巻第九十七(下)
大智度論釋薩陀波崙品第八十八之餘
1.【論】衆香城の荘厳と六万八千の婇女
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大智度論釋薩陀波崙品第八十八之餘(卷第九十七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】衆香城の荘厳と六万八千の婇女

【論】問曰。薩陀波崙何以忘不問空中聲。 問うて曰く、薩陀波崙は何を以ってか、忘れて空中の声に問わざるや。
問い、
『薩陀波崙』は、
何故、
『空中の声に問う!』のを、
『忘れたのですか?』。
答曰。薩陀波崙大歡喜覆心故忘。如人大憂愁大歡喜。以此二事故忘。 答えて曰く、薩陀波崙は大歓喜の心を覆えるが故に忘れたり。人の大憂愁、大歓喜すれば、此の二事を以っての故に、忘るるが如し。
答え、
『薩陀波崙』は、
『大歓喜』に、
『心が覆われた!』が故に、
『忘れたのである!』。
譬えば、
『人が大憂愁したり、大歓喜すれば!』、
此の、
『二事』の故に、
『忘れるようなものである!』。
問曰。空中聲已滅。何以住此七日不更求問處。 問うて曰く、空中の声已に滅して、何を以ってか、此に七日住して、更に問処を求めざる。
問い、
『空中の声が滅して!』、
何故、
此の、
『処』に、
『七日も住したままで!』、
更に、
『問う処( the place where he shold ask )』を、
『求めなかった( did not seek )のですか?』。
答曰。如本於空閑處一心求般若故空中有聲。今亦欲一心如本冀更聞聲斷其所疑。 答えて曰く、本、空閑処に於いて、一心に般若を求むるが故に空中に声有るが如く、今も亦た一心に本の如く冀(こいねが)いて、更に声を聞いて、其の疑う所を断ぜんと欲すればなり。
答え、
本、
『空閑処』に於いて、
『一心に般若を求めた!』が故に、
『空』中に、
『声が有ったように!』、
今も、
『一心に、本のように冀いながら( to wish single-mindedly as before )!』、
『更に、声を聞いて!』、
其の、
『疑う!』所を、
『断じようとしたのである!』。
復次薩陀波崙於世樂已捨深入佛道愛樂情至。空中聲告少為開示竟未斷疑。其聲便滅。如小兒得少美味著是味故更復啼泣而欲得之。薩陀波崙亦如是。得般若波羅蜜因緣味不能通達。不知那去。是故住而啼泣。 復た次ぎに、薩陀波崙は、世楽を已に捨てて、深く仏道に入るも、愛楽の情至れば、空中に声告ぐるも、少しく開示せらるるも、竟に未だ疑を断ぜずして、其の声便ち滅せり。小児の少しく美味なるを得て、是の味に著するが故に更に復た啼泣して、之を得んと欲するが如し。薩陀波崙も亦た是の如く、般若波羅蜜の因縁の味を得るも通達する能わざれば、那(いづく)に去るを知らず。是の故に住して、啼泣せり。
復た次ぎに、
『薩陀波崙』は、
『世楽を、已に捨てて!』、
『仏道』に、
『深く入っていた!』が、
『仏道に於いて、愛楽の情が至り( filled with longing for the Buddha's way )!』、
『空中に声が告げるのを、聞いて!』、
『少しばかり、開示された!』が、
『竟に、疑を断じることもなく!』、
其の、
『声』が、
『便ち、滅してしまった( Already, the voice is exhausted )!』。
譬えば、
『小児が、少しの美味を得て!』、
是の、
『味に著する!』が故に、
更に、
『復た、啼泣して!』、
『之を、得ようとするように!』、
『薩陀波崙』も、
是のように、
『般若波羅蜜の因縁の味を得ながら
( had taken the taste of the cause of P.P. )!』、
『通達することができず!』、
『何処へ去るのか、知らない!』ので、
是の故に、
『住したままで!』、
『啼泣していたのである!』。
  (な):其の/彼の( that )、何の( what )、何処に( where )、如何が( how )。
  愛楽情(あいらくのじょう):梵語 ruci の訳、喜び( pleasure )の義。思慕の情( longing for )の意。
問曰。何以乃至七日佛身乃現。 問うて曰く、何を以ってか、乃ち七日に至りて、仏身乃ち現るるや。
問い、
何故、
『乃ち、七日に至って( Why had already 7 days passed )!』、
『乃ち、仏身が現れた( and the Buddha's body appeared )のですか?』、
答曰。譬如人大渴故乃知水美。若二日三日精進欲未深。若過七日恐其憂愁妨心不任求道。是故七日憂愁。如譬喻經中說。 答えて曰く、譬えば人、大いに渇くが故に、乃ち水の美(うま)きを知るが如し。若し二日、三日の精進なれば、欲未だ深からず、若し七日を過ぐれば、恐らく其の憂愁の心を妨げて、道を求むるに任えず。是の故に七日憂愁せり。譬喻を経中に説けるが如し。
答え、
譬えば、
『人が、大いに渇く!』が故に、
乃ち、
『水が美いこと!』を、
『知るようなものである!』。
若し、
『二日や、三日精進したとしても!』、
『欲』が、
『深まらない!』が、
若し、
『七日を過ぎれば!』、
『恐らく、憂愁が心を妨げる
perhaps, his anxieties should disturb his mind )!』が故に、
『道を求めるに、任えられない!』ので、
是の故に、
『七日』、
『憂愁したのである!』。
譬えば、
『経中に説かれた!』、
『譬喻の通りである!』。
  参考:『大品般若経巻27』:『須菩提。譬如人有一子卒死憂愁苦毒。唯懷懊惱不生餘念。』
問曰。薩陀波崙何以愁憂乃爾如喪愛子。 問うて曰く、薩陀波崙は何を以ってか、愁憂すること乃ち爾くして、愛子を喪えるがごときや。
問い、
『薩陀波崙』は、
何故、乃ち爾れほど( why thus )、
『愛子を喪ったように!』、
『愁憂したのですか?』。
答曰。般若波羅蜜於諸法中第一。實是十方諸佛真實法寶。薩陀波崙得少氣味未具足故。憂愁如喪愛子。念其長大多所成辦冀得其力。菩薩亦如是。念增益般若波羅蜜力。得阿鞞跋致已成就佛事。 答えて曰く、般若波羅蜜は諸法中に於いて第一の実、是れ十方の諸仏の真実の法宝なれば、薩陀波崙は少しの気味を得るも、未だ具足せざるが故に憂愁すること愛子を喪えるが如く、其の長大して、成辦する所多きを念じて、其の力を得んと冀いたり。菩薩は亦た是の如く、般若波羅蜜の力を増益して、阿鞞跋致を得已りて、仏事を成就せんと念ず。
答え、
『般若波羅蜜は、諸法中の第一の実であり!』、
是れは、
『十方の諸仏』の、
『真実の法宝である!』が、
『薩陀波崙』は、
『般若波羅蜜の気味を少し得ただけで、未だ具足していない!』が故に、
『愛子を喪ったように!』、
『憂愁しながら!』、
『般若波羅蜜は、長大であり!』、
『成辦する所が多い!』と、
『念じながら!』、
其の、
『力を得たいものだ!』と、
『冀ったのである!』。
『菩薩』は、
是のように、
『般若波羅蜜の力を増益して、阿鞞跋致を得たならば!』、
『仏事を成就しよう!』と、
『念じるのである!』。
如子於父孝行終身無有異心。般若波羅蜜於菩薩亦如是。若能得入乃至成佛終不遠離。如父見子心即歡悅。菩薩雖得種種諸法。不如見般若波羅蜜之歡喜。如子假為其名。般若波羅蜜亦如是。空無定實但有假名。如是等是總相因緣。 子の父に於いて孝行すること、身を終うるまで異心有ること無きが如く、般若波羅蜜も菩薩に於いて亦た是の如く、若し能く入るを得れば、乃至仏を成ずるまで、終に遠離せず。父の子を見て、心即ち歓悦するが如く、菩薩は種種の諸法を得と雖も、般若波羅蜜を見る歓喜に如かず。子の仮に其の名を為すが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、空にして定実無く、但だ仮名有るのみ。是れ等の如きは、是れ総相の因縁なり。
譬えば、
『子』が、
『父に孝行する!』のは、
『身を終えるまで!』、
『異心が無いように!』、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜に入って( should understand deeply it )!』、
『成仏するまで!』、
終に、
『菩薩』を、
『遠離しないのである!』。
譬えば、
『父』が、
『子を見て!』、
『心』が、
『即ち、歓悦するように!』、
『菩薩』も、
『種種の諸法を得たとしても!』、
『般若波羅蜜を見る歓喜には!』、
『及ばないのである!』。
譬えば、
『子というのは!』、
『仮に!』、
『子と称するだけであるように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『空であって!』、
『定実が無く!』、
但だ、
『仮名』が、
『有るだけである!』。
是れ等は、
『総相の因縁である!』。
父雖愛子不能以頭目與之。菩薩為般若波羅蜜故。無量世中以頭目髓腦施與眾生。子之於父或不能報恩。若能報恩正可現世小利衣食歡樂等。菩薩於般若波羅蜜中無所不得乃至一切智慧。何況菩薩力勢世間富樂。 父は、子を愛すと雖も、頭目を以って之に与う能わず。菩薩は般若波羅蜜の為めの故に、無量世中に頭目、髄脳を以って衆生に施与す。子は父に於いて或は恩に報ずる能わず。若し能く恩に報ずるも、正しく現世の小利なる衣食、歓楽等なるべし。菩薩は般若波羅蜜中に於いて、得ざる所は乃至一切の智慧すら無し。何に況んや、菩薩の力勢にして、世間の富楽をや。
譬えば、
『父』が、
『子を愛したとしても!』、
『頭目』を、
『子に与えることはできない!』が、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜の為め!』の故に、
『無量世』中に、
『頭目、髄脳すら衆生に施与するのである!』。
譬えば、
『子』は、
或は、
『父の恩に!』、
『報いることができない!』し、
若し、
『恩に報いたとしても!』、
『現世の小利である衣食や、歓楽等である!』。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』中に於いて、
『乃至一切の智慧すら!』、
『得られない所は無い!』。
況して、
『菩薩の力勢を用いれば!』、
『世間の富楽など言うまでもない!』。
子之報父恩極一世。般若之益至無量世乃至成佛。子之於父或好或惡。般若波羅蜜無諸不可。子但是假名虛誑不實之法。般若波羅蜜真實聖法無有虛誑。子之報恩雖得現世小樂。而有憂愁苦惱無量之苦。般若波羅蜜但得歡喜實樂乃至佛樂。 子の父の恩に報ゆるは一世に極むるも、般若の益は無量世に至り、乃ち成仏に至る。子は父に於いて或は好く、或は悪しくも、般若波羅蜜には諸の不可なる無し。子は但だ是れ仮名にして、虚誑不実の法なるも、般若波羅蜜は真実の聖法にして、虚誑有ること無し。子の恩に報ゆるは、現世の小楽を得と雖も、而るに憂愁、苦悩、無量の苦有るも、般若波羅蜜は但だ歓喜の実楽、乃至仏楽を得るのみ。
譬えば、
『子』が、
『父の恩に報いる!』のは、
『一世に極まる!』が、
『般若波羅蜜の益』は、
『無量世に至り!』、
『乃ち成仏するに至る!』。
譬えば、
『子』は、
『父に於いて!』、
『或は好く、或は悪い!』が、
『般若波羅蜜』には、
『諸の不可( something non-agreeable )』が、
『無い!』。
譬えば、
『子』は、
『但だ、仮名であり!』、
『虚誑、不実の法である!』が、
『般若波羅蜜』は、
『真実の聖法であり!』、
『虚誑が無い!』。
譬えば、
『子』が、
『恩に報いても!』、
『現世の小楽』を、
『得るだけであり!』、
『憂愁や、苦悩のような!』、
『無量の苦』が、
『有る!』が、
『般若波羅蜜』は、
但だ、
『歓喜の実楽、乃至仏楽』を、
『得るだけである!』。
子但能以供養利益於父。不能免其生老病死。般若波羅蜜令菩薩畢竟清淨無復老病死患。子但能令父得世樂自在。般若波羅蜜能令菩薩於一切世間為天人主。如是等種種因緣譬喻差別相。世人皆知喪子憂愁故以此為喻。 子は、但だ能く供養を以って、父を利益するも、其れをして生老病死を免るる能わざるも、般若波羅蜜は菩薩をして、畢竟清浄ならしめ、復た老病死の患を無からしむ。子は、但だ能く父をして、世楽の自在なるを得しむるも、般若波羅蜜は能く菩薩をして、一切の世間に於いて、天人の主為らしむ。是れ等の如き種種の因縁、譬喻は差別相なり。世人は皆子を喪う憂愁を知るが故に此れを以って喻と為す。
譬えば、
『子』は、
『但だ、供養して!』、
『父』を、
『利益することができるだけ!』で、
『父』に、
『生老病死』を、
『免れさせることはできない!』が、
『般若波羅蜜』は、
『畢竟じて清浄にならせ!』、
『復た、老病死を患うこと!』を、
『無くすのである!』。
譬えば、
『子』は、
『父』に、
『但だ、世楽の自在』を、
『得させるだけである!』が、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩』に、
『一切の世間』に於いて、
『天、人の主と為らせることができる!』。
是れ等のような、
『種種の因縁、譬喻』は、
『差別相である!』。
『世人』は、
皆、
『子を喪う憂愁』を、
『知る!』が故に、
此れを、
『般若波羅蜜を求めること!』に、
『喻えたのである!』。
問曰。空中佛現是何等佛。先何以但有音聲而今現身。佛既現身何以不即度。方遣至曇無竭所。 問うて曰く、空中に仏の現るるは、是れ何等の仏なりや。先には何を以ってか、但だ音声のみ有りて、今は身を現すや。仏は既に身を現したもうに、何を以ってか、即ち度したまわず、方に遣りて曇無竭の所に至らしむるや。
問い、
『空中に現れた!』、
『仏』は、
『何のような仏ですか?』。
先には、
何故、
『音声が有るだけであり!』、
今は、
『身』を、
『現すのですか?』。
『仏』は、
『既に、身を現されている!』のに、
何故、
『即ち( immediately )!』、
『度されず!』に、
方に( just only )、
『菩薩を遣して!』、
『曇無竭の所に至らせられたのですか?』。
答曰。有人言非真佛但是像現耳。或諸佛遣化或大菩薩現作。以先善根福德未成就故但聞聲。今七日七夜一心念佛功德成就故得見佛身。 答えて曰く、有る人の言わく、『真の仏に非ず、但だ是れ像の現るるのみ。或は諸仏の遣す化なり。或は大菩薩の現作なり。先は善根の福徳の未だ成就せざるを以っての故に、但だ声を聞き、今は七日七夜一心に念佛して功徳成就せるが故に仏身を見るを得』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『真の仏ではなく!』、
但だ、
『仏の像』が、
『現れただけである!』か、
或は、
『仏が遣された!』、
『化である!』か、
或は、
『大菩薩』が、
『現作した( to appear with suitable form )のである!』。
『先には、善根の福徳が未だ成就していなかった!』が故に、
但だ、
『声』を、
『聞くだけであった!』が、
『今は、七日七夜一心に念佛して!』、
『功徳が成就した!』が故に、
『仏身』を、
『見ることができたのである!』。
  現作(げんさ):梵語 kalpayati の訳、整った/調った( to be well ordered or regulated, be well managed )、適切な関係を任う/対応する/適応する( to bear suitable relation to anything, correspond, be adapted to, in accordance with, suitable to )の義、相応しい姿で現れる( to appear with suitable form )の意。
佛所以不即度者。以其與曇無竭世世因緣應當從彼度故。有人應從舍利弗度。假使諸佛現身不能令悟。 仏の即ち度したまわざる所以は、其の曇無竭との世世の因縁の応当に彼れに従いて度すべきを以っての故なり。有る人は、応に舎利弗に従いて度すべければ、仮使(たと)い諸仏身を現したもうも、悟らしむる能わず。
――
『仏が、即ち度されなかった所以
the reason of being enlightened by Buddha )』は、――
『薩陀波崙と曇無竭の世世の因縁』が、
『曇無竭に従って!』、
『度を得ることになっている
should be enlightend by Dharmogata )からである!』。
有る人は、
『舎利弗に従って、度すことになっている!』ので、
仮使い( even if
『諸仏が、身を現したとしても!』、
『悟らせることはできないのである!』。
佛讚言善哉者。以薩陀波崙至意求知去處聞般若因緣故。佛現身而讚善哉。 仏の讃じて善い哉と言えるは、薩陀波崙の至意の去処を求めて知り、般若波羅蜜を聞くなる因縁を以っての故に、仏は身を現して、『善い哉』と讃えたまえり。
『仏』が、
『薩陀波崙を讃じて、善いぞと言われた!』のは、――
『薩陀波崙の至意( Sadaprarud's intention )』は、
『去処を求めて知り、般若波羅蜜を聞くことであるという!』、
『因縁である!』が故に、
『仏は、身を現して!』、
『善いぞ!』と、
『讃じられたのである!』。
  至意(しい)、志意(しい):梵語 abhipraaya の訳、目的/意図( purpose, intention )の義。
過去諸佛行菩薩道時求此般若亦如是種種勤苦。以初發心先罪厚重福德未集故。佛安慰其心。汝求般若波羅蜜。雖勤苦莫懈怠莫生退沒心。一切眾生行異因時皆苦受果時樂。當思惟諸佛無量功德果報以自勸勉。 過去の諸仏の菩薩道を行じたまえる時にも、此の般若を求めて、亦た是の如く種種に勤苦したまい、初めて発心するも、先の罪厚く重くして、福徳の未だ集らざるを以っての故に、仏は其の心を安慰したまわく、『汝は、般若波羅蜜を求むるに、勤苦すと雖も、懈怠する莫かれ、退没の心を生ずる莫れ。一切の衆生は異因を行ずる時は、皆苦なれども、果を受くる時は楽なれば、当に諸仏の無量の功徳の果報を思惟して、以って自ら勧勉すべし』、と。
『過去の諸仏』が、
『菩薩道を行じられた!』時も、
此の、
『般若波羅蜜を求めて!』、
是のように、
『種種に!』、
『勤苦されたのであり!』、
『初めて発心された!』時には、
『先の罪が、厚く重く!』、
『福徳』が、
『未だ、集っていなかった!』が故に、
『仏』は、
『薩陀波崙の心を安慰して!』、こう言われたのである、――
お前は、
『般若波羅蜜を求めて、勤苦している!』が、
『懈怠してはならない!』、
『退没の心を生じてはならない!』。
『一切の衆生』は、
『異因を行じる( to practice the ripening causes )!』時、
『皆、苦を受けながら!』、
『果を受ける時に、楽しむのである!』。
お前は、
『諸仏の無量の功徳という!』、
『果報を思惟しながら!』、
『自ら、勧勉せねばならない( must encourage yourself )!』、と。
  異因(いいん)、異熟因(いじゅくいん):梵語 vipaaka, -hetu の訳、 果をもたらす因( ripening cause )、果に異なる因/差異ある結実( causes that differ from their fruits, differential fruition )、即ち原因に差異ある結果、例えば地獄の悪行の結果なるが如き、( i. e. the effect different from the cause, as the hells are from evil deeds )。
  勧勉(かんべん)、勧修(かんしゅう):梵語 samaadaa, samaadaapayati の訳、激励する/勇気づける( instigate, encourage )の義。
如是安慰已作是言。汝從是東行去此五百由旬。有城名眾香。乃至不久當聞般若波羅蜜。 是の如く安慰し已りて、是の言を作したまわく、『汝は、是より東に行け、此を去ること五百由旬にして、城有り衆香と名づく』、乃至『久しからずして、当に般若波羅蜜を聞くべし』、と。
是のように、
『安慰して!』、こう言われた、――
お前は、
『是より、東に行け!』、
『此より、五百由旬去る!』と、
『衆香と称する!』、
『城が有る!』。
乃至、――
『久しからずして!』、
『般若波羅蜜』を、
『聞くことになるだろう!』、と。
問曰。眾香城在何處。 問うて曰く、衆香城は、何処にか在る。
問い、
何処に、
『衆香城』は、
『在るのですか?』。
答曰。過去佛滅度後但有遺法。是法不周遍閻浮提。眾生有聞法因緣處則到。 答えて曰く、、過去の仏は滅度の後、但だ遺法有り。是の法は閻浮提を周遍せざるも、衆生に聞法の因縁有れば、処には則ち到るなり。
答え、
『過去の仏が、滅度された!』後には、
但だ、
『遺法』が、
『有るだけである!』が、
是の、
『法』は、
『閻浮提』に、
『周遍しているわけではない( be not existing in every where )!』が、
『衆生』に、
『聞法の因縁』が、
『有れば!』、
『聞法』の、
『処』が、
『到るのである( should come every where )!』。
爾時眾香國土豐樂。多出七寶故以七寶作城。時薩陀波崙雖同在閻浮提而在無佛法無七寶處生。但傳聞佛名般若波羅蜜是佛道。是人先世廣集福德。煩惱輕微故聞即信樂厭惡世樂。捨其親屬到空林中住。欲至有佛法國土。 爾の時、衆香国の土は豊楽にして、多く七宝を出すが故に七宝を以って城を作せり。時に薩陀波崙は同じく閻浮提に在りと雖も、仏法無く、七宝無き処に在りて生ずれば、但だ仏の名と、般若波羅蜜は是れ仏道なりと伝え聞くのみ。是の人は先世に広く福徳を集めて、煩悩軽微なるが故に聞いて即ち信楽し、世楽を厭悪して、其の親属を捨て、空林中に到りて住し、仏法有る国土に至らんと欲す。
爾の時、
『衆香国の土は豊楽であって
the soil of that country supplies plenty of food )!』、
『七宝を多く出す!』が故に、
『七宝を用いて!』、
『城が作られている!』。
爾の時、
『薩陀波崙』は、
『同じく、閻浮提に在りながら!』、
『仏法が無く、七宝も無い処』に、
『生まれたのであり!』、
但だ、
『仏の名と、般若波羅蜜が仏道であるということ!』を、
『伝え聞いただけである!』。
是の、
『人』は、
『先世に、広く福徳を集めており!』、
『煩悩』が、
『軽く、微かであった!』が故に、
『聞いただけで、即ち信楽することになり!』、
『世楽を厭悪して!』、
其の、
『親属』を、
『捨て!』、
『空林中に到って、住し!』、
『仏法の有る国土に至ろう!』と、
『欲した!』。
音聲示語者。恐其異去不得到曇無竭菩薩所。是故語之次後佛為現身示其去處。 音声示語すとは、其の異去して、曇無竭菩薩の所に到るを得ざらんを恐れ、是の故に之に語りて、次後に仏は為めに身を現し、其の去処を示したまえり。
『音声が示し語った!』のは、
『薩陀波崙』が、
『異去して( to take the wrong way )!』、
『曇無竭の所に到ることができない!』ことを、
『恐れたからであり!』、
是の故に、
『薩陀波崙に語る!』と、
次後に( next )、
『仏は、仏身を現して!』、
其の、
『去処( the destination )』を、
『示された( to show )のである!』。
  (い):<形容詞>[本義]奇妙な( strange, queer, odd )。異なる/不同( different )。<代詞>その他の、別の( other )。<動詞>分ける/区別する( distinguish, divide )、奇怪に思う/驚く( be surprised, be astonished )、特別扱いする( give preferential treatment )。<名詞>以前[異時、異代]( before, formerly, in the past )、以後/将来[異日、異時]( after, laeter, future )、奇怪な事[怪異/災異]( strange )、特殊な才能[異能/異才]( special skill, special ability )。
  異去(いこ):別の処に去ること( going to other destination )。
  去処(こじょ):目的地( the destination )。
問曰。薩陀波崙因緣已具聞於上。今曇無竭因緣為云何。 問うて曰く、薩陀波崙の因縁は、已に具さに上に於いて聞けり。今、曇無竭の因縁は云何と為すや。
問い、
『薩陀波崙の因縁』は、
已に、
『上に於いて!』、
『具さに聞いた!』が、
今、
『曇無竭の因縁』は、
『何うなのですか?』。
答曰。鬱伽陀秦言盛。達磨秦言法。此菩薩在眾香城中。為眾生隨意說法。令眾生廣種善根故號法盛。其國無王。此中人民皆無吾我。如鬱單越人。唯以曇無竭菩薩為王其國難到。薩陀波崙不惜身命。又得諸佛菩薩接助能到。大菩薩為度眾生故生如是國中。眾生無所乏短。其心調柔易可得度。故 答えて曰く、鬱伽陀を秦に盛と言い、達磨を秦に法と言う。此の菩薩は、衆香城中に在りて、衆生の為めに隨意に法を説き、衆生に広く善根を種えしむるが故に、法盛と号す。其の国は王無くして、此の中の人民の、皆吾我無きこと、鬱単越の人の如く、唯だ曇無竭菩薩を以って、王と為す。其の国は到り難し。薩陀波崙は身命を惜まずして、又諸仏、菩薩の接助を得て、能く到れり。大菩薩、衆生を度せんが為めの故に、是の如き国中に生ずれば、衆生に乏短する所無きは、其の心調柔にして、度を得べきこと易きが故なり。
答え、
『鬱伽陀』を、
秦に、
『盛んである( being magnificent )!』と、
『言い!』、
『達磨』を、
秦に、
『法』と、
『言う!』が、
此の、
『菩薩は、衆香城中に在って!』、
『衆生の為めに、隨意に説法しながら!』、
『衆生に!』、
『広く、善根を種えさせる!』が故に、
是れを、
『法が盛んである!』と、
『号するのであり!』、
其の、
『国には、王が無く!』、
此の中の、
『人民』は、
『鬱単越の人のように!』、
『皆、吾我が無く( all do not think 'I' )!』、
唯だ、
『曇無竭菩薩だけ!』を、
『王としていたのである!』。
其の、
『国は、到り難い!』が、
『薩陀波崙は、身命を惜むことなく!』、
又、
『諸仏、菩薩の接助を得て
be aided by many buddhas and bodhisattvas )!』、
『到ることができたのである!』。
『大菩薩』が、
是のような、
『国』中に、
『生じる!』と、
『衆生に、乏短する所が無くなる
there is nothing that people's necessary )!』のは、
其の、
『心が調柔であり!』、
『容易に度されるからである!』。
  鬱伽陀(うっがた)、達磨(だるま):曇無竭( dharmodgata )は、達磨( dharma )と鬱伽陀( udgata : proceeded forth, extended, large, magnificent )の合成語である。
  鬱単越(うったんおつ)、北拘盧(ほくくる):梵語 uttara-kuru の訳、印度の北の国( the country situated in the north of India )の意。
  接助(せつじょ):接近援助/近づいて助ける( to near and aid )。
問曰。曇無竭菩薩為是生身。為是法身為度眾生故以神通力化作此身。若化身者何用六萬婇女園觀浴池種種莊嚴而自娛樂。若是生身云何能令薩陀波崙供養具皆在空中化成大臺。入諸三昧乃至七歲。 問うて曰く、曇無竭菩薩は、是れ生身と為すや、是れ法身にして衆生を度せんが為めの故に、神通力を以って此の身を化作すと為すや。若し化身なれば、何んが六万の婇女、園観、浴池を用いて種種に荘厳し、自ら娯楽するや。若し是れ生身なれば、云何が能く薩陀波崙の供養の具をして皆空中に在りて、大台を化成せしめ、諸三昧に入ること乃ち七歳に至れるや。
問い、
『曇無竭菩薩』は、
『生身ですか?』、
『法身が、衆生を度す為め!』の故に、
『神通力を用いて!』、
此の、
『身』を、
『化作したのですか?』。
若し、
『化身ならば!』、
何故、
『六万の婇女、園観、浴池を用いて!』、
『種種に、国土を荘厳して!』、
『自ら、娯楽するのですか?』。
若し、
『生身ならば!』、
何故、
『薩陀波崙の供養の具』に、
『空中に於いて!』、
『大台』を、
『化成させることができ!』、
『乃至、七歳』、
『諸三昧』に、
『入ったのですか?』。
答曰。有人言是生身菩薩。得諸法實相及禪定神通力故。欲度是城中眾生。如餘菩薩利根故能入禪定。亦能入欲界法。為攝眾生故受五欲而不失禪定。如人避熱故在泥中臥還洗則如故。凡夫鈍根故不能如是。是故以神通力化作華臺七歲入定。又以方便力故能受五欲。如先義說 答えて曰く、有る人の言わく、『是れ生身の菩薩にして、諸法の実相、及び禅定、神通力を得るが故に、是の城中の衆生を度せんと欲し、餘の菩薩の如く、利根なるが故に、能く禅定に入り、亦た能く欲界の法に入り、衆生を摂せんが為めの故に、五欲を受くるも、禅定を喪わず、人の如く熱を避くるが故に泥中に在りて臥し、還って洗えば則ち故(もと)の如し。凡夫は鈍根なるが故に、是の如くする能わず。是の故に神通力を以って、華台を化作して、七歳入定せり。又方便力を以っての故に、能く五欲を受くること、先に義を説けるが如し。
答え、
有る人は、こう言っている、――
是れは、
『生身の菩薩であり!』、
『諸法の実相と禅定、神通力を得た!』が故に、
是の、
『城中の衆生』を、
『度そうとするのである!』が、
『餘の菩薩のように!』、
『利根である!』が故に、
『禅定』に、
『入ることもできれば!』、
亦た、
『欲界の法』に、
『入ることもでき!』、
『衆生を摂する為め!』の故に、
『五欲』を、
『受けながら!』、
而も、
『禅定』を、
『失うこともなく!』、
『世の人のように!』、
『熱を避ける!』が故に、
『泥中に於いて!』、
『臥していても!』、
還って、
『洗えば!』、
『故の通りになるのである!』が、
『凡夫』は、
『鈍根である!』が故に、
是のように、
『二法』を、
『為すことはできない!』。
是の故に、
『神通力を用いて!』、
『華台を化作し!』て、
『七歳』、
『入定するのであり!』、
又、
『方便力を用いる!』が故に、
『五欲』を、
『受けることができるのである!』が、
是れは、
『先に説いた!』、
『義の通りである!』。
  参考:『大品般若経巻27』:『爾時曇無竭菩薩。七歲一心入無量阿僧祇菩薩三昧。及行般若波羅蜜方便力。薩陀波崙菩薩七歲經行住立。不坐不臥無有睡眠。無欲恚惱心不著味。但念曇無竭菩薩摩訶薩。何時當從三昧起出而說法。薩陀波崙菩薩過七歲已作是念。我當為曇無竭菩薩摩訶薩敷說法座。曇無竭菩薩摩訶薩當座上說法。我當灑掃清淨散種種華莊嚴是處。為曇無竭菩薩摩訶薩當說般若波羅蜜及方便力故。是時薩陀波崙菩薩與長者女及五百侍女。為曇無竭菩薩摩訶薩敷七寶床。五百女人各脫上衣以敷座上作是念。曇無竭菩薩摩訶薩當坐此座上。說般若波羅蜜及方便力。薩陀波崙菩薩敷座已。求水灑地而不能得。所以者何。惡魔隱蔽令水不現。魔作是念。薩陀波崙菩薩求水不得。於阿耨多羅三藐三菩提。乃至生一念劣心異心。則智慧不照善根不增。於一切智而有稽留。爾時薩陀波崙菩薩作是念。我當自刺其身以血灑地。令無塵土來坌大師。我何用此身此身必當破壞。我從無始生死以來數數喪身未曾為法。即以利刀自刺出血灑地。薩陀波崙菩薩及長者女并五百侍女皆無異心。惡魔亦不能得便。是時釋提桓因作是念。未曾有也。薩陀波崙菩薩。愛法乃爾以刀自刺出血灑地。薩陀波崙及眾女人心不動轉。惡魔波旬不能壞其善根。其心堅固發大莊嚴不惜身命。以深心欲求阿耨多羅三藐三菩提。當度一切眾生無量生死苦。釋提桓因讚薩陀波崙菩薩言。善哉善哉。善男子。汝精進力大堅固難動不可思議。汝愛法求法最為無上。善男子。過去諸佛亦如是。以深心愛法惜法重法。集諸功德得阿耨多羅三藐三菩提。薩陀波崙菩薩作是念。我為曇無竭菩薩摩訶薩敷法座。掃灑清淨已訖。當於何處得好名華莊嚴此地。若曇無竭菩薩摩訶薩法座上坐說法時。亦當散華供養。釋提桓因知薩陀波崙菩薩心所念。即以三千石天曼陀羅華與薩陀波崙。薩陀波崙受華以半散地。留半待曇無竭菩薩摩訶薩坐法座上說法時當供養。爾時曇無竭菩薩摩訶薩。過七歲已從諸三昧起。為說般若波羅蜜故。與無量百千萬眾恭敬圍繞往法座上坐。薩陀波崙菩薩摩訶薩。見曇無竭菩薩摩訶薩時心得悅樂。譬如比丘入第三禪。』
菩薩不但行一道。為眾生故行種種道引導之。如龍起雲能降大雨雷電霹靂。菩薩亦如是。雖是生身未離煩惱而能修行善法。為眾生故不盡結使。 菩薩は、但だ一道を行ずるのみにあらずして、衆生の為めの故に、種種の道を行じて、是れを引導す。龍の雲を起して、大雨、雷電、霹靂を降らすが如く、菩薩も亦た是の如く、是れ生身にして、未だ煩悩を離れずと雖も、能く善法を修行し、衆生の為めの故に結使を尽さず。
『菩薩』は、
『但だ、一道だけを行じるのではなく!』、
『衆生の為め!』の故に、
『種種の道を行じながら!』、
『衆生を引導するのである!』。
譬えば、
『龍が、雲を起して!』、
『大雨や、雷電、霹靂』を、
『降らすようなものであり!』、
『菩薩』も、
是のように、
『生身として!』、
『未だ、煩悩を離れていなくても!』、
『善法』を、
『修行することができ!』、
『衆生の為め!』の故に、
『結使』を、
『尽さないのである!』。
有人言。是菩薩是法性生身。為度眾香城人故變化而度。若是生身云何能令十方佛稱讚而遣薩陀波崙。令從受法得六萬三昧。是故知是大菩薩變化身。譬如大海中龍死相出時如果熟應墮金翅鳥則來食之。眾生亦如是。行業因緣熟故大菩薩來度之。 有る人の言わく、『是の菩薩は、是れ法性生身にして、衆香城の人を度せんが為めの故に変化して度すなり。若し是れ生身なれば、云何が能く十方の仏をして称讃せしめ、而も薩陀波崙を遣わしめて、従って法を受け、六万の三昧を得しむるや。是の故に知るらく、是れ大菩薩の変化身なり。譬えば、大海中の龍に死相出づる時、果熟して応に墮つるが如く、金翅鳥則ち来たりて之を食うが如し。衆生も亦た是の如く、行業の因縁熟するが故に大菩薩来たりて之を度するなり』、と。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『菩薩』は、
『法性生身であり!』、
『衆香城の人を度す為め!』の故に、
『変化して!』、
『度すのである!』。
若し、
『生身ならば!』、
何故、
『十方の仏が称讃して!』、
『薩陀波崙を遣わし!』、
『菩薩より、法を受けさせて!』、
『六万の三昧を得させることができるのか?』。
是の故に、こう知ることになる、――
是れは、
『大菩薩』の、
『変化身なのである!』。
譬えば、
『大界中の龍』に、
『死相が出た!』時、
『果が熟して!』、
『堕ちそうであるように!』、
『金翅鳥が来て!』、
『之を!』、
『食うようなものである!』。
『衆生』も、
是のように、
『行業の因縁が熟する!』が故に、
『大菩薩が来て!』、
『之を度すのである!』。
爾時薩陀波崙聞空中佛教大歡喜大欲心生故。我何時當得見曇無竭菩薩說般若波羅蜜者。能令我心中愛見等諸煩惱箭出。 爾の時、薩陀波崙は、空中の仏の教を聞いて大歓喜し、大欲心の生ずるが故に、『我れは、何れの時にか、当に曇無竭菩薩の般若波羅蜜を説くを見るを得べき』とは、能く、我心中の愛、見等の諸煩悩の箭をして、出でしむればなり。
爾の時、
『薩陀波崙』が、
『空中の仏の教を聞いて、大歓喜し!』、
『大欲心が生じた!』が故に、こう言ったのは、――
わたしは、
何時になったら、
『曇無竭菩薩が般若波羅蜜を説く!』のを、
『見ることができるのか?』、と。
――
『我心』中の、
『愛、見等の諸煩悩の箭』を、
『出すことができるからである!』。
欲明是事故。此中佛說毒箭譬喻。如人毒箭在身更無餘念。一者苦痛急。二者毒不疾出則遍滿身中而失命。 是の事を明さんと欲するが故に、此の中に仏は、毒箭の譬喻を説きたまわく、『人の毒箭身に在れば、更に餘念無いようなものである。一には苦痛の急にして、二には毒を疾かに出さざれば、身中に遍満して、命を失えばなり』、と。
是の、
『事を明らかにしようとする!』が故に、
此の中に、
『仏』は、
『毒箭の譬喻』を、こう説かれた、――
譬えば、――
『人が、毒箭が身に在れば!』、
『毒箭を出そうとするだけで!』、
『更に、餘念が無いようなものである!』。
何故ならば、
一には、
『苦痛』が、
『急であり!』、
二には、
『毒を疾かに出さなければ!』、
『遍く、身中を満して!』、
『命を、失うからである!』、と。
薩陀波崙亦如是。諸邪疑等箭入心。貪欲等毒塗箭。聞曇無竭菩薩能拔出此箭。見人以邪見箭毒傷心。又畏貪欲等毒遍入身中奪智慧命與凡人同死。是故急欲見曇無竭菩薩無復餘念。 薩陀波崙も是の如く、諸邪疑等の箭、心に入りて、貪欲等の毒、箭に塗らるるに、曇無竭菩薩の能く此の箭を拔出するを聞くに、人の邪見の毒箭を以って、心を傷つくるを見、又貪欲等の毒、遍く身中に入りて、智慧の命を奪わば、凡人と同じく死するを畏るれば、是の故に急いで、曇無竭無竭を見んと欲し、復た餘念無し。
『薩陀波崙』も、
是のように、
『諸の邪疑等の箭が心に入り!』、
『貪欲等の毒』が、
『箭に塗られている!』ので、
『曇無竭菩薩』が、
『此の箭を拔出することができる!』と、
『聞き!』、
『人』が、
『邪見の箭毒に、心が傷つけれる!』のを、
『見たからであり!』、
又、
『貪欲等の毒が、遍く身中に入れば!』、
『智慧の命が奪われて、凡人同様に死んでしまう!』のを、
『畏れた!』ので、
是の故に、
『急いで!』、
『曇無竭菩薩を見たい!』と、
『欲したのであり!』、
復た、
『餘念』は、
『無いのである!』。
此中說斷諸所有心。所有心者取相著。乃至善法中亦有是病。 此の中に説かく、『諸の有らゆる心を断ず』とは、有らゆる心は、相を取りて著し、乃至善法中にも亦た是の病有ればなり。
此の中に説かれた、
『諸の有らゆる心を断じる!』とは、――
有らゆる、
『心』は、
『相を取って!』、
『著するからであり!』、
乃至、
『善法中の心』にも、
是の、
『病』が、
『有るからである!』。
薩陀波崙目睹佛身。先所未見從佛聞教。得法喜故離五欲喜。即得一切法中無礙知見。無礙知見者如薩陀波崙力所得無礙。非佛無礙。 薩陀波崙は目に仏身を睹(み)、先に未だ見ざる所の仏より教を聞けば、法の喜を得るが故に五欲の喜を離れ、即ち一切法中に無礙の知見を得たり。無礙の知見とは、薩陀波崙の力の所得の無礙なるが如きは仏の無礙に非ざるなり。
『薩陀波崙は、目に仏身を見て!』、
『先に、未だ見たことのない仏より!』、
『教』を、
『聞き!』、
『法の喜びを得た!』が故に、
『五欲の喜び!』を、
『離れ!』、
即ち、
『一切法』中に、
『無礙の知見』を、
『得たのである!』が、
『無礙の知見』とは、――
『薩陀波崙の力で得られる!』、
『無礙』は、
『仏の無礙ではない!』。
  (と)、 (と):見る/凝視する/目撃する( see, gaze at, witness )。
是時得入諸三昧門。諸法性觀三昧者。能觀一切諸法實性。實性者如先種種因緣說。 是の時、諸三昧門に入るを得るに、諸法性観三昧とは、能く一切の諸法の実性を観るなり。実性とは、先の種種の因縁を説けるが如し。
是の時、
『諸の三昧門に入ることができたのである!』が、――
『諸法性観三昧』は、
『一切の諸法の実性』を、
『観ることができる!』。
『実性』とは、
『先に説いた!』、
『種種の因縁の通りである!』。
諸法性不可得三昧者。初得三昧所謂空無生無滅。今得是三昧則不著是性。不得其決定相。 諸法性不可得三昧とは、初得の三昧とは、謂わゆる空、無生、無滅なり。今、是の三昧を得れば則ち是の性にも著せずして、其の決定相を得ず。
『諸法性不可得三昧』とは、――
『初得の三昧』とは、
謂わゆる、
『空』、
『無生、無滅であり!』、
今、
是の、
『三昧を得たならば!』、
是の、
『性にも!』、
『著することがない!』ので、
其の、
『決定相』を、
『得ることもない!』。
破諸法無明三昧者。諸法於凡夫人心中以無明因緣故邪曲不正。所謂常樂我淨。得是三昧故常等顛倒相應無明破。但觀一切法無常空無我。 破諸法無明三昧とは、諸法は凡夫人の心中に於いては、無明の因縁を以っての故に、邪曲して正しからず。謂わゆる常楽我淨なるも、是の三昧を得るが故に常等の顛倒相応の無明破れ、但だ一切法の無常、空、無我を観る。
『破諸法無明三昧』とは、――
『諸法』は、
『凡夫人の心中に於いて!』、
『無明の因縁』の故に、
『邪曲であり!』、
『不正であり!』、
謂わゆる、
『常、楽、我、浄である!』が、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『常等の顛倒に相応する!』、
『無明( the ignorance of non-existence )』を、
『破り!』、
但だ、
『一切法の無常、空、無我のみ!』を、
『観ることになる!』。
  無明(むみょう):梵語 avidyaa の訳、学ばない/無知( unlearned, ignorance )の義、不存在に関する無知( ignorance of non-existence )の意。
問曰。若是菩薩破一切法中無明。此人尚不須見佛。何用至曇無竭菩薩所。 問うて曰く、若し是の菩薩、一切法中の無明を破れば、此の人は尚お仏を見るを須たざるに、何を用ってか、曇無竭菩薩の所に至れるや。
問い、
若し、
是の、
『菩薩』が、
『一切法中の無明』を、
『破ったならば!』、
此の、
『人』は、
尚お、
『仏を見ることすら!』、
『須つことはない( it is not necessary that )!』のに、
何故、
『曇無竭菩薩の所』に、
『至るのですか?』、
答曰。破無明不唯一種。有遮令不起亦名為破。有得諸法實相故破無明。又無明種數甚多。有菩薩所破分有佛所破分。有小菩薩所破分大菩薩所破分。如先說燈譬喻。 答えて曰く、無明を破るは、唯だ一種のみにあらず。有るいは遮りて起こらざらしむを亦た名づけて破ると為し、有るいは諸法の実相を得るが故に無明を破る。又無明の種数も甚だ多く、菩薩に破らるる分有り、仏に破らるる分有り、小菩薩に破らるる分、大菩薩に破らるる分有り。先に灯の譬喻を説けるが如し。
答え、
『無明を破る!』のは、
『唯だ、一種だけではなく!』、
有るいは、
『遮って、起きさせない!』のを、
『破る!』と、
『称し!』、
有るいは、
『諸法の実相を得る!』が故に、
『無明』を、
『破ることである!』。
又、
『無明の種数は甚だ多く( there are many kinds of avidya )!』、
『菩薩に破られる分、仏に破られる分、小菩薩、或は大菩薩に破られる分』が、
『有る!』のは、
先に、
『灯の譬喻』で、
『説いた通りである!』。
又須陀洹亦名破無明。乃至阿羅漢方是實破。大乘法中亦如是。新發意菩薩得諸法實相故亦名破無明。乃至佛無明盡破無餘。是故薩陀波崙於佛法中邪見無明及我見皆盡。故得名破無明三昧無咎。 又、須陀洹も亦た無明を破ると名づけ、乃至阿羅漢も方(まさ)に是れ実に破るべし。大乗法中にも亦た是の如く、新発意の菩薩も諸法の実相を破るが故に亦た無明を破ると名づけ、乃至仏の無明は尽く破れて餘無ければ、是の故に薩陀波崙は仏法中に於いて、邪見、無明、及び我見は皆尽くるが故に、破無明三昧と名づくるを得るも咎無し。
又、
亦た、
『須陀洹』も、
『無明を破る!』と、
『称され!』、
乃至、
『阿羅漢』は、
『方に( just it is )!』、
『実に破っているのである!』が、
亦た、
『大乗法』中にも、
是のように、
『新発意の菩薩であっても!』、
『諸法の実相を得る!』が故に、
『無明を破る!』と、
『称され!』、
乃至、
『仏』は、
『無明が尽く破れて!』、
『餘の無明』は、
『無いのであり!』、
是の故に、
『薩陀波崙』も、
『仏法』中に於いて、
『邪見、無明、我見』が、
『皆、尽きている!』が故に、
是れを、
『破無明三昧と称しても!』、
『咎は無い!』。
諸法不異三昧者。得是三昧觀一切法一相。所謂無相。 諸法不異三昧とは、是の三昧を得れば、一切法の一相を観る、謂わゆる無相なり。
『諸法不異三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法は一相、謂わゆる無相である!』と、
『観ることになる!』。
諸法不壞自在三昧者。得是三昧觀一切法如法性實際無為相故名不壞。得是法已得自在。了了知諸法。為佛道故不證是法。 諸法不壊自在三昧とは、是の三昧を得れば、一切法の如、法性、実際、無為相を観るが故に不壊と名づけ、是の法を得已りて、自在を得れば、諸法を了了に知るも、仏道の為めの故に、是の法を証せず。
『諸法不壊自在三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法の如、法性、実際、無為相を観る!』が故に、
『不壊』と、
『称し!』、
是の、
『法を得て、自在を得れば!』、
『諸法』を、
『了了に知りながら!』、
『仏道の為め!』の故に、
是の、
『法』を、
『証することもない( should not realize )!』。
諸法能照明三昧者。以總相別相知一切法。諸法離闇三昧者。無明有二種。一者厚二者薄。薄者名無明。厚者名黑闇。破厚無明故名離闇。先破薄無明故名破諸法無明。 諸法能照明三昧とは、総相、別相を以って一切法を知ればなり。諸法離闇三昧とは、無明には二種有りて、一には厚く、二には薄く、薄き者を無明と名づけ、厚き者を黒闇と名づけ、厚き無明を破るが故に離闇と名づけ、先は、薄き無明を破るが故に破諸法無明と名づく。
『諸法能照明三昧』とは、
『総相、別相を用いて!』、
『一切法』を、
『知るからである!』。
『諸法離闇三昧』とは、
『無明には、二種有り!』、
『一には厚く、二には薄い!』が、
『薄い!』者を、
『無明』と、
『称し!』、
『厚い!』者を、
『黒闇』と、
『称し!』、
『厚い無明を破る!』が故に、
『離闇三昧』と、
『称し!』、
『先の、破諸法無明三昧』は、
『薄い無明を破る!』が故に、
『破諸法無明』と、
『称するのである!』。
諸法無異相續三昧者。五眾念念滅。相似相續生。死時相續生而不相似。得是三昧知諸法念念相續法不異。諸法不可得三昧者。即是一切法空相應三昧。 諸法無異相続三昧とは、五衆は念念に滅して、相似相続して生じ、死時に相続して生ずるは而るに相似にあらず。是の三昧を得れば、諸法の念念に相続する法の異ならざるを知る。諸法不可得三昧とは、即ち是れ一切法空相応三昧なり。
『諸法無異相続三昧』とは、
『五衆』は、
『念念に滅しながら!』、
『相似し!』、
『相続して生じ
to arise resembling and following the former )!』、
而し、
『死時』に、
『相続して生じる!』のは、
『相似していない!』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『死時に相続する法は、諸法が念念に相続する法と異らない!』と、
『知る!』。
『諸法不可得三昧』は、
即ち、
『一切法空相応三昧である!』。
  相似(そうじ):梵語 sadRza の訳、似る/似た( like, resembling, similar to )の義。
  相続生(そうぞくしょう)、(しょう):梵語 utpatti の訳、生起する( arising )、連続して生じる( continuously arise )の義、前の者に引き続いて生じる( arise following the former )の意。
散華三昧者。得是三昧者。於十方佛前能以七寶華散佛。諸法無我三昧者。觀一切法無我。如幻威勢三昧者。得是三昧者能種種變化身如大幻師。能引導眾生發希有心如大幻師。以幻力故能轉一國人心。得如鏡像三昧者。得是三昧者觀三界所有。如鏡中像虛誑無實。 散華三昧とは、是の三昧を得れば、十方の仏の前に於いて、能く七宝の華を仏に散ずればなり。諸法無我三昧とは、一切法の無我を観ずればなり。如幻威勢三昧とは、是の三昧を得れば、能く種種に身を変化すること大幻師の如く、能く衆生を引導して、希有の心を発さしむること大幻師の如く、幻力を以っての故に能く一国の人心を転ずればなり。得如鏡像三昧とは、是の三昧を得れば、三界の所有を、鏡中の像の如く、虚誑、無実なりと観ずればなり。
『散華三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『十方の仏の前に於いて!』、
『七宝の華』を、
『仏に散じるからである!』。
『諸法無我三昧』とは、
『一切法』は、
『無我である!』と、
『観るからである!』。
『如幻威勢三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『大幻師のように!』、
『種種に!』、
『身を変化することができ!』、
『大幻師のように!』、
『衆生を引導して!』、
『希有の心を発させ!』、
『幻の力を用いる!』が故に、
『一国の!』、
『人心を転じることができるからである!』。
『得如鏡像三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『三界の有らゆる!』者は、
『鏡中の像のように虚誑、無実である!』と、
『観るからである!』。
得一切眾生語言三昧者。得是三昧故能解一切眾生語言。一切眾生歡喜三昧者。入是三昧能轉眾生瞋心令歡喜。入分別音聲三昧者。入是三昧中。皆能分別一切天人音聲大小麤細等。得種種語言字句。莊嚴三昧者。得是三昧者義理雖淺能莊嚴字句語言。令人歡喜。何況深義。 得一切衆生語言三昧とは、是の三昧を得るが故に、能く一切の衆生の語言を解すればなり。一切衆生歓喜三昧とは、是の三昧に入れば、能く衆生の瞋心を転じて、歓喜せしむればなり。入分別音声三昧とは、是の三昧中に入れば、皆能く一切の天人の音声の大小麁細等を分別すればなり。得種種語言字句荘厳三昧とは、是の三昧を得れば、義理浅しと雖も、能く字句、語言を荘厳して、人をして歓喜せしむればなり、何に況んや深義をや。
『得一切衆生語言三昧』とは、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『一切の衆生の語言』を、
『理解することができるからである!』。
『一切衆生歓喜三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『衆生の瞋心を転じることができ!』、
『歓喜させるからである!』。
『入分別音声三昧』とは、
是の、
『三昧中に入れば!』、
皆、
『一切の天人の音声の大小、麁細等』を、
『分別することができるからである!』。
『得種種語言字句荘厳三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『義理が浅くても!』、
『字句、語言を荘厳して!』、
『人を歓喜させられるからである!』、
況して、
『義理が深ければ!』、
『尚更である!』。
無畏三昧者。得是三昧者。不畏一切魔民外道論師及諸煩惱性。常默然三昧者。入是三昧者。常默然攝心。為度眾生故隨所應聞而出音聲。如天妓樂應意而出。得無礙解脫三昧者。得是三昧者。於一切法中得無礙智慧 無畏三昧とは、是の三昧を得れば、一切の魔民、外道の論師、及び諸の煩悩を畏れざればなり。性常黙然三昧とは、是の三昧に入れば、常に黙然として心を摂し、衆生を度せんが為めの故に、応に聞くべき所に随いて、音声を出し、天の妓楽の如きも意に応じて出せばなり。得無礙解脱三昧とは、是の三昧を得れば、一切法中に於いて、無礙の智慧を得ればなり。
『無畏三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の魔民、外道の論師や、諸の煩悩』を、
『畏れないからである!』。
『性常黙然三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『常に黙然として、心を摂し
should be always in silence and control the mind )!』、
『衆生を度する為め!』の故に、
『聞かすべき所に随って!』、
『大小の音声を出し!』、
『天の妓楽なども!』、
『意に応じて!』、
『出すからである!』。
『得無礙解脱三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法中に於いて!』、
『無礙の智慧』を、
『得るからである!』。
離塵垢三昧者。得是三昧者。諸煩惱結使塵垢皆滅。即是無生法忍三昧。名字語句莊嚴三昧者。得是三昧者。能種種莊嚴偈句語言。說法 離塵垢三昧とは、是の三昧を得れば、諸煩悩、結使の塵垢皆滅すれば、即ち是れ無生法忍三昧なり。名字語句荘厳三昧とは、是の三昧を得れば、能く種種に偈、句、語言を荘厳して、説法すればなり。
『離塵垢三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸の煩悩、結使の塵垢が皆滅する!』ので、
是の、
『三昧』は、
『即ち、無生法忍三昧なのである!』。
『名字語句荘厳三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『偈、句、語言』を、
『種種に荘厳して!』、
『説法することができるからである!』。
見諸法三昧者。入是三昧者。以見世諦及第一義諦知諸法。諸法無礙頂三昧者。如人在山頂遍觀四方。菩薩住是三昧中。普見一切諸法無礙。 見諸法三昧とは、是の三昧に入れば、世諦、及び第一義諦を見るを以って、諸法を知ればなり。諸法無礙頂三昧とは、人の山頂に在りて、四方を遍く観るが如く、菩薩は是の三昧中に住して、普く一切諸法を見ること無礙なればなり。
『見諸法三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『世諦、第一義諦を見て!』、
『諸法を知るからである!』。
『諸法無礙頂三昧』とは、
譬えば、
『人が山頂に在って!』、
遍く、
『四方』を、
『観るように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧中に住すれば!』、
普く、
『一切諸法を見て!』、
『無礙だからである!』。
如虛空三昧者。入是三昧者。身及外法皆如虛空。皆得自在。如金剛三昧者。如金剛能破諸山。是三昧亦如是。能破障礙。六波羅蜜法直至佛道。不畏著色三昧者。得是三昧者。乃至天色尚不著。何況餘色。 如虚空三昧とは、是の三昧に入れば、身、及び外法は皆、虚空の如くして、皆自在を得ればなり。如金剛三昧とは、金剛の能く諸山を破るが如く、是の三昧も亦た是の如く、能く六波羅蜜を障礙する法を破り、直ちに仏道に至ればなり。不畏著色三昧とは、是の三昧を得れば、乃至天の色すら尚お著せず、何に況んや餘の色をや。
『如虚空三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『身や外法は皆、虚空のようであり!』、
皆、
『自在』を、
『得るからである!』。
『如金剛三昧』とは、
『金剛』が、
『諸山』を、
『破ることができるように!』、
是の、
『三昧』も、
是のように、
『六波羅蜜を障礙する法』を、
『破って!』、
直ちに、
『仏道』に、
『至らせるからである!』。
『不畏著色三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
乃至、
『天の色すら!』、
『尚お、著することがない!』ので、
況して、
『餘の色』は、
『尚更である!』。
得勝三昧者。欲有所作皆能得勝不負。轉眼三昧者。得是三昧者。魔及魔民欲見菩薩短者。轉之令作好見。畢法性三昧者。得是三昧者。見一切法畢入法性中。 得勝三昧とは、所作有らんと欲すれば、皆能く勝つを得て、負けざればなり。転眼三昧とは、是の三昧を得れば、魔及び魔民、菩薩の短を見んと欲すれば、之を転じて、好見を作さしむ。畢法性三昧とは、是の三昧を得れば、一切法を見れば、畢(つい)に法性中に入ればなり。
『得勝三昧』とは、
『所作が有ろうとすれば( to wish the effect )!』、
『皆、勝つことができて!』、
『負けないからである!』。
『転眼三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『魔や、魔民』が、
『菩薩の短( the demerit of the bodhisattva )』を、
『見ようとすれば!』、
『短を転じて!』、
『好見を作させる( let see the merits )からである!』。
『畢法性三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『一切法を見れば!』、
畢に( filally )、
『法性』中に、
『入るからである!』。
  所作(しょさ):梵語 karaNiiya の訳、作為/造作/結果( to be done or made or effected etc. )の義。
能與安隱三昧者。得是三昧雖往來六道迴轉。自知必當作佛。安樂無憂師子吼三昧者。入是三昧者。皆能降伏一切魔民外道無敢當者。 能与安隠三昧とは、是の三昧を得れば、六道を往来、廻転すと雖も、自ら必ず当に仏と作るべきを知り、安楽にして憂無ければなり。師子吼三昧とは、是の三昧に入れば、皆能く一切の魔民、外道を降伏して、敢て当る者無ければなり。
『能与安隠三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『六道を往来、廻転しながら!』、
自ら、
『必ず、仏に作るはずだ!』と、
『知ることになり!』、
『安楽を得て!』、
『憂』が、
『無いからである!』。
『師子吼三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
皆、
『一切の魔民や外道を降伏させて!』、
敢て、
『当る( to face )!』者が、
『無いからである!』。
勝一切眾生三昧者。得是三昧於一切眾生最勝。一切有二種。一者名字一切。二者實一切。於三界著心凡夫及聲聞辟支佛及初發意未得是三昧者中勝故言一切。 勝一切衆生三昧とは、是の三昧を得れば、一切の衆生に於いて最勝なればなり。一切には二種有り、一には名字の一切、二には実の一切なり。三界の著心の凡夫、及び声聞、辟支仏、及び初発意は未だ是の三昧を得ざる者中に於いて勝るが故に、一切と言うなり。
『勝一切衆生三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の衆生より!』、
『最も勝るからである!』。
『一切には、二種有って!』、
一には、
『名字』の、
『一切であり!』、
二には、
『実』の、
『一切である!』が、
『三界の著心の凡夫、声聞、辟支仏や!』、
『初発意の未だ是の三昧を得ていない!』者中に於いて、
『勝る!』が故に、
『一切』と、
『言うのである!』。
花莊嚴三昧者。得是三昧者。見十方佛坐七寶蓮花上。於虛空中雨寶蓮花於諸佛上。斷疑三昧者。得是三昧者。雖未得佛能斷一切眾生所疑。 花荘厳三昧とは、是の三昧を得れば、十方の仏の七宝の蓮花上に坐するのを見て、虚空中に於いて、宝の蓮花を諸仏の上に雨ふらせなり。断疑三昧とは、是の三昧を得れば、未だ仏を得ずと雖も、能く一切の衆生の疑う所を断ずればなり。
『花荘厳三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『十方』の、
『仏が、七宝の蓮花上に坐する!』のを、
『見て!』、
『虚空』中より、
『宝の蓮花』を、
『諸仏の上に雨ふらすからである!』。
『断疑三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『未だ、仏を得ていなくても!』、
『一切の衆生の疑う!』所を、
『断じることができるからである!』。
隨一切堅固三昧者。諸法實相名堅固。得是三昧者。隨諸法實相不隨餘法。出諸法得神通力無畏三昧者。得是三昧者。過出一切凡夫法。得菩薩六神通十力四無所畏。 隨一切堅固三昧とは、諸法の実相を堅固と名づけ、是の三昧を得れば、諸法の実相に随いて、餘の法に随わざればなり。出諸法得神通力無畏三昧とは、是の三昧を得れば、一切の凡夫法を過出して、菩薩の六神通、十力、四無所畏を得ればなり。
『隨一切堅固三昧』とは、
『諸法の実相を、堅固と称し!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法の実相に随って!』、
『餘の法』には、
『随わないからである!』。
『出諸法得神通力無畏三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の凡夫の法を過出して!』、
『菩薩の六神通、十力、四無所畏』を、
『得るからである!』。
能達諸法三昧者。得是三昧者。乃至諸法如法性實際中通達不住。乃至諸法平等。諸法財印三昧者。財名善法。印者名相如人得印綬無敢凌易。菩薩得善法財印亦無能為作留難者。 能達諸法三昧とは、是の三昧を得れば、乃至諸法の如、法性、実際中にに通達し、乃至諸法の平等にすら住せず。諸法財印三昧とは、財を善法と名づけ、印は相と名づく。人の印綬を得れば、敢て凌易する無きが如く、菩薩、善法の財印を得れば、亦た能く為めに留難を作す者無し。
『能達諸法三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
乃至、
『諸法の如、法性、実際』中にも、
『通達し!』、
乃至、
『諸法の平等すら!』、
『住することがないからである!』。
『諸法財印三昧』とは、
『財を善法と称し、印を相と称すれば!』、
譬えば、
『人が、印綬を得れば!』、
敢て、
『凌易する!』者が、
『無いように!』、
『菩薩も、善法の財印を得れば!』、
『留難を作す( putting some obstacles in his way )!』者が、
『無いのである!』。
  印綬(いんじゅ):信書を封じるリボン( sealed ribbon fastening correspondence )。
  凌易陵易(りょうやく):侵犯する( to invade )。
諸法無分別見三昧者。若分別諸法即生憎愛心。得是三昧者。見一切法不作分別。離諸見三昧者。見者六十二邪見。及色等法中取相。乃至佛見法見僧見涅槃見。皆名為見。所以者何。取相能生著心故。 諸法無分別見三昧とは、若し諸法を分別すれば、即ち憎愛の心を生ずるも、是の三昧を得れば、一切法を見て、分別を作さざればなり。離諸見三昧とは、見とは六十二の邪見、及び色等の法中の取相にして、乃至仏見、法見、僧見、涅槃見まで、皆名づけて見と為す。所以は何んとなれば、取相は能く著心を生ずるが故なり。
『諸法無分別見三昧』とは、
若し、
『諸法を分別すれば!』、
即ち、
『憎愛の心』を、
『生じる!』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法を見ながら!』、
『分別を作さないからである!』。
『離諸見三昧』とは、
『見』とは、
『六十二の邪見と、色等の法中に相を取ることであり!』、
乃至、
『仏見、法見、僧見、涅槃見まで!』、
『皆、見と称する!』。
何故ならば、
『相を取れば!』、
『著心を生じさせるからである!』。
離一切相三昧者。即是無相解脫門相應三昧。離一切著三昧者。離一切相故於一切法亦不著。除一切懈怠三昧者。得是三昧者。如此中說乃至七歲不坐不臥。菩薩得是三昧常無懈怠心。乃至得佛初不止息。 離一切相三昧とは、即ち是れ無相解脱門相応の三昧なり。離一切著三昧とは、一切相を離るるが故に、一切法に於いて亦た著せざればなり。除一切懈怠三昧とは、是の三昧を得れば、此の中に、乃至七歳まで坐せず、臥せずと説くが如く、菩薩は、是の三昧を得れば、常に懈怠心無く、乃至仏を得るまで、初より止息せず。
『離一切相三昧』とは、
即ち、
『無相解脱門に相応する!』、
『三昧である!』。
『離一切著三昧』とは、
『一切相を離れる!』が故に、
『一切法にも!』、
『著しないからである!』。
『除一切懈怠三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
此の中に、
『乃至七歳まで坐すことも、臥せることもない!』と、
『説かれているように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
常に、
『懈怠心』が、
『無く!』、
初より、
『乃至仏を得るまで!』、
『止息しないからである!』。
得深法明三昧者。深法名諸佛法一切智慧等。菩薩得是三昧故能遙見佛法。思惟籌量知深妙無比。不可奪三昧者。得是三昧者。行菩薩法無能奪其志者。 得深法明三昧とは、深法を諸仏の法と名づけ、一切の智慧等なり。菩薩は是の三昧を得るが故に、能く仏法を遥見して、思惟籌量し、深妙にして無比なるを知る。不可奪三昧とは、是の三昧を得れば、菩薩法を行ずるに、能く其の志を奪う者無ければなり。
『得深法明三昧』とは、
『深法』とは、
『諸仏の法であり!』、
『一切の智慧等である!』。
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『仏法』を、
『遥見することができ!』、
『思惟、籌量して!』、
『仏法は深妙、無比である!』と、
『知るからである!』。
『不可奪三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『菩薩法』を、
『行じれば!』、
其の、
『志を奪う!』者が、
『無くなるからである!』。
  遥見(ようけん):梵語 adraakSiit..... duuratas の訳、遠くから見た( had seen ... from afar )の義。
破魔三昧者。得是三昧力魔雖是欲界主。菩薩以人身能破魔事。不著三界三昧者。得是三昧身雖在三界中心常在涅槃故。不著 破魔三昧とは、是の三昧の力を得れば、魔が欲界の主であるとしても、菩薩は人身を以って、能く魔事を破すればなり。不著三界三昧とは、是の三昧を得れば、身は三界中に在りと雖も、心は常に涅槃に在るが故に著せざるなり。
『破魔三昧』とは、
是の、
『三昧の力を得れば!』、
『魔』が、
『欲界』の、
『主であったとしても!』、
『菩薩は、人身を用いて!』、
『魔事』を、
『破ることができるからである!』。
『不著三界三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『身は、三界中に在りながら!』、
『心』は、
『常に、涅槃に在る!』ので、
是の故に、
『三界』に、
『著さないのである!』。
起光明三昧者。得是三昧者。能放無量光明照於十方。見諸佛三昧者。得是三昧雖未得天眼天耳。而能見十方諸佛。聞十方諸佛所說法。諮問所疑。 起光明三昧とは、是の三昧を得れば、能く無量の光明を放って、十方を照らせばなり。見諸仏三昧とは、是の三昧を得れば、未だ天眼、天耳を得ずと雖も、能く十方の諸仏を見て、十方の諸仏所説の法を聞き、疑う所を諮問すればなり。
『起光明三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『無量の光明を放って!』、
『十方』を、
『照らすからである!』。
『見諸仏三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば、未だ天眼、天耳を得ていなくても!』、
『十方の諸仏を見て、十方の諸仏所説の説法を聞き!』、
『疑う!』所を、
『諮問することができるからである!』。
薩陀波崙住如是等三昧中。即見十方無量阿僧祇諸佛在大眾中。為諸菩薩說般若波羅蜜
大智度論卷第九十七
薩陀波崙は、是れ等の如き三昧中に住すれば、即ち十方無量阿僧祇の諸仏の大衆中に在りて、諸菩薩の為めに般若波羅蜜を説きたもうを見る。
大智度論巻第九十七
『薩陀波崙』は、
是れ等のような、
『三昧中に住していた!』が故に、
即ち、
『十方の無量阿僧祇の諸仏』が、
『大衆中に在って、諸菩薩の為めに般若波羅蜜を説かれる!』のを、
『見たのである!』。

大智度論巻第九十七


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