巻第九十六(上)
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大智度論釋涅槃如化品第八十七(卷第九十六)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】涅槃は化と同じなのか、同じでないのか?

【經】須菩提白佛言。世尊。若諸法平等無所為作。云何菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。於平等中不動而行菩薩事以布施愛語利益同事。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し諸法が平等にして為作する所無くんば、云何が菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、平等中に於いて動かず、菩薩事を行ずるに、布施、愛語、利益、同事を以ってするや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『諸法が平等であり!』、
『為作する!』所( that what is done )が、
『無ければ!』、
何故、
『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じる!』時、
『平等中より!』、
『動くことなく!』、
『菩薩事( the work of Bodhisattva )を行じる!』時、
『布施、愛語、利益、同事の四摂法』を、
『用いるのですか?』。
  所為作(しょいさ)、所為(しょい)、所作(しょさ)、所化(しょけ):梵語 abhisaMskRta の訳、一処に置く( put together )の義、集められた/組み立てられた/作られた/完全に形作られた( put together, constructed, made, formed completely )の意。
  四摂法(ししょうぼう):菩薩が衆生を摂する為めに行ずべき、四種の法。『大智度論66下注:四摂法』参照。
  参考:『大般若経巻397』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若諸法等平等法性皆本性空。此本性空於有無法非能所作。云何菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不動勝義而作菩薩所應作事。以布施愛語利行同事饒益有情。佛告善現。如是如是。如汝所說。一切法等平等法性皆本性空。此本性空於有無法非能所作。善現。若諸有情自知諸法皆本性空。則諸如來應正等覺及諸菩薩摩訶薩眾。不現神通作希有事。謂於諸法本性空中雖無所動。而令有情遠離種種妄想顛倒。安住諸法空解脫生死苦。謂令有情遠離我想有情想命者想生者想養者想士夫想補特伽羅想意生想儒童想作者想使作者想起者想使起者想受者想使受者想知者想使知者想見者想使見者想。亦令遠離色想受想行識想。亦令遠離眼處想耳鼻舌身意處想。亦令遠離色處想聲香味觸法處想。亦令遠離眼界想耳鼻舌身意界想。亦令遠離色界想聲香味觸法界想。亦令遠離眼識界想耳鼻舌身意識界想。亦令遠離眼觸想耳鼻舌身意觸想。亦令遠離眼觸為緣所生諸受想耳鼻舌身意觸為緣所生諸受想。亦令遠離地界想水火風空識界想。亦令遠離因緣想等無間緣所緣緣增上緣想。亦令遠離從緣所生諸法想。亦令遠離無明想行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱想。亦令遠離世間出世間法想有漏無漏法有為無為法想。安住無為界解脫生死苦。無為界者即諸法空。依世俗說名無為界。具壽善現白佛言。世尊。由何空故說諸法空。佛言。善現。由想空故說諸法空』
佛告須菩提。如是如是如汝所說。是諸法平等無所作。若是眾生自知諸法平等。佛不用神力於諸法平等中不動而拔出眾生吾我想。以空度五道生死乃至知者見者相。度色相乃至識相眼相乃至意相地種相乃至識種相。遠離有為性相令得無為性相。無為性相即是空。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し。汝が所説の如く、是の諸法は平等にして、所作無し。若し是の衆生、自ら諸法の平等を知れば、仏は神力を用いず、諸法の平等中より動かず。而るに衆生を吾我想より抜き出し、空を以って五道の生死、乃至知者、見者の相を度せしめ、色相乃至識相、眼相乃至意相、地種相乃至識種相もて度せしめ、有為の性相を遠離せしめて、無為の性相を得しむるも、無為の性相も、即ち是れ空なり』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ、その通りだ!
お前が説いたように、――
是の、
『諸法は平等であって!』、
『作す!』所が、
『無いのである!』。
若し、
是の、
『衆生』が、
『自ら!』、
『諸法が平等である!』と、
『知ることができれば!』、
『仏』は、
『神力を用いることもなく!』、
『諸法の平等中より!』、
『動くこともない!』が、
而し、
『衆生は、知らない!』が故に、
『吾我想より!』、
『抜き出し!』、
『空を用いて!』、
『五道の生死、乃至知者相、見者相より!』、
『度し!』、
亦た、
『色相乃至識相、眼相乃至意相、地種相乃至識種相より!』、
『度し!』、
『有為の性相を遠離させて!』、
『無為の性相』を、
『得させるのである!』が、
是の、
『無為の性相』も、
『即ち、空なのである!』、と。
須菩提言。世尊。用何等空故一切法空。佛言。菩薩遠離一切法相。用是空故一切法空。須菩提。於汝意云何。若有化人作化人。是化頗有實事不空者不。須菩提言。不也世尊。是化人無有實事而不空。 須菩提の言わく、『世尊、何等の空を用うるが故にか、一切法は空なる』、と。仏の言わく、『菩薩は、一切の法相を遠離して、是の空を用うるが故に、一切法は空なり。須菩提、汝が意に於いて云何、若し有る化人が、化人を作すに、是の化には、頗る実事にして空ならざる者有りや不や』、と。須菩提の言わく、『不なり、世尊。是の化人には、実事にして、空ならざる有ること無し』、と。
『須菩提』が、こう言った、――
世尊!
何のような、
『空を用いる!』が故に、
『一切の法』が、
『空なのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』は、
『一切の法、相を遠離するという!』、
是の、
『空を用いる!』が故に、
『一切の法』は、
『空なのである!』。
須菩提!
お前の意には、何うなのか?――
若し、
『有る化人』が、
『化人』を、
『作れば!』、
是の、
『化人』には、
頗る( frequently )、
『空でない実事』が、
『有るのだろうか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
いいえ、世尊!
是の、
『化人』には、
『空でない実事』は、
『有りません!』、と。
  (け)、化人(けにん)、所化人(しょけにん)、変化(へんげ)、変化人(へんげにん):梵語 nirmita, nirmaaNa の訳、組み立てられた/造られた/形作られた( constructed, built, formed, created, made by )の義、想像されたもの/心象/架空の事物( an imagined one, an image in one's mind, a fictitious one )、変化/変形/変容/変態( transformation )の意。
是空及化人二事不合不散。以空空故空。不應分別是空是化。何以故。是二事等空中不可得。所謂是空是化。所以者何。須菩提。色即是化受想行識即是化。乃至一切種智即是化。 『是の空、及び化人の二事は合せず、散ぜず、空空を以っての故に空なれば、応に是れ空、是れ化なりと分別すべからず。何を以っての故に、是の二事は等しく、空中には、謂わゆる是れ空、是れ化なりと得べからず。所以は何んとなれば、須菩提、色は即ち是れ化、受想行識は即ち是れ化、乃至一切種智は即ち是れ化なればなり。
――
是の、
『空と化人の二事』は、
『合することもなく!』、
『散じることもなく!』、
『空も空であるが故に、空であり!』、
『是れは空である、是れは化である!』と、
『分別することはできない!』。
何故ならば、
是の、
『二事』は、
『等しく!』、
『空であり!』、
『空』中には、
謂わゆる、
『是れは空である、是れは化である!』と、
『得ることができない( it is not recognizable that )からであり!』、
何故ならば、
須菩提!
『色や、受想行識や、乃至一切種智』は、
『即ち、化だからである
all dharmas are only something that are made in one's mind )!』。
須菩提白佛言。世尊。若世間法是化。出世間法所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分三解脫門佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。并諸法果及賢聖人所謂須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛菩薩摩訶薩諸佛世尊。是法亦是化不。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し世間法は、是れ化なれば、出世間法の謂わゆる四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、三解脱門、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、并びに諸法の果、及び賢聖人の謂わゆる須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、菩薩摩訶薩、諸仏も、世尊、是の法も亦た是れ化なりや不や』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『世間法が、化ならば!』、
『出世間法』の、
謂わゆる、
『四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分や!』、
『三解脱門、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法や!』、
『諸の法果や、賢聖人』、
謂わゆる、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏や!』、
『菩薩摩訶薩や、諸仏』も、
世尊!
是の、
『法』も、
『化なのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻397』:『時具壽善現白佛言。世尊。世間諸蘊諸處諸界緣起緣生緣起支等可皆是化。諸出世間波羅蜜多。若三十七菩提分法。若三解脫門。若一切空。若諸聖諦。若四靜慮四無量四無色定。若八解脫八勝處九次第定十遍處。若陀羅尼門三摩地門。若菩薩十地。若五眼六神通。若佛十力四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法。若三十二大士相八十隨好。若無忘失法恒住捨性。若一切智道相智一切相智。若由彼法所得諸果。若依彼法施設種種補特伽羅。豈亦是化。佛告善現。一切世間出世間法無非是化。然於其中有是聲聞所化。有是獨覺所化。有是菩薩所化。有是如來所化。有是煩惱所化。有是善法所化。善現。由此因緣說一切法皆如變化等無差別。具壽善現復白佛言。世尊。所有斷果。謂預流果或一來果或不還果或阿羅漢果或獨覺地或如來地永斷煩惱習氣相續。豈亦是化。佛告善現。如是諸法若與生滅二相合者亦皆是化。世尊。何法非化。善現。若法不與生滅相合是法非化。世尊。何法不與生滅相合。善現。不虛誑法即是涅槃。此法不與生滅相合。是故非化。具壽善現復白佛言。如世尊說。平等法性一切皆空。無能動者無二可得。無有少法非自性空。云何涅槃可言非化。佛告善現。如是如是。如汝所說。無有少法非自性空。此自性空非聲聞作。非獨覺作。非菩薩作。非如來作。亦非餘作。有佛無佛其性常空此即涅槃。是故我說涅槃非化非實有法名為涅槃。可說無生無滅非化』
佛告須菩提一切法皆是化。於是法中有聲聞法變化有辟支佛法變化有菩薩摩訶薩法變化有諸佛法變化有煩惱法變化有業因緣法變化。以是因緣故。須菩提。一切法皆是化。 仏の須菩提に告げたまわく、『一切法は皆是れ化なり。是の法中に於ける、有らゆる声聞の法は変化なり、有らゆる辟支仏の法は変化なり、有らゆる菩薩摩訶薩の法は変化なり、有らゆる諸仏の法は変化なり。有らゆる煩悩の法は変化なり、有らゆる業因縁の法は変化なり。是の因縁を以っての故に、須菩提、一切の法は皆是れ化なり』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『一切の法は、皆化である!』という、
是の、
『法』中に於いては、
有らゆる、
『声聞という!』、
『法』は、
『変化であり!』、
有らゆる、
『辟支仏や、菩薩摩訶薩や、諸仏という!』、
『法』は、
『変化であり!』、
有らゆる、
『煩悩や、業因縁という!』、
『法』は、
『変化である!』。
是の、
『因縁』の故に、
須菩提!
『一切の法』は、
皆、
『化なのである!』、と。
須菩提白佛言。世尊。是諸煩惱斷。所謂須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛佛道。斷諸煩惱習皆是變化不。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、是の諸の煩悩断なる謂わゆる須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏、仏道は、諸の煩悩を断ずるに、皆是れ変化なりや不や』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
是の、
『諸の煩悩断である!』、
謂わゆる、
『須陀洹果乃至阿羅漢果、辟支仏道、仏道』は、
『諸煩悩の習を断じている!』のに、
皆、
『変化なのですか?』、と。
  煩悩断(ぼんのうだん):梵語 kleza- prahaaNa の訳、煩悩の遮断/棄絶( the relinquishing, abandoning or avoiding of the affliction )の義、煩悩を断じた人/道( that who/what had abandoned every affliction )の意。
佛告須菩提。若有法生滅相者皆是變化。須菩提言。世尊。何等法非變化。佛言。若法無生無滅是非變化。須菩提言。何等是不生不滅非變化。佛言。無誑相涅槃是法非變化。 仏の須菩提に告げたまわく、『若し有る法が生滅の相なれば、皆是れ変化なり』、と。須菩提の言わく、『世尊、何等の法か、変化に非ざる』、と。仏の言わく、『若し法に、生無く、滅無ければ、是れ変化に非ず』、と。須菩提の言わく、『何等か、是れ不生、不滅にして変化に非ざる』、と。仏の言わく、『無誑相の涅槃、是の法は変化に非ず』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
若し、
有る、
『法』が、
『生滅の相ならば!』、
是の、
『法』は、
『皆、変化である!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
世尊!
何のような、
『法』が、
『変化でないのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『法』に、
『生、滅が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『変化でない!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
何のようなものが、
『不生、不滅であり!』、
『変化でないのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『無誑相の涅槃ならば!』、
是の、
『法』は、
『変化でない!』、と。
世尊。如佛自說諸法平等。非聲聞作非辟支佛作非諸菩薩摩訶薩作非諸佛作。有佛無佛諸法性常空性空即是涅槃。云何言涅槃一法非如化。 世尊、仏の自ら、『諸法の平等は声聞の作に非ず、辟支仏の作に非ず、諸菩薩摩訶薩の作に非ず、諸仏の作に非ずして、有仏にも、無仏にも、諸法の性の常に空にして、性空は、即ち是れ涅槃なり』と、説きたもうが如くんば、云何が、『涅槃の一法は、化の如きに非ず』、と言うや。
――
世尊!
『仏』が自ら、こう説かれた通りならば――
『諸法の平等』は、
『声聞や、辟支仏の作でもなく!』、
『諸菩薩摩訶薩や、諸仏の作でもなく!』、
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『諸法の性』は、
『常に空であり!』、
即ち、
『性空』が、
『涅槃なのである!』、と。
何故、こう言われたのですか?――
『涅槃という!』、
『一法だけ!』が、
『化のようなのではない!』、と。
佛告須菩提。如是如是。諸法平等非聲聞所作。乃至性空即是涅槃。若新發意菩薩聞是一切法皆畢竟性空乃至涅槃亦皆如化。心則驚怖。為是新發意菩薩故分別生滅者如化。不生滅者不如化。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し。諸法の平等は、声聞の所作に非ず、乃至性空は、即ち是れ涅槃なり。若し新発意の菩薩が、『是の一切法は、皆畢竟じて性空にして、乃至涅槃も亦た皆化の如し』、と聞かば、心は則ち驚怖せん。是の新発意の菩薩の為めの故に、『生滅する者は化の如く、生滅せざる者は化の如きにあらず』、と分別せり』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ、その通りだ!
『諸法の平等は、声聞の所作でなく!』、
乃至、
『性空』とは、
『即ち、涅槃である!』が、
若し、
『新発意の菩薩』が、
『一切法は皆畢竟空であり、乃至涅槃も皆化のようである!』と、
『聞けば!』、
則ち、
『心』は、
『驚怖するだろう!』。
是の、
『新発意の菩薩の為め!』の故に、
『生滅する者は化のようであり、生滅しない者は化のようでない!』と、
『分別したのである!』。
須菩提白佛言。世尊。云何教新發意菩薩令知是性空。佛告須菩提。諸法本有今無耶 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が新発意の菩薩に教えて、是の性空を知らしむ』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『諸法は本有りて、今無しや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のように、
『新発意の菩薩に教えて!』、
是の、
『性空』を、
『知らせるのですか?』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『諸法』は、
『本、有りながら!』、
『今、無いのだろうか?』、と。



【論】涅槃は化と同じなのか、同じでないのか?

【論】問曰。是事佛先已答。須菩提今何以更問。所謂世尊若諸法平等無所作為。云何菩薩於諸法平等中不動而大利益眾生。 問うて曰く、是の事を、仏は先に答えたまえるに、須菩提は今、何を以ってか、更に問える。謂わゆる、『世尊、若し諸法の平等には、作為する所無きに、云何が、菩薩は諸法の平等中より動かずして、衆生を大利益するや』、と。
問い、
是の、
『事』を、
『仏』は、
先に、
『已に!』、
『答えていられる!』のに、
『須菩提』は、
今、何故、
『更に!』、
『問うたのですか?』。
謂わゆる、――
世尊!
『諸法の平等には、作為する所が無い
In the equality of dharmas, there's nothing to be done )!』のに、
何故、
『菩薩は、諸法の平等より動かない!』で、
『衆生』を、
『大利益するのですか?』、と。
答曰。以是事難解故雖先說而更問。又經將訖佛說深空。凡夫聖人所不能行所不能到。是故須菩提知一切法平等相定空。云何菩薩住是法中而能利益眾生。平等法無作相利益是有作相。 答えて曰く、是の事の解し難きを以っての故に、先に説くと雖も更に問えり。又経の将に訖らんとするに、仏の説きたまえる深空は、凡夫聖人の行ずる能わざる所、到る能わざる所なり。是の故に須菩提は一切法平等にして定空なるを知るも、[更に問わく]『云何が、菩薩は、是の法中に住して能く衆生を利益する。平等法には作相無く、利益は是れ作相有り』、と。
答え、
是の、
『事が難解である!』が故に、
『仏が、先に説かれている!』のに、
『須菩提は、更に問うたのである!』。
又、
『経が訖りそうなのに!』、
『仏の説かれた深空』は、
『凡夫にも、聖人にも!』、
『行じることもできず!』、
『到ることもできない!』ので、
是の故に、
『須菩提』は、
『一切法は平等相であり、定空である!』と、
『知りながら!』、
更に、こう問うたのである、――
何故、
『菩薩』は、
是の、
『平等法中に住しながら!』、
『衆生』を、
『利益することができるのですか?』。
何故ならば、
『平等法には、作相が無く!』、
『利益』には、
『作相が有るからです!』、と。
佛可須菩提意。還以須菩提問而答。可其平等答。其利益眾生所謂若眾生自知諸法平等畢竟空。佛無恩力。若病人自知將適則藥師無功。 仏は須菩提の意を可として、還って須菩提の問を以って答え、其の平等を可として、答たまわく、『其れは衆生を利益すればなり』、と。謂わゆる、『若し衆生が自ら諸法の平等の畢竟空なるを知れば、仏には恩力無し。病人が自ら将に適すべきを知れば、則ち薬師には功無きが若し』、と。
『仏』は、
『須菩提の意を可とされ!』、
還って、
『須菩提の問を用いて!』、
『答えられた!』。
其の、
『平等を可として( Buddha agreed that equality )!』、
『答えられた!』のは、
其れが、
『衆生』を、
『利益するからである!』。
謂わゆる、
若し、
『衆生』が、
自ら、
『諸法が平等であり、畢竟空である!』と、
『知っているならば!』、
『仏』には、
『恩力』が、
『無いことになる!』。
譬えば、
『病人』が、
自ら、
『将に適すること( what should be done )!』を、
『知っていれば!』、
『薬師』には、
『功( the merit )』が、
『無いようなものである!』。
須菩提復問。若諸法實相畢竟空無所能作。菩薩何以住是中而利益眾生。若菩薩用是平等利益眾生則壞實相。 須菩提の復た問わく、『若し諸法の実相は畢竟空にして、能く作す所無ければ、菩薩は、何を以ってか、是の中に住して、衆生を利益する。若し菩薩、是の平等を用いて、衆生を利益せば、則ち実相を壊らん』、と。
『須菩提』は、復た問うた、――
若し、
『諸法の実相』が、
『畢竟空であり!』、
『能く作す所が無ければ( there is nothing to be done )!』、
何のように、
『菩薩』は、
是の、
『空中に住して!』、
『衆生を利益するのですか?』。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『平等を用いて!』、
『衆生を利益したならば!』、
則ち、
『実相』を、
『壊ることになりますが?』、と。
佛答。菩薩不以諸法實相利益眾生。但眾生不知畢竟空故菩薩教詔令知。菩薩教化眾生是為對治悉檀。須菩提以第一義悉檀無利益為難。 仏の答えたまわく、『菩薩は諸法の実相を以って、衆生を利益するにあらず、但だ衆生は、畢竟空を知らざるが故に、菩薩は教詔して知らしむ』、と。菩薩の衆生を教化するは、是れを対治悉檀と為す。須菩提は、第一義悉檀には利益無きを以って、難と為せり。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩』は、
『諸法の実相を用いて!』、
『衆生』を、
『利益するのではない!』が、
但だ、
『衆生』は、
『畢竟空を知らない!』ので、
是の故に、
『菩薩は、教詔して!』、
『衆生に、知らせるのである!』、と。
『菩薩』が、
『衆生を教化する!』のは、
『対治悉檀である!』が、
『須菩提』は、
『第一義悉檀には、利益が無い!』と、
『難じているのである!』。
  教詔(きょうしょう):教え誨す( to teach, teaching )。
佛答。眾生顛倒不知。佛但破其顛倒不言是實。是故菩薩住是平等相中。遠離我相乃至知者見者相。是名眾生空。以是一切無吾我法教化眾生。 仏の答えたまわく、『衆生は顛倒して知らざれば、仏は但だ其の顛倒を破りたもうばかりにして、『是れ実なり』とは言わず。是の故に、菩薩は、是の平等相中に住して、我相、乃至知者、見者の相を遠離すれば、是れを衆生空と名づけ、是の一切無吾我の法を以って、衆生を教化す。
『仏』は、こう答えられた、――
『衆生』は、
『顛倒していて!』、
『実相を知らない!』が、
『仏』は、
『但だ、顛倒を破られただけで!』、
是の、
『実相の法が、実である!』と、
『言われたわけではない!』。
是の故に、
『菩薩』は、
是の、
『平等相中に住しながら!』、
『我相、乃至知者、見者の相』を、
『遠離するのであり!』、
是れを、
『衆生空』と、
『称し!』、
是の、
『一切には吾我が無いという!』、
『法を用いて!』、
『衆生を教化するのである!』。
眾生有二種。一者愛多二者見多。愛多者得是無我法則生厭心離欲。作是念若無我何用餘物。見多者雖知無我法於色等法中戲論若常若無常等。是故次說色相五眾十二入十八界。乃至遠離有為性相令得無為性相。無為性相即是空。是名法空。 衆生には二種有り、一には愛多く、二には見多し。愛多き者は、是の無我の法を得れば、則ち厭心を生じて、欲を離れて、是の念を作さく、『若し我無くんば、何んが餘の物を用いんや』、と。見多き物は、無我の法を知ると雖も、色等の法中に於いて、若しは常、若しは無常等と戯論すれば、是の故に次いで、色相、五衆、十二入、十八界を説いて、乃至有為の性相を遠離せしめ、無為の性相を得しむるも、無為の性相は、即ち是れ空なれば、是れを法空と名づく。
『衆生には、二種有り!』、
一には、
『愛』が、
『多く!』、
二には、
『見』が、
『多い!』。
『愛が多い!』者が、
是の、
『無我の法を得れば!』、
『厭心を生じ!』、
『欲を離れる!』ので、
こう念じることになる、――
若し、
『我が無ければ!』、
何のように、
『餘の物』を、
『用いるのか?』、と。
『見が多い!』者は、
若し、
『無我の法を知っていても!』、
『色等の法』中に、
『常であるのか、無常であるのか?』等の、
『戯論をする!』ので、
是の故に、
次に、
『色相、五衆、十二入、十八界』を、
『説き!』、
乃至、
『有為の性相を遠離させて!』、
『無為の性相』を、
『得させるのである!』が、
而し、
『無為の性相』も、
『空である!』が故に、
是れを、
『法空』と、
『称するのである!』。
問曰。須菩提何以作是問。用何等空故一切法空。 問うて曰く、須菩提は何を以ってか、是の問を作す『何等の空を用うるが故にか、一切法は空なる』、と。
問い、
『須菩提』は、何故、こう問うたのですか?――
何のような、
『空を用いる!』が故に、
『一切法』が、
『空なのですか?』、と。
答曰。空有種種。如火中無水水中無火亦是空。五眾中無我亦如是。或有眾生空或有法空。法空中或有人言。諸法雖空亦不盡空。如色空中有微塵根本在。是故須菩提問以何等空故一切法空。 答えて曰く、空には種種有りて、火中に水無く、水中に火無きが如きも、亦た是れ空なり。五衆中に我無きも、亦た是の如し。或は衆生空有り、或は法空有り。法空中には、或は有る人の謂わく、『諸法は、空なりと雖も、亦た空を尽さず。色の空中にも微塵有るが如く、根本在り』、と。是の故に、須菩提の問わく、『何等の空を以っての故にか、一切法は空なる』、と。
答え、
『空には、種種有り( there are many kinds of emptiness )!』、
譬えば、
『火中には水が無いとか!』、
『水』中には、
『火が無いというような!』、
是の、
『事』も、
『空であり!』、
『五衆中には、我が無いというような!』、
是の、
『事』も、
『空なのである!』。
或は、
『衆生という!』、
『空』が、
『有り!』、
或は、
『法という!』、
『空』が、
『有り!』、
或は、有る人は、こう言っている、――
『諸法が、空だとしても!』、
『空』を、
『尽したことにはならない!』。
例えば、
『色の空中に( in the emptiness of a form )!』も、
『微塵』が、
『有るように!』、
『諸法の空』中にも、
『根本』が、
『在る( being exist )』、と。
是の故に、
『須菩提』が、こう問うたのである、――
何のような、
『空を用いる!』が故に、
『一切法』が、
『空なのですか?』、と。
佛答。以無所得畢竟空故遠離一切相。是故此中說眾生空法空。是二空故一切法無不空。 仏の答えたまわく、『無所得の畢竟空なるを以っての故に、一切相を遠離すれば、是の故に、此の中には衆生空と法空とを説き、是の二空の故に、一切法には空ならざる無し』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『法には所得が無く、畢竟空である!』が故に、
『一切の法』は、
『相』を、
『遠離しており!』、
是の故に、
此の中に、
『衆生空と法空』を、
『説いて!』、
是の、
『二空を用いる!』が故に、
『一切法』には、
『空でないものが無いのである!』、と。
問曰。若爾者此中何以說離一切法相。 問うて曰く、若し爾らば、此の中に何を以ってか、『一切法の相を離れよ』、と説きたもう。
問い、
若し、爾うならば、
此の中には、何故――
『一切法の相を離れよ!』と、
『説かれたのですか?』。
答曰。一切法不可盡壞。但離其邪憶想。一切法自離。如神通人壞色相故則石壁無礙。如佛說汝等當於五眾中修正憶念斷貪欲得正解脫。是故說離相。 答えて曰く、一切法は尽くを壊るべからざるも、但だ其の邪憶想を離るれば、一切法は自ら離るればなり。神通の人の色相を壊るが故に、則ち石壁の無礙なるが如し。仏の、『汝等、当に五衆中に於いて正憶念を修め、貪欲を断じて、正解脱を得べし』、と説きたまえるが如く、是の故に、『相を離れよ』、と説きたまえり。
答え、
『一切の法』を、
『尽く!』、
『壊ることはできない!』が、
但だ、
『一切法』の、
『邪憶想』を、
『離れるだけで!』、
『一切法』は、
『自ら!』、
『離れるのであり!』、
譬えば、
『神通の人が、色相を壊る!』が故に、
『石の壁』が、
『無礙となるようなものである!』。
『仏』は、こう説かれたのであるが、――
お前達は、
『五衆中に,正憶念を修めて
should correctly memorize the five aggregates )!』、
『貪欲を断じ!』、
『正解脱を得ねばならない!』、と。
是の故に、
『相を離れよ!』と、
『説かれたのである!』。
  壊相(えそう):梵語 vibhava- lakSaNa の訳、相を壊る( to destroy all marks )の義、実相を明白にする( to manifest the true mark )の意。
  正憶念(しょうおくねん):梵語 yonizo- manaskaara の訳、完璧に熟考するよう専心すること( to devote one's attention to conceive thoroughly )の義、正しく記憶すること( to memorize correctly )の意。
須菩提聞是已心驚。云何一切法若大若小都無本實。凡夫人虛妄可無實事。聖人應有少許實。須菩提雖是阿羅漢深貴佛法。亦為新發意菩薩故問。 須菩提は、是れを聞き已りて心に驚くらく、『云何が、一切法の若しは大、若しは小に、都(すべ)て本実無き。凡夫人は虚妄なれば、実事無かるべし。聖人には応に少許りの実有るべし』、と。須菩提は、是れ阿羅漢なりと雖も、仏法を深く貴び、亦た新発意の菩薩の為めの故に問えり。
『須菩提』は、
是れを聞いて、心に驚いた、――
何故、
『一切法』には、
『大だろうと、小だろうと!』、
都( all )、
『本実( the fundamental reality )』が、
『無いのだろうか?』。
『凡夫人は、虚妄である!』が故に、
『実事』が、
『無いとしても!』、
『聖人』には、
『少しぐらいの実』が、
『有るはずだ!』、と。
『須菩提』は、
『阿羅漢でありながら!』、
『仏法』を、
『深く貴んでおり!』、
亦た、
『新発意の菩薩の為め!』の故に、
『問うたのである!』。
佛知須菩提意欲明了是事故說譬喻。反問須菩提。於汝意云何。如化人復作化。是化有本實不空不。答言不也。是化無有實事而不空者。空及化人二事不合不散皆空故用空空故空。 仏の須菩提の意を知りて、是の事を明了ならしめんと欲するが故に譬喻を説き、反って須菩提に問いたまわく、『汝が意に於いて云何、化人の復た化を作すが如き、是の化には本実の空ならざる有りや不や』、と。答えて言わく、『不なり。是の化には、実事にして空ならざる者有ること無し』、と。空、及び化人は二事合せず、散ぜずして、都空なるが故に、空空を用うるが故に空なり。
『仏』は、
『須菩提の意を知り!』、
是の、
『意を明了にしようされた!』が故に、
『譬喻を説いて!』、
『須菩提』に、こう反問された、――
お前の意には、何うなのか?――
若し、
『化人』が、
復た、
『化人』を、
『作ったとすれば!』、
是の、
『化人』には、
『本実が有って、空ではないのだろうか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
そうではありません!
是の、
『化』には、
『実事や、空でない!』者は、
『無いからです!』、と。
――
『空と化人との二事』は、
『合することも散じることもない!』が故に、
『皆、空であり!』、
『空は空であるという!』、
『空空を用いる!』が故に、
『空なのである!』。
問曰。何以名為空空故空。 問うて曰く、何を以ってか名づけて空空と為し、故に空なる。
問い、
何を、
『空空と称する!』が故に、
『空なのですか?』。
答曰。為破十八事實故有十八空。破眾生心中變化空法故用空空。世間人皆知幻化法不久住無所能作故名空。是故言空空故空。不應分別是空是化。 答えて曰く、十八事の実を破らんが為めの故に十八空有り。衆生心中の変化の空法を破らんが故に空空を用う。世間の人は、皆幻化の法の久住せず、能く作す所無きを知るが故に空と名づくれば、是の故に言わく、『空は空なるが故に空なれば、応に是れ空、是れ化なりと分別すべからず』、と。
答え、
『十八事』の、
『実を破る為め!』の故に、
『十八空』が、
『有り!』、
『衆生心』中の、
『変化の空法を破る為め( to break the imaginary emptiness )!』の故に
『空空』を、
『用いる!』。
『世間の人』は、
皆、
『幻化の法』は、
『久住ではなく、所作も無い!』と、
『知っている!』ので、
是の故に、
『空である!』と、
『称する!』ので、
是の故に、こう言われたのである、――
『空は空であるが故に、空であり!』、
是れは、
『空であるとか、化である!』と、
『分別してはならない!』、と。
凡夫人知變化是空不實。謂餘法為實。是故以化為喻。當知餘法與化無異。如聖人所解不得以化為喻。以無所分別故。一切法名為五眾。佛言。色受想行識無不是化以空故。 凡夫人は、変化の是れ空、不実なるを知りて、餘法を実と為すと謂う。是の故に、化を以って喻と為せば、当に、餘法は化と異無し、と知るべし。聖人の解する所の如きは、化を以って喻と為すを得ず。分別する所無きを以っての故なり。一切法とは名づけて五衆と為し、仏の言わく、『色、受想行識の、是れ化にあらざる無きは、空を以っての故なり』、と。
『凡夫人』は、
『変化』は、
『空であり、不実である!』と、
『知る!』が、
『餘法』は、
『実である!』と、
『謂う!』ので、
是の故に、
『化を用いて!』、
『喻を為されたのである!』から、
当然、
『餘法も、化と異が無い!』と、
『知らねばならない!』。
『聖人の解する!』所では、
『化を用いて!』、
『喻』と、
『為すことはできない!』。
何故ならば、
『分別する!』所が、
『無いからである!』。
『一切法とは、五衆である!』が故に、
『仏』は、こう言われた、――
『色、受想行識』には、
『化でない!』者が、
『無い!』が、
何故ならば、
『一切法』は、
『空だからである!』、と。
須菩提白佛言。世尊。凡夫法虛妄應如化。出世間法亦如變化耶。所謂四念處乃至十八不共法若四念處法等。從因緣邊生故如化。是法果所謂涅槃。亦復如化耶。若能起是行者。所謂須陀洹乃至佛。亦復如化耶。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、凡夫法は虚妄なれば、応に化のごとかるべし。出世間法も亦た変化の如しや。謂わゆる四念処乃至十八不共法なり。若し四念処法等が因縁の辺より生ずるが故に化の如くんば、是の法の果、謂わゆる涅槃も亦復た化の如しや。若しは能く是の行を起す者、謂わゆる須陀洹、乃至仏も亦復た化の如しや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『凡夫の法( the nature of unenlightened one )』は、
『虚妄であり!』、
『化のようでなくてはなりません!』が、
『出世間法』、
謂わゆる、
『四念処乃至十八不共法』も、
『変化のようなものですか?』。
若し、
『四念処等の法』が、
『因縁の辺より、生じる!』が故に、
『化のようだとすれば!』、
是の、
『法の果である!』、
謂わゆる、
『涅槃』も、
『化のようなのでしょうか?』。
若しは、
是の、
『四念処等の行を起すことのできる!』者、
謂わゆる、
『須陀洹、乃至仏』も、
『復た、化のようなのでしょうか?』、と。
  凡夫法(ぼんぶほう):梵語 anaarya-dharma の訳、凡夫と称する法( a dharma what is called an unenlightened one )の義、凡夫の本質/凡夫らしさ( the nature or identity of unenlightened one )の義。
佛答。若有為若無為及諸賢聖皆是化。畢竟空故是義從初品已來處處廣說。是故言一切法空皆如化。 仏の答えたまわく、『若しは有為、若しは無為、及び諸賢聖も皆是れ化なるは、畢竟空なるが故なり』、と。是の義は、初品より已来、処処に広説したまえり。是の故に言わく、『一切法は空にして、皆化の如し』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『有為だろうが、無為だろうが、諸の賢聖だろうが!』、
『皆、化である!』のは、
『畢竟空だからである!』、と。
是の、
『義』は、
『初品より、処処に広説されており!』、
是の故に、こう言われたのである、――
『一切法は、空であり!』、
『皆、化のようである!』、と。
問曰。若一切法皆空如化。何以故有種種諸法別異。 問うて曰く、若し一切法は、皆空にして化の如くんば、何を以っての故にか、種種の諸法の別異有る。
問い、
若し、
『一切法』が、
『皆、空であり!』、
『化のようであれば!』、
何故、
『種種の諸法の差異』が、
『有るのですか?』。
  別異(べつい):梵語 anyataa, anyataatva の訳、相違/差異/差別( difference )の義。
  種種(しゅじゅ):梵語 anyatara-anyatara の訳、何なる種類でも( of whatever kind )の義。
答曰。如佛所化及餘人所化。雖不實而有種種形像別異。夢中所見種種亦如是。人見夢中好惡事。有生喜者有生怖者。如鏡中像雖無實事而隨本形像有好醜。諸法亦如是。雖空而各各有因緣。 答えて曰く、仏の所化、及び餘人の所化の如きは、不実なりと雖も、種種の形像の別異有り。夢中の所見の種種なること亦た是の如く、人の夢中に見る、好悪の事は、有るいは喜を生ずる者にして、有るいは怖を生ずる者なり。鏡中の像の如きは、実事無しと雖も、本の形像に随いて、好醜有り。諸法も亦た是の如く、空なりと雖も、各各に因縁有り。
答え、
『仏の所化や、餘人の所化』は、
『不実でありながら!』、
『種種の形像の差別』が、
『有るように!』、
『夢中の所見も、是のように!』、
『種種であり( in which there are many kinds )!』、
『人が、夢中に見る!』所の、
『好、悪の事』は、
『喜を生じる者も有れば!』、
『怖を生じる者も有る!』。
譬えば、
『鏡中の像』には、
『実事が無いのに!』、
『本の形像に随って!』、
『好、醜』が、
『有るようなものである!』。
『諸法』も、
是のように、
『空でありながら!』、
『各各に!』、
『因縁』が、
『有るのである!』。
如佛此中說。是化法中有聲聞變化有辟支佛變化有菩薩變化有佛變化有煩惱變化有業變化。是故一切法皆是變化。 仏の此の中に説きたまえるが如く、是の化法中には声聞の変化有り、辟支仏の変化有り、菩薩の変化有り、仏の変化有り、煩悩の変化有り、業の変化有り、是の故に一切法は皆是れ変化なり。
『仏』が、此の中に説かれたように、――
是の、
『化法』中には、
『声聞の変化や、辟支仏の変化や、菩薩、仏、煩悩、業の変化』が、
『有り!』、
是の故に、
『一切法』は、
『皆、変化なのである!』。
聲聞變化者。三十七品四聖諦乃至三解脫門。何以故聲聞人住持戒中。禪定攝心求涅槃。觀內外身不淨。是名身念處。如是等法為涅槃故。勤精進生起是法。本無而今有已。有還無。是為聲聞變化。辟支佛變化者。所謂觀十二因緣等諸法。所以者何。辟支佛智慧深於聲聞人故。 声聞の変化とは、三十七品、四聖諦、乃至三解脱門なり。何を以っての故に、声聞人は持戒中に住し、禅定もて心を摂(おさ)めて、涅槃を求めて内外身の不浄を観れば、是れを身念処と名づけ、是れ等の如き法を涅槃の為めの故に、勤めて精進して生起するも、是の法は本無くして、今有り、已に有りて還(ま)た無し、是れを声聞の変化と為す。辟支仏の変化とは、謂わゆる十二因縁等の諸法を観ず。所以は何んとなれば、辟支仏の智慧は声聞人よりも深きが故なり。
『声聞の変化( the image called a disciple of the Hinayana )』とは、
『三十七品や!』、
『四聖諦、乃至三解脱門である!』。
何故ならば、
『声聞人』は、
『持戒中に住して!』、
『禅定に入って!』、
『心を摂め( to control his mind )!』、
『涅槃を求めて!』、
『内、外身の不浄』を、
『観るからであり!』、
是れを、
『身念処』と、
『称し!』、
是れ等のような、
『法を、涅槃を求める為め!』の故に、
『生起するよう!』、
『勤めて精進する!』が、
是の、
『法』は、
『本は無いのに、今有り!』、
『已に有れば、還た無くなる!』、
是れが、
『声聞の変化である!』。
『辟支仏の変化( the image called an ever single one buddha )』とは、
謂わゆる、
『十二因縁等の諸法』を、
『観ることである!』。
何故ならば、
『辟支仏の智慧』は、
『声聞より深いからである!』。
  声聞(しょうもん):梵語 zraavaka の訳、声を聞く( hearing, listening to )の義、仏の弟子/仏の小乗の弟子( a disciple of the Buddha, the disciples of the Hinayana school )の意。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語 pratyeka-buddha の訳、独居の仏( an ever single one buddha )、隠遁して彼自身の為めにのみ解脱を獲得した仏( a Buddha who lives in seclusion and obtains emancipation for himself only )の義、擬似的な仏( a pseudo-buddha )の意。
菩薩變化者。所謂六波羅蜜及二種神通報得及修得。佛法變化者。三十二相八十隨形好。十力一切種智等無量佛法。煩惱變化者。煩惱起種種業。善不善無記業畢定業不畢定業善不善無動業等無量諸業。 菩薩の変化とは、謂わゆる六波羅蜜及び二種の神通の報得及び取得なり。仏法の変化とは、三十二相、八十随形好、十力、一切種智等の無量の仏法なり。煩悩の変化とは、煩悩の起す種種の業、善、不善、無記の業、畢定の業、不畢定の業、善不善無動の業等の無量の諸業なり。
『菩薩の変化( the image of bodhisattva )』とは、
謂わゆる、
『六波羅蜜や!』、
『報得、取得の二種の神通である!』。
『仏法の変化( the image of a dharma called 'Buddha' )』とは、
『三十二相、八十随形好、十力、一切種智』等の、
『無量の諸法である!』。
『煩悩の変化』とは、
『煩悩の起す種種の業や、善、不善、無記の業や、畢定、不畢定、善、不善、無動の業』等の、
『無量の諸業である!』。
  無動業(むどうごう)、不動業(ふどうごう):梵語 acalakarma の訳、動かさない業( an unmovable karma )の義、人を善悪の報処に趣かせない業( a karma that not impel him to good or bad realm )の意。
問曰諸煩惱是惡法。云何能生善業無動業。 問うて曰く、諸の煩悩は、是れ悪法なるに、云何が能く善業、無動業を生ずる。
問い、
『諸の煩悩は、悪法である!』のに、
何故、
『善業や、無動業』を、
『生じることができるのですか?』。
答曰有二種因。一者近因二者遠因。人有我心為後身富樂故修布施是近因。為離欲界衰惱不淨身故修禪定是為遠因。 答えて曰く、二種の因有り、一には近因、二には遠因なり。人に我心有りて、後身の富楽の為めの故に布施を修すれば、是れ近因なり。欲界の衰悩、不浄の身を離れんが為めの故に禅定を修すれば、是れを遠因と為す。
答え、
『因には二種有って!』、
一には、
『近い!』、
『因であり!』、
二には、
『遠い!』、
『因である!』。
『人に、我心が有って!』、
『後身の富楽の為め!』の故に、
『布施を修める!』のが、
『近い因であり!』、
『欲界の衰悩、不浄の身を離れる為め!』の故に、
『禅定を修める!』のが、
『遠い因である!』。
  衰悩(すいのう):梵語 aadiinava の訳、苦悩/苦痛/憂( distress, pain, uneasiness )の義。
  近因(こんいん):梵語 samaasaNa- kaaraNatva, -taa の訳、近い因果関係( a near causation or causality )の義。
  遠因(おんいん):梵語 duura- kaaraNatva, -taa の訳、遠い因果関係( a far causation or causality )の義。
復有人言一切凡夫皆以我心和合故起業。有人言無有離我心起第六識住我心故起第六識。我心即是諸煩惱根本。 復た有る人の言わく、『一切の凡夫は、皆我心と和合するを以っての故に、業を起す』、と。有る人の言わく、『我心を離れて、第六識を起す有ること無し。我心に住するが故に第六識を起す。我心とは即ち是れ諸煩悩の根本なり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『一切の凡夫』は、
皆、
『我心が和合する!』が故に、
『業を起すのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『我心を離れて!』、
『第六識(意識)を起す!』者は、
『無い!』。
『我心に住する!』が故に、
『第六識』を、
『起すのであり!』、
『我心』とは、
『諸の煩悩』の、
『根本なのである!』。
  第六識(だいろくしき):梵語 SaSThii- vijJaana の訳、第六の知性( the sixth intelligence )の義、意識/思考、理解、判断する意識( consciousness; the mind- function of thinking, understanding and discriminating )の意。
問曰煩惱是垢心。善心是淨心。垢淨不得和合。何以言住我心中能起善業。 問うて曰く、煩悩は是れ垢心、善心は是れ浄心なれば、垢浄和合するを得ざるに、何を以ってか、『我心中に住して、能く善業を起す』、と言う。
問い、
『煩悩は垢心であり、善心は浄心である!』が、
『垢、浄は和合することがない!』のに、
何故、
『我心中に住して、善業を起すことができる!』と、
『言うのですか?』。
答曰不爾一切心皆與慧俱生。無明心中亦應有慧。慧與無明相違法。而一心中起淨。垢亦如是。凡夫未得聖道云何能得離我心而行善。瞋等煩惱中則不得行善。我心無記柔軟故。是故煩惱心中生善業無動業無咎 答えて曰く、爾らず。一切の心は、皆慧と倶に生ずれば、無明の心中にも亦た応に慧有りて、慧は無明と相違する法なるも、一心中に起るべし。浄、垢も亦た是の如く、凡夫は未だ聖道を得ざれば、云何が能く我心を離れて、善を行ぜんや。瞋等の煩悩中には則ち善を行ずるを得ざるも、我心は無記にして柔軟なるが故に、是の故に煩悩心中に善業、無動業を生ずるも、咎無し。
答え、
爾うではない!
『一切の心は、皆慧と倶に生じるのであり!』、
『無明心』中にも、
『慧が有り!』、
『慧』は、
『無明と相違する!』、
『法でありながら!』、
『一心』中に、
『慧と無明』とは、
『倶に起るのである!』。
亦た、
『浄、垢も是の通りであり!』、
『凡夫は、未だ聖道を得ていない!』のに、
何故、
『我心を離れて!』、
『善を行じることができるのか?』。
『瞋等の煩悩中に、善を行じられなくても!』、
『我心』は、
『無記であり!』、
『柔軟である!』が故に、
是の故に、
『煩悩心』中に、
『善業や、無動業を生じたとしても!』、
『咎は無いのである!』。
業變化者生一切果報法所謂六道。惡業果報是三惡道。善業果報是三善道。惡業有上中下。上者地獄中者畜生下者餓鬼。善業亦有上中下。上者天中者人下者阿修羅等。上善業有種種輕重等分別。上惡業亦有輕重差別。次第輕重如地獄中說。餘道亦如分別業品中說。 業の変化とは、一切の果報を生ずる法なり。謂わゆる六道とは、悪業の果報は、是れ三悪道、善業の果報は是れ三善道なり。悪業に上中下有りて、上の者は地獄、中の者は畜生、下の者は餓鬼なり。善業にも亦た上中下有りて、上の者は天、中の者は人、下の者は阿修羅等なり。上善業に種種の軽重等の分別有り。上悪業にも亦た軽重の差別有り。次第する軽重は地獄中に説けるが如く、餘道にも亦た分別業品中に説けるが如し。
『業の変化( the image of karma )』とは、
『一切の果報を生じる!』、
『法である!』。
謂わゆる、
『六道』とは、
『悪業』の、
『果報』は、
『三悪道であり!』、
『善業』の、
『果報』は、
『三善道である!』。
『悪業には、上中下が有り!』、
『上は、地獄であり!』、
『中は、畜生であり!』、
『下は、餓鬼である!』。
『善業にも、上中下が有り!』、
『上は、天であり!』、
『中は、人であり!』、
『下は、阿修羅等である!』。
『上善業』には、
『種種の軽重等の分別』が、
『有り!』、
『上悪業』にも、
『軽重の差別が有り!』、
『軽重の次第』は、
『地獄中に説いた通りである!』。
亦た、
『餘道』は、
『分別業品中に説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻第30』:『眾生者。於五眾十八界十二入六種十二因緣等眾多法中。假名眾生。是天是人是牛是馬。眾生有二種。動者靜者。動者生身口業。靜者不能。有色眾生無色眾生。無足二足四足多足眾生。世間出世間眾生。大者小者賢聖凡夫。邪定正定不定眾生苦樂不苦不樂眾生。上中下眾生。學無學非學非無學眾生。有想無想非有想非無想眾生。欲界色界無色界眾生。欲界眾生者有三種。以善根有上中下故。上者六欲天。中者人中富貴。下者人中卑賤。以面類不同故。四天下別異。不善亦有三品。上者地獄。中者畜生。下者餓鬼。復次欲界眾生有十種。三惡道人及六天。地獄有三種。熱地獄寒地獄黑闇地獄。畜生有三種。空行陸行水行晝行夜行晝夜行。如是等差別。鬼有二種。弊鬼餓鬼。弊鬼如天受樂。但與餓鬼同住即為其主。餓鬼腹如山谷咽如針身。惟有三事黑皮筋骨。無數百歲不聞飲食之名何況得見。復有鬼火從口出飛蛾投火以為飲食。有食糞涕唾膿血洗器遺餘。或得祭祀或食產生不淨。如是等種種餓鬼。六欲天者。四王天等。於六天中間別復有天。所謂持瓔珞天戲忘天心恚天鳥足天樂見天。此諸天等皆六天所攝。有人言欲界眾生。應有十一種。先說五道今益阿修羅道。』
問曰若從業有何以言變化。 問うて曰く、若し業によって有らば、何を以ってか、変化と言う。
問い、
若し、
『変化』が、
『業によって!』、
『有れば!』、
何故、
『変化』と、
『言うのですか?』。
答曰凡夫人見諸法不如化。聖人知畢竟空相故以天眼觀眾生皆無有終始中間。如化主遠處作變。化業亦如是。在過去世中作。今身變化 答えて曰く、凡夫人は諸法は、諸法を化の如からずと見るも、聖人は畢竟空の相なりと知るが故に、天眼を以って衆生には、皆終始、中間有ること無しと観る。化主の遠処より変化を作すが如く、業も亦た是の如く過去世中に在りて、今身の変化を作す。
答えて曰く、
『凡夫人』は、
『諸法』は、
『化のようではない!』と、
『見る!』が、
『聖人』は、
『諸法』は、
『畢竟空の相である!』と、
『知る!』が故に、
『天眼を用いて!』、
『衆生には皆始終、中間が無い!』と、
『知る!』。
譬えば、
『化主』が、
『遠処より!』、
『変化を作すように!』、
『業』も、
是のように、
『過去世中に在りながら!』、
『今世の身という!』、
『変化を作すのである!』。
如變化事。能種種令人生憂喜怖畏。智者觀之皆無有實而人橫生憂喜是人可笑。業亦如是。是故說業變化。 変化の事の能く種種に人をして、憂喜怖畏を生ぜしむるに、智者は之には皆実有ること無しと観るも、人は横ざまに憂喜生ずれば、是の人は笑うべきなるが如し。業も亦た是の如ければ、是の故に業の変化を説く。
譬えば、
『変化の事( the work of an imagenary man or thing )』が、
『種種に( by some ways )!』、
『人』に、
『憂喜や怖畏を生じさせる!』と、
『智者』は、
『之を観て!』、
『皆、実が無い!』と、
『知る!』が、
『人』は、
『横ざまに( without reason )!』、
『憂喜』を、
『生じる!』ので、
是の、
『人』は、
『笑われることになる!』が、
『業も、是の通りなので!』、
是の故に、
『業の変化』を、
『説くのである!』。
問曰是諸變化皆業所作。何以不但說業變化。 問うて曰く、是の諸変化は、皆業の所作なるに、何を以ってか、但だ、業の変化を説かざる。
問い、
是の、
『諸の変化』は、
皆、
『業の所作である!』が、
何故、
但だ、
『業の変化のみ!』を、
『説かないのか?』。
答曰業有二種淨業垢業。淨業者聲聞變化乃至佛變化。垢業是煩惱變化。 答えて曰く、業には二種有りて浄業、垢業なり。浄業とは声聞の変化、乃至仏の変化なり。垢業は是れ煩悩の変化なり。
答え、
『業には、二種有り!』、
『浄業』と、
『垢業である!』。
『浄業』は、
『声聞、乃至仏』の、
『変化であり( somthing imagenary made by )!』、
『垢業』は、
『煩悩』の、
『変化である!』。
復次有二種業。凡夫業聖人業。凡夫業是煩惱變化。聖人業須陀洹乃至佛。是故雖皆是業變化而廣分別無咎。是故須菩提當知一切法空皆如化。 復た次ぎに、二種の業有り、凡夫の業、聖人の業なり。凡夫の業は、是れ煩悩の変化なり。聖人の業は、須陀洹、乃至仏なり。是の故に皆、是れ業変化なりと雖も、広く分別して咎無ければ、是の故に須菩提は、応に一切法の空なること、皆化の如しと知るべし。
復た次ぎに、
『二種の業が有って!』、
『凡夫の業』と、
『聖人の業である!』。
『凡夫の業』は、
『煩悩』の、
『変化である!』が、
『聖人の業』は、
『須陀洹、乃至仏』の、
『変化である!』。
是の故に、
『変化は、皆業の変化でありながら!』、
『広く分別しても!』、
『咎は無いのであり!』、
是の故に、
『須菩提』は、
『一切法は空であり、皆化のようである!』と、
『知っているはずである!』。
須菩提復問。世尊是諸聖人煩惱斷。所謂須陀洹果乃至阿羅漢果辟支佛道斷一切煩惱習。是諸斷皆如化不。須菩提意有為法虛誑故如變化。無為法真實無作故不應是化。是故問。 須菩提の復た問わく、『世尊、是の諸聖人は煩悩断じて、謂わゆる須陀洹果乃至阿羅漢果、辟支仏道は、一切の煩悩の習を断ずるも、是の諸断は、皆化の如しや不や』、と。須菩提の意は、『有為法は虚誑なるが故に変化の如きも、無為法は真実、無作なるが故に、応に是れ化なるべからず』、と。是の故に問えり。
『須菩提』は、復た問うた、――
世尊!
是の、
『諸聖人の煩悩は断じており!』、
謂わゆる、
『須陀洹果乃至阿羅漢果、辟支仏道の一切の煩悩の習』は、
『断じている!』のに、
是の、
『諸の断( their cutting off )』も、
皆、
『化のようなのですか?』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
『有為法』は、
『虚誑である!』が故に、
『変化のようです( it seems like an image )!』が、
『無為法』は、
『真実、無作である( being real and not made ever )!』が故に、
『化であるはずがありません!』と、
是の故に、
『問うたのである!』。
    諸断(しょだん)、(だん):梵語 chedaas, cheda の訳、切り落とすこと( cutting off )の義。
佛答。一切法若生若滅皆如化。何以故本無今有今有後無。誑惑人心故。佛意一切從因緣生法皆無自性。無自性。故畢竟空。畢竟空故皆如化。 仏の答えたまわく、『一切法は若しは生、若しは滅なるも、皆化の如し。何を以っての故に、本無くして今有り、今有りて後に無きは、人心を誑惑するが故なればなり』、と。仏の意は、『一切は因縁より生ずる法なれば、皆自性無く、自性無きが故に畢竟空なり、畢竟空なるが故に皆化の如し』、となり。
『仏』は、こう答えられた、――
『一切法』は、
『生であろうが、滅であろうが!』、
『皆、化のようである!』。
何故ならば、
『本無くて今有り、今有って後に無い!』のは、
『人心を誑惑するからである!』、と。
『仏の意』は、こうである、――
『一切法』は、
『因縁生の法である!』が故に、
『皆、自性が無く!』、
『自性が無いが故に、畢竟空であり!』、
『畢竟空である!』が故に、
『皆、化のようである!』、と。
須菩提求諸法實相意猶未息故問。佛何等法不如化。須菩提意謂有一決定實法不如化。可依是法而精進求。 須菩提は諸法の実相を求むれば、意は猶お未だ息まざるが故に仏に問わく、『何等の法か、化の如からざる』、と。須菩提の意は謂わゆる、『一決定の実法にして、化の如からざる有りて、是の法に依りて、精進して求むべし』、と。
『須菩提』は、
『諸法の実相を求めて!』、
猶お未だ( yet )、
『意』が、
『息まない!』が故に、
『仏』に、こう問うた、――
何のような、
『法』が、
『化のようでないのですか?』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
謂わゆる、
『実法であり、化のようでない!』、
『一決定の法』が、
『有れば!』、
是の、
『法に依って( depending on that dharma )!』、
『諸法の実相』を、
『精進して求めよう!』、と。
佛答。有若法無生無滅即是非化。何者是所謂無誑相涅槃。是法無生故無滅。無滅故不能令人生憂。佛分別一切有為法畢竟空皆如化唯有涅槃一法非如化。 仏の答えたまわく、『有るいは、若し法が、無生、無滅ならば、即ち是れ化に非ざらん。何者か是れなる、謂わゆる無誑相の涅槃なり。是の法は無生なるが故に無滅、無滅なるが故に人をして、憂を生ぜしむる能わず』、と。仏の分別したまわく、『一切の有為法は、畢竟空にして皆化の如きも、唯だ涅槃の一法有りて、化の如きに非ず』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
有るいは( perhapes )、
若し、
『法が、無生無滅ならば!』、
是の、
『法』が、
『即ち、化でないということだろう!』。
何のような、
『法なのか?』、
謂わゆる、
『無誑相』の、
『涅槃である!』。
是の、
『法』は、
『無生である!』が故に、
『無滅であり!』、
『無滅である!』が故に、
『人に!』、
『憂いを生じさせることがない!』、と。
『仏』は、こう分別されたのである、――
『一切の有為法』は、
『畢竟空であって!』、
『皆、化のようであり!』、
『化のようでない!』のは、
唯だ、
『涅槃という!』、
『一法が有るだけだ!』、と。
爾時須菩提白佛。如佛說平等法非佛所作。非聲聞辟支佛所作。有佛無佛諸法常住性空相。性空相即是涅槃。須菩提意謂。深入般若波羅蜜中涅槃亦空。上品中處處說。今佛何以說唯一涅槃不如化。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『仏の説きたまえるが如く、平等の法は仏の所作に非ず、声聞、辟支仏の所作に非ず、有仏にも無仏にも、諸法は常住にして、性空の相なり。性空の相なれば、即ち是れ涅槃なり』、と。須菩提の意とは謂わゆる、『般若波羅蜜中に深入すれば、涅槃も亦た空なりと、上の品中に処処に説きたまえるに、今仏は何を以ってか、唯だ一涅槃のみが、化の如きにあらず、と説きたまえる』、となり。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
『仏の説かれたように!』、
『平等の法( the principle of the equality )』は、
『仏の所作でもなく!』、
『声聞、辟支仏の所作でもなく!』、
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『諸法』は、
『常住であり!』、
『性空の相であり!』、
『性空の相ならば!』、
『諸法』とは、
『即ち、涅槃なのです!』、と。
『須菩提の意』は、こう謂うのである、――
『般若波羅蜜中に深入すれば!』、
『涅槃も空である!』と、
『上の品中の処処に説かれた!』のに、
『仏』は今、何故、――
『唯だ一涅槃のみが、化のようでない!』と、
『説かれたのですか?』、と。
  平等法(びょうどうほう):梵語 sama-dharma の訳、同質の/類似の( of equal nature, resembling )、平等性(梵 samataa : equality, sameness )、平等の法則( the principle of the equality )の義。
是故引佛語為難。諸法實相性空法常住。諸佛但為人演說。性空者即是涅槃。今何以於生滅法中別說無誑相涅槃不如化。 是の故に仏の語を引いて、難と為すらく、『諸法の実相は、性空にして、法は常住なるも、諸仏は、但だ人の為めに、性空とは、即ち是れ涅槃なり、と演説したもう。今は何を以ってか、生滅の法中に於いて、無誑相の涅槃を別して、化の如きにあらず、と説きたまえる』、と。
是の故に、
『須菩提』は、
『仏の語を引いて!』、こう難じたのである、――
『諸法の実相』は、
『性空であり!』、
『諸法』は、
『常住であり!』、
『諸仏』は、
『但だ、人の為めたけに!』、
『性空ならば、即ち涅槃である!』と、
『演説されただけ!』なのに、
『仏』は、今、何故、――
『生滅の法』中に、
『無誑相の涅槃』を、
『別け!』、
是れは、
『化のようでない!』と、
『説かれたのですか?』、と。
佛答。諸法平等常住非賢聖所作。若新學菩薩聞則恐怖。是故分別說。生滅者如化不生滅者不如化。 仏の答えたまわく、『諸法の平等、常住は、賢聖の所作に非ざるも、若し新学の菩薩聞けば、則ち恐怖せん。是の故に分別して、生滅の者は化の如く、不生滅の者は化の如きにあらず、と説けり』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『諸法が平等であり、常住である!』のは、
『賢聖の所作ではない!』が、
若し、
『新学の菩薩』が、
是れを、
『聞けば!』、
『恐怖することになる!』ので、
是の故に、
『生滅と、不生滅とを分別して!』、
『生滅の者は化のようであるが、不生滅の者は化のようでない!』と、
『説いたのである!』、と。
問曰唯佛一人是無誑人。一切人皆於佛所欲求實事。今佛何以說一切法都空或說不都空。 問うて曰く、唯だ、仏一人のみ、是れ無誑の人にして、一切の人は、皆仏所に於いて、実事を求めんと欲す。今、仏は何を以ってか、『一切法は都(みな)空なり』と説き、或は、『都が空なるにはあらず』と説きたまえる。
問い、
唯だ、
『仏一人だけが、無誑の人であり!』、
『一切の人』は、
皆、
『仏所に於いて!』、
『実事を求めようとしている!』のに、
今、何故、――
『仏』は、
或は、
『一切の法は、都空である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『都が、空であるのではない!』と、
『説かれたのか?』。
答曰佛此中自說因緣。為新發意菩薩故說涅槃不如化。 答えて曰く、仏は此の中に自ら因縁を説きたまわく、『新発意の菩薩の為めの故に、涅槃は化の如きにあらずと説けり』、と。
答え、
『仏』は、
此の中に、
自ら、因縁をこう説かれている、――
『新発意の菩薩の為め!』の故に、
『涅槃は、化のようでない!』と、
『説いたのである!』、と。
問曰可為人故轉諸法相耶。 問うて曰く、人の為めの故に、諸法の相を転ずべしや。
問い、
『人の為め!』の故に、
『諸法の相』を、
『転じてもよいのですか?』。
答曰此中佛說諸法相者性空。性空云何可轉。佛初得是諸法實相時。心但趣向涅槃寂滅。是時十方諸佛諸天請佛莫入涅槃。一切眾生苦惱當度脫之。佛即受請。佛但為度眾生故住。以是故知有可利益眾生隨事為說。 答えて曰く、此の中に仏は、『諸法の相は性空なり』、と説きたまえるに、性空を云何が転ずべきや。仏は、初めて是の諸法の実相を得たまいし時、心は但だ涅槃寂滅に趣向したまえり。是の時、十方の諸仏、諸天の仏に請ずらく、『涅槃に入ること莫かれ、一切の衆生の苦悩は、当に之を度脱すべし』、と。仏は即ち請を受けたまえり。仏は但だ、衆生を度せんが為めの故に住したまえば、是を以っての故に、『利益すべき衆生有らば、事に随いて、為めに説きたもう』、と知る。
答え、
此の中に、
『仏』は、
『諸法の相は、性空である!』と、
『説かれている!』が、
『性空ならば!』、
何のように、
『性空の法』を、
『転じることができるのか?』。
『仏』が、
初めて、
是の、
『諸法の実相を得られた!』時、
『心』は、
『但だ、涅槃寂滅に趣向していた( be only going towards nirvana )!』。
是の時、
『十方の諸仏、諸天』が、
『仏』に、こう請うた、――
『涅槃に入ってはならない!』。
『一切の衆生の苦悩を、度脱すべきである!』、と。
『仏』は、
即ち( then )、
『請( the request )』を、
『受けられた( to receive )!』。
『仏』は、
但だ、
『衆生を度す為め!』の故に、
『世間に住されたのである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『仏』は、
『利益すべき衆生が有れば!』、
『事に随って( relating to Buddha's buisiness )!』、
『衆生の為めに説かれるのである!』、と。
  受請(じゅしょう):梵語 adhivaasayati の訳、要請を受ける( to receive a request )の義。
  随事(ずいじ):梵語 karmaNya の訳、何等かの行為に合せて/宗教的行為に相応して( proper or fit for any act, suitable for a religious action )の義、仕事/目的達成に従事する( relating to any business or to the accomplishment of anything )の意。
觀諸有為法虛誑故涅槃為實不變不異。有新發意菩薩著是涅槃。因是著起諸煩惱。為斷是著故說涅槃如化。若無著心是時則說涅槃非如化。 諸の有為法は虚誑なりと観るが故に、涅槃を実、不変、不異なりと為すに、有るいは新発意の菩薩は、是の涅槃に著して、是の著に因りて、諸の煩悩を起せば、是の著を断ぜんが為めの故に、涅槃は化の如しと説く。若し著心無ければ、是の時、則ち涅槃は化の如きに非ずと説く。
『諸の有為法は虚誑である、と観る!』が故に、
『涅槃は実、不変、不異である!』と、
『為すのである!』が、
有るいは、
『新発意の菩薩』は、
是の、
『涅槃に著して!』、
是の、
『著に因って!』、
『諸の煩悩』を、
『起す!』ので、
是の、
『著を断じる為め!』の故に、
『涅槃は化のようである!』と、
『説かれたのであり!』、
若し、
『著心が無ければ!』、
是の時には、
『涅槃は、化のようでない!』と、
『説かれるのである!』。
復次有二道。小乘道大乘道。小乘論議以涅槃為實。大乘論議以利智慧深入故。觀色等諸法皆如涅槃。是故二說無咎。 復た次ぎに、二道有り、小乗道と大乗道なり。小乗の論議は、涅槃を以って実と為すも、大乗の論議は、利智慧の深く入るを以っての故に、色等の諸法は、皆涅槃の如しと観る。是の故に二説には咎無し。
復た次ぎに、
『小乗道、大乗道という!』、
『二道』が、
『有る!』ので、
『小乗の論議』では、
『涅槃』を、
『実であるとし!』、
『大乗の論議は、諸法に深入する利智慧を用いる!』が故に、
『色等の諸法は、皆涅槃のようである!』と、
『観る!』ので、
是の故に、
『二説』には、
『咎が無いのである!』。
須菩提復問。云何教化新發意菩薩令知平等性空。須菩提意謂。性空是凡夫人大怖畏處。聞性空無所有如臨深坑。何以故。一切未得道者。我心深著故怖畏空法。作是念佛教人勤修善行終歸入無所有中。 須菩提の復た問わく、『云何が新発意の菩薩を教化して、平等の性空を知らしむる』、と。須菩提の意の謂わく、『性空は、是れ凡夫人の大怖畏する処にして、性空の無所有なるを聞けば、深坑に臨むが如し。何を以っての故に、一切の未得道の者は、我心の深く著するが故に空法を怖畏して、是の念を作せばなり、仏は、人に教えて、善行を勤修せしむるも、終に無所有中に帰入するなり、と』。
『須菩提』は、復た問うた、――
何のように、
『新発意の菩薩を教化して!』、
『平等の性空』を、
『知らせるのか?』。
『須菩提の意』は、こう謂ったのである、――
『性空』は、
『凡夫の大怖畏する!』、
『処であり!』、
『性空は無所有である!』と、
『聞けば!』、
『深坑に臨んだようであろう!』。
何故ならば、
『一切の未得道の者』は、
『我心が、諸法に深く著する!』が故に、
『空法を、怖畏して!』、
こう念じるからである、――
『仏』は、
『人に教えて!』、
『善行を勤修させられる!』が、
終には( after all )、
『無所有』中に、
『帰入することになるのだ!』、と。
以是故須菩提問。以何方便教誨是新發意者。佛答。諸法先有今無耶。佛意以新發意者怖畏後當無故。說諸法先有今無耶。 是を以っての故に、須菩提の問わく、『何なる方便を以ってか、便ち是の新発意の者を教誨する』、と。仏の答えたまわく、『諸法は先に有りて今無しや』、と。仏の意は、『新発意の者の後に当に無なるべきを怖畏するを以ってなり』、と。故に、『諸法は先に有りて、今無しや』、と説きたまえり。
是の故に、
『須菩提』は、こう問うた、――
何のような、
『方便を用いて!』、
便ち( easily )、
是の、
『新発意の菩薩』を、
『教誨するのか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『諸法』は、
『先に有りながら!』、
『今無くなるのだろうか?』、と。
『仏の意』は、こうである、――
『新発意の菩薩』は、
『後に無くなること!』を、
『怖畏するからである!』、と。
是の故に、
『先に有る者が、今無くなるのか?』と、
『説かれたのである!』。
須菩提自了了知諸法先自無今亦無。但以新發意者我見心覆故生驚怖。為除顛倒令得實見竟無所失。知諸煩惱顛倒實相所謂性空。是時則無恐怖。如是等法應教新發意者。若諸法先有以行道故無。應當恐怖初自無故不應恐怖。但為除顛倒耳 須菩提は、自ら了了として知るらく、『諸法は先に自ら無く、今も亦た無し、但だ新発意の者は、我見に心覆わるるが故に驚怖を生ずるも、顛倒を除いて、実見を得しめ、竟に失う所無からしむれば、諸煩悩の実相、謂わゆる性空を顛倒するを知りて、是の時、則ち恐怖無し。是れ等の如き法を、応に新発意の者に教うべし。若し諸法先に有り、道を行ずるを以っての故に無ければ、応当に恐怖すべし。若し初より自ら無きが故に、応に恐怖すべからず。但だ顛倒を除かんが為めなるのみ』、と。
『須菩提』は、
自ら、了了として知った、――
『諸法』は、
『先に、自ら無く!』、
『今も、亦た無いのである!』が、
但だ、
『新発意の者』は、
『我見に、心を覆われている!』が故に、
『驚怖を、生じるだけである!』。
若し、
『顛倒を除いて、実見を得させれば!』、
『竟に( after all )!』、
『失う所を無くすれば( to make him to remove his fault )!』、
即ち、
『諸の煩悩が、実相を顛倒する!』のを、
『知ることになり!』、
是の時、
『恐怖』は、
『無くなるだろう!』。
是れ等のような、
『法を、新発意の者に教えねばならない!』、
若し、
『諸法が、先に有って!』、
『道を行ずるが故に無くなれば!』、
『恐怖すべきである!』が、
『諸法』が、
『初より自ら無ければ!』、
『恐怖すべきではない!』。
但だ、
『顛倒を除くだけで!』、
『恐怖は無くなるのだ!』、と。


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