぎに、
若し、
『五衆が、即ち仏ならば!』、
諸の、
『五衆を有する!』者は、
『皆、仏でなくてはならない!』。
問曰。以是難故我先說第一清淨五眾三十二相等名為佛。 問うて曰く、是の難を以っての故に我れは先に、『第一清浄の五衆、三十二相等を名づけて、仏と為す』、と説けり。
問い、
是の、
『難』の故に、
わたしは先に、こう説いたのである、――
『第一清浄の五衆や、三十二相等の和合』を、
『仏』と、
『称する!』、と。
答曰。三十二相等菩薩時亦有。何以不名為佛。 答えて曰く、三十二相等は菩薩の時にも亦た有り。何を以ってか名づけて仏と為さざる。
答え、
『三十二相』等は、
『菩薩であった!』時にも、
『亦た、有る!』のに、
何故、
『仏』と、
『称されないのか?』。
問曰。爾時雖有相好莊嚴身而無一切種智。若一切種智在第一妙色身中是即名為佛。 問うて曰く、爾の時は相好有りて、身を荘厳すと雖も、一切種智無し。若し一切種智が、第一妙の色身中に在れば、是れを即ち名づけて仏と為すなり。
問い、
爾の時、
『相好が有って、身を荘厳したとしても!』、
『一切種智』が、
『無いからである!』。
若し、
『一切種智』が、
『第一妙の色身』中に、
『在ったならば!』、
即ち、
『仏』と、
『称されるはずである!』。
答曰。一切種智般若中說是寂滅相無戲論。若得是法則名無所得。無所得故名為佛。佛即是空。如是等因緣故。五眾不得即是佛。離是五眾亦無佛。所以者何。離是五眾更無餘法可說。如離五指更無拳法可說。 答えて曰く、一切種智を般若中には、是れ寂滅相なりと説いて、戯論無し。若し是の法を得れば、則ち無所得と名づけ、無所得なるが故に名づけて仏と為す。仏とは即ち是れ空なれば、是れ等の如き因縁の故に五衆は、即ち是れ仏たるを得ず、是の五衆を離るれば亦た仏無きなり。所以は何んとなれば、是の五衆を離るれば、更に餘法の可説無きこと、五指を離るれば、更に拳の法の可説なる無きが如し。
答え、
『一切種智』を、
『般若』中には、
『寂滅相である!』と、
『説かれており!』、
是の、
『一切種智』には、
『戯論』が、
『無いのであり!』、
若し、
是の、
『法を得たとしても( to understand this dharma deeply )!』、
『所得は無い!』と、
『称されるのであり!』、
『所得が無い!』が故に、
『仏』と、
『称されるのである!』。
『仏とは、即ち空であり!』、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『五衆』は、
『仏ではありえないのである!』が、
是の、
『五衆を離れれば!』、
亦た、
『仏も!』、
『無いのである!』。
何故ならば、
是の、
『五衆を離れれば!』、
更に、
『餘法である、と説けるような!』者が、
any dharma which can be explained that is a certain dharma )!』、
『無いのである!』が、
譬えば、
『五指を離れれば!』、
更に、
『拳である、と説けるような!』、
『法が無いようなものである!』。
問曰。何以故無拳法。形亦異力用亦異。若但是指者不應異。因五指合故拳法生。是拳法雖無常生滅不得言無。 問うて曰く、何を以っての故にか、拳の法の無きに形は亦た異なり、力用も亦た異なる。若し但だ是れ指なれば、応に異なるべからず。五指の合するに因るが故に拳の法生じ、是の拳の法は無常にして生滅すと雖も、『無し』、と言うを得ず。
問い、
何故、
『拳の法が無い!』のに、
『形や、力用が!』、
『異なるのか?』。
若し、
『但だ、是の拳が指ならば!』、
『拳と、指とで!』、
『形や力用が異なるはずがない!』。
『五指の合に因る( due to the united five digits )!』が故に、
『拳という!』、
『法』が、
『生じるのであるから!』、
是の、
『拳の法が無常であり、生滅したとしても!』、
『無い!』と、
『言うことはできない!』。
答曰。是拳法若定有。除五指應更有拳可見。亦不須因五指。如是等因緣離五指更無有拳。佛亦如是。離五眾則無有佛。 答えて曰く、是の拳の法は、若し定んで有らば、五指を除いて応に更に拳有りて可見なるべし。亦た五指に因るを須(ま)たず。是れ等の如き因縁もて五指を離るれば、更に拳有ること無し。仏も亦た是の如く、五衆を離るれば則ち仏有ること無し。
答え、
是の、
『拳の法が、若し定んで有れば!』、
『五指を除いても!』、
更に、
『拳という!』、
『可見の法が有るはずであり!』、
亦た、
『五指の因( the cause originated with five digits )』を、
『須たない( We do not need )!』。
是れ等のような、
『因縁』で、
『五指を離れれば!』、
更に、
『拳』は、
『無いのであり!』、
『仏』も、
是のように、
『五衆を離れれば!』、
則ち、
『仏』は、
『無いのである!』。
佛不在五眾中。五眾不在佛中。何以故。異不可得故。若五眾異佛者。佛應在五眾中。但是事不然。佛亦不在五眾。所以者何。離五眾無佛。離佛亦無五眾。 仏は五衆中に在らず、五衆は仏中に在らず。何を以っての故に、異の不可得なるが故なり。若し五衆が仏と異なれば、仏は応に五衆中に在るべけれど、但だ是の事は然らず。仏は亦た五衆に在らず。何を以っての故に、五衆を離れて仏無く、仏を離るれば亦た五衆無ければなり。
『仏は、五衆中に存在せず!』、
『五衆』は、
『仏中に存在しない!』。
何故ならば、
『仏と五衆の異( the difference between the buddha and the five aggregates )』が、
『不可得だからである!』。
若し、
『五衆が、仏と異なれば!』、
『仏』は、
『五衆中に在るかもしれない!』が、
但だ、
『是の事は然うでなく!』、
『仏』は、
『五衆中にも存在しないのである!』。
何故ならば、
『五衆を離れて、仏は無く!』、
『仏を離れれば!』、
『五衆も無いからである!』。
譬如比丘有三衣缽故可得言有。但佛與五眾不得別異。是故不得言佛有五眾。如是五種求佛不可得故。當知無佛。佛無故無來無去。 譬えば比丘に三衣と鉢と有るが如きは、故に『有り』と言うを得べきも、但だ仏は、五衆と別異を得ざれば、是の故に『仏に五衆有り』、と言うを得ず。是の如く五種に仏を求むるも不可得なるが故に当に、『仏は無し。仏無きが故に来無く、去無し』、と知るべし。
譬えば、
『比丘に三衣や、鉢が有れば!』、
『三衣や、鉢が有る!』と、
『言うこともできる!』が、
但だ、
『仏』は、
『五衆』と、
『別異することができない!』ので、
是の故に、
『仏には、五衆が有る!』と、
『言うことはできない!』。
是のように、
『仏』を、
『五種に求めた!』が、
『不可得であった!』が故に、
『仏は無く!』、
『仏が無いが故に来も、去も無い!』と、
『知らねばならない!』。
問曰。若無佛即是邪見。云何菩薩發心求作佛。 問うて曰く、若し仏無ければ即ち是れ邪見なり。云何が菩薩は発心して、仏と作らんと求むるや。
問い、
若し、
『仏が無ければ、即ち邪見である!』。
何うして、
『菩薩が発心して!』、
『仏に作ろう!』と、
『求めるのですか?』。
答曰。此中言無佛。破著佛想。不言取無佛想。若有佛尚不令取。何況取無佛邪見。又佛常寂滅無戲論相。若人分別戲論常寂滅事。是人亦墮邪見。離是有無二邊處中道。即是諸法實相。諸法實相即是佛。何以故。得是諸法實相名為得佛。 答えて曰く、此の中に、『仏無し』と言いて、仏想に著するを破るも、『無仏の想を取れ』とは言わず。若し仏有らんに、尚お取らしめず。何に況んや無仏の邪見を取らんをや。又仏は常寂滅の無戯論の相にして、若し人、常寂滅の事を分別して戯論せば、是の人は亦た邪見に堕せん。是の有無の二辺を離れて処する中道、即ち是れ諸法の実相にして、諸法の実相は即ち是れ仏なり。何を以っての故に、是の諸法の実相を得るを名づけて仏を得と為せばなり。
答え、
此の中には、
『仏は無い、と言って!』、
『仏想に著する!』のを、
『破った!』が、
而し、
『無仏の想を取れ!』と、
『言ったのではない!』。
若し、
『仏が有った!』としても、
尚お、
『仏想』を、
『取らせず!』、
況して、
『無仏の邪見』を、
『取らせるはずがない!』。
又、
『仏』とは、
『常寂滅であり!』、
『無戯論の相である!』が、
若し、
『人』が、
『常寂滅の事を分別して!』、
『戯論すれば!』、
是の、
『人』は、
亦た、
『邪見に!』、
『堕ちることになる!』。
是の、
『有、無の二辺を離れて!』、
『中道に処すれば!』、
是の、
『中道』が、
『即ち、諸法の実相であり!』、
是の、
『諸法の実相』が、
『即ち、仏なのである!』。
何故ならば、
是の、
『諸法の実相を得ること!』を、
『仏を得る!』と、
『称するからである!』。
復次色等法如相即是佛。色等法性空是如相。諸佛如亦性空。以是故不來不去不生不滅法性實際空無染寂滅。虛空性亦如。無來無去如。乃至虛空性如佛如。是如一無二無三等別異。 復た次ぎに、色等の法の如相は、即ち是れ仏なり。色等の法性なる空は、是れ如の相なり。諸仏の如も亦た性は空なり。是を以っての故に不来、不去、不生、不滅なり。法性、実際、空、無染、寂滅、虚空の性も亦た如なり。無来無去の如、乃至虚空性の如、仏の如、是の如は一にして、二無く、三等の別異無し。
復た次ぎに、
『色等の法』の、
『如の相』が、
『即ち、仏であり!』、
『色等の法性である!』、
『空』が、
『如の相である!』が、
『諸仏の如』も、
『性』は、
『空であり!』、
是の故に、
『仏』は、
『不来、不去、不生、不滅なのである!』。
『法性、実際、空、無染、寂滅、虚空』の、
『性』も、
『如であり!』、
『無来、無去』の、
『性』も、
『如であり!』、
『乃至虚空や、仏』の、
『性』も、
『如である!』が、
是の、
『如は、一であり!』、
『二や、三等の別異が無い!』。
此中自說因緣。何以故。出諸數法無所有故。如等法是實。是中無有憶想分別取相故有名字名字中有數。此中自說因緣。空非實無所有故。 此の中に自ら因縁を説かく、『何を以っての故に、諸の数法を出づる、無所有なるが故なり』、と。如等の法は是れ実なれば、是の中には憶想、分別有ること無し。相を取るが故に名字有りて、名字中に数有り。此の中に自ら因縁を説かく、『空にして、実に非ざるは、無所有なるが故なり』、と。
此の中に、
『曇無竭』は、自ら因縁をこう説いている、――
何故ならば、
『諸の数法を出て!』、
『無所有だからである!』、と。
『如等の法は実であり!』、
是の、
『実』中には、
『憶想も、分別も!』、
『無いのである!』が、
『相を取る!』が故に、
『名字』が、
『有り!』、
『名字』中に、
『数』が、
『有る!』ので、
此の中に、
『曇無竭』は、自ら因縁をこう説いている、――
『数は、空であり!』、
『実でなく!』、
『無所有だからである!』、と。
問曰若是法無所有。云何可見可聞有苦有樂有縛有脫等分別諸異。 問うて曰く、若し是の法が無所有なれば、云何が可見、可聞にして、苦有り、楽あり、縛有り、脱等有りて、諸の異を分別するや。
問い、
若し、
是の、
『色、乃至仏という!』、
『法』が、
『無所有ならば!』、
何故、
『可見、可聞であり!』、
『苦、楽、縛、脱等が有って!』、
『諸の異を分別するのですか?』。
答曰。此中曇無竭自種種分別譬喻說。所謂如春末月見焰。乃至是人不分別諸法若來若去。如焰等中雖無實事亦能誑人自生苦樂事。諸法亦如是。雖空無所有亦能令人得苦樂憂喜事。夢等法亦如是。 答えて曰く、此の中に曇無竭は自ら種種に分別、譬喻して説かく、謂わゆる『春の末月に焔を見るが如く、乃至是の人は諸法の若しは来、若しは去を分別せず』、と。焰等中に実事無しと雖も、亦た能く人を誑せば、自ら苦楽の事を生ぜしむるが如く、諸法も亦た是の如く空、無所有なりと雖も、亦た能く人をして苦楽、憂喜の事を得しむ。夢等の法も亦た是の如し。
答え、
此の中に、
『曇無竭』は、
『自ら、種種に分別、譬喻して説いている!』、
謂わゆる、
『春の末月』に、
『焰を見るようだ!』、
乃至、
『是の人』は、
『諸法の来や、去を分別しない!』、と。
譬えば、
『焔等中には、実事が無くても!』、
『人を誑して!』、
『苦楽の事』を、
『自ら生じさせることができるように!』、
『諸法』も、
是のように、
『空、無所有でありながら!』、
『人に!』、
『苦楽、憂喜の事を得させることができる!』。
亦た、
『夢等の法』も、
『是の通りである!』。
復次佛有二種身。一者法身。二者色身。法身是真佛。色身為世諦故有。佛法身相上種種因緣說諸法實相。是諸法實相亦無來無去。是故說諸佛無所從來去亦無所至。若人得諸佛法身相是名近阿耨多羅三藐三菩提。未得一切智故名為近。以相似故 復た次ぎに、仏には二種の身有りて、一には法身、二には色身なり。法身は、是れ真の仏にして、色身は、世諦の為めの故に有り。仏の法身の相は、上に種種の因縁もて『諸法の実相なり』と説けり。是の諸法の実相も亦た無来、無去なれば、是の故に説かく、『諸仏には従来する所無く、去りて亦た至る所無し』、と。若し人、諸仏の法身の相を得れば、是れを阿耨多羅三藐三菩提に近づくと名づけ、未だ一切智を得ざるが故に名づけて、近しと為す。相似を以っての故なり。
復た次ぎに、
『仏』には、
『二種の身が有り!』、
一には、
『仏』の、
『法身であり!』、
二には、
『仏』の、
『色身である!』。
『法身は、真の仏であり!』、
『色身』は、
『世諦の為めに有る!』。
『仏の法身の相』は、
『上に、種種の因縁を説いた!』、
『諸法の実相である!』。
是の、
『諸法の実相』にも、
『来や、去』は、
『無い!』ので、
是の故に、こう説かれているのである、――
『諸仏』には、
『従来する所も、去って至る所も!』、
『無い!』、と。
若し、
『人』が、
『諸仏の法身の相』を、
『得れば!』、
是れは、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『近づいたということであり!』、
『未だ、一切智を得ていない!』が故に、
『近づく!』と、
『称するのである!』が、
是の、
『人は、仏に相似する!』が故に、
『近づく、と称するのである!』。
般若波羅蜜名諸法實相。若能如是行是為行般若波羅蜜。真佛弟子。 般若波羅蜜を諸法の実相と名づるに、若し能く是の如く行ずれば、是れを般若波羅蜜を行ずる真の仏弟子と為す。
『般若波羅蜜とは、諸法の実相である!』が、
若し、
『是のように行じることができれば( one who can understand thus is )!』、
是れが、
『般若波羅蜜を行じる!』、
『真の仏弟子である!』。
真佛弟子者得諸法實相名為佛。得諸法實相差別故。有須陀洹乃至辟支佛大菩薩。須陀洹等乃至大菩薩。是名真佛弟子。 真の仏弟子とは、諸法の実相を得るを名づけて仏と為すに、諸法の実相を得る差別の故に、須陀洹、乃至辟支仏、大菩薩有り。須陀洹等乃至大菩薩、是れを真の仏弟子と名づく。
『真の仏弟子』とは、――
『諸法の実相を得れば!』、
『仏』と、
『称されるのである!』が、
『諸法の実相を得る!』者にも、
『差別が有る!』が故に、
『須陀洹乃至辟支仏、大菩薩』が、
『有り!』、
『須陀洹等乃至大菩薩』を、
『真の仏弟子』と、
『称するのである!』。
不虛妄食人信施者。布施畜生雖得百倍果報。而此福有盡有量。不能度眾生生死故名為虛食。須陀洹等乃至佛諸賢聖受人信施。此福果報乃至涅槃無盡無量。是故說不虛妄食人信施。 人の信施を食うて虚妄ならずとは、畜生に布施すれば、百倍の果報を得と雖も、此の福は尽有り、量有りて、衆生を生死より度する能わざるが故に名づけて、虚しく食うと為す。須陀洹等乃至仏、諸の賢聖は人の信施を受くるに、此の福の果報は、乃至涅槃まで尽無く、量無し。是の故に『人の信施を食うて虚妄ならず』と説けり。
『人の信施を食いながら、虚妄でない!』とは、――
『畜生に布施すれば!』、
『百倍の果報を得たとしても!』、
此の、
『福』は、
『限量が有り!』、
『衆生を生死より度することができない!』が故に、
『虚しく食う!』と、
『称するのである!』が、
『須陀洹等乃至仏、諸の賢聖』が、
『人の信施を受ければ!』、
此の、
『福の果報』は、
『乃至涅槃を得るまで、限量が無い!』ので、
是の故に、
『人の信施を食うて、虚妄でない!』と、
『説くのである!』。
是人應受一切眾生供養。若須陀洹應受一切凡夫人供養。斯陀含應受凡夫人乃至須陀洹供養。阿那含應受凡夫人及須陀洹斯陀含供養。阿羅漢應受凡夫人須陀洹斯陀含阿那含供養。辟支佛應受凡夫人及須陀洹乃至阿羅漢供養。近成佛大菩薩。應受凡夫人及聲聞辟支佛供養。 是の人は、応に一切の衆生の供養を受くべし。若し須陀洹なれば、応に一切の凡夫人の供養を受くべく、斯陀含なれば応に凡夫人乃至須陀洹の供養を受くべく、阿那含なれば応に凡夫人及び須陀洹、斯陀含の供養を受くべく、阿羅漢なれば応に凡夫人、須陀洹、斯陀含、阿那含の供養を受くべく、辟支仏なれば応に凡夫人及び須陀洹乃至阿羅漢の供養を受くべく、近く仏を成ずる大菩薩は応に凡夫人及び声聞、辟支仏の供養を受くべし。
是の、
『人』は、
『一切の衆生の供養を受ける!』に、
『相応しい!』。
若し、
『須陀洹ならば!』、
『一切の凡夫人の供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
『斯陀含ならば!』、
『一切の凡夫人乃至須陀洹の供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
『阿那含ならば!』、
『一切の凡夫人と須陀洹、斯陀含の供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
『阿羅漢ならば!』、
『一切の凡夫人と須陀洹、斯陀含、阿那含の供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
『辟支仏ならば!』、
『一切の凡夫人と須陀洹乃至阿羅漢の供養を受ける!』に、
『相応しく!』、
『近く仏と成る大菩薩ならば!』、
『一切の凡夫人と声聞、辟支仏の供養を受ける!』に、
『相応しい!』。
為世間福田者。如植種良田成收必多。持戒禪定智慧福田。眾生植福獲果無量。 世間の福田と為すとは、種を良田に植うれば收を成ずること必ず多きが如く、持戒、禅定、智慧の福田に衆生が福を種うれば果を獲ること無量なり。
『世間の福田である!』とは、――
『種を良田に植えれば!』、
『成じる收( the brought harvest )』は、
『必ず多いように!』、
『持戒、禅定、智慧のような福田』に、
『衆生が、福を種えれば!』、
『獲られる果報は、無量なのである!』。
上說諸佛無來無去。薩陀波崙及諸聽者意謂。諸佛尚無。諸法亦應皆滅。則墮斷滅。是故今說因緣法譬喻。 上に諸仏の無来、無去を説くに、薩陀波崙及び諸の聴者の意に、『諸仏すら尚お無し。諸法も亦た応に皆滅すべし』、と謂いて、則ち断滅に墮つれば、是の故に今、因縁の法の譬喻を説けり。
上に、
『曇無竭』が、
『仏には、来も去も無い!』と、
『説いた!』ので、
『薩陀波崙や、諸の聴者』は、
『意』に、こう謂った、――
『諸仏すら、尚お無いのであれば!』、
『諸の法』も、
『皆、滅するはずだ!』、と。
則ち、
『断滅』に、
『堕ちることになり!』、
是の故に、
今、
『因縁の法』を、
『譬喻して説いたのである!』。
曇無竭示薩陀波崙。如汝所著意謂實有者。無為度眾生故從因緣和合則有像現。欲證明此事故說譬喻。如大海中生寶。不從十方來。滅亦無所去。亦不無因緣而生。以四天下眾生福德因緣故海生此寶。 曇無竭の薩陀波崙に示すらく、『汝が著して意に謂う所の如き、実に有る者は無し。衆生を度せんが為めの故に因縁の和合より、則ち像の現ずる有り』、と。此の事を証明せんと欲するが故に譬喻を説かく、『大海中に生ずる宝は、十方より来たらず、滅して亦た去る所無く、亦た無因縁にして生ずるにあらず。四天下の衆生の福徳の因縁を以っての故に、海が此の宝を生ずるが如し』、と。
『曇無竭』は、
『薩陀波崙』に、こう示した、――
『お前が著して、意に謂う!』所のような、
『実に有る!』者は、
『無い!』。
『衆生を度する為め!』の故に、
『因縁の和合より!』、
『像が有り!』、
『現れるだけである!』、と。
此の、
『事を証明しようとして!』、
『譬喻』を、こう説いた、――
譬えば、こういうことである、――
『大海中に生じる宝』は、
『十方より、来たのでもなく!』、
『滅して去る!』所も
『無く!』、
亦た、
『無因縁で!』、
『生じたのでもない!』。
『四天下の衆生の福徳という!』、
『因縁』の故に、
『海』が、
『此の宝を生じたのである!』、と。
若劫盡滅時亦無去處。譬如燈滅焰無所至。佛身亦爾。從初發心所種善根功德皆是佛身相好因緣。 若し劫尽きて滅する時にも、亦た去る所無し。譬えば灯滅するも、焔の至る所無きが如し。仏身も亦た爾り。初発心より種うる所の善根の功徳は、皆是れ仏身の相好の因縁なり。
若し、
『劫が尽きて、世界が滅する!』時にも、
『世界の去る処』が、
『無いのである!』が、
譬えば、
『灯が滅しても!』、
『焔の至る!』所が、
『無いようなものである!』。
『仏身』も、
是の通りであり、
『初発心より種えた!』所の、
『善根の功徳』は、
『皆、仏身の相好の因縁なのである!』。
佛身亦不自在皆屬本因緣。業果報故生是因緣。雖久住性是有為法故必歸無常。散壞則無身。譬如善射之人仰射虛空箭去雖遠必當墮地。諸佛身亦如是。雖相好光明福德成就名稱無量度人無限亦歸磨滅。 仏身も亦た自在ならずして、皆本の因縁に属し、業果報の故に是の因縁を生じ、久しく住すと雖も、性は是れ有為法なるが故に必ず無常に帰して散壊すれば、則ち身無し。譬えば善射の人が仰いで虚空を射るに、箭去りて遠しと雖も、必ず当に地に墮つるが如し。諸の仏身も亦た是の如く、相好、光明の福徳成就し、名称無量にして、人を度すること無限なりと雖も、亦た磨滅に帰するなり。
『仏身も、自在でなく!』、
『皆、本の因縁に属するのであり!』、
『業の果報』の故に、
是の、
『仏身の因縁』を、
『生じる!』ので、
『久住したとしても、性が有為法である!』が故に、
『必ず、無常に帰して!』、
『散壊すれば、身が無くなるのである!』。
譬えば、
『善射の人が仰いで、虚空を射れば!』、
『箭は、遠くまで去るとしても!』、
『必ず、地に堕ちるようなものである!』。
『諸仏の身』も、
是のように、
『相好、光明の福徳が成就し!』、
『名称が無量であり!』、
『人を、無限に度したとしても!』、
亦た、
『磨滅』に、
『帰するのである!』。
問曰。若眾生福德因緣故海生珍寶。何以不近眾生處生。而乃在大海難得之處。 問うて曰く、若し衆生の福徳の因縁の故に海が珍宝を生ずれば、何を以ってか、衆生に近き処に生ぜず、乃ち大海の得難き処に在るや。
問い、
若し、
『衆生の福徳の因縁』の故に、
『海』が、
『珍宝を生じるならば!』、
何故、
『衆生に近い処』に、
『生じず!』、
乃ち( like this )、
『大海という!』、
『得難い処に生じるのか?』。
答曰。海中亦有眾生。龍阿修羅等用是寶。 答えて曰く、海中にも亦た衆生有れば、龍、阿修羅等、是の宝を用う。
答え、
『海中にも、衆生が有り!』、
『龍や、阿修羅』等が、
是の、
『宝』を、
『用いるのである!』。
復次若寶生人中濁世。貪者覆藏不令人得。若好世時珍寶自生。人間無有惜者。如彌勒佛時珍寶如瓦礫。以懈怠懶惰人惜身強作願求樂。是故寶在大海不能得。若大心不惜身命勤求者乃得。 復た次ぎに、若し宝が人中の濁世に生ずれば、貪者は覆蔵して人をして得しめず。若し好世の時なれば、珍宝は自ら人間に生じて、惜む者有ること無きこと、弥勒仏の時の珍宝は瓦礫の如きが如し。懈怠、懶惰の人は身を惜み、強いて願を作して楽を求むるを以って、是の故に宝は、大海に在りて、得る能わず。若し大心が身命を惜まず、勤求すれば、乃ち得るなり。
復た次ぎに、
若し、
『宝が、人中の濁世に生じれば!』、
『貪者が覆蔵して( a greedy man should take it privately )!』、
『人』に、
『得させないようにする!』が、
若し、
『好世の時ならば!』、
『珍宝は、自ら人間に生じて!』、
『惜む!』者は、
『無いのである!』。
譬えば、
『弥勒仏の時ならば!』、
『珍宝』は、
『瓦礫のようである!』が、
『懈怠、懶惰の人が身を惜みながら!』、
『願を作して!』、
『楽を求める!』ので、
是の故に、
『宝は、大海に在って!』、
『得られないのである!』が、
若し、
『大心の人』が、
『身命を惜まず!』に、
『勤求すれば!』、
乃ち( only then )、
『得られるのである!』。
大海水喻十方六道國土。諸珍寶即是諸佛。如珍寶為一切眾生故生。而懈怠懶惰者所不能得。諸佛亦如是。雖為眾生故出世間。懈怠小心貪身著我者不得度。 大海水とは、十方の六道の国土に喻え、諸の珍宝とは、即ち是れ諸仏なり。珍宝は、一切の衆生の為めの故に生ずるも、懈怠、懶惰の者の得る能わざる所なるが如く、諸仏も亦た是の如く、衆生の為めの故に、世間に出づと雖も、懈怠、小心にして身を貪り、我に著する者は度するを得ず。
『大海水』とは、
『十方の六道の国土』を、
『喻え!』、
『諸の珍宝』とは、
即ち、
『諸仏である!』。
譬えば、
『珍宝が、一切の衆生の為めの故に生じた!』としても、
『懈怠、懶惰の者が!』、
『得ることができないように!』、
『諸仏』も、
是のように、
『衆生の為めの故に、世間に出られた!』としても、
『懈怠、小心で身を貪り、我に著する者は!』、
『度を得られない!』。
所以者何。諸法皆從眾緣和合生。眾生有二因緣。故得度。一者內有正見。二者外有善說法者。諸佛雖善說法。眾生內正見不具故不能盡度。如寶物雖為眾生出而有貧窮眾生。諸佛亦如是。雖為眾生出而眾生內正見少故亦不得度。 所以は何んとなれば、諸法は皆、衆縁の和合より生じ、衆生には二因縁有るが故に度を得ればなり。一には内に正見有り、二位は外に法を善く説く者有り。諸仏は法を善く説くと雖も、衆生の内の正見具せざるが故に尽くを度する能わず。宝物は、衆生の為めに出づと雖も、貧窮の衆生有るが如し。諸仏も亦た是の如く、衆生の為めに出づと雖も、衆生の内に正見少ければ、故に亦た度するを得ざるなり。
何故ならば、
『諸法』は、
皆、
『衆縁が和合する!』が故に、
『生じ!』、
『衆生』は、
『二種の因縁が有る!』が故に、
『度』を、
『得るからであり!』、
謂わゆる、
一には、
『正見が有るという!』、
『内の因縁』と、
二には、
『善い説法者が有るという!』、
『外の因縁である!』。
『諸仏が、法を善く説いたとしても!』、
『衆生の内』の、
『正見が具わらない!』が故に、
『尽くを、度することはできない!』。
譬えば、
『宝物が、衆生の為めに出たとしても!』、
『貧窮の衆生』が、
『有るように!』、
『諸仏』も、
是のように、
『衆生の為めに出たとしても!』、
『衆生の内の正見が少い!』が故に、
『度を得られないのである!』。
復有箜篌譬喻。有槽有頸有皮有絃有棍有人以手鼓之。眾緣和合而有聲。如聲亦不在眾緣中。離眾緣亦無聲。以因緣和合故有聲可聞。諸佛身亦如是。六波羅蜜及方便力。眾因緣和合邊生佛身。不在六波羅蜜等法中。亦不離六波羅蜜等法。 復た箜篌の譬喻有り、槽有り、頚有り、皮有り、絃有り、棍有り、人の手を以って之を鼓つ有れば衆縁和合して声有るに、声も亦た衆縁中に在らず、衆縁を離れても亦た声無く、因縁和合を以っての故に声の聞くべき有るが如く、諸仏の身も亦た是の如く、六波羅蜜及び方便力なる衆因縁の和合の辺に仏身を生ずれば、六波羅蜜等の法中に在らず、亦た六波羅蜜等の法を離れず。
復た、
『箜篌の譬喻が有り!』、
『槽、頚、皮、絃、棍が有り!』、
『人の手が有って!』、
『之を鼓てば!』、
『衆縁の和合』の故に、
『声』が、
『有る!』ので、
『声は、衆縁中に存在せず!』、
『衆縁を離れれば!』、
『声も無く!』、
『因縁の和合』の故に、
『声が有って!』、
『聞くことができるように!』、
『諸仏の身』も、
是のように、
『六波羅蜜や方便力のような!』、
『衆因縁の和合の辺』に、
『仏身を生じるのであり!』、
『仏身』は、
『六波羅蜜等の法』中に、
『存在せず!』、
亦た、
『六波羅蜜等の法』を、
『離れることもないのである!』。
如聲不以一因緣亦非無因緣。佛身亦如是。不從無因緣亦不從少因緣。諸善法因緣具足故生諸佛身。如鏡中像眾因緣和合故有。眾緣離故無。諸佛亦如是。有諸因緣故出現。諸因緣散故滅。 声の一因縁を以ってにあらず、亦た無因縁にも非ざるが如く、仏身も亦た是の如く、無因縁に従らず、亦た少因縁に従らず、諸の善法の因縁具足するが故に諸仏の身を生ず。鏡中の像の衆因縁の和合の故に有り、衆縁を離るるが故に無きが如く、諸仏も亦た是の如く、諸の因縁有るが故に出現し、諸の因縁散ずるが故に滅するなり。
譬えば、
『声』が、
『一因縁』の故に、
『有ることはなく!』、
亦た、
『無因縁』の故に、
『有ることもないように!』、
『仏身』も、
是のように、
『因縁』が、
『無かったり、少かったりすれば!』、
『生じることはなく!』、
『諸の善法という!』、
『因縁が具足する!』が故に、
『諸仏の身』を、
『生じる!』。
譬えば、
『鏡中の像』が、
『衆因縁の和合の故に有り!』、
『衆縁が離散する!』が故に、
『無くなるように!』、
『諸仏』も、
是のように、
『諸の因縁が有るが故に出現し!』、
『諸の因縁が離散する!』が故に、
『滅するのである!』。
善男子。應如是觀諸佛來去相。一切諸法相亦應如是知。曇無竭語薩陀波崙。善男子。汝能知諸法相不來不去。必得阿耨多羅三藐三菩提不退轉。亦必能行般若波羅蜜及方便力。何以故。一切法無障礙故。 善男子、応に是の如く諸仏の来去の相を観ずべく、一切の諸法の相も亦た応に是の如く知るべし。曇無竭の薩陀波崙に語らく、『善男子、汝、能く諸法の相の不来、不去なるを知れば、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得るまで退転せず、亦た必ず能く般若波羅蜜及び方便力を行ぜん。何を以っての故に、一切法に障礙無きが故なり』、と。
――
善男子!
是のように、
『諸仏』の、
『来、去の相』を、
『観るべきであり!』、
亦た、
『一切の諸法の相も、是の通りである!』と、
『知らねばならない!』。
『曇無竭』は、
『薩陀波崙』に、こう語った、――
善男子!
お前が、
『諸法の相』は、
『不来、不去である!』と、
『知ることができれば!』、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
『退転しないだろう!』。
亦た、
必ず、
『般若波羅蜜と方便力』を、
『行じることができるだろう!』。
何故ならば、
『一切の法』は、
『障礙が無いからである!』、と。
問曰。釋提桓因何以化作曼陀羅華與薩陀波崙。 問うて曰く、釈提桓因は何を以ってか曼陀羅華を化作し、薩陀波崙に与うるや。
問い、
『釈提桓因』は、
何故、
『曼陀羅華を化作して!』、
『薩陀波崙に与えたのですか?』。
答曰釋提桓因愛樂佛道故常供養諸菩薩。 答えて曰く、釈提桓因は仏道を愛楽するが故に常に諸の菩薩を供養すればなり。
答え、
『釈提桓因』は、
『仏道』を、
『愛楽する!』が故に、
常に、
『諸の菩薩』を、
『供養するからである!』。
復次釋提桓因欲攝眾生令入佛道故現天王身以華與薩陀波崙。薩陀波崙一心求佛道故。諸天來供養。眾生見者皆亦發心釋提桓因為引導眾生故。供養薩陀波崙。 復た次ぎに、釈提桓因は衆生を摂して、仏道に入らしめんと欲するが故に、天王の身を現して、華を以って、薩陀波崙に与う。薩陀波崙は一心に仏道を求むるが故に諸天来たりて供養すれば、衆生の見る者は皆、亦た発心す。釈提桓因は衆生を引導せんが為めの故に薩陀波崙を供養するなり。
復た次ぎに、
『釈提桓因』は、
『衆生を摂して!』、
『仏道』に、
『入らせようとする!』が故に、
『天王の身を現して!』、
『華』を、
『薩陀波崙に与えた!』が、
『薩陀波崙』が、
『一心に仏道を求める!』が故に、
『諸天が来て、供養する!』と、
『衆生の見た者が、皆発心するからであり!』、
『釈提桓因』は、
『衆生を引導する為め!』の故に、
『薩陀波崙』を、
『供養するのである!』。
有人言。釋提桓因深愛敬薩陀波崙。上品來試已令身體平復。今復以華與之。釋提桓因力能與一切人華。以眾生無福力故。設當與者華即變壞。薩陀波崙福德成就故得必不變。是故與。 有る人の言わく、『釈提桓因は薩陀波崙を深く愛敬すれば、上の品より来、試し已りて、身体をして平復せしめ、今復た華を以って之に与う。釈提桓因の力は能く一切の人に華を与うるも、衆生には福力無きを以っての故に、設当(も)し与うれば、華は即ち変壊せん。薩陀波崙は福徳成就するが故に得れば必ず変ぜず。是の故に与うるなり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『釈提桓因は、薩陀波崙を深く愛敬している!』ので、
上の品已来、
『薩陀波崙を試し已れば!』、
『身体』を、
『平復させた!』し、
今復た、
『華』を、
『薩陀波崙』に、
『与えたのである!』。
『釈提桓因の力』は、
『一切の人に、華を与えることができる!』が、
『衆生』には、
『福力』が、
『無い!』が故に、
『設当し、与えたとしても!』、
『華』は、
『即ち、変壊するだろう!』。
『薩陀波崙』は、
『福力が成就している!』が故に、
『華を得れば!』、
『必ず、変じないのであり!』、
是の故に、
『華』を、
『与えたのである!』、と。
若一切菩薩供養師時。不盡與應守護供養者。先已說因緣。所謂割肉出血試以成親舊故守護。 若し一切の菩薩が師を供養する時、尽くを与えざるも、当に供養者を守護すべきこと、先に已に因縁を説けり。謂わゆる肉を割き、血を出して試せば、親旧を成ぜしを以っての故に守護せり。
若し、
『一切の菩薩』が、
『師を供養する時、尽くを与えなくても!』、
『釈提桓因』は、
『供養者を守護するはずである!』が、
先に已に、
『因縁を説いている!』、――
『謂わゆる肉を割り血を出して、試した!』ので、
『親旧の関係』を、
『成じており!』、
是の故に、
『守護するのである!』、と。
  親旧(しんきゅう):親戚と旧友( relatives and old friends )。
復次釋提桓因此中自說因緣。所謂汝因緣力故饒益百千等眾生。薩陀波崙取華如其意供養曇無竭。薩陀波崙初聞師名。後眼見聞法斷疑故以身供養。長者女等亦效薩陀波崙。以身施薩陀波崙。 復た次ぎに、釈提桓因は、此の中に自ら因縁を説けり。謂わゆる『汝は、因縁力の故に百千等の衆生を饒益せん』、と。薩陀波崙は華を取りて、其の意の如く、曇無竭を供養す。薩陀波崙は初めに師の名を聞き、後に眼に見て、法を聞き、疑を断ずるが故に身を以って供養す。長者女等も亦た薩陀波崙に效(なら)いて、身を以って薩陀波崙に施す。
復た次ぎに、
『釈提桓因』は、
此の中に、
『自ら、因縁を説いている!』、謂わゆる、――
お前は、
『因縁の力』の故に、
『百千等の衆生を饒益するだろう!』、と。
『薩陀波崙』は、
『華を取って!』、
『意のままに!』、
『曇無竭を供養した!』。
『薩陀波崙』は、
初は、
『師の名』を、
『聞いただけである!』が、
後に、
『眼に見て、法を聞き!』、
『疑』を、
『断じた!』が故に、
『身を用いて!』、
『師』を、
『供養したのである!』が、
『長者女』等も、
亦た、
『薩陀波崙に效って( imitating Sada-Prarudita )!』、
『身』を、
『薩陀波崙に施した!』。
  (きょう):ならう。模倣する/影響を受ける( imitating sb. or being affected )。
問曰。薩陀波崙以身供養曇無竭。曇無竭福田大。女何以不以身供養而與薩陀波崙。 問うて曰く、薩陀波崙の身を以って曇無竭を供養するは、曇無竭の福田は大なればなり。女は、何を以ってか、身を以って供養せず、薩陀波崙に与うるや。
問い、
『薩陀波崙』が、
『身を用いて、曇無竭を供養した!』のは、
『曇無竭という福田』が、
『大だからである!』が、
『女』は、
何故、
『身を用いて、曇無竭を供養せず!』、
『身』を、
『薩陀波崙に与えたのですか?』。
答曰。女人智短著多故不用捨本師而供養他又以女身罪穢心雖清白為外有譏謗故。 答えて曰く、女人は智短く、著多きが故に本師を捨つるを用いて、他を供養せざればなり。又女身の罪、穢を以って、心は清白なりと雖も、外には、譏謗する有るが為の故なり。
答え、
『女人』は、
『智が短く、著が多い!』が故に、
『本師を捨ててまで!』、
『他』を、
『供養することはないからである!』。
又、
『女身の罪、穢』の故に、
『心が清白であっても!』、
『外には!』、
『譏謗する者が有るからである!』。
問曰。長者女初捨父母已屬薩陀波崙。今何以復以身施。 問うて曰く、長者女は初め父母を捨て已りて、薩陀波崙に属するに、今は何を以ってか、復た身を以って施すや。
問い、
『長者女』は、
初めに、
『父母を捨てて!』、
『薩陀波崙』に、
『属したのに!』、
今、
何故、復た、
『身』を、
『薩陀波崙に施したのですか?』。
答曰。初捨父母共薩陀波崙詣曇無竭。為法故供養。亦不自以身施。父母亦不以施薩陀波崙。今見薩陀波崙問甚深義。曇無竭為解說。釋提桓因歡喜供養。是故發歡喜心以身供養。以自在心故。 答えて曰く、初めに父母を捨てて、薩陀波崙と共に曇無竭に詣(いた)るは、法の為の故に供養して、亦た自ら身を以って施すにあらず。父母も亦た以って薩陀波崙に施すにあらず。今、薩陀波崙の甚深の義を問うて、曇無竭の為に解説し、釈提桓因の歓喜して供養するを見て、是の故に歓喜心を発して身を以って供養するは、自在の心を以っての故なり。
答え、
初めに、
『父母を捨てて!』、
『薩陀波崙と共に、曇無竭に詣った!』のは、
『法の為め!』に、
『供養したのであり!』、
自ら、
『身』を、
『施したのではない!』。
『父母』も、
『女を!』、
『薩陀波崙』に、
『施したのではない!』。
今、
『薩陀波崙が、甚深の義を問うて!』、
『曇無竭が、薩陀波崙の為に解説し!』、
『釈提桓因が歓喜して、薩陀波崙を供養する!』のを、
『見て!』、
是の故に、
『歓喜心を発して!』、
『自ら、身を供養したのであり!』、
『自在の心で!』、
『身を供養したのである!』。
又一切女身無所繫屬則受惡名。女人之禮。幼則從父母。少則從夫。老則從子。是長者女等雖道路共來不得久無所屬。是故自以身施而作是願。如師所得。我等亦當得之。 又、一切の女身は、繋属する所無ければ、則ち悪名を受くればなり。女人の礼は、幼ければ則ち父母に従い、少ければ則ち夫に従い、老いれば則ち子に従う。是の長者女等は、道路を共に来たりと雖も、久しく所属無きを得ず。是の故に自ら、身を以って施して、是の願を作さく、『師の所得の如きを、我等も亦た当に之を得べし』、と。
又、
『一切の女身』は、
『所属が無ければ!』、
『悪名』を、
『受けることになるからである!』。
『女人の礼』は、
『幼ければ、父母に従い!』、
『少ければ、夫に従い!』、
『老いれば、子に従うものである!』が、
是の、
『長者女等は、道路を共に来ながら!』、
『所属の無いまま!』、
『久しくしてはいられない!』ので、
是の故に、
『自ら、身を施して!』、こう願ったのである、――
わたし達も、
『師が得られたように!』、
『法を得なければならない!』、と。
爾時薩陀波崙欲以此女供養曇無竭。慮其嫌恨故問。汝等實以誠心供養我當受。汝 爾の時、薩陀波崙は此の女を以って曇無竭を供養せんと欲するも、其の嫌恨を慮るが故に問わく、『汝等は実に誠心を以って、我れを供養すれば、当に汝を受くべし』、と。
爾の時、
『薩陀波崙』は、
此の、
『女を用いて!』、
『曇無竭を供養しようとした!』が、
其の、
『嫌恨を慮って!』、こう問うた、――
お前達が、
『実に、誠心より!』、
『わたしを、供養するのであれば!』、
わたしも、
『お前達を!』、
『受けよう!』、と。
  嫌恨(けんこん):不満に思うこと( having a grudge against something )。
誠心者不自用心隨所處分如無心物。諸女人等言實以誠心。即時薩陀波崙以長者女并諸侍女及五百乘車奉上曇無竭。 誠心とは、自らの心を用いず、処する所の分に随うこと、無心の物の如きなり。諸の女人等の言わく、『実に誠心を以ってす』、と。即時に薩陀波崙は、長者女、并びに諸の侍女、及び五百乗の車を以って曇無竭に奉上す。
『誠心』とは、
『自らの心を用いることなく!』、
『処する所の分に随って( obeying the situation where they are )!』、
『無心の物のようだからである!』。
『諸の女人』等が、
『実に、誠心より供養します!』と、
『言う!』と、
即時に、
『薩陀波崙』は、
『長者女と、五百の侍女や五百乗の車』を、
『曇無竭に奉上した!』。
薩陀波崙欲除世人常疑。謂其欺誑長者將諸女來。是故盡以布施明己無著。 薩陀波崙は、世人の常に疑いて、『其れ長者を欺誑して、諸女を将いて来たり』、と言うを除かんと欲し、是の故に、尽く布施するを以って、己れに著無きを明らかにす。
『薩陀波崙』は、
『世人が、常に疑って!』、こう謂うので、――
『薩陀波崙は、長者を欺誑して!』、
『諸女』を、
『将いて来たのだ!』、と。
此の、
『疑』を、
『除こうとして!』、
是の故に、
『尽くを布施して!』、
『己れには、著が無い!』と、
『明かしたのである!』。
復次薩陀波崙如空中聲所聞得解歡喜。如世人所貴內外物盡以供養。欲深入檀波羅蜜門故。 復た次ぎに、薩陀波崙は空中の声の所聞を解し得て歓喜するが如き、世人の貴ぶ所の内外の物を、尽く以って供養するが如きは、檀波羅蜜の門に深入せんと欲するが故なり。
復た次ぎに、
『薩陀波崙』は、
『空中の声』の、
『聞いた所を解することができて!』、
『歓喜したり!』、
『世人の貴ぶ所である!』、
『内外の物』を、
『尽く、供養したのである!』が、
是のようにして、
『檀波羅蜜の門』に、
『深入しようとしたからである!』。
釋提桓因知薩陀波崙愛貪等煩惱未盡而能盡捨內外布施無復遺餘故讚言善哉。以過去佛為喻。行難事故得難得果報。所謂阿耨多羅三藐三菩提。 釈提桓因は、『薩陀波崙は、愛貪等の煩悩の未だ尽きざるに、能く尽く内外を捨てて布施し、復た遺餘無し』、と知るが故に、讃じて、『善い哉』、と言い、過去仏を以って、『難事を行ずるが故に難得の果報、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提を得たり』、と喻を為す。
『釈提桓因』は、
『薩陀波崙は、未だ愛、貪等の煩悩が尽きていない!』が、
『内外を尽く捨てて布施することができ、復た遺餘が無い!』と、
『知り!』、
是の故に、
『薩陀波崙を讃じて!』、
『善いぞ、と言い!』、
『過去の仏を喻として!』、こう言った、――
『難事を行じた』が故に、
『難得の果報である、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提を得られたのだ!』、と。
問曰。若曇無竭欲令薩陀波崙善根具足故受。善根者所謂具足檀波羅蜜。何以故還與薩陀波崙。 問うて曰く、若し曇無竭が、薩陀波崙の善根をして具足せしめんと欲するが故に受くれば、善根とは謂わゆる檀波羅蜜を具足するに、何を以ってか、還って薩陀波崙に与うる。
問い、
若し、
『曇無竭』が、
『薩陀波崙の善根を具足させようとして!』、
『受けたとすれば!』、
『善根とは、謂わゆる檀波羅蜜を具足することである!』のに、
何故、
『薩陀波崙に還して!』、
『与えたのですか?』。
答曰。曇無竭大智方便。令薩陀波崙大得福德而無所失是謂上受薩陀波崙至誠心施。斷諸貪著不望還得福德具足。曇無竭思惟。薩陀波崙遠來而於五欲心不染著。舊人供養為善。是故還與。 答えて曰く、曇無竭の大智の方便は、薩陀波崙をして大いに福徳を得しめて、失う所を無からしむ。是れを謂わく、『上には、薩陀波崙の至誠心の施を受けて、諸の貪著を断ず還って福徳の具足するを得るを望まず』、と。曇無竭の思惟すらく、『薩陀波崙の遠く来たるは、五欲に於いて、心に染著せざればなり』、と。旧人の供養を善と為せば、是の故に還って与うるなり。
答え、
『曇無竭の大智、方便』は、
『薩陀波崙』に、
『大いに、福徳を得させながら!』、
『失う所を、無くさせた!』。
是れは、こう謂うことである、――
上に、
『薩陀波崙より!』、
『至誠心の施を受けて!』、
『諸の貪、著を断じさせた!』が、
還って、
『薩陀波崙』の、
『福徳を具足させよう!』とは、
『望まなかった!』、と。
『曇無竭』は、こう思惟した、――
『薩陀波崙が、遠くより来た!』のは、
『心が、五欲に染著していないからである!』が、
『旧人を供養するのは、善いことである
it is good that one gives something to his friend )!』、と。
是の故に、
『還って!』、
『与えたのである!』。
又聞諸女先以身上薩陀波崙。人非財物欲遂其本意故。又是諸女世世為薩陀波崙弟子如是等因緣故還與薩陀波崙。 又、諸女の先に身を以って、薩陀波崙に上(ささ)ぐるを聞くに、人は財物に非ずして、其の本意を遂げんと欲するが故なり。又、是の諸女は世世に薩陀波崙の弟子なれば、是れ等の如き因縁の故に還って薩陀波崙に与えたり。
又、
『諸女』が、
『先に、身を薩陀波崙に上げた!』と、
『聞いており!』、
『人は、財物でない!』ので、
『諸女の本意を遂げさせたい!』と、
『欲した!』が故に、
又、
是の、
『諸女』は、
『世世に、薩陀波崙の弟子であった!』が故に、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『薩陀波崙に還して!』、
『与えたのである!』。
問曰。諸大菩薩說法不應疲極。何以入宮。 問うて曰く、諸の大菩薩は法を説いて、応に疲極すべからず。何を以ってか宮に入れる。
問い、
『諸の大菩薩』は、
『法を説いても!』、
『疲極するはずがない!』のに、
何故、
『宮』に、
『入ったのですか?』。
答曰。隨世人法故。又眾香城中眾生不常求道。或時厭息受五欲樂。諸天常受五欲故妨廢求道。有菩薩所住國常勤精進不受五欲。是眾香城眾生本願雜受。曇無竭隨其志願欲引導之故生其國。是故以眾生聽法疲惓起入宮中。 答えて曰く、世人の法に随えるが故なり。又衆香城中の衆生は、道を求むるに常ならず、或は時に厭息して五欲の楽を受く。諸天は常に五欲を受くるが故に求道を妨廃す。有る菩薩の所住の国は、常に勤精進して五欲を受けざるも、是の衆香城の衆生は、本願に受を雑うれば、曇無竭は、其の志願に随いて、之を引導せんと欲するが故に、其の国に生ず。是の故に衆生の聴法に疲倦するを以って、起ちて宮中に入れり。
答え、
『曇無竭』は、
『世人の法』に、
『随ったからである!』が、
又、
『衆香城中の衆生』は、
『常に!』、
『道を求めていたのではなく!』、
或は時に、
『道を求めるのに厭きて、息み!』、
『五欲の楽』を、
『受けたからである!』。
『諸天』は、
『常に、五欲を受ける!』が故に、
『求道』を、
『妨廃するものである!』が、
有る、
『菩薩の所住の国』は、
『常に、勤精進して!』、
『五欲の楽を受けない!』が、
是の、
『衆香城の衆生』は、
『求道の本願』に、
『五欲の楽を受けること!』を、
『雑える!』ので、
『曇無竭』は、
『衆香城の衆生の志願に随って!』、
『衆香城の衆生』を、
『引導しようとし!』、
是の故に、
『衆香城の国』に、
『生じた!』ので、
是の故に、
『衆生が、聴法に疲倦した!』時、
『座を起って!』、
『宮中に入ったのである!』。
  厭息(えんそく):興味を失って休息する( to lose interest and stop it )。
  妨廃(ぼうはい):他人を妨碍し、自ら廃棄する( to obstruct others and abandon one's own work )。
又未得道者。法雖微妙常聞故生疲厭心。是眾中有是人故。又曇無竭在是中受富樂人法故日沒應息。 又未だ道を得ざる者は、法は微妙なりと雖も、常に聞くが故に疲厭心を生ずるに、是の衆中にも、是の人有るが故に、又曇無竭も、是の中に在りて、富楽の人法を受くるが故に、日没には応に息むべし。
又、
『未だ、道を得ない!』者は、
『法が、微妙であったとしても!』、
『常に、聞いている!』が故に、
『心に、疲厭を生じる!』が、
是の、
『衆香城の衆』中にも、
是のような、
『人』が、
『有るからであり!』、
又、
『曇無竭』は、
是のような、
『衆中に在って!』、
『富楽という!』、
『人法』を、
『受けている!』ので、
是の故に、
『日没には!』、
『当然、息むのである!』。
是時薩陀波崙作是念。我為法來不應坐臥。問曰。為法故何以不應坐臥。 是の時、薩陀波崙はの是の念を作さく、『我れは法の為に来たれば、応に坐臥すべからず』、と。問うて曰く、法の為の故なれば、何を以ってか、応に坐臥すべからざる。
是の時、
『薩陀波崙』は、こう念じた、――
わたしは、
『法の為に、来たのである!』から、
『坐臥すべきでない!』、と。
問い、
『法の為めの故に、来たならば!』、
何故、
『坐臥すべきでないのですか?』。
答曰。無是定法。此人大欲大精進恭敬法故自作是念。我若坐臥則是懶惰。我初求法時身尚不惜何況疲惓。是故不坐臥。大欲大精進與坐臥相違故。 答えて曰く、是の定法無し。此の人は、大欲、大精進もて法を恭敬するが故に、自ら是の念を作さく、『我れ若し坐臥すれば、則ち是れ懶惰なり。我れは初め法を求めし時、身すら尚お惜まず。何に況んや疲倦するをや』、と。是の故に坐臥せず。大欲、大精進は坐臥と相違するが故なり。
答え、
是のような、
『定法は無い!』が、
此の、
『人』は、
『大欲、大精進の人であり!』、
『法』を、
『恭敬していた!』が故に、
自ら、こう念じたのである、――
わたしが、
若し、
『坐臥すれば!』、
『懶惰だということになる( so that I am certainly lazy )!』。
わたしは、
『初めて、道を求めた!』時には、
『尚お、身すら惜まなかった!』のに、
『況して、疲倦することなどあろうか?』、と。
是の故に、
『坐臥しなかったのである!』が、
何故ならば、
『大欲や、大精進』は、
『坐臥』と、
『相違するからである!』。
又坐臥則不勤力。行立則勤力精進。是故常住二威儀以待師出。 又、坐臥すれば則ち勤力ならず。行立は則ち勤力、精進なり。是の故に常に二威儀に住して、以って師の出づるを待てり。
又、
『坐、臥は勤力の相でなく!』、
『行、立』が、
『勤力、精進の相である!』ので、
是の故に、
『常に、二威儀に住して!』、
『師が出られるのを、待ったのである!』。
  勤力(ごんりき):勤勉努力( being diligent and making effort )。
問曰。薩陀波崙先知師七歲不出不。 問うて曰く、薩陀波崙は先に師の七歳出でざるを知るや不や。
問い、
『薩陀波崙』は、
先に、
『師が、七歳出られない!』のを、
『知っていたのですか?』。
答曰。初來不知故。又復曇無竭亦常七歲不出。以因緣故。自誓七歲入定。薩陀波崙自誓師未出終不坐臥。又大人世間法尚不自違。何況為道法。又以初求法時尚不惜身今立七歲。何足為難。 答えて曰く、初より来、故を知らず。又復た曇無竭も亦た常に七歳出でず、因縁を以っての故に自ら七歳定に入るを誓えばなり。薩陀波崙は、自ら、師の未だ出でざれば、終に坐臥せず、と誓えり。又大人は世間法すら尚お自ら違わず、何に況んや道の為の法をや。又初めて法を求めし時すら、尚お身を惜まざるを以って、今七歳立つに、何ぞ難しと為すに足らんや。
答え、
初より、
『故( the incident of Dharma-udgata to enter samadhi during 7 years )』を、
『知らなかった!』し、
又復た、
『曇無竭にしても!』、
『七歳出ない!』のは、
『常であり!』、
『因縁の故に( for some reason )!』、
自ら、
『七歳定に入ること!』を、
『誓っていたからである!』。
『薩陀波崙』は、
自ら、
『師が未だ出られなければ、終に坐臥することはない!』と、
『誓ったのである!』が、
又、
『大人』は
『世間法すら、尚お自ら違うことはなく!』、
況して、
『道の為の法』は、
『尚更である!』。
又、
『初めて、法を求めた!』時すら、
尚お、
『身』を、
『惜まなかったのである!』が故に、
今、
『七歳!』、
『立ったところで!』、
何故、
『難しと為す!』に、
『足るのか?』。
問曰。人身軟弱。何能七歲不坐不臥。 問うて曰く、人身は軟弱なるに、何んが能く七歳坐せず、臥せざる。
問い、
『人身は、軟弱である!』のに、
何うして、
『七歳も!』、
『坐臥せずにいられるのですか?』。
答曰。是時人壽命長。雖復七歲如今七日。 答えて曰く、是の時は、人の寿命長くして、復た七歳なりと雖も、今の七日の如し。
答え、
是の時、
『人は、寿命が長かった!』ので、
復た( for the same reason )、
『七歳であったとしても!』、
『今の七日ぐらいである!』。
又好世人身福德力大。雖立七歲不以為難。如勤比丘年六十始出家。而自結誓我脅不著席要盡得聲聞所應得事。乃至得六神通阿羅漢。作四阿含優婆提舍。於今大行於世。此人於惡世尚爾。何況薩陀波崙生於好世。又身力雖弱以心強故能辦其事。 又、好世の人身は福徳の力大なれば、立つこと七歳なりと雖も、以って難しと為さざるなり。勤比丘の如きは、年六十にして始めて出家し、而も自ら、『我れは脇を席に著けずして、要ず尽く、声聞の応に得べき所の事を得て、乃至六神通の阿羅漢を得ん』、と誓を結びて、四阿含の優婆提舎を作りて、今に於いて世に大いに行わる。此の人は悪世に於いてすら尚お爾り。何に況んや、薩陀波崙の好世に生ずるをや。又身、力弱しと雖も、心の強きを以っての故に、能く其の事を辦ずるなり。
又、
『好世の人』は、
『身の福徳の力が大であり!』、
『七歳立ったとしても!』、
『難しとは為さないのである!』。
譬えば、
『勤比丘など!』は、
『年が六十で、始めて出家した!』のに、
自ら、
『わたしは脇を席に著けずに、要ず声聞の得べき事を尽く得て!』、
『乃至六神通の阿羅漢を得よう』と、
『誓を結び!』、
『四阿含の優婆提舎を作った!』ので、
『今に於いても!』、
『世に!』、
『大いに流行している!』が、
此の、
『人』は、
『悪世に於いてすら!』、
『尚お、是の通りである!』。
況して、
『薩陀波崙は、好世に生まれた!』ので、
『尚更である!』。
又、
『身力が弱くても!』、
『心が強ければ!』、
是の故に、
其の、
『七歳立つ事』を、
『辦じる( to accomplish )ことができる!』。
  参考:『注維摩詰経巻8』:『什曰。如佛泥洹後六百年有一人。年六十出家。未幾時頌三藏都盡。次作三藏論議。作論已思惟言。佛法中復有何事。唯有禪法我當行之。於是受禪法。自作要誓。若不得道。不具一切禪定功德。終不寢息。脅不著地。因名脅比丘。少時得成阿羅漢。具三明六通。有大辯才。善能論議。有外道師。名曰馬鳴。利根智慧一切經書皆悉明練。亦有大辯才。能破一切論議。聞脅比丘名。將諸弟子往到其所。唱言一切論議悉皆可破。若我不能破汝言論。當斬首謝屈。脅比丘聞是論。默然不言。馬鳴即生憍慢。此人徒有空名。實無所知。與其弟子捨之而去。中路思惟已。語弟子言。此人有甚深智慧。我墮負處。弟子怪而問曰。云何爾。答曰。我言一切語言可破。即是自破。彼不言則無所破。即還到其所。語脅比丘言。我墮負處。則是愚癡。愚癡之頭。非我所須。汝便斬之。若不斬我我當自斬。脅比丘言。不斬汝頭。當斬汝結髮。比於世間。與死無異。即下髮為脅比丘作弟子。智慧辯才世無及者。』
復次一心求佛道者。十方諸佛所念諸大菩薩及求佛道諸天益其氣力。圍遶守護。是故雖住立七歲而不疲極。 復た次ぎに、一心に仏道を求むる者は、十方の諸仏に念ぜられ、諸大菩薩及び仏道を求むる諸天は、其の気力を益し、囲繞して守護すれば、是の故に住して立つこと七歳なりと雖も、疲極せず。
復た次ぎに、
『一心に仏道を求める!』者は、
『十方の諸仏に念じられ!』、
『諸大菩薩や、仏道を求める諸天』が、
『行者の気力を益したり!』、
『囲繞して守護したりする!』ので、
是の故に、
『七歳住して、立っていたとしても!』、
『疲極しないのである!』。
問曰。曇無竭入三昧。何以乃至七歲。 問うて曰く、曇無竭は三昧に入るに、何を以ってか乃至七歳なる。
問い、
『曇無竭が、三昧に入る!』と、
何故、
『乃至七歳も!』、
『入るのですか?』。
答曰。先已答。好世人壽長。雖七歲不以為久。 答えて曰く、先に已に、『好世の人の寿は長く、七歳と雖も、以って久しと為さず』、と答えたり。
答え、
先に已に、こう答えた、――
『好世の人は、寿が長いので!』、
『七歳であっても!』、
『久しいとしない!』、と。
又曇無竭宮殿婇女微妙五欲與天相似。薩陀波崙等新發意者心未柔軟疑曇無竭。雖說空法讚歎離欲。謂其心未能捨。是故七歲三昧欲以除眾疑故生貴敬心。 又、曇無竭の宮殿の婇女の微妙なる五欲は、天と相似すれば、薩陀波崙等の新発意の者は、心未だ柔軟ならざれば、曇無竭を疑えば、空法を説いて、離欲を讃歎すと雖も、謂わく、『其の心は、未だ捨つる能わず』、と。是の故に七歳の三昧を以って、衆疑を除かんが故に、貴敬心を生ぜしむるなり。
又、
『曇無竭の宮殿』の、
『婇女の微妙の五欲』は、
『天』と、
『相似しており!』、
『薩陀波崙等の新発意の者』は、
『心が、未だ柔軟でない!』が故に、
『曇無竭を疑って!』、こう謂う、――
『空法を説いたり、離欲を讃歎している!』が、
『曇無竭の心』は、
『未だ、欲を捨てることができない!』、と。
是の故に、
『七歳、三昧に入って!』、
『衆疑を除く為め!』の故に、
『貴敬心』を、
『生じさせるのである!』。
聞曇無竭七歲三昧心口相應能說能行。則信受其語易可得度。譬如癰瘡未熟醫則不破但以藥塗令熟熟則易破。 曇無竭の七歳の三昧もて心口相応して能く説き、能く行ずるを聞けば、則ち其の語を信受して、度を得べきこと易し。譬えば癰、瘡未だ熟せざれば、醫は則ち破らずして、但だ薬を以って塗り、熟せしむるに、熟すれば則ち破り易きが如し。
『曇無竭』が、
『七歳、三昧に入り、心口が相応して!』、
『説いたり、行じたりする!』のを、
『聞けば!』、
『曇無竭の語を信受することになり!』、
『度』を、
『得易くなるからである!』。
譬えば、
『癰、瘡が未だ熟さなければ!』、
『醫は、癰を破らず!』、
但だ、
『薬を塗って!』、
『熟させるだけであるが!』、
則ち、
『癰が熟せば!』、
『破れ易くなるようなものである!』。
復次欲受心生實樂故入無量三昧。 復た次ぎに、心生の実楽を受けんと欲するが故に無量の三昧に入る。
復た次ぎに、
『心に生じる!』、
『実楽を受けようとする!』が故に、
『無量の三昧』に、
『入るのである!』。
復次說法有二種。一者口說法。二者身現法。今欲以身現法故入無量三昧。令眾生知攝心入慧得如實智。 復た次ぎに、説法には二種有り、一には口に法を説き、二には身に法を現す。今、身に法を現さんとするを以って故に無量の三昧に入りて、衆生をして摂心して慧に入れば、如実智を得ると知らしめんと欲す。
復た次ぎに、
『説法には、二種有り!』、
一には、
『口に!』、
『法を説き!』、
二には、
『身に!』、
『法を現すのである!』が、
今は、
『身に法を現す為め!』の故に、
『無量の三昧』に、
『入り!』、
『摂心して慧に入れば、如実智を得ることができる!』と、
『衆生』に、
『知らせようとしたのである!』。
菩薩三昧者如菩薩義中說。行般若方便力者如方便品中說。薩陀波崙於七歲中三惡覺觀不生不味於味。是人雖未破煩惱而集諸善法故。制諸煩惱不令得生。但一心念曇無竭。何時當出。我當從聞般若。過七歲已作是念。我當為曇無竭敷坐處掃灑莊嚴。 菩薩の三昧とは、菩薩義中に説けるが如し。般若の方便力を行ずとは、方便品中に説けるが如し。薩陀波崙は七歳中に三悪覚観を生ぜず、味を味わわず。是の人は未だ煩悩を破らずと雖も、諸の善法を集むるが故に諸の煩悩を制して、生ずるを得しめず、但だ一心に念ずらく、『曇無竭は、何の時にか当に出づべし。我れは当に従って般若を聞くべし』、と。七歳を過ぎ已りて、是の念を作さく、『我れは当に曇無竭の為めに、坐処を敷きて、掃灑し精勤すべし』、と。
『菩薩の三昧』とは、
『菩薩義』中に、
『説いた通りである!』。
『般若の方便力を行じる!』とは、
『方便品』中に、
『説いた通りである!』。
『薩陀波崙』は、
『七歳』中に、
『三悪覚観を生じることなく!』、
『禅味を味わうこともなかった!』ので、
是の、
『人は、未だ煩悩を破っていない!』が、
『諸の善法を集めた!』が故に、
『諸の煩悩を制して!』、
『生じさせることなく!』、
但だ、
『一心に!』、こう念じたのである、――
『曇無竭は、何時出られるのだろうか?』、
わたしは、
『曇無竭より!』、
『般若を聞かねばならない!』、と。
『七歳が過ぎる!』と、こう念じた、――
わたしは、
『曇無竭の為めに、坐処を敷き!』、
『掃灑し、荘厳せねばならない!』、と。
  参考:『大智度論巻23』:『有三種麤覺。欲覺瞋覺惱覺。有三種善覺。出要覺無瞋覺無惱覺。有三種細覺。親里覺國土覺不死覺。六種覺妨三昧。三種善覺能開三昧門。若覺觀過多還失三昧。如風能使船風過則壞船。如是種種分別覺觀。』
問曰。薩陀波崙云何得知過七歲已曇無竭當出。 問うて曰く、薩陀波崙は、云何が、『七歳を過ぎ已れば、曇無竭は当に出づべし』、と知るを得るや。
問い、
『薩陀波崙』は、
何故、こう知ることができたのですか?――
『七歳を過ぎれば!』、
『曇無竭』は、
『出られるはずだ!』、と。
答曰。有人言。先曾七歲展轉聞知。 答えて曰く、有る人の言わく、『先に曽て、七歳なるを展転して聞知せり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
先に曽て、
『七歳を過ぎて、出られる!』と、
『展転と聞いて、知ったからである!』。
有人言。曇無竭初入三昧時自說七歲為限。如釋迦文尼佛告阿難。我欲一月二月入禪定。阿難以告四眾。 有る人の言わく、『曇無竭は初めて三昧に入る時、自ら七歳を限と為す、と説けばなり。釈迦文尼仏の阿難に、『我れは一月、二月禅定に入らんと欲す』、と告げたもうに、阿難は以って四衆に告ぐるが如し』、と。
有る人は、こう言っている、――
『曇無竭』は、
『初めて、三昧に入る!』時、
自ら、
『七歳を限とする!』と、
『説いたからである!』。
『釈迦文尼仏』が、
『阿難』に、
『わたしは一月か、二月ほど禅定に入りたい!』と、
『告げられる!』と、
『阿難』は、
其の、
『事』を、
『四衆に告げたようなものである!』、と。
薩陀波崙深愛佛法敬重曇無竭故。供養莊嚴說法處。出家菩薩但莊嚴其心詣師受法。在家菩薩則莊嚴說法處華香供養。 薩陀波崙は深く仏法を愛し、曇無竭を敬重するが故に説法の処を供養して荘厳す。出家の菩薩は、但だ其の心を荘厳して師に詣り、法を受くるも、在家の菩薩は則ち説法の処を荘厳して、華香もて供養するなり。
『薩陀波崙』は、
『深く、仏法を愛して!』、
『曇無竭を敬重する!』が故に、
『説法の処を供養して!』、
『荘厳したのである!』。
『出家の菩薩』は、
『但だ、心を荘厳するだけで!』、
『師に詣って!』、
『法を受けるのである!』が、
『在家の菩薩』は、
『説法の処を荘厳して!』、
『華香で!』、
『供養するのである!』。
復次薩陀波崙作是莊嚴。欲令曇無竭知其愛法欲法相。深心信樂故現是事。是故生心共五百女等展力掃灑。自以其金銀珍寶敷座。 復た次ぎに、薩陀波崙の是の荘厳を作せるは、曇無竭をして其の愛法、欲法の相を知らしめんと欲するも、深心に信楽するが故に、是の事を現せり。是の故に心を生じて、五百女等と共に展力し掃灑し、自ら其の金銀、珍宝を以って、座に敷けり。
復た次ぎに、
『薩陀波崙』が、
是の、
『荘厳を作した!』のは、
『曇無竭』に、
『己の愛法、欲法の相』を、
『知らせようとしたからである!』が、
『深心より信楽する!』が故に、
是のような、
『事』を、
『現したのであり!』、
是の故に、
『心を生じて!』、
『五百女等と共に!』、
『力を展べて( with effort )!』、
『座を掃灑し!』、
自ら、
『金銀、珍宝』を、
『座に敷いたのである!』。
  展力(てんりき):努力を展示する( to exhibit their effort )。力を尽す( with effort )の意。
薩陀波崙等雖自有妙好茵褥。為愛法情至故。以身所著上衣敷座。求水灑地。魔隱蔽故求不能得。 薩陀波崙等は、自ら妙好の茵褥有りと雖も、愛法の情の至れるが為めの故に、身に著くる所の上衣を以って座に敷き、水を求めて地に灑(そそ)がんとするも、魔の隠蔽するが故に求めて得る能わず。
『薩陀波崙』等は、
『自ら、妙好の茵褥が有りながら!』、
『愛法の情が至った!』が故に、
『身に着けた上衣』を、
『座に敷いたのである!』が、
『水を求めて、地に灑ごうとする!』と、
『魔が、水を隠蔽した!』が故に、
『求めても!』、
『得ることができなかった!』。
  茵褥(いんにく):敷物( mattress )。
此中自說因緣。魔作是念。若薩陀波崙求水不得其心則劣。志願不滿故。又令自鄙其身。我薄福德故。為供養法求水不得。以自輕憂愁覆心故。 此の中に、自ら因縁を説きたまえり。魔の是の念を作さく、『若し薩陀波崙、水を求めて得ざれば、其の心は則ち劣(よわ)り、志願の満てざるが故に、又自ら其の身を、『我が薄き福徳の故に、法を供養せんが為めに水を求めて得ず』、と鄙(いや)しまん。自ら軽んじて憂愁の心を覆えるを以っての故なり』、と。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁を説かれている!』。
謂わゆる、
『魔』は、こう念じたのである、――
若し、
『薩陀波崙』が、
『水を求めて、得られなければ!』
其の、
『心』が、
『劣まり!』、
『志願が満たされない!』が故に、
『自らの身』を、こう鄙むだろう、――
『私の福徳が薄い!』が故に、
『法を、供養する為め!』、
『水を、求めても得られないのだ!』、と。
何故ならば、
『自らを軽んじて!』、
『憂愁』が、
『心を覆うからである!』、と。
福德不增智慧不照不明者。諸憂愁煩惱覆心故。諸福德智慧不能照明。譬如日障蔽故其照不明。魔知其心大不可沮壞但小沮壞令其稽留。 福徳は増さず、智慧は照らさず明らめずとは、諸の憂愁の煩悩の心を覆うが故に、諸の福徳の智慧は照明する能わず。譬えば、日の障蔽せらるるが故に其の照らすこと明らかならざるが如し。魔は、其の心の大にして、沮壊するべからざるを知れば、但だ小し沮壊して、其れをして稽留せしむ。
『善根の福徳が増さず!』、
『智慧が照らすことも、明らかにすることもない!』とは、――
『諸の憂愁という!』、
『煩悩に、心が覆われる!』が故に、
『諸の福徳の智慧』が、
『照明することができないからであり!』、
譬えば、
『日が障蔽される!』が故に、
『日が照らしても!』、
『明るくならないようなものである!』。
『魔』は、
『薩陀波崙』は、
『心が大なので、沮壊することができない!』と、
『知り!』、
『但だ、小し沮壊して!』、
『薩陀波崙』を、
『稽留したのである!』。
  障蔽(しょうへい):遮る( to block )。
  沮壊(そえ):進行を妨害する( to obstruct )。
  稽留(けいる):遅らせる( to delay )。
爾時薩陀波崙自刺其身。出血灑地欲以淹塵。人血肉雖臭以其至心求水不得。意不分別香臭好惡。為欲淹塵不惜身命。又薩陀波崙深心愛著般若波羅蜜故無所愛惜。 爾の時、薩陀波崙は自ら其の身を刺し、血を出して地に灑ぎ、以って塵を淹(おお)わんと欲す。人の血肉は臭しと雖も、其の至心を以って、水を求めて得ざれば、意は香臭、好悪を分別せず、塵を淹わんと欲する為めの故に身命を惜まず。又薩陀波崙の深心は、般若波羅蜜を愛著するが故に、愛惜する所無し。
爾の時、
『薩陀波崙』は、
自ら、
『身を刺して血を出し!』、
『地に灑いで!』、
『塵を淹おうとした!』。
『人』の、
『血肉』は、
『臭いがある!』が、
『薩陀波崙』は、
『至心より!』、
『水を求めた!』が、
『得られなかった!』ので、
『意( his thought )』は、
『香、臭、好、悪を分別せず!』、
『塵を淹いたいが為め!』に、
『身命を惜まなかったのである!』。
又、
『薩陀波崙』は、
『深心より!』、
『般若波羅蜜を愛著していた!』が故に、
『愛惜する!』所が、
『無かったのである!』。
  至心(ししん):◯梵語 prasanna-citta の訳、又至誠心と訳す、純粋/明瞭な心( pure or distinct mind )の義。◯梵語 avahita, adhyaazaya の訳、落ち着いた( fallen into )、傾向( disposition )の義、極まった心( the mind fallen into something good )の意。
有人言。多有諸天龍鬼神等。常隨逐薩陀波崙佐助守護。是故所出之血變為香水。如羼提仙人被割截時血化為乳。又以無量福德成就故隨願即成。 有る人の言わく、『多く諸天、龍、鬼神等の常に薩陀波崙を随逐し、佐助し、守護する有れば、是の故に所出の血は変じて、香水と為る。羼提仙人の割截を被りし時、血は化して乳と為れるが如し。又無量の福徳の成就せるを以っての故に、願に随いて即ち成ずるなり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『常に、薩陀波崙を随逐して佐助し守護する!』、
『諸の天、龍、鬼神等が多く有る!』ので、
是の故に、
『出た血が変じて!』、
『香水と為ったのである!』。
譬えば、
『羼提仙人が割截された!』時、
『血が化して!』、
『乳と為ったようなものである!』。
又、
『無量の福徳が成就している!』が故に、
『願うがままに!』、
『即ち、成じるのである!』、と。
問曰。若福德成就隨願即得。魔不應隱蔽其水。 問うて曰く、若し福徳成就して、願に随いて即ち得れば、魔は、応に其の水を隠蔽すべからず。
問い、
若し、
『福徳が成就して!』、
『願うがままに!』、
『即ち、得られれば!』、
『魔』が、
『薩陀波崙の水』を、
『隠蔽できるはずがない!』。
答曰。是菩薩新發意能成小願未能卻魔。此中薩陀波崙自說出血因緣。我從無始生死已來。數數喪身未曾為法。 答えて曰く、是の菩薩は新発意にして能く小願を成ずるも、未だ魔を却くること能わず。此の中に薩陀波崙の自ら、出血の因縁を説かく、『我れは無始の生死より已来、数数身を喪えるも、未だ曽て法の為めにあらざるなり』、と。
答え、
是の、
『菩薩は、新発意であり!』、
『小願ならば、成じることができる!』が、
『未だ、魔を却けるほとではないからである!』。
此の中に、
『薩陀波崙』は、
自ら、
『出血の因縁』を、こう説いている、――
わたしは、
『無始の生死より!』、
『数数、身を喪った!』が、
未だ、
『法の為め!』に、
『喪ったことはない!』、と。
問曰。若薩陀波崙愛法刺身出血。若其身死誰復聽法。 問うて曰く、若し薩陀波崙が法を愛して身を刺し、血を出せば、若し其の身死すれば、誰か復た法を聴かんや。
問い、
若し、
『薩陀波崙が、法を愛して!』、
『身を刺し!』、
『血を出したとすれば!』、
若し、
『薩陀波崙の、身が死んだならば!』、
『誰が復た!』、
『法を聴くことになるのですか?』。
答曰。是事如破骨出髓中答。又此中諸天大菩薩守護故令其不死。又復惡魔知其心不可沮壞。水則還出。 答えて曰く、是の事は、破骨出髄中に答えたるが如し。又此の中には諸天、大菩薩の守護するが故に其れをして死なざらしむ。又復た悪魔は、其の心の沮壊すべからざるを知れば、水は則ち還って出づるなり。
答え、
是の、
『事』は、
『破骨出髄中に答えた通りである!』。
又、
此の中には、
『諸の天や、大菩薩が守護している!』が故に、
『薩陀波崙』を、
『死なせないのであり!』、
又復た、
『悪魔』も、
『薩陀波崙の心を沮壊することはできない!』と、
『知った!』ので、
則ち、
『水』が、
『還って出たのである!』。
薩陀波崙等皆無異心者。如人初習慈心。欲為眾生及為般若波羅蜜故不惜身命。既得利刀割身以痛自逼故心生悔恨。是名異。 薩陀波崙等には皆異心無しとは、人の初めて慈心を習うが如きは、衆生の為め、及び般若波羅蜜の為めならんと欲するが故に、身命を惜まざるも、既に利刀を得て、身を割けば、痛の自ら逼るを以っての故に、心に悔恨を生ずれば、是れを異と名づく。
『薩陀波崙等には、皆異心が無い!』とは、――
譬えば、
『人』が、
『初めて、慈心を習ったばかりならば!』、
『衆生や、般若波羅蜜の為め!』の故に、
『身命』を、
『惜まなかったとしても!』、
『既に、利刀を得て!』、
『身を割けば!』、
『痛さ!』が、
『自らに逼る!』が故に、
『心』に、
『悔恨』を、
『生じることになる!』が、
是れを、
『異』と、
『称するのである!』。
是菩薩信力大故。欲得阿耨多羅三藐三菩提果報故不計是苦。又以深悲心愛念眾生。雖受種種苦惱不以為難。譬如慈母愛子。雖為子長受勤苦不淨不以為惡。 是の菩薩は信力大なるが故に、阿耨多羅三藐三菩提の果報を得んと欲するが故に、是の苦を計らず。又深き悲心を以って、衆生を愛念すれば、種種の苦悩を受くと雖も、以って難しと為さず。譬えば慈母の子を愛すれば、子の為めに長く勤苦、不浄を受くと雖も、以って悪と為さざるが如し。
是の、
『菩薩』は、
『信力が大である!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提という!』、
『果報』を、
『得ようとする!』が故に、
是の、
『苦』を、
『計らない( does not concerned about any suffering )!』。
又、
『悲心が深い!』が故に、
『衆生を愛念して!』、
『種種の苦悩を受けながら!』、
『困難とは為さない!』。
譬えば、
『慈母が子を愛して!』、
『子の為め!』に、
『勤苦や、不浄を長く受けても!』、
『悪と為さないようなものである!』。
  (けい):<動詞>[本義]数える/計算する( count, compute, calculate )。関心をよせる/気にかける( be concerned about )、検討/計画する( discuss, sheme )、調査/点検/実証する( inspect, check, examine and verify )。<名詞>算法/算術( algorithm, arithmetic )、帳簿( account book )、計画/計略( plan, stratagem )、計量器/目盛り( gage, meter )、生計( livelihood )。
又復見諸法實相畢竟空故。知是身但是虛誑和合。破是虛誑故。割截身時。不妨阿耨多羅三藐三菩提。 又復た諸法の実相の畢竟空なるを見るが故に、是の身は但だ是れ虚誑の和合なるを知り、是の虚誑を破るが故に身を割截する時、阿耨多羅三藐三菩提を妨げず。
又復た、
『諸法の実相』は、
『畢竟空である、と見る!』が故に、
是の、
『身は、但だ虚誑の和合である!』と、
『知り!』、
是の、
『虚誑』を、
『破る!』が故に、
『身を割截する!』時にも、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『妨げないのである!』。
魔不得其便者。如人有瘡則受毒。菩薩若有貪欲憂愁瘡者。魔得其便。以出血灑地心不憂愁故魔不得便。如薩陀波崙心五百女人心亦如是。敬重薩陀波崙故。見其刺身應有憂愁。以其願得滿故不以為愁。 魔は其の便を得ずとは、人に瘡有れば、則ち毒を受くるが如く、菩薩に若し貪欲、憂愁の瘡有れば、魔は其の便を得るも、血を出して、地に灑ぐに、心憂愁せざるを以っての故に、魔は便を得ず。薩陀波崙の心の如く、五百の女人の心も亦た是の如く、薩陀波崙を敬重するが故に、其の身を刺すを見て、応に憂愁有るべきに、其の願の満つるを得るを以っての故に、以って愁と為さず。
『魔』が、
『薩陀波崙』に、
『便を得られない( does not get any chance )!』とは、――
譬えば、
『人に、瘡が有れば!』、
『毒』を、
『受けることになるように!』、
『菩薩に、貪欲や憂愁の瘡が有れば!』、
『魔』は、
其の、
『菩薩』に、
『便を得るのである!』が、
『薩陀波崙』が、
『血を出して、地に灑ぎながら!』、
『心』が、
『憂愁しない!』が故に、
『魔』は、
『便』を、
『得られないのであり!』、
『薩陀波崙の心のように!』、
『五百の女人の心』も、
是のように、
『薩陀波崙』を、
『敬重する!』が故に、
『薩陀波崙』が、
『身を刺す』のを、
『見れば!』、
当然、
『憂愁すること!』が、
『有るはずなのに!』、
『薩陀波崙』の、
『願が、満たされた!』が故に、
『愁えることがなかったのである!』。
爾時釋提桓因見是事已歎未曾有者。是人未得無生忍。諸煩惱未斷。為供養法故不惜身命。如諸離欲人無異。割截其身如斷草木。初心既爾。後心轉增。 爾の時、釈提桓因は、是の事を見已りて、未だ曽て有らずと歎ずとは、是の人は、未だ無生忍を得ず、諸の煩悩の未だ断ぜざるに、法を供養せんが為めの故に、身命を惜まざること、諸の離欲の人と異無きが如く、其の身を割截すること、草木を断ずるが如ければ、初心にして既に爾れば、後心は転た増せばなり。
爾の時、
『釈提桓因が、是の事を見て未曽有であると歎じた!』のは、――
是の、
『人』は、
『未だ、無生忍を得ず!』、
『諸の煩悩』も、
『未だ、断たれていない!』のに、
『法を供養する為め!』の故に、
『身命』を、
『惜まず!』、
『諸の離欲人』と、
『異』が、
『無いようであり!』、
『草木を断じるように!』、
『己身』を、
『割截したので!』、
『初心にして、既に爾れほどであれば!』、
『後心』は、
『転た増すはずだからである!』。
復次未曾有者。此中釋提桓因自說因緣。薩陀波崙愛法乃爾。以刀自刺等。 復た次ぎに、未曽有とは、此の中に釈提桓因の自ら因縁を説ける、『薩陀波崙の法を愛するや、乃ち爾り、刀を以って自ら刺せり』等なり。
復た次ぎに、
『未曽有』とは、――
此の中に、
『釈提桓因が自ら因縁を、こう説いている!』、――
『薩陀波崙は法を愛する!』のは、
『乃ち、爾れほどであったのか!』、
『刀で、自らを刺すとは!』等、と。
釋提桓因作是心歡喜已讚言善哉。讚其愛法樂法勤心精進。以過去佛為喻。非但汝今辛苦。過去諸佛求般若亦爾。 釈提桓因の是の心を作して、歓喜し已り、讃じて、『善い哉』と言い、其の法を愛し、法を楽しみ、勤心精進するを讃じて、過去仏を以って喻と為さく、『但だ汝が今の辛苦のみに非ず、過去の諸仏の般若を求むるも、亦た爾り』、と。
『釈提桓因』は、
是の、
『未曽有の心を作して、歓喜しながら!』、
『讃じて!』、
『善いぞ、と言い!』、
『薩陀波崙』の、
『法を愛し、法を楽しみ、勤心に精進する!』のを、
『讃じて!』、
『過去の仏を喻えながら!』、こう言った、――
『但だ、お前の今の辛苦だけではない!』、
『過去の諸仏』も、
『般若を求めるのは、爾うであった!』、と。
薩陀波崙聞釋提桓因安慰其心已。如火得酥轉更熾盛。作是念。我既敷座灑地。當於何處得好名華莊嚴法處。問曰。不見水時何以不作是念。當於何處得水灑地。 薩陀波崙は、釈提桓因の其の心を安慰するを聞き已りて、火の酥を得て、転た更に熾盛なるが如く、是の念を作さく、『我れは、既に座を敷いて、地を灑げば、当に何処にか、好き名華を得て、法処を荘厳すべし』、と。
問うて曰く、水を見ざる時に、何を以ってか、『当に何処にか水を得て、地に灑ぐべき』と、是の念を作さざるや。
『薩陀波崙』は、
『釈提桓因』が、
『薩陀波崙の心を安慰する!』のを、
『聞く!』と、
『火が酥( liquid butter )を得て!』、
『転た更に( more and more )!』、
『熾盛する( to burn )ように!』、
こう念じた、――
わたしは、
既に、
『座を敷いて!』、
『地を灑いだ!』が、
何処に、
『好い、名華を得て!』、
『法処を、荘厳すればよいのか?』、と。
問い、
『薩陀波崙』は、
『水を見なかった!』時、
何故、こう念じなかったのですか?――
『何処に、 水を得て!』、
『地』に、
『灑げばよいのか?』、と。
答曰。薩陀波崙以先有水處即時皆無知魔所作。是故自於四大分中刺水分灑地。身中水種雖多。血是命之所在。是故刺以灑地。 答えて曰く、薩陀波崙は、先に水有る処の、即時に皆無きを以って、魔の所作なるを知れば、是の故に自ら四大分中に於ける水分を刺して地に灑げり。身中に水種は多しと雖も、血は是れ命の在る処なれば、是の故に刺すを以って地に灑げり。
答え、
『薩陀波崙』は、
『先に、水が有った!』、
『処』が、
『即時に、皆無くなった!』ので、
是の故に、
『魔の所作である!』と、
『知り!』、
是の故に、
自ら、
『四大分中の水分を刺して!』、
『地』に、
『灑いだのである!』が、
『身中に、水種は多い!』が、
『血』は、
『命の在る所であり!』、
是の故に、
『刺して!』、
『地に灑いだのである!』。
華不自有。曇無竭出時欲至不容遠求。又所須復多。當以遍覆其地。是故生念欲得。帝釋知其念即以天華中妙者。名曼陀羅。三千石與之。足以周事。帝釋所以不以人華與者。欲令發希有心故。 華は自ら有せざれば、曇無竭の出づる時の至らんと欲すれば、遠く求むるを容(ゆる)さず。又須むる所は復た多くして、当に以って遍く、其の地を覆うべし。是の故に念を生じて、得んと欲す。帝釈は、其の念を知りて、即ち天華中の妙なる者の曼荼羅と名づくるを以って、三十石を之に与うれば、以って周事するに足る。帝釈の人華を以って与えざる所以は、希有の心を発せしめんと欲するが故なり。
『薩陀波崙』は、
『華を、自ら有していず!』、
『曇無竭の宮より出る時が至った!』ので、
『遠くに求める!』のは、
『容されなかった!』し、
又、
『地を、遍く覆わねばならなかった!』ので、
『須める!』所も、
『復た多かった!』ので、
是の故に、
『得ようとする!』、
『念』を、
『生じたのである!』が、
『帝釈は、薩陀波崙の念を知り!』、
『天華中の妙である!』、
『曼荼羅』を、
『三十石与えた!』ので、
『薩陀波崙』は、
『周事するのに!』、
『足りたのである!』。
『帝釈が、人華を与えなかった!』のは、
『見る人』に、
『希有の心』を、
『発させようとしたからである!』。
  周事(しゅうじ):事を成す( to finish, complete )。
薩陀波崙受華已分作二分。好者留以說法時散。餘者覆地。其國俗法以華覆地。令行其上以為供養。 薩陀波崙は、華を受け已り、分けて二分と作し、好き者を留めて以って説法の時に散き、餘の者は地を覆えり。其の国の俗法に、華を以って地を覆い、其の上を行かしむるを以って、供養と為せばなり。
『薩陀波崙』は、
『華を受けて、二分と作す!』と、
『好い者を留めて!』、
『説法の時に!』、
『散き!』、
『餘の者』で、
『地』を、
『覆ったのである!』が、
其の、
『国の俗法』は、
『華で、地を覆い!』、
其の、
『華上を行かせること!』が、
『供養だからである!』。
爾時曇無竭如其先要。滿七歲已從三昧起。與無量百千眾恭敬圍繞直趣法座。為說般若故。 爾の時、曇無竭は、其の先の要の如く、七歳を満て已りて、三昧より起ち、無量百千の衆に恭敬、囲繞せられて、直ちに法座に趣く。般若を説かんが為めの故なり。
爾の時、
『曇無竭』は、
『先の要のように( as his former wants )!』、
『七歳を満たす!』と、
『三昧より起ち!』、
『無量百千の衆に恭敬、囲繞されて!』、
『般若を説く為め!』の故に、
『直ちに、法座へ趣いた!』。
問曰。若諸菩薩入微妙三昧中誰能令起。 問うて曰く、若し諸の菩薩が微妙の三昧中に入れば、誰か能く起たしむるや。
問い、
若し、
『諸の菩薩』が、
『微妙の三昧中に入れば!』、
誰か、
『三昧より!』、
『起たせることができるのですか?』。
答曰。行者初入時自作限齊。然後入定時至。其心自在從三昧起。悲心故而生覺觀。如一比丘。入滅受定三昧時。自期聞揵稚時當起。既入已時僧坊失火。諸比丘惶懅不打揵稚而去。 答えて曰く、行者は初めて入る時、自ら限斉を作して、然る後に定に入り、時至れば、其の心は自在に三昧より起ち、悲心の故に覚観を生ず。一比丘の如きは、滅受定三昧に入る時、自ら、『揵稚を聞く時、当に起つべし』、と期して、既に入り已る時、僧坊失火すれば、諸の比丘惶懅して、揵稚を打たずに去る。
答え、
『行者』は、
『初めて、三昧に入る時( when he is going to enter a samadhi )!』、
『自ら、限斉を作した( to sets a certain period )!』後、
『定』に、
『入り!』、
『時が至れば!』、
『心が、自在に!』、
『三昧より!』、
『起ち!』、
『悲心』の故に、
『覚、観』を、
『生じるのである!』。
例えば、
『一比丘など!』は、
『滅受定三昧に入る時』、
自ら、
『揵稚を聞いた時に、起つことにしよう!』と、
『期した( to determine the period )!』が、
『既に三昧に入った時、僧坊が失火し!』、
『諸の比丘は惶懅として!』、
『揵稚を打たずに去った!』。
  限斉(げんさい)、斉限(さいげん):梵語 parimaaNa の訳、円周率、長さ、大きさ、重さ、個数、価値、時間等の有らゆる軽量の単位( measure of any kind eg. circumference, length, size, weight, number, value, duration )の義。
  (ご):期間を決める( to predetermine the time or period )。
  揵稚(けんち):梵語 gaaNDii, granthi の訳、鐘( a bell )の義。
  惶懅(こうきょ):ぎょっとして/恐ろしくて( frightened, alarmed )。
爾時過十二歲已檀越更和合。眾僧欲起僧坊方打揵稚。聞揵稚聲起即身散而死。後諸得道者說其如此。 爾の時、十二歳を過ぎ已りて、檀越更に和合す。衆僧は僧坊を起さんと欲して、方(まさ)に揵稚を打つに、揵稚の声を聞いて起つも、即ち身散じて死せり。後に諸の得道の者は、其の此の如きを説けり。
爾の時、
『十二歳を過ぎた!』頃、
『檀越が、更に和合し!』、
『衆僧』が、
『僧坊を起そうとして!』、
『揵稚を打つ!』と、
彼の、
『比丘』は、
『揵稚の声を聞いて!』、
『三昧より!』、
『起ったのである!』が、
即ち、
『身が散じて!』、
『死んでしまった!』が、
後に、
『諸の道を得た!』者が、
其の、
『比丘は、此のようであった!』と、
『説いたのである!』。
  檀越(だんおつ):梵語 daanapati の訳、気前のよい主人/豪勢な男( liberality-lord, munificent man )の義、施主と訳す。
復次有人言。法性生身大菩薩。如諸佛常入三昧無散亂麤心。以神通力故能說法。飛行度脫眾生。世俗法故有出入三昧相。是故雖入微妙三昧而能還出。以大悲心牽故。譬如咒術出龍。 復た次ぎに、有る人の言わく、『法性生身の大菩薩は、諸仏の如く、常に三昧に入りて、散乱の麁心無く、神通力を以っての故に能く説法、飛行して衆生を度脱し、世俗法の故に三昧に出入する相有れば、是の故に微妙の三昧に入ると雖も、能く還って出づるは、大悲心に牽かるるを以っての故なり。譬えば呪術もて龍を出すが如し』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『法性生身の大菩薩』は、
『諸仏のように!』、
『常に、三昧に入っている!』ので、
『散乱の麁心』が、
『無く!』、
『神通力を用いる!』が故に、
『法を説いたり!』、
『飛行して、衆生を度脱することができ!』、
『世俗の法』の故に、
『三昧に出、入する相』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『微妙の三昧に入りながら!』、
『大悲心に牽かれる!』が故に、
『還って、出ることができるのである!』。
譬えば、
『呪術に牽かれて!』、
『龍が出るようなものである!』。
大眾圍繞者。是內眷屬恭敬。散華燒香隨從而出。為說般若波羅蜜故。 大衆の囲繞とは、是の内なる眷属の恭敬、散華、焼香、随従して出づるは、般若波羅蜜を説く為めの故なり。
『大衆が囲繞する!』とは、――
是の、
『宮内の眷属が恭敬、散華、焼香しながら随従して出る!』のは、
『般若波羅蜜』が、
『説かれるからである!』。
說般若波羅蜜者。因世諦名字語言欲示眾生第一義不動相故。 般若波羅蜜を説くとは、世諦の名字、語言に因って、衆生に第一義の不動相を示さんと欲するが故なり。
『般若波羅蜜を説く!』とは、――
『世諦の名字、語言に因って( depending on secular words and languages )!』、
『衆生』に、
『第一義は不動相である!』と、
『示そうとするからである!』。
薩陀波崙見曇無竭即得清淨歡喜樂遍其身如比丘入於三禪。所以者何。多欲眾生雖非淨妙得猶喜樂。何況得見真功德莊嚴身者。 薩陀波崙は曇無竭を見て、即ち清浄の歓喜を得て、楽が、其の身を遍くすること、比丘の三禅に入るが如し。所以は何んとなれば、多欲の衆生は、浄妙に非ずと雖も、猶お喜楽を有。何に況んや真の功徳の身を荘厳する者を見るをや。
『薩陀波崙』は、
『曇無竭を見て!』、
即ち、
『清浄の歓喜を得て!』、
『楽』が、
『身を遍くした( his whole body is filled up with pleasure )!』。
譬えば、
『比丘』が、
『三禅に入ったようである!』。
何故ならば、
『多欲の衆生』は、
『浄妙でない者にすら!』、
猶お、
『喜楽』を、
『得るのであるから!』、
況して、
『真の功徳に身を荘厳された!』者を、
『見ることができれば!』、
『尚更である!』。
薩陀波崙從空中佛聞曇無竭即生大欲得諸三昧見十方諸佛。復聞十方諸佛說先世因緣。唯有曇無竭能度汝耳。聞是已增益其心渴仰欲見。是故中道欲賣身供養。今於眾香城七歲不坐不臥。欲見曇無竭。如是渴仰欲樂來久。如人熱渴所逼。得濁煖潦水猶尚歡喜。何況得清冷美水。既以渴仰情久。又曇無竭功德大。是故悅樂。 薩陀波崙は空中の仏より曇無竭を聞いて、即ち大欲を生じ、諸の三昧を得て、十方の諸仏を見るに、復た十方の諸仏の、『先世の因縁は、唯だ曇無竭有りて、能く汝を度すのみ』と説けるを聞き、是れを聞き已りて、其の心の渇仰を増益し、見んと欲す。是の故に中道にて、身を売って供養せんと欲し、今、衆香城に於いて七歳坐せず、臥せずして、曇無竭を見んと欲す。是の如く渇仰して、楽の来たらんを欲すること久しくす。人の熱渇に逼らるれば、濁、煖の潦水を得るすら猶尚お歓喜するに、何に況んや清冷の美水を得るが如し。既に渇仰の情の久しく、又曇無竭の功徳の大なるを以って、是の故に悦楽す。
『薩陀波崙』は、
『空中の仏より!』、
『曇無竭の事』を、
『聞いて!』、、
即ち、
『大欲を生じて!』、
『諸三昧を得!』、
『十方の諸仏を見て!』、
復た、
『十方の諸仏より!』、
『お前を度することのできるのは、唯だ曇無竭が有るだけだ!』と、
『先世の因縁が説かれる!』のを、
『聞いたのである!』が、
是れを、
『聞く!』と、
其の、
『心の渇仰が増益されて!』、
『曇無竭を見たい!』と、
『欲した!』。
是の故に、
『中道』に於いて、
『身を売って!』、
『曇無竭』を、
『供養しようとしたのである!』が、
今、
『衆香城に於いて!』、
『七歳坐らず、臥せずに!』、
『曇無竭を見ようとし!』、
是のようにして、
『曇無竭を渇仰しながら!』、
『楽が来る!』のを、
『久しく欲していた!』。
譬えば、
『人が熱や、渇きに逼られれば!』、
猶お、
『濁、煖の潦水を得ただけでも!』、
『歓喜するのであるから!』、
況して、
『清冷の美水を得れば!』、
『尚更であるようなものである!』。
既に、
『渇仰の情が久しく!』、
又、
『曇無竭の功徳』が、
『大である!』ので、
是の故に、
『悦楽したのである!』。
  潦水(りょうすい):たまり水( a puddle )。積水。
問曰。樂有四種。何以但說第三禪樂而不說上地定樂及解脫樂。 問うて曰く、楽には四種有り、何を以ってか、但だ第三禅の楽を説いて、上地の定楽、及び解脱の楽を説かざる。
問い、
『楽には、四種有るのに!』、
何故、
『但だ、第三禅の楽だけを説いて!』、
『上地の禅定の楽や、解脱の楽』を、
『説かないのですか?』。
答曰。以欲界眾生於三受中多貪樂受。聞涅槃樂無所有則心不樂喜。以上四禪中斷苦樂故心亦不樂。第三禪中樂樂之極。 答えて曰く、欲界の衆生は、三受中に於いて、多く楽受を貪りて、涅槃の楽の無所有なるを聞けば、則ち心は楽、喜せざるを以って、上の四禅中は苦楽を断ずるを以っての故に、心亦た楽しまず。第三禅中の楽は、楽の極まりなり。
答え、
『欲界の衆生』は、
『三受』中に、
『楽受』を、
『多く貪る!』ので、
『涅槃の楽は無所有である!』と、
『聞いても!』、
『心は楽しくなく、喜ばない!』し、
『上の第四禅』中は、
『苦楽を断じている!』が故に、
『心も!』、
『楽しまない!』。
即ち、
『第三禅中の楽』が、
『楽の極まりなのである!』。
復有人言。薩陀波崙新發意未入細深妙定故。見曇無竭發大歡喜似如三禪樂。薩陀波崙自覺我大歡喜故。即時捨喜得清淨法性遍身安樂。是故以三禪樂為喻
大智度論卷第九十九
復た有る人の言わく、『薩陀波崙は新発意にして、未だ細、深、妙なる定に入らざるが故に、曇無竭を見て大歓喜を発せば、似たること三禅の楽の如し。薩陀波崙は自ら、我れは大歓喜す、と覚るが故に、即時に喜を捨てて、清浄の法性を得、遍身安楽なれば、是の故に三禅の楽を以って、喻と為せり』、と。
大智度論巻第九十九
復た、有る人は、こう言っている、――
『薩陀波崙は、新発意であり!』、
『未だ細、深、妙の定に入っていない!』が故に、
『曇無竭を見て、大歓喜を起した!』ので、
『三禅の楽に入った!』のに、
『似ている!』が、
『薩陀波崙』は、
自ら、
『大歓喜している!』と、
『覚った!』が故に、
即時に、
『喜を捨て、清浄の法性を得て!』、
『身を遍くして!』、
『安楽となった!』。
是の故に、
『三禅の楽』に、
『喻えたのである!』。

大智度論巻第九十九


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