【論】問曰。佛已處處答是事。今須菩提。何以復問。 |
問うて曰く、仏は已に処処に是の事に答えたもうに、今、須菩提は何を以ってか、復た問える。 |
問い、
『仏』は、
已に、
是の、
『事』を、
『処処に答えられた!』のに、
『須菩提』は、
今、
何故、
『復た( again )!』、
『問うたのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。義雖一所因事異。所謂一切法若有佛若無佛。諸法性常住空無所有。非賢聖所作。般若波羅蜜甚深微妙難解難量。不可以有量能知。諸佛賢聖憐愍眾生故。以種種語言名字譬喻為說。 |
答えて曰く、義は、一なりと雖も、所因の事は異なり。謂わゆる一切法は若しは仏有るも、若しは仏無きも、諸法の性は常住、空、無所有にして、賢聖の所作に非ず。般若波羅蜜は甚深微妙にして難解難量なれば、有量を以って能く知るべからず。諸仏、賢聖は衆生を憐愍するが故に、種種の語言、名字、譬喻を以って為めに説きたまえり。 |
答え、
『義は、一である!』が、
『所因の事( something being the primary cause )』が、
『異なるからである!』。
謂わゆる、
『一切法は、仏が有ろうと無かろうと!』、
『諸法の性』は、
『常住、空、無所有であり!』、
『賢聖の所作ではない!』が、
『般若波羅蜜は甚深、微妙であり!』、
『解き難く、量り難い!』ので、
『有量の事を用いて!』、
『知ることができない!』ので、
『諸仏、賢聖』は、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『種種の語言、名字、譬喻を用いて!』、
『衆生の為めに、説かれたのである!』。
|
所因(しょいん)、因事(いんじ):梵語 hetu の訳、又因と訳す、動機/原因/~の理由( motive, cause, cause of, reason for
)、第一原因( a primary cause )の義、因と作るべき事柄( something being the primary cause
)の意。 |
|
|
|
利根者解聖人意。鈍根者處處生著。著於語言名字。若聞說空則著空。聞說空亦空亦復生著。若聞一切法寂滅相語言道斷而亦復著。自心不清淨故。聞聖人法為不清淨。如人目翳視清淨珠見其目影便謂珠不淨。佛種種因緣說。見有過罪而生於疑。作是言。若一切法空。空亦空。云何分別有六道常生。如是等疑難故。須菩提以經將訖。為眾生處處問是事。是故重問。佛可須菩提意。 |
利根の者は聖人の意を解するも、鈍根の者は処処に著を生ずれば、語言、名字に著し、若しは空を説くを聞けば、則ち空に著し、空も亦た空なりと説くを聞けば、亦復た著を生じ、若し一切法は寂滅の相にして語言の道断ずると聞けば、亦復た著し、自心清浄ならざるが故に、聖人の法を聞いて清浄にあらずと為す。人の目翳(かげ)れば清浄の珠を視るも、其の目の影を見て、便ち珠は不浄なりと謂うが如し。仏の種種の因縁もて説きたもうに、過罪有りと見て、疑を生じ、是の言を作さく、『若し一切法は空にして、空も亦た空なれば、云何が六道有りと分別するや』、と。常に是れ等の如き疑難を生ずるが故に、須菩提は経の将に訖(おわ)らんとするを以って、衆生の為めに処処に是の事を問えば、是の故に重ねて問えり。仏は須菩提の意を可としたまえり。 |
『利根の者』は、
『聖人の意』を、
『解する!』が、
『鈍根の者は、処処に著を生じて!』、
『語言、名字に著する!』ので、
若し、
『空が説かれるのを、聞けば!』、
『空も空であると説かれるのを、聞けば!』、
若し、
『一切法は、寂滅の相であり!』、
『語言の道は断じている!』と、
『聞けば!』、
是の、
『事』に、
『復た、著することになり!』、
自ら、
『心が、清浄でない!』が故に、
『聖人の法を聞いても!』、
『清浄でないとする!』。
譬えば、
『人の目が翳っていれば( one suffers from a cataract )!』、
『清浄の珠を視ながら!』、
其の、
『目の影( the image of his eyes )』を、
『見て!』、
便ち、
『珠は不浄である!』と、
『謂うようなものであり!』、
『仏』が、
『種種の因縁を説かれる!』と、
是の、
『説には過罪が有る、と見て!』、
『疑を生じ!』、こう言う、――
若し、
『一切法が空であり!』、
『空も!』、
『空だとすれば!』、
何故、
『六道が有る!』と、
『分別するのか?』、と。
常に、
是れ等のような、
『疑難を生じる!』が故に、
『須菩提は、経が訖りそうなので!』、
『衆生の為め!』に、
是の、
『事』を、
『処処に問うことにし!』、
是の故に、
『重ねて!』、
『問うたのであり!』、
『仏』は、
『須菩提の意』を、
『可とされた( to agree )のである!』。
|
翳(えい):目のかげり/白内障( a cataract )。 |
|
|
|
問曰。須菩提以有難空。佛云何可其意。 |
問うて曰く、須菩提は有を以って空を難ずるに、仏は云何が、其の意を可としたまえるや。 |
問い、
『須菩提』が、
『有を用いて( with exsistence )!』、
『空』を、
『難じる!』と、
『仏』は、
何故、
『須菩提の意』を、
『可とされたのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。佛可其說。諸法空常住有佛無佛不異不可其難。云何分別有六道等。何以故。以其難欲破空故是中佛解其所難。所謂凡夫人不入聖法。未得聖道。不知無所有性。不善修習空三昧故。 |
答えて曰く、仏は其の、『諸法の空の常住なること、仏有るも仏無きも異ならず』、と説くを可としたもうも、其の、『云何が分別して、六道等有る』、と難ずるを可としたまわず。何を以っての故に、其の難は空を破らんと欲するを以っての故に、是の中に仏は其の難ずる所を説きたまえり、謂わゆる『凡夫人は聖法に入らざれば、未だ正道を得ずして、無所有の性を知らず、空三昧を善く修習せざるが故なり』、と。 |
答え、
『仏』は、
『須菩提の説いた!』、
『諸法の空は常住であり、仏が有ろうと無かろうと異らない!』は、
『可とされた!』が、
『須菩提の難じた!』、
『何故、六道等が有ると分別されたのか?』は、
『可とされなかった!』。
何故ならば、
『須菩提は難じて!』、
『空』を、
『破ろうとしたからである!』が、
是の中に、
『仏』は、
『須菩提が難じた!』所を、こう解かれた、――
『凡夫人』は、
『聖法に入らない
( does not understand deeply the true dharma )!』ので、
未だ、
『聖道を得ることもなく!』、
『無所有の性を知ることもなく!』、
『空三昧を善く修習することもないからである!』、と。
|
|
|
|
|
顛倒者四顛倒。愚癡者三界繫無明。雖不說餘煩惱。而此二法虛誑不實顛倒即是妄語虛誑。若從顛倒所生業及果報。以根本不實故。眾生雖深著亦無定實。以是故五道皆空但有假名。 |
顛倒とは四顛倒なり。愚癡とは三界繋の無明にして、餘の煩悩を説かずと雖も、此の二法は虚誑、不実なれば、顛倒は即ち是れ妄語、虚誑なり。若し顛倒より生ずる所の業、及び果報の若(ごと)きは根本の不実なるを以っての故に、衆生は深く著すと雖も、亦た定実無し。是を以っての故に五道は皆空にして、但だ仮名有るのみ。 |
『顛倒』とは、
『常、楽、我、浄』の、
『四顛倒であり!』、
『愚癡』とは、
『三界繋』の、
『無明であり!』、
『餘の煩悩は説かれていないが!』、
此の、
『顛倒、愚癡の二法』は、
『虚誑であり!』、
『不実である!』ので、
即ち、
『顛倒』は、
『妄語であり!』、
『虚誑である!』。
『顛倒より生じた!』所の、
『業や、果報など!』は、
『根本が不実である!』が故に、
『衆生が、深く著しても!』、
『定実は、無い!』ので、
是の故に、
『五道は、皆空であり!』、
但だ、
『仮名』が、
『有るだけである!』。
|
|
|
|
|
又汝難諸賢聖。是諸賢聖以斷顛倒差別故有異名。以顛倒不實故無所斷。又復滅失無所有故名為斷。若實有法可斷。尚無斷法。何況顛倒。 |
又、汝は諸賢聖を難ずるも、是の諸賢聖は、顛倒を断ずるを差別するを以っての故に、異名有るも、顛倒は不実なるを以っての故に、断ずる所無く、又復た滅失して無所有なるが故に、名づけて断と為せば、若し法の可断実に有るも、尚お断法無し。何に況んや顛倒をや。 |
又、
お前は、
『諸賢聖を難じている!』が、
是の、
『諸賢聖』には、
『顛倒を断じることを差別する
( to discriminate of ceasing the inverted views )!』が故に
『異名』が、
『有る!』が、
『顛倒は不実である!』が故に、
『断じる!』所が、
『無く!』、
又復た、
『滅失して、無所有なる!』が故に、
『断』と、
『称する!』が、
若し、
『可断の法が、実有だとしても!』、
尚お、
『断法( ceasing )』は、
『無いのであり!』、
況して、
『顛倒の不実の法』は、
『言うまでもない!』。
|
|
|
|
|
是故一切賢聖果。皆是無所有。斷顛倒即是聖人果。果即是斷為果。所修道亦同無所有。是故修道時必當用空無相無作。 |
是の故に一切の賢聖の果は、皆是れ無所有なるも、顛倒を断ずるは、即ち是れ聖人の果なり。果は即ち是れ断なり。果の為めの所修の道も亦た同じく無所有なれば、是の故に道を修する時には、必ず当に空、無相、無作を用うべし。 |
是の故に、
『一切の賢聖という!』、
『果』は、
『皆、無所有であり!』。
『顛倒を断じること!』が、
『即ち、聖人の果であれば!』、
『果』とは、
『即ち、断なのであり!』、
『果の為めに修める!』所の、
『道』も、
『同じく、無所有であり!』、
是の故に、
『道を修める!』時には、
『空、無相、無作』を、
『必ず、用いねばならないのである!』。
|
|
|
|
|
道果分別故賢聖有差別。今實無所有法不能得無所有。云何有差別。是故不應難。 |
道果を分別するが故に賢聖に差別有り。今実に無所有の法なれば、無所有の法を得る能わず。云何が差別有らんや。是の故に応に難ずべからず。 |
『道果を分別する!』が故に、
『道果』は、
『今、実に無所有である!』が故に、
『無所有の法』を、
『得ることはできない!』。
何うして、
『賢聖』に、
『差別が有るのか?』。
是の故に、
『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏の差別』を、
『難じてはならない!』。
|
|
|
|
|
須菩提意。若但顛倒故有世間。若有顛倒亦應有實。虛實相待故。是故問世尊。凡夫所著頗有實生。著起業業因緣故。六道生死不得解脫。佛答言不。何以故此中佛自說因緣。但顛倒故生著。若無顛倒云何有相待實法。乃至無毫釐許實事。畢竟無故。 |
須菩提の意にすらく、『若し但だ顛倒の故に世間有らば、若し顛倒有れば、亦た応に実有るべし、虚実相対するが故なり』、と。是の故に問わく、『世尊、凡夫の著する所には、頗(むし)ろ実有りて、著を生ずれば、業を起し、業の因縁の故に六道に生死し、解脱を得ざるなりや』、と。仏の答えて言わく、『不なり、何を以っての故に』、と。此の中に仏の自ら因縁を説きたまわく、『但だ顛倒の故に著を生じ、若し顛倒無ければ、云何が相待の実法有らんや。乃至毫釐許りも実事無し、畢竟じて無なるが故なり』、と。 |
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
但だ、
『顛倒』の故に、
『世間』が、
『有るだけならば!』、
若し、
『顛倒が有れば!』、
『実』も、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『虚(顛倒)、実』は、
『相待するからである( being mutually depending )!』、と。
是の故に、こう問うた、――
世尊!
『凡夫の著する!』所は、
頗ろ( rather )、
『実が有り!』、
『業』を、
『起すので!』、
『業の因縁』の故に、
『六道の生死』を、
『解脱することができないのですか?』、と。
『仏は答えて!』、こう言われた、――
そうではない!
何故ならば、と。
此の中に、
『仏』は、自ら因縁を説かれた、――
但だ、
『顛倒』の故に、
『著』を、
『生じるのである!』。
若し、
『顛倒が無ければ!』、
何故、
『相待の実法』が、
『有るのか?』。
乃至、
『毫釐ほどの実法も無い!』のは、
『実法』は、
『畢竟じて無いからである!』、と。
|
毫釐(ごうり):微少/微塵( the least bit, an iota )。
有実(うじつ):梵語 dravya-yukta の訳、実が満ちた( filled with substance )の義、実質が有る( there
is substance )の意。 |
|
|
|
問曰。諸佛所行實義。所謂畢竟空。此非實耶。 |
問うて曰く、諸仏の所行の実義なる、謂わゆる畢竟空は、此れ実に非ざるや。 |
問い、
『諸仏の所行である!』、
『実義、謂わゆる畢竟空』は、
『実ではないのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。是第一義空亦因分別。凡夫顛倒故說。若無顛倒亦無第一義。若凡夫顛倒少多有實。第一義亦應有實。 |
答えて曰く、是の第一義の空も、亦た分別に因り、凡夫の顛倒の故に説きたまえり。若し顛倒無ければ、亦た第一義も無し。若し凡夫の顛倒に少多の実有れば、第一義も亦た応に実有るべし。 |
答え、
是の、
『第一義の空』も、
『分別に因る!』、
『空であり!』、
『凡夫の顛倒』の故に、
『第一義』を、
『説かれたのである!』ので、
若し、
『顛倒が無ければ!』、
『第一義』も、
『無いのである!』。
若し、
『凡夫の顛倒』に、
『少多の実でも!』、
『有れば!』、
亦た、
『第一義』にも、
『実が有るはずである!』。
|
|
|
|
|
問曰。若二俱不實。云何得解脫。如人手垢還以垢洗。云何得淨。 |
問うて曰く、若し二は倶に不実なれば、云何が解脱を得るや。如(も)し人の手の垢を、還って垢を以って洗わば、云何が浄を得んや。 |
問い、
若し、
『二が、倶に不実ならば!』、
何故、
『解脱』を、
『得られるのですか?』。
譬えば、
『人の手の垢』を、
『垢を用いて!』、
『洗えば!』、
何故、
『浄』を、
『得られるのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。諸法實相畢竟空第一義實清淨。以有凡夫顛倒不清淨法故有此清淨法。不可破壞不變異故。以人於諸法實相起著欲生煩惱。是故說是法性空無所有。無所有故無實。雖二法皆不實。而不實中有差別。 |
答えて曰く、諸法の実相なる畢竟空は、第一義にして実の清浄なるに、凡夫の顛倒なる清浄ならざる法有るを以っての故に、此の清浄の法有り、破壊すべからず、変異せざるが故なり。人は、諸法の実相に於いて、著を起して、煩悩を生ぜんと欲するを以って、是の故に説きたまわく、『是の法性は空、無所有なれば、無所有なるが故に実無し。二法は皆不実なりと雖も、不実中には差別有り』、と。 |
答え、
『諸法の実相である!』、
『畢竟空』は、
『第一義であり!』、
『実の清浄である!』が、
『凡夫の顛倒という!』、
『不清浄の法』が、
『有る!』が故に、
此の、
『清浄の法』が、
『有る!』のは、
是れが、
『破壊されず!』、
『変異しないからである!』。
『人』は、
『諸法の実相に、著を起して!』、
『煩悩』を、
『生じようとする!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
是の、
『法性』は、
『空であり!』、
『無所有である!』が、
『法性は無所有である!』が故に、
『実』が、
『無い!』。
『顛倒、第一義の二法は、皆不実である!』が、
『不実』中にも、
『差別が有る!』、と。
|
|
|
|
|
如十善十不善二事。皆有為法故虛誑不實。而善不善有差別。殺生法故墮惡道。不殺故生天上。如布施偷盜二事。雖取相著心是虛誑不實而亦有差別。如眾生乃至知者見者無所有。而惱眾生有大罪。慈念眾生有大福。如慈能破瞋施能破慳。雖二事俱是不實而能相破。是故佛說諸法無有根本定實如毫釐許所有。欲證明是事故。說夢中受五欲譬喻。 |
十善、十不善の二事の如きは、皆有為法なるが故に虚誑、不実なるも、善と不善とには差別有り、殺生の法の故に悪道に堕し、不殺の故に天上に生ず。布施、偷盗の二事は取相の著心には、是れ虚誑、不実なるも、而も亦た差別あり。衆生の如きは乃至知者見者すら無所有なるも、衆生を惱せば大罪有り、衆生を慈念すれば大福有り。慈は能く瞋を破し、施は能く慳を破するが如き、二事は倶に是れ不実なりと雖も、而も能く相破すれば、是の故に仏の説きたまわく、『諸法には根本の定実も、毫釐許りの所有も有ること無し』、と。是の事を証明せんと欲したもうが故に、夢中に五欲を受くる譬喻を説きたまえり。 |
例えば、
『十善、十不善の二事』は、
『皆、有為法である!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
『善、不善には差別が有り!』、
『殺生の法』の故に、
『悪道』に、
『堕ちるのであり!』、
『不殺である!』が故に、
『天上』に、
『生じるのである!』。
例えば、
『布施、偷盗の二事』は、
『取相の著心である!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
而し、
『差別』は、
『有るのである!』。
例えば、
『衆生は乃至知者、見者すら無所有である!』が、
『衆生を惱せば!』、
『大罪』が、
『有り!』、
『衆生を慈念すれば!』、
『大福』が、
『有る!』。
例えば、
『慈は、瞋を破ることができ!』、
『施は、慳を破ることができる!』が、
『慈、瞋の二事も、施、慳の二事も!』、
『倶に、不実でありながら!』、
『相い、破ることができるのである!』。
是の故に、
『仏』は、こう説いて、――
『諸法』には、
『根本の定実も、毫釐ばかりの所有も無い!』と、
『説いて!』、
是の、
『事を証明しようとされた!』が故に、
『夢中に受ける五欲の譬喻』を、
『説かれたのである!』。
|
|
|
|
|
須菩提意。若一切法畢竟空無所有性。今何以故現有眼見耳聞法。以是故佛說夢譬喻。如人夢力故雖無實事而有種種聞見瞋處喜處。覺人在傍則無所見。如是凡夫人無明顛倒力故妄有所見。聖人覺悟則無所見。一切法若有漏若無漏。若有為若無為。皆不實虛妄故有見聞。 |
須菩提の意にすらく、『若し一切法は畢竟空、無所有の性なれば、今は何を以っての故にか、現に眼見、耳聞の法有る』、と。是を以っての故に、仏は夢の譬喻を説きたまえり。人の夢の力の故に、実事無しと雖も、種種に瞋処、喜処を聞見するに、覚むる人傍に在るも、則ち所見無きが如し。是の如く、凡夫人は無明、顛倒の力の故に妄に所見有るも、聖人は覚悟すれば則ち所見無し。一切法の若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為は皆不実、虚妄なるが故に見聞有り。 |
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
『一切法が畢竟空であり、無所有の性ならば!』、
今、何故、
『眼見、耳聞の法』が、
『現に有るのか?』、と。
是の故に、
『仏』は、
『夢の譬喻』を、
『説かれたのである!』。
譬えば、
『人は、夢の力』の故に、
『実事が無い!』のに、
『瞋処、喜処を種種に聞見すること!』が、
『有る!』が、
『覚めた人』が、
『傍に在っても!』、
『所見』が、
『無いようなものである!』。
是のように、
『凡夫人』は、
『無明、顛倒の力』の故に、
『所見』が、
『妄に有る( to have falsely )!』が、
『聖人』は、
『覚悟している!』が故に、
『所見』が、
『無い!』。
『一切法は有漏も、無漏も、有為も、無為も!』、
『皆不実であり、虚妄である!』が故に、
『見聞』が、
『有るのである!』。
|
|
|
|
|
又如夢中見六道生死往來。見須陀洹乃至阿羅漢。夢中無是法而夢見。夢中實無淨無垢。業果報六道亦如是。顛倒因緣故起業。業果報亦應空。除卻顛倒故名為道。顛倒無實故道亦不應實。鏡中像嚮焰乃至如化亦如是。 |
又、夢中に六道の生死を往来するを見、須陀洹乃至阿羅漢を見、夢中に是の法無きに夢に見るも、夢中には実に浄無く、垢無きが如し。業、果報の六道も亦た是の如く、顛倒の因縁の故に業を起すも、業、果報も亦た応に空なるべし。顛倒を除却するが故に名づけて、道と為すも、顛倒に実無きが故に道も亦た応に実なるべからず。鏡中の像、響、焰、乃至化の如きも亦た是の如し。 |
又、
譬えば、
『夢中に見る!』所の、
『六道の生死の往来や!』、
『須陀洹乃至阿羅漢も!』、
『夢』中には、
是のような、
『法が無い!』のに、
『夢に見るのであり!』、
『夢』中には、
『業や、果報の六道も!』、
是のように、
『顛倒の因縁』の故に、
『業』を、
『起しながら!』、
亦た、
『業、果報』も、
『空のはずである!』。
『顛倒を除却すること!』を、
『道』と、
『称する!』が、
『顛倒は無実である!』が故に、
『道』も、
『実であるはずがない!』。
亦た、
『鏡中の像、響、焰、乃至化など!』も、
『是の通りである!』。
|
|
|
|
|
佛反問須菩提。於是法中有垢者有淨者不。須菩提意。一切法中無我。云何當說有垢有淨者。是故言無。佛言。若無受垢受淨者。垢淨亦無。 |
仏の須菩提に反問したまわく、『是の法中に於いて、垢なる者有り、浄なる者有りや不や』、と。須菩提の意にすらく、『一切法中に我無きに、云何が当に垢有り、浄の者有り、と説きたもうべきや』、と。是の故に、『無し』、と言えり。仏の言わく、『若し垢を受け、浄を受くる者無ければ、垢、浄も亦た無きなり』、と。 |
『仏は反って!』、
『須菩提』に、こう問われた、――
是の、
『法』中には、
『垢の者や、浄の者』が、
『有るだろうか?』、と。
『須菩提の意』は、こうであった、――
『一切法中に、我は無い!』のに、
何うして( how it can )、
『垢の者や、浄の者が有る!』と、
『説かれるはずがあろうか?』、と。
是の故に、
『無い!』と、
『言う!』と、
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『垢を受ける者や、浄を受ける者が無ければ!』、
『垢も、浄も!』、
『無いということである!』、と。
|
|
|
|
|
問曰。若分別諸法。阿毘曇等經中有垢有淨。但受垢淨者無。三毒等諸煩惱是垢。三解脫門諸助道法等是淨。 |
問うて曰く、若し諸法を分別すれば、阿毘曇等の経中には垢有り、浄有るも、但だ垢、浄を受くる者は無し。三毒等の諸煩悩は是れ垢にして、三解脱門の諸の助道法等は是れ浄なり。 |
問い、
若し、
『諸法を分別すれば!』、
『阿毘曇等の経』中には、
『垢、浄という!』、
『法』は、
『有るのであり!』、
但だ、
『垢の者、浄の者という!』、
『衆生』が、
『無いだけである!』。
則ち、
『三毒』等の、
『諸煩悩』は、
『垢であり!』、
『三解脱門や!』、
『諸の助道法』は、
『浄である!』。
|
|
|
|
|
答曰。雖有是說。是事不然。若無眾生法無所屬亦無作者。若無作者亦無作法。無縛無解如人為火所燒。畏而捨離非火離火。眾生亦如是。畏五眾苦故捨離。非苦離苦。若無垢淨者無有解脫。 |
答えて曰く、是の説有りと雖も、是の事は然らず。若し衆生無ければ、法の所属無く、亦た作者も無し。若し作者無ければ、亦た作法も無く、縛無く、解無し。人、火に焼かるれば、畏れて捨離するも、火は火を離るるに非ざるが如く、衆生も亦た是の如く、五衆の苦を畏るるが故に捨離するも、苦は苦を離るるに非ず。若し垢、浄無ければ、解脱有ること無し。 |
答え、
是の、
『説は有りながら!』、
是の、
『事』は、
『然らず( being not correct )!』。
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』の、
『属する!』所が、
『無く!』、
亦た、
『作者』も、
『無いはずである!』。
若し、
『作者( 衆生)が無ければ!』、
亦た、
『作法( activity )』も、
『無いはずであり!』、
亦た、
『縛も、解も!』、
『無いはずである!』。
譬えば、
『人』が、
『火』に、
『焼かれる!』のを、
『畏れて!』、
『捨離したとしても!』、
『火』が、
『火を離れるのではないように!』、
『衆生』も、
是のように、
『五衆の苦( 苦受)』を、
『畏れて!』、
『捨離しても!』、
『苦』が、
『苦』を、
『離れるわけではない!』。
若し、
『垢の者も、浄の者も無ければ!』、
『解脱』も、
『無いのである!』。
|
|
|
|
|
復次佛此中自說因緣。所謂我我所法中住。眾生受垢受淨。我畢竟無故。垢淨無住處。住處無故。無垢無淨。 |
復た次ぎに、仏は此の中に自ら因縁を説きたもう。謂わゆる『我我所の法中に住する衆生は垢を受け、浄を受くるも、我は畢竟じて無きが故に垢、浄の住処無く、住処無きが故に垢無く、浄無し』、と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
此の中に、自ら因縁を説かれている、――
謂わゆる、
『我、我所の法中に住する!』が故に、
『衆生』は、
『垢や、浄』を、
『受けるのである!』が、
『我は、畢竟じて無い!』が故に、
『垢、浄』には、
『住処』が、
『無く!』、
『住処が無い!』が故に、
『垢も、浄も!』、
『無いのである!』、と。
|
|
|
|
|
問曰。我雖無我見實有凡夫人住此中起諸煩惱。 |
問うて曰く、我は無しと雖も、我見は実に有りて、凡夫人は此の中に住して、諸煩悩を起すなり。 |
問い、
『我が無くても!』、
『我見』が、
『実に有る!』ので、
『凡夫人』は、
此の、
『我見中に住して!』、
『諸の煩悩を起すのである!』。
|
|
|
|
|
答曰。若無我我見無所緣。無所緣云何得生。 |
答えて曰く、若し我無ければ、我見の所縁無し。所縁無ければ、云何が生ずるを得るや。 |
答え、
若し、
『我が無ければ!』、
『我見』には、
『所縁が無いはずである!』、
『所縁が無い!』のに、
何故、
『我見』を、
『生じることができるのか?』。
|
所縁(しょえん):梵語 aalambana の訳、根拠/理由( foundation, base, reason, cause )の義、根拠となる事物(
something depended on )の意。
無所縁(むしょえん):梵語 anaalambana の訳、無支援( unsupported )、無根拠( baseless )の義。 |
|
|
|
問曰。雖無我於五眾中邪行。謂有我生我見。五眾是我我所。 |
問うて曰く、無我なりと雖も、五衆中に於いて邪行せん。謂わゆる『我有れば我見を生ず』、『五衆は是れ我我所なり』、と。 |
問い、
『我は無くても!』、
『五衆』中に、
『邪行するのではないか?』。
謂わゆる、――
『我が有るので、我見を生じる!』とか、
『五衆が、我我所である!』、と。
|
邪行(じゃぎょう):梵語 mithyaa-pratipanna の訳、顛倒して理解された( understood invertedly )、誤って理解する( misunderstand )の意。 |
|
|
|
答曰。若以五眾中定生我見因緣。於他五眾中何以故不生。若於他五眾生者則為大錯亂。是故我見無有定緣。但顛倒故生。 |
答えて曰く、若し五衆中に定んで我見を生ずる因縁を以ってすれば、他の五衆中に於いて、何を以っての故にか生ぜざる。若し他の五衆に於いて生ずれば、則ち大錯乱と為す。是の故に我見には、定縁有ること無く、但だ顛倒の故に生ず。 |
答え、
若し、
『五衆』中に、
『定んで、我見を生じるという!』、
『因縁を用いるならば!』、
何故、
『他の五衆』中には、
『生じないのか?』。
若し、
『他の五衆』に、
『我見を生じれば!』、
『大錯乱である!』ので、
是の故に、
『我見』には、
『定まった縁』が、
『無く!』、
但だ、
『顛倒』の故に、
『生じるだけである!』。
|
|
|
|
|
問曰。若顛倒生。何以故但自於己身生見。 |
問うて曰く、若し顛倒より生ずれば、何を以っての故にか、但だ自ら己身に於いて、見を生ずる。 |
問い、
若し、
何故、
『但だ、自己の身に於いてのみ!』、
『我見』を、
『生じるのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。是顛倒狂錯。不應求其實事。又復於無始生死中來。自於相續五眾中生著。是故佛說。住我心眾生受垢受淨。又實見者無垢無淨。若我定有實見者應有垢淨。如實見者不垢不淨。以是因緣故無垢無淨。 |
答えて曰く、是の顛倒の狂錯に、応に其の実事を求むべからず。又復た無始の生死中より来、自ら相続せる五衆中に於いて、著を生ずれば、是の故に、仏の説きたまわく、『我心に住する衆生は、垢を受け、定を受くるも、又実見すれば垢無く、浄無し。若し我定んで有りて、実見すれば、応に垢、浄有るべし。如実に見れば、不垢不浄なり。是の因縁を以っての故に無垢、無浄なり』、と。 |
答え、
是の、
『顛倒の狂錯( the inverted mistake )』には、
其の、
『実事』を、
『求めるべきでない!』し、
又復た、
『無始の生死中より!』、
自ら、
『五衆を相続する!』中に、
『五衆の著』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『我心に住する!』、
又、
『実見すれば!』、
『垢も、浄も!』、
『無い!』。
若し、
『我が、定んで有りながら!』、
『実見すれば!』、
『垢も、浄も!』、
『有るはずである!』が、
『如実に見れば!』、
『垢でもなく!』、
『浄でもなく!』、
是の、
『因縁』の故に、
『垢も、浄も!』、
『無いのである!』、と。
|
|
|
|
|
無垢無淨者見諸法實相。又於諸法實相亦不著。是故無垢。諸法實相無相可取。是故無淨。 |
無垢、無浄の者にして、諸法を実相を見れば、又諸法の実相に於いても亦た著せず。是の故に垢無く、諸法の実相には、相の取るべき無ければ、是の故に浄無し。 |
『無垢、無浄の者』が、
『諸法の実相を見れば!』、
又、
『諸法の実相』に、
『著することもない!』ので、
是の故に、
『垢』が、
『無く!』、
『諸法の実相』には、
『取るべき相が無い!』ので、
是の故に、
『浄』も、
『無い!』。
|
|
|
|
|
復次八聖道中不著。是名無淨。除諸煩惱不著顛倒。是名無垢 |
復た次ぎに、八聖道中に著せざれば、是れを無浄と名づけ、諸煩悩を除いて、顛倒に著せざれば、是れを無垢と名づく。 |
復た次ぎに、
『八聖道中にも、著することがなければ!』、
『諸の煩悩を除いて!』、
『顛倒に著さなくなれば!』、
是れを、
『無垢』と、
『称する!』。
|
|
|
|
|