巻第九十六(下)
大智度論釋薩陀波崙品第八十八
1.【經】薩陀波崙菩薩は、空中の声を聞く
2.【論】薩陀波崙菩薩は、空中の声を聞く
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大智度論釋薩陀波崙品第八十八 
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】薩陀波崙菩薩は、空中の声を聞く

【經】佛告須菩提。菩薩摩訶薩求般若波羅蜜。當如薩陀波崙菩薩摩訶薩。是菩薩今在大雷音佛所行菩薩道。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を求むるに、当に薩陀波崙菩薩摩訶薩の如くすべし。是の菩薩は、今大雷音仏の所に在りて、菩薩道を行ず』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を求める!』には、
『薩陀波崙菩薩摩訶薩のようでなければならない!』。
是の、
『菩薩』は、
今、
『大雷音仏の所』で、
『菩薩道を行じている!』、と。
  薩陀波崙(さだはろん):梵名 sadaa-prarud, -prarudita の訳、常に泣き出す人/常に泣いている( one who has always begun to weep, always weeping )の意、常啼と訳す。菩薩の名。『大智度論巻21下注:薩陀波崙菩薩』参照。
須菩提白佛言。世尊。薩陀波崙菩薩摩訶薩。云何求般若波羅蜜。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、薩陀波崙菩薩摩訶薩は、云何が般若波羅蜜を求むるや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『薩陀波崙菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『求めたのですか?』、と。
佛言。薩陀波崙菩薩摩訶薩。本求般若波羅蜜時。不惜身命不求名利。於空閑林中聞空中聲言。汝善男子從是東行。莫念疲極。莫念睡眠。莫念飲食。莫念晝夜。莫念寒熱。莫念內外。善男子。行時莫觀左右。汝行時莫壞身相。莫壞色相。莫壞受想行識相。何以故。若壞是諸相則於佛法有礙。若於佛法有礙便往來五道生死中。亦不能得般若波羅蜜。 仏の言わく、『薩陀波崙菩薩摩訶薩は、本、般若波羅蜜を求めし時、身命を惜まず、名利を求めざるに、空閑林中に於いて空中の声を聞けり。言わく、『汝、善男子、是れより東に行き、疲極を念ずる莫かれ、睡眠を念ずる莫かれ、飲食を念ずる莫かれ、昼夜を念ずる莫かれ、寒熱を念ずる莫かれ、内外を念ずる莫かれ。善男子、行く時に左右を観る莫れ。汝が行く時に身相を壊る莫かれ、色相を壊る莫かれ、受想行識相を壊る莫かれ。何を以っての故に、若し是の諸相を壊れば、則ち仏法に於いて礙(さわり)有り。若し仏法に於いて礙有れば、便ち五道の生死中を往来するも、亦た般若波羅蜜を得る能わざればなり』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『薩陀波崙菩薩摩訶薩』、
『本、般若波羅蜜を求めていた!』時、
『身命を惜むこともなく!』、
『名利を求めることもなく!』、
『空閑林中に空中の声が、こう言うのを聞いた!』、――
お前!
善男子!
是より、
『東に行きながら!』、
『疲極、睡眠、飲食、昼夜、寒熱、内外』を、
『念じてはならない!』。
善男子!
『行く!』時には、
『左右』を、
『観てはならない!』。
お前が、
『行く!』時には、
『身相、色相、受想行識相』を、
『壊ってはならない!』。
何故ならば、
若し、
是の、
『諸相を壊れば!』、
『仏法を求める!』中に、
『礙が有るからであり( to become an obstacle )!』、
若し、
『仏法に礙が有れば!』、
便ち( easily )、
『五道の生死中を往来するばかりで!』、
『般若波羅蜜を得ることができないからである!』。
爾時薩陀波崙菩薩報空中聲言。我當從教。何以故。我欲為一切眾生作大明。欲集一切諸佛法。欲得阿耨多羅三藐三菩提故。 爾の時、薩陀波崙菩薩の、空中の声に報(こた)えて言わく、『我れは当に教えに従うべし。何を以っての故に、我れは一切の衆生の為めに、大明と作らんと欲し、一切の諸仏の法を集めんと欲し、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲するが故なり』、と。
爾の時、
『薩陀波崙菩薩』は、
『空中の声に報えて( replying to the voice in the sky, )!』、こう言った、――
わたしは、
『教に従おう!』。
何故ならば、
わたしは、
『一切の衆生の為めに、大明と作ろうとしており!』、
『一切の諸仏の法を、集めようとしており!』、
『阿耨多羅三藐三菩提、得ようとしているからである!』、と。
薩陀波崙菩薩復聞空中聲言。善哉善哉。善男子。汝於空無相無作之法應生信心。以離相心求般若波羅蜜。離我相乃至離知者見者相。當遠離惡知識。當親近供養善知識。何等是善知識。能說空無相無作無生無滅法及一切種智。令人心入歡喜信樂。是為善知識。 薩陀波崙菩薩は、復た空中の声を聞けり。言わく、『善い哉、善い哉、善男子。汝は空、無相、無作の法に於いて、応に信心を生じ、相を離るる心を以って、般若波羅蜜を求め、我相を離れ、乃至知者、見者の相を離るべければ、当に悪知識を遠離すべく、当に善知識を親近供養すべし。何等か、是れ善知識なる。能く空、無相、無作、無生、無滅の法、及び一切種智を説いて、人心をして歓喜、信楽に入らしむ、是れを善知識と為す。
『薩陀波崙菩薩』は、
『復た、空中の声が、こう言うのを聞いた!』、――
善いぞ、善いぞ!
善男子!
お前は、
『空、無相、無作の法に於いて、信心を生じ!』、
『相を離れた心で、般若波羅蜜を求め!』、
『我相、乃至知者、見者の相』を、
『離れねばならない!』。
『悪知識を遠離して!』、
『善知識』を、
『親近、供養せねばならない!』。
何のようなものが、
『善知識なのか?』、――
『空、無相、無作、無生、無滅の法、及び一切種智を説いて!』、
『人心』を、
『歓喜、信楽に入らせることができれば!』、
是れが、
『善知識である!』。
善男子。汝若如是行不久當聞般若波羅蜜。若從經卷中聞。若從菩薩所說聞。善男子。汝所從聞。是般若波羅蜜處。應生心如佛想。 善男子、汝、若し是の如く行ずれば、久しからずして、当に般若波羅蜜を聞き、若しは経巻中より聞き、若しは菩薩の所説より聞くべし。善男子、汝が従って聞く所は、是れ般若波羅蜜の処なれば、当に心を生じて、仏想の如くすべし。
善男子!
お前が、
若し、是のように行じれば、――
久しからずして、
『般若波羅蜜』を、
『聞くことになり!』、
若しは、
『経巻中より!』、
『聞き!』、
若しは、
『菩薩の所説より!』、
『聞くだろう!』。
善男子!
『お前が聞く!』所の、
『経巻や、所説』は、
『般若波羅蜜』の、
『住処であり!』、
『仏想のような!』、
『心』を、
『生じなければならない!』。
善男子。汝當知恩。應作是念。所從聞是般若波羅蜜者。即是我善知識。我用聞是法故疾得不退轉。於阿耨多羅三藐三菩提親近諸佛。常生有佛國中遠離眾難。得具足無難處。 善男子、汝は当に恩を知るべく、応に是の念を作すべし、『従って聞く所は、是れ般若波羅蜜ならば、即ち是れ我が善知識なり。我れは是の法を聞くを用うるが故に、疾かに阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得、諸仏に親近し、常に有仏の国中に生じて、衆難を遠離し、無難を具足する処を得ん』、と。
善男子、
お前が、
『恩を知ることになれば!』、こう念じるはずである、――
わたしの、
『聞いた!』所が、
『般若波羅蜜ならば!』、
是れは、
即ち、
『わたしの善知識であり!』、
わたしは、
是の、
『法を聞くこと!』を、
『用る( adopting )!』が故に、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提より、退転しなくなり!』、
『諸仏に親近し!』、
常に、
『有仏の国に生じて!』、
『衆難(八難)』を、
『遠離し!』、
『無難を具足した(八不難)!』、
『処』を、
『得ることにしよう!』。
  衆難(しゅなん):仏も、仏法も無きが故に、覚りを得難き場所。『大智度論巻8下注:八難』参照。
善男子。當思惟籌量是功德。於所從聞法處應生心如佛想。汝善男子。莫以世利心故隨逐法師。但為愛法恭敬法故隨逐說法菩薩。爾時當覺知魔事。 善男子、当に是の功徳を思惟、籌量して、従って法を聞く処に於いて、応に心に仏想の如きを生ずべし。汝、善男子、世利の心を以っての故に、法師を随逐する莫かれ、但だ法を愛し、法を恭敬せんが為めの故に、説法する菩薩を随逐せよ。爾の時には、当に魔事を覚知すべし。
善男子!
是の、
『功徳を思惟、籌量した!』ならば、
『聞法の処』に於いて、
『仏を想うような!』、
『心を生じなければならない!』。
お前、善男子!
『世利の心を用いる!』が故に、
『法師』に、
『随逐してはならない!』。
『但だ法を愛し、法を恭敬する為めだけ!』の故に、
『説法の菩薩』に、
『随逐せねばならない!』が、
爾の時には、
『魔の事( the work of evil beings )』を、
『覚知せねばならない!』。
  参考:『大般若経巻398』:『汝善男子。應覺魔事。謂有惡魔為壞正法及法師故。以妙色聲香味觸境。慇懃奉施。時說法師方便善巧。為欲調伏彼惡魔故。令諸有情種善根故。現與世間同其事故。雖受彼施而無染著。汝於此中莫生穢相。應作是念。我未能知說法菩薩方便善巧。此說法師善知方便。為欲調伏剛強有情。欲令有情植眾德本。俯同世事現受諸欲。然此菩薩不取法相。無著無礙曾無毀犯。』
若惡魔與說法菩薩作五欲因緣假為法故令受。若說法菩薩入實法門以德力故受而無所染。又以三事故受是五欲。以方便力故。欲令眾生種善根故。欲與眾生同其事故。汝於是中莫生汚心當起淨想。自念我未知漚和拘舍羅。大師以方便法為度眾生令得福德故受是諸欲。於智慧無著無礙不為欲染。 若し悪魔、説法の菩薩の与(ため)に、五欲の因縁を作して、仮に法と為しめんが故に、受けしむるも、若し説法の菩薩、実法の門に入れば、徳力を以っての故に受くるとも、染むる所無し。又三事を以っての故にして、是の五欲を受くるも、方便力を以っての故に、衆生をして、善根を種えしめんと欲するが故に、衆生と其の事を同じうせんと欲するが故なり。汝は、是の中に於いて、汚心を生ずる莫れ、当に浄想を起して、自ら、『我れは未だ漚和拘舍羅を知らざるも、大師は、方便の法を以って、衆生を度し、福徳を得しめんが為めの故に、是の諸欲を受くるも、智慧に於いても無著、無礙にして、欲染を為さず』、と念ずべし。
善男子!
若し、
『悪魔』が、
『説法の菩薩の与に( for the preaching bodhisattva )!』、
『五欲の因縁を作して!』、
仮に、
『法であるとする!』が故に、
『受けさせたとしても!』、
若し、
『説法の菩薩』が、
『実法の門に入っていれば!』、
『徳力を用いる( with the power of rightness )!』が故に、
『法を受けても!』、
『染まる所は無い( nothing by which he is dyed )!』。
又、
『三事』の故に、
是の、
『五欲』を、
『受けるのであり!』、
謂わゆる、
『方便力を用いる!』が故に、
『衆生に善根を種えさせようとする!』が故に、
『衆生と事を同じうしようとする!』が故に、
是の、
『五欲』を、
『受けるのである!』。
お前は、
是の中に、
『汚心を生じて!』、
『説法の菩薩』を、
『誹謗してはならない!』。
『浄想を起して!』、こう念じなければならない、――
わたしは、
『未だ、漚和拘舍羅(善巧方便)を知らない!』が、
是の、
『大師は、方便の法を用い!』、
『衆生を度して!』、
『福徳を得させる為め!』の故に、
是の、
『諸欲を受けながら!』、
『智慧は無著、無礙であり!』、
『欲に染められることはないのである!』、と。
  漚和拘舍羅(うわくしゃら)、善巧方便(ぜんぎょうほうべん)、方便(ほうべん):梵語 upaaya- kauzalya の訳、巧みに接近する( coming near (approaching) with skilfulness (cleverness) )の義、有る目的を達成する為めの手段( that by which one reaches one's aim )の意。
  徳力(とくりき)、功徳力(くどくりき):梵語 puNya- bala の訳、正義/美徳の力( the power of virtuousness or rightness )の義。
善男子。即當觀諸法實相。諸法實相者。所謂一切法不垢不淨。何以故。一切法自性空無眾生。無人無我一切法如幻如夢如響如影如炎如化。善男子。觀是諸法實相已當隨法師。汝不久當成就般若波羅蜜。 善男子、即ち当に諸法の実相を観ずべし。諸法の実相とは、謂わゆる一切法の不垢不浄なり。何を以っての故に、一切法の自性は空にして、衆生無く、人無く、我無くして、一切法は幻の如く、夢の如く、響の如く、影の如く、炎の如く、化の如ければなり。善男子、是の諸法の実相を観已れば、当に法師に随うべし。汝は、久しからずして、当に般若波羅蜜を成就すべし。
善男子!
即ち( then )、
『諸法の実相を観ねばならない!』。
『諸法の実相』とは、
謂わゆる、
『一切法』の、
『不垢、不浄である!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『自性が空であり!』、
『衆生も、人も、我も無く!』、
『一切法』は、
譬えば、
『幻、夢、響、影、炎、化のようだからである!』。
善男子!
是の、
『諸法の実相を観たならば!』、
『法師』に、
『随わねばならぬ!』。
お前は、
『久しからずして!』、
『般若波羅蜜』を、
『成就するだろう!』。
復次善男子。汝當復覺知魔事。若說法菩薩見欲受般若波羅蜜人意不存念。汝不應起心怨恨。汝但當以法故恭敬。莫起厭懈意常應隨逐法師 復た次ぎに、善男子、汝は当に復た魔事を覚知すべし。若し説法の菩薩、般若波羅蜜を受けんと欲する人を見るも、意には念ずること存(あ)らず。汝は、応に心に怨恨を起すべからず。汝は但だ当に法を以っての故に、恭敬すべし。厭懈の意を起す莫かれ。常に応に法師を随逐すべし。
復た次ぎに、
善男子!
お前は、復た、
『魔の事』を、
『覚知せねばならない!』。
若し、
『説法の菩薩』が、
『般若波羅蜜を受けようとする人』を、
『見たとしても!』、
『意に念を存しなくても( does not pey attention to you )!』、
お前は、
是の、
『菩薩』に、
『怨恨の心を起してはならない!』。
お前は、
但だ、
『法を求める為め!』の故に、
是の、
『菩薩』を、
『恭敬すればよいのであり!』、
『厭嫌、懈怠の意を起すことなく!』、
常に、
『法師』に、
『随逐せねばならぬのである!』。
  存念(そんねん):念頭に存しない/気にしない( do not consider, do not pay attention to )。



【論】薩陀波崙菩薩は、空中の声を聞く

【論】釋曰。上品中說。新發意菩薩云何教性空法。性空法畢竟無所有空難解難得故。佛答。法先有今無耶。佛意性空法非難得難知。何以故。本來常無更無新異。汝何以心驚謂為難得。是性空法雖甚深菩薩但能一心勤精進不惜身命。作如是一心求便可得。 釈して曰く、上の品中に説かく、『新発意の菩薩に、云何が性空の法を教えん』、と。性空の法は畢竟無所有にして空なれば、解し難く得難きが故なり。仏の答えたまわく、『法は先に有りて、今無しや』、と。仏の意は、『性空の法は得難く、知り難きに非ず。何を以っての故に本より来、常に無く、更に新異無きに、汝は何を以ってか、心驚き謂いて、得難しと為すや。是の性空の法は甚だ深しと雖も、菩薩は但だ能く一心に勤めて精進し、身命を惜まず。是の如きを作して、一心に求むれば、便ち得べし』、となり。
釈す、
上の品中には、こう説いている、――
『新発意の菩薩』に、
何のように、
『性空の法』を、
『教えるのですか?』。
何故ならば、
『性空の法が畢竟じて無所有、空だとすれば!』、
『解し難く、得難いからです!』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『法』は、
『先に有りながら!』、
『今無いのだろうか?』、と。
『仏の意』は、こうである、――
『性空の法』は、
『得難くもなく!』、
『知り難くもない!』。
何故ならば、
『性空の法』は、
『本より、常に無く!』、
『更に、新異も無いからである!』。
お前は、
何故、
『心に驚いて!』、
『得難い!』と、
『謂うのか?』。
是の、
『性空という!』、
『法』は、
『甚だ深い!』が、
『菩薩』は、
但だ、
『一心に、勤めて精進しながら!』、
『身命を、惜まないだけでよく!』、
是のように、
『作して、一心に求めれば!』、
『便ち、得られるのである( to attain easily )!』、と。
  新異(しんい):目新しい/新奇な( novel )、新奇な物( novelty )。
此中說薩陀波崙本生為證。佛法有十二部經。或因修妒路偈經本生經得度。今佛以本生經為證。若有聞者作是念。彼人能得我亦應得。是故說薩陀波崙菩薩本生因緣。佛告須菩提。菩薩求般若波羅蜜應如薩陀波崙。 此の中に薩陀波崙の本生を説いて、証と為す。仏法には十二部経有り、或は修妒路、偈経、本生経に因りて度を得。今、仏は本生経を以って証と為したもうに、若し聞く者有らば、是の念を作さん、『彼の人にして、能く得れば、我れも亦た応に得べし』、と。是の故に薩陀波崙菩薩の本生の因縁を説きたまえり。仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩は、般若波羅蜜を求むるに、応に薩陀波崙の如くすべし』、と。
此の中に、
『薩陀波崙の本生を説いて!』、
『性空の法の得易いこと!』の、
『証とされたのである!』が、
『仏法には、十二部の経が有り!』、
或は、
『修妒路や、偈経や、本生経に因って!』、
『度を得ることがある!』ので、
『仏』が、
今、
『本生経を用いて!』、
『証とされた!』のは、
若し、
『聞く者が有れば!』、こう念じるからである、――
『彼の人に、得ることができれば!』、
『わたしでも!』、
『得ることができるはずだ!』、と。
是の故に、
『薩陀波崙の本生の因縁』を、
『説かれたのである!』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩が、般若波羅蜜を求める!』のは、
『薩陀波崙のように!』、
『求めねばならない!』、と。
  修妒路(しゅとろ):梵語 suutra の音訳、契経と訳す、糸( a thread )の義、経典の本文( a sacred text )の意。『大智度論巻33下注:十二部経』参照。
  偈経(げきょう):梵語 祇夜 geya の訳、頌/応頌と訳す、歌( a song )の義、経の主意を歌にしたもの( the song of essence of a sacred text )の意。『大智度論巻33下注:十二部経』参照。
  本生経(ほんしょうきょう):梵語 jaataka の訳、闍多伽とも訳す、誕生/出生( nativity )の義、仏の過去世の物語( Buddhaʼs past life stories )の意。『大智度論巻33下注:十二部経』参照。
問曰。若般若波羅蜜無相畢竟空。行禪定猶尚難得。何況憂愁啼哭散心求覓而當可得。 問うて曰く、若し般若波羅蜜が無相にして、畢竟空なれば、禅定を行ずるも、猶尚お得難し。何に況んや憂愁、啼哭の散心もて求覓し、而も当に得べしや。
問い、
若し、
『般若波羅蜜が無相であり、畢竟空ならば!』、
『禅定を行じたとしても!』、
『猶尚お、得難い( it is hard yet to obtain
況して、
『憂愁、啼哭するような!』、
『散心で、求覓したとしても( to search for with distracted mind )!』、
『得られるはずがあるだろうか?』。
  憂愁(うしゅう):梵語 arati の訳、心配/苦悩/悲哀( anxiety, distress, regret )の義。
  啼哭(たいこく):梵語 rudita の訳、淚を流し、声を挙げて泣く( weeping and crying )の義。
  散心(さんしん):梵語 vikSipta-citta の訳、ばら撒かれた心( scattered mind )の義、乱れた心( distracted mind )の意。
答曰。為新發意菩薩說薩陀波崙。 答えて曰く、新発意の菩薩の為めに、薩陀波崙を説けばなり。
答え、
『新発意の菩薩の為め!』に、
『薩陀波崙』は、
『説かれたのである!』。
問曰。若薩陀波崙是新發意。十方諸佛云何現在其前得諸三昧不惜身。又見曇無竭復得無量阿僧祇三昧。云何名新發意。 問うて曰く、若し薩陀波崙は、是れ新発意なれば、十方の諸仏は、云何が其の前に現れ、諸の三昧を得しめて、身を惜まざらしむるや。又曇無竭を見て、復た無量阿僧祇の三昧を得るに、云何が新発意と名づくる。
問い、
若し、
『薩陀波崙が、新発意ならば!』、
何故、
『十方の諸仏が、前に現れて!』、
『諸の三昧を得させ!』、
『身を惜まなくさせたのか?』。
又、
『曇無竭を見て!』、
復た( moreover, )、
『無量阿僧祇の三昧』を、
『得た!』者を、
何故、
『新発意』と、
『称するのか?』。
  曇無竭(どんむかつ):梵名 dharma- udgata の訳、顕現したる法( an appeared dharma )の意、法涌と訳す、仏の名。薩陀波崙の師。『大智度論巻49上注:曇無竭菩薩』参照。
答曰。新學菩薩有二種。一者深心著世間樂軟心發意。二者深心發意不著世間樂。軟心發意者。佛不以為發心。深心發意者。乃名為發心。 答えて曰く、新学の菩薩には二種有り、一には深心に世間の楽に著せる軟心の発意なり。二には深心に発意して、世間の楽に著せず。軟心の発意を、仏は以って発心と為したまわず。深心の発意を、乃ち名づけて発心と為す。
答え、
『新学の菩薩には、二種有り!』、
一には、
『深心より!』、
『世間の楽に著する!』、
『軟心の発意であり!』、
二には、
『深心より!』、
『発意する者であり!』、
『世間の楽には著さない!』。
『軟心の発意』を、
『仏』は、
『発心とされず!』、
『深心の発意だけ!』を、
『乃ち( only )!』、
『発心とされるのである!』。
如聲聞法中。佛語二比丘。於我法中乃至無如毛釐煖法。佛觀是煖法最為微小。凡人觀之以為大。譬如國王見一張氎不以為多。貧者見之以為多。 声聞法中に、仏は、二比丘に、『我が法中に於いては、乃至毛釐の如き煖法も無し』、と語りたもうに、仏は、是の煖法を観て、最も微少と為したもうに、凡人は之を観て以って大と為すが如し。譬えば国王は、一張の氎を見て、以って多しと為さざるも、貧者は之を見て以って多しと為すが如し。
例えば、
『声聞法』中に、
『仏』が、
『二比丘』に、こう語られたが、――
お前達には!)、
『わたしの法』中に、
『毛釐ほどの煖法すら無い
had not attained the least enlightenment )!』、と。
『仏』は、
是の、
『煖法は、最も微少である!』と、
『観られた!』が、
『凡人』は、
之を、
『大である!』と、
『観るようなものである!』。
譬えば、
『国王』は、
『一張の氎を見ても!』、
『多いとはしない!』が、
『貧者』が、
『之を見れば!』、
『多いとするようなものである!』。
  毛釐(もうり):毫釐に同じ/極小量を指す。
  煖法(なんぽう):四善根位の初位、初めて法の暖かさに触れる位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  参考:『阿毘曇八揵度論巻1』:『云何暖法。答曰。於正法中起慈歡喜。如世尊說。馬師比丘滿宿比丘。此二癡人於我法中無有毫釐暖法』
以一心不惜身故說薩陀波崙為證。
問曰。若薩陀波崙菩薩能作如是苦行。從曇無竭得諸三昧應當作佛。今何以故。在大雷音佛所修菩薩行。
一心に身を惜まざるを以っての故に、薩陀波崙を説いて、証と為す。
問うて曰く、若し薩陀波崙菩薩、能く是の如き苦行を作して、曇無竭より、諸の三昧を得れば、応当に仏と作るべし。今は何を以っての故にか、大雷音仏の所に在りて、菩薩行を修するや。
『一心に、身を惜まない!』が故に、
『薩陀波崙を説いて!』、
『証とされたのである!』。
問い、
若し、
『薩陀波崙菩薩』が、
是のような、
『苦行を作して!』、
『曇無竭より!』、
『諸の三昧を得たならば!』、
当然、
『仏』と、
『作らねばならない!』のに、
今、
何故、
『大雷音仏の所』で、
『菩薩行』を、
『修めるのですか?』。
答曰。佛法無量無邊。若千萬阿僧祇劫修勤苦行尚不可得。何況薩陀波崙一世苦行。 答えて曰く、仏法は無量、無辺なれば、若し千万阿僧祇劫に、勤苦の行を修するも、尚お得べからず。何に況んや薩陀波崙の一世の苦行をや。
答え、
『仏法は、無量無辺であり!』、
若し、
『千万阿僧祇劫』に、
『勤苦の行』を、
『修めたとしても!』、
尚お、
『仏法』を、
『得られるものではない!』。
況して、
『薩陀波崙の一世の苦行など!』は、
『言うまでもない!』。
復有菩薩具足菩薩道十力四無所畏等。為眾生故住世間未取實際。如文殊師利等。薩陀波崙或能如此故未作佛。菩薩三昧如十方國土中塵數。薩陀波崙所得六萬三昧何足為多。 復た、有る菩薩は菩薩道の十力、四無所畏等を具足するも、衆生の為めの故に、世間に住して、未だ実際を取らざること、文殊師利等の如し。薩陀波崙は、或は此の如く能くするも、故(ことさら)に未だ仏と作らず。菩薩の三昧は、十方の国土中の塵数の如く、薩陀波崙の所得の六万の三昧を、云何が多と為すに足らんや。
復た、
『有る菩薩』は、
『菩薩道の十力、四無所畏等を具足しながら!』、
『衆生の為めの故に、世間に住して!』、
未だ、
『実際』を、
『取ることはない!』。
例えば、
『文殊師利等のようなものである!』。
『薩陀波崙』も、
或は、
是のように、
『具足することができながら!』、
故に( intentionally )、
『仏』と、
『作らないのである!』。
復た、
『菩薩の三昧』は、
『十方の国土中の塵数ほども有る!』のに、
『薩陀波崙の所得の六万の三昧』を、
何故、
『多いとする!』に、
『足るのか?』、と。
大雷音佛者。應如大龍王將欲降雨震大雷音。烏雀小虫悉皆怖畏。是佛初轉法輪時。十方眾生皆發心。外道邪見皆恐怖懾伏。是故天人眾生稱佛為大雷音。是佛今現在。 大雷音仏とは、応に大龍王の将に雨を降らしめんと欲するに、大雷音を震わすに、烏雀、小虫、悉く皆怖畏するが如く、是の仏は、初めて法輪を転ずる時、十方の衆生都発心し、外道の邪見は都恐怖して、懾伏すべし。是の故に天、人の衆生は仏を称して、大雷音と為す。是の仏は今現在したもう。
『大雷音仏』とは、
譬えば、
『大龍王が、雨を降らそうとする!』時、
『大雷音を震わせる!』と、
『烏雀、小虫』が、
『皆、怖畏するように!』、
是の、
『仏は、初めて法輪を転じる!』時、
『十方の衆生が、皆発心して!』、
『外道の邪見』が、
『皆、恐怖して懾伏ことになる!』ので、
是の故に、
『天、人の衆生』は、
是れを、
『大雷音仏』と、
『称するのである!』。
是の、
『仏』は、
『今、現在している( now, is present in this world )!』。
  懾伏(しょうぶく):怖畏して服従する( to submit because of fear )。
  今現在(こんげんざい):梵語 etarhi- tiSThati の訳、今現存する( in this time, he is present in )の義。
須菩提問。薩陀波崙菩薩摩訶薩云何求般若波羅蜜。問曰。薩陀波崙未得阿鞞跋致。何以故。名菩薩摩訶薩。 須菩提の問わく、『薩陀波崙菩薩摩訶薩は、云何が般若波羅蜜を求むる』、と。
問うて曰く、薩陀波崙は、未だ阿鞞跋致を得ざるに、何を以っての故にか、菩薩摩訶薩と名づくる。
『須菩提』は、こう問うた、――
『薩陀波崙菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『求めたのですか?』、と。
問い、
『薩陀波崙は、未だ阿鞞跋致を得ていない!』のに、
何故、
『菩薩摩訶薩』と、
『称するのですか?』。
答曰。以有大菩薩故小者亦名大。又以其雖未得實智慧而能深念般若波羅蜜故不惜身命。有大功德故亦名菩薩摩訶薩。 答えて曰く、大菩薩有るを以っての故に、小なる者をも亦た大と名づけ、又其れ未だ実智慧を得ずと雖も、能く深く般若波羅蜜を念ずるが故に、身命を惜まず、大功徳有るを以っての故に亦た菩薩摩訶薩と名づく。
答え、
『大菩薩が有る!』が故に、
『小菩薩』も、
『大菩薩と称するのであり!』、
又、
『薩陀波崙は、未だ実の智慧を得ていない!』が、
『般若波羅蜜を深く念じることができる!』が故に、
『身命』を、
『惜まないという!』、
『大功徳が有る!』が故に、
『菩薩摩訶薩』と、
『称するのである!』。
  大菩薩(だいぼさつ):梵語 mahaa- bodhisattva の訳、偉大な菩薩( a great bodhisattva )の義、菩薩摩訶薩(梵 bodhisattva- mahaasattva )に同じ。
問曰。何以名薩陀波崙。(薩陀秦言常波論名啼)為是父母與作名字。是因緣得名字。 問うて曰く、何を以ってか、薩陀波崙と名づけ、是れは父母の名字を作りて与うと為すや、是れ因縁もて名字を得たりや。
問い、
何故、
『薩陀波崙( always weeping )』と、
『称するのですか?』。
是れは、
『父母が作って与えた!』、
『名字ですか?』。
是れは、
『因縁で得た!』、
『名字ですか?』。
答曰。有人言。以其小時喜啼故名常啼。有人言。此菩薩行大悲心柔軟故。見眾生在惡世貧窮老病憂苦為之悲泣。是故眾人號為薩陀波崙。 答えて曰く、有る人の言わく、『其の小(わか)き時、喜んで啼けるを以っての故に常啼と名づく』、と。有る人の言わく、『此の菩薩は、大悲心を行じて、柔軟なるが故に、衆生の悪世に在りて貧窮、老病、憂苦たるを見て、之が為めに悲泣すれば、是の故に衆人は号して、薩陀波崙と為せり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『薩陀波崙』は、
『小い時、喜んで啼いた
was weeping for joy in his youg days )!』ので、
『常啼』と、
『称する!』、と。
有る人は、こう言っている、――
此の、
『菩薩は、大悲心を行じて柔軟である!』が故に、
『衆生が、悪世に在って!』、
『貧窮、老病、憂苦を受ける!』のを、
『見て!』、
此の、
『衆生の為め!』に、
『悲泣する!』ので、
是の故に、
『衆人』が、
『薩陀波崙』と、
『号したのである( became to call )!』。
有人言。是菩薩求佛道故遠離人眾在空閑處求心遠離。一心思惟籌量勤求佛道時世無佛。是菩薩世世行慈悲心。以小因緣故生無佛世。是人悲心於眾生欲精進不失。是故在空閑林中。 有る人の言わく、『是の菩薩は仏道を求むるが故に人衆を遠離し、空閑処に在りて、心の遠離を求め、一心に思惟、籌量して、仏道を勤求する時、世に仏無し。是の菩薩は世世に慈悲心を行ずるも、小因縁を以っての故に無仏の世に生ずれば、是の人は、衆生に於ける悲心を精進して失わざらんと欲すれば、是の故に空閑林中に在り。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『菩薩は、仏道を求める!』が故に、
『人衆を遠離して( leaving people )!』、
『空閑処に在って!』、
『心が遠離すること!』を、
『求めて!』、
『一心に思惟、籌量して!』、
『仏道』を、
『勤求していた!』が、
是の時、
『世に!』、
『仏は無かった!』。
是の、
『人は世世に、慈悲心を行じながら!』、
『小因縁』の故に、
『無仏の世』に、
『生じたからである!』。
是の、
『人』は、
『衆生に於ける!』、
『悲心を失うまい!』と、
『精進した!』ので、
是の故に、
『空閑林』中に、
『在ったのである( stayed )!』。
  勤求(ごんぐ):梵語 parigaveSaNa の訳、探し回る/探求する( seeking around, serch after )の義。
是人以先世福德因緣及今世一心。大欲大精進。以是二因緣故聞空中教聲不久便滅。即復心念。我云何不問。以是因緣故憂愁啼哭七日七夜。因是故天龍鬼神號曰常啼。 是の人は、先世の福徳の因縁、及び今世の一心の大欲と大精進とを以って、是の二因縁を以っての故に、空中に教うる声を聞くも、久しからずして、便ち滅すれば、即ち復た心に念ずらく、『我れは云何が、問わざりし』、と。是の因縁を以っての故に憂愁、啼哭すること七日七夜にして、是れに因るが故に天龍、鬼神は号して常啼と曰えり。
是の、
『人』は、
『先世の福徳の因縁と!』、
『今世の一心の大欲と大精進と!』の、
是の、
『二因縁』の故に、
『空中の声が教える!』のを、
『聞いたのである!』が、
『久しからずして!』、
『声』は、
『便ち、滅した( be suddenly extinguished )!』。
即ち、
『心』に、復た念じた、――
わたしは、
『何うして!』、
『問わなかったか?』、と。
是の因縁の故に、
『七日七夜!』、
『憂愁、啼哭した!』ので、
是の故に、
『天龍、鬼神』が、
『常啼』と、
『号したのである!』。
佛答須菩提。過去世有薩陀波崙菩薩。不惜身命不貪財利求般若波羅蜜時。在空閑林中聞空中聲到空林中如上說。問曰。空中聲為是何聲。 仏の須菩提に答えたまわく、『過去世に薩陀波崙菩薩有りて、身命を惜まず、財利を貪らず、般若波羅蜜を求むる時、空閑林中に在りて、空中に声の空林中に到るを聞く』、と。上に説けるが如し。
問うて曰く、空中の声を、是れ何の声と為すや。
『仏』は、
『須菩提』に、こう答えられた、――
『過去世に、薩陀波崙菩薩が有り!』、
『身命を惜まず、財利を貪らず!』、
『般若波羅蜜』を、
『求めていた!』時、
『空閑林中に在って!』、
『空中の声』が、
『空林中に到る!』のを、
『聞いた!』、と。
是れは、
『上に!』、
『説かれた通りである!』。
問い、
『空中の声』とは、
『何者の!』、
『声ですか?』。
答曰。若諸佛菩薩諸天龍王。憐愍眾生故。見是人不著世間法一心求佛道。以時無佛法。欲示其得般若因緣。故空中發聲。 答えて曰く、若しは諸仏、菩薩、諸天、龍王は衆生を憐愍するが故に、是の人の世間法に著せず、一心に仏道を求むるを見るも、時に仏、法無きを以って、其れに、般若を得る因縁を示さんと欲するが故に空中に声を発せり。
答え、
若しは、
『諸の仏、菩薩や、諸の天、龍王が衆生を憐愍する!』が故に、
是の、
『人が世間法に著することなく、一心に仏道を求めている!』のを、
『見て!』、
その時、
『仏、法が無い!』が故に、
是の、
『人』に、
『般若波羅蜜を得る因縁を示そうとした!』が故に、
『空』中に、
『声』を、
『発したのである!』。
有人言。是薩陀波崙。先世善因緣人。在此林中作鬼神見其愁苦。以其是先世因緣故。又是神亦求佛道。以是二因緣故發聲如蜜膊婆羅門。為須達多至王舍城詣大長者家求兒婦。 有る人の言わく、『是の薩陀波崙は、先世の善因縁の人、此の林中に在りて、鬼神と作り、其の愁苦を見て、其の先世の因縁を以っての故に、又是の神も亦た仏道を求むれば、是の二因縁を以っての故に声を発すること、蜜膊婆羅門の須達多の為めに王舎城に至り、大長者の家に詣(いた)りて児婦を求めしが如し。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『薩陀波崙』は、
『先世の善い因縁の人』が、
此の、
『林中に在って、鬼神と作り!』、
『薩陀波崙の愁苦』を、
『見たからであり!』、
是の、
『先世の因縁』と、
又、
是の、
『鬼神』も、
『仏道を求めていた!』ので、
是の、
『二因縁』の故に、
『声』を、
『発したのである!』。
譬えば、
『蜜膊婆羅門』が、
『須達多の為めに、王舎城に至り!』、
『大長者の家に詣って!』、
『児婦( a daughter to be the wife of his son )』を、
『求めたようなものである!』。
  児婦(にふ):児子の妻( wife of his son )。
  参考:『雑阿含巻22第592経』:『如是我聞。一時。佛住王舍城寒林中丘塚間。時。給孤獨長者有小因緣至王舍城。止宿長者舍。夜見長者告其妻子.僕使.作人言。汝等皆起。破樵然火。炊飯作餅調和眾味。莊嚴堂舍。給孤獨長者見已。作是念。今此長者何所為作。為嫁女娶婦耶。為請賓客.國王.大臣耶。念已。即問長者。汝何所作。為嫁女娶婦。為請賓客.國王.大臣耶。時。彼長者答給孤獨長者言。我不嫁女娶婦。亦不請呼國王.大臣。唯欲請佛及比丘僧。設供養耳。時。給孤獨長者聞未曾聞佛名字已。心大歡喜。身諸毛孔皆悉怡悅。問彼長者言。何名為佛。長者答言。有沙門瞿曇。是釋種子。於釋種中剃除鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。得阿耨多羅三藐三菩提。是名為佛。給孤獨長者言。云何名僧。彼長者言。若婆羅門種剃除鬚髮。著袈裟衣。信家.非家。而隨佛出家。或剎利種.毘舍種.首陀羅種善男子等剃除鬚髮。著袈裟衣。正信.非家。彼佛出家而隨出家。是名為僧。今日請佛及現前僧。設諸供養。給孤獨長者問彼長者言。我今可得往見世尊不。彼長者答言。汝且住此。我請世尊來至我舍。於此得見。時。給孤獨長者即於其夜至心念佛。因得睡眠。天猶未明。忽見明相。謂天已曉。欲出其舍。行向城門。至城門下。夜始二更。城門未開。王家常法。待遠使命來往。至初夜盡。城門乃閉。中夜已盡。輒復開門。欲令行人早得往來。爾時。給孤獨長者見城門開。而作是念。定是夜過天曉門開。乘明相出於城門。出城門已。明相即滅。輒還闇冥。給孤獨長者心即恐怖。身毛為豎。得無為人及非人。或姦姣人恐怖我耶。即便欲還。爾時。城門側有天神住。時。彼天神即放身光。從其城門至寒林丘塚間光明普照。告給孤獨長者言。汝且前進。可得勝利。慎勿退還。時。彼天神即說偈言  善良馬百匹  黃金滿百斤  騾車及馬車  各各有百乘  種種諸珍奇  重寶載其上  宿命種善根  得如此福報  若人宗重心  向佛行一步  十六分之一  過前福之上  是故。長者。汝當前進。慎勿退還。即復說偈  雪山大龍象  純金為莊飾  巨身長大牙  以此象施人  不及向佛福  十六分之一  是故。長者。當速前進。得其大利。非退還也。復說偈言  金菩闍國女  其數有百人  種種眾妙寶  瓔珞具莊嚴  以是持施與  不及行向佛  一步之功德  十六分之一  是故。長者。當速前進。得其勝利。非退還也。時。給孤獨長者問天神言。賢者。汝是何人。天神答言。我是摩頭息揵大摩那婆先。是長者善知識。於尊者舍利弗.大目揵連所起信敬心。緣斯功德。今得生天。典此城門。是故告長者。但當進前。慎莫退還。前進得利。非退還也。時。給孤獨長者作是念。佛興於世。非為小事。得聞正法。亦非小事。是故天神勸我令進。往見世尊。時。給孤獨長者尋其光明。逕至寒林丘塚間。爾時。世尊出房露地經行。給孤獨長者遙見佛已。即至其前。以俗人禮法恭敬問訊。云何。世尊。安隱臥不。爾時。世尊說偈答言  婆羅門涅槃  是則常安樂  愛欲所不染  解脫永無餘  斷一切希望  調伏心熾燃  心得寂止息  止息安隱眠  爾時。世尊將給孤獨長者往入房中。就座而坐。端身繫念。爾時。世尊為其說法。示教照喜已。世尊說。諸法無常。宜布施福事.持戒福事.生天福事。欲味.欲患.欲出。遠離之福。孤獨長者聞法.見法.得法.入法.解法。度諸疑惑。不由他信。不由他度。入正法.律。心得無畏。即從座起。正衣服。為佛作禮。右膝著地。合掌白佛言。已度。世尊。已度。善逝。我從今日盡其壽命。歸佛.歸法.歸比丘僧。為優婆塞。證知我。爾時。世尊問給孤獨長者。汝名何等。長者白佛。名須達多。以常給孤貧辛苦故。時人名我為給孤獨。世尊復問。汝居何處。長者白佛言。世尊。在拘薩羅人間。城名舍衛。唯願世尊來舍衛國。我當盡壽供養衣被.飲食.房舍.床臥.隨病湯藥。佛問長者。舍衛國有精舍不。長者白佛。無也。世尊。佛告長者。汝可於彼建立精舍。令諸比丘往來宿止。長者白佛。但使世尊來舍衛國。我當造作精舍僧房。令諸比丘往來止住。爾時。世尊默然受請。時。長者知佛世尊默然受請已。從座起。稽首佛足而去』
時蜜膊於王舍城大婆羅門眾中。飲食過度腹脹而死作鬼神。於王舍城城門上住。須達多聞是婆羅門已死自往長者家宿。長者於後夜起辦具飲食。 時に蜜膊、王舎城の大婆羅門の衆中に於いて、飲食すること過度にして腹脹れて死し、鬼神と作りて、王舎城の城門上に住せり。須達多是の婆羅門の已に死せるを聞いて、自ら長者の家に往きて宿れり。長者は後夜に起きて、飲食を辦具せり。
その時、
『蜜膊』は、
『王舎城の大婆羅門の衆中』に於いて、
『過度に飲食して、腹が脹れ!』、
『死んで、鬼神と作り!』、
『王舎城の城門上に住した!』。
『須達多』は、
是の、
『婆羅門が、已に死んだ!』と、
『聞いて!』、
自ら、
『長者の家に往き!』、
『宿った!』。
『長者』は、
『後夜に起きて!』、
『飲食』を、
『辦具した( to prepare )!』。
  辦具(べんぐ):準備( prepare )。
須達多問言。汝有何事為欲娶婦嫁女。為欲請大國王。為是邑會何其匆匆營事乃爾。長者答言。我欲請佛及僧。須達多聞佛名驚喜毛豎。長者先得道跡。為其廣說佛德。 須達多の問うて言わく、『汝は何事か有る。婦を娶りて、女を嫁せんと欲するが為めなりや、大国王を請ぜんと欲するが為めなりや、是の邑の会の為めなりや。何ぞ其の匆匆として事を営むこと乃ち爾る』、と。長者の答えて言わく、『我れは、仏及び僧を請ぜんと欲す』、と。須達多は仏の名を聞いて、驚喜し、毛豎(よだ)てり。長者は先に道跡を得れば、其の為めに広く仏徳を説けり。
『須達多は問うて!』、こう言った、――
お前には、
何のような、事が有るのか?――
『婦を娶って、女を嫁がすのか
get married and give your dautghter in marriage )?』、
『大国の王を請じるのか?』、
『是の邑の会に出るのか?』。
何故か、
其のように、
『匆匆として( hurriedly )!』、
『事を営んでいる( to work )!』が、
乃ち( it is )、
『爾う( so )いうことなのか?』。
『長者は答えて!』、こう言った、――
わたしは、
『仏と、僧とを!』、
『請じようとしているのだ!』、と。
『須達多』は、
『仏の名を聞いて( to hear the word 'Buddha' )!』、
『驚喜して!』、
『毛が豎った( his hair of whole body is erected )!』。
『長者』は、
『先に、道跡を得ていた( already, had entered the way )!』ので、
『須達多の為め!』に、
『広く、仏徳を説いた!』。
  匆匆(そうそう):あわただしく( hurriedly )。
  道跡(どうしゃく):梵語 pratipad の訳、足を入れる( to set foot upon )の義、入る( to enter )の意。
  営事(ようじ):仕事をする( to operate, work )。
須達多聞已愛樂情至。甚欲見佛乘。念佛心。而小睡以念佛情至故須臾便覺。夜見月光謂為日出。即起趣門見城門已開。 須達多は聞き已りて、愛楽の情至り、甚だ仏を見んと欲し、念仏の心に乗じて、小(しばら)く睡るに、念仏の情の至るを以っての故に、須臾にして便ち覚む。夜月光を見て、謂いて日出づと為し、即ち於きて門に趣き、城門の已に開くを見る。
『須達多は、仏徳の説かれるのを聞いて!』、
『愛楽の情が至り( the feeling of desire comes )!』、
『甚だ!』、
『仏を見たくなり!』、
『念仏の心に乗じて( riding the mind to consider the Buddha )!』、
『小く( in a short time )!』、
『睡った!』が、
『念仏の情が至った( the desire of thinking buddha always in heart )!』が故に、
『須臾にして( after a little time )!』、
『覚め!』、
『夜、月光を見て!』、
『日が出た!』と、
『謂い!』、
『即ち、起きて門に趣き!』、
『城門が、已に開いている!』のを、
『見た!』。
  愛楽(あいぎょう):梵語 abhilaaSa の訳、欲求/希求( to desire, wish )の義。
  念仏(ねんぶつ):梵語 buddha- manasikaara, -anusmRti の訳、常に仏を心に留める( taking buddha always to heart )の義。
  (じょう):梵語 manas の訳、[有らゆる精神的力/知能に関して最も広い意味での]心/知性/知能/理解/理解力/知覚/意識/意志( mind (in its widest sense as applied to all the mental powers), intellect, intelligence, understanding, perception, sense, conscience, will )の義、精神/精神的根本原理、即ち生命/死亡により身体より抜け出す生者の霊魂( the spirit or spiritual principle, the breath or living soul which escapes from the body at death )の意。又思考/想像/創案/回想/意見/意図/傾向/愛情/渇望/気分/気性/霊魂( thought, imagination, excogitation, invention, reflection, opinion, intention, inclination, affection, desire, mood, temper, spirit )の意。
王舍城門初夜未閉為客來故。後夜早開為客去故。既見門開即直向佛。佛時在寒林中住。於其中路月沒還闇。須達多心悔躊躇欲還入城。 王舎城の門の、初夜に未だ閉じざるは、客の来る為めの故、後夜に早く開くは、客の去る為めの故なり。既に門の開くを見て、即ち直ちに仏に向えり。仏は時に寒林中に在りて住したもう。其の中路に於いて月没し、還って闇し。須達多は心に悔いて躊躇し、城に還り入らんと欲す。
『王舎城の門』が、
『初夜になっても、未だ閉じていない!』のは、
『客』が、
『来るからであり!』、
『後夜になったばかりで、早くも開いている!』のは、
『客』が、
『去るからである!』。
既に、
『門が開いているのを、見た!』ので、
即ち、
『真直ぐ!』、
『仏の所に向った!』。
『仏』は、
その時、
『寒林』中に、
『住していられて!』が、
『須達多が中路に差掛かった!』時、
『月が、没して!』、
『還た、暗闇となった!』。
『須達多』は、
『心に悔いて、躊躇し!』、
『道を還して!』、
『城に入ろうとした!』。
時蜜膊神放身光明照諸林野。告言居士。居士。莫怖莫畏。直去莫還去得大利。如彼經偈中廣說。須達多見佛得須陀洹道。請佛及僧於舍衛城盡形供養佛。令舍利弗為須達師。於舍衛作精舍。 時に蜜膊神は身より光明を放って、諸の林野を照らし、告げて言わく、『居士、居士。怖るる莫かれ、畏るる莫かれ。直ちに去りて、還る莫かれ。去れば大利を得ん』、と。彼の経の偈中に広く説けるが如く、須達多は仏を見て、須陀洹道を得、仏及び僧を舎衛城に請じ、形を尽して供養せり。仏は舎利弗をして、須達の師と為し、舎衛に於いて精舎を作らしめたり。
その時、
『蜜膊神』は、
『身より、光明を放って!』、
『諸の林野』を、
『照らし!』、
『須達多に告げて!』、こう言った、――
居士よ、居士よ!
『怖れるな、畏れるな!』。
『直ちに去りて( Go ahead directly )!』、
『還る莫かれ( Don't return )!』。
『去れば!』、
『大利』を、
『得るだろう!』、と。
彼の、
『経の偈』中に、
『広く!』、
『説かれた通りである!』。
『須達多』は、
『仏を見て、須陀洹道を得る!』と、
『仏と、僧を舎衛城に請じ!』、
『形を尽して( until his body exhausted )!』、
『供養した!』。
『仏』は、
『舎利弗を、須達多の師とされ!』、
『舎衛城』に、
『精舎を作らされた!』。
如須達知識神示導薩陀波崙知識示導亦如是。是故見其愁苦而示導之。作是言。善男子。汝從是東行。行時莫念疲極等。 須達の知識の神の示導するが如く、薩陀波崙の知識の示導することも、亦た是の如く、是の故に其の愁苦を見て、之を示導し、是の言を作さく、『善男子、汝は是より東に行け。行く時には、疲極等を念ずる莫かれ』、と。
『須達の知識の神』が、
『須達多』を、
『示導したように!』、
『薩陀波崙の知識』も、
是のように、
『示導したのであり!』、
是の故に、
『薩陀波崙の愁苦を見て、之を示導し!』、こう言ったのである、――
善男子!
お前は、
『是より、東に行け!』。
『行く時には、疲極等を念じるな!』、と。
問曰。疲極飢渴交來切身云何不念。 問うて曰く、疲極と飢渇と交(こもご)も来たりて身を切れば、云何が念ぜざらんや。
問い、
『疲極と飢渇とが!』、
『交も来て!』、
『身を切る!』のに、
何うして、
『念じないのですか?』。
答曰。大欲精進力故。一心愛樂佛道不惜身命。休息飲食等皆是助身法。是事雖來不為亂心。知皆虛誑無常無實如怨如賊。但為身樂故何足存念。莫為飢渴疲極等故而捨佛道。 答えて曰く、大欲の精進力の故に、一心に仏道を愛楽して、身命を惜まず、休息、飲食等は、皆是れ身を助くる法なれば、是の事来たりと雖も、心を乱されず、皆虚誑、無常、無実にして怨の如く、賊の如しと知れば、但だ身楽の為めの故に、何んぞ念を存するに足らんや。飢渇、疲極等の為めの故に、仏道を捨つる莫かれ。
答え、
『大欲の精進力』の故に、
一心に、
『仏道を愛楽し!』、
『身命を惜まない!』が、
『休息、飲食』等は、
皆、
『身を助ける!』、
『法であり!』、
是の、
『事が来たとしても!』、
『心は乱されず!』、
皆、
『虚誑、無常、無実であり、怨か賊のようだ!』と、
『知る!』。
但だ、
『身楽の為め!』の、
『休息、飲食等など!』、
何うして、
『念を存する( to think of )!』に、
『足ろうか!』。
即ち、
『飢渇、疲極等の為め!』の故に、
『仏道を捨ててはならないのである!』。
  存念(そんねん):念を懐く( to think of )、思慕する( to miss )。
莫念晝夜者。莫念晝是行法夜應止息。實無晝夜。所以者何。日依須彌影翳故名夜。 昼夜を念ずる莫かれとは、『昼は、是れ行法なり、夜は応に止息すべし』と念ずる莫かれ。実に昼夜無し。所以は何んとなれば、日は、須弥の影に依りて、翳るが故に、夜と名づくればなり。
『昼夜を念じるな!』とは、
謂わゆる、こう念じてはならない、――
『昼は行法であり( the day is for practice )!』、
『夜は止息せねばならない( in the night, one should rest )!』と。
実に、
『昼、夜』は、
『無いからである!』。
何故ならば、
『日』が、
『須弥の影に依って!』、
『翳る( become dark )』と、
是の故に、
『夜』と、
『称するからである!』。
  行法(ぎょうほう):梵語 saMskaara- dharma の訳、訓練の法( a dharma for practice )の義、実践の為めのもの( what is for practice )の意。
  影翳(ようあい):影に蔽われる( to be hidden by something's shadow )。
莫念內外者。眾生多著內法。內法名身外法名五欲。內外法不定性空故不應著。莫觀左右者。人散心行道故左右顧看。行者無緣觀後。當前則不得不視。故但言莫左右顧看。 内外を念ずる莫かれとは、衆生は多く内法に著するに、内法を身と名づけ、外法を五欲と名づけ、内外の法は不定にして、性空なるが故に応に著すべからざればなり。左右を観る莫れとは、人は、散心もて道を行ずるが故に、左右を顧看す。行者は無縁にして後を観れば、当に前は則ち見ざるを得べからず。故に但だ左右を顧看する莫かれと言えり。
『内外を念じるな!』とは、――
『衆生』は、
多く、
『内の法( the dharmas in his heart )』に、
『著するからである!』。
『内法とは、身であり!』、
『外法』とは、
『五欲である!』が、
『内、外の法は不定であり!』、
『性空である!』が故に、
『著すべきではないのである!』。
『左右を観るな( Don't look around )!』とは、――
『人』は、
『散心で道を行く!』が故に、
『左右を顧看するのである!』が、
『行者』は、
『無縁の衆生の為め!』に、
『後を観るのである!』から、
当然、
『前を!』、
『視ないはずがない!』ので、
是の故に、但だ、
『左右を顧看するな!』と、
『言うのである!』。
  顧看(こかん):梵語 apekSaa の訳、きょろきょろ見回す( looking around and about )の義。
復次惡魔常惑亂行者。或作種種形或作好色或作畏獸。在道左右故言莫觀。是皆止其麤念 復た次ぎに、悪魔は常に行者を惑乱するに、或は種種の形を作し、或は好色を作し、或は畏獣と作りて、道の左右に在り、故に『観る莫れ』と言うは、是れ皆其の麁念を止むればなり。
復た次ぎに、
『悪魔は、常に行者を惑乱して!』、
或は、
『種種の形( many kinds of form )』と、
『作り( to make oneself to )!』、
或は、
『好色( a beauty )』と、
『作り!』、
或は、
『畏獣( an awful beast )』と、
『作り!』、
『道の左右に在る( should be on both side of way )!』が故に、
『観るな!』と、
『言うのである!』が、
是れは、
皆、
『行者の麁念( the rough thinking of a practitioner of Buddhism )』を、
『止める( to stop )為めである!』。
  行者(ぎょうじゃ):梵語 pratipanna の訳、[修行を]許された者( one who has consented or agreed to or promised )の義、仏教の修行者( a practitioner of Buddhism )の意。
  麁念(そねん):梵語 audaarika- anusmRti? の訳、粗雑な回想( rough recollection )の義。
莫壞身相色等相者。五眾和合故假名為身。若說別更決定有身法。是則壞身相。若著無身法是亦壞身相。離是一異有無等邊行於中道。則疾得阿耨多羅三藐三菩提。是故說莫壞身相等。 身相、色等の相を壊る莫かれとは、五衆和合の故に仮に名づけて身と為し、若し別に更に決定して、身法有りと説かば、是れ則ち身相を壊るなり。若し身法無きに著すれば、是れも亦た身相を壊るなり。是の一異、有無等の辺を離れて、中道を行ずれば、則ち疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得れば、是の故に、『身相等を壊る莫かれ』、と説く。
『身相、色等の相を壊るな!』とは、――
『五衆の和合』を、
『仮に!』、
『身と称するのである!』が、
若し、
別に、
『更に、身法が決定して有る!』と、
『説けば!』、
是れは、
『身相』を、
『壊ることになり!』、
若し、
『身法は無い、と著せば!』、
是れも、
『身相』を、
『壊ることになる!』ので、
是の、
『一異、有無等の辺を離れて!』、
『中道』を、
『行けば!』、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることになる!』ので、
是の故に、
『身相等を破るな!』と、
『説くのである!』。
此中佛自說因緣。若壞是諸相則於佛法有礙。佛法有礙者。則往來五道生死中。不能得般若波羅蜜。 此の中に仏の自ら因縁を説きたまわく、『若し是の諸相を壊れば、則ち仏法に於いて、礙有り。仏法に礙有れば、則ち五道の生死中を往来するも、般若波羅蜜を得る能わず』、と。。
此の中に、
『仏』は、
自ら、因縁を説かれている、――
若し、
是の、
『諸相』を、
『壊れば!』、
則ち、
『仏法』に、
『礙が有ることになる( there are many obstacles )!』。
若し、
『仏法に礙が有れば!』、
『五道の生死中を往来しても!』、
『般若波羅蜜を得られないことになる!』、と。
薩陀波崙報空中聲言。而自說因緣。所謂薩陀波崙見一切眾生墮在無明黑闇中。我欲為然智慧光明。一切眾生有一切煩惱。我欲設一切佛法樂。一切眾生皆墮邪道。我為是眾生故求無上道。是三種願得般若波羅蜜則能具足。是故言受教。 薩陀波崙は、空中の声の言うに報えて、而も自ら因縁を説く。謂わゆる薩陀波崙は、一切の衆生の無明の黒闇中に堕して在りと見て、『我れは、為めに智慧の光明を然(もや)さんと欲す』。一切の衆生に一切の煩悩有れば、『我れは、一切の仏法の楽を設けんと欲す』。一切の衆生は、皆邪道に堕すれば、『我れは是の衆生の為めの故に、無上道を求む』、と。是の三種の願は、般若波羅蜜を得れば、則ち能く具足す。是の故に、『教を受けん』、と言う。
『薩陀波崙』は、
『空中の声が言うのに、報えて!』、
『自ら、因縁を説いた!』、謂わゆる、――
『一切の衆生』は、
『無明の黒闇に堕ちて在る!』と、
『見て!』、
わたしは、
『衆生の為めに、智慧の光明を然そう!』と、
『言い!』、
『一切の衆生』には、
『一切の煩悩が有る!』のを、
『見て!』、
わたしは、
『一切の仏法の樂を設けよう
will put all pleasures of Buddhism in order )!』と、
『言い!』、
『一切の衆生』は、
『皆、邪道の堕ちている!』と、
『見て!』、
わたしは、
『邪道に堕ちた衆生の為めの故に、無上道を求める!』と、
『言う!』。
是の、
『三種の願』は、
『般若波羅蜜を得るだけで!』、
『具足することができる!』ので、
是の故に、
『教を受けよう!』と、
『言うのである!』。
  (せつ):梵語 niveza, nivezayati の訳、調える( putting in order )の義。
問曰。薩陀波崙不見其形但聞其聲。何以便言受教。 問うて曰く、薩陀波崙は、其の形を見ず、但だ其の声を聞くのみ、何を以ってか、便ち『教を受けん』、と言う。
問い、
『薩陀波崙』は、
『形を見ることもなく!』、
但だ、
『声』を、
『聞いただけなのに!』、
何故、
便ち( easily/thoughtlessly )、
『教を受けよう!』と、
『言ったのですか?』。
答曰。人所求事急故聞聲則應。薩陀波崙亦如是。 答えて曰く、人は求むる所の事の急なるが故に声を聞けば則ち応ず。薩陀波崙も亦た是の如し。
答え、
『人』は、
『求める所の事が急ならば( be pressed by what he is seeking )!』、
『声を聞けば!』、
『応じるはずであり!』、
亦た、
『薩陀波崙』も、
『是の通りである!』。
復次聞其所說理好則知其人亦好故不須眼見。如黑闇中有種種。眾生眼雖不見聞其聲則知其種類。 復た次ぎに、其の所説の理を聞いて、好もしければ、則ち其の人も亦た好もしと知るが故に、眼に見るを須(ま)たず。黒闇中に種種の衆生有りて、眼に見ずと雖も、其の声を聞けば、則ち其の種類を知るが如し。
復た次ぎに、
其の、
『人の説く!』所の、
『理を聞いて!』、
『好もしければ!』、
其の、
『人も好もしい!』と、
『知ることになる!』ので、
是の故に、
『眼で見る!』のを、
『須たない( it is not necessary )のであり!』、
譬えば、
『暗黒中に種種の衆生が有り
there are various kinds of animals in the dark )!』、
『眼で見なくても、声を聞けば!』、
其の、
『種類』を、
『知るようなものである!』。
爾時空中聲復讚言善哉。以其雖不見形而能信受善語故。又復以其欲度一切眾生故。求阿耨多羅三藐三菩提心不懈息。如是等因緣故讚言善哉。 爾の時、空中の声の復た讃じて言わく、『善い哉』、と。其の形を見ずと雖も、能く善語を信受するを以っての故なり。又復た其の一切の衆生を度せんと欲するを以っての故に、阿耨多羅三藐三菩提を求むる心は懈怠せざれば、是れ等の如き因縁の故に讃じて、『善い哉』、と言えり。
爾の時、
『空中の声が、復た讃じて!』、
『善いぞ!』と、
『言った!』のは、
『薩陀波崙』が、
『形を見ることなく!』、
『善語を信受したからである!』。
又復た、
『薩陀波崙が、一切の衆生を度そうとする!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提を求める!』、
『心』が、
『懈息しない!』ので、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『善いぞ!』と、
『讃じて言ったのである!』。
於三解脫門中應生信心者。是門諸法實相所入門。離是三門皆是虛誑無有實者。汝雖未得應生大信根力。信根力故漸具諸根。 『三解脱門中に於いて、応に信心を生ずべし』とは、是の門は、諸法の実相に入る所の門なればなり。是の三門を離るれば、皆是れ虚誑にして、実の者有ること無し。『汝は未だ得ずと雖も、応に大信根力を生ずべし』とは、信根の力の故に漸く、諸根を具うればなり。
『三解脱門中に、信心を生じねばならない!』とは、――
是の、
『門』は、
『諸法の実相に入る!』所の、
『門だからであり!』、
是の、
『三門を離れれば!』、
皆、
『虚誑であり!』、
『実の者が無いからである!』。
『お前は未だ三門を得ていない!』が、
『大信根力を生じねばならない!』とは、――
『信根の力』の故に、
漸く( gradually )、
『諸根』を、
『具えるからである!』。
以離相心求般若波羅蜜者。所謂觀諸法畢竟空。離眾生相離法相。 『相を離るる心を以って、般若波羅蜜を求む』とは、謂わゆる諸法の畢竟空を観て、衆生相を離れ、法相を離るるなり。
『相を離れる心で、般若波羅蜜を求める!』とは、――
謂わゆる、
『諸法の畢竟空を観て!』、
『衆生相を離れ!』、
『法相を離れるからである!』。
問曰。三解脫門攝在般若中不。若攝何以別說。若不攝云何經中說一切助道法皆攝在般若中。 問うて曰く、三解脱門は般若中に摂在すや不や。若し摂すれば、何を以ってか別に説き、若し摂せざれば、云何が経中に、『一切の助道法は、皆般若中に摂在す!』と、説く。
問い、
『三解脱門』は、
『般若』中に、
『摂在するのですか( be contained )?』
若し、
『般若中に摂すれば!』、
何故、
『般若と別に!』、
『説くのですか?』。
若し、
『般若中に摂しなければ!』、
何故、経中に、こう説かれているのですか?――
『一切の助道法』は、
『皆、般若中に摂在する!』、と。
  摂在(しょうざい)、(しょう):梵語 antar -bhaava, -bhuuta, -gata の訳、~の内に在る/~に含まれる( being within, being or contained in anything )の義。
答曰。一切法皆入般若中。人皆畏苦故求解脫。是故於般若分中前說三解脫門。以何因緣得此解脫離諸二邊。所謂眾生相法相行般若波羅蜜。 答えて曰く、一切の法は皆、般若中に入るも、人は皆、苦を畏るるが故に解脱を求め、是の故に般若の分中に於いて前に三解脱門を説く。何の因緣を以ってか、此の解脱を得る、諸の二辺、謂わゆる衆生相、法相を離れて、般若波羅蜜を行ずればなり。
答え、
『一切法は、皆般若中に入る!』が、
『人』は、
『皆、苦を畏れる!』が故に、
『解脱を求める!』ので、
是の故に、
『般若の分中より、三解脱門を別けて!』、
『前に!』、
『説くのである!』。
何のような、
『因縁』で、
此の、
『三解脱門を得るのか?』、――
『諸の二辺、謂わゆる衆生相、法相を離れて!』、
『般若波羅蜜を行じるのである!』。
問曰。初教精進後教三解脫門般若。今復欲為何事故教親近善知識。 問うて曰く、初めに精進を教えて、後に三解脱門、般若を教うるに、今復た何事を為さんと欲するが故にか、善知識に親近するを教うる。
問い、
初に、
『精進を教え!』、
後に、
『三解脱門や、般若』を、
『教えて!』、
今復た、
何のような、
『事を為そうとする!』が故に、
『善知識に親近せよ!』と、
『教えるのか?』。
答曰。雖有好法若無教者行時多錯。譬如雖有好藥亦須良醫。 答えて曰く、好法有りと雖も、若し教うる者無ければ、行ずる時、錯(あやまち)多し。譬えば好薬有りと雖も、亦た良医を須つが如し。
答え、
『好法が有っても!』、
若し、
『教える者が無ければ!』、
『行じる!』時、
『錯が多い( should usually mistake )!』。
譬えば、
『好薬が有ったとしても!』、
『良医』を、
『須つようなものである!』。
又薩陀波崙是新發意菩薩。般若波羅蜜甚深。云何但聞空中略教而能自具足。是故教語親近善知識。 又、薩陀波崙は、是れ新発意の菩薩なるに、般若波羅蜜は甚だ深し。云何が但だ空中の略教を聞いて、能く自ら具足せんや。是の故に教えて、『善知識に親近せよ』、と語れり。
又、
『薩陀波崙は、新発意の菩薩である!』が、
『般若波羅蜜』は、
『甚だ深い!』。
何うして、
『但だ、略教を聞くだけで!』、
『自ら、具足することができるのか?』。
是の故に、
『善知識に親近せよ!』と、
『教えて語ったのである!』。
善知識義如先說。今略說二相是善知識。一者教一心向薩婆若。二者教空無相無作無生無滅等般若波羅蜜法。若能如是行不久得般若波羅蜜。如藥師為病者說服藥法。汝能如法服病則得差。 善知識の義は、先に説けるが如し。今略説すれば、二相は是れ善知識なり。一には教えて、一心に薩婆若に向かわしめ、二には空、無相、無作、無生、無滅等の般若波羅蜜の法を教え、若し能く是の如く行ずれば、久しからずして般若波羅蜜を得ること、薬師の病者の為めに服薬の法を、『汝は能く法の如く服すれば、病は則ち差(い)ゆるを得ん』、と説くが如し。
『善知識の義は、先に説いた通りである!』が、
今、略説すれば、――
『二相が、善知識の相であり!』、
一には、
『一心に、薩婆若に向かうこと!』を、
『教え!』、
二には、
『空、無相、無作、無生、無滅等の般若波羅蜜の法』を、
『教えて!』、
若し、
是のように
『教を行じれば!』、
『久しからずして、般若波羅蜜を得ることができる!』。
譬えば、
『薬師』が、
『服薬の法を説いて!』、こう言うようなものである、――
お前が、
『法のように、服薬することができれば!』、
『病は、差えるだろう!』、と。
若從經卷聞從菩薩說聞者。遣薩陀波崙至曇無竭菩薩所。彼中二處有般若。一寶臺上金牒書。二曇無竭所說。若人福德多者從曇無竭所說聞。福德少者從經卷聞。 若し経巻より聞き、菩薩の説より聞くとは、薩陀波崙を遣して、曇無竭菩薩の所に至らしむるに、彼の中の二処に、般若有ればなり。一には宝台上の金牒の書、二には曇無竭の所説なり。若し人に福徳多ければ、曇無竭の所説より聞き、福徳少ければ、経巻より聞く。
若しは、
『経巻より聞いたり!』、
『菩薩の説より聞く!』とは、――
『薩陀波崙を遣して、曇無竭菩薩の所に至らせる!』のは、
彼の中には、
『二処に、般若が有るからであり!』、
一には、
『宝台』上の、
『金牒の書であり!』、
二には、
『曇無竭』の、
『所説である!』。
若し、
『福徳の多い人ならば!』、
『曇無竭の所説より!』、
『聞くことになり!』、
『福徳が少ければ!』、
『経巻より!』、
『聞くからである!』。
  金牒(こんちょう)、金鍱(こんちょう):梵語 suvarNa-parNiiya の訳、金製の書物の頁( a book made of gold leaves )の義、金牒の書は仏法の経典( a book of Budhism )の美称。
於師生佛想。以能教佛道因緣故。 師に於いて、仏想を生ぜよとは、能く仏道を教うる因縁を以っての故なり。
『師に於いて、仏想を生じよ!』とは、――
『師は、仏道を教えることができる!』という、
『因縁』の故に、
『仏想を生じねばならないのである!』。
世間小人因緣事訖則忘其恩義。作是念。如人乘船度水。既到彼岸何用船為。是故說汝當知恩。應作是念。所從聞般若者即是我善知識。一切諸利中般若利最勝。行是般若疾得阿耨多羅三藐三菩提不退轉。 世間の小人は、因縁の事訖(おわ)れば、則ち其の恩義を忘れ、是の念を作さく、『人は船に乗りて水を度るが如きに、既に彼岸に到れば、何の為めにか船を用いん』、と。是の故に説かく、『汝は当に恩を知るべく、応に是の念を作すべし、『従りて般若を聞く所の者は、即ち是れ我が善知識なり。一切の諸利中に般若の利は最勝なり。是の般若を行ずれば、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得て退転せず』、と。
『世間の小人』は、
『因縁の事が訖れば!』、
其の、
『恩義を忘れて!』、こう念じる、――
譬えば、
『人』が、
『船に乗って!』、
『水を度るようなものである!』、
既に、
『彼岸に到れば!』、
『船を、何に用いるのか?』、と。
是の故に、
お前は、
『恩を知って!』、こう念じなければならない、――
『従って、般若を聞く!』所は、
即ち、
『わたしの、善知識である!』。
『一切の諸利中には、般若の利が最勝であり!』、
是の、
『般若を行じれば!』、
『疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得られて、退転することがない!』、と。
又復行般若因緣故親近諸佛。常生有佛國中。離於八難值佛在世。菩薩應作是念。我得如是等諸功德。皆從般若得。般若波羅蜜從師而得。是故視師如佛想。 又復た、般若を行ずる因縁の故に諸仏に親近して、常に有仏の国中に生じて八難を離れ、仏の在世に値えば、菩薩は、応に是の念を作すべし、『我が、是れ等の如き諸功徳を得るは、皆般若より得、般若波羅蜜は師より得』、と。是の故に師を視ること、仏想の如し。
又復た、
『般若波羅蜜を行じる!』、
『因縁』の故に、
『諸仏に親近し!』、
『常に有仏の国中に生じて、八難を離れ!』、
『仏の在世に値う!』ので、
『菩薩』は、こう念じなければならない、――
わたしが、
是れ等のような、
『諸の功徳を得る!』のは、
皆、
『般若より!』、
『得るのであり!』、
『般若波羅蜜』は、
『師より!』、
『得るのである!』、と。
是の故に、
『仏を想うように!』、
『師』を、
『視るのである!』。
有人能說般若波羅蜜者。有大福德多知識多得供養。弟子初為般若故隨逐。後漸漸為供養利。是故說莫以世利故隨逐法師。 有る人は、能く般若波羅蜜を説く者なれば、大福徳有りて、知識多く、多く供養を得、弟子は初は般若の為めの故に随逐し、後に漸漸として、供養と利の為めなり。是の故に説かく、『世利を以っての故に、法師に随逐する莫かれ』、と。
有る、
『人は、般若波羅蜜を説くことができる!』ので、
『大福徳が有り!』、
『善知識が多く!』、
『供養を得ることが多い!』が、
『弟子』は、
初は、
『般若の為め!』の故に、
『師に随逐する!』が、
後には、
『漸漸として!』、
『供養の利の為めに、随逐する!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『世利の為め!』の故に、
『法師に随逐してはならない!』、と。
問曰。何以不但說親近善知識。而說是種種因緣。 問うて曰く、何を以ってか、但だ、『善知識に親近せよ』、と説かず、是の種種の因縁を説く。
問い、
何故、
但だ、
『善知識に親近せよ!』と、
『説くだけでなく!』、
是の、
『種種の因縁』を、
『説くのですか?』。
答曰。有人既得善知識不得其意。反成讎隙而墮地獄。更相謗毀故。唯佛一人無有過失。餘人誰能無者。若弟子見師之過。若實若虛其心自壞不復能得法利。是故空中聲教若見師過莫起嫌恨。 答えて曰く、有る人は、既に善知識を得るも、其の意を得ず、反って讎隙を成じ、地獄に墮ちて、更に相謗毀するが故なり。唯だ仏一人のみ、過失有ること無く、餘人は誰か能く無き者ならん。若し弟子、師の過を見れば、若しは実、若しは虚なるも、其の心を自ら壊って、復た法利を得る能わず。是の故に空中の声の教うらく、『若し師の過を見るも、嫌恨を起す莫かれ』、と。
答え、
有る、
『人』は、
『既に、善知識を得ながら!』、
其の、
『意』を、
『得ることなく( does not understand its aim )!』、
反って、
『讎隙を成じて( has a hatred )!』、
『地獄に墮ち!』、
更に、
『相( mutually )!』、
『謗毀する( to blame )からである!』。
唯だ、
『仏一人だけが、過失が無いのであり!』、
『餘人』の、
誰に、
『過( mistakes )』を、
『無くすことができるのか?』。
若し、
『弟子が、師の過を見れば!』、
其れが、
『実であろうと、虚であろうと!』、
自ら、
『菩提心』を、
『壊って!』、
復た( never again )、
『法利』を、
『得ることはない!』。
是の故に、
『空中の声』が、こう教えるのである、――
若し、
『師の過を見ても!』、
『嫌恨を起してはならない( Be not filled with hate )!』。
    讎隙(しゅうげき):怨恨/仇恨/憎悪/憎しみ( hatred )。
    嫌恨(けんこん):怨恨/憎しみ( hate )。
汝應作是念。我先世福德不具足故不得值佛。今值是雜行師我不應念其過失。而自妨失般若。師之過失不著於我。我但從師受般若波羅蜜法。 汝は応に是の念を作すべし、『我れは、先世の福徳の具足せざるが故に、仏に値うを得ざるも、今、是の雑行の師に値う。我れは、応に其の過失を念じて、自ら般若を妨げ失うべからず。師の過失は、我れに著かず。我れは但だ師より、般若波羅蜜の法を受けん』、と。
――
お前は、こう念じなければならない、――
わたしは、
『先世の福徳が具足していない!』が故に、
『仏』に、
『値うことができなかった!』が、
今、是の、
『雑行の師に値うことができた( have met this impure teacher )!』。
わたしは、
是の、
『師の過失』を、
『念じて!』、
自ら、
『般若』を、
『妨げ失ってはならない!』。
『師の過失は、わたしに著さない
my teacher's faults are not put on me )!』。
わたしは、
但だ、
『師によって!』、
『般若波羅蜜の法を受けるだけなのだ!』、と。
  雑行(ぞうぎょう):梵語 samala-caryaa? の訳、不純な行( impure practising )の義、仏道の修行を兼ねて、外道の修行をすること( doing practice of Buddhism together with of non-buddhism )の意。
如狗皮囊盛好寶物不應以囊故而棄其寶。如罪人執燭照道不可以人罪故不受其明自墜溝壑。又如行道小人導道不可以人小故不隨其語。如是等因緣不應遠離於師。 狗皮の嚢に、好き宝物を盛るも、応に嚢を以っての故に、其の宝を棄つべからざるが如し。罪人の燭を執りて、道を照らすに、人の罪を以っての故に、其の明を受けず、自ら溝、壑に墮つべからざるが如し。又道を行くに、小人道を導くに、人の小なるを以っての故に、其の語に随わざる可からざるが如し。是れ等の如き因縁もて、応に師を遠離すべからず。
譬えば、
『狗皮の嚢に、好い宝物が盛られていても!』、
『嚢』の故に、
『宝を棄ててはならないように!』、
又、
『罪人が、燭を執って道を照らしても!』、
『人の罪』の故に、
『明を受けることなく、自ら溝、壑に堕ちてはならないように!』、
又、
『道を行くのに、小人が道を導いたとしても!』、
『人が小である!』が故に、
『小人の語に随わないようではならないように!』、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『師』を、
『遠離してはならないのである!』。
  (がく):谷/坑。谷底/峡谷( bed of torrent, narrow ravine )。
師若實有罪尚不應離。何況此中魔作因緣令說法者有深妙五欲。令弟子不染著法。說法者以方便故現受。 師、若し実に罪有るも、尚お応に離るべからず。何に況んや、此の中には、魔が因縁を作して、説法の者をして、深妙の五欲有らしめ、弟子をして、法に染著せざらしむるをや。説法の者は、方便を以っての故に、受くるを現せばなり。
『師に、実に罪が有ったとしても!』、
尚お、
『師』を、
『離れるべきではない!』。
況して、
此の中には、
『魔が因縁を作して!』、
『説法者』には、
『深妙の五欲』を、
『有らしめ( get him possessed )!』、
『弟子』には、
『法』に、
『染著させないだけであり!』、
尚更、
『師』を、
『離れるべきではない!』。
『説法者は、方便を用いる!』が故に、
『五欲を受ける!』のを、
『現したのである!』。
方便者。所謂欲令眾生種福德因緣。亦為同事攝眾生故。 方便とは、謂わゆる衆生をして、福徳の因縁を種えしめんと欲して、亦た事を同じうして、衆生を摂せんが為めの故なり。
『方便』とは、
『衆生』に、
『福徳の因縁』を、
『種えさせようとし!』、
『衆生と、事を同じうして( to do same things together )!』、
『衆生』を、
『摂する( to control )からである!』。
復有諸菩薩通達諸法實相故。無所障礙無有過罪。雖作過罪亦無所妨。如人年壯力盛腹中火熱雖食不適飲食不能生病。又如有好藥雖被惡毒不能為害。如是等因緣故汝於師所莫起嫌恨而自失般若。如經中說。 復た有る諸菩薩は、諸法の実相に通達するが故に、障礙する所無く、過罪有ること無く、過罪を作すと雖も、亦た妨ぐる所無し。人の年壮(さか)んにして、力盛んにして、腹中に火熱ければ、適さざる飲食を食うと雖も、病を生ずる能わざるが如く、又有る好薬は、悪毒を被ると雖も、害を為す能わざるが如し。是れ等の如き因縁の故に、『汝は、師の所に於いて、嫌恨を起して、自ら般若を失う莫かれ!』と、経中に説けるが如し。
復た、
有る、
『諸の菩薩』、
『諸法の実相に通達する!』が故に、
『障礙されることも、過罪が有ることも!』、
『無い!』ので、
『過罪を作ったとしても!』、
『妨げられること!』が、
『無い!』。
譬えば、
『人が壮年であり!』、
『力が旺盛で、腹中の火が熱ければ!』、
『飲食に適さない者を、食ったとしても!』、
『病を生じさせないように!』、
又、
『好薬』が、
『悪毒を被った人』に、
『害』を、
『為させないようなものである!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、経中にこう説かれているのである、――
お前は、
『師に、嫌恨を起して!』、
『自ら、般若を失ってはならない!』、と。
復有說法者。持戒清淨離於五欲。多知多識有好名聞。威德尊重。弟子受法而不顧錄。汝於是中莫生怨恨。當作是念。我宿世罪故今為小人。師不輕我我自無福不能得道。又我於師所應破憍慢。以求法利 復た、有る説法者は、持戒清浄にして、五欲を離れ、多く知り、多く識りて、好き名聞有り、威徳尊重なるに、弟子は法を受けて、顧録せず。汝は、是の中に怨恨を生ずる莫く、当に是の念を作すべし、『我れは宿世の罪の故に、今は小人と為すも、師は我れを軽んぜず。我れは自ら福無く、道を得る能わず、又我れは師の所に於いて、応に憍慢を破り、以って法利を求むべし』、と。
復た、
有る、
『説法者』は、
『持戒清浄で、五欲を離れ!』、
『知識が多くて、好い名聞が有り!』、
『威徳は尊重でありながら!』、
『弟子が、法を受けても!』、
『顧みることもなく!』、
『録することもない( does not put his name on the list )!』が、
お前は、
是の中に、
『怨恨』を、
『生じてはならず!』、
こう念じねばならぬ、――
わたしは、
『宿世の罪の故に、今小人である!』が、
『師』は、
『わたしを、軽んじない!』。
わたしは、
『自ら、福が無く!』、
『道』を、
『得ることができない!』ので、
わたしは、
『師の所で、憍慢を破りながら!』、
『法利』を、
『求めねばならないのである!』、と。
有如是等種種諸師。菩薩為求般若波羅蜜故。但一心恭敬不應念其長短。若能如是忍辱於師一心不起增減者。汝於師所盡得妙法。如完牢之器所受不漏。薩陀波崙聞空中聲已從是東行。如經中廣說
大智度論卷第九十六
是れ等の如き種種の諸師有るは、菩薩の般若波羅蜜を求めんが為めの故なれば、但だ一心に恭敬して、応に其の長短を念ずべからず。若し能く、是の如く師に於いて忍辱し、一心の増減を起さざれば、汝は、師の所に於いて、尽く妙法を得ること、完牢の器に受くる所の漏らざるが如し。薩陀波崙の空中の声を聞き已りて、是より東に行くこと、経中に広説するが如し。
是れ等のような、
『種種の諸師が有る!』のは、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜』を、
『求める為めである!』が故に、
但だ、
『一心に恭敬して!』、
『師の長短を念じてはならないのである!』。
若し、
是のように、
『師に於いて、忍辱することができ!』、
『恭敬の一心に!』、
『増減を起さなければ!』、
お前は、
『師の所に於いて!』、
『尽く!』、
『妙法を得ることになる!』が、
譬えば、
『完牢な器』は、
『受ける!』所が、
『漏らないようなものである!』。
『薩陀波崙』が、
『空中の声を聞いて!』、
是より、
『東に行くことになる!』のは、
『経に広説された通りである!』。

大智度論巻第九十六
  完牢(かんろう):堅牢/堅固( firm, hard )。


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