巻第九十五(上)
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大智度論釋七喻品第八十五(卷第九十五)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】諸法の性の無所有中に、衆生は業に随って身を得る

【經】須菩提白佛言。世尊。若諸法性無所有。非佛所作。非辟支佛所作。非阿羅漢所作。非阿那含斯陀含須陀洹所作。非向道人非得果人非諸菩薩所作。云何分別有諸法異。是地獄是畜生是餓鬼是人是天。乃至是非有想非無想天。用是業因緣故知有生地獄者。是業因緣故。知有生畜生餓鬼者。是業因緣故。知有生人中生四天王天乃至生非有想非無想天者。是業因緣故。知有得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛者。是業因緣故。知是諸菩薩摩訶薩。是業因緣故。知是多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し諸法の性は無所有にして、仏の所作に非ず、辟支仏の所作に非ず、阿羅漢の所作に非ず、阿那含、斯陀含、須陀洹の所作に非ず、向道の人に非ず、得果の人に非ず、諸菩薩の所作に非ざれば、云何が、是れ地獄、是れ畜生、是れ餓鬼、是れ人、是れ天、乃至是れ非有想非無想天なり、と分別して、諸法の異有り、是の業因縁を用うるが故に地獄に生ずる有りと知り、是の業因縁の故に、畜生、餓鬼に生ずる者有りと知り、是の業因縁の故に、人中に生じ、四天王天に生じ、乃至非有想非無想天に生ずる者有りと知り、是の業因縁の故に、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏を得る者有りと知り、是の業因縁の故に、是れ諸菩薩摩訶薩なりと知り、是の業因縁の故に是れ多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀なりと知るや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『諸法の性が無所有であり!』、
『仏や、辟支仏、阿羅漢乃至須陀洹、向道の人、得果の人、諸菩薩』の、
『所作でなければ!』、
何故、
是れは、
『地獄、畜生、餓鬼、人、天乃至非有想非無想天である!』と、
『分別して!』、
『諸法の異が有るのですか?』。
是の、
『業因縁を用いる!』が故に、
『地獄、畜生、餓鬼に生じる者が有る!』と、
『知り!』、
是の、
『業因縁』の故に、
『人中、四天王天乃至非有想非無想天に生じる者が有る!』と、
『知り!』、
是の、
『業因縁』の故に、
『須陀洹乃至阿羅漢、辟支仏を得る者が有る!』と、
『知り!』、
是の、
『業因縁』の故に、
『是れは諸菩薩摩訶薩である!』と、
『知り!』、
是の、
『業因縁』の故に、
『是れは多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀である!』と、
『知るのですか?』。
  参考:『大般若経巻395』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若一切法皆以無性而為自性。如是無性非諸佛所作。非獨覺所作。非菩薩所作。非阿羅漢所作。非不還所作。非一來所作。非預流所作。亦非如是諸向所作者。云何施設有諸法異。謂此是地獄。此是傍生。此是鬼界。此是人。此是四大王眾天。此是三十三天。此是夜摩天。此是睹史多天。此是樂變化天。此是他化自在天。此是梵眾天。此是梵輔天。此是梵會天。此是大梵天。此是光天。此是少光天。此是無量光天。此是極光淨天。此是淨天。此是少淨天。此是無量淨天。此是遍淨天。此是廣天。此是少廣天。此是無量廣天。此是廣果天。此是無想天。此是無繁天。此是無熱天。此是善現天。此是善見天。此是色究竟天。此是空無邊處天。此是識無邊處天。此是無所有處天。此是非想非非想處天。此是預流。此是一來。此是不還。此是阿羅漢。此是獨覺。此是菩薩摩訶薩。此是如來應正等覺。由此業故施設地獄。由此業故施設傍生。由此業故施設鬼界。由此業故施設人。由此業故施設四大王眾天。由此業故施設三十三天。由此業故施設夜摩天。由此業故施設睹史多天。由此業故施設樂變化天。由此業故施設他化自在天。由此業故施設梵眾天。由此業故施設梵輔天。由此業故施設梵會天。由此業故施設大梵天。由此業故施設光天。由此業故施設少光天。由此業故施設無量光天。由此業故施設極光淨天。由此業故施設淨天。由此業故施設少淨天。由此業故施設無量淨天。由此業故施設遍淨天。由此業故施設廣天。由此業故施設少廣天。由此業故施設無量廣天。由此業故施設廣果天。由此業故施設無想天。由此業故施設無繁天。由此業故施設無熱天。由此業故施設善現天。由此業故施設善見天。由此業故施設色究竟天。由此業故施設空無邊處天。由此業故施設識無邊處天。由此業故施設無所有處天。由此業故施設非想非非想處天。由此業故施設預流。由此業故施設一來。由此業故施設不還。由此業故施設阿羅漢。由此業故施設獨覺。由此業故施設菩薩摩訶薩。由此業故施設如來應正等覺。世尊。無性之法必無作用。云何可說。由如是法生於地獄。由如是法生於傍生。由如是法生於鬼界。由如是法生於人中。由如是法生四大王眾天。由如是法生三十三天。由如是法生夜摩天。由如是法生睹史多天。由如是法生樂變化天。由如是法生他化自在天。由如是法生梵眾天。由如是法生梵輔天。由如是法生梵會天。由如是法生大梵天。由如是法生光天。由如是法生少光天。由如是法生無量光天。由如是法生極光淨天。由如是法生淨天。由如是法生少淨天。由如是法生無量淨天。由如是法生遍淨天。由如是法生廣天。由如是法生少廣天。由如是法生無量廣天。由如是法生廣果天。由如是法生無想天。由如是法生無繁天。由如是法生無熱天。由如是法生善現天。由如是法生善見天。由如是法生色究竟天。由如是法生空無邊處天。由如是法生識無邊處天。由如是法生無所有處天。由如是法生非想非非想處天。由如是法得預流果。由如是法得一來果。由如是法得不還果。由如是法得阿羅漢果。由如是法得獨覺菩提。由如是法得入菩薩摩訶薩位行菩薩道。由如是法得成如來應正等覺。令諸有情解脫生死』
世尊。無性法中無有業用作業因緣故。若墮地獄餓鬼畜生。若生人天乃至生非有想非無想天。以是業因緣故。得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。菩薩摩訶薩行菩薩道。當得一切種智。得一切種智故。能拔出眾生於生死中。 世尊、無性の法中には業用有ること無けれども、作業の因縁の故に、若しは地獄、餓鬼、畜生に堕ち、若しは人、天に生じ、乃至非有想非無想天に生じ、是の業因縁を以っての故に須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏を得れば、菩薩摩訶薩は菩薩道を行ずれば、当に一切種智を得べく、一切種智を得るが故に、能く衆生を生死中より抜き出すなり。
世尊!
『無性法中には、業用が無い!』のに、
『作業の因縁』の故に、
『地獄、餓鬼、畜生に堕ちたり!』、
『人、天乃至非有想非無想天に生じるのであり!』、
是の、
『業因縁』の故に、
『須陀洹乃至阿羅漢、辟支仏』を、
『得ることができる!』ので
『菩薩摩訶薩』が、
『菩薩道を行じれば!』、
『一切種智』を、
『得ることになり!』、
『一切種智を得る!』が故に、
『衆生』を、
『生死中より抜き出すことができるのです!』。
  業用(ごうゆう):梵語 karma-kriyaa の訳、前業より引き起こされる今の功用( an activity caused by formar actions )の義。
佛告須菩提。如是如是。無性法無業無果報。須菩提。凡夫人不入聖法。不知諸法無性相。顛倒愚癡故。起種種業因緣。是諸眾生隨業得身。若地獄身若畜生身若餓鬼身若人身若天身若四天王天身。乃至非有想非無想天身。是無性法無業無果報。無性常是無性。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し。無性法には業無く、果報無ければ、須菩提、凡夫人は聖法に入らず、諸法の無性の相を知らざれば、顛倒、愚癡なるが故に、種種の業因縁を起して、是の諸の衆生は、業に随いて身の若しは地獄の身、若しは畜生の身、若しは餓鬼の身、若しは人の身、若しは天の身、若しは四天王天の身、乃至非有想非無想天の身を得るも、是れ無性の法にして業無く、果報無き無性にして、常に是れ無性なり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ、その通りだ!
『無性法には、業も果報も無い!』のに、
須菩提!
『凡夫人』は、
『聖法に入らず、諸法の無性の相を知らなければ!』、
『顛倒の愚癡である!』が故に、
『種種の業因縁』を、
『起すのであり!』、
是の、
『諸の衆生』は、
『業に随って!』、
『身』を、
『得るのである!』が、
『地獄の身であろうが、畜生乃至非有想非無想天の身であろうが!』、
『無性の法であり!』、
『業も、果報も無い!』。
何故ならば、
『無性の法』は、
『常に、無性だからである!』。
  参考:『大般若経巻395』:『佛告善現。如是如是如汝所說。無性法中不可施設有諸法異。無業無果亦無作用。善現。愚夫異生。不知聖法毘奈耶故。不了諸法皆以無性而為自性。愚癡顛倒發起種種身語意業。隨業差別受種種身。依如是身品類差別。假施設有地獄傍生鬼界及人。假施設有四大王眾天。三十三天夜摩天睹史多天樂變化天他化自在天。假施設有梵眾天梵輔天梵會天大梵天。假施設有光天少光天無量光天極光淨天。假施設有淨天少淨天無量淨天遍淨天。假施設有廣天少廣天無量廣天廣果天及無想天。假施設有無繁天無熱天善現天善見天色究竟天。假施設有空無邊處天識無邊處天無所有處天非想非非想處天。善現。為欲拔濟愚夫異生愚癡顛倒受生死苦。施設聖法及毘奈耶分位差別。依此分位。施設預流一來不還阿羅漢獨覺菩薩摩訶薩及諸如來應正等覺。然一切法皆以無性而為自性。無性法中實無異法。無業無果亦無作用。無性之法常無性故』
如須菩提所言。若一切法無性。云何是須陀洹乃至諸佛得一切種智。須菩提於汝意云何。道是無性不。須陀洹果乃至諸佛一切種智是無性不。須菩提言。世尊。道無性。須陀洹果亦無性。乃至諸佛一切種智亦無性。須菩提。無性法能得無性法不。不也世尊。 『須菩提の所言の、『若し一切法は無性なれば、云何が是の須陀洹乃至諸仏にして、一切種智を得るや』の如きは、須菩提、汝が意に於いて云何、道は是れ無性なりや不や、須陀洹果乃至諸仏の一切種智は是れ無性なりや不や』、と。須菩提の言わく、『世尊、道は無性にして、須陀洹果も亦た無性、乃至諸仏の一切種智も亦た無性なり』、と。『須菩提、無性の法にして、能く無性の法を得や不や』。『不なり、世尊』。
――
『須菩提の言う!』所は、こうであるが、――
若し、
『一切法が、無性ならば!』、
是の、
『須陀洹乃至諸仏』が、
何故、
『一切種智』を、
『得られるのか?』、と。
須菩提!
お前の意には、何うなのか?――
『道は、無性だろうか?』。
『須陀洹果乃至諸仏の一切種智は無性だろうか?』。
『須菩提』は、こう言った、――
世尊!
『道は、無性であり!』、
『須陀洹果、乃至諸仏の一切種智も無性です!』、と。
――
須菩提!
『無性の法』は、
『無性の法』を、
『得ることができるのか?』。
――
『得られません!』、
世尊!
  参考:『大般若経巻395』:『復次善現。如汝所言。無性之法必無作用。云何可說由如是法得預流一來不還阿羅漢果獨覺菩提。得入菩薩摩訶薩位行菩薩道。得成如來應正等覺。令諸有情解脫生死者。善現。於汝意云何。諸所修道是無性不。預流一來不還阿羅漢果是無性不。獨覺菩提是無性不。一切菩薩摩訶薩道是無性不。諸佛無上正等菩提是無性不。善現答言。世尊。諸所修道皆是無性。預流一來不還阿羅漢果亦是無性。獨覺菩提亦是無性。一切菩薩摩訶薩道亦是無性。諸佛無上正等菩提亦是無性。佛言善現。於汝意云何。無性之法能得無性法不。善現答言。不也世尊。不也善逝。佛言善現。無性及道是一切法。皆非相應非不相應。無色無見無對一相。所謂無相。愚夫異生愚癡顛倒。於無相法虛妄分別。起有法想執著五蘊。於無常中起於常想。於諸苦中起於樂想。於無我中起於我想。於不淨中起於淨想。於無性中執著有性。由此因緣。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。成就殊勝方便善巧。拔濟如是諸有情類。令離顛倒虛妄執著。方便安置無相法中。令勤修學解脫生死。證得畢竟常樂涅槃』
佛告須菩提。有性法能得有性法不。不也世尊。須菩提。無性法及道。是一切法皆不合不散無色無形。無對一相所謂無相。須菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。以方便力見眾生。以顛倒故著五眾。無常中常相。苦中樂相。不淨中淨相。無我中我相。著無所有處。是菩薩以方便力故於無所有中拔出眾生。 仏の須菩提に告げたまわく、『有性の法は、能く有性の法を得や不や』、と。『不なり、世尊!』。『須菩提、無性法、及び道の、是の一切法は皆合せず、散ぜず、無色、無形、無対、一相の謂わゆる無相なればなり。須菩提、是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、方便力を以って衆生を見るに、顛倒を以っての故に五衆の無常中の常相、苦中の楽相、不浄中の浄相、無我中の我相に著し、無所有の処に著すれば、是の菩薩は方便力を以っての故に、無所有中に於いて、衆生を抜き出すなり』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『有性の法』は、
『有性の法』を、
『得ることができるのか?』、と。
――
『得られません!』。
世尊!
――
須菩提!
是の、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便力を用いて!』、
『衆生』を、
『見る!』と、
『衆生は、顛倒する!』が故に、
『五衆の無常』中に、
『常相』に、
『著し!』、
『五衆の苦』中に、
『楽相』に、
『著し!』、
『五衆の不浄』中に、
『浄相』に、
『著し!』、
『五衆の無我』中に、
『我相』に、
『著し!』、
『五衆という!』、
『無所有の処』に、
『著している!』ので、
是の、
『菩薩』は、
『方便力を用いて!』、
『無所有の五衆』中より、
『衆生を抜き出すのである!』。
須菩提白佛言。世尊。凡夫人所著。頗有實不異不著故起業。業因緣故五道生死中不得脫。佛告須菩提。凡夫人所著起業處。無如毛髮許實事但顛倒 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、凡夫人の所著にも、頗(むし)ろ実に異ならざる有り、著せざるが故に業を起し、業因縁の故に五道の生死中より脱るるを得ず』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『凡夫人の所著は、起業の処にして、毛髪許りの如き実事も無く、但だ顛倒なり。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『凡夫人の著する!』所にも、
頗ろ( rather )、
『実に異らない!』者が、
『有りながら!』、
是の、
『実に著さない!』が故に、
『業』を、
『起して!』、
『業の因縁』の故に、
『五道の生死』中より、
『脱れられないのです!』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『凡夫人の著する!』所は、
『業を起す!』、
『処であり!』、
『毛髪ほど!』の、
『実事すら!』、
『無く!』、
但だ、
『顛倒』が、
『有るだけである!』。
  参考:『大般若経巻395』:『具壽善現白佛言。世尊。頗有事是真實非虛妄。愚夫異生於中執著造作諸業。由此因緣輪迴諸趣。不能解脫生死苦不。佛告善現。無事下至如毛端量。是真實非虛妄。愚夫異生於中執著造作諸業。由此因緣輪迴諸趣。不能解脫生死眾苦。唯有顛倒虛妄執著。善現。吾今為汝廣說譬喻。重顯斯義令其易了。諸有智者由譬喻故。於所說義而生正解。善現。於汝意云何。夢中見人受五欲樂。夢中頗有少分實事。可令彼人受欲樂不。善現答言。不也世尊。不也善逝。夢所見人尚非實有。況有實事可令彼人受五欲樂。佛告善現。於汝意云何。頗有諸法若世間若出世間。若有漏若無漏。若有為若無為。非如夢中所見事不。善現答言。不也世尊。不也善逝。定無有法若世間若出世間。若有漏若無漏。若有為若無為。非如夢中所見事者。佛告善現。於汝意云何。夢中頗有真實諸趣於中往來生死事不。善現答言。不也世尊。不也善逝。佛告善現。於汝意云何。夢中頗有真實修道依彼修道有離雜染得清淨不。善現答言。不也世尊。不也善逝。何以故。世尊。夢所見法都無實事。非能施設非所施設。修道尚無。況依修道有離雜染及得清淨』
故。須菩提。今為汝說譬喻。智者以譬喻得解。須菩提。於汝意云何。如夢中所見人受五欲樂。有實住處不。 故に、須菩提、今は汝が為めに譬喻を説かん。智者は譬喻を以って解を得ればなり。須菩提、汝が意に於いて云何、夢中の所見の人の受くる五欲の楽の如きに、実の住処有りや不や。
故に( therefore,
須菩提!
今、
『お前の為め!』に、
『譬喻』を、
『説こう!』、
『智者』は、
『譬喻を用いて!』、
『解を得るからである!』。
須菩提!
お前の意には、何うなのか?――
例えば、
『夢中に見た!』所の、
『人が受ける!』、
『五欲の楽』には、
『実の住する!』、
『処』が、
『有るだろうか?』。
須菩提白佛言。世尊。夢尚虛妄不可得。何況住夢中受五欲樂。於汝意云何諸法若有漏若無漏。若有為若無為。頗有不如夢者不。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、夢すら尚お虚妄にして不可得なるに、何に況んや夢中に住して受くる五欲の楽をや』、と。『汝が意に於いて云何、諸法の若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為なるは、頗(むし)ろ夢の如きにあらざる者有りや不や』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
尚お、
『夢すら!』、
『虚妄、不可得である!』のに、
況して、
『夢中に住して受ける五欲の楽』は、
『尚更です!』、と。
――
お前の意には、何うなのか?――
『諸法』が、
『有漏であろうと、無漏であろうと!』、
『有為であろうと、無為であろうと!』、
頗ろ( rather )、
『夢のようでない!』者が、
『有るだろうか?』。
世尊。諸法若有漏若無漏。若有為若無為。無不如夢者。佛告須菩提。於汝意云何。夢中有五道生死往來不。世尊無也。於汝意云何。夢中有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。何以故。是夢法無有實事。不可說垢淨。 『世尊、諸法の若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為にして、夢の如きにあらざる者無し』。仏の須菩提に告げたまわく、『汝が意に於いて云何、夢中に五道の生死の往来有りや不や』、と。『世尊、無きなり』。『汝が意に於いて云何、夢中に修道有りて、是の修道を用いて、若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。何を以っての故に、是の夢法には実事有ること無ければ、垢浄を説くべからざればなり』。
――
世尊!
『諸法』には、
『有漏であろうと、無漏であろうと!』、
『有為であろうと、無為であろうと!』、
『夢のようでない!』、
『法』は、
『有りません!』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
『夢』中には、
『五道の生死を往来すること!』が、
『有るだろうか?』。
――
世尊!
『往来すること!』は、
『有りません!』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『夢の中に、修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり、浄を得たりするだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
是の、
『夢の法には、実事が無く!』、
『垢や、浄を説くことができないからです!』。
於汝意云何。鏡中像有實事。能起業因緣。用是業因緣。墮地獄餓鬼畜生。若人若天四天王天處。乃至非有想非無想天處不。須菩提言。不也世尊。是像無有實事。但誑小兒。是事云何。當有業因緣。用是業因緣當墮地獄。乃至非有想非無想處。 『汝が意に於いて云何、鏡中の像に実事有りて、能く業因縁を起し、是の業因縁を用いて、地獄、餓鬼、畜生、若しは人、若しは天、四天王天処、乃至非有想非無想天処に堕すや不や』。須菩提の言わく、『不なり、世尊。是の像には実事有ること無く、但だ小児を誑すのみなるに、是の事が云何が当に業因縁有りて、是の業因縁を用いて当に地獄、乃至非有想非無想処に堕すべきや』。
――
お前の意には、何うなのか?――
『鏡中の像』に、
『実事が有って、業因縁を起すことができ!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄、餓鬼、畜生や、人、天、四天王天処乃至非有想非無想天処』に、
『堕ちるだろうか?』。
『須菩提』は、こう言った、――
いいえ、世尊!
是の、
『像には、実事が無く!』、
但だ、
『小児』を、
『誑すだけです!』。
是の、
『事』が、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄、乃至非有想非無想処』に、
『堕ちるのでしょうか?』。
於汝意云何。是鏡中像有修道。用是修道若著垢若得淨不。須菩提言。不也世尊。何以故。是像空無實事。不可說垢淨。 『汝が意に於いて云何、鏡中の像に修道有りて、是の修道を用いて、若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。須菩提の言わく、『不なり、世尊。何を以っての故に、是の像は空にして実事無ければ、垢浄を説くべからざればなり』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『鏡中の像に、修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり、浄を得たりするだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
是の、
『像は空であり、実事が無く!』、
『垢や、浄を説くことができないからです!』。
於汝意云何。如深澗中有嚮。是嚮有業因緣。用是業因緣若墮地獄。乃至若生非有想非無想處不。須菩提言。不也世尊。是事空無有實音聲。云何當有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處。 『汝が意に於いて云何、如(も)し深澗に響有り、是の響に業因縁有れば、是の業因縁を用いて、地獄に堕し、乃至若しは非有想非無想天処に生ずや不や』。須菩提の言わく、『不なり、世尊。是の事は空にして実音声有ること無ければ、云何が当に業因縁有りて、是の業因縁を用いて地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずべきや』。
――
お前の意には、何うなのか?――
如し( if )、
『深い澗中に、響が有り( there is a echo in a mountain stream )!』、
是の、
『響に、業因縁が有れば!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるだろうか?』。
『須菩提』は、こう言った、――
いいえ、世尊!
是の、
『事は空であり!』、
『実の音声』が、
『無い!』のに、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるのですか?』。
  (けん):谷川/渓谷( mountain stream )。
  (きょう):響( echo )。
於汝意云何。是嚮頗有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。是事無實。不可說是垢是淨。 『汝が意に於いて云何、是の響は頗ろ修道有りて、是の修道を用いて若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。是の事には実無ければ、是れ垢なり、是れ浄なりと説くべからず』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『響』には、
頗ろ、
『修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり!』、
『浄を得たりするのだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『事には、実が無い!』ので、
『是れが垢である、是れが浄である!』と、
『説くことはできません!』。
於汝意云何。如焰非水。水相非河。河相是炎。頗有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處不。不也世尊。焰中水畢竟不可得。但誑無智人眼。云何當有業因緣。用是業墮地獄。乃至生非有想非無想處。 『汝が意に於いて云何、如し焰は水、水相に非ず、河、河相に非ざるに、是の炎に、頗ろ業因縁有れば、是の業因縁を用いて、地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずや不や』。『不なり、世尊。焰中に水は畢竟じて不可得にして、但だ無智の人の眼を誑すのみなるに、云何が当に業因縁有り、是の業を用いて、地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずべきや』。
――
お前の意には、何うなのか?――
如し、
『焰が水でも水相でもなく、河でも河相でもない!』のに、
是の、
『炎に、頗ろ業因縁が有れば!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
『焰』中に、
『水』は、
『畢竟じて不可得であり!』、
但だ、
『無智の人の眼』を、
『誑すだけなのに!』、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業を用いて、地獄に墮ちたり!』、
乃至、
『非有想非無想処』に、
『生じねばならないのですか?』。
於汝意云何。是焰有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。是焰無有實事。不可說垢淨。 『汝が意に於いて云何、是の焰に修道有りて、是の修道を用いて若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。是の焰には実事有ること無ければ、垢、浄を説くべからず』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『焰』には、
『修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり!』、
『浄を得たりするのだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『焰には、実事が無い!』ので、
『垢、浄』を、
『説くことはできません!』。
於汝意云何。揵闥婆城如日出時見揵闥婆城。無智人無城有城想。無廬觀有廬觀想。無園有園想。是揵闥婆城頗有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處不。不也世尊。是揵闥婆城畢竟不可得。但誑愚夫眼。云何當有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處。 『汝が意に於いて云何、揵闥婆城は如し日の出づる時、揵闥婆城を見れば、無智の人は城無きに、城の想有り、廬観無きに廬観の想有り、園無きに園の想有り。是の揵闥婆城には頗ろ業因縁有り、是の業因縁を用いて、地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずや不や』。『不なり、世尊。是の揵闥婆城は畢竟じて不可得なれば、但だ愚夫の眼を誑すのみ。云何が当に業因縁有りて、是の業因縁を用いて地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずべきや』。
――
お前の意には、何うなのか?――
『揵闥婆城』に、
如し、
『日の出の時、揵闥婆城を見たとして!』、
『無智の人』には、
『城が無い!』のに、
『城の想』が、
『有り!』、
『廬観が無い!』のに、
『廬観の想』が、
『有り!』、
『園が無い!』のに、
『園の想』が、
『有る!』が、
是の、
『揵闥婆城に、頗ろ業因縁が有り!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
『揵闥婆城』は、
『畢竟じて不可得であり!』、
但だ、
『愚夫の眼』を、
『誑すだけなのに!』、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業を用いて、地獄に墮ちたり!』、
乃至、
『非有想非無想処』に、
『生じねばならないのですか?』。
於汝意云何是揵闥婆城有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。是揵闥婆城無有實事。不可說垢淨。 『汝が意に於いて云何、是の揵闥婆城に修道有りて、是の修道を用いて若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。是の揵闥婆城には実事有ること無ければ、垢、浄を説くべからず』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『揵闥婆城』には、
『修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり!』、
『浄を得たりするのだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『揵闥婆城には、実事が無い!』ので、
『垢、浄』を、
『説くことはできません!』。
須菩提。於汝意云何。幻師幻作種種物。若象若馬若牛若羊若男若女。於汝意云何。是幻有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處不。不也世尊。是幻法空無實事。云何當有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處。 『須菩提、汝が意に於いて云何、幻師の幻作せる種種の物の若しは象、若しは馬、若しは午、若しは羊、若しは男、若しは女は、汝が意に於いて云何、是の幻には業因縁有り、是の業因縁を用いて、地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずや不や』。『不なり、世尊。是の幻法は空にして実事無し。云何が当に業因縁有りて、是の業因縁を用いて地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずべきや』。
――
須菩提!
お前の意には、何うなのか?――
『幻師の幻作する!』、
『種種の物である!』、
『象、馬、牛、羊、男、女』は、
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『幻には、業因縁が有り!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
『幻法』は、
『空であって!』、
『実事が無い!』のに、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業を用いて、地獄に墮ちたり!』、
乃至、
『非有想非無想処』に、
『生じねばならないのですか?』。
於汝意云何。是幻有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。是法無有實事。不可說垢淨。 『汝が意に於いて云何、是の幻に修道有りて、是の修道を用いて若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。是の法には実事有ること無ければ、垢、浄を説くべからず』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『幻』には、
『修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり!』、
『浄を得たりするのだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『法には、実事が無い!』ので、
『垢、浄』を、
『説くことはできません!』。
須菩提。於汝意云何。如佛所化人。是化人有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處不。不也世尊。是化人無有實事。云何當有業因緣。用是業因緣墮地獄。乃至生非有想非無想處。 『須菩提、汝が意に於いて云何、仏の所化の人の如き、是の化人には業因縁有り、是の業因縁を用いて、地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずや不や』。『不なり、世尊。是の化人には実事有ること無し。云何が当に業因縁有りて、是の業因縁を用いて地獄に堕し、乃至非有想非無想処に生ずべきや』。
――
須菩提!
お前の意には、何うなのか?――
『仏の所化の人』は、
是の、
『化人には、業因縁が有り!』、
是の、
『業因縁を用いて!』、
『地獄に墮ちたり!』、
『乃至非有想非無想処に生じるだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『化人』には、
『実事』が、
『無い!』のに、
何故、
『業因縁が有り!』、
是の、
『業を用いて、地獄に墮ちたり!』、
乃至、
『非有想非無想処』に、
『生じねばならないのですか?』。
於汝意云何。是化人有修道。用是修道若著垢若得淨不。不也世尊。是事無有實。不可說垢淨。 『汝が意に於いて云何、是の化人に修道有りて、是の修道を用いて若しは垢に著し、若しは浄を得や不や』。『不なり、世尊。是の事には実有ること無ければ、垢、浄を説くべからず』。
――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『化人』には、
『修道が有り!』、
是の、
『修道を用いて!』、
『垢に著したり!』、
『浄を得たりするのだろうか?』。
――
いいえ、世尊!
是の、
『事には、実が無い!』ので、
『垢、浄』を、
『説くことはできません!』。
佛告須菩提。於意云何。於是空相中有垢者有淨者不。不也世尊。是中無所有。無有著垢者。無有淨者。須菩提。如無有著垢者。無有淨者。以是因緣故。亦無垢淨。何以故。住我我所眾生有垢有淨。實見者不垢不淨。如實見者不垢不淨。如是亦無有垢淨 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が意に於いて云何、是の空相中に於いて、垢なる者有り、浄なる者有りや不や』、と。『不なり、世尊。是の中は無所有にして、垢に著する者有ること無く、浄なる者有ること無し』。『須菩提、如し垢に著する者有ること無く、浄なる者有ること無ければ、是の因縁を以っての故に、亦た垢、浄無し。何を以っての故に、我我所に住する衆生には垢有り、浄有るも、実見すれば垢にあらず、浄にあらず。実見する者は垢にあらず、浄にあらざるが如きは、是の如きにも亦た垢、浄有ること無し』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『空相』中には、
『垢に著する者や、浄を得た者が!』、
『有るのだろうか?』、と。
――
いいえ、世尊!
是の中は、
『無所有であり!』、
『垢に著する者も、浄を得る者も!』、
『有りません!』。
――
須菩提!
如し、
『垢に著する者も、浄を得る者も無ければ!』、
是の、
『因縁』の故に、
『垢も、浄も!』、
『無いはずである!』。
何故ならば、
『我、我所に住する衆生』には、
『垢も、浄も!』、
『有る!』が、
『実を見る!』者は、
『垢に著することもなく!』、
『浄を得ることもない!』ので、
如し、
『実を見る!』者が、
『垢に著することもなく!』、
『浄を得ることもなければ!』、
是のようにして、
『垢や、浄も!』、
『無いのである!』。
  参考:『大般若経巻396』:『佛告善現。於汝意云何。此中頗有實雜染者清淨者不。善現答言。不也世尊。不也善逝。此中都無實雜染者及清淨者。佛言善現。如雜染者及清淨者實無所有。由此因緣。雜染清淨亦非實有。何以故。善現。住我我所諸有情類。虛妄分別謂有雜染及清淨者。非見實者謂有雜染及清淨者。如見實者知無雜染及清淨者。如是亦無雜染清淨』



【論】諸法の性の無所有中に、衆生は業に随って身を得る

【論】問曰。佛已處處答是事。今須菩提。何以復問。 問うて曰く、仏は已に処処に是の事に答えたもうに、今、須菩提は何を以ってか、復た問える。
問い、
『仏』は、
已に、
是の、
『事』を、
『処処に答えられた!』のに、
『須菩提』は、
今、
何故、
『復た( again )!』、
『問うたのですか?』。
答曰。義雖一所因事異。所謂一切法若有佛若無佛。諸法性常住空無所有。非賢聖所作。般若波羅蜜甚深微妙難解難量。不可以有量能知。諸佛賢聖憐愍眾生故。以種種語言名字譬喻為說。 答えて曰く、義は、一なりと雖も、所因の事は異なり。謂わゆる一切法は若しは仏有るも、若しは仏無きも、諸法の性は常住、空、無所有にして、賢聖の所作に非ず。般若波羅蜜は甚深微妙にして難解難量なれば、有量を以って能く知るべからず。諸仏、賢聖は衆生を憐愍するが故に、種種の語言、名字、譬喻を以って為めに説きたまえり。
答え、
『義は、一である!』が、
『所因の事( something being the primary cause )』が、
『異なるからである!』。
謂わゆる、
『一切法は、仏が有ろうと無かろうと!』、
『諸法の性』は、
『常住、空、無所有であり!』、
『賢聖の所作ではない!』が、
『般若波羅蜜は甚深、微妙であり!』、
『解き難く、量り難い!』ので、
『有量の事を用いて!』、
『知ることができない!』ので、
『諸仏、賢聖』は、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『種種の語言、名字、譬喻を用いて!』、
『衆生の為めに、説かれたのである!』。
  所因(しょいん)、因事(いんじ):梵語 hetu の訳、又因と訳す、動機/原因/~の理由( motive, cause, cause of, reason for )、第一原因( a primary cause )の義、因と作るべき事柄( something being the primary cause )の意。
利根者解聖人意。鈍根者處處生著。著於語言名字。若聞說空則著空。聞說空亦空亦復生著。若聞一切法寂滅相語言道斷而亦復著。自心不清淨故。聞聖人法為不清淨。如人目翳視清淨珠見其目影便謂珠不淨。佛種種因緣說。見有過罪而生於疑。作是言。若一切法空。空亦空。云何分別有六道常生。如是等疑難故。須菩提以經將訖。為眾生處處問是事。是故重問。佛可須菩提意。 利根の者は聖人の意を解するも、鈍根の者は処処に著を生ずれば、語言、名字に著し、若しは空を説くを聞けば、則ち空に著し、空も亦た空なりと説くを聞けば、亦復た著を生じ、若し一切法は寂滅の相にして語言の道断ずると聞けば、亦復た著し、自心清浄ならざるが故に、聖人の法を聞いて清浄にあらずと為す。人の目翳(かげ)れば清浄の珠を視るも、其の目の影を見て、便ち珠は不浄なりと謂うが如し。仏の種種の因縁もて説きたもうに、過罪有りと見て、疑を生じ、是の言を作さく、『若し一切法は空にして、空も亦た空なれば、云何が六道有りと分別するや』、と。常に是れ等の如き疑難を生ずるが故に、須菩提は経の将に訖(おわ)らんとするを以って、衆生の為めに処処に是の事を問えば、是の故に重ねて問えり。仏は須菩提の意を可としたまえり。
『利根の者』は、
『聖人の意』を、
『解する!』が、
『鈍根の者は、処処に著を生じて!』、
『語言、名字に著する!』ので、
若し、
『空が説かれるのを、聞けば!』、
則ち、
『空』に、
『著すことになり!』、
『空も空であると説かれるのを、聞けば!』、
亦復た、
『著』を、
『生じ!』、
若し、
『一切法は、寂滅の相であり!』、
『語言の道は断じている!』と、
『聞けば!』、
是の、
『事』に、
『復た、著することになり!』、
自ら、
『心が、清浄でない!』が故に、
『聖人の法を聞いても!』、
『清浄でないとする!』。
譬えば、
『人の目が翳っていれば( one suffers from a cataract )!』、
『清浄の珠を視ながら!』、
其の、
『目の影( the image of his eyes )』を、
『見て!』、
便ち、
『珠は不浄である!』と、
『謂うようなものであり!』、
『仏』が、
『種種の因縁を説かれる!』と、
是の、
『説には過罪が有る、と見て!』、
『疑を生じ!』、こう言う、――
若し、
『一切法が空であり!』、
『空も!』、
『空だとすれば!』、
何故、
『六道が有る!』と、
『分別するのか?』、と。
常に、
是れ等のような、
『疑難を生じる!』が故に、
『須菩提は、経が訖りそうなので!』、
『衆生の為め!』に、
是の、
『事』を、
『処処に問うことにし!』、
是の故に、
『重ねて!』、
『問うたのであり!』、
『仏』は、
『須菩提の意』を、
『可とされた( to agree )のである!』。
  (えい):目のかげり/白内障( a cataract )。
問曰。須菩提以有難空。佛云何可其意。 問うて曰く、須菩提は有を以って空を難ずるに、仏は云何が、其の意を可としたまえるや。
問い、
『須菩提』が、
『有を用いて( with exsistence )!』、
『空』を、
『難じる!』と、
『仏』は、
何故、
『須菩提の意』を、
『可とされたのですか?』。
答曰。佛可其說。諸法空常住有佛無佛不異不可其難。云何分別有六道等。何以故。以其難欲破空故是中佛解其所難。所謂凡夫人不入聖法。未得聖道。不知無所有性。不善修習空三昧故。 答えて曰く、仏は其の、『諸法の空の常住なること、仏有るも仏無きも異ならず』、と説くを可としたもうも、其の、『云何が分別して、六道等有る』、と難ずるを可としたまわず。何を以っての故に、其の難は空を破らんと欲するを以っての故に、是の中に仏は其の難ずる所を説きたまえり、謂わゆる『凡夫人は聖法に入らざれば、未だ正道を得ずして、無所有の性を知らず、空三昧を善く修習せざるが故なり』、と。
答え、
『仏』は、
『須菩提の説いた!』、
『諸法の空は常住であり、仏が有ろうと無かろうと異らない!』は、
『可とされた!』が、
『須菩提の難じた!』、
『何故、六道等が有ると分別されたのか?』は、
『可とされなかった!』。
何故ならば、
『須菩提は難じて!』、
『空』を、
『破ろうとしたからである!』が、
是の中に、
『仏』は、
『須菩提が難じた!』所を、こう解かれた、――
『凡夫人』は、
『聖法に入らない
does not understand deeply the true dharma )!』ので、
未だ、
『聖道を得ることもなく!』、
『無所有の性を知ることもなく!』、
『空三昧を善く修習することもないからである!』、と。
顛倒者四顛倒。愚癡者三界繫無明。雖不說餘煩惱。而此二法虛誑不實顛倒即是妄語虛誑。若從顛倒所生業及果報。以根本不實故。眾生雖深著亦無定實。以是故五道皆空但有假名。 顛倒とは四顛倒なり。愚癡とは三界繋の無明にして、餘の煩悩を説かずと雖も、此の二法は虚誑、不実なれば、顛倒は即ち是れ妄語、虚誑なり。若し顛倒より生ずる所の業、及び果報の若(ごと)きは根本の不実なるを以っての故に、衆生は深く著すと雖も、亦た定実無し。是を以っての故に五道は皆空にして、但だ仮名有るのみ。
『顛倒』とは、
『常、楽、我、浄』の、
『四顛倒であり!』、
『愚癡』とは、
『三界繋』の、
『無明であり!』、
『餘の煩悩は説かれていないが!』、
此の、
『顛倒、愚癡の二法』は、
『虚誑であり!』、
『不実である!』ので、
即ち、
『顛倒』は、
『妄語であり!』、
『虚誑である!』。
『顛倒より生じた!』所の、
『業や、果報など!』は、
『根本が不実である!』が故に、
『衆生が、深く著しても!』、
『定実は、無い!』ので、
是の故に、
『五道は、皆空であり!』、
但だ、
『仮名』が、
『有るだけである!』。
又汝難諸賢聖。是諸賢聖以斷顛倒差別故有異名。以顛倒不實故無所斷。又復滅失無所有故名為斷。若實有法可斷。尚無斷法。何況顛倒。 又、汝は諸賢聖を難ずるも、是の諸賢聖は、顛倒を断ずるを差別するを以っての故に、異名有るも、顛倒は不実なるを以っての故に、断ずる所無く、又復た滅失して無所有なるが故に、名づけて断と為せば、若し法の可断実に有るも、尚お断法無し。何に況んや顛倒をや。
又、
お前は、
『諸賢聖を難じている!』が、
是の、
『諸賢聖』には、
『顛倒を断じることを差別する
to discriminate of ceasing the inverted views )!』が故に
『異名』が、
『有る!』が、
『顛倒は不実である!』が故に、
『断じる!』所が、
『無く!』、
又復た、
『滅失して、無所有なる!』が故に、
『断』と、
『称する!』が、
若し、
『可断の法が、実有だとしても!』、
尚お、
『断法( ceasing )』は、
『無いのであり!』、
況して、
『顛倒の不実の法』は、
『言うまでもない!』。
是故一切賢聖果。皆是無所有。斷顛倒即是聖人果。果即是斷為果。所修道亦同無所有。是故修道時必當用空無相無作。 是の故に一切の賢聖の果は、皆是れ無所有なるも、顛倒を断ずるは、即ち是れ聖人の果なり。果は即ち是れ断なり。果の為めの所修の道も亦た同じく無所有なれば、是の故に道を修する時には、必ず当に空、無相、無作を用うべし。
是の故に、
『一切の賢聖という!』、
『果』は、
『皆、無所有であり!』。
『顛倒を断じること!』が、
『即ち、聖人の果であれば!』、
『果』とは、
『即ち、断なのであり!』、
『果の為めに修める!』所の、
『道』も、
『同じく、無所有であり!』、
是の故に、
『道を修める!』時には、
『空、無相、無作』を、
『必ず、用いねばならないのである!』。
道果分別故賢聖有差別。今實無所有法不能得無所有。云何有差別。是故不應難。 道果を分別するが故に賢聖に差別有り。今実に無所有の法なれば、無所有の法を得る能わず。云何が差別有らんや。是の故に応に難ずべからず。
『道果を分別する!』が故に、
『賢聖』に、
『差別』が、
『有る!』が、
『道果』は、
『今、実に無所有である!』が故に、
『無所有の法』を、
『得ることはできない!』。
何うして、
『賢聖』に、
『差別が有るのか?』。
是の故に、
『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏の差別』を、
『難じてはならない!』。
須菩提意。若但顛倒故有世間。若有顛倒亦應有實。虛實相待故。是故問世尊。凡夫所著頗有實生。著起業業因緣故。六道生死不得解脫。佛答言不。何以故此中佛自說因緣。但顛倒故生著。若無顛倒云何有相待實法。乃至無毫釐許實事。畢竟無故。 須菩提の意にすらく、『若し但だ顛倒の故に世間有らば、若し顛倒有れば、亦た応に実有るべし、虚実相対するが故なり』、と。是の故に問わく、『世尊、凡夫の著する所には、頗(むし)ろ実有りて、著を生ずれば、業を起し、業の因縁の故に六道に生死し、解脱を得ざるなりや』、と。仏の答えて言わく、『不なり、何を以っての故に』、と。此の中に仏の自ら因縁を説きたまわく、『但だ顛倒の故に著を生じ、若し顛倒無ければ、云何が相待の実法有らんや。乃至毫釐許りも実事無し、畢竟じて無なるが故なり』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
但だ、
『顛倒』の故に、
『世間』が、
『有るだけならば!』、
若し、
『顛倒が有れば!』、
『実』も、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『虚(顛倒)、実』は、
『相待するからである( being mutually depending )!』、と。
是の故に、こう問うた、――
世尊!
『凡夫の著する!』所は、
頗ろ( rather )、
『実が有り!』、
『業』を、
『起すので!』、
『業の因縁』の故に、
『六道の生死』を、
『解脱することができないのですか?』、と。
『仏は答えて!』、こう言われた、――
そうではない!
何故ならば、と。
此の中に、
『仏』は、自ら因縁を説かれた、――
但だ、
『顛倒』の故に、
『著』を、
『生じるのである!』。
若し、
『顛倒が無ければ!』、
何故、
『相待の実法』が、
『有るのか?』。
乃至、
『毫釐ほどの実法も無い!』のは、
『実法』は、
『畢竟じて無いからである!』、と。
  毫釐(ごうり):微少/微塵( the least bit, an iota )。
  有実(うじつ):梵語 dravya-yukta の訳、実が満ちた( filled with substance )の義、実質が有る( there is substance )の意。
問曰。諸佛所行實義。所謂畢竟空。此非實耶。 問うて曰く、諸仏の所行の実義なる、謂わゆる畢竟空は、此れ実に非ざるや。
問い、
『諸仏の所行である!』、
『実義、謂わゆる畢竟空』は、
『実ではないのですか?』。
答曰。是第一義空亦因分別。凡夫顛倒故說。若無顛倒亦無第一義。若凡夫顛倒少多有實。第一義亦應有實。 答えて曰く、是の第一義の空も、亦た分別に因り、凡夫の顛倒の故に説きたまえり。若し顛倒無ければ、亦た第一義も無し。若し凡夫の顛倒に少多の実有れば、第一義も亦た応に実有るべし。
答え、
是の、
『第一義の空』も、
『分別に因る!』、
『空であり!』、
『凡夫の顛倒』の故に、
『第一義』を、
『説かれたのである!』ので、
若し、
『顛倒が無ければ!』、
『第一義』も、
『無いのである!』。
若し、
『凡夫の顛倒』に、
『少多の実でも!』、
『有れば!』、
亦た、
『第一義』にも、
『実が有るはずである!』。
問曰。若二俱不實。云何得解脫。如人手垢還以垢洗。云何得淨。 問うて曰く、若し二は倶に不実なれば、云何が解脱を得るや。如(も)し人の手の垢を、還って垢を以って洗わば、云何が浄を得んや。
問い、
若し、
『二が、倶に不実ならば!』、
何故、
『解脱』を、
『得られるのですか?』。
譬えば、
『人の手の垢』を、
『垢を用いて!』、
『洗えば!』、
何故、
『浄』を、
『得られるのですか?』。
答曰。諸法實相畢竟空第一義實清淨。以有凡夫顛倒不清淨法故有此清淨法。不可破壞不變異故。以人於諸法實相起著欲生煩惱。是故說是法性空無所有。無所有故無實。雖二法皆不實。而不實中有差別。 答えて曰く、諸法の実相なる畢竟空は、第一義にして実の清浄なるに、凡夫の顛倒なる清浄ならざる法有るを以っての故に、此の清浄の法有り、破壊すべからず、変異せざるが故なり。人は、諸法の実相に於いて、著を起して、煩悩を生ぜんと欲するを以って、是の故に説きたまわく、『是の法性は空、無所有なれば、無所有なるが故に実無し。二法は皆不実なりと雖も、不実中には差別有り』、と。
答え、
『諸法の実相である!』、
『畢竟空』は、
『第一義であり!』、
『実の清浄である!』が、
『凡夫の顛倒という!』、
『不清浄の法』が、
『有る!』が故に、
此の、
『清浄の法』が、
『有る!』のは、
是れが、
『破壊されず!』、
『変異しないからである!』。
『人』は、
『諸法の実相に、著を起して!』、
『煩悩』を、
『生じようとする!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
是の、
『法性』は、
『空であり!』、
『無所有である!』が、
『法性は無所有である!』が故に、
『実』が、
『無い!』。
『顛倒、第一義の二法は、皆不実である!』が、
『不実』中にも、
『差別が有る!』、と。
如十善十不善二事。皆有為法故虛誑不實。而善不善有差別。殺生法故墮惡道。不殺故生天上。如布施偷盜二事。雖取相著心是虛誑不實而亦有差別。如眾生乃至知者見者無所有。而惱眾生有大罪。慈念眾生有大福。如慈能破瞋施能破慳。雖二事俱是不實而能相破。是故佛說諸法無有根本定實如毫釐許所有。欲證明是事故。說夢中受五欲譬喻。 十善、十不善の二事の如きは、皆有為法なるが故に虚誑、不実なるも、善と不善とには差別有り、殺生の法の故に悪道に堕し、不殺の故に天上に生ず。布施、偷盗の二事は取相の著心には、是れ虚誑、不実なるも、而も亦た差別あり。衆生の如きは乃至知者見者すら無所有なるも、衆生を惱せば大罪有り、衆生を慈念すれば大福有り。慈は能く瞋を破し、施は能く慳を破するが如き、二事は倶に是れ不実なりと雖も、而も能く相破すれば、是の故に仏の説きたまわく、『諸法には根本の定実も、毫釐許りの所有も有ること無し』、と。是の事を証明せんと欲したもうが故に、夢中に五欲を受くる譬喻を説きたまえり。
例えば、
『十善、十不善の二事』は、
『皆、有為法である!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
『善、不善には差別が有り!』、
『殺生の法』の故に、
『悪道』に、
『堕ちるのであり!』、
『不殺である!』が故に、
『天上』に、
『生じるのである!』。
例えば、
『布施、偷盗の二事』は、
『取相の著心である!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
而し、
『差別』は、
『有るのである!』。
例えば、
『衆生は乃至知者、見者すら無所有である!』が、
『衆生を惱せば!』、
『大罪』が、
『有り!』、
『衆生を慈念すれば!』、
『大福』が、
『有る!』。
例えば、
『慈は、瞋を破ることができ!』、
『施は、慳を破ることができる!』が、
『慈、瞋の二事も、施、慳の二事も!』、
『倶に、不実でありながら!』、
『相い、破ることができるのである!』。
是の故に、
『仏』は、こう説いて、――
『諸法』には、
『根本の定実も、毫釐ばかりの所有も無い!』と、
『説いて!』、
是の、
『事を証明しようとされた!』が故に、
『夢中に受ける五欲の譬喻』を、
『説かれたのである!』。
須菩提意。若一切法畢竟空無所有性。今何以故現有眼見耳聞法。以是故佛說夢譬喻。如人夢力故雖無實事而有種種聞見瞋處喜處。覺人在傍則無所見。如是凡夫人無明顛倒力故妄有所見。聖人覺悟則無所見。一切法若有漏若無漏。若有為若無為。皆不實虛妄故有見聞。 須菩提の意にすらく、『若し一切法は畢竟空、無所有の性なれば、今は何を以っての故にか、現に眼見、耳聞の法有る』、と。是を以っての故に、仏は夢の譬喻を説きたまえり。人の夢の力の故に、実事無しと雖も、種種に瞋処、喜処を聞見するに、覚むる人傍に在るも、則ち所見無きが如し。是の如く、凡夫人は無明、顛倒の力の故に妄に所見有るも、聖人は覚悟すれば則ち所見無し。一切法の若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為は皆不実、虚妄なるが故に見聞有り。
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
『一切法が畢竟空であり、無所有の性ならば!』、
今、何故、
『眼見、耳聞の法』が、
『現に有るのか?』、と。
是の故に、
『仏』は、
『夢の譬喻』を、
『説かれたのである!』。
譬えば、
『人は、夢の力』の故に、
『実事が無い!』のに、
『瞋処、喜処を種種に聞見すること!』が、
『有る!』が、
『覚めた人』が、
『傍に在っても!』、
『所見』が、
『無いようなものである!』。
是のように、
『凡夫人』は、
『無明、顛倒の力』の故に、
『所見』が、
『妄に有る( to have falsely )!』が、
『聖人』は、
『覚悟している!』が故に、
『所見』が、
『無い!』。
『一切法は有漏も、無漏も、有為も、無為も!』、
『皆不実であり、虚妄である!』が故に、
『見聞』が、
『有るのである!』。
又如夢中見六道生死往來。見須陀洹乃至阿羅漢。夢中無是法而夢見。夢中實無淨無垢。業果報六道亦如是。顛倒因緣故起業。業果報亦應空。除卻顛倒故名為道。顛倒無實故道亦不應實。鏡中像嚮焰乃至如化亦如是。 又、夢中に六道の生死を往来するを見、須陀洹乃至阿羅漢を見、夢中に是の法無きに夢に見るも、夢中には実に浄無く、垢無きが如し。業、果報の六道も亦た是の如く、顛倒の因縁の故に業を起すも、業、果報も亦た応に空なるべし。顛倒を除却するが故に名づけて、道と為すも、顛倒に実無きが故に道も亦た応に実なるべからず。鏡中の像、響、焰、乃至化の如きも亦た是の如し。
又、
譬えば、
『夢中に見る!』所の、
『六道の生死の往来や!』、
『須陀洹乃至阿羅漢も!』、
『夢』中には、
是のような、
『法が無い!』のに、
『夢に見るのであり!』、
『夢』中には、
実に、
『浄も、垢も!』、
『無いように!』。
『業や、果報の六道も!』、
是のように、
『顛倒の因縁』の故に、
『業』を、
『起しながら!』、
亦た、
『業、果報』も、
『空のはずである!』。
『顛倒を除却すること!』を、
『道』と、
『称する!』が、
『顛倒は無実である!』が故に、
『道』も、
『実であるはずがない!』。
亦た、
『鏡中の像、響、焰、乃至化など!』も、
『是の通りである!』。
佛反問須菩提。於是法中有垢者有淨者不。須菩提意。一切法中無我。云何當說有垢有淨者。是故言無。佛言。若無受垢受淨者。垢淨亦無。 仏の須菩提に反問したまわく、『是の法中に於いて、垢なる者有り、浄なる者有りや不や』、と。須菩提の意にすらく、『一切法中に我無きに、云何が当に垢有り、浄の者有り、と説きたもうべきや』、と。是の故に、『無し』、と言えり。仏の言わく、『若し垢を受け、浄を受くる者無ければ、垢、浄も亦た無きなり』、と。
『仏は反って!』、
『須菩提』に、こう問われた、――
是の、
『法』中には、
『垢の者や、浄の者』が、
『有るだろうか?』、と。
『須菩提の意』は、こうであった、――
『一切法中に、我は無い!』のに、
何うして( how it can )、
『垢の者や、浄の者が有る!』と、
『説かれるはずがあろうか?』、と。
是の故に、
『無い!』と、
『言う!』と、
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『垢を受ける者や、浄を受ける者が無ければ!』、
『垢も、浄も!』、
『無いということである!』、と。
問曰。若分別諸法。阿毘曇等經中有垢有淨。但受垢淨者無。三毒等諸煩惱是垢。三解脫門諸助道法等是淨。 問うて曰く、若し諸法を分別すれば、阿毘曇等の経中には垢有り、浄有るも、但だ垢、浄を受くる者は無し。三毒等の諸煩悩は是れ垢にして、三解脱門の諸の助道法等は是れ浄なり。
問い、
若し、
『諸法を分別すれば!』、
『阿毘曇等の経』中には、
『垢、浄という!』、
『法』は、
『有るのであり!』、
但だ、
『垢の者、浄の者という!』、
『衆生』が、
『無いだけである!』。
則ち、
『三毒』等の、
『諸煩悩』は、
『垢であり!』、
『三解脱門や!』、
『諸の助道法』は、
『浄である!』。
答曰。雖有是說。是事不然。若無眾生法無所屬亦無作者。若無作者亦無作法。無縛無解如人為火所燒。畏而捨離非火離火。眾生亦如是。畏五眾苦故捨離。非苦離苦。若無垢淨者無有解脫。 答えて曰く、是の説有りと雖も、是の事は然らず。若し衆生無ければ、法の所属無く、亦た作者も無し。若し作者無ければ、亦た作法も無く、縛無く、解無し。人、火に焼かるれば、畏れて捨離するも、火は火を離るるに非ざるが如く、衆生も亦た是の如く、五衆の苦を畏るるが故に捨離するも、苦は苦を離るるに非ず。若し垢、浄無ければ、解脱有ること無し。
答え、
是の、
『説は有りながら!』、
是の、
『事』は、
『然らず( being not correct )!』。
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』の、
『属する!』所が、
『無く!』、
亦た、
『作者』も、
『無いはずである!』。
若し、
『作者(衆生)が無ければ!』、
亦た、
『作法( activity )』も、
『無いはずであり!』、
亦た、
『縛も、解も!』、
『無いはずである!』。
譬えば、
『人』が、
『火』に、
『焼かれる!』のを、
『畏れて!』、
『捨離したとしても!』、
『火』が、
『火を離れるのではないように!』、
『衆生』も、
是のように、
『五衆の苦(苦受)』を、
『畏れて!』、
『捨離しても!』、
『苦』が、
『苦』を、
『離れるわけではない!』。
若し、
『垢の者も、浄の者も無ければ!』、
『解脱』も、
『無いのである!』。
復次佛此中自說因緣。所謂我我所法中住。眾生受垢受淨。我畢竟無故。垢淨無住處。住處無故。無垢無淨。 復た次ぎに、仏は此の中に自ら因縁を説きたもう。謂わゆる『我我所の法中に住する衆生は垢を受け、浄を受くるも、我は畢竟じて無きが故に垢、浄の住処無く、住処無きが故に垢無く、浄無し』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
此の中に、自ら因縁を説かれている、――
謂わゆる、
『我、我所の法中に住する!』が故に、
『衆生』は、
『垢や、浄』を、
『受けるのである!』が、
『我は、畢竟じて無い!』が故に、
『垢、浄』には、
『住処』が、
『無く!』、
『住処が無い!』が故に、
『垢も、浄も!』、
『無いのである!』、と。
問曰。我雖無我見實有凡夫人住此中起諸煩惱。 問うて曰く、我は無しと雖も、我見は実に有りて、凡夫人は此の中に住して、諸煩悩を起すなり。
問い、
『我が無くても!』、
『我見』が、
『実に有る!』ので、
『凡夫人』は、
此の、
『我見中に住して!』、
『諸の煩悩を起すのである!』。
答曰。若無我我見無所緣。無所緣云何得生。 答えて曰く、若し我無ければ、我見の所縁無し。所縁無ければ、云何が生ずるを得るや。
答え、
若し、
『我が無ければ!』、
『我見』には、
『所縁が無いはずである!』、
『所縁が無い!』のに、
何故、
『我見』を、
『生じることができるのか?』。
  所縁(しょえん):梵語 aalambana の訳、根拠/理由( foundation, base, reason, cause )の義、根拠となる事物( something depended on )の意。
  無所縁(むしょえん):梵語 anaalambana の訳、無支援( unsupported )、無根拠( baseless )の義。
問曰。雖無我於五眾中邪行。謂有我生我見。五眾是我我所。 問うて曰く、無我なりと雖も、五衆中に於いて邪行せん。謂わゆる『我有れば我見を生ず』、『五衆は是れ我我所なり』、と。
問い、
『我は無くても!』、
『五衆』中に、
『邪行するのではないか?』。
謂わゆる、――
『我が有るので、我見を生じる!』とか、
『五衆が、我我所である!』、と。
  邪行(じゃぎょう):梵語 mithyaa-pratipanna の訳、顛倒して理解された( understood invertedly )、誤って理解する( misunderstand )の意。
答曰。若以五眾中定生我見因緣。於他五眾中何以故不生。若於他五眾生者則為大錯亂。是故我見無有定緣。但顛倒故生。 答えて曰く、若し五衆中に定んで我見を生ずる因縁を以ってすれば、他の五衆中に於いて、何を以っての故にか生ぜざる。若し他の五衆に於いて生ずれば、則ち大錯乱と為す。是の故に我見には、定縁有ること無く、但だ顛倒の故に生ず。
答え、
若し、
『五衆』中に、
『定んで、我見を生じるという!』、
『因縁を用いるならば!』、
何故、
『他の五衆』中には、
『生じないのか?』。
若し、
『他の五衆』に、
『我見を生じれば!』、
『大錯乱である!』ので、
是の故に、
『我見』には、
『定まった縁』が、
『無く!』、
但だ、
『顛倒』の故に、
『生じるだけである!』。
問曰。若顛倒生。何以故但自於己身生見。 問うて曰く、若し顛倒より生ずれば、何を以っての故にか、但だ自ら己身に於いて、見を生ずる。
問い、
若し、
『顛倒より!』、
『我見』が、
『生じれば!』、
何故、
『但だ、自己の身に於いてのみ!』、
『我見』を、
『生じるのですか?』。
答曰。是顛倒狂錯。不應求其實事。又復於無始生死中來。自於相續五眾中生著。是故佛說。住我心眾生受垢受淨。又實見者無垢無淨。若我定有實見者應有垢淨。如實見者不垢不淨。以是因緣故無垢無淨。 答えて曰く、是の顛倒の狂錯に、応に其の実事を求むべからず。又復た無始の生死中より来、自ら相続せる五衆中に於いて、著を生ずれば、是の故に、仏の説きたまわく、『我心に住する衆生は、垢を受け、定を受くるも、又実見すれば垢無く、浄無し。若し我定んで有りて、実見すれば、応に垢、浄有るべし。如実に見れば、不垢不浄なり。是の因縁を以っての故に無垢、無浄なり』、と。
答え、
是の、
『顛倒の狂錯( the inverted mistake )』には、
其の、
『実事』を、
『求めるべきでない!』し、
又復た、
『無始の生死中より!』、
自ら、
『五衆を相続する!』中に、
『五衆の著』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『我心に住する!』、
『衆生』は、
『垢や、浄』を、
『受ける!』が、
又、
『実見すれば!』、
『垢も、浄も!』、
『無い!』。
若し、
『我が、定んで有りながら!』、
『実見すれば!』、
『垢も、浄も!』、
『有るはずである!』が、
『如実に見れば!』、
『垢でもなく!』、
『浄でもなく!』、
是の、
『因縁』の故に、
『垢も、浄も!』、
『無いのである!』、と。
無垢無淨者見諸法實相。又於諸法實相亦不著。是故無垢。諸法實相無相可取。是故無淨。 無垢、無浄の者にして、諸法を実相を見れば、又諸法の実相に於いても亦た著せず。是の故に垢無く、諸法の実相には、相の取るべき無ければ、是の故に浄無し。
『無垢、無浄の者』が、
『諸法の実相を見れば!』、
又、
『諸法の実相』に、
『著することもない!』ので、
是の故に、
『垢』が、
『無く!』、
『諸法の実相』には、
『取るべき相が無い!』ので、
是の故に、
『浄』も、
『無い!』。
復次八聖道中不著。是名無淨。除諸煩惱不著顛倒。是名無垢 復た次ぎに、八聖道中に著せざれば、是れを無浄と名づけ、諸煩悩を除いて、顛倒に著せざれば、是れを無垢と名づく。
復た次ぎに、
『八聖道中にも、著することがなければ!』、
是れを、
『無浄』と、
『称し!』、
『諸の煩悩を除いて!』、
『顛倒に著さなくなれば!』、
是れを、
『無垢』と、
『称する!』。


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